僕は白い
「まいったな……。なんだってこんな場所に迷い込んでしまったんだ」
頭を抱えたその時、小さな声がした。くすんくすんと、すすり泣くような声。
その泣き声のする方に、歩を進めてみる
まもなく、うずくまる人影を見つけた。まだ子供のようだ。震える肩に後ろから呼びかけてみる。
「君、大丈夫か?」
「ひっく……だあれ?」
振り向いた表情は、やはり泣き顔だった。
細いリボンを結ったスミレ色の髪はミディアムショートで、ドレス調の白い服にはたくさんのフリルがあしらわれている。
歳の頃は12、3歳だろうか。可愛らしい少女だった。
『あ』
顔を見合わせて、僕と少女はそろって口を開く。
「君はあの時の……」
「前に遊んでくれたお兄さん?」
僕らは互いの顔を知っていた。いつだったか。そうだ。夢の中だ。
起きたら忘却に消えてしまうその空間で、僕らは出会ったことがある。今の今まで、この子のことを忘れていたのはそのせいだ。今こうして思い出せているのは、もしかしてこれも夢の中だからか?
「自己紹介をするのは二度目になるが……僕はマキアス・レーグニッツだ」
「私はレン。……レン・ヘイワースよ」
前回は僕に内緒にしていた名前だ。
姓を言う時になぜか躊躇したようだったが、それでも彼女はフルネームを教えてくれた。
「レンちゃんか。君はどうしてここに――はいいか。どうせ夢の中だしな。それならえっと、なんで泣いてるんだ?」
「……《パテル=マテル》が私をかばって、神機を空に連れて行って、それで……っ、『サヨウナラ』って……うわあああん」
「す、すまない!」
余計に泣かせてしまった。
神機とはガレリア要塞に風穴を開けたあれか? 《パテル=マテル》という名にも覚えがある。おそらく以前の夢で、僕にビームを撃ってきたあの巨大な人形兵器だ。
いったい彼女は何者だ。どんな場所で、そしてどんな状況で、今この夢を見ているのか。
いずれにしてもこの様子からすると、彼女にとってそれは単なる人形兵器ではなかったのだろう。もっと深いところで繋がっている何かだ。
「うええぇん……」
「お、落ち着くんだ。《パテル=マテル》とやらの代わりにはなれないかもしれないが、僕がたくさん遊んであげよう! きっと楽しいぞ!」
ピタリと泣き止んで、潤んだ瞳が僕を見上げてくる。
「遊ぶ……? 遊んでくれるの? お兄さんが?」
「もちろんだ。レンちゃんのしたいこと、なんでもやろう」
言いつつ、息を飲む。前にレンちゃんの遊びに付き合った時は鬼ごっこだった。鬼である彼女は馬鹿でかい鎌を振りかざして追ってきた。
天使のような笑顔で、僕を殲滅しようとしてきたのだ。言うなれば殲滅天使だ。
今回は何が来る。見つかれば即首を狩られるかくれんぼか。バリエーション豊かに身を絞め上げるあやとりか。弾倉に一発だけ弾を込めて交互にトリガーを引き合うおはじきか。
「宝探しがいいわ」
身構える僕に彼女はそう言った。
正直、拍子抜けした。平和的だから、むしろ望むところではあるが。変なペナルティーを課してこないことを祈るばかりだ。
「宝探しでいいんだな? それじゃあ探す側と隠す側に分かれよう。あっと、その前に宝を決めるのが先か」
「ううん。お兄さんと私の二人で探すのよ。もう宝物も決まってるし」
「へ?」
急に靄が晴れていく。足元は落ち葉の積もった土だった。周りには大きな木々が縦横無尽に群生している。鬱蒼と伸びる枝葉が太陽の光をさえぎって、視界はどこまでも薄暗い。
「ここは森だったのか。かなり広そうだな。まさか宝っていうのは、この森の中にあるのか……!?」
「そうよ。森のどこかにある虹の果実が欲しいの。一緒に見つけて」
「見つけてって言われてもなあ」
見渡す限りに森林地帯は続いている。こんな広大で入り組んだ場所で、果実一つを見つけるなんて容易なことではない。
「ダメ?」
「まさか。さあ出発だ」
即答する。せっかく泣き止んでいるのに、また泣かせるわけにはいかなかった。
「ありがと。ねえ、手つないで」
差し出された小さな手を取る。握っただけで壊れてしまいそうな柔らかな手の平。
レンちゃんの短い歩幅に合わせて、僕は夢の森の探索を始めた。
《――☾黒のリボンに虹を結んで☽――》
「見て、お兄さん。この森には珍しいものがたくさんあるのね」
ませているかと思えば、年相応の無邪気さも見せる。あっちに行ったりこっちに行ったり、レンちゃんは自分の興味に惹かれるままに僕を連れ回した。
「木の根が張り出しているところもある。そんなに走ると危ないぞ。それにスカートの裾に土がついてしまうじゃないか」
「そんなの気にしないわ。わあ、おっきなお花!」
言ってるそばからまた駆け出す。木の根元から人の顔ぐらいはあろうかという大きさの、茎も葉も太いがっしりとした花が咲いていた。
「うわっ、こんなの見たことがないな」
「花弁の真ん中が穴になって口みたい。食虫植物かしら。お兄さん、ちょっと手を入れてみて」
「食虫植物って見解を出しておきながら何を頼んでいるんだ、君は」
「虹の果実が中にあるかもしれないじゃない」
「ここには絶対ないだろ……」
言いつつも断り切れなかった。子供の澄んだ瞳っていうのは武器だ。花弁の中心の穴に、僕はおそるおそる手を入れる。
「どんな感じ? 実況して欲しいわ」
「なんか生温かいな。ぬるぬるしてるし」
「それでそれで?」
「だんだん狭まってきて、僕の腕に吸い付いてくるみたいだ。こう体の水分を吸収していくみたいな――って、おわあああ!?」
尻もちをつく勢いで腕を引き抜いた。やっぱり食虫植物じゃないか。しかもけっこう凶悪なタイプの。右腕に変なあざがくっきりと残っている。
「おお……反応が遅れていたら干物みたいになってたかも……」
「ふふっ、うふふ……あはははっ! お兄さん、面白いのね!」
「いやいや笑い事じゃないぞ」
レンちゃんはお腹を抱えてうずくまっている。こんなに笑ってくれたのは初めてだ。笑いのツボがちょっとずれている気がしないでもないが。
「自慢じゃないが、僕はでっかいカエルに飲み込まれたこともある」
「もうやめて、笑い死んじゃう!」
しばし転げまわったあと、涙目のレンちゃんは頬を地面に押し当てた。すみれ色の髪が葉っぱまみれだ。
「土がひんやりして気持ちいい。こんなに笑ったの久しぶりかも。楽しいわ」
「君みたいな小さい子が、笑うのが久しぶりって……本当の君はどこで何をしてるんだ?」
「本当の私……? わからないわ。お兄さんこそ、どこで何をしている人なの?」
「うーん、どう説明しようかな。本業は士官学院生なんだが、今はカレイジャスで各地を回ってるし……」
「つまり大道芸人ね」
「僕の話を聞いていたか?」
そうだった。僕はカレイジャスにいたのだ。なら仮眠室辺りで眠っているのだろうか。どうにも前後の記憶があやふやで、時間の感覚が曖昧だ。
霞がかった思考を払おうと頭を軽く振った時、視界の中にそれが入ってきた。
近くの木に、実がなっている。二つ連なった一対一組の果実だ。
「あれか!?」
「どうかしら?お兄さん、採ってきて」
「よしきた」
僕はその細身の木へと向かった。
☾
ベッキーは通路を歩いていた。カレイジャスの四階だ。
「日用品は必須として、趣向品はどれくらいやったらありやろな……。どのルートで巡回するかにもよるし、ちょっとトワ会長に相談してみよか」
腕を組んで思案する。丸四日バリアハート空港に停泊していたカレイジャスも、まもなく東部地域の巡回行動に入る。
その前にTMPの査察が緊急で入ることになったと聞いたが、自分には関係のない話である。
バリアハートは何かと物が高い。卸業者もどこかお高くとまった雰囲気があって、原価交渉もうまくいかなかった。まとめ買いをしても割り引かないというのだから、まったくもって話が通じない。
あの系統の手合いであれば、ヒューゴなら商談をまとめられたかもしれないが、自分にできないからと彼を頼るのは癪だった。
ただ職人通りの人たちとは、気が合いそうではあった。しかしそちらからの仕入れはベッキーの管轄外だ。先日合流したコレットが職人たちとのコネクションを繋げたらしく、けっこうな量のアイテムを搬入していた。しかもそのほとんどを譲ってもらったのだとか。
ケルディックの流通さえ機能していれば、こんなことで頭を悩ます必要などないのに――
「はー……ケルディック……元締め……」
彼女はケルディックの出身だ。焼き討ちの折にも自分の家族に被害はなかった。襲撃に居合わせたⅦ組が、迅速に避難誘導をしてくれたおかげだ。
オットー元締めのことは、どうにもならなかったのだろう。だとしても簡単に納得できる話ではなく、ベッキーは奥歯を噛みしめた。
「だー! うちがこんなんじゃアカン! 元気出せ! いつか貴族連合のやつらに落とし前つけたらあ! ケルディックだって元通りにしたる!」
ぱんと自分の頬を叩き、喝を入れる。
正面に顔を上げた時、マキアスがこちらに歩いてくるのが見えた。
「どないしたんや。あんたは監査の立ち合いはいかんのか?」
返答はない。
「そないにフラフラと歩いて、まーたどっかでぶつけてメガネ割っても知らんで」
冗談交じりに言ってやる。やはり反応はない。おぼつかない足取りで近づいてくる。視線はうつろにさまよっていた。
「な、なんや。体調悪いんか?」
「果実……」
「あん?」
「虹の果実を……」
半分光を失っている瞳が、ベッキーの小振りな胸をねっとりと見据えた。
「もぐ」
「は、はああ!?」
両の腕がゆらりと持ち上がり、向けられた十指がわきわきと稼動する。
マジか、こいつ。本気か。狂っとる。完全に狂っとるで。なんや最近魔獣を艦内に連れ込んだって騒がれとったけど、こいつ自身が一番のモンスターやないかい。
「あかんやつや……こいつはあかんやつや……!」
逃げ場をなくし、壁に当たった背中がずるずると下に滑る。ぺたんとへたり込んだベッキーに、怪しく光る眼鏡がにじり寄った。なんの躊躇もなく手の平が伸びてきて――
「いやや……あ、あ、いややあああ!」
慈悲はなかった。絶叫を聞き留める者もいなかった。
ふにふにとそれをもてあそんだあと、マキアスはつぶやいた。
「……これじゃないな。レンちゃん、次に行こう」
罪深い後ろ姿を向けて、よたよたと進み出す。
乱れた着衣のまま、感情を失くしたベッキーの視線が力なく彼を追う。
「……おとん、うち、もうお嫁に行かれへんわ……」
消え入りそうな泣き声だけが、いつまでも通路に響いていた。
☽
「今のは違うか。まだ熟してなかったもんな」
「残念ね。やっぱり本物はもっと大きくて立派なのよ」
先ほどの果実は回収せず、僕らは森の奥へと進んでいく。不思議と迷うことはなかった。
「レンちゃん、そっちは行き止まりだ。右に行こう」
「お兄さんはこの森に来たことがあるの?」
「初めてだが……なんとなくわかるんだ。歩き慣れてるというか、感覚が知っているというか」
「ふーん?」
自分でも奇妙に思う。見知らぬ風景なのに、なんら戸惑うことなく歩を進めていけるのだ。夢だからと言ってしまえばそれまでだが、この違和感のなさが違和感だ。
「ところで君は、なんで虹の果実を手に入れたいんだ?」
「それも忘れちゃったわ。自分で食べたいのかもしれないし、コレクションしたいのかもしれないし。でも結局はどうでもいいことよ、きっと」
「どうでもいいことのために泥だらけにはならないだろう。ま、探すと言った以上は最後まで付き合うが」
「損な性格って言われるでしょう」
「頼れる男ってことだ」
幼い以上に、この子はどこか儚い。危ういとも言える。身の内に押し隠しているものの、暗い影がある気もする。こんな年端もいかない少女が、いったいどんな環境で育ってきたのだろう。
レンちゃんが指をさす。
「あ、また実がなっているわ」
「本当だ。今度こそ当たりならいいんだけどな」
身の丈ほどの大岩の前に、果実をつけた木が生えていた。しかも四本も。
森の深く、次第に薄闇が濃くなっていく。
☾
「大丈夫? 顔だけでもいいから見せて」
ノックをするも扉は開かない。時間を変え、人を変え、これで何回目のトライなのかもわからない。
モニカは困り果てた顔を背後に振り向ける。彼女の視線を受けた友人たち――ポーラ、ブリジット、コレットは一様に首をすくめた。
「モニカでも反応なしね。はあ……ラウラったらどうしたのかしら……」
「どうしたもこうしたもないでしょ。あの時に何かあったのよ。そうとしか考えられない」
嘆息するブリジットにポーラが言った。
彼女たちがバックアップを務めた例のデートの時である。
ラウラはリィンと一緒に街道に出て、そこで何かを話していた。その最中、急に様子がおかしくなって、彼女は一人でバリアハート市内に走り去ってしまったのだ。
カレイジャスに戻るなり個用の仮眠室に引きこもったラウラは、それからまったく外に出てこない。食事も手付かずだった。
「ねえ、リィン君に聞いた方が早くない? これ以上はどうしようもないよ」
コレットが提案する。すると部屋の中からガタッと物が落ちる音がした。
ようやくの反応らしい反応に、ポーラがドア越しに質問する。
「ラウラ? 声に出したくなかったらそれでもいいから、イエスならノック一回、ノーなら二回で答えて。……あの時なにがあったのか、リィン君に訊いちゃってもいい?」
すぐさまノックが二回返ってきた。
さしものポーラもお手上げだ。
「ダメだって。もしもリィン君がラウラにひどいことを言ったんだったら、彼に死んだ方がマシってくらいの苦痛を与えようと思ったんだけど」
『そうね……』
そろった声で、同時にうなずく。普段なら諌め役になるはずのモニカたちも、この時ばかりはポーラに同意していた。
「……虹の果実」
不意に低い声音が発される。四人が顔を向けた通路の先に、マキアスが立ち尽くしていた。まるで幽鬼のように、彼を取り巻く空気がおぼろげだ。
マキアスがゆらりと首を持ち上げた。
その目を見て、四人の少女たちは身の危険を察した。ヤバイ奴が来たと、本能が警鐘を鳴らした。何をしにきたかは不明だが、何かをやらかしにきたという薄ら寒い確信だけが背すじを駆けた。
開かれた両手が胸の高さに据えられる。
「もぐか」
鈍色にきらめく眼鏡。墓場から這い出た死者のような気味の悪い挙動で、マキアスはのそのそと女子に向かっていく。
そのワンシーンにタイトルをつけるなら、メガネ・オブ・ザ・デッドだ。
「いやあああ!」
叫びつつも、モニカは前に出た。力強い三段跳びからの膝蹴りを見舞う。みぞおちに膝がめり込み、マキアスは前のめりになった。
垂れた首に間髪入れず、ポーラのムチが巻きつく。さらにムチを思いきり引き、コマの要領でぎゅるりっと勢いよく回転させてやった。
体勢が崩れたマキアスに電光石火で接近しながら、コレットはすかさず右拳に暗器を装着する。バリアハートの職人たちから受け取ったジュエリーメリケンサックだ。
不埒眼鏡の頬に、風を切る鉄拳が炸裂。メッコオッと痛々しい音と共に、マキアスは床に叩きつけられた。
その隙にブリジットは近くに設置されていた緊急通報ボタンを押し込んでいた。けたたましいサイレンが艦内に響き渡る。
「な、なに今の!? わけわかんないわ!」
「ていうか警報鳴らしちゃったんだ!? いいの!?」
「緊急事態だもの! エマージェンシーだもの!」
「どうしよう!? トワ会長に報告!? でも今って査察対応中だよね!?」
口々に混乱を吐き出す四人。
ビクンビクンと再起動しようとしているマキアスを見て、『とりあえず撤退~!』と異口同音に叫んで彼女たちは逃げ出した。
☽
「ぐあああ……!?」
痛みにのたうち回る。果実をもごうとした途端、いきなり木の枝がしなって連続で打ち据えてきたのだ。
空では鳥がギャアギャアと警報のように鳴いている。
「楽しそうね?」
「そう見えるのか、君には……」
レンちゃんは倒れている僕の横に腰をかがめた。
魔獣か? 魔物か? いや夢の中で考えるのは意味がない。しかしこの痛み。とても夢とは思えないリアルさだ。
いつの間にか果実のなった木はなくなっていた。
ずきずき痛む腹と頬をさすりつつ、僕は身を起こした。首にも圧迫感がある。
「お兄さんだけ引き返してもいいのよ? しんどそうだし」
「一人で探すつもりか。それは無理だろう」
「私はいつも一人よ。いつだって一人。無理なことはないわ」
「もしかして君は……目が覚めても一人なのか?」
「……ちょっと前はそうだった気がする。世界だけがね、勝手に回っていたの。でもその内に世界は私のために回り出して。今は……どうだったかしら、よく思い出せないけど……」
レンちゃんは空を見上げた。枝葉に覆われて見えない空を。
その横顔はなんだろう。たくさんの――とてもたくさんの複雑な感情が入り混じった表情に見えた。その全てを読み取ることは、僕にはできなかった。
「もしも君が一人なら、僕は君を探しに行こう。必ず見つける。夢の外でも遊ぼうじゃないか」
「夢が終わったら、私はお兄さんのことを忘れちゃうし、お兄さんも私のことを忘れるのよ。探せないわ」
「僕を甘く見てもらっては困るな。有言実行が信条の副委員長だぞ?」
自信たっぷりに眼鏡を押し上げてみせる。
「うふふ、じゃあ期待してる。見つけられたらいっぱい遊んでね」
「約束だ。遊びたい内容をリストにまとめておくといい」
僕たちはさらに森の奥へと進んだ。
しばらく歩いていくと、地面にぽっかりと空いた大きな穴を見つけた。下り坂になっている洞穴のようだ。
「いかにもな場所だな。どうする?」
「もちろん行きましょう。探検って感じでワクワクするわ」
注意深く地中へと下る。せり上がった木の根が階段状に続いていた。
真っ暗だろうと覚悟していたが、土の壁にぼんやりと光を発する植物のツタが張ってあって、幸い視界は確保できていた。
やがて開けた場所に出る。まだ下に降りる木の根の階段は続いていたが、先の道に立ちはだかるようにして一本の木が立っていた。
その木は動いて、僕らと向き合った。
「きっとこの木は見張り番よ。私たちを先に進ませないつもりなんだわ」
「任せてもらおうか。僕が軽くひねり倒してやろう。こいつには果実もないようだしな」
先制攻撃。すばやく間合いを詰めて、拳を繰り出す。さすがにショットガンはないから肉弾戦だ。
木は一瞬の戸惑いを見せたが、すぐに応戦してくる。
「お兄さん、負けないで。足払い! パンチ! キック! 目潰し! 喉輪突き! 背負い投げ~!」
レンちゃんの応援にも熱が入る。意外にも的確な助言で、その通りに動けば敵を追い詰めることができた。それにしても女の子が喉輪突きなんてあんまり言わないと思う。
大振りの枝の振り払いをかいくぐり、フィニッシュブローの背負い投げを仕掛けた。
遠心力を最大に利用して、木の敵を地面に叩きつける。派手に木の葉を散らして、そいつは動かなくなった。
「ふっ、その程度か」
息絶えた大木にポーズを決めてやる。興奮冷めやらぬ様子でレンちゃんが駆け寄ってきた。
「お兄さん、かっこいいわ!」
「任せろと言っただろう。こう見えて士官学院生だからな」
「学院生? 学校に通っているの?」
「さっきも言ったと思うが。レンちゃんはまだ日曜学校か?」
「んー、それも受けてないわ。でも学校に行くのは面白そう」
「友達がいっぱいできるぞ。中には反りの合わないやつもいるけどな」
「友達……」
「もうすぐ最深部だ。さあ、虹の果実を見つけよう」
最深部であることを当然のように知っていた僕は、もはやそれを不思議にも思わなくなっていた。
僕の袖をつかんで、レンちゃんが後をついてくる。
☾
「先ほどのサイレンは?」
小脇にバインダーを抱えたクレア・リーヴェルトが訊いてきた。内心の冷や汗を必死にごまかしつつ、「さあ……なんでしょう?」とトワはかぶりを振った。
「艦長代理のあなたが状況把握に向かわなくてもいいのですか?」
「私が不在でもトラブル対応はできるよう、ブリッジクルーには常日頃から申し伝えてあります。よほどの緊急事態であれば、館内放送で私を直接呼ぶと思います」
「なるほど。統制が取れていますね。有事の際こそ平時のごとくというわけですか」
「恐縮です」
平時のごとく振る舞いはするものの、トワの手の平はじっとりと汗ばんでいた。
クレア憲兵大尉の立ち入り監査が入ると通達があったのは、わずか30分前のことだった。名目は〝設備の適正利用及び所有兵装の確認”というものだ。
皇族管理の無所属とはいえ武装勢力には違いないのだから、正規軍としてその実態をつかんでおく必要がある――という事情はもっともな話だ。しかしそれが方便であることは、トワにもわかっていた。そもそもクレアは一時期乗艦したことがあるのだから、ある程度の設備事情は知っている。
本当の理由はオーロックス砦戦以降に、《ケストレル》の残骸もろとも姿を消したスカーレットの捜索だ。
すなわちカレイジャスが、彼女とその機甲兵をかくまっていないか疑われているのだ。
上層から下層まで各設備をチェックされて、現在は船倉エントランス。
ここに来るまでにスカーレットは発見されていない。アルフィン皇女の私室で療養中というのが不幸中の幸いだった。さすがのクレアも皇女の部屋にテロリストがいるとは想定外だったらしく、貴賓室は開けることなくスルーしてくれたのだ。
問題はここから。扉を開けた先に広がっている整備ドックだ。そこにはケストレルがある。
それを見られてしまえば終わりだ。
爆発と報告したはずのケストレルを保有し、しかも起動可能な状態にまで修復している。当然、どういうつもりか詰問される。そしてスカーレットを保護している可能性が再浮上する。次こそは貴賓室の中も見られるかもしれない。
査察の連絡を受けたトワは、ケストレルを隠蔽するよう、最優先でジョルジュに指示を出していた。ただしその方法までは思いつかなかった。
一時的に機外に出したくとも、むやみにハッチを開けば訝しまれる。転移術での移動も考えたが、ケストレルの体積、重量ともにエマとセリーヌの能力の範疇を超えていた。
よしんばうまく外に出せたとしても、往来の多いバリアハート空港なのだから、必ず誰かの目には留まる。
もうジョルジュに任せるしかなかった。
理想は部位ごとに再分解して、ジャンクパーツの中に紛れさせることだが、果たして時間が足りるものか。
さっきの警報。確かに詳細不明だが、この状況では僥倖に思えた。先に状況を確認するなどと言って、時間稼ぎをしようと一瞬は考えたのだ。
けど止めた。《氷の乙女》を相手に、小賢しい策は逆効果だろう。下手に自分抜きで、査察を続けられるパターンに転がる方がまずい。
「あとはドックですね。案内をお願いできますか」
「えーと……はい」
トワは生唾を飲み下す。ここで拒否する理由があるはずもない。
「ちょっと待って、クレア。なんか喉乾かない?」
進もうとするクレアを、ミリアムが引き止めた。
彼女も査察に同行していたのだ。他にも何人かいる。Ⅶ組代表としてエマ、技術班担当としてミント、暇だったから何となく参加したというフィーだ。
「喉? 大丈夫ですよ」
「そう言わずに。ね、フィー?」
「ん」
てくてくと歩み寄ったフィーは、トレイに乗ったグラスをクレアに差し出した。そこに波打つ液体は緑色だ。
「サラ作成の特製ジュース。愛情たっぷり入ってるから、疲れが吹き飛ぶよ」
「悪意しか入っていない気がしますね……。疲れの前に意識が吹き飛びそうな色をしているのですが」
「それは飲んでからのお楽しみ」
「なんだか無理に飲ませようとしてません? まずあなたがそれを飲んで見せて下さい」
「それは無理だけど」
トワは焦った。
不自然だよ、フィーちゃん。露骨過ぎるよ。絶対怪しまれるよ。というか自分じゃ飲めない代物なんだ。
「クレア大尉、これはどう?」
今度はミントが携帯端末を取り出した。
「それはなんです? いくつかのボタンが見えますが」
「うん。好きなボタンを押してね」
「まずボタンを押すとどうなるかの説明が先ですよね」
「電気が流れるだけだよ」
「……どのボタンを押しても?」
「そう。全部当たり」
ミントちゃんは露骨を通り過ぎて直球になってるよ。それ当たりじゃなくて外れだし。みんな時間稼ぎをしようとしてくれてるのはわかるんだけど、その手段がことごとくクレア大尉を仕留めにかかっているような。
(トワ会長)
不意に頭の中に声が反響した。とっさに振り向くと、エマが人差し指を自身の口に当てている。
これが念話術か。トワはつい出そうになった声をこらえ、頭の中で思考を集中させた。
(エマちゃん、どうしよう。もうドックに入ってもらうしかないかな?)
(とても機体の分解なんてできていないでしょうね……せいぜい大きな布で覆っているぐらいかと)
(だよねえ……)
ケストレルを回収した理由を、それらしくでっち上げようと思えばやれなくはない。スクラップをレイゼルの予備パーツにだとか、特殊エンジンの解析だとか、言い様はいくらでもある。無論、それで正規軍に報告しなかったことが正当化されたりはしないが、厳重注意という程度に収めることはできる。
しかしスカーレットのことは、どうしても言い逃れできない。
元々トワは艦内で彼女を保護することに反対だったので、スカーレットの捕縛連行はやむなしという考えだ。
ただアルフィンが納得しない。絶対にしない。
ここでスカーレットの存在が発覚しようものなら、アルフィンの怒涛の責めが自分を待ち受けている。逆に正規軍に虚偽報告を続け、その上で事が露呈すれば、これまでのような便宜は図ってもらえなくなるだろう。
双方への義理立ての境目に私は立っている。
うう、胃が痛いよ。キリキリするよ。あとでロジーヌちゃんにお薬をもらいに行こう。
(私が暗示をかけてみましょうか? ちょっと記憶を混濁させたあとに、転移術で市街に送れば……)
(けっこうハードなこと考えるよね、エマちゃんって……。でもフィーちゃんたちのやり取りで余計に警戒されたみたいだし、このタイミングで暗示は難しいんじゃないかな)
(そうですね。困りました……)
覚悟を決めるしかない。
トワは息を吸って、整備ドックに繋がるドアに手をかけた。
その時、非常階段から足音が聞こえてくる。マキアスがエントランスに降りてきた。
「どうしたの、マキアス君」
反応はない。心ここにあらずといったふうに、「果実……果実がいっぱい……」などとつぶやいている。
その目がまずはフィーとミリアムに向けられた。
「……ふむ……これはまだ熟していないな……収穫には早いか」
胸だ。胸を見ている。うつろな視線だが、そこを見る時だけ焦点が定まっている。
「絶賛成長中なんだけど」
「未来への可能性ー!」
抗弁する二人にかまわず、マキアスは興味を失った目を動かした。
次に見たのはトワとミントだ。はあ、とため息をついて、残念そうにぼやいた。
「……こっちは元々そういう品種みたいだ」
「ほえ?」
「ど、どういう意味かなっ!?」
そういう品種ってどういう品種? 私はまだがんばれるもん。アンちゃんにも『トワはそれが永劫不変の完成形態だ』とか言われたけど、そんなことないもん。牛乳飲んでるし、腕立て伏せもしてるし。
わかっていなさそうなミントは置いて、トワは食ってかかる。しかし応じる素振りさえみせず、マキアスは一瞬で〝そういう品種の方々”を視界から外していた。
「おお……!」
急に感嘆の声が上がる。
最奥のエマを見とめたマキアスの目が、大きく開かれていた。この場の誰よりもハイクオリティなそれをお持ちの彼女に、吸い込まれるようにして迫っていく。
「……やっと見つけたぞ。虹の果実だ」
「え、な、なんですか?」
困惑するエマ。彼女が身を引くよりも素早く両手を突き出し、マキアスは宇宙に触れた。
☽
「これか! 想像以上だ!」
立派に実った二つの果実を、僕はわしづかんだ。高級な絹のごとき手ざわり。その大きさに違わぬ重量。沈むようでいて押し返してくるような、女神が座する雲を連想させる麗しい弾力。
これだ。これこそが虹の果実。初見の僕でもそれがわかる。
まさか地中に開いた空間にあるとは思わなかった。まさしく隠された宝だ。この夢の森の象徴たる宝珠と言えるだろう。
「さあ、今収穫するからな」
腕に力を入れる。むぎゅっと指が食い込む感覚。しかし採れない。
「むう……すまないがレンちゃんも手伝ってくれないか? 思ったより手こずりそうだ」
「そうしたいけど、無理かも」
「なんで? え!?」
後ろにいるレンちゃんに振り返ると、彼女の体は透けかかっていた。まるで点滅するように、その立ち姿が薄れたり戻ったりしている。
「ど、どういうことだ」
「目が覚めようしてるらしいわ。なんだか頭の上の方に意識が引っ張られてる……」
「待つんだ。せっかく虹の果実を見つけたのに。せめてこれを採ってから……」
「それはお兄さんにあげる。十分楽しめたもの。私と遊んでくれてありがとう」
そう言って微笑むが、どこか寂しそうだった。事の大小に関わらず、誰かと別れることに慣れている目。割り切っているようで、諦観が根底にあるその目。
子供がそんな目をしちゃいけない。このまま見送ってもいけない。とっさにそう思った。
僕は駆け出していた。レンちゃんの両肩に強く手を添える。びくりと驚いたようだった。
その瞬間、僕の中に何かが流れ込んできた。
『善も悪も、生も死も超えたところを淡々と歩いてきた――』
『どこから始まってどこで終わるのか――』
『私は歩んではいないのだ――』
『ただ、世界が回っていた――』
『世界は私のために回っている――』
心の奥のさらに深淵。ぶつ切れのイメージが断続的に頭蓋の内側を苛んでいく。喉元まで込み上げる吐き気に、僕は両膝をついた。
「がっ、は……っ」
胃がねじ切れそうだ。体中を燻されているような不快が押し寄せてくる。
ぽっかりと空いた穴の先に、黒でも白でもない虚無が見えた。これがかつてこの子を壊したものか。
かつて……? そう、かつてだ。今じゃない。
「どうしたの」
「大丈夫だ」
震える足で立ち上がって、レンちゃんを抱きしめた。
「君は大丈夫だ」
「なにが」
「現実に戻っても君は一人じゃない」
「そうなのかしら」
果てない虚無の中に、しかし確かな光も生まれていた。それは徐々に大きくなって、彼女の空洞を埋めつつある。時間はかかるかもしれないが、いつか温かな光で満ちる時がくる。
心の拠り所にしていた《パテル=マテル》という人形兵器を失っても、いや、当たり前の人生を歩んでいくためには、それを失うことが必要だったのだろう。そしてその環境は整っていた。
だから〝彼”も『サヨウナラ』と告げた――告げることができたのだ。
「本当は虹の果実でもなんでも良かったんだろう。感謝を形にして渡したかった人がいるんだろう。だからこんな夢を見る」
「お兄さんは不思議な人ね。約束、覚えてくれてる?」
「もちろんだ。また君と遊ぼう。今度は僕の仲間もいっしょだ。いけ好かないが、なぜか子供受けのいいやつもいるしな」
「ふふ、それは楽しみ。そうね……きっと私もお兄さんに紹介したい人がいるのだと思うわ」
その姿が消えていく。透けた向こう側の景色が裂けて、光があふれ出していた。どうやら僕の夢も終わろうとしている。
彼女は大人びた仕草でスカートの裾を持ち上げると、子供らしい笑みを浮かべた。
また会う日まで、ごきげんよう。
かすかに聞こえたその声を最後に、レンちゃんはいなくなった。
☾
意識が急速に遠退いていく。違う。逆だ。現実の僕の体に戻っているのだ。
ぼやけていた景色の輪郭が像を結び、少しずつ明瞭さを増していった。
「……ん」
まぶたはすでに開いている。起きた。起床した。今何時だ。いや、まだ夢の中か? いつもなら仮眠室の天井が一番に視界に入るのに、なぜか僕の目の前にはクレア大尉がいる――
「へ?」
大尉は無言だ。僕の視線が自然と下にスライドする。自分の両手が、彼女の胸をわしっとホールドしていた。
思考が追いつかない。どういうことだ。これは本当に夢から覚めているのか。むしろ夢であってくれ。
「ちっ、違うんです。これはなんというか、そう! 虹の果実を……っ、あの、誰だっけ。ほら、すみれ色の髪の女の子と探してて……!」
半ば死んでいる頭を無理やりに回転させるが、自分でも意味不明な釈明しか出てこなかった。
クレア大尉の表情は普段通り平静に見えたが、頬はほのかに赤く、肩がふるふると上下に小刻みに震えている。
「……マキアスさん」
「はっ!」
「とりあえず手を離して頂けますか」
「ほひゅあっ!」
吐いたとも吸ったともつかない呼吸音が、鼻と口から同時に出た。
光の速さで手を引く。ふよんと軍服の形が変わる。謝罪すべきなのか。しかし経緯が自分でもわからない。言葉が出てこない。
何も言わず、クレア大尉は走り去ってしまった。非常階段を勢いよく駆け上がる軍靴の音が、鼓膜に何度も反響する。
「だ、誰か説明してくれ……」
そうとしか言えない僕に、トワ会長が困惑気味に口を開いた。
「えっとね……マキアス君は突然ドックに降りてきて、エマちゃんに近づいてたんだけど、急に方向転換してクレア大尉の……その、む、胸を」
説明を受けても経緯は不明のままだった。ただ結果だけがわかった。残酷な結末だけが。
寝ぼけていた? そんな理由では正当化できないだろう。いや、クレア大尉の聡明な頭脳のこと、何らかの異常事態が発生していたとは察してくれているはずだ。そうに違いない。
まだ弁解の余地はある。この悲しい誤解を一刻も早く解かなくては。
トワ会長は艦長の声音で指示を飛ばした。
「カレイジャス発進準備! クレア大尉の退艦を確認次第、バリアハートより出港。そのまま東部巡回に入ります。各員、可及的速やかに配置について下さい!」
慌ただしく散開していく一同の中、歩み寄ってきたフィーが、立ち尽くす僕の肩をぽんと叩く。
「嫌われたね」
瞬間、眼鏡が爆散した。
●
木造の天井が見えた。黒ずみや剥落があって、けっこう汚い。まあ、天井なんてそうそう掃除できる場所でもないのだろう。
まだ覚醒しきらない意識の波間にそんなことを思った。
どうやらベッドに寝かされているらしい。どうして。
「レン、起きた?」
身じろいだ気配が伝わったのか、自分の名前を呼んだ誰かの足音が近づいてくる。
心配そう枕元に立ったのは、明るい栗毛色の髪をツインテールにまとめた少女だった。彼女に続いて、端正な顔立ちの黒髪の少年もやってきた。
「……エステル、ヨシュア……?」
「まだ起きなくていい」
ずれていた毛布をかけなおして、ヨシュアが言う。優しい声だ。
「ここはどこ?」
「マインツだよ。《赤レンガ亭》の客室を借りてる」
「そう」
マインツとはクロスベル北部に位置する鉱山町だ。《赤レンガ亭》は宿酒場。ここの客室は店の地下に作られている。上が騒がしいのはそのせいか。
「私、寝てたの?」
「気を失っていた。何があったか覚えているかい?」
「……ん」
もう状況はわかっている。クロスベル市を守護していた三体の神機。その内の一体を引き受けて、ヨシュアたちと一緒に戦った。連携も織り交ぜつつ善戦したが、それでも相手の力は強大だった。
先行してしまった私を《パテル=マテル》がかばってくれた。そして〝彼”は神機を巻き添えに自爆した。
ただ一言を言い遺して。
「大丈夫?」
エステルが額を撫でてくれた。安心する……。
「うん。大丈夫。悲しいんだけど……なんだか大丈夫みたい」
「無理はしないで」
「本当よ。たくさん泣いたけど、同じくらい笑ったの。遊んでくれた人がいるの」
「遊んだ……ああ、夢を見てたのね。いい夢だった? 誰と遊んだの? ティータ?」
「……誰だったかしら。でもいい夢よ」
エステルとヨシュアは柔らかな笑顔のまま、首をかしげていた。
君は一人じゃない。不意に浮かぶその言葉。
当たっていたわ。もう名前も思い出せないし、顔も薄れてしまってきたけれど。
《パテル=マテル》のことは忘れない。いつまでも大切に想う。たとえあなたがそばにいなくても、私は笑っていく。それが最後の言葉に込められた、あなたの望みだってわかるから。
「ねえ、エステル、ヨシュア。手を繋いで」
二人は何も言わずに、片方ずつ手を握ってくれた。体温が伝わってきて、理由もなくしずくが頬を伝う。
世界は私を置いて回っていない。私のためにも回っていない。
今はただ、私と一緒に回っている。
そういうことを言いたかったんでしょう、お兄さん。
――続く――
――Side Stories――
《世直し任侠譚⑧》
行くべきか、控えるべきか。
船倉エントランスに続く非常階段の前で、ハイベルは悩んでいた。
「うーん……」
一人うなっては、左右にうろうろ。もうかれこれ10分以上も同じことを繰り返している。
クレア大尉が来艦している。ぜひとも挨拶しておきたい。
しかし彼女は査察目的で来ている。いつものような優しい雰囲気でというわけにはいかないだろう。そこに自分がにこやかに登場するのも、ひどく間の悪い話ではないか。
とはいえ次に会えるのはいつかわからないし、なによりそのタイミングで、あの生意気な一年がしゃしゃり出てこないとも限らない。
「虹の果実……」
そこに生意気な
ハイベルは確信した。
「待て。止まれ。今、船倉は取り込み中だ」
「………」
「だんまりね。目的はわかってる。君もクレア大尉のところへ――うわっ!?」
いきなりマキアスが手刀を繰り出してきた。危ういところでハイベルは回避する。
「なりふり構わずか。本性を見せたな!」
会話をしようとする意思さえ見せず、相手は攻撃を仕掛けてきた。
足払いからのパンチ。すかさずキック。卑劣にも目潰し。掟破りの喉輪突き。
間違いない。確実に僕を殺しにきている。
「あまり調子に乗らないでもらおうか。音楽を奏でるだけが吹奏楽部じゃないってことを教えてあげよう」
ハイベルは深く息を吸い込んだ。
ホルン演奏で鍛え上げられた肺活量が、体内に膨大な酸素を巡らせる。活性化していく鋼の肉体。
「驚いたかな。吹奏楽部員はみんな
五指がそろい、爪先まで力がこもる。鋭い一閃が壁面に切り傷を刻んだ。
「ピアノの鍵盤を叩き続けたことによる指の伸筋と屈筋の極限強化だ。だてに部長は名乗っていないよ。……ただこの力はなるべく使わないようにしてきた。街道生活の間でも使わなかった。あくまでもこの指は音楽の為に使うものだからね。けど今日だけはその封印を解こう。君をクレア大尉の元にはああああ!?」
長広舌の最中で、景色がぐるりと半回転する。素早く踏み込んできたマキアスに腕を絡め取られ、そのまま背負い投げを決められた。
背中への強い衝撃のせいで、ハイベルは体に溜めた酸素を吐き出してしまった。
「ぐはっ!」
「ふっ、その程度か」
ここでマキアスが口を開く。屈辱極まりない捨て台詞を残し、彼は船倉へと降りていった。
「うう……くそう」
それからしばらく床に横たわっていた。
五分も経たないぐらいだろうか。階段を駆け上がってくる足音が聞こえた。
クレアだ。彼女はハイベルに気づく様子もなく、さらに上層の階段へと消えていく。その顔は真っ赤だった。
あの小僧、何をしやがった。
★ ★ ★
――another scene――
ヴァリマールの空間転移ならケストレルと一緒にカレイジャスから離脱できないか。ジョルジュからそんな打診を受けて、リィンは整備ドックまで来ていた。
結果から言えば、それはできなかった。
エマの転移術と違い、ヴァリマールの空間転移は起動者の元に駆けつけるための能力で、自身の機体にのみ作用するものだったのだ。どれだけ近くにいようとも、その効果がケストレルにまで及ぶことはない。
結局どうにもできず、右往左往していた矢先に、クレア大尉が退艦したというトワからのアナウンスが入った。
一番の目的だったはずのドックに立ち入らずに撤収するとは、どんなやり取りがあったのか。おそらくはトワが巧みな弁論で納得させたのだろうが。
リィンは一息ついた。
「騒がしくして悪かったな」
『気ニスルナ』
その足元からヴァリマールを見上げる。
「今は少しでも霊力を回復しないといけないからな。正直、空間転移を使う事態にならなくて良かったと思う」
『同意ダ。アト二回シカ戦エナイノナラ、セメテ状態ハ万全ニシテオキタイ』
「ああ……すまない」
『ソナタガ謝ル事デハ――ムッ』
「ヴァリマール?」
急に反応がなくなる。ヴァリマールは唐突に休眠状態に移行してしまった。
「リィン」
彼の無反応と入れ違うように、アリサが声をかけてきた。
「アリサもドックに来ていたのか」
「ええ。一応レイゼルに待機していたの」
なぜか一瞬ラウラの姿が脳裏によぎった。
こういうことはまったく経験がないから、アリサに相談してみようかとも思ったが、それだけはするなと、自分の中の何かが激しく危険信号を発していた。
しかしアリサと向き合うだけでも感じるこの気まずさはなんだ。後ろめたさ……とでもいうのか。無意識に目を逸らしたくなる自分がいる。
「あのね、リィン。聞きたいことがね、あるのよ。時間もらっていいかしら。ねえ?」
声音がどこか低い。冷気がある。トゲもある。
「もちろんかまわないが」
勝手に声が上ずった。鼓動が早くなっている。
「良かった。じゃあ聴取室へ移動しましょう」
「………」
カレイジャス運用以降、一度も使用していない開かずの間を、今使うだなんてどうして言い出す。今から何が始まろうとしている。俺は何をされようとしているんだ。
アリサの手にはプリント用紙らしきものがあった。
ヴァリマールは沈黙を貫いている。
妙な空間に放り込まれたリィンの首筋に冷たいものが流れたその時、
「全員動くな!」
鋭い声が響き渡った。
その場のクルーの視線が、ドックの出入り口に集中する。眼帯の女が立っていた。
「スカーレット……? なっ!?」
リィンは身を強張らせ、事態を察したアリサの顔も青くなる。
スカーレットは人質を取っていた。後ろ手を荒っぽく拘束されているのは、アルフィン・ライゼ・アルノールだった。
アルフィンの首元につけたナイフをちらつかせ、彼女は言う。
「ケストレルを修復してくれてありがとう。さっそく機体を返してくれるかしら」
――つづく――
《黒のリボンに虹を結んで》をお付き合い頂きありがとうございます。
この話は碧の軌跡をプレイした時に、補完ストーリーとして作りたいと思っていました。
ただ閃の軌跡との時系列の関係上なかなか描くことができず、物語の進行度がマッチした今のタイミングでようやく手掛けることができました。
ちなみにこの話は前作の『そんなトリスタの日常』の中のショートストーリー《ドリームオブサイズ》が関連しています。
《夢にて夢みて》のふぃふすとして出そうかとも考えたのですが、現実とも交差しつつ、本編にも絡む内容だったため、メインストーリーに組み込む形を取っています。
魔獣に狙われて寝不足で、ジャスティスファイブとして活動し、ハンコック邸でやらかした風の魔王一派を事情聴取し、心労重なる状態で最後に胸を揉まれてしまったクレア大尉が、バリアハート寄航日の一番の被害者だったのかもしれません。
そろそろいつものショートショートに入り、二部の締めくくりへと向かっていきます。
引き続きお楽しみいただければ幸いです。