ここ最近ではいい天気だった。薄い雲はあれど晴れ間がのぞいている。とはいえ冬は冬。それほど日差しが温かいわけではない。
バリアハート空港に停泊中のカレイジャスの上部甲板に、ミリアムは一人で寝転がっていた。
「こんなのも面白いかも。だけどさっきのページのもいいかなー」
かたわらには動物図鑑やらパズルやらが置かれている。お勉強と称したトランス能力向上レッスンのために、エマとトワが用意したものだ。
最初はしぶしぶ付き合わされていたのだが、二人の先生の工夫を重ねた説明と、興味を引く様々な手法によって、今ではミリアム自らが本を開くまでになっていた。
その姿を見たエマは一滴の涙を頬に伝わらせ、膝からくずおれた。尚、悲願の一つを達したエマの次なる標的は、いわずもがなフィーである。
「うぅ……やっぱり寒いかも。ガーちゃん、来て」
ひゅうと吹き抜ける風は冷たい。
ミリアムは呼び出したアガートラムをトランスさせた。
ぎゅるるっと球状に形態変化したアガートラムは、ミリアムの頭上に移動すると、彼女を覆うように三角錐へと再構成を果たす。銀色のテントの内部には、生成された温かい空気が満ちていた。
「あはは、快適~」
機構をミリアムが理解していなくとも、その望みに応えられるよう、アガートラムはその形を自在に変えるのだ。もっとも下地となる彼女の知識や感性ありきの話だが。
ごろんごろんと上機嫌に転がって仰向けになった時、テントの戸口から空に黒いものが浮かんでいるのが見えた。
上空からふよんふよんと高度を下げながら近付いてきたのは漆黒の戦術殻――クラウ=ソラスと、その腕に抱かれたアルティナ・オライオンだった。
「あれ、アーちゃんだ。どうしたの?」
「いい加減、その呼び方はやめて下さい」
「だからボクのこともミーちゃんって呼んでいいんだよ」
「呼びません」
甲板に着地したアルティナは、テントの中に足を踏み入れると、ちょこんとミリアムの前に座った。
「奇襲に来ました」
「きしゅー?」
「そうです。奇襲です」
対面して見つめ合う。
「なんで急に?」
「急じゃないと奇襲にならないでしょう」
「でも奇襲って言っちゃったら、それは奇襲にならなくない?」
「……一理あります」
ほんのわずか気まずそうに、アルティナはため息をもらした。
「実はエリゼ・シュバルツァーからあなたの弱点を聞きまして」
「エリゼと話したんだ。そっか、《パンタグリュエル》にいるんだもんね」
「今はいません。少し前の話です」
「じゃーどこにいるの?」
「私は知りません」
「そっか、知りたかったんだけどなー」
「知っていたとしても、あなたには教えませんよ」
「アーちゃんが知らないってことは知っちゃったもんね」
不服そうにしているアルティナに、ミリアムは小首をかしげた。
「でもボクの弱点ってなに?」
「早朝です。あなたの動きが極端に鈍ると」
「うん、朝は苦手だよ。今日も委員長に起こされちゃったし。じゃあアーちゃんはその時間を狙って来たんだ?」
「そういうことです。カレイジャスが停泊中という情報は入手していましたので」
むー、と考えるミリアムは「ガーちゃん、今何時?」と上に向かって言う。
テントの上部の一角がモニターに変わり、《11:35》を二人に示した。
「もうお昼前になってるけど」
「不測の事態が発生したためです。まず大前提として、あなたが寝ているであろう朝7時にここに到着しようするなら、私はさらに早く起床する必要があります。それを一時間前に設定しました」
「朝六時だね」
「完全に私の活動時間外です。もちろん起きるべく、目覚まし時計はセットしましたが……なぜか目を覚ますと枕元で壊れていました。不可解と言わざるを得ません」
「それクーちゃんがやったんじゃないの?」
「クラウ=ソラスが?」
目覚ましは定刻通りに役目を果たした。寝ぼけていたアルティナは、ベルの音を鳴らしたてるそれをうるさく思った。そのわずらわしい感情がフィードバックされたクラウ=ソラスは、主の安眠を守るために目覚まし時計を破壊した。
つまり大元の原因はアルティナの意思ということになる。
おぼろげにも覚えているところがあったようで、アルティナは視線を明後日の方向に逃がした。
「……今日は帰ります」
「なんで?」
「もう用事はありませんので」
「えー? せっかくなんだし一緒に遊びに行こうよー!」
立ち上がって背を向けようとしたアルティナの袖を引っ張る。
「行こうよ行こうよ行こうってば!」
「ちょ、ちょっと離して下さい。服が伸びっ――伸びるので」
ぱっと腕を振り払うと、呼吸を乱したままテント内を見回した。
「このテントはアガートラムのトランスですね。温かい風が吹いていますし、さっきは時刻表示もしましたか。こんなことができるなんて……」
「アーちゃんはできないの?」
「あなたにできて私にできないわけがないでしょう。しようと考えなかっただけです。……他にもバリエーションが?」
「あるよ、いっぱい」
しばし思案していたアルティナは、「気が変わりました」とミリアムに向き直った。
「遊びとやらに付き合うことにします。ですが勘違いしないで下さい。あなたの能力を見定め、今後の戦況をこちらが有利に運ぶためですので」
「うんうん、わかったよ。さっそく町中に行こうね! アーちゃんとお出かけなんて楽しみだなあ」
「……私の言ったこと、理解していますか?」
《☆オートクチュールのうさぎたち★》
アガートラムとクラウ=ソラスが異相空間に消える。カレイジャスを発った二人が降り立ったのは、バリアハートの南に位置する職人通りだった。
「アーちゃんってバリアハートは初めて?」
「足を運んだことはありますが、町を見回ったことはありません」
「じゃー散歩ついでにボクが案内してあげるよ。そうだ、お腹減ってない?」
「若干空腹ですが……」
《パンタグリュエル》からこちらに向かう折、アルティナは朝食を食べ損ねていた。予定時刻を寝過ごしたから、一応焦ってはいたのだ。もっとも表情にはほとんど出ていないので、誰にもその焦燥を悟られることはなかったが。
「バリアハートって他の町に比べると、市内の露店がちょっと少ないんだよね。でも職人通りなら色々あるからさ。はい、手を出して」
「こうですか。あっ、なにを」
ミリアムはアルティナと手をつないだ。嫌がられてもお構いなしで、腕をぶんぶん振って歩く。
中央広場へと続く緩い上り坂を挟むようにして、様々な店が立ち並んでいる。石のタイルで舗装された道の継ぎ目を、不規則に飛び越えたり着地したりするミリアムに、アルティナは迷惑この上なく引っ張られていた。
「少しはまっすぐに歩けないんですか。というか手を離して下さい」
「本当は嬉しいくせに。さては照れ隠しだなー」
「その勘違いは不愉快です」
抗弁は右から左に流して、近くの露店の前に移動する。湯気が立ち昇り、野菜の煮立つ良い匂いがしていた。
簡易キッチンの向こう側に立つ中年男性に、ミリアムは声をかける。
「おじさん、なに作ってるの?」
「ポトフさ。寒いから屋外販売でもけっこう売れるんだぜ。まあ、レストラン通いの貴族様は買っていかねえけどな。ちっこいお嬢ちゃんたちは食べてくか?」
「もっちろん! 二つちょーだい」
「おうよ、姉妹かい? 手なんか繋いで仲いいねえ。おじさん、おまけしちゃうよ」
大鍋からすくわれた野菜とスープが、カップいっぱいに注がれる。じゃがいもにブロッコリー、タマネギににんじんにウィンナー。その上に散ったパセリの風味も食欲をそそる。カップを手渡されたアルティナは、じいっとそれを見つめた。
近くにベンチがなかったので、二人は適当な石段に腰を下ろした。いっしょにもらった使い捨てのプラスチックスプーンで、できたてほかほかのポトフを口に運ぶ。
「……おいしい」
「だねー。そういえばポトフで思い出したんだけどさ。ちょっと前に鍋に隠れてアルバレア城館に潜入したことがあったんだけど、あやうく火にかけられてポトフになっちゃうとこだったんだよね。あはは」
「なにをやってるんですか、あなたは」
「あれ?」
ミリアムがアルティナのカップをのぞきこむ。
「アーちゃん、にんじん残してる」
「……なにか」
「せっかくおじさんが作ってくれたんだから、食べなきゃダメだよ」
「それは私にとって難度の高い任務です。しかるべき準備と対策を講じてから挑むべきミッションかと。この場においては戦略的撤退がベストであると判断しました」
「苦手なの? にんじん」
少しの無言のあと、アルティナはうなずいた。スプーンでスープの底に沈め、その存在を隠蔽しようとしていたようだ。
「仕方ないなあ。お姉ちゃんに任せてよ」
カップのにんじんを自分のスプーンですくうと、ミリアムはぱくりと食べた。
アルティナは面白くなさそうに言う。
「その程度で姉ぶるのはやめてもらいたいものですね」
「助けてもらった時に言うことは?」
「……ありがとうございます」
「うんうん、素直が一番! まだにんじん隠れてないかな~」
「どさくさに紛れてウィンナーを取ろうとしないで下さい」
ポトフを食べ終えた二人は、店の散策を再開する。温かいものを胃に入れて落ち着いたのか、アルティナは心なしか満ち足りた様子だ。
「次はアイス食べたいな。どこかに売ってない?」
「冬ですよ。露店で売ってるわけがないでしょう」
「甘いよ、アーちゃん。売ってるところには売ってるんだよ。寒いときに冷たいものを食べるのが粋って、誰かが言ってたし」
「そうなんですか……」
次に足を止めたのは、軒先に《ヴァレンティ》という札がかかった仕立て屋だ。ガラス張りのショーウィンドウには、コートやブーツ、帽子なんかが飾られている。
それをミリアムは興味深げに見ていて、アルティナはどうでも良さそうに視界に入れているだけだ。
「ボクたちの身長には合わなさそうだね。でも、あの白いスニーカーははいてみたいかも。アーちゃんは気になるのない?」
「別に。服は機能さえそろっていればなんでも構いません」
「ボクも前までそう思ってたんだけど、アリサがおしゃれの話を楽しそうにするから、最近カタログとか見るようになってさ。トリスタにいた頃は《ル・サージュ》ってお店で小物とかけっこう買っちゃって。あ、このポーチとかもそうなんだけど――」
「興味ありません」
ばっさりと会話を打ち切る。ミリアムは頬を膨らませつつも、
「ぶー、そうだ。ちょっと待ってててね」
一人で店内へと入っていった。
しばらくすると、小包を抱えて戻ってくる。それをアルティナに手渡した。
「はい。プレゼント」
「え?」
訝しげに小包を開くアルティナ。取り出した中身は、深みのあるダークグレーのベレー帽。シックな色合いは、彼女の銀髪とも相性が良さそうだった。
「似合うと思うから。たまにはアーちゃんもおしゃれしてみてよ」
「私はどうしたら……」
戸惑いを隠せていないアルティナは、しかしそれ以上何も言えず、呼び出したクラウ=ソラスのボディにベレー帽を収納する。自分の反応が決められず、困っているようだった。
「行こっか」
再びアルティナの手を引いて、ミリアムは歩き出した。
公園と大聖堂を有する中央区は人々の憩いの場であると同時に、駅方面、貴族街、職人通り、ショッピングモールなど、各地区との連絡路としての役割も担っている。
行き交う人は多かった。
道端では数人の有閑マダムが輪を作り、ひそひそと神妙な顔つきで話し込んでいる。
「聞きまして? ケルディックに火を付けたのは公爵様の指示だったとか」
「昨日から城館が騒がしいのはそのせいでしたのね……。世論の目が貴族全体に向かなければいいですけれど」
「公爵様の独断ですもの。関係のないわたくし達が生活しづらくなってはいけませんわ。妙な扱いを受けたらすぐに異議申し立てを……あら、どこにしたらいいんでしょう?」
「話の続きは《ソルシエラ》にしませんこと。オープンテラスが空いていますわ」
焼かれた町を案じる言葉は出てこない。対岸の火事ほどの認識でしかない会話の横を抜けて、ミリアムとアルティナは女神像の噴水にまでやってきた。
「アーちゃんはケルディックのこと知ってた?」
「事後の報告で聞き及んでいます」
「どう思う?」
「アルバレア公の行動は戦術的に意味のないものだったかと。重要拠点というわけでもありませんし」
「ん」
アルティナの返答に曖昧にうなずくと、ミリアムは女神像の前で手を組み合わせた。
「それは何をしているんですか?」
「お祈り、かな」
「理解できない行為です」
「うん。ボクもよくわからない。わからないけど……なんだか胸がちくちくするんだよね」
「変なところばかり歩くから、どこかでトゲでも刺さったのでしょう」
「あはは。そうかも」
大聖堂の鐘の音が響き渡る。広場にいた鳩の群れが一斉に飛び立っていった。
羽ばたくあとを視線で追っていたミリアムは、見知った顔が公園に近付いて来ることに気づいた。
「あ、アリサと……えーとラクロス部の先輩たちだ」
エミリーとテレジアの名前は思い出せない。ラクロス部の面々は空いていたベンチに、三人並んで腰かけた。
「そうだ。アーちゃん、こっちに来て!」
「な、なんですか」
またアルティナの手を引っ張って、そのベンチの裏側に移動する。近くに子供二人は収まるほどの植え込みがあった。がさがさとそこに身を隠し、アリサたちの話を聞いてみる。
内容はテレジアと、彼女の父親とのいざこざのようだった。エミリーにも関係があるそうで、状態改善のきっかけとなるトラブルを作りたいのだが、実行の難しい案しか出てこないらしい。
二人は小声で話す。
(……あなたの目的がわかりません。本当に帰りたくなってきました)
(なんか面白そうな匂いがするんだよね。もうちょっと付き合ってよー。ガーちゃんとクーちゃんの変身で助けてあげられそうだし)
(トランスを使うと?)
ふむ、と思案するアルティナの答えを待たず、ミリアムは先に茂みから這い出てしまった。
「ふっふーん、話は聞いてたよ。ボクに任せて」
●
ラクロス部の問題は解決した。
結局のところ、トランス能力が必要だったのかは不明だが、やれるだけのことはやったというのが二人の認識だった。
歩きながらアルティナは後ろを振り返る。大通りから逸れた路地には、アリサたちの姿があった。こちらが離れたことには気付いていない。
「勝手に離脱していいんですか? まだ何か立て込んでいるようですが」
つい今しがたのことだ。
仕掛けの終盤、正面から向き合うテレジアとカロライン男爵の間に強盗らしき男が割って入った。テレジアを人質にしようとした男は、エミリーの反撃を受けてあえなく逃走した。その男を突然現れたマスクの四人組が追うという謎の展開で、事態はひとまずの収束を見せている。
「大丈夫だよ。ケガは誰もしてないし」
アルティナを先導しながら、ミリアムは能天気に笑う。
負傷者を強いて挙げればカロライン男爵ぐらいだが、それはアガートラムとクラウ=ソラスにめった打ちされていたからなのでノーカウントである。
「あなたはいつもこんなことをして過ごしているのですか?」
「いつもってわけじゃないけど、でも学院にいる時はこんな感じの日が多かったかな。アーちゃんこそ毎日なにしてるの?」
「下された命令に従って行動しています。命令がない時は待機ですね」
「えー、つまらないよ」
「その感覚はわかりません。別にやりたいこともないですから」
「じゃあ、なんで今日はボクのところに来たのさ?」
「ですから奇襲だと――」
「それがやりたいことだと思うけどな。アーちゃんが選んだんなら」
「え……」
まったく予想していなかった返しに、アルティナは思いがけず立ち止まる。盲点を突かれた指摘は、否定しようにも正論だったのだ。声を発しかけたが言葉として固まらず、喉の奥へと戻ってしまう。
周囲には大きな邸宅がいくつも並んでいる。しかし景色は整然としていて、閑静な雰囲気があった。二人はいつの間にか、貴族街にまでやってきていた。
「んー、あれ?」
「どうかしましたか」
ミリアムの視線が一点に留まる。老年の女性が、下を見たり上を見たりしながらオロオロしていた。
「あの人、困ってるよね。話を聞いてみよっか」
「またそんなことを。なんの根拠もないのに」
「おばーちゃん、ボクたちが力になってあげるよ」
アルティナが言い終わらない内に、ミリアムは女性に声をかけていた。半ば観念したアルティナは、諦めてミリアムのあとに続く。
老齢の女性はエヴァと言った。
60代の半ば過ぎぐらいだろうか、目じりのしわは年相応だが、気品のある佇まいが実年齢よりも彼女を若く見せている。清潔感のあるロングスカートを身に付けているが、ずいぶんと焦って歩き回ったらしく、裾は少し土ぼこりで汚れていた。
「うちのピーちゃんがねえ、逃げてしまったのよ……」
いかにも消沈した声でエヴァは経緯を語った。
とはいえ内容はいたってシンプル。ピーちゃんなるインコを鳥かごに入れて自分の散歩に付き合わせていたのだが、ふとしたはずみで鳥かごの柵が開き、そこから逃げ出してしまったというわけである。
孫ほど年齢の離れたミリアムとアルティナにそのことを話したものの、本当に力になってもらおうとは考えていないようで「憲兵さんにでも頼んでみようかしら……」と困り果てた様子で背中を丸めていた。
「そろそろピーちゃんを探しに行かないと。可愛いお嬢さんたち、おばあさんの話を聞いてくれてありがとうね。そうだ、これはお礼に――」
エヴァはポケットからあめ玉を二つ取り出した。それを二人に渡そうとしたが、その前にアルティナが言う。
「しかし四足歩行型ならともかく羽つきですから。ただのインコが町の外に出ていれば、半日と経たずに魔獣のエサになるのは確実です。骨も残らないでしょうし、死骸の発見は容易ではありません」
「そんなことないよ、アーちゃん。町の中だって猫とかに襲われたら、頭からバリバリいかれちゃうと思うし」
「確かに。川に落ちていたら魚のエサにもなりますしね。水辺に浮いている羽の残骸を探す方が効率的かもしれません」
「下流の水車に巻き込まれてたら厳しいかなー」
「鳥ミンチの回収は困難を極めるでしょう」
可愛いお嬢さんたちの口から生々しい想定が次から次へと飛び出してくる。しかも発見した場合のシチュエーションも、ピーちゃんがもれなくこの世を去っている前提だ。
みるみるとエヴァの顔が青ざめていく。
「あはは、おばあちゃん心配しないでね。ちゃんとボクたちがピーちゃんを見つけてくるから」
「焼くか埋めるか流すかの処理だけ決めていてもらえれば」
「私はお嬢さんたちの将来が心配よ……」
「そうは言ったものの、見つけようがありませんが」
不安げに見送るエヴァから遠ざかると、アルティナはミリアムを横目に見た。
「二人でがんばればなんとかなるよ」
「バリアハートの規模を知っていますか? アガートラムとクラウ=ソラスを使ってもカバーしきれません。人口三十万の都市ですよ」
「ヘイムダルで探すよりはマシだってば。とりあえず試してみるからね」
「試す……?」
前触れもなく顕現したアガートラムは、双腕を皿状にトランスさせた。傘をひっくり返した形にも似ている。体躯よりも大きな〝皿”を空にかざして、ぐるぐるとその場で回り始めた。
「放物面反射器……ではなさそうですね。集音器のつもりですか」
「まーね。でもこのままじゃ拾えないなー。アーちゃんも手伝って」
「仕方ないですね」
アルティナはクラウ=ソラスを呼ぶと、同じく両腕をトランスさせた。黒い巨腕には大小様々な穴が開いている。
キィンと広範囲に超音波が波紋のように拡がった。ほとんどの人間には聞き取れないが、聴覚の優れた動物には届く。わけても今のは鳥類の嫌がる高周波に設定していた。もちろんアルティナの意を汲んだクラウ=ソラスによる自動調整だが。
市内中を一斉に飛び立つ羽ばたきに、アガートラムが反応した。
「ガーちゃんがいくつか範囲を絞ってくれたみたい。あとはボクが選ぶけど……うん、たぶん中央区かな」
「先ほどの噴水の公園? 選択の根拠は?」
「他のところは群れで飛んでたり、単体でも体が大きかったりしてるもん。インコぐらいの小ささの反応もけっこうあるみたいだけど、一番近くは中央区から。野生じゃないからそんなに遠くまでは飛べないと思うし」
「……そこまで読み取れるのですか」
それはアガートラムを指しての言葉か、あるいはミリアムに向けてか。
多くは口を開かず、アルティナはクラウ=ソラスを消した。
昼過ぎの中央広場は、午前中に訪れた時よりも通行人の数が減っていた。昼食時だから家に帰ったか、店でランチを食べているかだろう。
女神像の噴水にまで戻ってきたミリアムは、「はー」と肩を落とした。
「お腹減ったねー」
「ポトフを食べてからそう時間は経っていませんよ」
「知ってる? ここに《ソルシエラ》っていうおいしいレストランがあるんだ。ハーブを使ったスープが絶品で、もう舌がとろけそうになるんだよね」
「先にチキ――小鳥を探すのでしょう」
「今チキンって言った? アーちゃんもお腹減ってる?」
「言ってません、減ってません」
否定したタイミングでアルティナのお腹がきゅるるぅと鳴く。
「やっぱり減っ――」
「減ってません」
断固として言い切り、はぐらかすように辺りを見回した。件のレストランは何やら入口付近が騒がしい。だとして確かめるつもりもなく、アルティナは《ソルシエラ》をスルーしてインコを探す。
ホテル、大聖堂、駅方面、職人通り方面と視線を動かしていき、
「……いました」
公園の端にある街灯の一つに、黄緑色の鮮やかなインコがとまっている。明らかに場に浮いた彩りは、飼い鳥に違いなかった。「まさか本当に見つかるとは……」とそれでも半信半疑のアルティナとは反対に、「さ、捕獲しよー」となんの疑問もなくミリアムはさっそく行動に移っていた。
アガートラムを大きめの虫取り網にトランスさせ、街灯の先めがけて思いきり振るう。当然それで捕まえられるはずもなく、インコは飛んで逃げてしまった。
「あちゃー」
「当たり前です。もう少し別の形もあったでしょうに。追いますよ」
ミリアムとアルティナをそれぞれ抱えたアガートラムとクラウ=ソラスは、ぶわりと滞空しつつ高度を上げた。
まばらな通行人が目を見開く頭上を飛んで、逃げ惑うインコを追跡する黒と白のうさぎたち。
「二人で挟み込める?」
「さっきからやろうとはしていますが」
インコはかなり素早く、接近はできても捕まえるのは難しい。
「やむを得ませんか。あれを使います」
『∃ΕΔЖ§Ж――……ΔΕΟ』
応じたクラウ=ソラスが空中でトランスする。一対のウイングを左右に展開し、正面に鋭利な突端を伸ばす。真下から見たシルエットは、クレイモアにも似た刃幅のある大剣だ。アルティナはその黒いエアボードの背に乗った。
クラウ=ソラスの速度が跳ね上がり、アルティナのフードが風圧で激しくめくれる。前代未聞の敵に追われるインコは急降下し、《ソルシエラ》横の敷地に併設されたオープンテラスに逃げ込んだ。
容赦なくエアボードが追撃する。ガーデンパラソルとテーブルを衝撃波で吹き飛ばし、ついでに利用客も吹っ飛ばす。悲鳴を上げて宙にきりもみするのは、午前にケルディックの話をしていた貴婦人たちだった。
「アーちゃん、それでどうやって捕まえるのさ!?」
減速する時を見計らって、ミリアムがアルティナに近付く。強風にかき消されないよう、彼女は声を張った。
「疲れさせて落とします」
「生け捕りだよ、一応」
悪役側のセリフである。捕まってやるものかよとばかりに、インコは再び高く浮上した。
「羽の片側ぐらいは覚悟してもらいます。もしくはローストチキンになるかです。――ブリューナク起動」
エアボードの先端からレーザーが放たれる。インコは際どく赤い光軸をかわした。
「やっぱりお腹減ってない? ちょっとだけインコのスピードが遅くなってるみたいだし、ここからはボクに任せてよ。ガーちゃん!」
ミリアムはアガートラムの腕から飛び降りた。自由落下する彼女の後ろにアガートラムが移動する。一瞬の光に包まれたあと、ミリアムの背には銀色の翼が生えていた。
「そ、それは……?」
「ガーちゃんウイングだよ」
当然のように言って、力強く羽ばたく。エアボードほどの速さはないが、小回りの利く複雑な機動で、ミリアムは空中を自在に駆けた。
さらに高度を上げたインコを、大聖堂の頂上にまで追い詰める。
「これでおしまーい!」
翼の羽先が細く長く無数に伸びて、空間一帯を囲うように展開された。そこから一本一本の銀の紐が交錯しながら、網目状に収縮されていく。
逃げ場を失ったインコを、ふんわりと籠目の中へ閉じ込めた。
「にししっ、捕獲完了っと。やったね!」
ミリアムはアルティナにVサインを見せる。近くをエアボードで滑空するアルティナは、フードを深くかぶり直していた。
●
「はい、おばーちゃん、ピーちゃんつかまえてきたよ」
ミリアムは元の鳥カゴに入れたインコをエヴァに渡した。
「まあまあまあ! 本当に見つけてきてくれるなんて。あら……でもなんだかピーちゃん、ぐったりしてるような……」
「アーちゃんが焼き鳥にしようとしたからねー」
「焼き鳥ではありません。ローストチキンです」
「じょ、冗談かしら?」
『なにが?』
そろった疑問符に、エヴァの頬が引きつる。しかしピーちゃんが帰ってきた事実は事実なので、彼女は咳払い一つのあとで、柔和な笑みを浮かべてみせた。
「本当にありがとうね、小さなお嬢さんたち。なにかお礼ができるものがあればいいのだけど……」
「お礼なんて気にしなくていいよ。ね、アーちゃん」
「そうですね。……いえ、それならあれを頂けますか?」
「あれって……?」
「さっきもらい損ねてしまったものです」
それでピンときたらしく、エヴァは自分のコートを探る。ポケットから取り出したあめ玉を二人に差し出した。りんご味といちご味が一つずつだ。
「本当にこんなものでいいの?」
「かまいません」
「うんうん!」
申し訳なさそうに訊くエヴァに、ミリアムは笑顔で、アルティナはすまし顔で応じる。二人は同時にあめ玉へと手を伸ばした。
「ボクはりんご味で」
「私はいちご味を」
コロコロとあめ玉を口の中で転がし、彼女たちは市内をめぐる。見るべきところも見て、
「そろそろ帰ります。そういえば17時からミーティングがありました」
「え? えー!? 夕ご飯くらい一緒に食べようよ。そのあとはトランプするんだよ」
「その調子では下手をすると一泊させられそうです」
「いいじゃん、ボクのベッド空いてるし」
「使っているのでしょう。使用中のベッドは空いていると言いません」
「いっしょに寝るんだよ!」
「寝ませんので」
アルティナの表情がわずかに曇っていた。言うかどうか悩んで、彼女は結局口に出す。
「あなたのトランスを見ました。おかしいことばかりです」
「ん?」
「形を変えるのならわかります。ですが温風を出すテント、カロライン男爵を滑らせた動く床、羽音を捕捉する集音器、そして最後に……あなたは自身の体にアガートラムを融合させた。あれは単純な同期レベルの強度で実現できるものではありません。実際……私にはできないでしょう」
聞こえない程度につけ加え、アルティナは続けた。
「理解が――納得ができません。あなたにできて私にできないことが。スペックは同じはずなのに」
「んー? よくわからないけど、ボクとアーちゃんは同じじゃないよ」
「あなたの方が優れていると言うことですか」
ミリアムはかぶりを振って、女神像に視線を転じた。噴水の細かな水しぶきが舞っている。
「ユーシスってさ、なんでもできるけど、チェスだとやっぱりマキアスの方が強いんだよね」
「……?」
「アリサは弓を射れるけど、ラウラの剣は持てないし。委員長はテスト満点だけど、足はフィーの方が早いし。ガイウスの絵は上手だけど、演奏はエリオットの方が上手だし。みんな得意と苦手はあるけど、どっちが上とか下とかはないかな」
アルティナに視線を戻す。
「アーちゃんはにんじんが食べられないけど、ボクは食べられる。でもボクが嫌いなものをアーちゃんは食べられるかもしれない。ボクはりんご味が好きだけど、アーちゃんはいちご味が好き。なんだかうまく言えないけど……。始まり方が同じでも、毎日違うものを見て、違うことを考えてたら、きっと違う人になると思うよ」
「……理解できませんよ。私には」
クラウ=ソラスが現れる。アルティナはその腕に乗った。
「本当に帰っちゃうんだ。ボクがプレゼントしたベレー帽使ってね? 絶対似合うから」
「……まあ、気が向いたらということにしておきます」
「他にも面白いもの見つけたら、アーちゃんにあげるからね!」
「本当にあなたは……。一応言っておきますが、立場上は対立しているんですよ。その辺りはわかっていますか?」
「うん。また遊びに来てねー」
「……わかっていないことがわかりました。次に会う時は私も本気です。容赦しませんので覚悟しておいて下さい」
クラウ=ソラスがゆっくりと浮き上がる。ぐるりとミリアムに背を向けて、不意にぴたりと動きが止まった。「ああ、そうです」とちらりと振り返る。
「エリゼ・シュバルツァーはカレル離宮にいますよ」
あっさりと告げられ、ミリアムは無邪気に笑った。
「なーんだ。やっぱり知ってたんだ」
「思い出しただけです」
「でもボクに教えちゃっていいの? みんなにも言っちゃうよ?」
「あなたの口の堅さに期待はしていません。それに口止めの命令までは受けていませんので」
「情報漏えいの禁則事項とかに含まれてる内容だと思うけどなー」
「こんな時だけそれらしいことを……もういいです。行って下さい、クラウ=ソラス」
単調で淡白ではあったが、微かな不機嫌を滲ませた声音だった。手を振るミリアムに振り返ることなく、漆黒の戦術殻が空へと昇る。
大聖堂を飛び越え、市街を過ぎ去り、バリアハートの外壁の外へ。
誰にも見えなくなってから、アルティナはいそいそとベレー帽を取り出した。
――続く――
――Side Stories――
《続・A/B恋物語 Aパート⑤×――》
「おい聞いたか、《紅き翼》が空港に停まってんだとよ!」
興奮も冷めやらぬ様子でロギンスが言う。
レストラン《ソルシエラ》の裏手のスペースに腰を下ろしていたアランは、「《紅き翼》って、あのカレイジャスが?」とやってきたばかりの先輩に訊き返した。
「おう。買い出しついでの情報だから間違いねえ」
「なんでそれが間違いない根拠に――なんでもありません」
余計なつっこみはご法度。ロギンスの拳が握られていくのを見て、アランは言いかけた言葉を飲み込んだ。また彼が言うところの〝教育的鉄拳”を食らってはかなわない。愛情は込めているらしいが、痛いものは痛いのだ。
「やっぱ学院関係者だろ。俺らも乗せてもらおうぜ」
「いやいやロギンス先輩。先にここの支払い済ませてからじゃないとダメですよ」
「むぅ、そりゃそうだが……」
彼らは金がなかった。正確には4000ミラあった。一人2000ミラなら上等の昼食が食べられると、バリアハートに来て目に留まった《ソルシエラ》に入店した。
適当に注文したまではよかったが、いざ会計の段になり、支払金額を提示されると彼らは目を丸くした。
庶民向けのレストランで値段も抑えてあるが、さりとて大衆食堂ではない。持ち金が足りなかったのだ。
がっつり無銭飲食の上に払える当てもないとくれば、当然、領邦軍に突き出されるというあっけないオチで終わる。
額に玉の汗を浮かべ、あくせくと体中の小銭を探しまくり、ロギンスの命令でアランが逆立ちをしたところで、キッチンの奥からオーナーのハモンドが姿を見せた。
飲食代分の店の手伝いをするという彼の提案のおかげで、アランたちはどうにか収監所行きを免れたのだった。
「くそ、なんで俺らまだ働いてんだよ……」
「それは先輩のせいですよね」
「るっせえっ!」
うかつな発言に、教育的鉄拳が炸裂する。愛情多めの拳を顔面に受けて、アランは地面に転がった。
《ソルシエラ》で働き始めて、もう一週間以上になる。本来は数時間皿洗いをすれば返せる金額だったのだが、最初の一時間でロギンスがやらかした。
指定されたテーブルに料理を運ぶ途中、絨毯に足をひっかけ、近くにいた男性客の頭に熱々のコーンスープをぶちまけた。同席していた娘の「お、お父様ーっ!」という叫びは、店の外にまで聞こえていたという。
ここで絨毯の交換代金と、カロライン男爵なる人物の衣類クリーニング費用が加算された。
さらにその一時間後、下膳中の皿を五枚割った。そのまた一時間後、壁掛けの絵画にトマトソースを飛ばし、それを拭きとろうと布で擦った。格式ある絵画は赤みがかり、すっぱい香りを放つようになった。
そんなこんなで支払金額は膨れ上がる。手伝いは二日目に突入し、同様のことが起こって三日目にもつれ込み――の繰り返しで今に至っていた。
「ちくしょう、払っても払っても払い切れねえぜ。手に入る金と出て行く金がイコールじゃねえか!」
「追い出されないだけありがたいですけどね。バックヤードで寝泊まりまでさせてもらってますし。ハモンドさんに感謝ですよ……」
鼻を押さえるアランが身を起こした時、店内から先輩スタッフがやってきた。
「休憩は終わりだぞ。とっとと持ち場に戻れよ、新入り!」
「うぃーす」
「もう手伝いじゃなくて新入り扱いになってるし……」
アランはキッチン、ロギンスはホールである。
逆の配置の方が良かったのではなかろうかと、今さらながらにスタッフの誰もが気付き始めていた矢先、またロギンスがやらかした。
「ですので、当レストランのスープにそのようなものは混入しないんですよ」
「現に入っているであろうが。給仕係の分際で私に意見するのか!」
「給仕係とか関係ないんで。ご自身の髪の毛じゃないんすか?」
「言うに事欠いて貴様……!」
貴族らしいお客の顔がみるみる紅潮していく。最初こそ慇懃に対応していたロギンスも、今やこめかみの青すじがピクついていた。
スープに毛が入っていたというクレームだ。ハモンドは買い出しの為に不在だった。
「許さんぞ、こんな店は訴えてやる! 潰してやるからな!」
「上等だよ、勘違い野郎。ちょっと待ってろ」
ざわつく店内をずかずかと縦断してキッチンに押し入るなり、ロギンスは一人のコックの腕をひっつかんだ。戸惑う彼を連れて、クレーム客のテーブルに戻る。
「この人がスープを作ったんだよ」
言うなり、コック帽を取り上げる。毛の一本もない輝く禿頭だった。
「目に焼き付けろ! 入りようがねえんだ、髪の毛なんかな! 物理的に潔白なんだよ! うちの誇るミスターシャイニングだぞオラ!」
「ロギンス先輩! それは二次災害ですって!」
騒ぎを聞いたアランが駆けつけてくる。光あふれるコックは床にうなだれていた。
やりこめられたクレーム客は、己の体裁を守るためか憤慨した。
「し、知るか! なんにせよこんなまずい食事を出しおってからに!」
スープ皿をひっくり返して床に落とす。絨毯に染みが拡がっていく。それを見たロギンスの目が怒りに満ちた。
「野郎! シャイニングさんがせっかく作ってくれたスープを……!」
「いや、それ本名じゃないですから」
「邪魔だ」
ロギンスはアランを押し退けて前に出た。
「しかもだ。その絨毯はこないだ変えたばっかりなんだよなあ!」
教育的鉄拳がうなった。愛情は抜きだ。
お店の評判にも繋がる。さすがに殴らせるわけにはいかない。反射的に動いたアランは、客とロギンスの間に割って入った。
重い一撃を身一つで受けたアランは、入口側に吹き飛ばされて――。
★
「コレットさんのおかげで今日も平和よ。いつもありがとう」
「気にしないでね。お安い御用だよ」
足取りも軽く、コレットはブリジットに案内についていく。
「でも実際、私一人で子供たち三人をまとめるって無理だったと思うの」
「そう? みんないい子たちだよ」
「それはわかってるけど、最初はなかなか言うこと聞いてくれなくて。ケンカを止めるのも簡単じゃなくて」
ハウスキーパー兼家庭教師として、ブリジットは三人の子供たちの面倒を見ている。姉のシュザンヌ、弟のカテル、妹のハイネだ。
コレットとはバリアハート市内で偶然出会ったのだが、状況を知った彼女は頻繁にブリジットのサポートに来てくれていた。
子供たちもすっかり懐いて、今ではコレットの来訪を心待ちにしている。そしてコレットが子供たちの相手をしている間に、ブリジットは掃除、洗濯、食事の準備と家の雑務を済ませることができるのだ。
「でもごめんなさい。《アルエット》での手伝いもしているのよね? そちらには影響出てないかしら?」
「大丈夫、大丈夫。忙しいのはランチだから。午後からは空いてる時間も多いの」
コレットは職人通りの宿酒場に住み込みで働いている。客の扱いを心得た応対と持ち合わせの愛嬌で、《アルエット》の看板娘で名を通しているらしい。
中央区に向かう道すがら、コレットが言う。
「ところで聞いた? カレイジャスがバリアハートに来てるって」
「ええ。昨日からその話題で持ちきりだもの。お屋敷と公爵様の城館って位置が近いから、朝から晩まで憲兵の足音が聞こえるくらいよ」
「どうする?」
「《紅き翼》に乗るかどうかってこと?」
かつてトールズ士官学院のグラウンドに着陸したことや、帝国時報の断片的な情報から、学院生の多くはカレイジャスを学院関係者が運用しているだろうと察しがついていた。
先に答えることができず、ブリジットは同じ質問を問い返す。
「コレットさんはどうするの?」
「私は乗ろうと思ってるよ。でも職人通りのみんなに挨拶もしないといけないし、色々準備があるかな」
「そっか。私は……難しいかな」
なにせ子供たちがいる。せめてハウスキーパーを頼まれているハンコック夫妻が返ってきてくれれば話は違うのだが。それに折よく夫妻が戻ってきたとしても、急に自分がいなくなったとしたら、あの子たちは泣きじゃくるだろう。事情はわかっているので、「だよね~」とコレットは軽く流してくれた。
本当は乗りたい。各地を回れば――あるいはトリスタに帰ることができればアランに会えるかもしれない。もしかしたらカレイジャスにもう乗っていたりするかもしれない。
自分の気持ちに気付いてから、いつも彼のことを考えている。こうして会えなくなってから、毎日会えていたことが幸せだったと知った。価値を理解しないまま、宝石の日々を過ごしていたのだ。
あなたに会えたら、私はなにを言うだろう。いや――言いたいことは決まっている。それを言えるか、自信はないけれど。
「どうしたの? ほっぺた赤いよ」
「な、なんでもないわ。ほら見えてきた」
うつむき加減の顔を上げて、ごまかすように指をさす。
「へえ、あれが《ソルシエラ》なんだ。ちょっとテンション上がってきたかも~!」
「バリアハートじゃ有名よ。とても美味しいの。ごちそうしちゃうから遠慮しないでね」
「気なんか遣わなくていいのに。えへへ、でもありがと! あーでも緊張しちゃうなあ。かっこよくて背の高いウェイターさんが『いらっしゃいませ、お嬢様』とか言って出迎えてくれるのかなあ」
「イメージが偏り過ぎてない?」
いつも手伝ってくれているお礼にと、ブリジットはコレットをランチに誘ったのだった。
噴水の公園を抜けて、店の入口に着く。
扉を開けて入店。一歩、二歩、三歩目で、
「なんだかいつもより盛況のような――きゃああ!?」
「むぐっ!?」
いきなり調理場の制服の少年が飛んできた。文字通り、飛んできたのだ。正面衝突。支えきれるはずもなく、少年ごとブリジットは後ろに倒れ込んだ。
「こ、これが一流店の出迎えなんだ……?」と見当違いのことをつぶやくコレットをよそに、少年はもぞもぞとブリジットの胸にうずめていた顔を上げる。
至近距離で二人の顔があった。
「ブ、ブリジット……?」
「ア、アラン……?」
数秒見つめ合い、『なんで?』と同時に疑問を口にしたタイミングで、
「どうしたんだ。店内がやけに騒がしいみたいだが」
「マナーの悪い客でもいるのだろう。叩き出してやる」
背後の入口扉が再び開いて、ユーシスとマキアスが《ソルシエラ》にやってきた。すぐにマキアスはブリジットを押し倒した恰好のアランを視界に入れる。
「え。アラン? アランか……? というか君は公衆の面前で何を……」
「マキアスまで……え、うわっ! これは違う! 悪いブリジット!」
「なにがどうなっているのだ?」とさしものユーシスも当惑し、「やっぱり高級店は私には敷居が高いかも……」とコレットも動けないでいる。店の奥ではロギンスが客の首根っこを捕まえて、「染み一つ残すんじゃねえ!」と絨毯掃除を命じていた。
混然とした状況に誰も説明の口を開けないでいる中、インコを追う黒いエアボードが外のオープンテラスを猛スピードで突き抜けていった。
《――×続・A/B恋物語 Bパート⑤》
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皆様、明けましておめでとうございます。
《オートクチュールのうさぎたち》をお付き合い頂きありがとうございます。
ずいぶん前になってしまいますが『第45話 隔心の鏡』でのエリゼとアルティナの会話は、この話に繋げるためのものでした。
いつもは一人称寄りの三人称という形式で執筆することが多いのですが、今回は本編中に一人称視点はしないと決めていた二人がメインだったので、終始三人称視点での展開となっています。
《夢にて夢みて さーど》でアルティナ視点オンリーにしたのは閃Ⅱ時点でのストーリーではなかったから、という理由だったりします。
現時点で理由があり、あえて一人称視点で描いていないのは、以下の人物となります。
・ミリアム
・アルティナ
・シャロン
・ヴァリマール
・フリーデル
・ムンク
・クララ
・カイエン
・リゼット
・ガイラー
ですので仮に上記いずれかの組み合わせでストーリーを作った場合、もれなく三人称固定になるという制限が降りかかってくるのです。今回はそれがミリアムとアルティナでした。
尚、ガイラーさんだけは『描かない』ではなく『描けない』になってしまっています。
もうとっくに私の手を離れていまして、何考えてるか作者でもわからない。本編に登場させても、予定していない言動や行動をすることがままあります。下手をすれば紫紺の騎神に乗り込みかねません。『来たまえ、ゼクトール』
次回はA/B恋物語。懐かしのユニットが再結成されますので、前作の展開も思い出しながらお付き合い頂ければ幸いです。
本年も虹の軌跡を宜しくお願い致します。