塵一つ落ちていないカーペットは、行き届いた清掃の証だった。豪奢になり過ぎず、さりとて客人の目を潤せる程度には明るく。
運用経緯が特殊なものだから、いまだカレイジャスの貴賓室に外部からの来訪者を通したことはない。
おそらくはこの男が初めてだった。
そこいらの貴族よりも洗練された立ち振る舞いでうやうやしく礼をするガイラーを、どんよりとした目付きでエマは見る。
とうとうこの時が来てしまった。どれだけ拒否しても止めることはできなかった。かくなる上は転移術でアイゼンガルド連峰の奥地にまで飛ばそうとも考えたが、ガイラーは巧みにケネスを盾に使ってエマに付け入る隙を与えなかった。
そうしてカレイジャス。こうして貴賓室。どうしようもなく謁見開始。
「ガイラーと申します。お目にかかれて光栄です」
「初めまして。アルフィン・ライゼ・アルノールです」
謁見相手であるアルフィンはソファーから立ち上がると、ぺこりと頭を下げた。
この動作がためらいなくできるのは彼女の人徳なのだろうが、今は尊敬の念よりも懸念の方が強い。エマは苦い息を飲み下した。
「エマさんから聞きました。トールズ士官学院の用務員さんだとか。と言ってもそのくらいしかお聞きしていないのですけど」
それ以外の情報を皇女殿下に伝えられるはずもない。ガイラーが余計なことを口走らないか、エマは気が気でなかった。
「仰る通りでございます。しがない用務員ですが、それでも艦内の雑務をこなすくらいはできるでしょう。どうか乗艦のご許可を」
「うーん」
可愛らしい仕草で頬に手をやり、アルフィンは困り顔を浮かべた。
「ご存じだと思いますが、カレイジャスは戦闘艦です。助力のご提案は素直に嬉しいのですが、業務負担の軽減の為だけに一般の方をみだりに乗せてしまうのは……」
「そうです、殿下!」
エマは強く肯定した。
「カレイジャスは実際に戦いの場に出ていますし、今までに何度も危険な局面もありました。そんな艦にあなたを乗せるわけにはいきません。もう普通に墜落しますし、爆発しますし、命の保証なんて微塵もありませんよ!」
「え、ええと。そこまでではないと思いますけど。さすがに墜落はないですから」
「いいえ、墜落します! 落ちないなら私が落とします!」
「エ、エマさん? もしもーし?」
どんな手を使ってでも乗艦を阻止しなければ、男子の皆さんの未来が紫色に染まってしまう。
エマにはわかっていた。ガイラーの行動の意図が。
あのハイジャックを利用して、彼は飛行艇を手に入れようとしていたのだ。もしも思惑通りに事が進んでいたなら、あの後ガイラーは空から帝都に乗り込む気だったのだろう。
一次目的はヘイムダルの解放。そこからの内戦終結。二次目的はその功績を持って、公に通じる地位の獲得。三次目的は知名度を最大限に利用した自身の作品の拡散と、増大したファンによる組織の拡充。
ここまでくれば最終目的である〝エレボニア帝国を我が手に”の実現は、もはや絵空事ではなくなる。同時にこの国に生きる善良な青少年の未来は、片っ端からねじ曲がっていく。
「アルフィン殿下! 差し戻しのご承諾を!」
ものすごい勢いで、エマは乗艦申請書の下部を指さした。認可欄の横にある却下欄に決裁者がサインをすれば、ガイラーのカレイジャス入りは消えてなくなるのだ。
エマの剣幕に押されてか、「そうですね……今回は諦めて頂いて――」とペンを片手に申請書にアルフィンが手を伸ばした時、ガイラーの懐からゴトンと何かが落ちた。
「おっと、失敬」
ガイラーが拾い上げるのは一冊の本だった。
「えっ……!?」
さりげなく見せられたその本の表紙を見て、アルフィンは身を固まらせた。
「そ、それはっ!?」
「おお、しまった。私としたことが」
「《クロックベルはリィンリィンリィン》じゃないですか! し、しかも背表紙が紫色なのは初回限定版の証! 手に入れるのがもっとも困難と言われるファン垂涎の一品を、なぜあなたが……!?」
「数奇な運命をたどった結果、私の元に来たとしか」
「そんな偶然あるはずが……ま、まさか、まさかまさかまさか! あなたは」
まずい。エマはそう思った。
そういえばアルフィンも〝そちら側”の書籍を嗜んでいると聞いたことがあった。彼の作品にはファンの枠を越えて信者になっている女子も多いが、まさか皇女殿下までその一人だったとは。
隠さねば。その素性は何としてでも。
「落ち着いて下さい、殿下。ガイラーさんは違いますよ。ほらいつも言っていますし。私はしがない用務員だって――」
「いかにも私がその本の作者です」
「なんでここで言っちゃうんですかあ!?」
空気を無視したカミングアウト。憤るエマをよそに、アルフィンは最大級のショックを受けていた。
「ほ、ほ、ほ、本物の同志G! ずっとお会いしたかったです! ファンレターを出したこともあります! 実名で送ったから、もしかしたらいたずらだと思われたかもしれないですけど……」
「頂いたお手紙は全て目を通しておりますよ。ご意見、ご感想は全てが貴重なものですから」
「G……!」
アルフィンが自身のファンであることをガイラーは知っていた。だからこの場に来れば、自分の思い通りの展開に運べるとわかっていたのだ。やはり謁見をさせるべきではなかった。
今からでも遅くはない。転移術で彼方に飛ばしてしまえば――いやダメだ。そんな素振りを見せれば、この用務員はためらいなく皇女を盾に利用する。しかも盾にしたことを本人に気付かれないような、いやらしい立ち回りで。
「あのう……ガイラーさん。わたくし、一生のお願い事があるのですが……」
「皆まで言わずとも」
ガイラーは例の初回限定本を差し出した。表紙にサインまでしている。
本を受け取ったアルフィンは、飛び上がって喜んでいた。
「ああ、ああ! こんな幸せがあるだなんて! 皇城に戻りましたら、これはアルノール家の家宝として永遠に奉らせて頂きますわ」
「恐悦至極でございますな。ところでサインにはサインでお応えして頂きたく思いますが、いかに」
「もちろんです!」
鼻息も荒く、乗艦申請書の認可欄にあっさりと署名する。
エマは力なくくずおれた。カレイジャスに紫の魔人が混入してしまった。
「えっとそれと……できればもう一つお願い事が……その」
アルフィンは二本の指で作った✕印を、胸前で控え目に掲げてみせた。ドロテいわく、それは絆の刻印。本来なら在り得るはずのない繋がりを実現させる魔法の楔だという。
エマにとっては、呪いの象徴以外の何物でもなかったが。
「ふふ、欲しがり屋さんの皇女様だ」
にたりと笑むガイラーが頭上で腕と腕を交差させて、
『エーックス!!』
そこにアルフィンも声を重ねて、怒号を響かせる。
うなだれたまま、エマは沈黙を貫いていた。
《**アスタリスクセンター**》
非常にまずい事態が進行している。果たして私の力だけで、彼の毒牙から帝国の――男子たちの未来を守り切れるだろうか。
エマは頭を抱えて、艦内通路を歩いていた。数歩進んでは壁によりかかって絶望し、また歩いては湧き上がる不安に足を止める。
些細な勘違いから始まって、とうとうここまで来てしまった。
「勘違い……」
その言葉でエマは思い出した。
ラックのことだ。彼はフィーとフィーネさんを同一人物だと気付いていないようだった。しかも厄介なことに、どうやらフィーを敵視し、フィーネさんに好意を抱いている。
致命的な矛盾だ。
その誤解を自分が解く理由はないのだが、知ってしまった以上は放っておけない。
思い違いを正すのは簡単だ。真実を伝えればいい。フィーネさんとは、フィーの淑女化計画の一環として発足したもので、要するにフィーネさんなる人物はこの世界のどこにもいないのだと。あなたがフィーを敵視することはフィーネさんを敵とすることであり、フィーネさんに好意を寄せることはフィーを好きになることなのだと。
そうすれば、どうなる。
事実は理解する。そして精神が崩壊する。想いが強ければ強いほど、きっと心が耐えられない。
「どうしたら……」
もう一度頭を壁に押し当てる。三つ編みおさげが所在なさげに揺れた。
ガイラーさんの件だけでもキャパオーバーに近いのに、抱える問題が増えてしまった。もう一人では背負いきれない。
リィンさんに相談しよう。彼はラックさんの友人だから、その性格も熟知しているはず。良い解決案を導き出してくれるかもしれない。
頼れそうな相手が見つかったので、重荷が幾分軽くなったように感じる。
さっそくリィンを探しに行こうと、エマが壁に付けていた頭を離した時、目当ての人物から姿を見せてくれた。
「リィンさん、ちょうど良かったです……!」
「ああ、委員長。俺も委員長を探してたんだ」
「そうなんですか? 実は私、リィンさんに相談が――」
「委員長に相談したいことがある」
「へ?」
「……ラウラから、その……告白を受けた」
「こく、はく……?」
口を半開きにして、言葉の意味を紐解いていく。
酷薄……ではない、多分。こくはく、コクハク、告白。
なるほど、告白。わかりました。ええ、わかりました。しかし告白といえど、様々な形がありますよね。
なんでしょう、ほら。たとえば罪の告白とか。レアみっしぃマスコットを何が何でも入手したいがために、その保有者を片っ端から始末してましたとか。
そういう罪深き行為の数々ですね、きっと。
「委員長? 大丈夫か、意識が飛んだように見えたんだが」
「うふふ、問題ありません。それで? どんな罪を告白されましたか? どうぞ仰ってください。なんならロジーヌさんも呼んできましょう。懺悔を聞き届けるエキスパートですよ」
「なんで俺が懺悔をするんだ。だからだな、つまり……好きだと言われた」
「隙ありの間違いでは?」
「別に戦ってたわけじゃないし……」
「畑をたがやすには
「農業の話題が上がっていたわけでもないが……」
「好意を告げられたと?」
「……そうなると思う」
「まあ、そうですか。ふふっ」
にっこりと微笑むと同時、エマの丸メガネが爆散した。
●
「こういうのってマキアスさんの専売特許なんですけどね……」
スペアのメガネをかけ直したエマは、上部甲板を囲う安全柵に背中を預けた。カレイジャスは高度2000アージュを飛行中だ。
風は容赦なく冷たかったものの、やはり気恥ずかしさに火照る肌の方が上回り、リィンは視線を床に逃すしかなかった。
「すまない。まさかレンズが砕け散るほどだとは……」
「伊達メガネですから生活に支障はないですけど……予備があって良かったです」
「今さらだが、普通に割れるんだな」
メガネをかけている人は皆そうなのだろうか。どんな仕組みなんだ。俺も将来メガネを使う時が来たら気をつけないといけない。
エマはこほんと咳払いをした。
「まあ、確かに驚きました。まさかラウラさんが……いえ、それは納得なのですが、直接口に出して伝えるのは意外だったといいますか」
「ん? ラウラなら納得なのか?」
「端から見ていればわかりますよ。リィンさんは気がつかなかったんでしょうけど」
「う……」
どことなく責められているような半目で、じぃっと見つめられる。また視線をそらしてしまいたくなる。俺は皆が言うような朴念仁だったのか。心のどこかでそんなことはないと思っていたのに……。
「それで、どうするんですか?」
「どうすればいいのかわからない。こういうの初めてなんだ。委員長に聞いたらアドバイスをもらえるかと思って。……迷惑だったら謝る」
「迷惑だなんて思っていません。ただですね、私も経験豊富なわけじゃないんです。うーん……そういえば他にこのことを知ってる人っているんですか?」
「委員長に話したのが最初だ。誰も知らない」
「アリサさんも?」
「そうだが?」
アリサの名前が個別に出たことに違和感を覚えた。彼女に相談しようという考えがないでもなかった。たが自分の中の何かが、その行動に全力でブレーキをかけたのだ。
「そういうことだから、言っちゃダメよ?」
エマは口調を変え、足元を見る。一匹の黒猫が丸まっていた。
セリーヌはうっとうしそうに尻尾を振った。
「わかってるわよ。だいたい人間の色恋に興味ないし」
「だからうっかり口を滑らせないように注意してってことよ」
「あーはいはい。やっぱアタシにはわかんないわ。人間の機微ってのが。面倒、面倒、ほんと面倒」
重ねてエマにたしなめられたせいで気分を害したのか、セリーヌはさっさとその場を立ち去ってしまった。かなり不機嫌のようだ。
彼女のそんな態度には慣れているのだろう。エマは首をすくめた。
「ごめんなさい。リィンさんは気にしなくて大丈夫です。それで結局どうしたらいいかという話でしたね」
「ああ」
「やることは一つ。告白に対する返答をするだけです」
「それは……」
それはそうなのだろう。あの後、ラウラは走り去ってしまって、以降一度も顔を合わせていない。だから返事はできていない。いや、仮に返事ができる状況だったとしても、まともに何かを言えたとは思えなかった。
届けてくれた想いに答えを返す。それが必要なことはわかっている。でも――
「色々なことを考えるのでしょう? たとえば受けたとしたら、周りのみんなの反応がどう変わるかわからない。断ったとしたら、ラウラさんとの関係性がどうなるかわからない。今までⅦ組として時間をかけて築いてきたものが、今までとは違う形になってしまうかもしれない」
眼下に流れる雲が、カレイジャスの船体に触れて散り散りになっていく。
リィンは無言でうなずいた。
「でもつまるところ、その先がどうなるかなんて誰にも分かりませんよ。それにすぐ返答をしなければいけないわけじゃありませんし、今はそうしない方が良いとも思います」
「そう、なのか?」
「ラウラさんだけじゃなくて……何と言いますか、もう一悶着ぐらいはある気がしますので。あまり私の口から言うことではないのですが」
「よくわからないが……委員長には色んなものが見えてるんだな。ありがとう。本当に頼りになる」
「これでもリィンさんの導き手ですから。こっち方面のサポートもするとは思っていませんでしたけどね」
「面目ない……」
「今は真摯に悩むことが必要じゃないでしょうか。どのような返答をするにせよ、いずれ来るその時に、ちゃんと自分の気持ちを自分の言葉で伝えられるように」
〝その時”がいつ、どこで、どのような場面で訪れるのかは予想もつかなかった。その時の自分に答えが出せているのかさえ定かではない。ただ、まっすぐな想いには偽らざる想いで応じるべきだ。
リィンは空を見上げる。雲の上は晴天。どこまでも青く広い。
「えええええーっ!?」
想定される用途から、聴取室の壁面には完全な防音処理が施されている。その特殊壁面を突き抜けて、アリサの叫び声は通路にまで届いていた。
「えええええ――――っ!?」
絶叫は止まらず、五秒を過ぎてやがて失速し、ぜえぜえとアリサは息を切らせ、そして一度呼吸を整えると、
「えええええ――――――っ!?」
また叫ぶ。
あまり広くもない薄暗い室内。簡素な聴取用テーブルを挟んで対面するラウラは、うつむいて顔を真っ赤にするのみだった。
ようやく声も収まり、追加の叫びも上がらなくなった頃、「その、そういうわけなのだ」と重ねられる。
「な、な、なにがそういうわけよ! どうして、どのように、そうなって!?」
「だから経緯は今話した通りで……」
「それは聞いたけどっ」
ラウラから告げられたのは、衝撃的な出来事だった。リィン関連だろうと予想はしていたものの、想像していた内容の遥かに上をいく話だった。
まさか告白をしていたなんて。
デートに誘ったことはいい。私だって双竜橋戦後に意気消沈するリィンを、夜のルーレに連れ出したりした。しかも雰囲気に流されて、つい自分も胸の内を伝えてしまいそうにもなった。
抜け駆けとは思わないし、そんなのお互いさまだ。
でも本当に言ってしまうとは。元々そんなつもりで呼び出したわけではなく、完全なはずみだったというが、それにしてもな勢いである。
「そ、それでリィンはなんて……?」
そこが一番重要だった。
「……その場にいられず、私は逃げ出してしまった。だから返事は聞いていないし、艦に戻ってから顔も合わせていない」
「そう……」
安堵する自分がいた。まだ全ては決まっていない。ラウラのことだから、もしかしたらとっさに私に気を遣って、返事を聞こうとしなかったのかもしれないけれど。
「というかそれを聞いた私はどうすればいいの」
アリサは机に突っ伏した。ラウラの吐息がもれる。
「すまない」
「謝らないで」
「身勝手をした」
「そんなの違う。悪いだなんて思ってない。ただ――」
「ただ?」
「どうしたらいいのかしら、私」
このままの関係でいられるかもって、どこかで思っていた。
いつかは彼に想いを打ち明けるにしても、それは今じゃないって。たとえば卒業まではこれまで通りで、それから少しずつ進んでいくのもありかもしれないって。
わかってはいた。
二の足を踏んで怖がっているだけだって気付いていながら、どう転ぶかわからない未来を先送りにしていたことは。
どんな形であれ、そこにラウラは踏み出した。
すごい。私じゃ彼女に敵わない。
「ラウラには敵わないわ」
顔を机に伏せたまま、アリサは思ったことを口に出していた。
「なんの話だ?」
「ん……ラウラは勇気もあるし、剣も使える。リィンのとなりに立って支えていくのは、あなたの方が――いだっ!?」
頭頂部に衝撃が走った。視界に星が散ったかと思うほど痛い。身を乗り出したラウラに頭を叩かれていた。しかもげんこつだ。
「グー!? いくらなんでもグーで殴る!? ちょっと生まれて初めてかも!?」
「これは謝らないぞ。自分を卑下するな。私にはアリサにないものがあるのだろうが、アリサには私にないものがある。私は己の剣でリィンの背中を守るが、騎神の横で戦えるのはレイゼルを扱えるそなただけだ。どちらが上も下もないし、そもそもこういうのは優劣の話ではないだろう」
「……うん、そうね。ありがと」
頭をさすりつつ、顔を上げる。じんじんとまだ痛い。
「それにアリサがどうすればいいかは決まっている」
「え?」
卓上に設置してあるライトスタンドを向けられる。光が視界を埋め、アリサは顔をしかめた。見えない景色の向こうでラウラが言う。
「そなたもリィンに告白するのだ。これで条件が一緒になる」
「ふぁあああ!?」
「嫌か?」
「嫌っていうか無理でしょ! できるわけないでしょ! なんで名案を出してやったみたいな顔してるの!?」
ライトスタンドを奪ったアリサが、逆にラウラに光を浴びせた。「むうっ!?」と目を覆いながらも、彼女は言い返してくる。
「私は言ったぞ!」
「はずみでしょ、それ! そういう場を用意して改まって言うシーンを想像してみなさいよ! 火傷どころか焼死するわ!」
「問題ない! 言うのは一瞬だ! 案ずるより産むが易しとはこのことだ!」
「さらりとすごいこと言ってるし! そこまでの流れがあるでしょうに! 自分は先に済ましたからって~!」
ライトを奪い合っては、互いに照らし合う。
「だが動かねばどうする。どうしようもあるまい。それはわかっているはずだ」
「うっ……そ、そうだけど」
悩むに悩んで、割り切ったあとのラウラは強い。言葉の一つ一つに淀みのない勢いがあって、どう抗弁しようとも押し切られてしまう。
「わ、わかったわ。いつか言うから」
「いつかとはいつだ?」
「だからいつかよ」
「時間が経てば決意は薄れるものだろう。刻限を決めよう。この東部巡回が終わるまでだ」
「ちょ、うそ、待って、本気!? もう数日もないけど!?」
「女同士の約束だぞ」
がしっと手を握られ、無理やりに誓いのポーズを取らされる。
その時、艦内放送が入った。トワの声だ。
『ブリッジより通達。これより東部巡回を再開します。以降、カレイジャスは各市街を回りながら数人単位のチームを派遣。複数の町を並行して巡回していきます』
放送が終わる。ラウラは満足そうに言った。
「おお、思ったより早く巡回は終わりそうだな」
「どーするのーっ!?」
タイムリミット付きの告白作戦が強制的に開始される。
アリサの叫びを空に置き去りにして、カレイジャスは飛行速度を上げた。
――続く――
――Side Stories――
《パトリックにおまかせ⑦》
そしらぬ顔で、パトリックは廊下の窓際に寄りかかっていた。
トールズ士官学院の二階通路。彼の横には、他に学生が二人立っている。
「ふっ、やはり僕は女神の祝福を受けた男。君たちもそう思わないかい?」
「思いませんわ」
「おいっ、会話を続ける努力をしろ!」
兄ヴィンセントのいつもの軽口を、いつもの調子でばっさり切り捨てる妹フェリス。そんな彼女をパトリックはたしなめた。
トリスタ襲撃以降、教官の何人かが学院を離れてしまい、すき間だらけのカリキュラムをこなす日々。空いた時間割はほぼ自習に充てることになってしまった。部活動も制限され、張りのない毎日だけが繰り返される。
不穏分子がいないか、貴族連合の兵士が学院内に目を光らせる中、わずかばかりの休憩時間を薄い内容の語らいに潰す活気のない学院生――
そんなふうに見せなくてはならないというのに。
「! 来たぞ! 時間通りだ」
何気ない感じを装い、窓の外を見たパトリックはヴィンセントとフェリスに小声で合図を送る。巡回中の兵士が壁沿いに歩いて来ていた。二人の表情に緊張が走る。
「タイミングは僕が指示する。二人は準備を――って、おい!?」
ヴィンセントは砂のぎっちり入った砂袋を、フェリスは頭が彫られた男性の胸像を抱えていた。
「先輩のはいい。君のそれはなんだ?」
「重いものを用意しろというから……」
「どこから持ってきた?」
「美術室」
「だろうな!」
ずしりと重い石の胸像の裏には、『クララ』と銘打たれた札が張ってある。なぜよりにもよってそれをチョイスした。乱立する作品群の中で、もっとも手を付けてはいけないものだろう。ばれたら僕たちが生きた彫像にされるんだぞ。
しかし他のものを取りに行く時間はない。周囲に代わりになりそうなものも見当たらない。
「くそっ、やむを得ない。せめて先輩の砂袋を先にして、それでダメなら彫像を――」
「何をブツブツ言ってるんですの?」
「え?」
パトリックが意識をフェリスに向け直すと、彼女はすでに胸像を窓縁に押し出していた。
「待て! 戻せ!」
「重っ」
自重でずりっと前に傾き、フェリスの細い腕から胸像が離れゆく。
直後にゴッと太い打撃音とくぐもった悲鳴。そしてバラバラと石が砕ける音が続く。勢いづいた胸像のヘッドバットを頭に食らった兵士は、呼び笛を鳴らすことなく気絶していた。
おそるおそる下をのぞくと、案の定胸像は粉々になっていた。
「何事だ!」
隠密に事を進める手はずだったのに、破砕音を聞き留められたらしい。近くで巡回していた別の兵士が、伏した男に駆け寄ってくる。手遅れだ。こちらも動くしかない。
「作戦をBプランに変更! フェリスは正門前で待機中のフリーデル部長に伝えてくれ。ヴィンセント先輩は他の学院生たちにも伝達を。一斉に行動を起こす。ただし無理だと判断したら兵士に抵抗しないこと。これは厳守だ」
「了解ですわ。パトリックは?」
「数減らしをする」
パトリックは二階の窓から飛び降りた。受け身を取りつつ着地し、やってきた兵士にすかさずタックルをしかける。
「ぬおっ、貴様!?」
「自習には飽きた。学院を返してもらう!」
崩れた体勢の相手に、追撃の足払い。そのまま馬乗りになって取っ組み合う。
武器はない。どう仕留める。頸動脈を締めて意識を奪うか。
優位なポジションを必死にキープしようとするパトリックの頭上を、ひゅっと何かがかすめて過ぎた。一瞬だけ視界を埋めて、それは自分の下にいる兵士の顔面を直撃する。
さっきの砂袋だった。
とっさに上を見上げると、窓からヴィンセントが親指を立てて、してやったりな笑顔を浮かべている。一歩間違えれば僕の後頭部に命中していたというのに。
砂袋に押し潰された兵士は、完全に伸びてしまっていた。
もう後には引けない。元より引くつもりはなかったが。
そもそもの発端はフリーデルの『そろそろ学院を奪還しちゃいましょ』という誘いからだった。
いつも通り突拍子のない提案だったが、パトリックは同意した。横柄な兵士に我が物顔で学院をうろつき回られるのは、もううんざりだった。
それから時間をかけて準備をした。
他の学院生たちに説明と協力依頼の根回し。兵士の巡回ルートと時間の把握。具体的な作戦立案。
なによりも重要なのは事を起こすタイミングだった。
一時的に学院を奪還しても意味がない。本部に連絡が届けば報復される。敵をトリスタから追い出し、かつ戻って来れない状況を作ることが必要なのだ。
そしてその時は来た。
《紅き翼》がルーレとバリアハートを解放したという。貴族連合の守りも各市街から撤退し、地理的な道ができた。この後、〝彼ら”は必ずこのトリスタに帰ってくる。
これらの情報は書房の店主、ケインズが流してくれたものだ。情報規制がかかっているこの状況でも、彼はどこからか最新の情勢を仕入れてくる。
カレイジャスがトリスタに着艦すれば、それだけで貴族連合にとっては脅威となる。だがその対抗策として、自分たちが人質に取られる可能性は高い。そうなればカレイジャスも迂闊には接近できないだろう。
そうならない為に、先にこちらから動く。
「さすがに気づかれたか……!」
学院中に呼び笛の音が響き渡る。
敷地内に常駐している兵士は八人。二人倒したからあと六人。人数の利はこちらにあるから、人海戦術で追い詰める。
トリスタの町にいる兵士も拘束対象だ。そちらはフリーデル部長が向かっているから、問題なく瞬殺だろう。自分の執事であるセレスタンにも協力を要請しておいた。
トリスタの東口に停まっている装甲車は、エーデル先輩とランベルト先輩が無力化する算段だ。その方法は二人に任せているが、エーデル先輩はしこたま火薬をバッグに詰めていたから――
ドカンと遠い爆発音。東口の方角に黒煙が上がっていた。派手にやったらしい。
ついでにバリアハート方面の駐屯地からトリスタに繋がる橋も爆破する予定だ。復旧には時間がかかり、これで追加の装甲車は来られない。一般の方には迷惑をかけるが、それはそれとして。
物を考えられる指揮官であれば、先手を打たれたことで罠を予想するはずだから、おいそれと機甲兵も差し向けては来ないだろう。こちらの動向に意識を払いつつ、バリアハート側も警戒しながら、駐屯地の守備にでも徹してくれればいい。
爆発音が連続する。
一体どれほどの火薬を使ったのか、衝撃によって発生した振動が、音に遅れてパトリックの足元まで届いていた。
この導力時代で火薬を手に入れること自体珍しいのだが、エーデル先輩曰く園芸部では大量に保有しているそうだ。
なんでもⅦ組のフィー・クラウゼルが残していったらしい。いずれにせよ花と火薬の臭いに囲まれた園芸部など、好んで近づきたくはない。
「うわああ!」
叫び声が鼓膜に刺さる。おそらく学院生。嫌な予感に肌が粟立った。
校舎内に戻って指揮を執るつもりだったが、パトリックは声のした方向へ急いだ。
裏庭で尻もちをついて後じさる平民学生と、彼にサーベルを突き付けてにじりよる兵士の姿が見えた。
「やめろ!」
とっさに割って入り、パトリックは身構えた。
しまった。石でも木片でも探して、不意打ちを食らわせればよかった。サーベルを相手に、こちらは素手ではないか。
後悔は一瞬、先に彼をこの場から遠ざけなければという思考が働いた。
「逃げろ、早く」
「で、でも」
「行けと言っている!」
怒鳴ってやると、男子学生は慌てて逃げ出した。
兵士が露骨に舌打ちする。
「クーデターとはやってくれたな」
「それをお前たちが言うか。反抗の準備はしてきた。この後のことも考えてある。無意味な抵抗はしない方が賢明だ」
「一人でも人質を取ってしまえば、学生風情まともに動くこともできまい。いや、人質などと甘いことを言わずとも、逆らう気も失せるような見せしめを一人作ってもいいな」
「ああ、だから捕まらないよう全員に言い含めてある」
「理解が遅いのか? お前がそうなるという話だ」
校舎内の喧騒が外まで聞こえてくる。戦闘が始まったらしい。部活で使う道具を含めて、武器になりそうなものは押収されているから、基本身一つだ。だがその気になれば机でも椅子でもなんでもある。物が壊れたら補修の仕事が自分に回ってくるし、なるべく備品は荒く扱わないで欲しいところだが。
兵士が剣先を向けてきた。
「さて。大人しくするなら人質に、歯向かうなら見せしめにしてやる。どちらか選べ」
「両方断る!」
つま先で砂地を蹴り上げる。先制の目潰しに「小賢しい!」と、兵士はサーベルを横に薙いだ。刃の軌道をかいくぐって、パトリックは相手の下腹に体当たりを見舞う。
さっきの男と違って、体勢を崩すには至らなかった。後ろ足で踏ん張られ、無防備な背中に肘鉄が叩き込まれる。
「がっ……!」
前のめりになる上体に、すくい上げるようにして敵の手の平が迫る。避けることはできず、パトリックは首をわし掴まれた。
こいつは強いやつだ。
足先が浮くぐらいに片手で立たされる。息ができない。
「ん? 白服ということは、お前貴族生徒か。だとしても今さら容赦するつもりもないがな。しかし愚かしいとは思わんのか?」
「な……なにがだ……」
「さきほどの平民をかばったことだ。その結果、お前はこうなっている」
「……それの何が愚かしい。うっ!」
首の圧迫が強くなる。頭に酸素が回らなくて、朦朧としてきた。
「お前の家格は知らんが、その行動は理解しがたい。誇りを持って生きるのが貴族のあるべき姿であり責務。平民のために服を汚すのは恥だ」
「服……?」
目線だけで見る。白い学生服は土ぼこりでくすんでいた。袖は糸がほつれているし、ズボンの裾も同じようなものだろう。靴のかかとだってすり減っている。
しかしこれは昨日今日のことではない。
かすむ視界に映り込むのは、裏庭に設置してあるベンチ。壊れてしまったからと依頼を受け、何時間もかけて直したものだ。
向かいには花壇を積雪から守るための簡易の屋根もある。不格好だが、あれも手づから作った。そのそばの池の柵も僕が補修した。
校舎の中にも外にも、自分が手掛けたものはまだまだたくさんある。
何かを直すたびに汗にまみれ、服は汚れた。確かに最初は気にしていたかもしれない。けれど自分が直したものを誰かが使ってくれるのを見たら、そんなことは次第にどうでもよくなった。
「……誇りっていうのは服の上にあるものなのか」
「なんだと」
「僕は……」
雑用に次ぐ雑用に追われた日々。取るに足らないトラブルの対処に追われた日々。貴族らしからぬ日々。ましてや四大名門の血筋なのに。
では貴族らしいとはなんだ。
身なりを飾り、使用人を抱え、良質の紅茶を片手に、優雅な暮らしを謳歌することか。まあ……らしいとは言えるかもしれない。
それとも伝統を重んじ、礼節を身に付け、領地を運営し、皇族に忠誠を誓うことか。ああ……これはあるべき貴族と言える。
らしい。あるべき。どちらも間違いではないのだろう。
でもそこには、そうしたいという自分がない。その家に生まれたから、らしく、あるべく、疑問を持たずにそう育っただけだ。だから誇りと感じるものも、教育によって後付けられたものに過ぎない。
誇りとは、そうだ。心の内側から生じるものだ。体面を守るだけの安いプライドのことでは決してない。
「僕は……っ、今、わかった。あるべきから離れて、らしくもなく汚れて、それでも平民でも貴族でも関係なく、誰かの為に何かをしようと思えることが……自分の誇りだ」
「ぬっ!?」
「そうしようと思える自分も、誇りに思う……!」
首をつかむ太い腕を、こちらからもつかむ。引き剥がそうと全霊の力を込める。わずかに開いた気道に、思いきり息を吸い込む。ぎっと相手をにらみつけた。
「よく聞け! 僕は自分の持つ力を尽くし、民を――仲間を守り抜く! それが僕のノブリスオブリージュだ!!」
男の腕を振り払う。前に踏み込んで、顔面に拳を入れる。兵士は大きくよろめいた。
どうか倒れてくれ。祈ったが、倒れたのはパトリックだった。
うつ伏せの状態で、動けなくなる。喉から変な呼吸音がもれていた。
「ガキが……!」
兵士がサーベルを構え直した。痛みか怒りかその両方か、彼の顔は引きつってゆがんでいた。
これはやられる。
頭側の地面が影に覆われて、最後を予感させる。くそ、せめて人質にしておけよ。ハイアームズの名を出すか。いいや、やめておこう。そういうのはもういい。
「……?」
サーベルが突き出されない。
そういえばおかしい。太陽は僕の後ろ側にあるはずだから、頭側に立たれたからといって影がかぶるはずがないのに――
「騒がしいのう」
静かな、しかし厚みのある深い声音が空気を揺らした。声はパトリックの足側からだった。
兵士はかたかたと震え出し、その様子以上に震えた言葉を絞り出す。
「な、なんで?」
「どういう質問じゃ、それは」
ざりっと土を踏む音が体の横を通ってくる。現れたのはパトリックの三倍はあろうかという体躯の老年男性。視界には入りきらなかったが、それが誰なのかは確認するまでもなかった。
「な、軟禁していたはずだ! なんで出てきている!?」
「あくまでも軟禁。出る理由がなかったから出なかっただけのこと。儂を閉じ込めておきたいなら、鉄牢にでも監禁せい。まあ、出ようと思えばそれでも出られるが」
ヴァンダイク学院長は男の前に立った。岩山のような圧迫感に、手にしたサーベルを使おうという気さえ削がれたようだった。
ひとにらみで兵士は腰を落とし、戦意を喪失している。
ヴァンダイクは身をかがめると、パトリックに手を差し出した。
「立てるかね?」
「……はい。でもどうして?」
今日まで学院長には会うことができなかった。だから作戦のことは伝えられなかったのだ。
大きな手を握り返し、パトリックはふらふらと立ち上がる。
「そろそろ動くだろうとは思っておった。いつまでも獅子を鎖で繋ぎ止められるものではないのでな。その時がくれば、儂も助力するつもりであったよ。……あと君の啖呵はなかなか良かった。スカッとしたわい」
豊かな白ヒゲをしゃくりあげて、彼はにっと笑う。
いつの間にか校舎内の喧騒も止んでいた。屋上から身を乗り出して手を振るフェリスを見るに、他の兵士の拘束も上手くいったのだろう。
「これで、やっと、これで……」
足がもつれ倒れそうになるのを、ヴァンダイクが受け止めてくれた。
たくましい腕に支えられながら、パトリックは胸中に思う。
取り返しておいてやったぞ。感謝しろ、リィン・シュバルツァー。
いつでも帰ってこい。
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