あくる日の王宮で、アルビレオがいつもどおり政務を行うために部屋へ向かう途中、先を歩くハジメとアリカを見かけた。だがその光景に軽く違和感を覚える。
ひとまず声をかけようかと、歩を早めるとアルビレオは違和感の正体に気づく。いつもと同じように並び歩いているのだが、その二人の間の距離感がいつもと違う。どこかよそよそしいような、だがそれも違う。
――これは何かある
天性の悪戯好きの血が騒いだアルビレオは歩を緩めて観察に徹することにした。
決して気づかれないように。されど決定的な瞬間を見逃さないように。ただ、その姿は英雄とはかけ離れたものであった。
前を歩くハジメは後ろからでも分かるほど挙動がぶれていた。普段の冷徹さは何処へ行ったのか。
そうして視線が若干泳ぎながら、訥々とアリカに対して口を開く。
「その、何だ……大丈夫か?」
「へぁっ……う、うむ。大丈夫じゃ。支障ない」
ハジメが発した言葉の意味を理解した瞬間に耳まで赤くしたアリカも、どもりながらそう返す。
「なら、いい」
そのまま会話も続かずに、緩慢と歩を進めていく二人の姿はいつもと違う雰囲気をかもし出していた。
それは、いつもの距離感とは少し違う。だが、離れているといったイメージは見た目からは浮かばない。
つまりはより仲は深まったのだが、そのために距離感が未だに定まっていないだけというのが真相であった。
そんな光景からそう思い至ったアルビレオは、自身の顔に笑みが浮かぶのを自覚した。そして、そのままに二人へと近づく。
「おや、二人とも昨晩はお楽しみだったようで――」
喜色満面の笑みでアリカの横から、アルビレオは開口一番で言葉を発した。
しかし、その言葉を言い切ることは出来なかった。
アルビレオが言い切る前にその声色から何を言われるのか理解したのだろう、頬に朱が差しているアリカが振り向き様にその顔面へと拳をめり込ませ、その勢いのままに廊下の壁へと磔にしたのだった。
突然の出来事と後姿からでも感じるその威圧感に、呆然としていたハジメは恐る恐るといった感じに声をかける。
「……アリ――」
「さて、今日も頑張るとするかの」
そう振り返ったアリカは、いつもより穏やかな笑みを浮かべていた。
「……そうだな」
最早何も言うまいと、ハジメもこれに同意し政務室へと向かう。そんな二人の間はいつもより近い距離で落ち着いていた。
そしてある意味で立役者である、その場に磔にされ取り残されたアルビレオ。
ハジメに護衛されているからといって、アリカ自身弱いわけではないということを忘れて調子に乗った自業自得の結末であった。
王宮内での仲睦まじい様が噂になるほどには平和な時が進むなか、魔法世界の変革も進んでいく。
王制では行き届かなかった効率の悪い政などは連合へと委譲され、それはまた、帝国から進出している者たちと共に進められる。
これらは連合や帝国、アリアドネー各地でも同様に行われ、魔法世界全体の交流は見事というまでに順調だった。
アリカがオスティアに縛られる必要もなくなり、代わりに世界中へと渡航する機械が大いに増えた。
先の大戦の中で、アリカは間違いなく英雄たちの旗本であったのだから大戦後の扱いはそれに見合うものとなるのは当然の話である。
そして、オスティアは独立した王国から魔法世界での中心となる都市としての機能を持つ世界都市へと変わる。それは国と言う小さい枠組みを超えたものだった。
魔法世界の経済や物流などの中心となるこの場所には、各国の重鎮である為政者の移住が決まり、これに伴ってオスティア王国の制度は大きい変化がもたらされた。
その変化に反発が起きるかと思いきや、それらが起こる事は無かった。魔法世界全体へと説明されている目的は既に明確であり、国民たちも納得済みであったからだ。
生活が困窮するわけでもなく、政治が急変するわけでもない。むしろ、今までよりも政治に関われるようになったのだから文句が出るはずも無かった。
アリカから総督になるクルトへと、政務するものが移り変わる瞬間は短いながらも国民へと流された。
オスティアから国や王制といっわ枠組みをを取っ払ったアリカたちは、クルトたちとかかわりながらも表舞台から立ち去り、クルトたち新しい世代が政治の表舞台へと駆け上がっていく。
そしてある意味でオスティアの民が待ち望んでいた吉報が訪れることになる。
「あまり顔色が優れんようだが?」
朝からうすうすと感じ取っていたアリカの不調。午前の執務が終わりを迎えても一向に回復しないことから、とうとうハジメはそう切り出した。
「うむ、実はな。……ばれておったか?」
「当たり前だ、まったく」
照れ隠しに浮かべた笑みを見たハジメは、呆れたようにため息をつく。
そして、近くにいた秘書にアリカを医務室へと連れて行くように頼んだ。
「さっさと行って来い」
「すまぬな。言葉に甘えるとしよう」
アリカ自身も体の不調から素直に秘書を連れて医務室へと赴いた。
医務室に入ると、係り付けの医師がアリカを診察する。カルテへと記述しながら問診を始める。そして、なにか気づいたような表情を浮かべた後、朗らかに微笑みながら、
「最近、月のものは来ましたか?アリカ様」
「いや、しばらくは来てないか……の」
「そうですか」
カルテに記入し終えた医師は、笑みを浮かべて診断結果を述べた。
「おめでとうございます。ご懐妊ですよ」
医師の言葉にアリカは暫し呆然としていた。
「ほ、本当ですか!?」
思わず傍らにいた秘書のほうが驚きを示し、アリカも医師の言葉に理解が追いつく。
「そ、それは真か?」
「はい、二ヶ月目といったところでしょうか」
「そ、そうか……そうか」
優しい瞳でおなかの辺りを撫でるアリカは、実感がいまだもてないながらも嬉しそうに微笑むのであった。
「……懐妊?」
「うむ」
医務室に連れて行ったはずの秘書が慌てた様子で呼びにきたことから、急いで医務室に訪れたハジメが聴かされた言葉はアリカの懐妊と言うことだった。
「ほ、本当か?……動いていて大丈夫なのか?」
壊れ物を扱うように優しく肩に触れるハジメ。そんないつもとは全然違う様子に、思わずアリカは噴出してしまう。
「ふふ。そうじゃな。安定期に入るまでは安静にとのことじゃ」
「そうですね。母体も健康ですししばらくは様子を見てという形になります」
医師の言葉に、ハジメは数瞬考える素振りを見せた後。
「なら、部屋に帰っておけ。いや、環境を整えたほうがいいのか?」
額に手をやりながら、再び何か考え事をして呟き始めるハジメ。その様はまさしく慌てているといった表現がしっくりくる。
「しかし……そうか。俺たちの子か」
「そうじゃな」
「なかなか実感が無いものだな」
「妾もじゃ」
二人は見つめあい、共に笑う。
「お主が父親になるのじゃな。ハジメ」
「お前は母親になるな。アリカ」
二人は近い未来を夢想し、微笑みあうのであった。
アリカ王女の懐妊。この一報はすぐさまオスティア全土に広まり、街はすぐさまお祭り騒ぎとなった。それだけ、アリカに対して信頼と畏敬の念を抱いていると言うことなのだろう。
「おめでとうございます」
王宮へと訪れ、そう祝福の言葉を述べたのは今や世界都市の運営の一端を任されているクルトだった。
「忙しい最中であろうに。直接来なくても良いのじゃぞ?まだ産まれたわけでも無い」
「ああ。俺たちが言うのもなんだが、お前は政治の中核だろうに」
来てくれたことは嬉しいが、クルトの立場その重要性を何よりも知る二人だからこそ、そういった心配の声が出てくる。
「いえ。こうしてお二人に直接お祝いを述べたかったものですから」
時間を作るのには苦労しましたけど、とそう笑みを浮かべたクルトに目元には隈が見える。この時間を捻出するために相当な労力を費やしたことが察せられる。
クルトにとって目の前の二人は憧れ、尊敬などといったものでは表現しきれないものを抱いている。だからこそ、それだけの労力はいとわない。
「あまり無理はするなよ?」
「ハジメさんからそういう言葉をいただけるとは思いませんでした」
「ふん。他人に管理される阿呆のままで無いなら結構だ」
「はい」
クルトの返事にその場全員が笑みを浮かべるのだった。
そうして暫しの歓談を楽しんだ後、クルトは改めて祝いの言葉を述べて退出し、政務に戻るのであった。
「あの様子なら大丈夫そうだな」
「うむ。お主が認めただけの事はある」
アリカの言葉にハジメの動きが止まった。
「いつそんな事を言った?」
「マクギルが言っておったぞ。随分目にかけていたようじゃな」
ハジメは聞こえないように舌打ちをして余計なことを言ったマクギルには相応のことをすることを決める。
「まぁ、曲がりなりにもマクギルの教え子だ」
「うむうむ。そうじゃな」
笑みを絶やさないアリカに対して、認識を改められないと悟ったハジメはため息を一つ吐くのだった。
そして数ヶ月のときが過ぎ、アリカは無事女児を出産した。
多方面から沢山の祝儀が送られ、そのお返しなどに一時騒然としていた王宮も今は落ち着きを取り戻していた。
そのような中、父でありながらも忙しさから顔を出せていなかったハジメも時間がとれ、アリカと娘のところへと赴いていた。
「ふふ。大変だったようじゃの」
寝ている娘を抱きながら、ハジメに微笑みかけるアリカ。
「まぁ、折込済みだったんだが……少々想定以上だったな」
若干疲れた様子で息を一つ。文字通り世界中からの祝儀が舞い込んだのだ。物品と差出人の確認だけでも大変だが、足を運んでくるものも当然出てくるわけで。
ある意味ではクルトが来るタイミングが一番だったのかもしれない。出産の祝儀にも来たが、プライベートとしては懐妊時のほうが良かっただろう。
アリカへの負担を最小限にするために奔走したハジメも少々疲れが出たようだ。
「しかし……こいつが俺たちの子か」
そういって指先をその頬を掠めさせる。それだけで感じ取れる体温と柔らかさ。不思議と表情も和らぐ。
「抱いてみよ」
ハジメの顔を見たアリカはそう提案して起こさないように、そっと持ち上げる。
ハジメは頷いて腕を出す。
「そんな、緊張せんでもよかろうに」
傍目からは感じ取れながったが、アリカはそういいながら笑みを浮かべてハジメの腕へと移した。
そっと抱き上げて、ぐずることも無く寝続けるその顔を見て、そしてその重さを感じてハジメはただ呟いた。
「軽いが……重いな」
「……それが命と言うものなのじゃろうな」
暫しの静寂。心地よい空間の中、ハジメは口を開く。
「……名を考えていた」
赤子を抱きながらそう切り出す。
「何と考えておったのじゃ?」
「メア」
「メア…か。良い名じゃ」
こうして二人に一人加わった家族としてのひとときを過ごすのだった。
祝儀が来る中に関西呪術協会もその名を連ねていた。
要は詠春からも当然祝儀がきたというわけだが、それには手紙も同封されていた。手紙には詠春の妻である春香も子を宿し、近々出産の予定であるという旨が書かれていた。
アリカはこれを、目を細めてとても嬉しそうに読んでいた。
どうやら先の旅行の中で春香との仲は相応によくなっていたらしい。
「予定では来年の3月とある。ぎりぎりじゃがメアとは同級生になれるの」
「ふむ。今度時間があれば行くか?」
アリカの言葉に、ハジメがそう提案する。
「それは良い。楽しみにしておこう」
「まぁ、しばらくはメアの相手をしておけ」
自身の名だと認識しているのか、アリカの傍らにいたメアが呼ばれたと思い、あーと返事のように声を発していた。
そんなメアをアリカとハジメは微笑を浮かべて見守っていた。
そうしてメアが生まれて半年が経ったころ、ガトーたちがアリカ達の下へと立ち寄っていた。
「随分久しく感じるの」
「まぁ一年以上経っていますから」
懐かしそうに声をかけたアリカにガトーが苦笑気味に答える。
アリカ達が京都から帰った後もしばらくは滞在していたようだが、エヴァとナギが出立し、それに続くようにガトーたちも京都を出たと言う。
そこから一年は旧世界を回っていたらしく、つい先日メアが生まれたことを知ったらしい。
ちなみにラカンは途中で分かれたそうだ。
というのもアスナを狙うような組織は旧世界には既に無く。魔法世界も交流が盛んに行われている中で、そのような行動に出るものも姫御子を知るものもいない。
そんな中であの放浪者がいつまでも束縛されることを許しているはずも無かったと言うことだ。
「アスナも久しぶりじゃな」
「うん。久しぶり」
そう返すアスナだったが、視線はずっとメアに釘付けのままである。ベッドに寝かされているメアは不思議そうにアスナを見上げた、声を発したり手を動かしている。
好奇心に動かされたのだろう。アスナはそっとメアの手に触れた。
そして、その小ささに感動したのか幾度も触れたり僅かに握ったりを繰り返す。それに応えるかのようにメアも声を発している。
そんな二人を微笑ましげに見守るその他大勢にアスナが気がつくのはしばらく後のことだった。
「さて、ここに簡易の儀式魔法が二つある」
幾つかある執務室の一つにハジメとアルビレオ、ガトーが集っていた。用件は一つ。アスナのことである。
アルビレオとガトーは、言われた二つの儀式魔法を見る。正方形の羊皮紙に描かれた術式が表す意味を二人とも正しく認識する。
「こっちは分かるが、もう片方は見たことが無いな」
「こちらは、一般的な魔法を儀式化したものです。こちらは……っ」
何かに気づいたアルビレオは思わずといった風にハジメを見る。
ハジメは静かに頷くと、続きを切り出した。
「言ったとおり、一方は初級の魔法だ。そして、もう一方は
「はぁ?」
その説明にガトーが間抜けな声を出す。
「おいおい、いろいろちょっと待てよ」
ちょっと整理させろと額に指を置いたガトーはうんうんと唸りながら、考えをまとめる。
「つまりはあれか?普通の魔法とは違うということか?」
「半分正解で半分はずれだな」
ガトーの応えに、そう返したハジメは説明を続ける。
「以前、儀式ならば魔法自体は発動したと言うことは話したな?」
「ええ。たしか効果が見られなかったんですよね?」
「ああ、発動したと同時にその魔法は無効化された」
「発動しても、同時に無効化されるんじゃなぁ」
ガトーが顔をしかめながら髪を乱暴に掻く。ここ一年共に旅をして思い出されるのは、そういった現場ばかりであった。
だが、その光景の一つに報告すべきものがあったことを思い出す。
「そういえば……嬢ちゃん。いつの間にか咸卦法を覚えてやがった」
タカミチの修行の最中、それを行使したアスナを見て驚いたことは記憶に新しい。
「やはり……か」
ガトーの報告を聞いたハジメは一人頷く。
「何がだ?」
「黄昏の姫御子の
「範囲……ですか?」
ハジメの言葉を反芻するように呟くアルビレオ。その目はいつもと違う色を宿している。
「あぁ。もともとこの世界は何だ?」
「は?」
「この世界ですか?」
ハジメの質問に、突拍子の無さを感じ、肩透かしを食らったかのような二人。
「魔法世界ですが……あぁ、なるほど。だから範囲」
「あぁ?どういうことだ?」
「この世界の土台そのものが魔法だ」
――そして、それを作り出したのは誰だ?
ハジメの問いにガトーも理解し始める。
だからこそ、アスナの魔法無効化その能力の範囲にハジメは意識を向けた。なぜならば、それが無作為に自身にかかるものならばこの世界自体が存在し得ない。
「
それは、造物主の力そのもの。その片鱗なのだろう。ハジメは少なくともそう仮定した。
魔力であれ、能力であれ、造物主の力が受け継がれているのならば。
普通の魔法は意味を成さず。ゆえに魔法無効化。
この見解になるほどと納得する二人。
「だからこの儀式魔法なのですね?」
アルビレオは視線を再び羊皮紙に移す。その二つは似て非なるもの。一つは世界を終わらせる者が行使する。
「もし、これで効果が出るならば」
「希望が見えてくるってことだな」
ハジメの言葉に続くようにガトーは笑みを浮かべるのだった。
そして、アスナを呼び儀式魔法を発動させる。
一つは発動に留まったが、もう一つは。
「これは……」
ガトーが呆然としている視線の先。そこには結界を発動させているアスナの姿があった。
「成功……だな」
その結果に煙草を咥えようとしてやめたのを思い出し、宙ぶらりんになった手をポケットに納めて視線をアスナに向けた。
当のアスナは不思議そうに結界を見る。
「魔法……使えてる?」
「少々特殊な、が付くがな」
不意に結界が消える。あ、と残念そうに声が聞こえる。
「この程度で十分だろう」
ふうと一つ息をつくハジメ。これで目処がたったな。そう考えていると、近くに寄ってきたアスナが羊皮紙を掴む。
「何だ?」
「私も魔法使える?」
使えるはず無かろう。そう答えようとしたハジメは窮する。その理由はあまりにも初歩的な検討事案。
「……やってみろ」
そうして渡したのは、
違いなど分からぬアスナはそれを疑いなく受け取り、それを行使した。
「私にも使えるんだ」
結界は発動した。それが意味するものは。ハジメのこめかみを一筋の汗がつたう。
本人はハジメが何かしたものだとばかり思っているだろう。だが、それは違う。なぜならそれは、変哲も無い儀式魔法。
今までは効果を得ることばかりに注視していたからこそ気づかなかった盲点。
行使する者としてならば、使えると言う矛盾。範囲は影響を与える自分自身の延長線上なのか。
これは要検討だなとハジメは内心で、この件に関して整理再構築を図る。
どのような魔法ならば使えるのか。さまざまな検討案が浮かぶ。
いずれにしても、今回発覚した事は十二分にアスナの一件を解決するに足る判断材料であることは違いなかった。
「無愛想娘にかけられた不老の魔法も2,3年もすれば解けるだろう。それまでに何とかしておく」
「それだと姫様と同じか?」
「……そうなるかもしれんな」
アスナの外見からそうなる可能性は否めない。
「嬢ちゃんが今後どうするかにもよるか」
忘れてくれと、髪を掻く。ガトーとしては、平穏を、ただのアスナとして生きるのならば、それは不都合なのか、それでも良しとするのか答えを今出すことは躊躇われた。
「それじゃぁな。儀式魔法に関してはこっちでもやっておく」
「あぁ。頼んだ」
そして、数年後の今日。ついにその日は訪れる。
「アスナ。これからお前の記憶を封印する」
王宮の地下にある一室。ここでは昔から魔法に関する研究が行われており、儀式魔法を使う環境が整えられていた。
ここにいるのはハジメとアリカ。アスナ、ガトー、アルビレオの5人だけ。
「これは、記憶が消されるというものではない」
だが、覚えていられるわけでもない。アスナの記憶と共に力も抽出できるならばそれが最善だった。
しかし、それは出来なかった。その力はアスナを形作るひとつであり、取り除くということは土台無理な話。
だからこその封印。力は記憶と共に封印される。それでも、思い出の残滓が心に残るように。だが、それ以外は全て……。
「貴様はただのアスナとして生まれ変わる。そうしてまた、新しく俺たちとの関係を築くだけだ」
それは即ち、今までを生きてきたアスナにとっての死。
だからだろう、ハジメは静かに別れの言葉を発した。アリカは既にその瞳に涙をためていた。
「今日で貴様とはお別れだな」
「アスナ……っ」
アスナもそのことは分かっていた。瞳を潤ませながらも、真剣な眼差しでハジメたちを見る。
「……やっぱり、寂しいし怖いよ。でも、新しく始めないとだめだってことも分かってる」
――だから、ばいばい。それと、これからよろしくね
そう笑顔で別れを。そして、再び出会うであろう自身ではないアスナとのことを述べた。そして、アスナは自らを縛る封印の儀式を発動させた。
記憶と力の封印はつつがなく終わりを迎えた。そこにいるのはガトーとハジメただ二人だけである。
「目覚めたらもう嬢ちゃんじゃないのか?」
「今まで接してきた無愛想娘と言う話なら、最早会うことも叶わないだろう」
封印が解かれれば別だが、それは誰も望みはしない。
「だが……根幹は変わらんさ。それは一番長く付き合った貴様が良く知っているだろう」
アスナの傍らに長くいたのは誰か。それは紛れも無くガトーである。
ガトーが旅で知ったのは、その辺りにいる子供と同じようにはしゃぐアスナの姿。それはきっとアスナ自身が望んだ姿。
「……そうだな」
思いをはせるガトーの目元は若干赤い。
「俺たちは前話し合ったとおり、麻帆良を拠点にする」
「ああ。あそこならば、心配も無かろう」
魔法世界では何がきっかけで封印がもれるか分からない。だが、魔法から外れすぎた地ではガトーが支障をきたしてしまう。
そういう意味合いで麻帆良という土地は、よき条件を兼ね揃えている土地であったのだ。加えて日本という土地柄と関西呪術協会が近いと言うのも心情的には丁度良い。
「ではな」
「ああ」
こうしてガトーはタカミチとアスナを養子に迎え、麻帆良での生活を始めることとなる。
そして、一つの懸案を終えたハジメは人知れず大きく息を吐くのだった。
幾許かのときが過ぎ、麻帆良。
来客を告げる呼び鈴がリビングに響きわたる。私がお世話になっている叔父さんの知り合いが来ると聞いていたからきっとそれだろう。
「私が出てくるね」
叔父さんが笑みを浮かべて頷くと同時に立ち上がり、玄関へと向かう。
いつも開け慣れている玄関の扉を開ける。そこには初めて見るはずなのに、どこか懐かしさを、親近感を覚える二人の男女と自分と同じくらいの女の子。
「はじめまして。明日菜ちゃん」
とても綺麗な金髪を風になびかせていた女性が微笑みながら自分の名を呼ぶ。
不思議とその声は懐かしく、自らの名が呼ばれたことをとても嬉しく思えた。
感想・誤字脱字等ありましたら報告お願いします