身体に残る痛みを無視して、ヴァルバトーゼは立ち上がった。彼の背を支えていた木はそれで限界を迎えたのか、軋みをたてて後ろに倒れる。
結構な距離を吹き飛ばされたらしい。空から見れば深い森の一角に一つの傷跡が見て取れるだろう。
「これには反応できるみたいだねぇ」
「それは流石に見縊りすぎというものだ」
過去においてヴァルバトーゼはその高名さゆえにあらゆる形で襲撃を受けている。不意打ち騙し討ちが日常茶飯だった過去と比較すれば今回のこれはむしろ温い。実際、彼は抜剣して対応する余裕があったのだから。
問題は、力に差がありすぎることか。いかに先手を取られ、万全な体勢で受けられなかったとはいえいささかダメージが大きい。
頑丈さに主眼をおいた愛剣には傷一つないが、抜けた衝撃だけでかなりの被害を受けた。剣を持つ手には未だに痺れが残っている。
だが今の交錯で、ヴァルバトーゼは二つの光明を見出していた。
一つは萃香のリーチ。彼自身もチカラを失った影響で若干縮んでいるものの、萃香の体躯とは比較にならない。加えて彼女は無手で彼は剣。間合いさえ読み間違えなければ一方的に攻め続けることも可能だということである。
もう一つは彼女の動きだ。先の一撃に積み上げられた術理は感じなかった。あるいは酔っ払っている影響なのかもしれないが、思うがまま力のままのその攻撃は直線的で読みやすい。
そもそもチカラの強い存在は技に頼ることを嫌い、正面からのぶつかり合いを好む傾向がある。先程の言葉を考えてもこの読みは間違っていないだろう。
ならば取るべき手は一つ。
痺れの残る右手から左手に剣を持ち替えたヴァルバトーゼは、こちらに向かって歩いてくる萃香目掛けて飛び出した。
「お」
それを見た萃香は面白そうに笑みを浮かべて足を止める。迎え撃つ心算だろう。
一息に間合いをつめたヴァルバトーゼは、彼女の手足が届かぬ距離から剣を払う。右から左への一閃。
その軌道に合わせるように萃香は左腕を掲げた。自身の頑強さならば問題なく受けきれる、という判断だろう。
だが――
「……おお?」
剣がすり抜ける。否、剣が消えた。
普段剣を魔力に還元して体内に納めているヴァルバトーゼは、呼吸をするように剣を『出し入れ』できる。それを利用して、萃香の腕に接触する直前に剣をしまったのだ。
予想外の状況に目を白黒させている萃香を尻目に、ヴァルバトーゼは右手に出した剣を振り下ろした。
肩口から袈裟に懸ける一閃。よもや両断できるとは思っていないが、深手は取れる。ヴァルバトーゼにはその確信があった。
しかし彼は忘れていたのだ。その確信を今まで砕いてきたのは誰だったのかを――
「――な」
「あんたもさぁ、私を少し見縊りすぎちゃあいないかね」
あろうことか、その剣は萃香の肩口で止まっている。服の下の薄皮を一枚切り裂いて、少し血が滲んでいるだけ。
渾身の一撃ではなかった。しかし会心ではあった。だというのに――
ヴァルバトーゼのその驚愕、困惑は刹那にも満たない一瞬のことであった。
だがそれは間違いなく悪手。せめて隙を晒すのなら退いてからにすべきだった。ここでは彼我が近すぎる。
「ガ――!」
痛みを伴った代償はヴァルバトーゼを再び宙へと舞い上げた。盛大に血を撒き散らしながら、二筋目の傷を森に刻んでいく。
木々をなぎ倒し地面を跳ねる最中、どうにか彼は剣を突き立て勢いを殺した。喉の奥から鉄の味が迫り上がる。
しかしそれを味わう余裕もなく、彼の頭上を影が覆った。
「まさか、今ので終わりなんてこたぁないよねぇ?」
「――!」
真上から迫った脅威を飛び退いてかわす。
砲音が優しく聞こえるほどの轟音が響いて、周囲の大地が隆起した。出鱈目な一撃。
これを以てヴァルバトーゼは萃香との絶対的な力の差を確信した。
受けに回ってはやられる、ならばどうするか。攻め続けるしかない。例えダメージを与えられなくとも、代わりに反撃の暇を貰えばいい。
その判断と同時に、ヴァルバトーゼは駆け出した。盛り上がった大地の隙間、土煙の奥でゆらりと立ち上がった影を目指して彼は突き進む。
跳ね球のように大地の合間を蹴り抜けた彼は、その勢いのままに萃香へ大上段から剣を落とした。
「おお、まだまだ元気そうじゃないか」
「無論だ……!」
片腕一本で止められてしまったが、もはや驚くに値しない。受け止められた反動に逆らわず、後ろへ飛んで反撃を避ける。
その一つ一つの動作に体が悲鳴を上げるが、回復を待つ時間はない。悠然と立つ萃香に向かい、ヴァルバトーゼは再び吶喊した。
両者の間に存在する差というものは極めて顕著かつ明確である。
力――すなわち
技――すなわち術理、経験においてはヴァルバトーゼが勝っていた。
これだけ聞くと互角に思えるかもしれない。だがここで繰り広げられている闘いの流れは、明らかに偏っていた。
「ほらほら、どうしたどうしたぁ! もう限界なのか!」
「っ……! オオオッ!」
活性化した魔力が熱を持ち、交わされる剣と拳が空気を焦がす。気づけば彼らの周りには紅い霧が漂っていた。白熱化した戦場が飛び散る血を全て気化させているのだ。
そしてその全てがヴァルバトーゼのものだと言えば、この闘いの趨勢がどちらに傾いているかなど説明する必要もないだろう。
これは難しい話でも、道理に適わぬ話でもない。確かに武術家として、戦闘者としての能力ならばヴァルバトーゼが上だろう。
だから、どうしたというのか。
矮小な蟻が、巨像の足を流すことができないように。
すなわち、ヴァルバトーゼと萃香の間に存在する実力差というものはそういうものであった。
「その諦めない精神は大したもんだと思うけどさ、もう何もないのかい?」
「さてな……!」
ともすれば崩れ落ちそうな両足を叱咤して、ヴァルバトーゼは剣を振るい続ける。それはいかなる理由からか。
実のところそこまでして萃香と闘う理由が彼にはない。萃香の都合のみでなし崩し的に始まった戦闘に、彼が付き合う義理などないのだ。
もちろんヴァルバトーゼにはプライドは存在する。闘いを挑まれて背中を向けることを彼は決して好まない。
だがそれは命を懸けるに値することか、と言われれば彼は首を横に振るだろう。彼は死そのものを恐れることはないが、それによって約束が果たせなくなることは断じて許容できることではないゆえに。
ならばこの闘いの本質が殺し合いでないからか。今までの萃香の態度から鑑みて、これは単なる力比べであると結論付けたからなのか。
だが萃香が振るう暴力は、下手すればヴァルバトーゼの命を吹き飛ばしかねないほどに凶悪極まりないものである。
そのリスクを背負い続ける彼の意図はどこにあるのか。やはりただの意地なのか。
少なくとも戦況に変化は訪れず、そして萃香は見切りをつけた。
若干の落胆を声に滲ませて、彼女は宣言する。
「……それなりに楽しかったけど、何もないってならそろそろ終わりにしようか」
そのセリフに抗うように、ヴァルバトーゼは横薙ぎの一閃を放った。
だがいとも容易く萃香にいなされる。彼の右手が空を泳ぐ。
その隙を補うように、彼は左手に剣を入れ替えてのもう一閃。
しかし首を狙ったその一撃も萃香の右手に跳ねられた。
結果、彼は万歳のし損ないのような姿勢を晒す――完全な死に体。
当然、それを見逃す萃香ではなく。
「――ガ、……ァ…………ッ」
凶手が、ヴァルバトーゼの腹を貫いた。
激痛からか、彼の手から剣が落ちる。
がくがくと震える身体はそれでも倒れることを拒むのか、彼の両手が虚空を彷徨う。
ふいに、彼は掴んだ。丁度よい高さにあったそれを――萃香の両肩を。
その動作は余りに自然で、だからこそ萃香は苦笑した。
「ま、死にゃあしないでしょ。リベンジマッチは歓迎するからいつでもかかっておいで」
勝負はついただろうと、彼女は腕を抜く。
結局、彼女は気づくことができなかった。
真上――彼女の死角にある、ヴァルバトーゼの口元が終始大きく歪んでいたことを。
萃香はヴァルバトーゼの両腕を優しく払おうとして、ようやく気づいた。いつの間にか、万力のような力が込められていることを。
そして彼女が力を込めるよりもほんの少し早く、それは放たれた。
「――ぁ、かっ!?」
萃香の表情が苦痛に歪んだ。傍から見れば何も変わっていないように見えるだろうが、ヴァルバトーゼの両手の平から鋭く研ぎ澄まされた魔力の針が彼女を貫いている。
彼は萃香との闘いにおいて、極力魔力の使用を抑えていた。転移はおろか、空中移動も控えるほどに。
その行動は終局までの時間を著しく縮め、圧倒的なまでの敗北を彼にもたらした――ように、見えた。
今の、この瞬間までは。
だが違う。彼はこの時を待っていたのだ。手持ちの全魔力を練り上げて、敵に叩き込む隙を。
その効果たるは凄まじく、先の剣閃ですらまともに裂けなかった彼女の肉体を容易く貫いていた。少なくとも肺には達しているだろう、その手ごたえが彼にはあった。
だが人間ならばいざ知らず、その程度で鬼がやられると彼は思っていたのだろうか。
「こ、の……っ!」
口元から血を零しつつ、萃香はヴァルバトーゼの両腕を掴んだ。
確かにダメージはある。しかし致命には程遠い。ゆえに彼女は己を見誤った愚か者の腕を引き千切らんと力を込める。
だが――彼女を貫く魔力の針がそれだけのものであると、誰が言ったのか。
突如己を支配した強烈な虚脱感に、萃香は両目を見開いた。
「流石は鬼だというべきか――凄まじい生命力だな」
「あんた……私の、体力を……ッ!」
生命強奪。
これこそ、ヴァルバトーゼが魔力に織った術理。
針で貫いた対象から一定の割合で生命力を吸収するそれは、対象の生命力が多いほどにその吸収量も増していく。
さらに吸命の瞬間にもたらされる虚脱感が対象から抵抗を奪う。
とはいえ虚脱状態は長く続くものではない。事実ヴァルバトーゼは己の腕を掴むそれに、少しずつ力が込められてきていることを確認していた。
「ハァッ!」
「がっ……」
ゆえにヴァルバトーゼは萃香の顎を膝で打ち上げ、術を解除すると剣を拾って後ろへ飛んだ。
一足で十メートルほどの間合いを確保したヴァルバトーゼは、動かない萃香を見つめつつ己の状態を確かめる。
腹部の風穴は塞がっており、その他の重傷もほぼ回復。少なくとも戦闘に影響がでるようなダメージはない。
問題は魔力。ほぼ全ての魔力を使い果たした以上、同じ手は使えず転移も使えないだろう。
よってもし今ので萃香に決定的なダメージを与えることができていなければ、これからの展開が今までの焼き直しになることは想像に難くない。
「く、ふ……」
立ち尽くしていた萃香は何事か吐息を漏らした。
これが苦痛によるものならば良いのだが――
「は、はははっ。あっはっはっは! あーっはっはっはっはっは!」
萃香の哄笑が響き渡る。
彼女の表情には怒りも狂いも感じられず、純粋に愉快であると破顔していた。
やはり、という思いがヴァルバトーゼの心中を覆う。
対象の生命力に応じて吸収量が定まるという特性上、あの数秒で萃香の生命力を吸いきれているはずがないのだ。
それでもなお彼の傷が殆ど治ったのは、とどのつまりそういうこと。
すなわち彼我の生命力の間に、そこまでの差が存在するという意味に他ならない。
今度こそ敗北を覚悟したヴァルバトーゼだったが、萃香が次に見せた行動は彼の想定を大きく凌駕するものであった。
「いやぁ、やっぱ見縊ってたのはやっぱ私の方だったみたいだね。あんた、面白いよ。だからもーちょっと続けたかったんだけどねぇ……時間切れだ」
「何だと――?」
残念残念――そう言い残して萃香の姿が消える。
ヴァルバトーゼは周囲の気配を探るが、それらしきものは感じない。
ついでに言えば紫のそれも。思えば闘いが始まって以降、影も形も見ていない。闘いに巻き込まれないように退いたのだろう。
「……ふう」
少しの間をおいて、ようやく闘いが終わったことを実感したヴァルバトーゼは緊張を解いた。
最後に萃香が零した言葉の意味が気になったのものの、どうせ考えても詮無き事と彼は切り捨てる。
しかしてどういうことか――答えの方から訪れた。
それは空から現れた一つの影。
「……どうりで、心当たりがないと思った」
ヴァルバトーゼの眼前へと降り立った彼女の正体は、紅白の巫女衣装で身を包んだ博麗霊夢。
彼が彼女と会うのはこれで二度目だが、こちらを見るその目には紛れもない敵意が存在した。
覚えのないそれに困惑するヴァルバトーゼへ向けて、霊夢は鋭く宣言する。
「アンタが犯人ね――?」