シャドウランF   作:WD

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ディア・マイ・サムライ【前 2】

 22:00。

 パイクプレイスマーケット近くのレストランで用心棒と待ち合わせた。

 エルフのマスターが切り盛りしている店内は植物と木工細工で彩られたシックな内装で、いかにも妖精趣味だ。テオドールとステラはかなり早く到着したので魚料理で遅い夕餉を済ませ、食後の飲み物を楽しんだ。テオドールは紅茶で、ステラは焼き菓子とキャロブの代用ココアだ。

 奥のブースで待っていると、ファーストは時間のきっかり三分前に来た。《カラスマ》のスリーピースと裾長のコートをきっちり着こなしており、股上が深いスラックスの腰を紺色の帯で引き締め、そこにカタナを差し込んでいる。流石にネクタイは締めていないが、その保守的な風体は“さらりまん”のようだ。コートの切れ目(ベント)から突き出た黒鞘が露骨に人目を引いていたが、当人は気にした風もない。

 幾ら日本では成人男性の帯刀が一般的と言っても――そして日系企業の敷地内では企業民の帯刀が合法であり、それ以外の地区では日本人男性のカタナの携帯ライセンス保有率が九割を超えているとしても、ここまで堂々とカタナを差して歩く人間は余りいない。大抵の日本人は目立つのが嫌いだから、このシアトルでは懐にナイフサイズのカタナを忍ばせるくらいが普通だ。応対するウェイトレスのエルフ少女も彼の腰ばかりをちらちら見ていて、客の案内というより珍品の見物に駆け寄ったようだった。

 ファーストはウェイトレスにチップを渡し――ARのオープンレイヤに現金アイコンが飛ぶのが見えた――会釈してテオドールの向かいに腰掛けた。この店は木組みの丸椅子なので、帯刀したままでも楽に座れる。

「ハイ、ファースト」

「今回はどういう話だ、グレイ」

 お互い第一声から囁き回線を開いているのは心得たものだが、この男と来たら挨拶も世間話もなしで本題に切り込んでくる。

 ファースト、というのは勿論あだ名である。

 対面すると彼の方が少し目線が高い。モンゴロイド・ヒューマンの割にすっきりした背格好をしているファーストであるが、体付きは酷く筋張っていて、引き締まっているのか痩せぎすなのか評価に迷う。どことなく貧相にさえ見えるのは服のサイズがゆったりしているせいか、それとも人相が良くないせいか。まだ二十五歳であるはずなのに、この男は目つきが落ち窪み、陰気で、妙に老け込んでいるのだった。

 テオドールにとってこの日本人は友人だったが、あまり大っぴらには言えない類の繋がりでもあった。個人営業、無免許のボディガードが彼の生業だ。いや、正確に言えば免許はある。テオドールが入手に荷担した偽造免許が。

「家出娘を捜しにいくんだけどさ。彼氏がギャングなんだってさ」

 と、ステラが答える。ファーストがフムと唸る。

「俺は何をすればいい」

「男の子ナンパしに行くから、あたしらの横で怖いお兄さんごっこやってて」

「なるほど」

 ステラの戯れた物言いに愛想笑いの一つもなく、背筋を伸ばしたまま生真面目に頷いてみせる辺りが、この男のおおよそのところを表しているのだった。

 三人のPAN(パーソナルエリアネットワーク)の間に改めて信頼関係を構築し、共有領域に資料を置く。ファーストは真顔のまま画像やメモに目を通し、テオドールはAR視野に広げた資料を手遊び気味に整理しながら、時々、ファーストと予算や道具や今夜当たる先などの予定といった細かいことを話す。

 その間、ステラはクッキーをキャロブの代用ココアでふやかすのに忙しそうだった。

 と、ファーストが共有領域に画像を保存した。開いて見ると、三ヶ月前にサラ嬢がアップした友人との写真を切り抜いて拡大したものだった。サラ嬢が嵌めている指輪を赤丸で囲い、参考リンクを添えている。精緻な銀細工の指輪。サラ嬢の年齢には少し不相応かも知れない。

「これが気になる?」訊ねてみるとファーストは頷き、「北米シャーマンの呪物の様式だ。模造品にしても、本格的だ。それなりの場所でないと手に入らない」「そういうのに興味を持っていた?」ファーストは答えない。そこを考えるのはテオドールの仕事、と言いたいらしい。ステラも同意見とばかり黙っている。

 テオドールは少し考える。プラスチックの狼の牙。狼のタトゥーシール。北米シャーマンの呪物。サラ嬢は魔法使いに憧れていたのかも知れない。憧れるに留まらず、本物の魔法使いになろうとしていたのかも知れない。

 

 パイクプレイスマーケットは賑やかな場所だが、日付が変わる時間ともなれば胡乱な連中しか出歩いていない。陰に回れば非合法な品もやりとりされている。観光ガイドには近寄るべきでない区画がきっちり記されているはずだ。その区画に敢えて踏み込んだなら、にこやかに手招きしてくる男についていけば内緒のお楽しみが味わえるだろう。それはドラッグかBTL、或いは未成年娼婦のフェラチオかも知れない。そうでなかったら単に銃を突きつけられて金を奪われるか。鷹揚な解体屋が近くにないから、死体になる可能性は比較的少なく済むだろう。あくまで比較の問題だが。

 サラ嬢がこれまで悪い仲間と関わりを持ったことがなかったのであれば、どこかしら出会いの場所があったはずだ。マトリックス経由で知り合ったのだとしても、直接デートする場所はひとまず近所の行き慣れた場所であっただろう。このマーケットで何か分かるかも知れない。そうでなくても、話を通しておいたほうが良い連中がいる。

 テオドール達は観光客が近寄るべきではない通りをぞろぞろと歩いた。毒々しいARサインの流れに混じって、思わせぶりな隠語混じりの落書きや風俗店の広告が眼鏡に投影される。ちらと眼鏡を外すと、そこは大半の灯が消えた薄暗くて寂しい裏通りだ。スタッファー・シャック脇の暗がり、酷い臭いがするゴミ溜めの裏で何かが悩ましい喘鳴を上げて蠢いており、ステラが覗き見してヒヒッと笑う。

 海から吹く夜風は一際冷たく、そのおかげでそこらに放置されている生ゴミの臭気はかなり清められていた。浮浪者の集団がドラム缶の焚き火で暖を取っており、彼らを相手に売れ残りを捌こうとしてか、屋台を引くトロールのドーナツマンが不景気な顔で話しかけていた。周囲には流行りのストリートファッションで慎ましく着飾った少年がたむろして、テオドールとステラの二人だけならまた面倒が起きたかも知れないタイミングがあった。ファーストはさほど強面というわけではないが、目配りが鋭い。よほど激しくドラッグをキめた輩でなければ「からかうには面倒臭そうな奴だ」というくらいの見分けはつく。

 それに、レドモンドのバーレン辺りに比べればこの界隈のチンピラは大人しくて上品だ。立ち居振る舞いに気をつけていれば、実際にカタナやプレデターを抜いて見せびらかす羽目にはならない。多分、そう滅多には。

 概して静まりかえった区画で局地的に賑やかな《パープル・ガーデン》というナイトクラブに入り、音楽と野卑な嬌声に浸る。多くの知らない顔と少しばかりの見知った顔を素早く見分け、適当に飲み物とつまみを注文する。

 テオドールはバーテンのジョニィとアーバンブロウルの試合についてお喋りし、仕事上がりの娼婦が擦れ違いざまに下品な冗談を言ってきたので野卑な文句でやりかえした。テオドールの服はストリート調なのかビジネスマン流なのかどっち付かずで、相応しい表情と振る舞いをすれば大体どちらの場面でも“お客さん”でいられるよう誂えている。

 ビールのグラスを半分空けたくらいで、六人組の若い男連れが店に入ってきた。揃って鮮やかな黄色のジャケットを着ており、耳にエメラルドとトパーズを飾ったスタッド・イヤリングが輝く。石は安っぽいイミテーションだが、金色とグリーンのカラーには違いない。つまりシアトル最大手ギャングの一角、《カッターズ》の色だ。早速、女の子や《カッターズ》フォロワーの少年らが群がる。

 テオドールは六人の中に見知った顔が一人いるのを確かめた。メイソンというアジア系ヒューマンの少年だ。彼らが席に着く様子をのんびり見守る。メイソン達は取り巻きの分も飲み物と料理を注文し、甲高い歓声を交えたお喋りで暇を潰し、やがてビールとナッツが届くと大声で乾杯して競い合うように喉へ流し込む。そしてまた賑やかなお喋り。フィッシュ&チップスが届き、それぞれ手を伸ばす。その辺でテオドールは席を立ち、控えめに彼らへ近付いた。フォロワーの一人が突っかかって来たのをファーストにやんわりとあしらって貰い、メイソンへ愛想良く声をかける。

「やあメイソン、それにメイソンのお友達。申し訳ない。楽しんでいるところをお邪魔するよ」

「よう、グレイにステラ――そのニップもお友達?」

「うん。ファーストっての。友達で、手伝って貰ってる」

 テオドールが簡単に紹介すると、ファーストは折り目正しくオジギをする。しっかりとした角度だ。それが礼儀を示していると了解したのか、メイソンやその仲間達は彼に悪い印象を抱かなかったようだった。

 メイソンは仲間達を振り向き、

「みんな、こいつはグレイってんだ。探偵だぜ、探偵」

「探偵ェ? 何しに来たんだよ」

「浮気調査だろ。誰かどっかのオバンとヤったんじゃねーの? オイ、ヤった奴、手ぇ上げろ」

 幸い、メイソン達は機嫌が良さそうだった。テオドールがビールのお代わりを注文すると、もっと機嫌が良くなった。探偵という職業を聞いても警戒より興味のほうを強く持ってくれたようだった。

「んでグレイ、何が聞きたいの?」

「家出した子を探してるんだ。それで、《カッターズ》に最近、こういうコが入らなかったかなと思って」

 テオドールはポケットからサラ嬢の写真を取り出して、そっとメイソン達に見せた。彼らは写真を回し見た後、いずれも「知らない」と答えた。

「この辺のやつ?」

「ん。マーケットにはよく来てたみたいだ。ギャングの彼氏ができたらしいんだけど、どこのギャングかまだ分かってない」

「それじゃあ違うな。この近所の新入りなら分かる。そいつはいない」

 と、メイソンの隣の大柄なオーク青年が答えた。テオドールの気分は落胆半分、安堵半分だった。サラ嬢の関わったギャングが《カッターズ》なら話は早かったが、家に連れ戻す際、彼らと揉める可能性があるのはぞっとしない。

「手助けがいるかい、グレイ」

「見かけたら教えてくれると助かる」

「分かった」

「悪いね」

「どうってことはねえよ」

 軽くメイソン達に酒の肴を提供してテーブルを離れた後、テオドールは《パープル・ガーデン》でもう少し粘ってみた。概ね外れ、人違いが二件、サラ嬢を直接は知らないが同じ学校に通っているというのが一人。ホリィという白人オークの少女だった。パンクのボーイフレンドに引っ付いて夜遊びをしているようだが、危なっかしいほど無邪気な目付きをしていた。彼女本人は世の中――両親とか学校とか――に本心から反抗するつもりはさらさらなく、ちょっとのスリルと珍しい体験が欲しいだけ、という風に見えた。トリッドやシムセンスの中ではなく本物の世界で。

 ホリィはテオドールが《カッターズ》の下っ端と友達面で会話していたことに感銘を受けたらしく、過剰なくらい協力的だった。ボーイフレンドを置き去りにする勢いでテオドールやステラにあれこれ質問し、コムコードを交換し、学校でサラ嬢の噂を調べておくとまで申し出てくれた。確かにありがたいことではあったが、テオドールは彼女が喜ぶような言葉を選びつつ、深入りしないよう釘を刺した。ステラが仕事の話を面白おかしく脚色して話すのを、囁き回線から叱り付けなければならなかった。

 成果が出たら連絡をくれるように約束してホリィと別れ、河岸を変えた。客層と音楽が下品な店を一軒。浮浪者のたまり場を幾つか。夜しか開かない思わせぶりなアクセサリー屋に立ち寄り、スタッファー・シャックの前で安酒を呷っているパンク気取りにも声をかけたが、当たりはなかった。

 薄汚いバーを出て少し歩いたところで、ファーストがちらりと目線を寄越した。テオドールが「何?」と囁くより前に、ステラがそれとない足取りでテオドールの斜め前からファーストの真ん前に歩み出た。三人で並ぶには狭い路地だったから実際何も不自然なことはなかった。ファーストは裾長のコートを着ているので、猫のように小柄なステラは背後からすっぽり隠れて見えただろう。彼女はテオドールを見て唇に指を一本立てて見せると、横道に差し掛かったタイミングでさっとそちらに駆け出していき、足音一つさせなかった。ファーストは何事もないように真っ直ぐ歩き続け、テオドールもそれに倣った。

 足取りを変えず、一区画ばかり歩いたところで、おもむろにファーストが振り向いた――テオドールには、ファーストが止まって振り向いただけにしか見えなかった。

 しかし立ち止まったファーストに視線を向けるとそこには誰も居なくなっており、困惑して後ろを見ると二○メートルほど先にファーストの背中が見えるのだった。つまりテオドールがのろくさ振り向く間にファーストは大股三十歩以上も移動していたということなのだが、一体どういう身のこなしをしたのか、テオドールはさっぱり理解できなかった。

 ファーストが詰め寄っている浮浪者の男には彼の動作が真っ直ぐ見えていたはずだから、後で聞いてみるのも良いかも知れない。

 浮浪者の男は酷く狼狽していて、腰を抜かしそうな様子だった。ファーストはさほど強面ではないが、陰気に落ち窪んだ眼光は夜道で遭遇すると強盗などとは別種の威圧感がある。それがいきなり鼻先に生え出てきたらテオドールも腰を抜かすだろう。

 汚れきった襤褸の浮浪者は小柄なヒューマンだった。ゴミ袋の山に隠れてテオドール達を覗き見ていたのだろう。垢染みた臭いは路地裏の生臭さに溶け込んでしまっている。靴はぼろぼろだが足取りはしっかりしていて、ファーストから跳びすさり、逃げだそうとする動きは意外と機敏だった。

 ただ、逃げるために振り向いたその鼻先にステラがぴたりと張り付いて立っていたものだから、男は今度こそ腰を抜かしてへたりこんでしまった。ステラは悪戯っぽくニコニコ笑って、

「《ハデス》を出た辺りからついてきてたよね? あたしらになんか用?」

 幸い、彼の口を割らせるのに銃やカタナを使う必要はなかった。物陰に連れ込み、ステラがキレたパンクの素振りをして脅かし、テオドールが百新円の支払い保証済みクレッドスティックを添えて優しい声をかければ良かった。腹を減らしていたらしく、チョコレート味のソイバーをオマケにつけると大層喜んでくれた。

 浮浪者は情報屋ケンゲルの手下だと名乗った。テオドールはケンゲルを知っていた。けちな密告屋だ。彼は登録している人間――浮浪者やウェイトレス、売春婦、露天商、とにかく暇を持て余して小銭を欲しがる人間に顔写真のリストを流す。リストに載っている人間の目撃情報を送ると十新円程度、より詳しい動向を知らせれば情報量に応じた報酬が返ってくるのだが、つい一時間前、そのリストにテオドール達三人の顔が載ったという。

 テオドールは浮浪者を放し、ケンゲルよりもっと口の軽い密告屋のカートンに電話した。カートンは誰がテオドール達の情報を気にしていたか知っていた。タコマ区で商売しているシャドウランナー上がりの若いフィクサーで、レックスという名前だった。

 

 

 ファーストと別れ、月極のアパートへ帰り着いた頃には午前二時を回っていた。ステラが上着を着たままソファの後ろに寝転がる──テオドールは彼女とルームシェアをしているが、寝室が一つきりの狭苦しい物件であっても彼女は文句を言わない。どうせ床で寝るからだ。マットレスは柔らかすぎて苦手なのだとステラは言う。流石にリビングで段ボールを敷くのは勘弁して貰っているが、代わりにカーペットの手入れをきちんとしなければいけないので、引っ越しの時は常に掃除機の良い奴を持って歩かないといけない。今使っているのはどんなカーペットでもふかふかに保ってくれる老舗アイロボットの高級品だ。

 ラフな格好に着替えて水のボトルを開け、一服しながらメールの整理をする。表向けのコムリンクには張り込みの交代要員を頼む内容のものが幾つかと、ほったらかしにしていた大規模調査増援の見積依頼を催促するものが一件。シャットダウンして裏向けコムリンクを開き、今回の件の情報提供がないか確かめるが、まだ入っていない。逆に情報を求めるメールが入っていた。こういう特徴のこそ泥を知らないか、という顔馴染みの賞金稼ぎからのものだ。時間がある時に当たっておく旨、返信しておく。

「ねえ、ボス」

 ステラがソファの後ろから声を掛けてくる。「うん?」と背後を見下ろすと、天井を見上げてぱっちり眼を開けた彼女と視線が合う。

「あのサラって子は父親や弟にレイプされてたわけでも、母親に殴られてたわけでもなさそうだったよね」

「そう見えたね」

「学校にも通ってた」

「そうだね」

「ご飯は腹一杯食べてた?」

「痩せちゃあいなかったね」

「小遣いで好きなもの買ってて」

「みたいだね」

「父親と母親のお仕事もご立派」

「うん」

「SINもきちんとした本物、犯罪歴もない」

「うん」

「それでも飛び出したくなるもんなの?」

「なる場合もあるかな」

「ふうん……」

 ステラは想像が及ばないものを想像しようとしていた。テオドールはステラと三年ばかりの付き合いになるが、これまで彼女と一緒に当たった家出人の捜索はまだしもステラが共感できる事情を備えていたもので、今回のようにごく恵まれた家庭で起こった非行というのは初めてだ。ステラから両親や兄弟の話を聞いたことはない。代わりに、寄り集まったストリートチルドレンのろくでもない思い出を冗談めかして聞かされる。荒廃地区で産まれたSINなしの子供達。ネズミに怯えて路上で眠り、日々の糧を賄うものはゴミ漁りと盗みかナイフ、さもなくば性器や尻の穴だ。身を寄せ合って眠る仲間と腐った食べ物を奪い合い、薬中のチンピラに殴られながら使い走りをして、体格が良い男の子は安物拳銃を与えられてギャングの兵隊、捨て駒の弾避けになるが、それすらも羨まれる。女の子の夢は稼ぎの良い売春婦。女衒のパシリになった兄貴分を巡って流血沙汰が起きた話はかなりえぐい内容だったが、ステラはへらへら笑って酒の肴にしていた。ソイバー数本と引き替えに初体験したアナルSEXについても、ステラはビール片手に憚りなく語った。

 テオドールもステラの生い立ちをさほど知っているわけではないが、そうやって生きてきた子供の頃から、テオドールに雇われて探偵助手をやっている現在に至るまで、サラ嬢のような生活環境に縁がなかったのは間違いないのだろう。ステラがサラ嬢を理解するための参考文献は、それこそトリッドやシムセンスの中になってしまう。《サムライ・ストライダー》最新エピソードの、父親と喧嘩して家出した少年のような。

「自由……」

 天井を見上げて黙考していたステラが、ぽつりと単語を吐き出す。いかにも借り物を喉の奥から引っ張り出したような、釈然としない、確信のない声の調子だった。

「ってやつ? お嬢さんは彼女の家にいたら自由がなかった? 少なくとも、欲しいだけのは……なんかそんなフウな話が《フラッシュ》であったよね」

 と、案の定、ステラがホームコメディもののトリッドを引き合いに出してきたので、テオドールは苦笑いをした。

「多分そんな感じだとは思う」

「ボスはどうだった? 家。自由が不満だったりは」

「不満は……なくはなかった気がするけど。まあ許容範囲。家や食事やお小遣いを捨てて飛び出すほどじゃあなかったし、家族も嫌いじゃなかったよ」

「あの子はそうじゃあなかった?」

「そうなるかな。ただ、彼氏や悪い仲間とやらが色々吹き込んだかも知れない。家よりも、そっちが良くなったかも知れない。刺激的なものが欲しくなって、それで……とか」

「ギャングの仲間入りしたって、あの生活より良いモンだとは思えないんだけどな」

「彼女にとってはそうじゃなかった……そうじゃないと一瞬でも思えた。生きてりゃどんな良い暮らししてたって何かしら不満はあるもんだからね」

「そんなもん?」

「柵を跳び越えて知らない場所に飛び出せば、それが今より良い場所だって無条件に想像してしまうことがある。自分を縛るルールを嫌って別の場所に飛び出したら、そこで別の不自由や別の嫌なことがあるだなんて、想像もしないことがあるもんだ。分かるだろ」

「そうかもね……」

 ステラの返事は素っ気なかった。多分、彼女に自由という概念は馴染まないのだろう。彼女が生まれ育ったのは規律や規範のない環境だった。言い換えればそれは自由極まりない場所であり、狭苦しい汚水溜まりの中でなんの縛りもなく、お互い力ずくでどんなことでもできたはずだ。その自由の醜さ、不自由さをステラはよく知っているから、敢えて言葉に表そうとはしないし、自分から求める心理も理解ができないのではないだろうか……

「ボス、お仕事まだやってんの?」

「もうちょっと。別に寝ていいけど」

「そうする」

 ステラは床に転がったまま、顔をソファの土台に押しつけるようにして顔を伏せた。

 すぐに寝息が聞こえてきた。

 

 

 翌朝早く、テオドールとステラはバスを乗り継いでサウスレイクユニオンで降りた。バス停では精緻なエルフの姫君を象った石像が歓迎してくれた。エルヴン・ディストリクトの風景には街灯が乏しくて街路樹が多く、ARをオフにすれば広告や看板の類が驚くほど少ない。木や石で立てられた家々が並ぶ様などは、幹線道路から目を逸らせば別の時代に迷い込んでしまったかのようだ──とはいえ、シティバイクを手荒に漕いで学校に向かう子供やジョギング中の肥満主婦らの卑近さでは変わりない。ただエルフとドワーフがメインというだけだ。

 しばらく歩いてホームズの自動車修理工場にたどり着いたのが午前八時半。まだ営業時間外であったけれども、声を掛けてみるとインターフェース越しにホームズの嗄れ声が「入れ」と勧めてきた。開きっぱなしのシャッターから中を覗いてみると、ホームズは古いヤマハのバイクを分解しており、ちょうど七五○ccエンジンを取り外すところだった。ホームズの身長はテオドールの腹の辺りまでしかないのだが、肩や胸板の太さはテオドールの倍以上ある。オイル塗れの太い指が一抱えほどの水素燃料エンジンをがっちりと把握し、持ち上げ、危なげなく近くの作業台に据える一連の様を、テオドールとステラは黙って見守った。その機種のエンジンは約七〇キログラムの重量があるはずだが、彼にはさしたることもないようだ。解剖学的見地によれば、ドワーフの小さな体に詰め込まれている筋肉の密度は大型爬虫類に匹敵する。

 こちらに構わず、ホームズの節くれ立った指が器用にエンジンを弄くり回す。テオドールは彼が作業に区切りをつけるまで行儀良くしていなければならなかった。ドワーフのテックは偏屈で強情なものと相場が決まっている。機嫌を損ねないことが第一だ。

 眼鏡越しに視覚化したマトリックスでニュースをぼんやり漁っていると、やがてホームズが油塗れの手をエンジンから離して振り向いた。時計を見ると十分ほど経っていた。四角い顎の形に添って豊かな髭をきっちり刈り込んだドワーフの顔は、どこに触れても岩のように硬いか、針のようにちくちくと突き刺さるか、どちらかであるに違いない。

 テオドールとステラは改まって挨拶をした。

「おはよう、ホームズ」

「おはようございマス」

「おう……出来てるぞ」

 ホームズはそう言うと隅の蛇口に向かって念入りに手を洗い、真新しいタオルで手を拭き、それから工場の裏に停めてある車の列にテオドールを案内した。居並ぶ車はどれもブルーシートで覆われていて、テオドールもどれが自分の車か分からない。

 ホームズが一台の前で立ち止まり、シートを取る。この屈強なドワーフ男が酷い顰めっ面のまま、猫でも撫でるような優しい手つきでシートを剥ぎ取っていく様はいつ見ても可笑しいのだが、うっかり吹きだしたら叩き殺されかねないので頬を噛んで堪えた。シートから出てきたセダンはシアトル住人の大半が馴染み深いフォード・アメリカーだ。マーカス・ブラックの愛車でもある。口さがない連中に言わせれば、この世で最も退屈な車。テオドールは満更悪くないと思っている。出勤や学校の送り迎え時間帯、ダウンタウンの道を同じ車が無数に行き交うのだから、場所と時間を狙うだけでなんの苦労もなくニンジャになれるという寸法。カラーは以前まで赤だったが、この機会に青で塗り直して貰った。

 セダンを改める。バンパーのへこみと、ドアの穴が綺麗に直っていた。運転席に腰掛けて軽くエンジンを回し、システムチェックを走らせ、全て問題ないことを確かめる。「いいね」テオドールは頷き、ホームズに二千新円の支払い保証済みクレッドスティックを手渡す。仏頂面のドワーフはスティックの金額を確かめて頷くと、御愛想も言わずに車止めを外し、さっさと踵を返してしまった。テオドールもステラも強いて声はかけないが、そのまま黙って見送りをした。

 ホームズが工場の中へ引っ込んでから、二人はようやくセダンに乗り込んだ。テオドールはコムリンク経由で眼鏡にセンサー情報を投影し、運転を半自動モードに設定、工場の駐車場からスムーズに滑り出す。

 工場から離れたところでステラが「あー」と呻き、後部座席で体を投げ出した。

「ボスって、あのおっちゃんとどうやって友達になったの」

「ん、前の所長の時からの付き合いで。お行儀良くしてれば悪い人じゃないよ」

「あたし、前に『女が先を歩くな』とか言われてブン殴られたけど」

「うん、まあ……」

「ナニ時代のノリよ、ありゃあ……ヘンなシムチップやってんじゃないよね」

「口は堅いんだ」

「ヤワい方が驚きだよ」

 

 ドーナツを買い込んで自動運転の車内で朝食を摂っていると、昨晩メールを投げておいたナイト・エラントの知人から返事があった。添付ファイルにサラ嬢のボーイフレンドと思しき少年の画像があった。

 シアトルの警察企業は市民から一般的に想像されているよりもずっと勤勉で優秀だ。彼らの監視システムは緻密に仕上がっており、正しく運用すればシアトルの犯罪は一割以下に減るだろう──実際は同業他社の主導権争いとモザイク状の治外法権区域に足を引っ張られ、彼らはしばしば事件を取り零す。折角の監視システムもがんじがらめの法的手続きに忙殺されて融通が効かず、杓子定規な契約至上主義、ロボット的なルール遵守に席巻されてあるべき機能を果たしているとは言い難い。流石にサラ嬢の現在の居場所が分かっていたらエファーソン氏へ知らせていただろうが、過去の居場所しか掴んでいないのだったら、彼らは捜査上の機密として情報を握り込んでしまう。そしてより優先度の高い事件が飛び込んできてほったらかしになり、死蔵される(彼らは人手不足も深刻だ)。テオドールはこの懸念を突ついてみたのだった。

 返事のメールに添付された幾つかの画像や動画には、パンクな身なりのエルフ少年と腕を組んでいるサラ嬢の姿が写っていた。パイクプレイスマーケットの防犯カメラで記録されていたものだ。繁華街をはじめ幾つかの場所、幾つかの日時で捉えられている。かなり鮮明に顔が見えるものもあった。

「マッポはこれだからなあ」

 ステラは馬鹿らしげにぼやくのだが、テオドールはこの点でナイト・エラントを批判するつもりはない。シアトルで毎日どれだけの凶悪犯罪が発生しているかを考えれば無理もないことだ。それに自分の食い扶持をもたらしてもくれる。こうやって快く努力の結晶を譲渡してくれる以上、彼らも折角の情報は然るべき人間が活用するべきだと思っているのだろう。そこに新円のやりとりが少々発生するのは、これはもう致し方ない。

 テオドールは幾つかの連絡先に件のエルフ少年の顔画像を流し、再びパイクプレイスマーケットに向かった。駐車場に車を停めて視界右上の時間を確かめると09:54。ナイト・エラントが捉えたカメラ写真を元にサラ嬢とエルフ少年のデートコースを推察し、手分けして聞き込みをする。昨夜の空振りが嘘のように、ステラがあっさり当たりを引いた。ちゃらけたカフェの店員が二人のことを覚えており、ステラは事情を話し、キスと小銭を支払って精算履歴をコピーさせて貰った。流石にデートで無記名の支払い保証済みクレッドスティックを使うような真似はしなかったらしく、サラ嬢の彼氏には《ライアン・ブレナン》という一応のタグがついた。この名前はナイト・エラントの知人に流しておく。だが、ナイト・エラント管轄地区の人間ではないだろう。そうだったらとっくに名前は分かっていたはずだ。偽造SINということもありうる。ナイト・エラントが本格的に捜査を始めなければ追加の情報は望み薄だが、そうなったらなったでテオドールはお払い箱になる可能性が高いので悩ましいところだった。

 さて。もしライアン・ブレナン少年が偽造SINで名前を偽っているとして、このタグが全く役に立たないかといえばそうでもない。偽造SINは高価だし、顔や体は名前ほど簡単に変えられないので、ある程度の期間は使い回すことになる。彼が《ライアン・ブレナン》である間の行動範囲は分かるはずだ。テオドールは昨晩、アルフレッドという懇意のデッカーに相談し、別口の仕事中だが少しなら時間を割けるという返事を貰っていたので、早速ライアン少年の名前と画像を送信しておいた。

 フィクサーのポール・スタチューが今日中に捕まるか心配だったが、昼前に返事があって近くの海鮮レストランでランチを一緒することになり、しばらくぶりで彼の鉄面皮と対面しつつ魚料理を楽しむことになった。過去にショットガンで潰された彼の顔は旧型のサイバースカルに置換されており、表情が動かせない。顎の稼働域も小さいから彼の食事はゆっくりとしている。再建された彼の顔は四十絡みの白人ヒューマンだが、指先を見るともう少し年嵩であろうことが分かる。

 テオドールは彼と差し向かいで、ステラは入り口近くの別テーブルで大きなロブスターと格闘して貰うことにする。ポールのボディガードもどこか別の場所にいるだろう。

「君が気にしているレックスという男な。鉄心会のサトウ夫人に取り入ってる若い奴だ。ちょっと幅は効かせてるが、新顔だな」

 切り分けた海老の破片をちょっとずつ口に運ぶ合間に、ポール・スタチューはテオドールの質問に答えてくれた。

「良いチクリ屋を持ってないみたいだったけど、フィクサーの癖に友達少ない?」

「シアトルではな」

「というと、よそもの?」

「だろうとは思う。東海岸かどこか、レックスを踏み台にして商売してるやつがいるようだ」

「レックスはランナー上がりって話だっけ……そっちの繋がりかな」

「確証はないが、恐らくそうだろうと考えている」

「レックス君自身の商売の評判はどんなもんかな。どんな仕事を回してる?」

「良く言えば人材発掘だ。シャドウランナーの志望者を拾い、銃を与え、訓練し、相応しい仕事をあてがう」

「悪く言えば?」

「ゴミどもにプレデターを買い与え、ヤクザの使いっ走りをさせて上前をはねている。その気にさせて使い捨てる手際はまあまあだ。サトウ夫人は良い仕事を回してやっているし、上手くバックアップするやつもいるようだ」

「なるほどね……現役の頃はどういうポジションだったか分かる? レックス君」

「さてな、彼のチームの仕事を知らないのでどうにも言えないが」

「が?」

「筋肉担当ではなかっただろう、という話だ」

 他に幾つか必要な話や、仕事の話や、直近の雑談をとっくりと交わした。

 店を出た後、アルフレッドから返事があった。ライアン・ブレナン名義の駐車場支払い記録から彼の車を特定し、スタッファー・シャックやハンバーガー店の支払い記録などを漁ったところ、ライアン少年の代わりに《トニー・アボット》という人物が会計をしていることが少なからずあった。アボット氏はライアン少年と同年代のエルフ男性だが、不思議なことにカメラの映像で二人が並んで映っている場面は皆無だった。偽造SINの使い分けで横着をするという、とてもありがちな失敗だ。テオドールは《ライアン・ブレナン》の名札に《トニー・アボット》の名前を書き加えた。

 アルフレッドはライアン少年改めトニー少年のSINによる支払い記録を幾つか割り出していた。その多くがタコマ区の店舗だった。


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