「…………」
眼前に立つ自称異世界の妖怪を見つめながら霊夢は一つの違和感と闘っていた。
帰ったはずのヴァルバトーゼとやらが今ここにいること自体はさほど不思議ではない。魔理沙や紅魔館の連中から前回の宴会で色々と聞いたからだ。
そしてこのよくわからない異変を起こした妖怪がこいつである、という判断は間違っていないと霊夢は思っている。
全く原因が掴めない異変も、知りもしない『異世界』とやらの妖怪ならば頷ける話であり、何より件の妖気がここには濃密に漂っていた。
だというのに今まで幾多の異変を解明に導いてきた己の勘が、こいつではないと訴えているのはどういうことか。ここが異変の中枢で間違いないのに。
諸悪の根源はここにいて、でも目の前にいる妖怪ではなく、しかし他に誰もいない。馬鹿げた話だが、勘を信頼するのであればそういう結論になる。
だからこそ、霊夢は問うた。常日頃異変の最中においては会話と弾幕の順序が逆である彼女だが、ことこの異様さにおいてはいささか慎重にならざるをえなかったのだ。
それに対してヴァルバトーゼは沈黙を続けている。ちょこちょこ表情を変えているのが奇妙であるが。
「もう一度だけ聞くわ。この異変は、アンタの仕業ね?」
「俺ではない」
再びの問いに、今度こそヴァルバトーゼは口を開いた。
答えは否。霊夢の勘と合致する内容である。
「……なら質問を変えるわ。アンタはこの異変の黒幕を知っているの?」
「おそらくではあるが、今の今まで闘っていた相手がそうなのだろう」
その言葉で霊夢は周囲の惨状に目を向けた。ここ一体だけ地形が変わっている。
そもそもここへ足を運んだ理由がそれだった。近くまで来ていたのは全くの勘だが。
「なら、そいつはどこに消えたのよ」
「キサマには借りがあるゆえ、答えてやりたくはあるのだがな……生憎と知らぬ。突然消えたのでな」
嘘はない、と霊夢は捉える。
この荒れようはまさしく闘いの傷跡に相応しいものである上に、そうであるならば偽りを述べる理由が思い当たらない。
「ふうん、そう。じゃあとりあえず、アンタをとっちめることにするわ」
「……どういう話だ」
話の脈絡が見えなかったのか、その声には困惑が含まれていた。
しかし霊夢は当たり前のように告げる。
「どうもこうもないわよ。幻想郷で好き勝手暴れて、自然を荒らしたんだから当然でしょ」
「おお、成る程」
事実ではある。幻想郷は狭いのだ、力のある妖怪が好き勝手暴れてはすぐに更地になりかねない。
ゆえに闘り合うのであれば周囲に被害のでないスペルカードルールか、高空で争うことが推奨されている。霊夢の理論は間違っていない。
だが彼女自身、それはあくまで理由の一つであることを理解していた。
根拠はないが、こいつを倒せば黒幕が出てくる。そう勘が告げているのだ。
「だが、素直にやられてやるわけにはいかぬな」
「別に期待してないわよ。スペルルールで――と、思ったけれどアンタが知っているはずがないか」
マイナーな決闘法だ、まだ幻想郷へ来てから半月も経っていないだろうヴァルバトーゼが知る道理はない。
というよりも特殊決闘法の存在を知っているかどうかも怪しい。
ルール無用の殺し合いすらも懸念した霊夢であったが、それは杞憂に終わることとなる。
「いや、知っている。残機はいくつだ」
驚くべきことに、ヴァルバトーゼは知っていた。
喜ぶべきことなのだが、高まる疑念を抑えることができない。
何かがおかしい。
「……三」
「よかろう」
考えるまでもなく、紫あたりが話したことは理解している。
それでもなお、作為的な影がちらついて離れない。
「さて、いつでもかかってくるがいい」
だが遅い。思案に耽るには状況が許してくれない。
霊夢は混濁した思考を振り捨てて、袂から札を取り出した。
対手は剣を構えて動かない。近接戦闘を得手としているのだろう。
「『夢想妙珠』」
ならば近づく道理はない。様子見もかねて放った霊弾は極彩色の軌跡を描きながら八方よりヴァルバトーゼに襲い掛かる。
彼の判断は迅速だった。逃げ場がないと見るや霊夢に向かって直進、行く手を阻む弾幕だけを切り裂いて彼女へ迫る。
しかしその手の芸当はヴァルバトーゼが初めてではない。ごく最近、長き冬にそれは見た。
ゆえに弾幕を突破して抜けてくる彼を見ても、霊夢は冷静さを保っている。後はスペルの起こりを見逃さなければ対処は容易い。
だが、いくつか彼女は勘違いをしていた。
「『イワシ』ッ!」
珍妙な『宣言』とともに放たれたのは『ただの』斬撃。
博麗の巫女である彼女が、致死を孕むそれを向けられたのは本当に久しぶりのことで。
「――――」
硬直する思考に反して身体が結界を展開したのは、経験と本能によるものだろう。多分に、偶然であったことは否めないが。
しかしその衝撃が霊夢の意思を呼び戻した。
「っ、この!」
結界を破裂させて、衝撃でヴァルバトーゼを吹き飛ばす。
若干体勢を崩した彼に対して、霊夢が選択した行動は退避であった。全力で身体を上に持ち上げる。
上空へと飛んだ霊夢を見て、ヴァルバトーゼは動かない。追う手段を持っていないのか、別の理由か。
どちらにせよ霊夢には時間が欲しかった。既に思考はぐちゃぐちゃに乱れている。戦闘行動を続行するためには一度考えを整理しなければならない。
水を浴びせられたように冷えた頭は、一つの記憶を引き出した。スペルルールについてだ。
まずはルールの詳細。『残機制』と『宣言のみ有効』と『全身防御無効』の三つ。シンプルで悪くないルールといえる。しかしもはやこれを知る存在がどれほどいるか。
これらのルールの意図は大まかに実力に大きな開きがある存在同士でも闘り合えるように、と作られたものだ。事実このルールはその点においては問題がなかった。
しかし拮抗したモノ同士がこのルールで争うと、一つの問題が発生した。咄嗟の一撃が致命になりかねないのだ。
実力に格差があればそうはならない。弱者は全力であっても相手を滅ぼすことはありえず、ゆえに強者は余裕をもって対応できる。
だが実力が同程度の場合は違う。互角の攻防を演じる最中につい、ふと放った加減の効いていない一撃が相手を殺しかねない。
紫との闘いはそれがなかった。チカラの差うんぬんよりも、互いを良く知っていたから。
ならば今回の相手はどうか。両刃の剣を持った『異世界』の妖怪。
そう、幻想郷の住人でないのなら――
「そちらがその気がないのなら、こちらから往くぞ」
戦闘の結果、己を死に至らしめたとしてそれを忌避する理由はないのではないか。
跳躍して迫るヴァルバトーゼの剣には殺意は見えない。だが――躊躇もまた、見えない。
「っ」
僅かに香る殺し合いの気配に、霊夢は小さく息を呑んだ。
とはいえ相手の行動は所詮跳躍に過ぎない。少しばかり身体を逸らせばその背中に追い討ちをいれるだけで一つ墜とせる。
「『マイワシ』」
「甘い――、……ッ!?」
その確信は、すぐに砕かれた。
確かにヴァルバトーゼは空を飛べなかった。だからといって、空中戦ができぬと誰が言ったのか。
彼は空中で足を踏み抜いた。そして反転、跳躍。返しの刃が鋭く煌く。
それは初撃をかわして油断していた霊夢にとって、致命的な一閃だった。
「『ウルメイワシ』ッ!」
結界の展開は間に合わない。
しかしどうにか深手は避けた。かろうじて身体を逸らした霊夢に、相手が軌道の調整をできなかったことが幸運だったと言える。
「く――!」
「後二つだな」
それでも脇腹から鮮血が舞い、鋭い痛みが霊夢を苛む。
明確な危機。それに応じるように彼女の知覚が加速した。
世界から明度が消えていき、ゆるやかに流れていく景色からは時間との乖離を感じさせる。
そして極限まで加速した知覚が、世界の全てを止めたその瞬間。己に迫る明確な死を認めたそのときに。
霊夢の中で、何かが切り替わった。
刹那の間に世界へと色が戻る。気づけば、彼女の右手に霊符が握られていた。霊力を流す。
「『封魔陣』」
「な――、グ……ッ!」
自己中心範囲の霊力波動。
至近で放たれたそれは、空中移動が不自由なヴァルバトーゼが即座に回避できるものではなく、防御すら許さない。
「アンタもね」
ぐらりと落下するヴァルバトーゼに霊夢は冷たく言葉を被せる。
霊夢は先程までの己を自覚する。忘れていたことを。腑抜けていたことを。
およそ二年、スペルカードというぬるま湯に慣れてしまった彼女は戦闘における勘を著しく鈍らせていた。
無意識化で彼女はそれを自覚していた。だからこそ紫との敗北『程度』で己を鍛えるという珍事に至ったのだ。
しかしその一方で現状を忌避してはいなかった。博麗の巫女である己は――スペルカードルールが広まった今は、己が死に瀕する闘いはもはやないだろうと。
何を、勘違いしていたのか。
「『カタクチイワシ』ッ!」
霊夢は喉元へ迫る刺突を紙一重で交わしつつ、ヴァルバトーゼの顔に手をかざして霊力を開放した。
「『陰陽宝玉』」
もし幻想郷が完全に閉じられた世界であるというのなら、それでもよかったのだろう。
しかしそんなことはありえない。あらゆる存在がふとしたことで現れかねないのがこの幻想郷なのだ。
その全てが、己に牙を向かぬ根拠はない。異変を起こした相手が、どうしてスペルカードルールを受諾してくれると妄信したのか。
かの吸血鬼が受け入れたからか、冥界の亡霊が受け入れたからか。たかがその程度でこれからも大丈夫だとなぜ妄信できるのか。
そう、博麗霊夢は博麗の巫女だ。真に幻想郷の住人ならば、今後も彼女を本気で害そうとする者は現れないだろう。
ゆえに彼女は『その時』に立たねばならない。幻想郷に仇なす相手が現れたのならば、その相手を滅することこそ彼女の役割。
すなわち、今の己に欠けていたものとは。八雲紫に敗北を喫した理由とは。
『そうね。もう一度、貴方の敗因を教えてあげましょう。それはね――危機感よ』
幻聴か、紫の言葉が形となって霊夢の耳を叩いた。あの夜、聞き取ることができなかった続きを。
博麗霊夢はおおよそ楽観的な人間である。今までにおいて『なんとかなるでしょ』で全てをどうにかしてきた程度には。
しかしそれでも過去の彼女は忘れていなかった。死を。恐れを。それらを踏みにじってきたがゆえに彼女は彼女足りえた。だからこそ、彼女は過去の敗戦において死していない。
ようやく、彼女はそれを思い出した。そして刻む、次がないように。
「『夢想封印』」
大きく仰け反ったヴァルバトーゼを霊撃で吹き飛ばし、霊夢は霊力を高めていく。
それを察知したのか、ヴァルバトーゼは姿勢を持ち直して空中を蹴り抜いた。黒い疾風となって霊夢へ迫る。
発動前に潰す心算なのだろう。刹那でも早く届くようにと右手を伸ばし、勢いのままに刺し貫く構えだ。
「『ソコノコギリ――」
だが遅い。
「瞬」
虹の閃光が一条、ヴァルバトーゼの身体を穿ち抜く。
目前まで迫っていた彼の身体は、それだけで呆気なく吹き飛ばされた。
そして彼を囲むように空中に点在して現れた虹の光球が七つ、彼を蹂躙した。
眩い閃光を経て、一つの影が地表へと落下して激突する。
霊夢はそれを見届けて小さく吐息を漏らした。
そして数秒後、彼女ははっとしたように口元を押さえる。
「――しまった。あちゃー……生きてるわよね」
こちらとしても下手したら殺されていたかもしれないが、とはいえ相手に殺意は感じなかった。
憎い相手ではないし、聞きたいこともある。死なれているよりは生きている方が都合がいい。
ともあれヴァルバトーゼが落ちたと思われるあたりに霊夢は降りることにした。
「うーん」
激突の衝撃で折れた木々が積み重なり、彼の所在は確認できない。
抜け出す余力がないのか、あるいは死んでいるのか。
ひとまず吹き飛ばしてみよう、と霊夢が考えたところで大きな物音が響く。
「……ふう」
折れた大木を文字通り切り開いて現れたヴァルバトーゼは存外余裕そうに見えた。
頑丈なのかある程度相殺をしたのかまでは、霊夢にはわからなかったが。
ともあれ彼はその場から抜け出すと剣を消した。その目には戦意はない。
「俺の負けだな」
「物分かりがよくて助かるわ。とりあえず、色々話を聞かせてもらおうかしら」
霊夢の詰問に、ヴァルバトーゼは困ったように眉を顰めた。
「と、言われてもな。何を答えればよいのだ」
「とりあえず黒幕っぽいやつの情報。洗いざらい吐きなさい」
よくよく考えれば最初に聞いておくべきだったのだが、霊夢はそのことを考えるのはやめた。
何にせよ今の一戦はいい経験になったのだ。後は――
「――その必要はないよ」
「なっ……」
すぐ近くからのその声に、霊夢は言葉を失って振り向いた。
鋭敏化された今の霊夢の知覚ですら接近に気づけなかったことを彼女自身信じたくはなかったが、はたしてそいつはそこにいた。
数メートル先に立っているのは幼い少女。とはいえそんな妖怪はこの幻想郷にはいくらでもいる。
しかしその姿を見て、霊夢は驚愕の上塗りを喰らうこととなった。
彼女の目が射抜いているのは、その少女の頭から伸びる二本の――角。
「……鬼、ですって?」
その反応に気をよくしたのか、その存在はにかりと笑って言葉を返した。
「おうとも。小さな百鬼夜行――伊吹萃香たぁ、私のことさ」