虹の軌跡Ⅱ Prism of 《ARCUS》   作:テッチー

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第76話 流転する日々(前編)

《女王への階段⑦》

 

 カレイジャスの船倉に設けられた馬舎スペース。

 簡素な柵に囲まれ、(わら)が敷かれたその場所にいるのは、ユーシスの愛馬であるシュトラール。そして先日保護したランベルトのマッハ号である。

「――ふーん、そう。家を出たんだ、ユーシス」

「さして興味はなさそうだな」

 二頭の世話は馬術部二人の担当だった。専用ブラシで毛づくろいをしながら、ポーラはユーシスからいくつかの話を聞いていた。

 カレイジャス運用の経緯、実際の活動、今後の方針。

 その中で彼自身の事情も知った。

「興味ないわよ。自分で決めたんなら、それでいいんじゃないの」

「お前のように簡単な思考で生きていければ楽なのだが」

「はいはい貴族様は平民より考えることが多いって? こっちはこっちでお上に合わせんの大変なんだからね。嫌味を言う暇があるんなら、税収基準の見直しでもやんなさいよ」

「お前……!」

「反抗的な態度じゃない。言うこときかせたくなっちゃうわ」

 すっと細めた目でユーシスをねぶり見る。なにかを察したのか、彼は口をつぐんだ。黙ってボロの処理に取りかかろうとしている。

「で、魔導剣だっけ。新しい剣っていうけど、それってそんなに意味があるもんなの?」

「なにが言いたい?」

「だって話を聞いた限りじゃ、七耀属性を刀身に宿すわけでしょ。それって既存の武器でもうあるじゃない。リィンくんの太刀とか、ガイウスくんの槍とか、サラ教官のブレードとか」

「あれとは質が違う」

 ユーシスはシュトラールの首筋を撫でた。ぶるる、と気持ちよさそうにも、嬉しそうにも聞こえる鳴き声が喉からもれる。

「たとえばリィンの太刀には紅耀石、サラ教官のブレードには翠耀石が組み込まれている。だがそれらはあくまでも攻撃補助として機能するものだ。強力には違いないが、さすがに中級以上のアーツほどの威力は出せない。それに一種のみで、汎用性もない」

「だったら二種以上の七耀石を武器に組み込むのは? これなら汎用性の問題はクリアできるわ」

「できるのなら市場にその系統の武器がとっくに並んでいるだろう。技術的に実現できないのだ」

「組み込むスペースがないなら、武器を大きくすればいいのに」

「……レイゼルを見ろ」

 嘆息交じりに言ったユーシスの視線が、離れた場所に待機中の機甲兵に移る。初めてあれを目の当たりにした時は、ポーラも驚いたものだった。

「あれほどの巨体でも、組み込んでいる属性は翠耀のみ。大きさの問題ではなく、機構の問題だ」

 つまりその機構を《ARCUS》という外部パーツに託すことで、魔導剣は汎用性と同時に、アーツを元にした威力も得たということだ。

「ただ、あのデュバリィとかいう女は、当たり前のように複数の属性剣を使いこなしていた。武器が特殊なのか、あいつ自身の技能なのか、あるいは異能なのか、それはわからんがな」

 話しながらも一通りの世話を終えたところで、ユーシスは目をポーラの後ろに向けた。

「で、あいつはなんだ?」

「また来てるの? 困ったものだわ」

 遠くの柱の陰からこちらを窺うように、うっとうしい前髪が見え隠れしていた。ムンクだ。険しい表情で、ぶつぶつ呪いの言葉をつぶやいている。

「よくわからないけど、近々戦争するのよ、私たち」

「そんなあやふやに戦争を起こすな!」

「あっちに言って欲しいわ。なんでも彼は“前神(まえがみ)”で私は“後神(うしろがみ)”だとか」

「わけがわからん……」

「そ、わからないの。とりあえず自分の仲間を集めなきゃなんだけど、ユーシスは前髪でも後ろ髪でもなさそうよねえ」

「ますますわからん……」

 うんざり顔で、ユーシスはかぶりを振った。

「後ろ髪って言ったらラウラは良いわね。エマさんも後ろ髪の一派だわ」

「なんでもいいが、俺を巻き込んでくれるなよ」

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

《ピンキートラップ⑤》

 

「おねえぢゃああん!」

 ボロニア商店の扉を開けるなり、ヴィヴィは勢いよくリンデに抱きついた。双子姉妹の再会である。

「うええ~ん、無事でよがったあ」

「もうヴィヴィったら、泣きすぎよ。あーあー、鼻水出てるから」

「ごめん、ごめんね。本当はもっと早くに会えるはずだったんだけど……ぐすっ」

 鼻をすすったヴィヴィは、店の入口に立つマキアスを指差した。「うっ」と、居心地悪そうに、彼は視線を宙に逃がす。

「あんの眼鏡が、リンデがこのお店にいるって教えてくれなかったのよ!」

「眼鏡って呼ぶな! だから何度も謝ったじゃないか。悪いとは思ってるんだ」

 ルーレ潜入の折、マキアスだけはここにリンデがいることを知っていた。しかしその後の黒竜関戦や事後処理諸々で、完全にそのことが頭から飛んでいたのだ。

 ふとしたきっかけで思い出し、もちろんその足でヴィヴィに伝えに行ったのだが、うっかりの報告遅れに彼女は大激怒した。桃色のロングヘアーが逆立つくらいに。

 眼鏡を割るほどの剣幕で詰め寄ってきた彼女をなだめつかせながら、マキアスはどうにかこの店までの案内役を務めたのだった。

 カウンターでは案外涙もろいのか、「弱いんだよ、あたしゃこういうのに弱いんだよ」と、店主のボロニアばあさんが肩を震わせてすすり泣いている。

 奥の商品陳列スペースでは、

「元気そうやんか、はあん?」

「なんで会うなりケンカ腰なんだ。まあ、君も変わりないようでなにより」

「その余裕がむかつくわ!」

 商人気質同士、なにかと関わりのあったベッキーとヒューゴが顔を突き合わせていた。特に感傷に浸っている様子はない。互いが互いの図太さを知っているからだろう。

 学院生を集めている旨を伝えると、二人ともカレイジャスに乗ることを快諾してくれた。リンデとヒューゴが合流である。

「役立つ商品を艦に提供することを約束しよう。有料だけどね」

「うちの商品の方が役立つに決まっとるやろ。有料やけどな」

「ねえヴィヴィ、私ってポジションあるのかな」

「んふふ、いっしょにブリッジクルーになろうよ。定点カメラの映像面白いから」

 そんな会話の中、マキアスが質問した。

「まだステファン先輩は戻らないのか?」

「ああ、連絡もない」

 そう言ったヒューゴに、リンデも続く。

「やっぱり心配だし、ヒューゴくんといっしょに何回か工科大には足を運んだの。でも外から見てるだけじゃ、さすがに見つからなくて……」

「あまりにも手がかりがなくてさ。もしかしたらステファン先輩っていう人間は、僕らが勝手に生み出した空想の産物じゃないかって思い始めていたんだ」

「どう考えても実在の人物だろ! 面倒になったからって、適当な理由で捜索を打ち切ろうとしてるな!? ひどいな君は!」

 ステファンの音沙汰がないのは変わらず、こちらから彼に連絡をつける手段もない。

 その一方で所在は分かっている。ルーレ工科大学、おそらく研究棟内部のG・シュミットの近辺だろう。

 カレイジャスに戻ったら、皆に相談した方がいいかもしれない。

「――へえ、ヴィヴィはカスパルくんと一緒にレグラムにいたのね。町の皆さんには迷惑かけてない?」

「もちろんよ。ちょっと洗の――なんでもない。おとなしくしてたわよ」

 姉妹が離れていた間の状況を報告し合っている。話は耳に入れつつも、マキアスはステファンのことを考えていた。

 対応策の検討が必要だ。だとして何が有効だ? 正面からの面会は試したが、門前払いをくらっているし。

「洗脳? 洗脳って言った? 詳しく教えて」

「んー。洗脳じゃなくて催眠っていうか。みんなを元気にしてあげたのよ」

 いっそ受付嬢を洗脳してしまえば、すんなり奥に入れるのではないか。いやいや問題は受付だけじゃない。キャンパス内には多くの学生や教授がいる。

「絶対違うでしょ。被害物は? 被害者は?」

「もー心配性なんだから。私物と共用物含めての器物破損が多数と、重軽傷者が多数だってば」

「どっちも多数じゃないの!」

 強硬手段を取れば、どこかで研究物品を破損してしまうかもしれない。ただでさえ重要なものを扱っているはずだから、まずそれはできない。さらに重軽傷者を多数出すなんて、もっての他だ。

「一番の被害者は!?」

「リィンくんかな。殺されかけてたし」

「ころっ……!? ま、町の人は今どうしてるの?」

「ほとんど覚えてないと思う。そういう催眠にしておいたから」

 リィンもレグラムで大変な目にあったんだな。

 だがそうか、記憶が無くなればいいわけか。……なにを馬鹿なことを。いくらなんでも工科大の関係者全員に催眠をかけるなんて無理だ。第一、催眠術はヴィヴィにしか使えない。

 というか僕はいったい何を考えているんだ。自分の思考と、二人の会話が混ざってしまっているじゃないか。

「ヴィヴィ、お説教」

「なんでー!?」

 待てよ。

 記憶を失くす。催眠術。リィン。

「ヴィ、ヴィヴィ!」

「なに? 急に大きな声出して」

 ステファンの件とは関係ないことだったが、会話に出てきた言葉と言葉が繋がって、マキアスはその可能性に行きついた。

「逆行催眠ってあったな!? もしかしたら戻せるんじゃないか、リィンの記憶を!」

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

《真実のファインダー④》

 

 遠くに製鉄の音が響いている。甲高くも重厚感のある独特の音だ。工業区が従来通りに稼働し始めたのだろう。

 《紅き翼》が黒竜関を奪還したことによる事態の好転だが、領邦軍は撤退ではなく内戦への不干渉という点で、他地域とは事情が異なっている。つまり統治は引き続きログナー家が行いつつも、正規軍の介入が“穏便”にできるようになったわけだ。

 もちろん話はそこまで単純ではなく、両者の間には依然見えない壁が存在する。数日前まで命がけで戦っていた敵相手に、当然と言えば当然なのだろうが。

 しかしそれは上と上の話であって、人々はいつも通りの生活を送れていた。

 ゲルハルト・ログナーは戦時下においても税、物資の徴収量を引き上げなかった。市民の負担は軽かったのだ。故に不満の声は比較的少ない。

 強いて挙げるならハイデル・ログナーが工場を私物化して、無理なライン生産を強行したことに対してだが、ハイデルの解任、失脚という形で、それも改善している。

 そのハイデルは未だにラインフォルト本社ビルから出てきていないらしい。時折彼の悲鳴がどこからともなく聞こえてくるそうだが、社員たちは一様に口を閉ざしているとか。

「――とまあ、ルーレの現状はこのような感じですね。小さな混乱は予想できますが、それもじきに収束していくでしょう」

 メアリー・アルトハイムは懇切丁寧な説明をしてくれた。トールズ士官学院では音楽、芸術、調理技術の担当教官である。

 うんうんとうなずきながら、レックスは首にかけた導力カメラをいじっている。明暗ダイヤルを回したり、フォーカス設定を調節したりと、メアリーの話も話半分で聞いていた。

 レックスが彼女を見つけたのは偶然だった。生来の気軽さで声をかけ、現状報告と情報共有という名目で、このカフェでの一時に至っている。

「詳しいじゃん、メアリー教官」

「ここに来てずいぶん経ちましたから。レックスくんは最近ルーレに着いたのですか?」

「あ、言ってなかったっけ。俺が来たの二日前。いろんなとこ回りながら写真撮ってんだ」

「戦場の写真を? あまり危ない真似をしてはいけませんよ」

「んー、大丈夫」

 実際の戦場にはほとんど行ってない。各地を巡ってレックスが撮っていた被写体は、たった一つ。女性の写真だ。

 農家、酒場、レストラン、ブティックで働く女性や、そのお客、果ては通行人まで。彼のセンスもあって写真自体の出来は良かったが、中にはいかんせん本人に無許可でシャッターを切ったものもある。

 わけてもガレリア演習場で撮ったクレア・リーヴェルトのバストアップショットなんかは最高だ。商売目的ではないものの、相手によってはいくらでも値段を吊り上げられるだろう。

「教官はカレイジャスに乗んないの?」

「そうですね。トリスタに戻りたいとも思うのですが、今はお世話になっている家を離れられそうにないので」

「ミントの実家だっけ。なんで?」

「バニラさん――ミントさんのお母様は……さすが母娘といいますか。中々うっかりが多くて、たとえば料理で塩と砂糖を間違えるのは序の口。お鍋に火をかけたまま買い物に出たり、お洗濯物を二日間水につけっぱなしだったり……」

「はあー、やっぱミントの母ちゃんって感じ。マカロフ教官は頭いいのになあ」

「ああ見えて、あの人も抜けているところはあるんですよ」

「へえ……?」

 バニラとマカロフは姉弟である。教官同士の仲と、ミントの所属する吹奏楽部の顧問という縁もあって、メアリーはその家に居候させてもらっているという。

 あとなぜか、バニラは自分のことを“お姉さん”と呼ぶよう、メアリーに強要するらしい。

 しばらく話し込んだあと、カフェを出てメアリーと別れる。バニラに頼まれた買い物の途中だったそうだ。

「……これからどーしよっかなあ」

 今まで通りに各地を渡り歩いて、自分の撮りたい写真を撮り続けるのもいい。それで十分楽しい。ただ移動は大変だ。封鎖されている街道があったりと、思うように進めないことも多かった。

 足はあったほうが何かと便利には違いない。

 よし、カレイジャスに行こう。あの艦は今、ルーレの空港に停泊している。

 そんな軽い動機でレックスは行き先を決めた。そして目的地に向かって歩き出そうとして、

「レックス」

 懐かしい声に呼び止められ、思いがけず足を止める。

「え? あ、え? ベリル!?」

「久しぶりね」

 いつの間にか目の前に彼女はいた。感情の映らない瞳がレックスを見ている。

 変わらない立ち姿だったが、どこか影が薄くなった気がした。

「ベリルも学院出てたんだな。すっげー心配したんだぜ。でもこんなとこで会えるなんて思わなかった。俺今から――」

「心配していたの? 私を?」

「当たり前だろ」

「その割には楽しそうに見えたけど」

「え?」

 ベリルは背を向け、さっさと歩き出す。

「あ、ちょっと待てって」

「あの艦に乗るんでしょう。先行ってるわ」

「いっしょに行ったらいいじゃん!」

 慌ててベリルを追いかけるレックスは、ふと疑問に思った。

 俺カレイジャスに行くって、口に出して言ったっけ?

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

《金欠クリエイターズ⑤》

 

「やっと通信が繋がった。中継ポイントを経由した導力波を運良く拾ってもらえたんだ。もうすぐ迎えにきてくれるよ」

 バリアハート近くの街道の外れ。フィデリオは安堵の表情で顔を上げた。

「そうですか」

「学院を出る時に技術室から通信端末を持ってきたんだ。感謝して欲しいところだけど」

「してますよ?」

「絶対してないってわかる」

 淡白に応じたドロテは、話そっちのけでノートに文章を書き連ねている。机代わりにしているのは、道に捨ててあった木箱だ。ところどころ腐食して割れてしまっているが、彼女にとってはどうでもいいことだった。

 真冬の夜。冷えて澄んだ空気が、星々の煌めきをより明瞭に魅せている。

「街道暮らしも終わりか。まったく名残惜しくはないけど。ドロテさんもそう思うだろう?」

「私はどこでも大丈夫ですよ。この生活でもあと二年はいけますね」

「いやいや、生きているのが不思議なくらいの現状だから。最後に食べたご飯は二日前で、缶詰一個。しかも二人で一個」

「缶切りがないのには焦りましたよね。でも私の機転のおかげで何とかなったじゃないですか」

「僕は止めたのに、君が尖った石ころで無理やりこじ開けようとしてさ。挙句に勢い余って中身を半分以上ぶちまけた時は本気で絶望したよ。僕の見ている世界が色という色を失ったよ」

「あ、今の表現いいです。頂きます」

「反省の色もないらしいね」

 道端に設置された導力灯から滲む光が、辺りを薄く照らしている。そこまで明るくはない。機能面で言えば、魔獣避けが主だからだ。

 フィデリオは深いため息を吐いた。白い息がすすけてくゆる。

「一時はあれだけ稼いだっていうのに、今や財布の中身はすっからかん。この落差って何なんだろう」

「いいじゃないですか。お金なんてなくても生きていけます」

「こんなふうに不自由しながらかい?」

「やりたいことができるのは不自由じゃないです。お金も最低限でいいです」

「今は最低限のお金もないことわかってる?」

「ああ言えばこう言う人ですねー」

「君にだけは言われたくない。もう一度言う。君にだけは言われたくない」

 やれやれと憐憫の視線をよこすドロテに、ハイデルは憤懣の視線をぶつけた。

 口論でフィデリオが勝てないのはいつものことだった。不毛な言い合いを切り上げて、彼は近くの岩場に腰を下ろす。

「ドロテさん、なんだか変わったよ」

「なにがですか?」

「うまくは言えないけどさ。物事の優先順位かな。お金よりも食事よりも睡眠よりも、今はそれだろ?」

 バリアハートを出てから、ずっと肌身離さず書き続けている一冊のノート。

「それ小説? どんな話なんだい」

「まだ途中ですが、せっかくですから私の実体験を軸にストーリーを作ってます。もちろん小説用に色々手は加えますけどね」

「実体験?」

「ええ。学院を出てから極貧の街道暮らし。そこから都で大儲けして裕福な宿暮らし。だけどお金を手放してまた街道暮らし。でも二回目の街道暮らしは全然辛くないんです。多分それはフィデリオさんの言う通り、私の何かが変わったからなんでしょう」

「………」

「ただ何が変わったのか、自分ではよくわかっていません。だから私は、私の分身になる主人公を描くことで、それに気付いてみたい。まあ突き詰めちゃえば単なる自己満足ですよね。こういうのを作品にするってダメでしょうか?」

「いいんじゃないかな。少なくとも意味不明な詩集を描いてた時よりは楽しそうだし。……君が変わったのって、やっぱり最後に来たお客さんのせい?」

 フードを被った顔の見えない男。彼はドロテの詩集を酷評したあとで、彼女に何かを告げていた。

 ドロテに変化があったのは、その時からだった。

「さあ……どうですかね」

 初めてペンの動きが止まる。かすかに笑ったようにも見えた。

 どこか楽しげなその表情が印象に残り、気付けばフィデリオは自前のカメラを取り出していた。撮りたいものは見つからず、その場しのぎの金を稼ぐ為だけに、他人に迎合した写真ばかりを収め続けたカメラだ。

 一昔前の型だが性能が良く、プレミアも付いていてファンも多い。貴族家とはいえ、学生の身分でこれを手に入れるのにはひどく苦労した。

 汚れのないレンズをじっと見つめて、フィデリオもまた頬を緩めた。

「そうか、僕もか……」

 生活が苦しくて、本当にお金が欲しかったのなら、これを売ればよかったのだ。おそらく相当な値が付いたことだろう。

 だとしても、しなかった。そもそも考えもしなかった。

 それはきっと自分にとってこのカメラは、ドロテにとっての小説と同じ価値を持っているから。

 替えが利くとか利かないとか、そういう話じゃない。宝物だとか、そういうものだからでもない。

 これを手放すことは、己の身を切り離すことに等しい。魂に穴が空いてしまうような気持ちになる。大げさかもしれないが、そういうことなのだ。

 ドロテにペンとノートがあればいいように、僕にはこのカメラさえあればよかったのか。

「今さら気付くなんて。ずっと手にしてたのに、なんてことだ」

 急に一枚撮りたくなった。この導力カメラは真っ暗でも被写体を写し取れる。

 なにを撮ろうか。ああ、考える必要もない。

 そっとフィデリオはカメラを構えた。四角いフレームの中にドロテが収まる。寒空の下で月明りだけを頼りに、ボロボロの木箱を机にして、汚れたノートに健気に向き合う未来の小説作家が。

 シャッターを切ると同時に、ぱっとフラッシュが拡がった。

「え!? あ! いま私の写真撮りましたよね! なんとかの侵害です。慰謝料? 賠償金? とにかく金銭を要求します」

「お金なんていらないんじゃなかったのか! さっきと言ってることが違う!」

「それとこれとは別ですので」

 誰も通らない街道のど真ん中で言い争いをしていると、諍いを仲裁するかのように上空から眩しいライトが二人を照らした。

 見上げると、紅い外装の飛行艇がゆっくりと降下してくる。カレイジャスが迎えに来てくれたのだ。

 船体が大き過ぎてこの付近には着陸できない。通信のやり取りでは、ドロテの後輩のエマという女子が艦内まで運んでくれるという話だったが、どのように連れて行かれるのかは知らなかった。

「で、さっきの写真どうするつもりなんですか?」

 案外しつこい。気になるのだろうか。

「胸元に忍ばせて時折にやにやするとか? 額縁に入れて生涯の宝物にするとか? ま、まさかいやらしいことに使っちゃうとかとかとかー!?」

「安心して欲しい。そのどれにも使わないから」

「では何に?」

「それは――」

 カレイジャスが近付いたせいで強風が生まれ、木々が激しく揺れ動く。

 フューリッツァ賞に応募しようと思う。そう言った声は、ドロテに届いていないようだった。

「……まあ、額縁には入るかもしれない」

 とりあえずそう言い直しておいた。

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

《世直し任侠譚⑥》

 

 ようやく二人はここまでやってきた。

 ケルディックで追われ、バリアハートも離れ、街道を遠回りして、この黒銀の鋼都ルーレまでたどり着いていた。思えば長い道のりだった。

 現在、ルーレにはカレイジャスが停泊している。空港に行けば、学院の仲間たちと合流できるのだ。

 そう、距離にすれば目鼻の先。だというのに。

「これに懲りたら二度と店に迷惑をかけるんじゃねえぞ!」

 市街地に入るなり、クレインが無茶な値引きを吹っ掛ける客を成敗。少し歩を進めた先では。

「ケンカならよそでやれ! 往来で騒ぎ立てるな!」

 論争がヒートアップしていた工科大の学生たちを、誰よりも騒ぎ立てて仲裁。また少し歩けば。

「もう失くすなよ。しっかり財布の口を閉めてな」

 大量の小銭を地面にばらまいた子供のフォロー。道端を這いつくばって、1ミラの漏れもなく探し当てた。

 他にもトラブルと呼ぶにはあまりに些細なことにも、クレインは一つ一つ対応する。かれこれ二時間近くは経ってしまっていた。

「ぜんっぜん目的地に近付かないんだけどさあ!」

 その全てに付き合わされていたハイベルは、ついに声を上げる。収まらぬ相棒の怒りに、クレインは肩をすくめた。

「言いたいことはわかるけどな。でも見過ごすわけにはいかないだろ」

「程度があるって言ってるんだ。学生のいざこざにまで首を突っ込む必要はないよ!」

「そうカリカリすんなって。ここまで来て《紅き翼》は逃げたりしない。それに俺たちはジャスティスツーだしな」

「出たよ、その理由。はあ、もういいけどさ……」

 マフラーとマスクで正体を隠す正義の味方。それがジャスティスツーである。

 おもむろにマスクを取り出したクレインが、「頼むぜ、俺らの象徴なんだから」と、それを軽く振ってみせた。その時。

「く、食い逃げよー!」

 そんな叫び声に続いて、大衆食堂らしき店から男が飛び出してきた。

「食い逃げなんざ、しみったれた真似しやがるぜ!」

 一秒でスイッチの入るクレイン。瞬間的にマスクをかぶり、赤いマフラーを巻き、弾丸のごとく駆け出す。

「ま、待てクレイン!」

「待ってられるか。あとパワードCな! 早くお前もマジカルHになれよ!」

「だから僕のだけ変態宣言みたいに聞こえるんだよ!」

 ああだこうだ言いつつも、ハイベルもマスクを装着する。そもそもマスクを着けるのは派手にやらかしても貴族兵に顔を見られない為であって、ノルティア領邦軍が貴族連合から離れた以上、ルーレではそこまで変装の意義はなかったりするのだが。

 目にも止まらぬ速さで先行したクレインは、あっという間に食い逃げ犯を組み伏せてみせた。

 軍に引き渡すのも身分証明や手続き云々で面倒なので、男を近くの木の幹にロープで繋いでおく。

「これでよし。あとは誰かに引き継いでもらって、僕らはさっさと退散しよう」

 ハイベルがほっと一息ついた矢先、

「強盗だー!!」

 また叫び声。見ればトランクを持った黒服の男たちが、逃走用の導力車に乗り込むところだった。白昼堂々、店主を脅して金を奪ったのだろう。

「野郎……!」

「あれはダメだ、クレイン! 手に負えないパターンのやつだ!」

「だからって、軍を待ってたら逃げちまうだろうが!」

 徐々に速度を上げながら動き出す車が、二人の近くを通り過ぎようとしていた。

「行くぞ!」

「行かない! 腕を引っ張るな! あーやだーっ!」

 車のスピードに合わせて正面からボンネット、フロントガラスと軽快に駆けあがり、腹ばいになって屋根にしがみつく。ここについていけるあたり、ハイベルの運動神経も中々のものだった。

 二人を振り落とそうと、車は右に左に激しくハンドルを切る。

「わかった! 今わかった! 絶対このマスクが事件を呼び寄せてる! 呪いのマスクだこれ!」

「口閉じろって! 舌噛むぞ!」

 必死に耐えている内に、速度はどんどん増していく。あっという間に正面ゲートを突破。街道に出てしまった。

「どうするんだよ、この状況!?」

「くそっ!」

 クレインは腕を振り上げ、屋根の上からサイドガラスに拳を叩きつける。当然割れるはずもない。

 ダンッと銃声。車内から撃ってきたのだ。屋根を貫通した銃弾が、ハイベルの頬をかすめた。

「う、ああ~、僕死ぬ。今日死ぬ。ここで死ぬ……」

「だったらこれでどうだよ!」

 クレインはマフラーを外すと、それをフロントガラスに押し付けた。長いマフラーだ。団子にすれば、運転席側の視界を奪うくらいはできる。

 運転が急にぶれる。ブレーキを踏んでくれれば良かったのだが、それでも二人を振り落とそうとする強盗犯は無理にスピードを上げた。

 街道を脇にそれた車は、隣接していた林道に突っ込み、そして大きな木に衝突した。

 衝撃に投げ出されたハイベルとクレインは、土まみれになりながら地面の上を何度も転がる。

「う……生きてるか、ハイベル」

「もう死ぬ……」

「なによりだ」

 柔らかい腐葉土だったことが救いだが、強く体を打ち付けた二人はその場から動くことができない。

 車に目をやると、べこりとへこんだボンネットから煙が上がっている。そのドアが開いた。

「このガキどもが……許さねえぞ……!」

 姿を現したのは男一人だった。よろけながら二人に近付いてくる。他の仲間は気を失っているのか、出てくる気配がない。

 男は銃を持っていた。

「あー……さすがにやばい。動けそうか?」

「厳しいね。少なくとも走るのは無理だ」

「アーツは?」

「魔導杖は背中にあるけど……駆動時間を稼いでくれるかい?」

「いやー、俺も足痛めたっぽいんだよな」

 男が銃口を持ち上げた。これは本当に撃たれる。

「どうにもなんねえか。故郷の家族に悪いな……ラウラやモニカ、カスパルにも、な」

「まず僕に悪いと思って欲しいんだけど。こんなとこで終わりだなんて……僕の人生なんだったんだよ」

「そう悪い人生じゃなかったぜ」

「君が決めるな!」

 男の指が引き金にかかるのを見て、クレインは言った。

「おい、お前。俺から先に撃てよ」

「クレイン……君ってやつは」

「だれが貴様の望み通りにするか。だったらそっちの眼鏡からあの世に送ってやる」

「裏目に出てるし!」

 銃声が林に反響する。

 ハイベルの胸が撃ち抜かれて――いなかった。男の手から離れた銃が、宙を回転して飛んでいく。

「あぐっ……!?」

「ルーレへ向かう途中に、不審な車を遠目に見かけたもので。ジープをそばに停めて、私だけ様子を見に来たのですが、正解でしたね」

 銃を構えた女性が、ゆっくりと歩み寄ってくる。

 男は後じさった。

「おとなしくするなら拘束で済ませます。逃げるなら撃ちます」

 物静かな声音だったが、刺さるような冷たさがあった。

「だ、誰だお前は!?」

「正規軍、鉄道憲兵隊所属、クレア・リーヴェルトです」

「ア、《氷の乙女(アイスメイデン)》!? なんでこんなところに!」

 男は両膝をついて、うなだれた。抵抗の意志は失せたようだった。

 クレインとハイベルは顔を見合わせる。

「助かったのか、俺たち?」

「というかちょっと待って。クレア・リーヴェルトって、え? 本物? なにこの展開?」

「無事ですか」

 先ほどとは打って変わって、優しげな声のクレアは二人のそばに腰をかがめた。

「あなた方は私が保護します。すぐに部下がケガの処置をしに来ますから。……あら、その制服はもしかしてトールズの……?」

 小首をかしげて思案して、やがてうなずく。聡明な頭脳は、おおよその事態を把握したらしい。

「勇気のある子たちですね。実を言うと私の部隊は人手不足でして。どうでしょう?」

『なにがですか?』

 二人は異口同音に問う。微笑むクレアはこう提案した。

「保護ついでに、私の元で働いてみるつもりはありませんか」

『はい!?』

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

《パトリックにおまかせ⑥》

 

「もう少し!」

「がんばれー」

「もっと気合い入れろよー」

 子供たちの声援を浴びながら、パトリックは必死に木を登っていた。

「ぐっ、無責任なヤツらめ……!」

 日曜日の真っ昼間から、僕は一体何をやっているんだ。しかもトリスタ中央公園。人通りの多いこんな往来で。

 今日は自由行動日。学院に向かうつもりで町を歩いていたその道中、パトリックは騒がしい子供たちの声を聞いた。

 教会の日曜学校に通っているカイ、ルーディ、ティゼルの三人組だった。

 遊んでいる最中にボールを木の枝に引っかけてしまったという彼らは、パトリックを見つけるなりボールを取って欲しいとせがんできた。

 仕方ないと安請け合いしたまでは良かったのだが、ボールは予想より遥かに高い枝に挟まっていた。

 やると言った手前で後には引けず、パトリックはしぶしぶ木の幹に手足をかけた――というわけである。

 記憶をたどってみても、おそらくは生まれて初めての木登り。勝手がわからない。木とはここまで登りにくいものだったのか。

「白服の兄ちゃん、全然ダメじゃん。なんか長い棒探してくる?」

 カイは諦めかけている。だったら最初からそうしていろ。

「ボール遊びはやめてさ、もうブレードで遊ばない?」

 ルーディはカードゲームを提案した。僕のこの奮闘を見ておきながら、よく言えたものだな。

「はーあ、ユーシス先生だったら格好良く取ってくれそうなんだけど」

 ティゼルが物憂げな吐息を付く。ユーシス? アルバレアの? 彼こそこんな木登りをするわけないだろう。しかし先生とはどういうことなのか。

「ロジーヌ姉ちゃんもどっか行っちゃったしなあ。俺の人生どうなっちゃうんだよ」

「なんでカイの人生に関わるのさ」

「へへ、そりゃ将来は俺の奥さんになるんだから」

「バッカじゃないの。バッカじゃないの」

 ティゼルが痛烈に否定した。

「ロジーヌさんはユーシス先生とお似合いなのよ。カイなんてお呼びじゃないし。二人の式は海の見える小高い丘でやるんだから。私がそう決めたんだから」

「し、式? そ、そそ、それってケッコ……ケ、ぐばあっ!!」

「あー、また想像してカイが血を吐いちゃったよ」

 好き勝手に騒ぎ立てる三人。吐血しながらカイがのたうち回っている。これは大丈夫なのか。みるみる内に少年が血だまりの中に沈んでいく。

 ルーディもティゼルも見慣れた光景のごとく落ち着き払っていた。

 それはそれとして、限界まで手を伸ばす。

「ふんっ……!」

 痙攣しそうな指先が、枝に挟まっていたボールをかろうじて弾いた。どうにか落ちてくれたボールが、てんてんと道を転がっていく。それを追いかけるルーディー。

 同時にパトリックも転落した。しかも足が引っかかったせいで顔面からだ。

「ぬぁっ、あああ……」

 痛みにうめいているとティゼルがそばに来た。

「ありがとう、白服のお兄さん」

「ぐぅ……パトリックだ。覚えておけ」

「うん。わかった」

 その折、のろのろとカイが身を起こしていた。口だけじゃなく鼻と耳からも出血していて、目からは血涙があふれ出している。

 ティゼル曰く、以前より出血箇所と出血量が増えてきたそうだが、彼女はそれを“血芸”と呼んでいるらしい。この惨状をあっさり芸呼ばわりとは、彼らが本当に友人同士なのか疑問に思えてきた。

 カイが弱々しい目線を向けてくる。

「へへっ、俺にはわかるぜ。兄ちゃんも奪われる側の人間だってこと。あんたは世間の底辺だ。クツの裏にへばりついたゴミくずだ」

「今日初めて話した上に、ボールまでとってやった相手だぞ、僕は!」

「でも安心しろよな。このくそったれな世界をぶち壊す神様がもうすぐ降臨するんだってよ。そう父ちゃんが言ってた」

「なんだ、それは?」

「猛将神エリオット・クレイジーさ」

 理解した。こいつはあれだ。ケインズの息子だ。彼は自分の子供に何を吹き込んでいるのだ。

「クレイジー様、クレイジー様! 俺の願いを猛々しく叶えて下さい!」

「やめろ! 仮にも七耀教会に通う子供の言うことか!」

 ひどい教えがすり込まれてしまっている。ここまで将来の暗い少年を見たのは初めてだ。ひとえに父親の罪で、引いてはその父親を狂わした猛将の罪か。

 

 ●

 

 子供たちと分かれ、再び学院へと足を向ける。

 最近、やたらと町の人々から声をかけられるのだ。しかもどうでもいい要件ばかり頼まれる。

 屋根の修理、花壇の土運び、子守、ゴミ拾い、挙げていけばキリがない。

 聞いた話では『パトリックにおまかせよ』などと、使い勝手のいい便利屋として、フリーデル部長が吹聴し回っているそうだ。

 次に会ったら、さすがに文句を言わせてもらおう。

 長い坂を登り、トールズ士官学院の正門をくぐる。

「……誰もいないか」

 寒々しい静けさだ。

 いつも聞こえていた吹奏楽部の演奏が、ラクロス部の張りのある掛け声が、美術部の彫刻を打つ音が、絵の具の匂いが、水泳部の飛び込む水音が、フェンシング部の剣戟が――ない。

 喧騒のない学び舎が、ここまで活気なく感じるものだったとは。

 代わりに敷地内に漂っているのは、不快な緊張感。我が物顔で巡回する領邦軍が醸し出す空気のせいだろう。

 人がいなくて当たり前だ。こんな雰囲気の学院など誰も来たくない。

「ん……?」

 声が聞こえた。横柄な男の声だ。

 学生会館へと続く歩道の中程で、領邦軍の兵士と学院生が言い争っている。

 いや争ってはいない。兵士が一方的に責めていた。

「どうしたんだ。トラブルか?」

 二人の間に割って入る。

「あ、パトリックくん……」

 緑色の学院服の男子は、僕のことを知っているようだった。襟元のバッジを見るに、自分と同じ一年生らしい。

「なんだお前は。見たところ貴族生徒のようだが、そいつの肩を持つつもりなら同罪にしてやるぞ?」

「罪とは穏やかじゃないが、いったいどういう事情なんだ」

「そ、それは」

 男子生徒はおずおずと口を開く。

 気弱そうな彼の説明を聞くに、事情はシンプルだった。

 彼は吹奏楽部の部員。自由行動日を使って、演奏曲の自分のパートを練習しにきていた。

 そして本校舎に入ろうとしたところで、この兵士に止められた。

「……なにか問題があるのか?」

 軍の規則に合わせる士官学院は、形式上休日というものがない。よってカリキュラムのない自由日を定めて、休息や自習など、その行動を学生に一任している。

 だから彼が咎められる点はないはずなのだが。

「戦時下だぞ。部活動など自粛しろ!」

「自粛?」

「そうだ。しかも吹奏楽部とか言っていたな。浮わついた楽器など吹き鳴らしおって、不謹慎だとは思わんのか!?」

「言っている意味がわからないが……部活動は学院が認め、推奨していることだ。それにその戦時下というのも、そもそもお前たちが勝手に引き起こしたことだろう。従う義理があるものか」

「貴様……」

 顔を怒りに歪めて詰め寄ると、男はパトリックの襟首をつかみ上げた。男子生徒は狼狽している。

 案ずる必要はないと、パトリックは彼に目で告げた。

「自分の立場がわかっていないようだな。ならば今からこいつの大事にしている楽器どもを、残らず叩き壊してきてやる」

「やれるものならやってみろ。後悔するのはお前だ。いいか、よく聞け。僕は――」

 四大名門の一角、ハイアームズ家の三男、パトリック・T・ハイアームズだ。

「……っ」

 その一言が言えなかった。

 全て終わらせられるのに。この傲慢な兵士の表情を、一発で汗まみれにしてやれるのに。

 家の名前を出すことに、パトリックは強い抵抗を感じた。

 自分の背にかばった相手を、家名を使って守る? それは本当に僕が守ったことになるのか。

 しかし同時に気付く。

 逆に家の名を出さなければ、他にこの場を収める手段を持っていない。

「なんだ? 言いたいことでもあるのか?」

「僕は……」

 言え。たった一言。簡単なことだ。本当に簡単で――

「……出過ぎたことをして申し訳ない。今後は行動を正す故、どうか彼の楽器に手を出すのだけは許して頂きたい」

「ふん、わかればいいのだ。わかれば、な!」

 突き放され、しりもちをつく。

 嘲笑まじりに鼻を鳴らして、その兵士は行ってしまった。

「パ、パトリックくん、大丈夫?」

「僕のことはいい。だが今日は自主練を控えた方がよさそうだ」

「そうするよ、ありがとう」

 傲慢な相手に正論を通すことができなかった。彼を音楽室に行かせてやることができなかった。

 なのに、なぜ礼を言われるのか。

 彼を先に帰らせたあと、パトリックはしばらくその場に座っていた。

 じんじん痛む手のひらを見つめる。

「手をすりむいたか。セレスタンには隠さねばな……」

 専属の執事である。無用な心配はかけたくない。

 それにしても先ほどの自分の姿ときたら。

 かっこ悪い。情けない。恥ずかしい

 ……とは、あまり思わなかった。

 不思議と屈辱感が湧いてこないのだ。雑用ばかりやらされていたから、もしかしたらプライドや面子にこだわる感覚が鈍くなっているのかもしれない。

「あら、パトリック。休憩中?」

 涼しげな声とともにフリーデルがやってくる。それとなくパトリックは手の平を隠した。

「そんなところです。部長は?」

「型稽古しにきたの。せっかくの自由行動日だし、練武場で汗でも流そうかと思って」

「ああ、今日はやめたほうがいいですよ。巡回の兵士がうるさいですから」

「私もさっき呼び止められたわよ。授業のある時以外は、大人しく寮にすっこんでろって。その授業も教官不在が多くて自習ばかりなのにねえ。あーあ、久々にサラ教官の武術訓練を受けたいわ」

「……僕はあのカリキュラム嫌いですがね」

 あれは武術訓練という名の違う何かだ。

 “手段を問わず、かつ全員であたしにかかってきなさい”。そんな馬鹿げた指示一つで進む授業もあったほど。あの時は、いい加減にしろと望み通りクラス全員で勝負を挑んでやった。

 負けたけどな。

「ではもう帰るところですか?」

「だから練武場に行くんだって。なんならあなたも付き合う?」

「いやだって兵士に止められたのでしょう。……その兵士は?」

 多分僕らと揉めた兵士だと思うが、嫌な予感がした。

「横柄に言われちゃったから、ちょっと花壇に埋めておいたけど。あ、やだパトリックったら。ちゃんと首から上は出して呼吸できるようにしてるわよ。もう!」

「……そこの心配はしてません」

 予感的中。なんの『もう!』なんだ。

「でもここであなたに会えたのはちょうど良かったかも」

「なんですか。また依頼ごとですか」

「そうよ」

「まったく……」

 このままでは際限がなくなる。苦言を呈すつもりで口を開きかけたが、先にフリーデルが言った。

「そろそろ学院を奪還しちゃいましょ」

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 




流転(るてん)する日々》をお付き合い頂き、ありがとうございます。
一話に全員分のサブストーリーを収めようとしたのですが、例によって入り切りませんでした。
最初はお互いの長所短所に振り回されている感がありましたが、ここまで来ると一種の相棒感が出ている組もありますね


最近本屋に立ち寄った折に、『閃の軌跡THEアートブック』なる設定資料集を発見しました。Ⅰ、Ⅱが網羅されていることと、執筆の参考資料にもなりそうだったので、ややお高めでしたが衝動買いを。
各キャラクターはもちろん、それぞれの武器、衣装バリエーションもばっちり。騎神の細部も明瞭に見て取れ、都市のイメージ図もあったりと、なかなか良い買い物をしました。デュバリィの私服Verのイラストは結構レアだと思うのです。
サブキャラの原案図も面白く、ミントみたいなリンデや、アニメ店長みたいなステファンや、ロジーヌさんに至っては原案が7種もあり、水色髪だったり、シャギー入っていたりと見ていて色々楽しいです。
執筆のクオリティを上げるのに、大いに役立ってくれそうな感じです。

あと活動報告にも記載しましたが、人物ノートがカラーリング+リンク機能追加で見やすくなりました。ぜひ一度ご覧ください。

次回は単にサブストーリーだけではないのですが、後編として引き続きお楽しみ頂ければ幸いです。

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