虹の軌跡Ⅱ Prism of 《ARCUS》   作:テッチー

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第97話 東部巡回➂ ~静かな湖畔の森の影から

 波が打ち寄せては引き、引いては打ち寄せる。普段は心が落ち着く音なのだが、風が強いのか、今日のエベル湖は少々荒れ模様のようだった。

 リィンはレグラム巡回の担当だ。もちろんタイミングが合えば、他の地区の巡回にも参加する予定だが。

 一通り町を回り終えて、宿酒場《アプリコーゼ》で昼休憩を取っている最中である。

「じゃあこのB定食で」

 店主のウェイバーにオーダーを告げて、リィンはメニュー表を脇に置く。

 レグラムに大きな問題はなかった。

 アルゼイド流の門下生たちが交代で近隣の見回りや、街道の魔獣駆除を実施してくれている。

 《光の剣匠》のお膝元ということもあってか、元々この町には領邦軍が駐在していないから、付随しがちなトラブルも起きない。

 鉄道規制による流通の不便はあるそうだが、それも徐々に復旧し始めているという。

「………」

 問題、というなら、自分の問題の方が大きいのかもしれない。

 エマからはちゃんと答えを返すためには、悩むことが大切だと言われた。どう悩めばいいかもわからないのが悩ましい……。

「……リィン」

 その声に心臓が跳ね上がる。

 はっと顔を上げると、向かいにラウラが立っていた。

「相席かまわないか?」

「あ、ああ。どうぞ」

 椅子に腰かけ、ラウラはわずかにうつむき加減だ。気まずい沈黙が流れる。今日までの人生の中で、これほど誰かに声をかけづらい局面は初めてだった。

「ラウラもレグラム巡回に来ていたんだな。当然と言えば当然だけど」

 間を持たすために、どうにかリィンから口を開く。声は上ずっていた。

「みんな落ち着いているようで良かった。クロスベルの光る大樹のこともそれほど気にした様子は――」

「先日のこと、驚かせてすまなかった」

 真正面から踏み込まれる。もはやそらせる話題などなく、リィンは小さなうなずきを返答にした。

「まあ、しかし本心だ。改めて言うと……うむ、照れるが」

 みるみると顔が赤くなっていく。

「ラウラ、俺は……」

「まだ返答は良いと言った。正直に言えば、私自身もどんな答えを望んでいるのかわからない。そなただって混乱していると思うし、事情があって急くつもりもない」

「事情?」

「あ、いや。気にするな。つまり、その……私が言いたいのは、変に意識しないでくれると助かるという話だ」

「それは……無理だ」

「そ、そうか。そうだろうな。すまない」

 申し訳なさそうに、ラウラはしゅんと身をすくめた。

「違う。ラウラが悪いわけじゃなくて、これは俺の問題だ。狼狽しているのが本音だが、ちゃんと自分の気持ちを見定めたいと思う」

「なんとも生真面目というか……そなたらしいと言うか。うん、でもそういうところが良いのだ」

「ま、待ってくれ」

「む……? 打ち明けて気が楽になったせいか、考え無しに言葉が出るな。気を付けよう。だが、そなたも同じようなものだからな? 時も場所も選ばず、歯の浮くセリフを無自覚に乱発していたのだぞ」

「そうだったのか……」

「たまには食らうがいい」

 いたずらっぽく笑うと、ラウラは席を立った。

「食べて行かないのか?」

「先約がある。そなたの姿が見えたから追って来ただけだ。では失礼する」

 どことなく吹っ切れたような印象を受けた。彼女も彼女で悩んだりしたのだろうか。

 ラウラが店を出て間もなく、頼んでいたBセットが届いた。

「ちっ」

 舌打ちと共に、無造作に料理が卓上に置かれる。トレーの中の皿が傾き、スープが飛び散った。ボリュームのあるステーキ定食だ。昼から大盤振る舞いではあったが。

「え、えっと」

 流し目を残して、ウェイバーに背を向けられる。すさまじい接客態度だ。鬼の形相をしていた。

「すみません。ナイフとかフォークがないんですけど……」

「手で食え」

 大きなステーキ肉がジュウウと熱を発していた。「これを手づかみ……!?」と戦慄するリィンにまた舌打ちをしてから、「セリア、聞こえてたか?」と、ウェイバーは店内で下膳をする女性に言った。

 リィンはセリアと呼ばれた女性を知っていた。ラウラ親衛隊の一人である。

 楚々とした足取りでリィンの横まで来ると、セリアは口元だけのスマイルを浮かべて、

「はい、ここに置いておきますね」

 フォークとナイフをテーブルに直に突き立てた。ドスッと銀色の刃先が半分以上埋まり、机の下からぱらぱらと舞う木くずが、リィンの足の甲に降り落ちる。

 固まるリィンの耳元で、セリアはそっとささやいた。

レグラムは久しぶりでしょう(よくも抜け抜けと顔を出せたものね。)

ゆっくり休んでいって下さいね(二度と目の覚めない休息をあげる。)

リィンさん(クズ野郎)

 優しげな声音に混じって、副音声が聞こえた気がした。

 

 ▼ ▼ ▼

 

 

 

《――真実のファインダー⑤――》

 

「ゆっくり話すのは久しぶりだね」

「先輩も変わりないようで良かったっす」

 フィデリオとレックスは、レグラムの船着き場で風に当たっていた。二人は写真部の先輩後輩の関係だ。

「先輩は学院を出てから何してたんすか?」

「ああ……」

 レックスが問うと、フィデリオは遠い目をして彼方を見据えた。エベル湖の波しぶきが足元を濡らす。ローエングリン城の佇まいが、薄い霧の向こうに輪郭の影を際立たせていた。

「金欠の街道暮らしさ。木の根や雑草を食べて生き伸びた。何回か女神にお会いしたよ」

「それはやばかったっすね」

「途中立ち寄ったバリアハートではね、小金を儲けることができたんだ。これで何とかなると思った矢先に色々あって……最終的にはまた木の根を食べる生活になったのさ」

「色々の中身がわかんないんすけど……」

「話せば長いんだよ。大体は相方のせいなんだけど。ところでレックスはどうしていたんだい?」」

「俺はカメラを手に各地を回ってました。この戦火の中に生きる人たちの、リアルな写真を撮ってたんすよ」

「戦場カメラマンか。被災地の方たちへの配慮や節度は忘れてないだろうね?」

「もっちろん」

 レックスは現像した写真をフィデリオに渡した。

 被写体は見事に女性のみだった。店頭販売をする各市街の売り娘たち。第四機甲師団の凛とした女性隊士。中にはクレア・リーヴェルトのバストアップショットもある。なお『売約済み』の札付きだ。

 フィデリオは深く嘆息を吐いた。

「やれやれ。咎めるような写真じゃないから構わないけど……相変わらず偏っているなあ。まあ、そっちも変わりなしってことで――ん?」

 レックスの表情に陰りがあった。

「どうしたんだい。何か気がかりでも?」

 その指摘が図星だったらしい。ぷるぷると肩を震わせ、レックスはがばっとフォデリオに抱き付いた。

「ちょっ、離れて」

「先輩、俺……俺……ベリルとケンカしちまってる……みたいなんすよ!」

「ベリル? ベリルってオカルト研究会で一人でいる女子だよね。レックスと仲良くて、勝手に心霊写真部とか作ってたあの娘だろう。みたいっていうのは、一体どういうこと?」

「それが――」

 レックスが言うには、最近ベリルから素っ気なく扱われているとのことだった。ルーレで再会した時からそうだという。まともに口も聞いてもらえず、原因は不明。雰囲気は険悪。レックスが近づけば近づくほど邪険にあしらわれてしまい、彼はお手上げ状態らしい。

「いや、原因がわからないっていうか……それはさあ」

 フィデリオは首をすくめて、レックスが撮った写真を見る。

 諍いの元凶と思わしき彼の行動に言及しようとした矢先、「ふふ、うふふふ」と、会話を割る怪しい笑い声が耳に届いた。

 ペンとノートを手にしたドロテが、にんまりと口元をゆがめて近くに立っている。

「いつの間に来たんだ、ドロテさん。なにか用?」

「ふふ、レックス君に抱き付かれていましたよね。先輩と後輩とイケナイ関係。あっ、あっ、浮かびそう、新しいネタが浮かびそう、あっ、あっ、灼熱のパトスが込み上げて――ぶぶふしゅうっ!!」

 勝手に現れて、勝手に妄想して、ドロテは鼻から噴水のように血を噴き出した。

「うわっ、なんなんだ」

「先輩とか後輩とか、もうそれだけで罪深いんですっ!」

「多分、君は病気だ」

 エベル湖が鮮血に染まりゆく。

 貧血にふらつくドロテのうしろ。濃くなっていく霧の向こう側に、先日乗艦したばかりの用務員の影がちらついたのをフィデリオは見た。

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

《――バスターできないゴーストは――》

 

 しんとした石造りの回廊は、冷えた静寂に包まれていた。

 かつん、かつん、と床を踏む靴の音が通路に反響する。

「なにか感じる?」

 横を歩くフィーに訊かれて、エマは首を横に振った。

「……異変はありませんね。霊力の乱れもなく、場が安定しています」

「よかったね」

 ローエングリン城の中腹部に二人はいた。気の揺らぎの影響を受けやすいこの場所が、光る大樹の出現に何らかの変調を起こしていないかの確認に来たのだ。

 石壁の継ぎ目に溜まったほこりが滞留する空気に舞い、すえた湿気の臭いを漂わせる。肌寒く感じるのは気温の話ではなく、人の存在が失せた建造物が持つ独特な雰囲気のせいでもあるのだろう。

 以前に訪れた時はヴィータ・クロチルダの術の支配下にあったから、多くの幻覚に混乱させられたものだが、今はそのような気配は微塵もない。

「委員長、どうする?」

「そうですね。問題はなさそうですし、もう出ましょうか」

 フィーに応じつつ、ヴィータのことを思う。

 姉さんがローエングリン城に来ていたのは、私にあの手紙を渡すためだった。結社《身喰らう蛇》に入りなさいという、あの手紙――

「ねえ、委員長は結社に入るの?」

「………え?」

 フィーがこちらを見上げていた。澄んだ子猫のような瞳に、エマの驚いた顔が映っている。

 どうして? 今、口に出していた? 無意識に念話術を繋いだ? いや、そんなことはない。Ⅶ組の誰にも話していないのに。

「ちょっと前に遊戯室でセリーヌと話してたでしょ。立ち聞きするつもりはなかったんだけど」

「知ってたんですね……」

 迂闊だった。トワ会長にフィーネさんに変身させられたことがあるらしく、その姿のまま艦内を見回っていた時のことだという。それはぜひ見たかった。

 はっきりと聞かれてしまった以上、隠し通すこともできない。

 エマは勧誘に至る経緯を語った。

 フィーは首をかしげる。

「ふーん、意図がわからないね」

「同感です」

 本気で仲間にしたいのか、単にこちらの戦力を削ぎたいのか、Ⅶ組の関係性に不和を招きたいのか。いずれにせよ、その目的は判然としない。

「それで向こうの仲間になるの?」

「まさか。なりませんよ」

「でもさ。セリーヌにも質問されてたけど、仲間を盾にされて交換条件として結社入りを持ち出されたら……どうする? 答えは返せてなかったよね」

「そこも聞いていたんですか……」

「シチュエーションはたくさんあると思う。たとえば私が敵に負けそうで、私の命を助けてやる代わりに結社に入れって言われたら、どうする?」

「……わかりません。でも……」

「結社には入りたくないけど、それで私が助かるなら言われた通りにするって感じじゃない?」

 図星だった。助けられる可能性があるなら、知識と知恵を尽くして最後まで抗ってみせる。でもどうしようもなくなったら、残された切り札として使ってしまうと思う。

 つまるところ言葉でどう拒絶しようとも、完全には否定しきれない選択肢なのだ。

「フィーちゃんと私の立場が逆だったら、どうします?」

「難しいね。選べないかも」

「それでも選ばないといけない状況だったら?」

「ん」

 フィーは答えなかった。答えられなかったのかもしれない。

 ユミルでヴィータと交戦した時、彼女はエマに『三回目の勧誘』で応じざるを得なくなると言った。一回目の勧誘はすでに断った。二回目はまだ受けていない。

 仮の話ではあるが、命を天秤にかけるのは最悪のパターンだ。しかしあり得ないとは言えない。

 自分の選択で、大勢の未来が変わる分岐点。その時が来たら、私は何を思い、何を選ぶのだろうか。誰かか自分か、どちらかしか選べないとしたら――

「……一度外に出ましょう。今の話は内緒にしていて下さいね」

「了解。困ったら相談して。話を聞くくらいならできるから」

「ふふ、ありがとうございます。ミリアムちゃんも今の話は内緒で――」

 後ろに着いて来ているはずだったもう一人に振り返るも、誰もいなかった。

 

 ●

 

「あれえ……いいんちょ、フィ~」

 か細い声が薄暗い通路に響く。

 エマの後ろにくっついていたはずのミリアムは、あっさりとはぐれてしまっていた。

 部屋が多く、興味を引くものも多い古城。トランスの幅を広げる〝お勉強”を始めてから、ミリアムの好奇心は多方面に向くようになっていたが、今回はそれが仇となってしまった。

「うー……」

 急に心細くなる。一人になると恐怖も湧く。ミリアムはお化けと呼ばれる類のものが怖かった。

 正面に向けた視線の先、朽ちかけた兵士の甲冑が通路を挟むように複数体並んでいる。

「二人ともこの先かなあ……?」

 《ARCUS》の通信を使うという頭は働かなかった。

 一度足を止め、意を決して走り抜ける。振動のせいか、クモの巣の張った甲冑が、がちゃりと金属の音を鳴らした。

「わひゃあああん!?」

 短い手足を振って全力疾走。弾丸のごとく通路を駆け、階段を飛ぶように上り、一気に最上層へ。

 少し開けた空間に出る。煤けてはいるものの、ミリアムは豪奢な造りの扉の前までたどり着いた。

「はあ、はあ……いいんちょー達がいればいいんだけどー……あ、そーだ」

 護衛代わりにアガートラムを呼び出す。

「お化けが出たら守ってね?」

『Ж§∃ΕΕЖ』

 了解の意を背中に受け、ミリアムは謁見の間へと続くその扉に手をかける――

 

 ●

 

「ちょっとそっちも手抜かりなく拭き取って下さいな!」

 ぷりぷりと怒って、デュバリィは指示を飛ばしていた。呆れ顔を浮かべたエンネアは、「あのねえ、そっちはあなたの担当でしょう」と、手に持つほうきの柄で指し示す。

「そ、そうでしたっけ?」

「最初に仕切って、あれこれと場所を振り分けたのはデュバリィだぞ」

 窓縁で雑巾を動かす手は止めず、アイネスが追撃する。

「そ、それは……」

「あなたの発案に付き合ってあげているのだから、そもそも文句を言われる筋合いはないのだけど」

「エンネアの言う通りだ。我々に感謝するがいい」

 やり込められたデュバリィは、「むぐうう」とヘの字口で不満を喉の奥へと押し込めた。

 鉄機隊の三人がいるのは、ローエングリン城の上層に位置する一室。肖像画が飾られている部屋である。

 三人とも頭にはほっかむりを巻いて、清掃用のエプロンを着用している。掃除に適さない甲冑姿のままなのは、どのような理由であれ、この城に立ち入る際の礼儀だった。

「うぅ……マスター。二人が私を迫害するんですぅ」

 デュバリィは額縁の前でひざまずき、その中で微笑む長いブロンド髪の女性に両手を組み合わせる。

 せっかくエレボニアに滞在しているのだし、〝この部屋”の清掃を私たちでしようじゃありませんか。鉄機隊の筆頭としてそんな提案をしたはいいが、今一つ指揮系統が機能していない気がする。

 恨みがましい目で二人を見やると、

「とうとう迫害とか言い出したぞ」

「被害妄想もここに極まれりね。どうでもいいけど、掃除の続きをお願いできるかしら?」

 意に介した様子は微塵にもなく、むしろ散々に言い返されてしまった。

 仕方なく腰を上げ、デュバリィは持ち場の執務机に向かう。防腐剤が塗ってあるおかげだろう。木製の机だが、まだ崩れるほどは痛んでいない。

 素直に掃除を再開するのもなんだか癪だ。ささやかな反抗のつもりで、机横の革張りの椅子に顔面を押し付ける。

「はああ、マスターの残り香が――げほっうえほっ!?」

 思いきり空気を吸い込んだ鼻の奥に、ほこりまで一緒に入ってきた。激しくむせ込んで床を転げるデュバリィに、エンネアとアイネスは憐憫の目を上から注いだ。

「色々と残念だな。手の施しようがない」

「敬愛をこじらせた変態だわ」

「だ、誰が変態ですかー!」

 がばっと跳ね起きて抗弁する。説得力はなかった。

 エンネアが言う。

「こっちは私たちでやっておくから、あなたはもう一つの目的の方を済まして来たら? どちらかと言えばそっちの方が大切よ」

「んなっ、マスターの私室のお掃除よりも些事に重きを置くと!?」

「些事じゃないでしょ、些事じゃ」

「で、でも……そういうのは三人一緒がいいっていうか……」

「なに? もしかして一人で城の中を歩くのが嫌だとか。デュバリィちゃんは怖がりねえ。お姉さんたちがついていってあげましょうか。ほら、可愛くお願いしてごらんなさい」

「ば、ば、馬鹿にしないで下さいな! 怖いわけがないでしょう!? あーもう!!」

「あらあら」

 ほっかむりとエプロンをはぎ取るや床に叩きつけ、勢いよくデュバリィは部屋を飛び出した。

 

 

「やってしまいましたわ……」

 ローエングリン城の最上層、謁見の間にデュバリィは一人佇んでいた。

 怒りに任せてここまで突っ走ってきたはいいものの、ひとたび熱が引くと背すじの寒気が止まらない。

 強い風がテラスから吹き込む。割れた窓ガラスの隙間を通り、悲鳴にも似た風切り音を奏でた。鳥肌が否応なく全身に浮き立ってくる。

「ふ、ふん。怖くなんかありませんわ。ここまでも問題なく来ましたし?」

 誰に言うでもなくひとりごち、呑まれてしまいそうな恐怖をどうにか和らげる。不定形や幽体形の魔獣なら何も問題はない。剣や術で対処できるからだ。

 しかし幽霊となると困る。非常に困る。だって対抗手段を持ち合わせていないし。

 東方では塩を撒くことで清めの効果を生むと聞いたことがあるが、そんなバカげた話はない。たかが調味料で霊なるものを打ち払えるというのなら、最強のゴーストバスターはコックさんということになる。もしくは全身がソルトコーティングされた夏場の汗かきだ。

 とにもかくにも幽霊という名を聞くだけで、不安が煽られる。

 いるかどうかもわからないくせに、なんかこう、いる感じがするのだ。誰もいない空間から視線を感じたりするのだ。

 然るにである。

 シャワーで髪を流す時は目を閉じたくないし、自室に一人でいると微妙に開いている衣装棚の扉が気になって仕方がない。夜にトイレに行く時なんかは唐突に無手の型を機敏に構えたりして、見えざる何かを威嚇しながら歩を進めたりする。意味もなく『そこにいるのはわかっていますわよ!?』とか言ったりもする。

「は~、ふ~」

 深呼吸がぎこちない。

 もうイヤだ。とりあえず目的を早々に済まさねば。辺りを慎重に、注意深く見回してみる。

 この謁見の間では、幻獣《ゼルベノム》と《アンスルト》が騎神と戦い、双方共に倒されている。幻獣はその身を散らせる時、己が力の結晶を遺していくことがある。〝宝珠”と呼ばれるものだ。

 アンスルトの落とした宝珠はヴィータ・クロチルダが回収したそうだ。ならばゼルベノムの分はどうなっている。Ⅶ組の連中が手に入れた様子はない。

 どこかに落ちたままになっていないか。それを確認しに来たのだ。

「……ありませんわね」

 しばらく探し回って、デュバリィはそう結論付けた。宝珠の出現は稀有な例なのだ。ヴィータは運があって、抜け目がなかった。そういうことなのだろう。

 もうこれ以上ここに留まっていても仕方がない。そろそろあの二人も部屋の清掃を終えた頃合いだ。

 帰るとしよう。そうしよう。

 小走りで入ってきた扉に向かう。

「はああ……なんだか疲れましたわ……」

 取っ手に手掛け、扉を引く。

 ギギィと両開きの扉が開き、デュバリィの視界を銀色の巨躯が埋めた。宙に浮かび、その体表にぼんやりと鈍色の光を滲ませている。

「ひっ、幽霊!?」

「かっ、甲冑!?」

 思わず漏れ出た声に、別の声がかぶさる。

『出たあーっ!!』

 絶叫が重なり、しかし行動は相手の方が早かった。電光石火で繰り出された豪腕に、思いっきりぶん殴られる。足がすくんでいたせいもあって、真っ正面から攻撃を食らってしまった。

「ぎゃあああ!?」

 昨今の幽霊は物理攻撃もできるだなんて。そんなの反則でしょう。いい加減にしやがれですわ。

 思考の端でそんなことを思いつつ、戦乙女らしからぬ悲鳴を散らせながら、デュバリィは空中を飛んだ。

 

 ★ ★ ★

 

 

 

《――天使にラブコールを――》

 

「せいやっ! せいやあっ!」

「まだまだ!」

「もう一本! 声出していけっ!」

「おおーっす!!」

 今日の練武場は活気がみなぎっていた。アルゼイド流の門下生たちの威勢のいい発声が、レグラムの町に響き渡る。

「ぐううあ!」

 稽古の最中、一人がへたり込んだ。ダットという若手の門下生だ。

 彼は組み打ち相手に断りを入れると、練武場の一角に歩先を向けた。そこに控える二人に言う。

「うぅ……ヘマやっちまったッス」

「大丈夫ですか!?」

「すぐに手当てを!」

 急いで応急キットを取り出すのは、双子姉妹の姉のリンデと、見習いシスターのロジーヌだった。町の警護をする門下生たちがケガをしていないか心配だと、二人は医療班としてレグラムを訪れていたのだ。

「ふっ、こんなのかすり傷ッスよ。ぐっ!」

 見えるか見えない程度のすり傷なのだが、ダットは重度の負傷兵のように苦痛に顔をゆがめてみせた。

「町の皆のため、こんなところで止まるわけにはっ……」

「動いてはいけません! リンデさん、処置を!」

「は、はい!」

 一刻一秒を争うような切迫した雰囲気の中で、リンデはダットの腕に絆創膏をぺたりと貼った。処置終了である。

「おお……完璧ッス。これならいくらでも稽古できちゃうッスね!」

『よかった』

 二人は声をそろえ、安堵に頬を緩める。天使の微笑みだった。

 その様子を見ていた他の門下生たちから、「野郎、うまくやりやがって……」「その手があったか……」「出し抜かれたぜ……」などと、メラメラと嫉妬の炎が立ち昇った。

 ますます稽古に熱が入るが、床に横転したり、頭から壁に突っ込んだり、隙あらば自らの身を痛めつける者が続出する。

 あっという間にロジーヌとリンデの前に、負傷した武人がずらりと列を成した。

「ここまでか。我が魂は聖女の元に。天から皆を見守ろう」

「へっ、骨はエベル湖に沈めてくれや」

「来世があるなら、もう一度あんた達に会いたいぜ……」

 かすり傷の男たちが、今際の際に絞り出すようなかっこいい台詞を吐く。

 それでも、天使の二人は甲斐甲斐しく手当をしていたが、

「あ、絆創膏がなくなってしまいました……」

 持参していた救急箱をのぞき込んだロジーヌは、困り顔をリンデに向けた。

「あー、実は私が持ってきた分も底をついてしまいまして」

「どうしましょう……」

 絆創膏を貼ってもらいたい男たちは、まだまだ並んでいる。わざとらしくよろめきながら。

 しかし無いものは無いということで、在庫の治療キットをカレイジャスに取りに戻ると二人は告げる。

 すると一人の門下生がすっと手を上げた。指先まで力の入った迷いのない挙手だ。

「提案があります。我々は武の道を歩む者。その本分は身体のみならず、精神を鍛えること。すなわちこのような傷など、精神力でねじ伏せられるわけなのですが」

「では大丈夫ということでしょうか?」

「否、断じて否」

 ロジーヌが質問すると、男は大仰にかぶりを振った。

「まずは精神を鼓舞し、高ぶらせることが必要。自己暗示をかけることで、肉体の限界を超え、鋼の心を作り出さねばなりません。能力開花のための啓発は武道において重要です。聞いたことはありませんか? あるでしょう? あるはずです」

「はあ、あったようなないような……?」

「ではあります」

「あ、あるのですか」

 まっすぐな視線での断言に、ロジーヌはたじろいだ。

「だとすれば私たちにできることはなんでしょうか?」

「なに、難しいことではありませんよ。なあ、皆の者」

 門下生たちが一斉に力強くうなずく。

 要領を得ないロジーヌとリンデに、彼は今からすべきことを懇切丁寧かつ理論立てて説明した。ホワイトボードを持ち出し、謎の数式まで並べ立てて力説する。学会での発表にさえ耐えうる隙の無い論述だった。

 およそ三十分の熱弁を終え――

「――なのです!!」

 方程式により導き出された解を突きつける。

「わ、わかりました」

「や、やります」

 断るすべもなく、二人は顔を赤らめながら全員の前に立つ。

 たらりと汗を流した顔を互いに見合わせ、わずかな間のあとに深く息を吸い込み、指の形で作ったハートマークをおどおどと胸前にかかげ、意を決して同時に声を張った。

『痛いの痛いの飛んでいけ~! ラブキュンバッキューン!』

『ラブキュンバッキューン!!』

 恥ずかしさに顔を伏せるロジーヌたちに、野太い大歓声が追従する。かつてない闘気がほとばしり、レグラムを覆う霧は残らず吹き飛ばされた。

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

《――静かな湖畔の森の影から――》

 

「今日はずいぶんと気合いが入っているな。うむ、良いことだ」

 風に乗って届いた怒号を聞き留めて、ガヴェリは満足気にうなずく。彼はクラウス師範代に次ぎ、アルゼイド流道場のまとめ役を担う人物だ。

「らぶきゅんばっきゅーんとか聞こえた気がしましたけど……」

 新手の発声方法だろうかと、双子姉妹の妹のヴィヴィは不思議に思った。とはいえ特に追及することもなく、奇妙な掛け声を聞き流す。

 リアンヌ・サンドロット像の前に二人はいた。巡回途中のヴィヴィを、ガヴェリが呼び止めたのだ。

「実はヴィヴィくんに確かめたいことがあってな」

「なんですか?」

「見当外れであれば申し訳ないが……もしかして君は催眠術が使えるのではないか?」

「え」

 なぜそれがわかったのだろう。アルゼイドの試練で町人にかけた催眠は、日の出と共に解けるようにし、同時に試練に関わる記憶も消えるようにしたのに。

 ガヴェリは深く催眠にかかった方だ。しかし精神力は強かった。うっすらとあの時のことを思い出しつつあるのかもしれない。

 とぼけようと思えばとぼけられるが、今さらの話である。ヴィヴィはあっさりと肯定した。

「そうですよ」

「我々に催眠術を施したのだな」

「はい、ごめんなさい」

「謝らなくていい。あまり覚えていないのだが、私たちのことを想った計らいだったのだろう?」

「ええ、それはもう」

 面白くなりそうだったからという理由も半分以上あるが、それは笑顔の裏に押し隠す。

「試練のあとはずいぶんとスッキリしたし、心も軽くなった。不思議なものだ」

「それはあれだけ暴れれば」

「ん? 暴れ……?」

「こちらの話ですよ。ご用件はそのお話ですか?」

「いや、まあ、関わる話ではあるのだが」

 急に歯切れ悪くなったガヴェリは、周りの目を気にした素振りで小声で続けた。

「実は催眠をかけてもらいたい相手がいるのだ」

「はあ、誰ですか?」

「リィン・シュバルツァー。レグラムに来ていることは知っている」

「リィン君? リィン君にどんな催眠を?」

「彼をダンゴムシにして欲しい」

 冗談だと思った。しかしガヴェリは真剣な眼差しをしている。その瞳には一点の曇りもない。

「……ダンゴムシって、つついたら丸まっちゃうあの?」

「そう、あのダンゴムシ」

「それはまたなんで?」

「ふふ、聞いたのだよ、ついさっきな。《アプリコーゼ》のウェイバー氏から。おそらくだが……おそらくだが、ラウラお嬢様は……っ、がはっ!」

 けっこうな量の吐血。心身への負担が大き過ぎて、これ以上は言葉にすることもできないらしい。

 口の端を腕でこするガヴェリの背後に、黒々とした呪いの炎が揺らいでいた。

「自分を虫だと思い込ませるってこと? さすがにやったことないし、どうかなあ」

「ダンゴムシが無理ならば、極限まで知能を削ぎ落とした猿でもいい! いかに!?」

「いかにって言われても……」 

 もしかしてまだ前の催眠が解けていないんだろうか。何があったのやら、ひどく攻撃的だ。

「んー、でも今はダメなんですよねー」

「なぜだ!? せめて硫酸を水と思い込むくらいならいけるか!?」

「せめての基準がわからないんですけど……。できるできないじゃなくて、ある催眠を彼にかけて欲しいって、先に頼まれてるんです」

「そうか。先約があるなら仕方あるまい。どんな虫だ?」

「いや、そういうのじゃなくて」

 とことん虫にしたいようだ。面白そうだし、それも試してみたいけど、今日はこれと決めている。

 ヴィヴィはメトロノームとペンライトを取り出した。

「リィン君の記憶を戻せないかなって」

 

 ●

 

「一体なんだったんだ……」

 憎悪の視線にさらされながらもランチを食べ終えたリィンは、《アプリコーゼ》を後にしていた。

 ウェイバーもセリアも機嫌が悪かったのかもしれない。セリアに水のおかわりをお願いしたら、ひびの入ったグラスに表面張力限界まで熱湯を注がれたものを持って来られた。ウェイバーに食事代金を支払ったら、おつりの硬貨を全力で投げつけられた。

 ……機嫌が悪かったの一言で済ませていいのだろうか。

「あ……リィン」

「ん?」

 アリサが店の前にいた。もじもじと手を後ろに組んでいる。

「ああ、アリサも食事か? けどこの店は今は止めておいた方がいいかもな。店主と店員の気が立っているみたいで」

「昼食ならさっきラウラといっしょに済ませたわ。彼女からあなたがここにいるって聞いたから」

「俺に用事か?」

「そ、そうなんだけど。うぅ……」

 言いよどんで、うつむく。顔を上げて口を開きかけては、またつぐむ。

 それを繰り返し、組み合わせた両手にきゅっと力を入れて、何か意を決したように見えた刹那、

「リィンさん、探しましたよー!」

 ぱたぱたと少女が走ってくる。彼女はクロエ。ラウラ親衛隊の一番年下の女の子だ。

「すみません。お取込み中でしたか? ちょっと急ぎの用件でして」

「どうしたんだ。何かあったのか?」

「はい、お願い事が」

 クロエは息を切らしている。アリサとの話の途中だったが、アクシデントが発生したのであれば後回しにすることはできない。アリサに視線で確認を取ると、彼女は戸惑いながらもうなずいてくれた。

「わかった。なんでも言ってくれ」

「ありがとうございます。私、リィンさんに死んで欲しいんです」

 ひゅんと風切り音が耳をかすめ、足元のタイルが割れる。地面に鎌が突き刺さっていた。その鎌の柄には鎖がくくられていて、それを視線で追うと民家の屋根に続いている。そこに高齢の女性が姿を見せた。

「久しぶりだねえ、リィン君。私のことを覚えているかい。《鎖鎌》のダフネだよ」

「ダ、ダフネさん!? なんで屋根の上に……危ないから降りて下さい! 落ちますよ!」

「相変わらず優しいんだねえ。あいにくと落ちるのはお前の首だけどねえ」

 ダフネは鎖鎌をダイナミックに振り回した。レグラムではダフネばあさんと親しまれているご老体が、アサシンのごとき殺意をまとっている。

 ダフネの殺意に紛れて、もう一つの殺意がほとばしった。

「シャアッ!」

 背すじの悪寒にリィンは反応し、とっさに振り返った視界に剣閃が走る。間一髪避け切ったが、コンマ一秒遅かったら、冗談ではなく首が落ちているタイミングだった。

 今度は高齢の男性。武器屋を営むワトーだ。

「ほう、またしてもワシの仕込み杖を回避するか。ハエのような男よのう。いや、泥棒ネズミか」

「ワトーさんまで!? これはどういう……?」

「おーおー、羽音がぶんぶんとうるさくてかなわん。どれ、静かにさせるとしよう」

 杖を腰に携え、ワトーは居合抜きの構えをとった。張りつめる空気に氷の殺気が漂う。

 突然の事態に呆気に取られていたアリサが、我に返ったように言った。

「え、えっと。なにこれ。リィン、あなた何したの?」

「身に覚えがない!」

 クロエの片眉がぴくりと動く。

「ああっ、もうダメ! 我慢できません! あなたを苦しませたい! 少しでも(むご)たらしく!」

「君は何を言ってるんだ!」

 クロエは首にかけていた笛を吹き鳴らした。甲高い音がレグラム全域にこだますと同時に、憎しみの波動が町中に広がる。包丁やら鍋やらフライパンやら鈍器やらを手に、民家から人々が飛び出してきた。

「すまない、アリサ! 話は後にしてくれ! とりあえず俺は逃げるから!」

「ま、待ってリィン。ちょっと!」

 足を止める余裕はない。鎖鎌と仕込み杖の連撃をかいくぐり、追われるままにリィンは逃走した。

 

 

 明らかに前のアルゼイドの試練と同じ、異常とも思える感情の暴走。

 確かヴィヴィもレグラム巡回に参加していたはずだ。まさかまたみんなにわけのわからない催眠をかけたのか。

「いた……!」

 町人の執拗な追跡を逃れて駆け回るリィンは、槍の聖女像の前にいるヴィヴィを発見した。彼女の横にはガヴェリも控えている。

 試練の時を思い出し、一瞬イヤな予感がしたが、ガヴェリはにこやかに手招きしてくれた。

「おお、そちらから来てくれるとは。待っていたぞ、リィン・D・シュバルツァー」

「ガヴェリさんも俺に何か――っていうか、俺の名前にミドルネームはないんですけど、Dっていうのは?」

「ダンゴムシだが」

 いきなりおかしい。これはやらかしている。そう確信したリィンは、ヴィヴィに詰め寄った。

「ヴィヴィ! また変な催眠をかけたな!? 町の人たちにもだ!」

「ひどいわ、リィン君。ふえええん」

「あからさまなウソ泣きを……!」

「あら、バレた? でも催眠はかけてないわよ。これは本当」

「いや、だって……それはないだろ」

 ならば町人の狂気はどう説明する。今のダンゴムシ発言はどう解釈する。

 これで正気なら、洗脳よりもおそろしい。

「いいからいいから、とりあえずそこに座ってよ」

 地べたに腰をつけさせられる。ヴィヴィはメトロノームを前に置き、ペンライトを点滅させた。

「これからリィン君に催眠術をかけちゃいまーす」

「よっ、ダンゴムシっ!」

 ガヴェリが謎の合いの手を入れてくる。

「それはしないっていうか後だから。ガヴェリさん、落ち着いて」

「むう」

 残念そうに引き下がる。ヴィヴィの〝後で”という言葉にも引っ掛かるが。

「待ってくれ。そもそもなんで俺は催眠をかけられるんだ!?」

「マキアス君からのお願いでさー。リィン君の記憶を戻せないか試してくれって」

「マキアスが……?」

「そ、逆光催眠ってやつで」

 そんな方法は思いつきもしなかった。俺の記憶が戻る……?

 しかし急すぎる。期待する半面、ためらいもある。自分という人間の現在に、これまでなかったものが一度に上乗せされるのだ。簡単に受け入れられるものか、自信がない。

 リィンは躊躇(ちゅうちょ)していたが、ヴィヴィはお構いなしだった。

「まあまあ、この程度で戻ってくる記憶ってわけでもないでしょ。はい、気を楽にして~」

「……わかったよ」

 言う通り、深く考えすぎかもしれない。ヴィヴィの気の済むようにやらせてみよう。

 リィンは目に向けられたペンライトの光をぼうっと眺めた。規則的なメトロノームの音が脳に直接入り込んでくる。それが延々と繰り返される。

 これが催眠の導入段階か。悪い気はしない。むしろ心地いい。静かな眠気が降りてきて、水の中にたゆたっているようだ。

 ヴィヴィが何か言ったみたいだが、よく聞こえなかった。

 視界がぼやけてきた。体の重さが次第に薄れてきた。空気の冷たさを感じない。時間の前後もよくわからない。

 意識が遠ざかって――

 

 溶け失せた景色の輪郭が再び構成され、緩やかに像を結んでいく。

 開いた目に映るのは、知らない光景だった。どこかの家の中のようだ。

 焦げ臭い炭の臭い。パチパチと熱で木が割れる音。天井に火が回ってきた。誰かが俺に覆い被さっている。優しい匂いと血の臭いが混じっている……

 誰の血だろう。俺か、この人か。胸が焼け付くように熱い。

『カーシャ! リィン!』

 リビングの扉を蹴破って、誰かが駆け込んできた。

『なんと……なんということだ』

 血に塗れた剣を落とし、男はかたわらに膝をつく。はっきりとその顔を見た。焦燥、絶望、涙。どこかで会ったことがある気がする。

『すまない、カーシャ。君を守れなかった。だがこの子は、リィンだけは助ける。必ずだ。私の何を犠牲にしても』

 視界が暗黒に染まる。

 景色が切り替わった。黒から白へ。

 雪道。覚えがある。ユミルの雪山道だ。

 一つの木の麓に、そっと降ろされる。

『どうか、健やかに――』

 辛そうな声で別れを告げられた。彼の顔は、言葉以上に辛そうだった。

 置いていかないで、父さん――

 

 また景色が切り替わる。

『今日からお前は私たちの息子だ』

 温かい毛布をかぶせられ、父さんと母さんが優しげな笑顔で俺をのぞき込む。テオ・シュバルツァー。ルシア・シュバルツァー。

 そうだ。俺の父さんと母さんだ。じゃあ、さっきの人は?

 

 急速に時が流れる。

『兄様。士官学院へのご入学おめでとうございます。どうかお気を付けて』

 ユミルを発つ日、エリゼが見送ってくれた。

 エリゼが俺に手を伸ばす。必死に腕を突き出していた。俺はその手を握ろうとして、つかみ損ねた。触れられなかった。一瞬だけエリゼの姿が二重にぶれる。

 なんだ、これは。言葉は確かにあの時の通りだが、彼女はこんな挙動をしなかった。

 出立の日にこんなことは起きなかったはずだ。俺はいつの光景を見ている。

 

 時計の針が異常な速さで回り続けている。

 Ⅶ組のみんなに出会った。先輩たちに出会った。特別実習をこなし、多くのことを学び、学院祭を終え、そしてクロウが引き金を引いた。

 ギリアス・オズボーンが倒れる。クロウが《C》の仮面を外す。胸の傷に鈍痛が走った。

 過去と未来が入り混じっているのか。知らない場所の光景と聞いたことのない言葉が渦を巻く。

『始めるとしようぜ! 俺とお前の最後の戦いを!』

 蒼の騎神が崩落する岩盤と共に急降下してくる。灰の騎神で迎え討つ。傷だらけのヴァリマールの手に武器はなかった。

 

『お前の剣はどれだ』

 何度も聞いたこの声は、これが最後の問いだという。荒廃した大地におびただしい数の剣が突き刺さっている。

 

 場所が雪山に戻った。ユミル地方の景観が周囲にある。

 また誰かに背負われている。

 白いコート。金色の短い髪。トヴァルさんだ。

 これはトリスタ襲撃から騎神で離脱した一か月後、アイゼンガルド連峰で目覚めてすぐの記憶。魔煌兵に襲われて、トヴァルさんが助けようとしてくれて、不可抗力で崖から転落したときのことだ。

『よかった。気が付いたか』

 彼は安心したように笑った。

『いやー、お前さんが落ち――時はどうなるこ――と思ったぜ。エリ――嬢さんは泣――ちまうし、アル――殿下からは責め――うな目で見られ――』

 砂嵐のようなノイズがかかり、トヴァルさんのセリフがかき消されていく。

 そうだった。この時、俺は重要な何かを視ていたんだ。

 聞き覚えのある女性の声が、なんの気負いもなく言う。

 

 ――あ、ちょっと待って

 

 今日のお礼にいい事教えてあげる

 

 この先、あなた達の内、誰か一人が――

 

『命を落とすわよ』

 

 ばんと勢いよく手を地面につく。心臓が張り裂けんばかりに脈打っていた。

「はっ……はあっ!」

 リィンはあえぐように肩で呼吸をしながら、目を大きく開く。ヴィヴィとガヴェリがいた。現実の光景だ。

「だ、大丈夫。何か思い出したの?」

「いや、わからない……わからない」

 ヴィヴィにはそうとしか言えず、リィンは額のあせをぬぐう。ほどけた運命の糸が再び結ばれ、進むべき未来が分岐していくような予感がある。

 リアンヌ・サンドロットの立像は何を語るでもなく、ただリィンを見下ろしていた。

 

 

 ――続く――

 

 


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