「出来たわよ」
魔理沙から魔導書を回収してから三日。
紅魔館地下図書館を訪れたヴァルバトーゼを出迎えたのは、パチュリーのそんな一言だった。
「おお」
どうやら、転移の術式が完成したらしい。
それ自体は喜ぶべきことなのだが、今更ながらに一つの疑念がヴァルバトーゼを包んだ。
「ところで……その術式をどう身につければいいのだ?」
ヴァルバトーゼの転移運用は極めて感覚的なものである。先日パチュリーに理論を説明されたときも、理解はしたものの自身がそういう使い方をしているという実感は終ぞ沸く事はなかった。
ならば懇切丁寧な解説を介したところで実用までこぎつけるとは思えない。あるいは半端に術式が乱れ、今までの転移運用すらも難しくなるかもしれない。
そんな懸念を込めた問いかけに、パチュリーはテーブルの上に一つの魔導書を置くことで応じる。
「これは?」
「手を載せて、妖力を――魔力をスペルカードを使うときのように流してみなさい」
無為に問いを重ねることはせず、ヴァルバトーゼはその言葉に従った。表紙に手を置いて、魔力を流す。
直後、閃光が駆け抜けた。
「――――」
見かけ上に変化はない。しかし彼の内面で起こった変化は劇的であった。
脳の奥を無数の言語や記号が駆け巡る。それはまさしく魔法言語であり、まさしく術式であった。だがそれだけである。
その手の知識が欠けているヴァルバトーゼは、それがどういう意味を持っていて、どう成り立っているのかを理解することができない。
濃密な数瞬を経て、その現象は終わった。もはやそれらを明確に想起することも適わない。
しかし『どうすればいいのか』はわかる。
不思議な感覚だった。体感的に件の転移を使えるという確信が、彼の中にあった。
「今のは、一体……」
内心が漏れたような呟き。
しかしパチュリーには届いたらしく、彼女は丁寧に答えた。
「一言で表すなら術式の継承よ。魔法使いが弟子に秘伝を授けるときとかによく使われる手法ね。適正な知識があれば相応の理論を手に入れ、適切な素養があれば術式の運用を可能とする。まあ、よくわからないけど使えるようになった――そんな理解で十分よ」
「あとは魔力さえ足りていれば――」
「今度こそ、帰れるかもしれないわね」
結局、そこに帰結するというわけだ。
もしこれでダメならば――というのはそのとき考えればいい。
とにかく試す。そのためにやらなくてはならないことがあった。
「まずは『外』へ出なくてはな」
「その必要はないわよ。そのまま抜けれるわ」
博麗大結界を越える手段を講じなければならない、と思いきやパチュリーがあっさり否定した。
紫を頼ることを考えていたヴァルバトーゼには朗報である。無闇に借りを作りたくはない。
だがそれは一つの疑問をヴァルバトーゼに生じさせた。
「その術式も組み込んだのか?」
「まさか、そんな無駄なことしないわよ。一定以上の魔力があれば大結界を貫けるというだけ」
つまり転移手法に付随した効果、ということだろう。
数多の空間をも次元断絶させている結界だが、チャージした魔力ならば容易に突破できるらしい。
「……大丈夫なのか、それは」
「自動修復機能があるみたいだし平気よ。一瞬のことだから影響もでないわ」
経験談なのだろう。澱みなく語るパチュリーにヴァルバトーゼは納得した。
そもそも一つの世界として確立させるほどの大結界が、そんな柔であるはずがない。
「ならば早速試すとするか」
「それがいいわ」
この方法ならば、このまま帰れたとしても魔力さえ回復すれば戻ってこれるはずである。
世話になった相手には挨拶をしたいが、するならば成功したその上で戻ってすればいい。
ヴァルバトーゼはそう判断し、体内の魔力を走らせた。自身の中にある、奇妙な感覚が術式を模っていく。
これまでとの違いはすぐに表面化した。彼の足元に法陣が展開されていく。ほのかに光る深い紺と淡い銀――魔力のラインが不規則に幾何を描いた。
数秒の時間をかけて、魔力のチャージが終了する。即座にヴァルバトーゼはそれを解き放った。あとは同位相の二点間が亜空間で繋がれば自動で転移が発動するのだが――
「……ダメか」
放たれた矢は目標まで届かなかった。
待機していた空間の固定及び移動の術式は前提条件の食い違いからか、霧散する。音もなく展開されていた術式が消えた。
「どうするの?」
「…………」
大いに説明不足感のあるパチュリーの問いだが、ヴァルバトーゼは理解していた。即座に答えなかったのはすぐに結論が出なかったからに他ならない。
彼女が問うたのはすなわち帰還手段のアプローチをどうするか、ということだ。転移にすがるか、別の方法を探すのか。あるいは諦めるのか――という意図も込められていたのかもしれないが、それは一考にすら値しない。
しばしの沈黙を置いて、現状を整理したヴァルバトーゼはすぐに結論を出した。嘆息しつつ、考えを述べる。
「……やれることをやるしかあるまい。引き続きキサマには魔法的なアプローチで元の世界に帰る手段を考えてもらいたい」
「貴方は?」
「俺がここへ来た原因を探るとしよう。直接帰還には繋がらなくともそこから何か閃くことがあるかもしれんしな。あるいは魔力を増やすか、というのもあるが」
後者は望みが薄いだろう。チカラを失って四百年――そう、四百年かけてこの程度なのだから。一朝一夕は愚か、年単位ですら明確な増加が見込めるかどうか。
あるいはまさしく後一歩のところであった、とでもいうのなら届きうる可能性はあるが。流石にそれは希望的観測が過ぎる。
よって短い期間でヴァルバトーゼが帰れるようになるとするならば、その可能性は大きく三つ。
まずヴァルバトーゼが幻想郷へ来た原因を掴み、それが帰還へ繋がるものであるかどうか。
あるいはパチュリーが全く新しい転移術式を閃いて完成させるか。
もしくは全く予想もつかない方策が見つかるか、だ。
「ま、私の方には余り期待しないでね。今の
「ああ、結局は俺の非力ゆえ、だったのだからな。これ以上キサマを当てにして待つつもりはない」
そもそもヴァルバトーゼは待つ性分ではない、というのもある。自分の足で道を拓くのが好きなのだ。
問題は、具体的な方針が何一つ見つからないことだろうか。しばらくは幻想郷をしらみつぶしに当たるしかないだろう。
「とりあえず、一応転移のテストしておいたら? 魔力不足以外に不備があったのかもしれないし」
「……それもそうだな」
急ぎの用があるわけでもないゆえ、ヴァルバトーゼは頷いた。確かに『外』に出れるというならば、一度試しておくべきだろう。新たな転移を体得した、という実感も得られる。
目標は『外』の博麗神社。決断したヴァルバトーゼは再び魔力を活性化させた。
「ちなみに戻ってこなくていいわよ。私も用事あるから」
転移の間際、パチュリーが声が耳を叩く。
発動まで刹那もなかったが、その短い時間でヴァルバトーゼは思考にひっかかりを感じた。
しかし具体的な言葉には出来ず、今度こそ彼はその場から姿を消した。
結局、転移には問題がなかった。やはり魔力が足りないのだろう。
幻想郷へと戻ったヴァルバトーゼはアテもなく幻想郷を彷徨った。
それからしばし、空が朱色に焼けた頃のこと。
「……む?」
こつん、と何かがヴァルバトーゼの頭にあたる。
転げ落ちてきたそれを掴むと、それは彼に馴染みのあるものだった。
マイワシ。おそらくもっとも食用に使われているイワシの代表。
ヴァルバトーゼは今、鬱蒼と茂る森の中にいる。周囲に気配も感じず、突如イワシが降ってくるなど珍事の極みと言えよう。
しかし彼には一つの心当たりがあった。
「一つ、貴方に聞きたいことがあるのだけど」
八雲紫。
横合いの空間から突如現れた彼女は、一つの疑問がヴァルバトーゼにあるという。
ひとまず手に持ったイワシをかじりつつ、彼は続きを待った。
「貴方、『外』に出た?」
「……うむ、先程な」
んぐんぐとイワシを飲み込んで、ヴァルバトーゼは答える。
つまり彼女が現れた理由とは、博麗大結界に異常が表れたからか。
「あの手法で『外』出たのは問題だったか」
「ああ、いえそういうことじゃないのよ」
「……何?」
予想と違った答えにヴァルバトーゼは毒気を抜かれたように疑問を零した。
空間の裂け目に座る紫は、どう答えたものかと思案しているようだ。聞かせたくないことでもあるのだろうか。
「……先日、貴方がここへ来たでしょう?」
「そうだな。全く何が起こったのか、未だに理解できてはおらぬが」
「流石に異世界の存在が幻想郷に訪れたのは初めてなのよ。だから少しここの出入りに気を遣っている、というわけ」
「ああ、成る程」
ヴァルバトーゼの顔に理解の色が灯る。
要するに『また』なのか、と懸念していたのだろう。杞憂に過ぎなかったわけだが。
「一応聞いておくけど、帰れたの?」
「いや、残念ながらそういうことではない」
これまでの事情をかいつまんでヴァルバトーゼは話した。
紫は納得したように頷き、彼の現状を一言で表した。
「つまり振り出しに戻ったというわけね」
「遺憾ながらな。……差し当たっては俺が幻想郷に転移した原因を探っているのだが――手がかりがなくてな。何か知らぬか」
「…………」
今ヴァルバトーゼが出入りしたことを察知したように、その時も何かを感じたのではないか。
そう考えたゆえの質問だったのだが、紫は即答しなかった。
無言。いつの間にか開いた扇子で、彼女は表情も隠している。
しかしヴァルバトーゼはその裏に一つの感情を感じていた。迷いだ。少なくとも悪意ではない。
なればこそ彼は口を開き、紫もまた同時に口を開いた。
「――おや、紫と知り合いだったのかあんた」
しかし空間に響いた声はそのどちらのものでもなく――おのずと二人の視線がそこへ重なる。
直後にヴァルバトーゼが感じたのは強烈な違和感だった。ちぐはぐな、とでも形容すべきだろうか。
見かけは少女。レミリアやフランと同じ、あるいはそれよりも幼い。
しかし瓢箪を手に持ち、顔が赤みがかっている。つまり酔っているのだろう。
そして長く伸ばした薄茶の髪、その上のほうから二つの角が生えていた。
さらに感じるチカラの強大さは今まで出会ったどの妖怪をも越えている。
ここまできて相手の正体を察せぬほどヴァルバトーゼは愚鈍ではない。彼女は己に負けず劣らず知名度の高い存在――
「鬼か……!」
「そういうあんたは吸血鬼らしいね。全然チカラ感じないけど」
なぜか、彼女はこちらの素性を知っていた。
そして深いところまでは知らないらしい。
「――で、何しにきたの? 萃香」
先程の言葉からも伺えたが、紫とこの鬼――萃香とやらは知り合いらしい。
割り込まれた形になったからか、いささか紫の視線は冷たい。
そんな彼女に萃香は意を介した様子も見せず、笑って答えた。
「いやなに、ただの興味本位さ」
「貴方の関心は霊夢にあるものだと思っていたけれど」
「否定はしないけどねぇ。前から呼んでたのにちっともこないんだよ、こいつ」
「あら、珍しいわね」
「だろ? 自覚した上で抗われるのはともかく、無意識に流されたのは初めてでさ。ちょっとはなしてみようかなぁなんて」
いまいち意味の掴めない二人の会話に、ヴァルバトーゼは眉を顰める。
しかし彼は自分に水を向けられたのは察せられた。
「用があるのは俺に、ということか」
「うん。そういうこと」
あっさりと萃香は頷く。
しかしヴァルバトーゼには全く心当たりがない。興味を抱かれる理由も、呼ぶ呼ばないの事情もさっぱりだった。
とはいえあちらの用に応じてからでいいと彼は判断したのだが。
「で、俺に何を尋ねたいのだ?」
「うーん、それがさ、具体的に聞きたいことがあるわけじゃないんだ。強いて言うのならあんたの人となり――妖怪となりとでもいうべきかね」
ぞわり、と総毛立つ。
この瞬間、ヴァルバトーゼは自分が問いを投げる機会が訪れないことを直感した。
「でも私は会話で推し量るってのは得意じゃないのさ。だから――
萃香がゆらりと身体を前に倒して――直後、大地が悲鳴を上げた。