鬼。
好戦的な種族である彼らは、平和で退屈な幻想郷に嫌気をさしてどこかへ消えたといわれている。
少なくとも霊夢は十数年の人生においてその存在を見たことはない。
ついこの前までならば今更現れるわけがないと、一笑に付しただろう。
だが『異世界』を語る妖怪がいる今、鬼程度を疑う理由はない。何よりそこに秘められたチカラが如実に真実であると告げていた。
とはいっても、疑問は残る。
「で、何でいまさら鬼が
「いやなに、今年の春は短かったじゃないか。酒宴好きの私にとっちゃあ、看過できる自体じゃなくてね。いい機会だからいつも宴会を行うようにしてくれようかと」
それはおおよそ自白と言っていいものだった。
手段は不明だが、毎度の宴会を誘発させていたのは自身であると萃香は述べたのである。
しかし結局、質問である幻想郷にいる理由の答えにはなっていない。とはいえ霊夢はそれ自体はどうでもよかった。特に興味があったわけでもない。
重要なのは、この異変を引き起こした存在かどうかであるということだけだ。
「つまりアンタがよくわからない妖霧を撒き散らして、宴会を誘発させた元凶ってことでいいのね?」
「まあ、おおむね間違っちゃいないよ。色々訂正したいことはあるけどね」
「別にアンタが犯人ならどうでもいいわ。嘘じゃないんでしょう?」
「はっ、鬼が嘘を言うものかよ」
嘘というフレーズに何か思うところがあるのか、萃香は犬歯を剥き出しにして答える。
「あっそ」
しかし霊夢にしてみればどうでもいいことであった。そっけなく答えると、腰に手を伸ばす。
抜き出したるは御幣。軽く左右に振ると、紙垂が白い軌跡を描く。
思えばこれを使うのは久しぶりだった。スペルカードルールに慣れた影響で、自然と札ばかり使うようになっていたのかもしれない。
「おや、我を鬼と知って立ち向かうつもりかい?」
この無謀者めと、萃香は笑う。
だから霊夢も笑ってやった。この愚か者めと。
「あら、私を博麗の巫女と知って闘うつもりでいるの?」
不敵に笑う霊夢の顔に恐れはない。
不調から回復するどころか絶好調にまで針が振り切れた彼女は、今負ける気が微塵もしなかった。
そんな霊夢の強気な発言に、萃香は破顔して哄笑を上げる。
「あっはっはっは! 面白いこと言うじゃない! 気に入った、そっちの好きな条件で闘ってやろうじゃないか。スペルルール? それともスペルカードルールがいいかねぇ?」
それは自信の表れか、あるいは花を持たせてあげようとでも思っているのか。
その余裕が少しばかり癪に障った霊夢は、一つお返しをしてあげることにした。
「別にルールなんて要らないわ。私が勝つに決まっているもの。それに、鬼は真っ向勝負が好きなんでしょ? ――正面から潰してあげるから、かかってきなさい」
流石にその発言は看過できなかったのか、萃香の表情が不快げに歪む。
「……少し、大言壮語が過ぎるね。まさかあんな妖怪に勝った程度で図にのってるのかい?」
「ん? ああ、見ていたのね」
ちらりとヴァルバトーゼの方をみて、霊夢は納得したように声を上げる。
そして呆れたようにため息を吐くと、萃香を文字通り見下した。
「なのに、わからないの?」
萃香の目付きが変わる。怒気を露にし、鋭く細められたそれが霊夢を射抜いた。
空間に溢れた殺意が、周囲の温度を下げていく。
「……いい啖呵だ。ならその増上慢、叩き直してやろう!」
「ふ、ん――アンタこそ、身の丈ってやつを知ることね!」
日は没し僅かに欠けた月の下、決戦の幕が切って落とされた。
蚊帳の外へと追いやられた形となったヴァルバトーゼは、大人しくその場から離れることにした。
十分な距離をとって腰を下ろすと、連戦の疲労からか彼は小さく吐息を漏らす。
そして不意に虚空へと問いを投げた。
「……で、あれでよかったのか?」
「ええ、お疲れ様」
夜空に溶けると思われたその声に応じたのは、ねぎらうような女性の声。
それから僅かに遅れて空間を裂けると、そこからするりと紫が現れる。
隠すまでもなく、今回の仕掛け人は彼女であった。
「よもや『本気で闘え』とはな。驚いたぞ」
「まあ致命の一撃はどちらにせよ防ぐつもりでいましたから」
ヴァルバトーゼがそれに応じたのは霊夢と相対したときである。
いきなり犯人宣言をされて、どう応じようかと言葉を選んでいた彼の耳を、紫の声が叩いたのである。
ばれないように黙って聞きなさい、と前置きをした彼女の言葉を要約すると『なんだかんだ霊夢とスペルルールと闘うことになるから本気で応じなさい』というものであった。
この本気というのはすなわち脆弱な人間である霊夢の致命を厭うなという意味である。
もし本当に霊夢を殺しかねないことになっても自分がどうにかするから気兼ねなくやりなさいと、そう締めくくった紫の言葉を信じて彼は普通に闘った。
結果は先の通りであり、紫が手を出す事態にはならなかったのだが。
「そういえば……一応、礼を言っておくべきだったか」
「あれは私が勝手にやったことだし、気にしなくていいわよ」
最後の瞬間、霊夢の夢想封印は紫によって半分近く相殺された。
ヴァルバトーゼのダメージが少ないのはそこに起因する。
もちろん彼もある程度いなして迎撃したため、実のところクリーンヒットしたのは初撃だけだったのだが。
「ふむ。ではそういうことにしておこう。――しかし、大したものだな」
視線を二人の闘いに向け、ヴァルバトーゼはそう零す。
二者共に闘った彼は、二人の力量をかなり正確に分析していた。
その見立てではほぼ全てのステータスにおいて萃香が上だと結論しており、今現在においてもそれは変わっていない。
だが闘いの展開は全く逆の様相を見せていた。
当たらないのだ。萃香の攻撃が。
その全てを霊夢は紙一重でかわし続けている。
「あれが霊夢の強さよ」
「見切り、か」
「スペルカードルールはまさしくあの子のためにあるようなものね」
一見霊夢はどうにかギリギリで回避しているように見えるが、それは違う。
相手の攻撃の軌道、範囲、威力を完全に見極めてダメージが発生するすれすれのところで身体を止めている。そして余裕ができた時間やエネルギーを全て反撃に費やしているのだ。
言葉にすれば簡単に思えるが、尋常なことではない。というよりも正気の沙汰ではないというべきか。
萃香の攻撃力と霊夢の防御力の差は筆舌に尽くしがたいほどであり、仮に一撃でもかわし損ねれば周りごともっていかれる。
だが霊夢の表情には焦りも恐怖も疲れも見えない。彼女は今、ある種の極致に達していると言えるだろう。
もちろん彼女の体力は無尽蔵ではない。いずれ必ず崩れるときは訪れる。
だがそれ以上に、おそらく萃香が崩れる方が早い。既に勝負の結末は見えたといっていいだろう。
ヴァルバトーゼは視線を切って、紫を見る。
彼らの間には、一つ消化していない問題があった。
「さて少し話を戻そうか、紫よ。改めて尋ねよう。俺がここへ来ることとなった原因に、心当たりはあるか?」
彼女が何かを知っている、という確信が既にヴァルバトーゼにはある。
だが知らないと答えるのであればそれ以上追求するつもりはなかった。
それでも、答えは聞いておきたい。
「……知っているわ。でもそれは貴方が帰還するための手がかり足りえない――と言ったら信じてくれるかしら?」
「そうか。では深くは聞くまい」
紫は事実を話した。少なくとも、ヴァルバトーゼはそう信じた。
そんな彼の態度に紫の方が納得できなかったのか、挑発するように彼女は言葉を重ねる。
「そう簡単に、諦めていいのかしら。どうしても貴方は帰らなくてはならないのでしょう?」
「だからこそだ」
「……どういう意味かしら」
「キサマは頭が良い。幻想郷の成り立ちに関わってることといい、スペルカードとやらを作ったことといい、その頭脳はおおよそ俺の計り知れぬ領域にあるだろう。そのキサマが否と断言するのであれば、あえて聞く必要もあるまい」
知力という一点においては、間違いなく己を凌駕しているとヴァルバトーゼは確信していた。
その彼女が無為と言うのならば、彼はそれを信じるまで。
「当然、興味はあるとも。だが無理につついてキサマとの協力関係が壊れるほうが大いに困る」
そもそも紫は仮にヴァルバトーゼが詰問したところで答える義務はない。もしかすれば義理はあるのかもしれないが――それこそ聞かねばわからない。
また可否はともかくとして、最終手段に力ずくというモノがある。しかしそこまでする利点をヴァルバトーゼは見出せなかった。
それにいつ帰れるのか目処も立っていない現状で、安定したイワシの供給元を断たれるのは彼としては非常に困る話なのである。
「だが原因がわかっているのなら、再発だけは防止してもらいたいものだな」
もし帰れたとしても、幻想郷再びなどということになっては流石に洒落にならない。
これだけは確認しておかねばならなかった。
「それは、大丈夫よ。二度目はないわ」
「そうか。ならばいい」
話は終わりだと、ヴァルバトーゼは巫女と鬼の闘いに視線を向ける。
そこからしばらく沈黙が続いていたが、闘いも佳境に差し掛かった頃に空からの闖入者がそれを破った。
「――おっと、もう始まってたか」
聞き覚えのある声と、頂点がとんがった見覚えのある黒いシルエット。
ヴァルバトーゼは数日前に会った一人の少女を思い出し、その名を呼んだ。
「魔理沙か」
どうやら魔理沙はこちらに気づいてなかったらしい。声に振り向くと驚いたように目を丸くさせた。
「おや、アンタもいたのか。それに……紫か、なんとも面白い組み合わせだな。アンタら知り合いだったのか」
水と油が混じっているのを見たような目で魔理沙は言う。
確かに、ヴァルバトーゼと八雲紫の組み合わせは両者を知っていれば奇妙に思えるかもしれない。
「ま、そんな感じね」
「ふうん、まあいいか。しかし怪獣大決戦、って感じだなこりゃ」
「そうだな」
鬼が撒き散らす拳撃の余波と巫女が炸裂させる霊波は、もはやどうしようもないほどに森の一角を更地に変えていた。
ヴァルバトーゼとしては先の一件もあるので突っ込みたくはあったが――しかし霊夢は私はいいのよ、と言い返しそうな気もする。
そしてそれからすぐに、萃香が動きを見せた。
着実にダメージを重ねられていた萃香は、反撃も意に介さず攻撃を試みたのだ。
しかし霊夢はその萃香の右拳をくぐるようにかわして、超至近で霊撃を浴びせる。
そして吹き飛んだ萃香に対し、空中で彼女を囲むように展開させた無数の光弾を全て殺到させたという、なんともはや――
「えげつねえ……」
「うむ」
魔理沙の呟きに、ヴァルバトーゼは同意する。
だが、地面に落ちて降参を示した萃香にはまだ余裕があるように見えた。先の攻撃は全て直撃したはずなのだが、なんとも凄まじい耐久力である。
それから萃香と二、三言葉を交わした霊夢はこちらへと顔を向けて――その表情を変えた。最初は驚きに、ついで悪鬼の笑みを。こう、にたりと。
その凶悪な、神職らしからぬ意思を宿した視線は紫へと固定されている。
「あ、私そろそろ帰るわ」
焦燥の色をその声に滲ませて、紫は立ち上がった。その横顔には冷や汗も見える。
だがまあ仕方ないことに思えた。はたから見ているヴァルバトーゼですら直感が警鐘を鳴らしたのだ。直に晒されている紫は溜まったものではないだろう。
とはいえ当然、霊夢がそれを許すはずがない。
「逃がすか!」
紫がスキマへとその身を沈めるよりも早く、霊夢の結界が紫を縛る。
身動きを封じられた紫に、ゆっくりと霊夢は歩み寄った。
「随分と暇そうじゃない、紫。いい機会だから私と闘いなさい」
「あー、でもほら霊夢。貴方連戦で疲れが溜まっているでしょう? 後日にしましょう」
「あら、遠慮しなくていいわよ。というか『連戦』したことを知ってるってことは最初から見ていたのね」
「うぐ」
墓穴を掘るなどと、紫らしからぬミスといえる。
あるいはそうさせるほどに、目の前の般若の迫力が凄まじいとも言えるが。
「霊夢。とりあえず、落ち着き――」
「紫」
身振り手振りを交えてどうにか霊夢を抑えようとする紫だったが、霊夢の薄ら寒いほどの優しい声がそれを遮った。
にこりと、彼女は可憐な笑みを浮かべる。ともすれば万人が見惚れかねないほどの綺麗な笑顔だった。
――その奥に伺える、邪悪な気配がなければの話だが。
「拒否権を与えたつもりは、ないわ」
「……うう、わかったわよ」
諦めたようにうなだれる紫を見て、霊夢は結界をとく。
二人はルールを交わし合うと、高空へと消えた。どうやらスペルルールでやるようだ。
結局どういう経緯なのかわからなかったが、魔理沙が軽く因縁を説明してくれた。要するに霊夢のリベンジマッチということらしい。
「さて、私は神社で宴会に参加するとしよう。どうやら、一発芸もやらずに済みそうだしな」
「あ、私も行くよ」
それに萃香が続くのは至極当然と言えた。
というか彼女が宴会を仕組んだのであるわけで。
そのまま去るかと思えば、ちらりと彼女はヴァルバトーゼに振り返った。
「あんたも来るかい?」
「いや、俺は行かぬ」
理由は言うに及ばず、魔理沙の誘いを断ったのと同じもの。
むしろ具体的な展望があったあの日より、その全てを砕かれた今はことさらその気はない。
その内心を悟ったからなのか、萃香はそれ以上誘いの手を伸ばすことはなかった。
「……そうかい。けどいずれ、酒を飲み交わそうじゃないか」
「ああ、約束しよう」
こうして、幻想郷初夏の異変は終わりを告げた。
なおこれは全くの余談であるが、後日の『文々。新聞』の一面にてボロ雑巾のような姿になった八雲紫と、それを引きずる彼女の式紙の写真が掲載されたとか。