虹の軌跡Ⅱ Prism of 《ARCUS》   作:テッチー

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第93話 戻る針と進む針

「どこ行くんだ?」

 すぐ横を通り過ぎて行こうとするルーファス・アルバレアを、クロウは横目で追って呼び止めた。

 すれ違ったあとでルーファスは立ち止まり、しかし振り返らずに言う。

「人に会いに」

「誰だか知らねえが、そいつはあれを差し置く程の人物なのかよ」

 クロウもまた振り返らず、彼方に視線を置いたままだ。

 《パンタグリュエル》の広大な上部甲板には、貴族連合の主要な協力者たちが顔を連ねている。彼らのいずれも、その視線を遥か遠くの一点に集中させていた。

 雲を穿つ巨大な幹と、そこからさらに空へと無数に伸びる枝。それは光を放つ〝大樹”そのものだった。

「《碧き零の計画》が形を成したモノ。結社の《幻焔計画》ってやつの片割れの産物か」

「私はそちらに関与していない。全てを把握しているわけではないよ。それこそ結社の者たちに訊いてみては?」

「訊けっつってもなあ……」

 クロウは結社サイドを一瞥する。

 心ここに在らずのブルブランは「あれこそ人の妄執の果てと言えるだろう。素晴らしいな!」と、かの大樹に目を奪われている。「ま、順調に越したことはねえか」と、首を鳴らすマクバーンは相変わらず気だるげだ。興奮気味のデュバリィは「さすがはマスター! つつがなく! 滞りなく! あなた達もそう思うでしょう!?」と、両どなりのアイネスとエンネアに同意を求めていた。

 まともに質問できそうなやつがいねえ。

 レオニダスとゼノは黙ってその光景を眺めている。何を考えているのかはわからない。

 彼らの先頭に立つカイエン公爵は、いかにも感無量といったふうに両の腕を掲げた。

「これで準備は整った。そうだろう、魔女殿」

「ええ」

 カイエンの同意を受け止めて、傍らのヴィータ・クロチルダはうなずいてみせる

「かの大樹の出現をもって、第二楽章は終幕へ。全ては史書の通りに」

「ではこちらも最後の詰めに移ろう。〝緋”を目覚めさせるために、な」

「血は足りていまして?」

「本来なら皇女殿下にも力添え願いたいところだったが、なに、皇太子殿下お一人でも立派に勤めは果たされよう」

 顔に張り付けた笑みとは、まさにこれのことだった。偽りの表情の薄皮一枚下で、この男の何かが歪んでいる。そう思えてならない。

 ヴィータはクロウをちらりと見やると、妖艶に口の片端をわずかに上げた。

 わかっている。俺は俺の役目をまっとうするだけだ。

「まもなく最後の戦いが始まるだろう」

 ルーファスが言い、クロウの意識は背後に戻された。しかしお互いに背中合わせのまま。なぜか振り向く気になれなかった。

「最後……正規軍が一斉に攻めてくるってか」

「《紅毛》と《隻眼》ならそうする。私の見立て違いでなければ」

「ルーレとバリアハートの守りが落ちてんだから、動くならむしろ今だろ。俺も同意見だな」

「君は話がわかる。無論、こちらも相応の戦力は整えるつもりだ。西部からウォレス准将とオーレリア将軍を招集しようと思う」

「会いに行く人ってのはそいつら――……じゃあないな」

「敏いな、本当に。そうだな……〝あれを差し置く程の人物なのか”と、君はそう言ったね」

 喉からもれた笑いとも嘆息ともつかない音が、かすかにクロウの耳に届く。

 止めていた足を動かすと同時に、ルーファスは告げた。

「その通りだ」

 遠ざかっていく足音。

 それぞれの思惑が入り乱れつつある。望みのマスまで駒を進めるのは、果たして誰なのか。

「………」

 クロウは今一度、碧の大樹を見据える。

 ヴィータから聞いていた。あそこには《幻の至宝》を再現した《零の至宝》があるそうだ。幻に加え、時と空の特性も併せ持つその力は、時空に干渉して歴史を書き換えることさえ可能だという。

 今しか生きることができないから、俺はあの一瞬に全てを賭して引き金を引いた。

 何度でも過去をやり直せる。それで本当に望む未来を引き寄せられるのだろうか。そうだとしたら、複雑な気分になる。後戻りができないと知っているから、振り向かずにいられるのに。

 大樹の生み出す光が、その碧さを増していく。

 

 

《――▽戻る針と進む針▲――》

 

 

 エリゼはその宝珠を太陽に透かしてみた。透過した陽光がキラキラと輝き、見上げる瞳に落ちてくる。

「不思議な色……でもこれってなんなのかしら」

 幻獣《ヴォルグリフ》を倒した跡に、この珠は転がっていた。手に持って意識を凝らしてみると、その内奥から強い力の鼓動を感じる。

 クオーツとも似ている。しかし人が加工したような形跡はない。戦術オーブメントにはめ込んでみたら何かわかるかもしれなかったが、あいにくと自分の《ARCUS》は兵舎の保管庫に戻されてしまっていた。

 この宝珠のことは、リゼットにも伝えていない。

「木陰の令嬢というのは、なんとも絵になるね」

 不意に声をかけられ、エリゼは反射的に宝珠を隠した。

「ち、知事閣下」

「カールでいいと言ったはずだよ」

 あわてて居住まいを正そうとするエリゼを軽く手で制し、カール・レーグニッツはとなりに腰かけた。

「やることが見つからなくてね。このように軟禁――おっと、保護されている身では仕事も情報ももらえない。執務に忙殺されていた頃が懐かしいよ」

 それで散歩に出向いて、西棟の裏手でエリゼを見つけたのだという。

「ところで君はこんなところで何を? サボっているのかな?」

「ち、違います。今日はお休みなんです」

「冗談だよ。あの副隊長ならいざ知らず、君はそこまで要領のいい人間ではないだろう。これは褒め言葉と受け取ってくれたまえ」

「はあ……」

 あの副隊長とはリゼットのことだ。彼女が言うところの〝無断休憩”を要領がいいと称すのはいかがなものか。

 侍女にも非番はある。ローテーションでグループごとに休みが回ってくるのだ。だからあの三人組――セラム、サターニャ、ルシルも今日は各々で自由時間を過ごしているはずだ。

 この場所はエリゼのお気に入りだった。この時間帯なら日当りが良い上に、巡回コースからも外れているらしく、滅多に人が通らない。だからといって何をするわけでもなく、もっぱら空でも眺めて時間を潰すだけだ。読書ぐらいはしたいが、肝心の本がない。

 エリゼは少しカールのことが苦手だった。

 いい人だとはわかる。私に気を遣ってくれてもいる。ただその気遣いのどこかに、遠慮に似た空気を感じるのだ。

 それはやはり、母のことが関係しているのだろうか。確執があるらしいとは漠然と察してるが、それをはっきり訊いてはいない。

「何か聞きたげな顔だ」

「その、立ち入った質問かもしれないのですが……」

「ルシアのことだろう。わかっているよ」

 一拍置いて、カールは語り始めた。

「私とルシアはかねてよりの知り合いだというのは、以前に話したね。かねてというのは、子供の時分からだ。幼なじみというやつだよ。住んでいた地区は違うし、彼女は貴族だったから、ご近所付きあいまではなかったがね」

 細めた瞳が遠くを見ている。

 母様が帝都出身であることはもちろん知っている。ユミル旅行に行った折、そこで父様に見初められたとも。

 もっともその辺りのいきさつは断片的にしか知らない。子供の立場としてはこそばゆい話なので、あまり追及したりはしなかったのだ。

「子供たちのグループに混じって、よくいっしょに遊んだりした」

「母様が……なんだか意外です」

「ルシアは活発な少女だったよ。仲は良かったと思う。そういう関係がいつまでも続くと思っていた。あの雪の日に〝黒い本”を見つけるまでは」

「黒い本……?」

 不吉な響きがあった。カールの表情が暗く陰る。

「いや、究極的には黒い本を見つけていようといまいと、結末は変わらなかったのかもしれないが。……時にエリゼ君。君は魔獣という存在をどう思う?」

 脈絡のない問い掛けだった。

「……怖いと思いますけど。被害は毎年出ていますし、私も各地に行くたびに追いかけられました」

「そうだろう。正しい。だけどもしかしたらね。共存とまではいかないまでも、魔獣と人が争わないで済む未来があったのかもしれないよ。それに君が追いかけられるのには別の理由がある。世界中の魔獣は君のことが嫌いなんだよ」

「……え」

「ユミルの雪合戦の起源を知っているかい? 六柱を束ねる《雪帝》の選出、それ自体が目的ではないことを。そして《雪帝》はかつて、〝白の帝”と呼ばれていたことを」

 ユミル。雪合戦。雪帝。白の帝。魔獣。カール・レーグニッツ。

 まるで話が繋がらない。まだ物語のパーツが出そろっていないからか? ならばこれを訊けば……。

「その黒い本には何が書かれていたんですか?」

「事の始まりと未来が歪む経緯。それは……また今度にしようか。これ以上ないお客様がいらしたようだ」

 カールは素早く立ち上がる。深々と一礼する先には、セドリック・ライゼ・アルノールの姿があった。

「えっと、お話中でしたか……?」

「時間潰しの昔話に付き合わせていた次第でして、ちょうど失礼するところだったのです。ではごゆるりと」

 遠慮がちなセドリックに再び慇懃にお辞儀をすると、カールはその場から立ち去った。

 さすがに座ったままというわけにもいかず、エリゼも腰を上げる。

「このような場所までお越しになって……いかがなさいましたか?」

「い、いえ! 散歩だったんです。偶然なんです!」

 強く念押しされる。今日はみんな時間を持て余している日なのかもしれない。

 カールの背を見送ってから、セドリックは言った。

「知事との話はよいのですか?」

「ええ。一応は」

 聞けなかったこともあるし、わからないことも増えてしまったけれど。教えてくれないわけではなさそうだ。

 エリゼはふと思い出す。

「そういえば殿下。以前にカイエン公が訪ねてくると伺っておりましたが、あの件は……」

「ああ、ちょうどさっき連絡が入りました。向こうの段取りもついたとかで、数日後にここに来られるそうです」

「段取り……?」

 気にかかった。見て欲しいものがあるという理由での、セドリックへの謁見。

 あの濁った目が忘れられない。右手に握りしめたままの宝珠が、どくんと脈動した気がした。

「前からカイエン公とは話したいと思っていましたし、早期にこの混乱を鎮められるようにできたらいいのですが。……それはそうと、エリゼさんの方は問題ありませんか?」

「私ですか? ――あ」

 ここに彼が足を運んだのは偶然ではない。殿下は私を案じて下さっていたのだ。もしかしたらレーグニッツ知事もそうなのかもしれない。誰も彼も、本当に優しい。

 温かなものを感じつつ、エリゼは微笑んでみせた。

「大丈夫ですよ。それなりにやっていますから」

 

 

 エリゼを取り巻く環境は変わりつつあった。

 セドリックといくつかの話をしたあと、彼女は西棟の屋内へと移動する。これ以上はどこに行くつもりもなく、部屋に戻ろうかと歩を進めかけた矢先、

「エリゼさん、エリゼさん」

 とある一室の戸口から手招きされる。ひょこっと顔を出したのはサターニャだった。褐色がかった肌に理知的な眼鏡が特徴的な、件の三人娘の年長だ。

「ちょっといいかしら?」

 なぜか小声だ。そこはコンロ付きキッチンがあるだけの、スタッフ用の簡易調理室だった。

 エリゼをキッチン部屋に招き入れると、サターニャは困り顔を浮かべた。

「野菜スープを作っているのだけど、なかなか味がまとまらなくて。アドバイスが欲しいのよ」

 休みを利用して、趣味の料理に勤しんでいたのだという。

 エリゼはスープを味見してみた。

「ベースは良いと思います。お酒を少々足してみては? あとお塩をひとつまみ」

「やってみるわ」

 サターニャは助言通りに調味料を足した。

「……うん。味が締まった気がする。ありがとう」

 その顔がほころんだ。

 その容貌からクールな印象を与えがちだが、意外と彼女は愛嬌がある。年上らしいジョークも言うし、空気を読む能力にも長けている。

 ここ最近、サターニャとは話をする機会が増えてきた。

 きっかけはそれとなく振った料理関係の話題が、思いのほか盛り上がったことからだった。彼女の質問にちゃんと納得のいく答えを返せたのは、家庭料理のいろはをルシアに叩き込まれていたおかげだろう。ユミルの郷土料理に関心を持ってもらえたことも大きい。

「もう一工夫加えてみようかしら。完成したらおすそ分けするから、取りに来てもらえる?」

「もちろん。楽しみです」

「本当は部屋まで持って行ってあげたいんだけど……リゼットいるし」

「……なんというか、その、ごめんなさい」

「あなたが謝る必要はないわ。私が苦手なだけよ。頭が切れる人だから、いつも見透かされてるような気がして」

「悪い人じゃありませんよ?」

「それは知ってる。けど不意に物事の核心を突くくせに、それでいて無干渉を貫く態度がね。時々怖くもなるの。何を考えているか表に出ない感じで」

 わからなくもない。ただ同室のエリゼにしてみれば、それは言い過ぎに思えた。つかみどころがないだけで、リゼットはもっと単純だ。

 生きていくために必要なものを選び、不必要なものを捨てる。それが人よりあっさりしているだけだ。そして手放したものに対しては、自分の中で逐一折り合いをつけている。そういう割り切る生き方をするしかなかったのだろう。

「ごめんなさい。こんなところでする話じゃなかったわね。忘れてちょうだい」

 ちょっと考える素振りを見せて、彼女はまた続ける。

「でもね。リゼットは、あなたには心を開いてると思う。彼女って誰にでも明るく接するけど、同時に薄い壁が誰に向けてでもある。それがあなたに対してはない」

「自分ではよくわかりませんが……」

「深くは考えないで。要はあなたの言うことなら素直に聞きそうだから、おいたが過ぎるようならたしなめてって話よ」

 サターニャはくすりと笑むと、ぐつぐつ煮立つ鍋に体を向け直した。

 

 

「……エリゼさん」

 調理室から少し進んだところで、また声をかけられた。

 今度はルシルだ。東方の血が入った顔立ちで、黒髪を丁寧に結い上げている。エリゼが調理室から出てくるのを待っていた様子だ。

「あら、どうしました?」

「これ……」

 ルシルが右腕を見せてくる。侍女服の袖が破けてしまっていた。

「引っかけちゃったんです。ビリって音がして見てみたら……」

 今にも泣きだしてしまいそうな声。

 ルシルはエリゼより年下だ。彼女とも最近はよく話す。というより彼女から話しかけてくる。

 ついこの前のこと。通路の清掃中に、飾ってあった壺の裏から虫が出てきて、ルシルは悲鳴も上げられずに硬直していた。その虫をエリゼがすぱんと退治した。

 懐かれるようになったのはそれからだ。

 お嬢様の部類に入るエリゼだが、この辺りの耐性はリィンたちに同行する中で鍛えられている。魔獣の群れに追われることを思えば、小虫の一匹や二匹はかわいいものだった。

「縫えるから大丈夫ですよ。すぐに直すので手を出して下さい」

 元々そのつもりで頼ってきたらしく、ルシルはソーイングセットを持参していた。

「ありがと。あっちでお願いしていい?」

「どこでもいいですけど?」

 きょろきょろと周りを見回すルシルに、人気のない一角にあるソファに連れて行かれる。

 そこでエリゼは手際よく袖の補修に取り掛かった。

「ルシルさんも裁縫の基本は覚えておいた方が良さそうですね」

「でも教えてくれる人いないし」

「私が教えますよ」

「いいの?」

「ダメな理由がありません」

 すぐに縫い終わる。袖の破れは目立たないくらいには直せていた。

「こんなものでどうでしょう」

「すごい。きれい。うれしいなあ」

 横に座るルシルの頭が、こてんとエリゼの肩にもたれかかった。

「ルシルさん?」

「ルシルって呼んで。私もエリゼお姉様って呼ぶから」

「ど、どうして?」

「いいからー」

「じゃあ……ルシル?」

「はーい、エリゼお姉様」

 ゴロゴロと子猫のように甘えてくる。どのような経緯かで親元を離れ、カレル離宮で侍女として過ごしている身の上。年相応の寂しさがあるのかもしれない。

 立とうとするたびにしがみつかれ、エリゼはルシルの元をしばらく離れられなかった。

 

 

「ふう……」

 慕ってくれるのは素直に嬉しいけど、ああも引き止められると動きづらい。あの名残惜しそうな目を直視してしまうと、ついついかまってしまいたくなる。

 妹がいればこんな感じなのだろうか。逆に私は兄様に対して、あんな目をして困らせたりしたことがあったのだろうか。

 心当たりはない。私は物わかりのいい妹だったはずだ。異論は認めない。

 ふと幼い頃を思い返し、自然と頬が緩んだ時、

「楽しそうですわね?」

 険の乗った声音とぶつかる。

 通路の真ん中に一人の侍女が腕組みをして立っていた。くるると巻いたツインテールを緩やかに揺らすのは、三人組の頭目的存在のセラムだ。ああ、絡まれてしまった。なんとなく予感はしていたけれど。

「こんにちは」

「ふん」

 一応してみた挨拶は、鼻息に押し返された。

「余裕の態度ですこと」

「そんなつもりはないのですが……」

「あの二人を味方につけるなんて姑息な真似をして……。さぞいい気分でしょうね。わたくしを孤立させるための算段を着々と進めているようですが、そうはいきませんわよ!」

 その見当違いを、エリゼは理解した。

 サターニャとルシルが周囲の目を気にしていたのは、セラムに気を遣っていたからだ。彼女のこうなる性格をわかっているのだろう。ただでさえ侯爵家という家格のせいで、頭が上がらないようだし。

「セラムさんは勘違いしています。私は――」

「聞きたくありません! せっかく手に入れたわたくしの居場所を取らないで下さい!」

 目じりに涙がにじんでいる。怒っているとも、悲しんでいるとも違う。

 この人は……怖がっているんだ。

 居場所がなくなってしまう不安。少しだけ、わかる気がする。

 エリゼは肩の力を解いた。小さく息を吐く。

「私はここに来る前、多くの優しい人たちに囲まれていました。輪の中に入れてくれて、いつも助けてくれて、とても頼りになる人たち。私の大好きな人たちです」

「恵まれていることの自慢ですか? 面白くありません」

「けど、その居心地のよかった場所から離れることを……私は自分の意思で選びました」

「え……?」

 セラムの言葉が止まった。怪訝に見返してくる。

「本当はね。離れたくなんかありませんでした。そうできる選択肢もいくつかあったと思います。でも、その大好きな人たちをあの場で誰一人傷つけずに離脱させるには、私が残るのが一番だったんです。だから選びました」

 状況を知らないセラムには、エリゼのいうことが理解できない。

 ただ声音に乗る強い意思だけは感じているようだった。黙って話を聞いている。

「それに居場所は離れただけです。捨ててもいないし、失くしてもいない。私は必ずあの人たちの――あの人のところへ帰ります。約束しましたから」

「あの人?」

「兄です」

 それを聞いて、セラムは目を伏せた。

「そう……お兄様と。兄なら私にもいますわ。侯爵家の跡取りで成績優秀、人付き合いも上手くて、一族の誰からも期待されている兄が。……わたくしと違って」

 セラムは初めて自分の経緯を語った。沈んだ口調だった。

「わたくしに望まれているのは、少しでも良い家格の嫡男と縁をもらい、実家の名にさらなる箔を付けること。だからお父様は自身のコネクションを使って、わたくしをこのカレル離宮に送り出した。皇族のお近くで働いたという実績は、それだけでステータスでしょう。良い縁談も通りやすくなりますもの」

 私情は脇に置いて、理解できる話ではあった。旧体質の貴族制度が残るエレボニアでは、良いも悪いもなくそういう風土である。

 爵位持ちであっても、娘の自主性を尊重するシュバルツァー男爵やアルゼイド子爵のような、自由闊達な気風を持つ人間の方が珍しいのだ。

「使用人でさえ、お兄様とわたくしを比べようとします。陰で色々言われてるのも知ってます……だから……っ」

「セラムさん、あなたは……」

「ずっと大好きだったお兄様とも、いつからか距離を取るようになってしまって……。そして気付いた時には、自分のことを話せる相手はいなくなっていて……居場所もなくなったのです」

 だから両どなりの二人がいなくなってしまうことに不安を覚えたのだろう。家から離れて、ようやく居場所のように思えた立ち位置がなくなってしまうのが怖かったのだろう。

 けれども、どうしていいかわからない。その不器用さが、頑なな態度を作っていたのだ。

「私とお友達になってくれませんか?」

 エリゼはそう言った。突拍子のない提案に、セラムは目をしばたたいた。

「は? え? な、今なんて?」

「お友達になってくれませんかと。居場所は広げて行きましょう。その方が、きっと楽しいと思います」

「で、でも……あの、いいの? わたくし、あなたにひどいことをたくさん……」

「さあ、覚えがありません。仮にそうだとしてもリゼットさんが何かとあなた達をいじめてるので、そこは相殺でいいかと思います」

 くるくると自分のツインテールを忙しなく巻くセラムは、動揺を隠しきれていない。上を見たり、下を見たり、後ろを見たりして、長い長い葛藤の末にようやく、

「じゃあ……えっと。今度、ティータイムでもご一緒にどうですか?」

「ええ。お茶菓子はお持ちします」

 おずおずと差し出される手。エリゼはセラムと握手をした。

 そう、エリゼを取り巻く環境は変わりつつある――

 

 

「戻りました」

「おかえり。まあ座んなよ」

 部屋に帰ると、リゼットが出迎えてくれた。今日は彼女も非番だ。

 エリゼをテーブルに着かせると、リゼットは珍しくコーヒーを淹れた。

「砂糖とミルクはいつも通りでいいね?」

「はい」

 部屋にどことなく違和感。掃除をした形跡がある。私がいなくてヒマだったのかもしれない。

 エリゼにしてみれば、どうせやるならもう少し細かな部分にも手を伸ばして欲しいところだったが。テーブルの脚、椅子の背もたれ、ベッドの下、窓のサッシは基本だ。

 それは言わないでおこう。滅多にしないことをしてくれたのだから。

「気になるところがあるんなら、あとであんたが掃除しなよ」

「わかりました」

 目線だけで考えを読まれたらしい。最近ではいちいち驚かず、エリゼも普通に応じていたりする。

 出されたコーヒーカップに口を付けた時、「あんたさあ」とリゼットが口を開いた。

「自分の兄貴のことが好きなのかい?」

「ぶふっ」

 口中で止めきれずに吐き出してしまったコーヒーが、テーブルクロスに黒い染みを滲ませる。淑女にあるまじき失態を誘発され、エリゼは恨みがましい目でリゼットをにらんだ。

「な、なんで!?」

「いやね、さっき通路でセラムと込み入った話してたでしょ。その時に互いの兄貴の話題になってたじゃん」

「盗み聞きしてたんですか? 人が悪いですよ!」

「そっちこそ人聞きの悪いこと言うんじゃないよ。雑巾洗いに部屋から出たら、話し声が聞こえてきただけなんだから」

 でもそれで近くに身を隠して、話を聞いたのだろう。確かに共用部でそんな会話をしていたこっちも悪いけど。

「あんたが自分の兄貴のことを語るあたりの口調とかニュアンスでさ。そう思ったわけ。で、どうなの?」

「言いませんよ」

「言え。拒否するなら副隊長権限を行使して、館内放送で今日のあんたの下着の色を暴露してやる。ついでに恥ずかしい寝言も、慎ましやかなそのスリーサイズもセットでな」

「悪質!」

 そんな権限があるものか。というか私はどんな寝言を言ったのだろう。そしてスリーサイズなどいつ測った。慎ましやかとか、余計な一言すぎる。

 永遠に逃げられなさそうだったので、やむなくエリゼは観念した。しかしあいまいに言葉を濁す。

「まあ、なんといいますか……そういう感情に近いものがなくはありません」

「禁断か!」

「違います。血は繋がっていません」

「禁断のさらに向こう側か!」

 どういうこと、それ。

 もっと自分でも照れるかと思ったけど、リゼット相手ではあまりそうならなかった。

 その後も細かい話を洗いざらいしゃべらされる。もう取れなさそうなコーヒーの染みに目を落とす。テーブルクロスを変えておかねば。

「でもさあ。兄貴の周りにはけっこう美人が多いんでしょ。大丈夫なの?」

「正直に言えば、最初はちょっと心配しましたけど。兄様って超がつく鈍感なんです。直接告白でもされない限りは、恋愛系の好意には気づかないと思います」

「難儀だねえ。だったら告白してきそうな女子はいないの?」

「んー……」

 そんな人がいるとしたら、アリサさんとラウラさんだろうか。とはいえあれで二人ともかなりの奥手だから、この短期間ですぐに状況が進展することはなさそうだ。

「多分、問題ないかと」

「ならいいけどね。そういうのって動き出すと早いから。あんたも出遅れないようにしときな」

「別にそういうのでは……兄妹には違いないですし。それ以上はないですよ」

「そう思い込んで自分を納得させようとしてるだけでしょ。あたしは応援するよ」

「はあ、どうも」

 あえて気のない返事で応じる。

 自分を納得させようとしているだけ。……そうかもしれない。兄様の目には、私はただの妹としてしか映っていないってわかっているから。

 守られる妹と、守る兄。

 その関係を変えることは、きっとできない。そんな方法は思いつかない。ただ、もしもそこに変化が訪れるとしたら――

「兄貴の名前は? そういえば聞いてなかった」

 リゼットが言う。その時、かちりと時計の針が進む音がした。

 頭の片隅で、時々、聞こえる、この音。

 どこに進んでいるのか、誰が進めているのかさえ見えないこの音が、確たる目的を持って、すぐそこまで近付いてきている。その予感がある。

「リィンです。リィン・シュバルツァー」

 エリゼは答えた。

 

 ●

 

 まもなく《パンタグリュエル》は進路を変えた。正面に捉えていた〝碧の大樹”が、やがて視界を遮る雲間へと隠れていく。

 号令もなく銘々で解散となったその場に、クロウはたたずんだままだった。

「戻らないの? 冷えるわよ」

 ヴィータ・クロチルダが近付いてくる。透き通るような青いドレスが風になびいていた。

「もちろん戻るつもりだが……でっかい樹だと思ってな」

「過去の改変に興味があるの?」

「ない」

「どうして? 変えたい過去なんていくらでもあるでしょう。特にあなたには」

「過去をやり直したら、今日まで積み重ねてきた判断と決断の意味がなくなっちまう。生きてきたことが台無しだ」

「幸せな未来が待っているかもしれないのに?」

 こいつはいちいち揺さぶりをかけてくる。意味のない試し。まさしく魔女の問答だ。委員長も性悪な姉を持って大変だったろうに。

「記憶や思い出もリセットされるんだろ。それはもう俺じゃない。少なくとも、今の俺じゃなくなる」

「案外センチメンタルな人?」

「違うっつーの」

 理不尽に抗うことをやめたら、確かに楽かもしれない。全部を零に戻して、笑って過ごせるのかもしれない。トワやリィンたちと出会うこともなく、きっとジュライに住み続けていただろう。内戦なんぞを起こすことはなく、トールズのやつらを苦しませることもなかったはずだ。

 仮面をかぶらない人生。

 だけどそれじゃあケジメをつけられない。何より許容できないのは、許容できないという感情さえ消されてしまうことだ。

 それだけは、ダメなんだよ。お前らもそうだろう? ヴァルカン、スカーレット。……そうだよな、じいさん。

 ヴァルカンが言い遺した音声データは、まだ抽出中で内容はわからないままだった。

 スカーレットはオーロックス砦の戦いで《ケストレル》ごと爆発。戦死したと報告を受けた。

 俺だけが残った。やり直すなんて道を選んだら、傷だらけの人生を全うしたあいつらに向ける顔がない。

 ヴィータはそれ以上は茶化さず、細い指で前髪をかき上げた。

「もうすぐ私の出番がやってくる。凱歌と共に煌魔の城を顕現させる。そうして〝緋”を目覚めさせる。舞台の最終章の幕はもう上がっている」

「脚本通りに進むと思うか?」

「アドリブの多い役者ばかりだものね。それでも結末は動かない」

 歯車はとっくに回り出している。本来なら何人にも介入する余地はない。紅き翼がどう行動しようとも――

「紅き翼か。そうだな……」

「え?」

「なあ。その出番までは時間あるんだよな?」

「それはまあ、多少はあるけど」

「出かけたい。ついて来てくれ」

「あら、あらあらあら?」

 ヴィータはいたずらっぽく顔をのぞき込んできた。

「デートのお誘い? 初めてよね。嬉しいわ」

「おう。転移術使えるんだろ。足代わりに」

「ふふ、氷の中に閉じ込めちゃっていい?」

 目がマジじゃねえか。本気でやりかねんあたりが怖えよ。

「あー実際、転移術ってどれくらい移動できるものなんだ?」

「術者によって差があるけど。見たところと見えているところっていう制約もあるし。一回の転移だと、そうねえ……私でだいたい20セルジュくらいかしら?」

「すげえな……」

 何回か術を繰り返せばどの町にも短時間で到達できる。鉄道いらずの魔女様だ。

「失礼なことを考えられた気がしたわ」

「被害妄想ってやつだな」

「あなたって、昔はもっと可愛げがあったと思うのだけれど」

 まあいいわ、とヴィータは肩をすくめた。

「付き合ってあげるわよ。外出ついでに私も会っておきたい妹がいるしね」

「それ対象が一人しかいねえじゃねえか」

「ちょっと着替えてくるから、あなたも準備なさいな」

「あいよ」

 さすがにドレスでは行かないらしい。久しぶりのミスティさんだと、何やら楽しげな様子だ。

 あの言い様だと委員長が目当てのようだが、それは都合がいい。目的地が同じになるからだ。

 事が始まってしまえば、もう二度と会うことはできなくなるだろう。

 会っておこう。最後に、一度だけ。

 

 

 ――続く――

 




《戻る針と進む針》をお付き合い頂きありがとうございます。

長かった第二部も終わりに近づき、いよいよクライマックスへ。

ですがショートショートの詰め合わせやら、細かなサイドストーリーやらがあるので、もう少しかかります! 

次回の更新は『夢にて夢みて ふぉーす』となります。
引き続きお楽しみ頂ければ幸いです。

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