闇に閉ざされた大図書館。
その暗がりに動くものが一つ。人影だ。
人影は大きな荷物を背負っており、近くの本棚には多くの空隙が見えた。
この人影の目的を敢えて語る必要はないだろう。見たままである。
「今日も大量だぜ」
声の高さからおそらく女性であろうその人影は小さく呟き、出口を目指す。満足のいく成果を得られたのだろう。
彼女は己の成功を疑っていなかった。
なぜならこれは半ば公然化した行為だからだ。仮に捕まったとしても大したリスクはない。精々今日の成果を没収されるだけだろう。
そもそも見つかったとして、逃げ切れる自信もあった。
だから、一斉に部屋の明かりが灯った今この瞬間においても彼女は焦っていない。棚の影に隠れて状況を見極める。
「いつもいつも、ねずみが多くて嫌になるわ」
棚越しから聞こえたその声には聞き覚えがあった。この図書館の主だ。
卓越した魔法使いであり、その熟達ぶりは魔導同じくする彼女を大きく超えている。人生経験が桁一つ違うのだ。同じ土俵で争ったのならばまず勝ち目はないだろう。
しかし図書館の主――パチュリー・ノーレッジには一つの欠点がある。体が弱いことだ。
生粋かつ模範的な魔法使いである彼女は、基本的に拠点から動かずに魔法の研究を続けている。そのため身体能力はそこらの人間にも劣っており、さらには喘息持ちでもあった。
ゆえに一度離脱に成功すれば追いつかれることがないという確信が彼女にはある。
問題はタイミング。ここは熟練の魔法使いの拠点、虎穴と言って差し支えはない。
間違いなく己の位置を補足しているはずだった。ならば間違いなく魔法で捕らえにくる。
その初撃を回避し、全速で離脱する。というのが彼女――
「貴女もそう思うでしょう? ねえ、魔理沙」
「そうだな」
霧雨魔理沙の作戦だった。
「それならねずみ捕りでも仕掛けてみたらいいんじゃないか?」
軽口を叩きながら、左手の箒に魔力を込める。
パチュリーが大切にしている本がある以上、広範囲の攻撃魔法は間違いなくこない。空間干渉か、実体魔力による行動制限を狙ってくると魔理沙は睨んでいる。
術式の起動を見切れば私の勝ちだ、と魔理沙は心中で呟いた。
「ええ。だから――」
しかし魔理沙は一つだけ思い違いをしていた。
いつもそうだから、気づかない。
いつ、どこで、誰が今日も一人だと言ったのか。
「今日はそうしたわ」
「――げ」
視界の端で、何かが光る。
気づいたときには手遅れだった。
「チェックメイト、だな」
その声は低く、パチュリーの声ではない。
見たことのない男が、魔理沙へ剣を突きつけていた。
「術式の改良?」
ことの始まりは三日前の夕方まで遡る。フランドールに腕を落とされた後のことだ。
レミリアはフランドールをつれていずこかへ去り、ヴァルバトーゼは図書館内へと戻ってパチュリーから治癒魔法による応急処置を受けた。それからどうにか腕が繋がるところまで回復したヴァルバトーゼは、パチュリーに転移のことを尋ねたのだ。
そこで返ってきた答えが、今彼自身が使っている術式を改良すべきであるというものであった。
「私はこの図書館内に展開している解析魔法でさっき貴方が用いた転移術を見せてもらったわ。その結果判明したのは、貴方の転移は大きな無駄があるということよ」
「ほう」
ヴァルバトーゼは感心の吐息を漏らす。
パチュリーはあの瞬間、特に何をするわけでもなくヴァルバトーゼの転移を見ていた。
だが、それは違う。そうではなく――何もする必要がなかった。そういうことなのだろう。
「順序よく、説明しましょうか。貴方が使うような転移には発動までに大きく二つの工程が存在するわ」
言い終えると、パチュリーは一つ指を立てた。
「一つ、目的地の設定。目視とイメージ、どちらでも転移は成立するけれど――共通することは『その場所を知らなくてはならない』ということ。これによって貴方は貴方自身の転移でしか帰れない」
これはヴァルバトーゼもわかっていたことだ。彼は頷くだけにとどめて、続きを待つ。
パチュリーは二本目の指を立てた。
「二つ、現在地と目的地を繋げる事。亜空間のトンネルを作る、とでも表現すべきかしらね。問題がなのはここよ」
「というと?」
「空間に穴を開ける方法は大きく二つ。チカラを溜めて一気にやるか、少しずつ掘り進めていくか。貴方は後者」
「……それのどこに問題があるのだ?」
訝しげに、ヴァルバトーゼは眉根を寄せる。
むしろ余剰エネルギーが生まれかねない前者こそ、ロスが生まれかねないのではないか。
そんな彼の疑問を、パチュリーは鼻で笑った。
「チカラを使うのが、それに対してのみならね」
「……?」
「穴を開けられた空間は当然元に戻ろうとする力が働くわ。なら当然、チカラを使って開けた空間を維持・固定しなくてはならない」
「そうか……!」
はっとした様子で目を開くヴァルバトーゼ。
空間の維持・固定には『常に』魔力が必要になる。つまり時間をかければかけるほど消費する魔力は増えていく、ということだ。
そしてヴァルバトーゼの手法では時間単位の魔力消費量が距離に応じて増えていく。
「わかったみたいね。対して前者は先に十分量の魔力を溜めてから一気に開通させる。維持・固定に使うチカラは移動するまでの一瞬分だけよ」
つまり移動する距離が遠ければ遠いほど、後者の魔力効率は低下していくということになる。ましてや次元を隔てた世界への移動ともなれば――語るまでもない。
加えて前者の運用ならば最初に溜めた魔力の量で、維持・移動に必要な魔力を逆算することも可能である。ということは自身の持つほぼ全ての魔力を無駄にすることなく、最長距離の転移ができるということだ。
その事実を理解したヴァルバトーゼは大きく嘆息した。
「……確かに、大きな無駄があったようだ」
「そう卑屈になることもないわ。至近への転移ならば魔力の溜めがない分発動までの早さは後者のほうが上だもの。長距離転移に向いてないというだけよ」
「……ふむ。何にせよ、これで希望が見えたというわけか」
少なくとも、理論通りならば今の魔力でも転移射程が大幅に伸びることは間違いない。
問題は一つ。
「どう身につけたものか」
ヴァルバトーゼはその手の専門家ではない。解決手段が見つかっても具体的な実行手段が見つからなければ先に進むことは出来ないのだ。
「二、三日くれれば貴方が使えるように術式を用意するわよ」
「本当か」
「それで帰れるようになるかどうかは、保障しないけどね」
「わかった。頼む」
それから二日後、ヴァルバトーゼは再び図書館を訪ねた。
だが彼を出迎えたパチュリーの表情は硬い。その理由はすぐに彼女自身から知れることとなった。
「魔導書がない?」
「そ。術式自体は既存のものを流用すれば済むんだけどね、妖力でも駆動できるようにカスタマイズしなくちゃいけないのよ」
そのパチュリーの言葉に、ヴァルバトーゼはかねてからの疑問をぶつける。
「……待て、そもそも妖力とはどういうことだ。俺の使っているチカラは魔力ではないのか?」
ヴァルバトーゼはこれまでも何度かそういった発言は聞いていたが、チカラの呼び方が違うだけだろうと判断していた。
しかしパチュリーの言葉は明確にそれを否定している。
「違うわ。……多分、そちらの世界ではチカラの分類が大雑把なのね。こちらではチカラの波長に応じて呼び方が変わるのよ。魔力、妖力、霊力、神力、といった具合にね」
「……血液型のようなものか」
あるいはヴァルバトーゼが好きなもの――すなわちイワシで例えるならば、彼の世界における魔力はニシン目ニシン科全体を指す。
対してこちらの世界における魔力ならばニシン目ニシン科マイワシ属マイワシを指し、妖力ならばニシン目ニシン科ウルメイワシ属ウルメイワシを指している、ということだろう。
「そうね、おおむね間違ってないわ。私の術式はあくまで魔力にのみ適応させたものだから、妖力で動くような術式にするにはそのことについて書かれた魔導書が必要なんだけど」
「そのための魔導書がない、ということか」
「ええ、ジャンルがジャンルなだけにあまり読み込んでないから記憶も曖昧なのよ」
「……? その口ぶりだと、元々はあったという風に聞こえるが」
ヴァルバトーゼはてっきり、この広大な図書館にも存在していないという意味だと思っていた。
だがパチュリーは首を振って否定すると、本の行方を口にする。
「有り体に言えば盗まれたみたいね。心当たりがあるもの」
自分の本が盗まれているというのに、パチュリーの態度は平然そのものであった。
あえてそこは追求せずに、ヴァルバトーゼは心当たりを尋ねる。
「相手はわかるのか?」
「霧雨魔理沙。人間の魔法使いよ。最近知り合ったのだけどね、しょっちゅうここへ忍び込んでは魔導書を盗んでいくのよ。彼女に言わせれば『死ぬまで借りるだけ』らしいけど」
「……いいのか?」
「まあ人間を止めないのなら長くても百年程度。それぐらいなら貸しておいてもいいかなって。回収するときに利子として魔理沙の成果をいただくつもりでもあるしね」
「成る程な」
確かに千年単位で生きる妖怪と、精々が百年しか生きられない人間では時間に対する考え方が違う。
その魔理沙という人間はそこまで考えてそういう行動をとっているのかもしれない。だとすれば相当したたかな人間である。
「でも、入用になったからにはしょうがないわね。あれだけでも返してもらいましょうか」
「どうするのだ?」
「あいつの家はわかるんだけど、泥棒対策とか仕掛けてありそうだし家捜しはやめておくべきね」
「ならば?」
「決まってるでしょう? 折角向こうから来るのだし、そこで『お願い』すればいいじゃない」
パチュリー曰く来るとしたら昼過ぎから夕方にかけて、ということらしい。
なのでその時間は、基本的にヴァルバトーゼも図書館で待機することとなった。
結果、特に読みが外れることもなくその翌日の昼に魔理沙が現れ――
「わかった。降参、降参だ」
いささか引きつった表情を見せながら、両手を上げる魔理沙。
そこにパチュリーが椅子に座ったまま空を飛んできた。正直魔力の無駄遣いにしか見えない。
「とりあえず、貴方には確認したいことがあるの。少し付き合ってもらうわよ」
それから三人で卓を囲んで、魔理沙にヴァルバトーゼの事情を大まかに説明した。
そしてパチュリーが本題に触れる。
「魔導書?」
「妖力や霊力で魔法を使うための方法が書いてある本よ。貴女が持っていったんでしょ?」
「あー、あったかもしれないな。多分部屋の隅でほこりかぶってるんじゃないか?」
からから、と軽く魔理沙は笑った。
パチュリーが半眼で睨みつつ催促する。
「なら返しなさい」
「別にいいぜ。あっても使い道ないしな」
「せめて必要な本を盗みなさいよ」
ヴァルバトーゼも同感だった。盗まれる側からすればたまったものではないだろう。
そんな糾弾を魔理沙はおどけた様子で否定する。
「人聞きの悪いこというなよ、借りてるだけだぜ。それに人生何が役に立つかわからないだろ?」
「はあ……。ま、そういうことだから今すぐにでも持ってきてもらうわよ」
「仕方ねえなあ。取ってくりゃあいいんだろ?」
言うが早く、魔理沙は立ち上がった。
しかしパチュリーがその襟首を掴んで止める。
「ぐえ」
「待ちなさい。こいつについてってもらうから」
空いている手でパチュリーはヴァルバトーゼを指し示す。
話の成り行きを見守っていた彼は首を傾げた。この話は聞いていない。
「おいおいそんなに私が信用できないってか? これでも約束は守る性質なんだぜ?」
「貴女は約束を忘れるだけだしね」
「……こりゃ手厳しい」
言って、魔理沙は肩をすくめる。否定をする気はないらしい。
結局ヴァルバトーゼは魔理沙の家までついていくこととなった。パチュリー自身がいかないのは動くのが億劫だからだろう。まさしく
「ところで、その本とやらはどういう外装なのだ。おそらく俺はその魔導書を読むことはできんぞ」
ヴァルバトーゼは悪魔という存在の特性として、人間が意思疎通の手段として開発した言語は全て理解及び解読ができる。
それはこちらの世界でも例外ではないらしく、ちらりと近くの本棚に目を向けても多くの背表紙の文字が彼には読めた。
だが魔法言語のような、意思疎通を目的としない言語に関してはそうはいかない。専門家でもないヴァルバトーゼが読める道理はなかった。
つまり魔理沙から魔導書を手渡されても、それが本当にそうなのか確認することができないのだ。
「こんな感じよ」
そんなヴァルバトーゼに対して、パチュリーは人差し指を立ててみせた。その直上の空間に幾何学模様が浮かびあがり、直方体を模っていく。
それから少しの間をおいて、赤い装丁の本が具現した。全体を見せるように、ゆっくりと回転している。
魔理沙がそれを見て興味深そうに問いを投げた。
「それ、中は読めないのか?」
「無理ね。私の記憶を元に外見だけ再現したものだから」
その言葉を証明するように、本が開く。
ぱらぱらとページがめくられていくがその全てが白紙であった。
「まあでも、便利な魔法だな」
魔理沙の言葉に、ヴァルバトーゼは内心で追随した。
かねてから感じていたことだが、こちらの世界の魔法は用途がやけに広い。というよりはあちらの魔法が戦闘用ばかりなのだが。
「そうね、同感よ」
そう答えたパチュリーの表情はなぜか苦い。
それに対する疑問が呈されるよりも早く、パチュリーは理由を述べる。
「この術式の基礎設計は私じゃないのよ。スペルカードの弾幕形成に使われてるのを
「ふむ。成る程な」
先日、文にプリニーを見せたときのことを思い出しヴァルバトーゼは頷いた。
形を再現している
「ま、なんにせよこれでどんな本かもわかったわけだ。さっさと済ませちまおうぜ、ええと?」
「ヴァルバトーゼだ」
「ヴァルバトーゼだな。短い間だがよろしく頼むぜ」
話は終わったと、魔理沙は踵を返した。
ヴァルバトーゼも同調し、その背中を追う。
「魔理沙」
しかし再び、パチュリーが待ったをかける。うんざりした様子で魔理沙が振り返った。
「何だ? 流石にちゃんと返すから安心しろって」
「違うわ。右手のそれ、置いていきなさい」
「ちっ、ばれたか」
舌打ちしながら魔理沙は右手に持ったそれを置いた。ところどころにでっぱりがある大きな袋だ。中身は言うまでもないだろう。
大した手際だ、とヴァルバトーゼは感心した。動作が自然すぎて違和感がない。
「じゃ、また今度借りにくるぜ」
「歓迎はしないわよ」
「ではな。本を回収したら届けに戻る」
「はいはい、いってらっしゃい」
パチュリーからの見送りを受けて、今度こそ二人は紅魔館を後にした。