「大丈夫か」
彼は振り返ると、レミリアを気遣った。
しかしレミリアは己が知る彼との違いに、思わず名前を確認する。
「あなた……、ヴァルバ、トーゼ……なの?」
レミリアが知るヴァルバトーゼとは、少年と青年の間ぐらいの風貌だった。
だが今の彼は、どこからどうみても完成された大人にしか見えない。身長も伸び、顔つきからは幼さが消えていた。
よくよく鑑みれば声も少し低い。
だがそういう上辺だけではない。
眼前の吸血鬼はもっと決定的に、絶対的に何かが変わっていた。
「うむ、紛れもなく俺だ。……そんな疑問にかまける余裕があるのなら問題はなさそうだな。動けるようになったら下がるがいい。極力攻撃は通さぬようにするが、保障はできぬのでな」
そう言い終えると、ヴァルバトーゼはフランドールへと歩き出す。
その背中には、言いたいこと、問いたいことがいくらでもあった。
それでもレミリアの口から言葉がでなかったのは、ある一つの感情がそれを阻んだからである。
未だかつて経験したことないそれを、レミリアは言語化することができなかった。
もし、ここに『あの』ヴァルバトーゼを知るものがいたらこう答えただろう。
――それは畏怖である、と。
僅かに残る痛みに顔を歪ませながら、フランドールは立ち上がった。
彼女の心中は過去に類をみないほど、複雑に渦巻いている。
それでも大雑把に纏めるならば、それは一言で表せた。
すなわち――憎悪である。
「よくも……邪魔を……!」
憎々しげに、フランドールは眼前に立つ男を睨んだ。
さっき完全に壊しておけば、という思いが首をもたげる。
だが彼女がそれに固執しなかったのは、およそ戦力という意味合いでは彼は脅威足り得ないと判断したからだ。
だからこそ、この現状はありえない。
なぜ自分は殴り飛ばされたのか――そこまで思考が動いたところで、彼女は考えを断ち切った。
意味がない。
なぜなら――今度こそ、しっかり壊せばそれで済む話だからだ。
「もう一度、串刺しにしてやる――!」
紅き剣を右手に生み出し、彼女は宣言した。
それをヴァルバトーゼは鼻で笑う。
「フン、やれるものならやってみるがいい」
「なめるなァァァ!」
身を駆る激情にしたがって、フランドールは飛び出した。
掛け値なしの全速。先の闘いではついぞ見せなかった本気に、一瞬で距離を詰められたヴァルバトーゼはそのまま貫かれる。
――そう、フランドールは思っていた。
「キサマこそ、余り舐めるな」
突き出したその剣は、ヴァルバトーゼの眼前で止まっている。
どれだけ力を込めても、それ以上先へ進むことはない。
理由を求めて視線を手前に引くと、刃の根元を彼の左手が掴んでいた。
そのありえない現象に、フランドールは目を見開いた。
掴めるはずがないのだ。妖力のみで構成された紅の魔剣は、明確な実体を持っていない。
仮に何らかの方法で掴むことができたとして、その手は蝕まれているはずである。もしそれが可能であるならば――
もっとも、フランドールがそんな複雑な思考を展開しているはずもなく。
彼女はなんでなんでなんでと心中で呟き続けて、気づけば宙を舞っていた。
「――――え……、あっ?」
ぐるぐると回転する視界に、フランドールは疑問の声を漏らす。
顎に残る痺れと痛みと、目まぐるしく動く視界が捉えた一つの影がその答えを教えてくれた。
蹴り上げられたのであると。
足を下ろしてこちらを見つめるヴァルバトーゼの手中には、彼女の魔剣が残っている。
得物を欲して奪い取ったのだろうか。だとするならば彼は愚か者と謗られても仕方がない。
妖力で形成されたエネルギー体は、その主の任意で姿を変える。
つまりフランドールの一存で消すこともできるということだ。
だからもしヴァルバトーゼがその剣で攻撃を仕掛けてきたのなら、その瞬間に消してやろうとフランドールはほくそ笑む。
だが彼はつまらなそうにその魔剣を一瞥すると――それは萎んで姿を消した。まるで霞か何かのように。
「――は?」
理解できない。フランドールは消滅の意を放ってはいないのに。
そこで彼女は一つの疑問に気づく。
そもそも、ヴァルバトーゼに突き刺していたはずの魔剣はどうして――
「呆けすぎだ、バカめ」
「え?」
背後からの侮蔑。
気づけば眼下にいるはずのヴァルバトーゼの姿がない。
重い衝撃が、背中を貫く。
叫び声を上げることすらできずに、彼女は地面へと叩き落された。
「こん、の……!」
身を焦がす怒りに背中を押され、すぐにフランドールは起き上がる。
煮え立つ思考をそのままに、彼女は飛び上がった。
彼女は妖力を潤沢に駆動させて、ヴァルバトーゼへの殺意を形に変えていく。
弾丸へ、光線へ、波動へ。
先程とは違い、一撃で簡単に壊すことはできないのかもしれない。
だがいかにヴァルバトーゼが強く変容したとしても、この無数の攻撃を受けて無事で済むはずがないとフランドールは確信していた。
対して彼はその紅の暴威を前に、なぜか肩をすくめるだけで動かない。
諦めたのか、呆気なく彼はそのまま紅の光に飲み込まれた。
必死に抗う様を見たかったフランドールとしては少々不満の残る幕切れだったが、それでも歓喜が勝る。
だから彼女は大きく口端を裂けさせて――
「……ふう。いい加減少しは状況が理解できたか?」
現れたヴァルバトーゼは、微塵も痛痒を感じていないように見えた。
だが以前のように回避したわけではない。明らかにその身に受けている。
なぜなら彼の黒衣が穴だらけになっていたから。加えて僅かではあるが、血の痕が残っている。
つまり今の彼には妖力を介した攻撃が通じない、あるいは極めて通じにくいとフランドールは判断した。
そう考えれば、魔剣がダメだったのも納得がいく。その原理については想像もつかないが。
じゃあどうする、と彼女は思考を回し始め――あることに気づいた。その口元が嘲弄に歪む。
「く、ふふふ。あなたこそ、状況が理解できているの? あなたの攻撃も……全然、全然効かないよ? やっぱ、剣がないとダメなんじゃないかな? それでどうやって、私に勝つつもりなの? アハハハハ!」
これまでフランドールは幾度かのヴァルバトーゼの攻撃を受けている。
それは確かにフランドールに痛痒を与えてはいたものの、それだけである。致命傷はおろか、行動を制限するレベルですらない。
ましてや満月の影響下にある今ならば、それこそ数秒で治癒する程度なのである。
だから彼女は高笑いを続け――
「バカか、キサマは。いつ俺が全力で攻撃したなどと言ったのだ」
「はは――は?」
フランドールの眼前へと、黒の雷光が駆けた。
刹那で彼女との距離を詰めたヴァルバトーゼは、しかし何かをするような素振りを見せない。
だからフランドールは迎撃に左腕を動かそうとして――そこが熱く疼いていることを知覚した。
自然とそこを目線が辿り――事実を認識したフランドールを、激痛が襲った。
「あ……いっ、ああああああああっ!?」
腕がない。
正確には、肘から先が続いていない。そしてその続きは、ヴァルバトーゼの右手の中にあった。
何が起こったかは、フランドールも理解している。彼が無造作に毟り取ったのだと。
だが能力による破壊ではなく鋭利な刃物による切断でもないその過程で、気づけないなどということがありえるのか。
「どうした、随分と喚くではないか。自分の腕が取れたのは初めてか? 痛いのか、辛いのか、苦しいのか? ……それを、キサマは愛する姉に行ったのだぞ! 挙句愉悦に浸るなどと――冗談ではないッ!」
ヴァルバトーゼの激昂とともに、フランドールは殴り飛ばされた。
再び、彼女は石床を転がることとなる。
力なく横たわった彼女へと、ヴァルバトーゼは千切れた腕を投げつけた。
吸血鬼の本能が血の触手を伸ばして、徐々に腕を繋いでいく。
「それが繋がるまでの間に、キサマの勘違いを一つ正してやろう」
「う、うう……」
「今の俺に、剣など必要ない。そもそも俺は生粋の剣士ではないのだからな。魔力があるならば、魔界の名剣とて我が肉体には劣る」
「ぐ……あ……」
「フン、苦痛で耳を傾ける余裕もないのか? キサマの姉は、もっと悲惨な有様でも立ち上がろうとしていたのだぞ! 立て! 立たぬというのなら――」
そう言って、ヴァルバトーゼは一歩一歩近づいてくる。
確実に距離を詰めてくる彼に、フランドールは名状しがたい情動が高まっていくのを感じた。
その情動に彼女は抗うことができず、爆発させる。
「っ、あ、うああああああああああああ!」
背面上方へと高速で飛翔したフランドールは、およそ完璧と言っていい行動を選択した。
それを――徐々に増えるフランドールを見たヴァルバトーゼは、感心したように吐息を零す。
「ほう……?」
悪魔の変則憑依召喚。質量を伴った数の暴力。遠間からの直接物理攻撃。
接近戦では勝ち目がなく、遠隔攻撃も通じないヴァルバトーゼ相手には、まさしく有効な手立てと断言してもいいだろう。
さらにこれまでヴァルバトーゼは、全て直接攻撃か、その延長しか用いていない。
ならば一体の分身体が迎撃されようとも、その背中を二体目が、それがダメなら三体目が――その戦術は、確かに最善のモノであった。
だが、彼女は忘れていた。否、理解していなかった。
今まで彼女が読み聞かされた物語において、数に恃んだ存在は総じて一蹴されていたことを。
圧倒的な個に対しては、数の多寡など意味がないことを。
「煉獄に囚われし魔神よ」
それは分身体の数が十を超え、百を超えた辺りのこと。
眼下のヴァルバトーゼは、大きく外套をはためかせると何事か呟き始めた。
するとその外套の内側から、数多のコウモリが姿を見せる。
そのコウモリたちはヴァルバトーゼの直上へと集い、一つの個を形成していく。
それは、漆黒の翼で身を包んだ何かであった。
「我が命に従い、悪辣なる異形を表せ」
それを見たフランドールを、致命的な予感が支配する。
二百を超えた分身体の形成をそこで中止して――その全てをヴァルバトーゼへと殺到させた。
英断だったと言える。だがもはや手遅れであり、無意味であった。
「いけええええええええッ!」
「フルークフーデ」
それが、翼を開いて姿を見せた。
孤を描く二本の角。黒々とした肉体。巨大な鉤爪。硬い曲線を描く尾。血に染まったかのように紅い翼。
まさしく、それは悪魔の具現であった。
その悪魔が、凶悪な咆哮を撒き散らし――
「……うそ」
「これが、完全なる支配だ」
それだけで、全ての分身体が崩れて消えた。