簡単に逃げられるはずだった。
相手は自分より遥かに足が遅いし、俊敏性でも劣る。捕まる理由など何一つなかった。
しかし今、フィーは追い詰められていた。背中を壁に押し付け、執拗な追跡者と対峙している。
「もうどこにも行けないよ、フィーちゃん」
トワ・ハーシェルはそう告げた。事実、退路はない。
それもおかしい話だ。本来ならこの先にも通路は続いているはずなのに。
「……隔壁、ちょっと多過ぎ」
「ごめんね。こうでもしないと、私じゃ追い付けないから」
「職権乱用じゃない? 非常時以外で隔壁は使わないんでしょ」
「名目上は設備の動作点検だね。事前通達もしたし、アルフィン皇女の認可も頂いてるよ」
そう。逃げ果せるはずのルートが、ことごとく隔壁で塞がれていたのだ。半ば誘導されるようにして、フィーはこの場所までたどり着いていた。正確にはたどり着かされた、か。
「じゃあ、もうあきらめよっかな」
「こんなところで閃光弾はダメだよ」
軽口を叩きながら、そっとジャケットの中に手を伸ばそうとするも、先読みの一声に制される。
「ピンに手をかけて、弾いて、投げて、時限式で炸裂。それまでのトータルタイムはどんなに早くても五秒。それだけあれば私の後ろの隔壁も降ろせちゃうから」
「………」
一見したところ、トワは遠隔スイッチの類を持っていない。近くの天井にある定点カメラはフィーを向いている。おそらくブリッジのアンゼリカが隔壁の開閉を操作しているのだろう。
絶妙かつ厄介なコンビネーションだ。
ならば先にカメラを撃ち抜いて、即座に閃光弾を床に投げる。一瞬でも怯ませられれば、トワ単体を抜き去ることはたやすい。新たに得た風読みの能力も使えば、全ての先制権はこちらのものになる。
相手は頭の回転が早く、瞬時に策を巡らしてくる。しかしそれより速く自分が動けばいいだけのこと。
決めたのだ。午後からは昼寝をすると。ここで捕まるわけにはいかない。
ぐぐっと両足に力を込めたその時、フィーの背後の隔壁が上がっていった。
「え?」
操作ミス? 動作不良? 退路ができていく――
その逡巡が致命的だった。
隔壁に気を取られ、目を逸らした刹那、その隙をついたトワに正面から抱きつかれた。
「えへへ、つーかまーえたっ!」
「……しまった」
進むか退がるか、選択肢が増えたことで思考がぶれてしまった。隔壁を動かしたのはこの為か。完全にやられた。
「エマちゃんから聞いてね、どーしてもやりたかったの。アンちゃんもしたいって言うし」
「いい迷惑なんだけど」
逃れようとするフィーを、トワはがっちり抑え込む。体躯が似ているから、トワでも拘束できるのだ。
彼女はにっこりと笑顔を浮かべた。
「変身の時間だよ。フィーネさん」
《☆☆☆フィーネさんIf――could――☆☆☆》
艦長室に連れて行かれたあと、そこからのフィーは例によってお姉さんたちの玩具だった。意思を示すことさえできない着せ替え人形だった。
「これはどうかな?」
「悪くないが、フィー君ならこれでも映えると思うよ」
「えー、可愛い感じに仕上げたいなー」
「トワの服は基本的に可愛いものばかりじゃないか」
アンゼリカとトワは取っ替え引っ替えに衣類や小物を持ってくる。背格好の都合で、トワの私服があてがわれていた。
あれやこれやと時間をかけて試行錯誤を繰り返し――
「ばっちり!」
「会心の出来だ。さあ、こっちへ来たまえ」
今日のフィーネさんが完成した。鏡の前まで移動し、その姿を確認させられる。
ひらひらの白い花柄ワンピース。肩からたすきにかける小さなポシェットポーチ。リボンの髪留めは左右に一つずつ。クツはサンダル。
これまではシックで大人のファッションが多かったが、今回は逆にどこか幼さを感じさせる装いだ。
「相変わらず動きづらいんだけど」
「あ、ダメだよ!」
さっそくスカートをめくり上げようとするフィーを、トワがわたわたと止めにかかる。しきりにうなずくアンゼリカは、「恥じらいがないのもいい……」と不純な満足顔だった。
「それとフィーネさんは淑女だから言葉遣いにも気をつけなきゃね」
「わかったでございます」
「うん、うん? ……まあいっか。それじゃあさっそく行っちゃおう!」
「どこに?」
「お披露目!」
トワとアンゼリカに背中を押し出され、フィーネさんは艦長室を出発した。
●
やっぱりこの格好は落ち着かない。
トワたちはブリッジのモニターで自分の動向を見ているのだろうか。それを思うと二重に落ち着かない。艦長代理は多忙のはずなのに、こんなことに割く時間はひねり出せるようだ。
いっそトイレにでも逃れて着替えてしまおうか。ああダメだ。肝心の着替えがない。
いったい何度フィーネさんにさせられればいいの。今さらながらフィーネさんってなに。
そもそもフィーネさんはどこから始まったんだっけ。
「……エリゼのせい」
彼女に自由すぎる生活態度を咎められ、強制的な処置が実行された。その一回に端を発して、どんどん拡大されていったのがフィーネさんプロジェクトである。
艦内をうろつく。訓練区画にまでやってきていた。全て使用中のようだったが、ひとまず一番近いアーツ訓練室へ。
中に入るとエリオットがいた。魔導杖を携えて走り回っている。
彼はすぐにこちらに気付いた。しかし難解な顔をして、じっと凝視してくる。
「……もしかして、フィー?」
「正解。今はフィーネさんでございますけど」
「な、なにそれ? でもすぐには気付けなかったよ。その格好どうしたの?」
監査員がいないので、口調を戻すことにした。
「話せば長いんだけどね。とりあえず私の意志じゃない」
「ああ、なんとなくわかった」
「エリオットは訓練中?」
「そう。もっと安定して駆動できるようにしたいし、周りをよく見れる余裕も欲しいしね」
動きながらアーツ駆動を行うムービングドライブ。特異な感覚を必要とするようで、同じ魔導杖使いでもエマには扱えない技能だ。
エリオットはその駆動法にさらに磨きをかけて、複雑な移動をこなしながらも集中を途切れさせないようにしたいという。
と、そこまでの内容をスラスラと手記帳に記入する。
「なんでそんなの書いてるの?」
「会長に言われたから。みんなのところに行って、様子をまとめてきて欲しいって。各員の戦闘能力の把握は、作戦立案にも必要だろうしね」
「そういう意図じゃない気がするけど……」
パタンと手記帳を閉じる。フィーはエリオットをまじまじと見つめた。表情がやや暗い気がする。
「なんか元気ないね」
「はは、わかる? ちょっとミリアムに警戒されちゃってさ……」
あのミリアムがエリオットを? 何があったのだろう。
「深く聞かないでもらえるとありがたいよ」
「じゃあそうする」
あっさりと踵を返して、フィーは別の部屋に向かった。
次に足を運んだ剣術訓練室では、ユーシスが剣を振っていた。
リィンやラウラがやるような敵を想定した型稽古ではない。剣先の流れを切らさないよう体捌きを繋げていく、いわゆる宮廷剣術の稽古法である。その優美さは、しばしば舞にも例えられるほどだ。
ユーシスは戸口に立つフィーに気がついた。当惑しながら首を傾げる。
「なぜ子供がカレイジャスに……?」
「子供じゃないし」
少しむっとして言うと、「その声……まさかフィーか?」と彼は驚いた様子だった。
手短に経緯を説明する。
「なるほどな。ならば世話を焼いてくれた人間には感謝することだ」
「なんで?」
「所作事や礼節も指導してもらっているのだろう。お前にはまったく足りていないからな。この機会に身につけておけ」
「偉そうに」
「なにか言ったか?」
ここで抗弁したら、さらなる嫌味が待っている。「別に」とそっけなく言って、フィーは話題を変えた。
「それが魔導剣なんだ。初めて見た」
「お前はそうだったな」
「ちょっと使ってみて。どんな感じなの?」
「アーツ訓練室でないと無理だ。ここの壁は導力減衰用の特殊コーティングがされていない」
「だったら説明でいい。メモするから。これトワ艦長からの指示だし」
艦長命令の一語が効いたのだろう。うっとうしそうにしながらも、ユーシスはその能力について話してくれた。
魔導剣《スレイプニル》と専用ARCUSホルダー《ドラウプニル》。この二つを接続させることで、魔導剣の真価は発揮される。
オーブメントにセットしてあるクオーツの能力が刀身に宿り、斬撃と共に倍加されたアーツが爆ぜるのだ。ただし反動が大き過ぎる為に、中級アーツまでしか使用できないという。それでも上級のそれを軽く超える威力が出るそうだ。
ただリスクも背負っている。
チャージ時の隙を補って余りある破壊力を有するが、従来のアーツ駆動は不可能になった。加えて《ARCUS》の機構を改造したせいで通信機能まで失われてしまった。
「え。遠隔で情報のやり取りがしたい時とかどうするの?」
「近くの誰かから借りるしかあるまい」
「そばに誰もいなかったら?」
「どうにもならん」
確かにそうなる。もっとも作戦行動中に、彼が単独で動かねばならない場面はほとんどないが。
「もう十分だろう。そうだな?」
「まだって言ったら?」
「………」
無言でにらみつつ、早く出て行けと言わんばかりのオーラを発してくる。人の礼節がどうこう言う前に、自分自身もけっこう失礼だって自覚を持った方がいいと思う。
「というわけで、ユーシスに追っ払われた」
「だからといって僕のところに来てもらっても困るぞ」
集中が乱れるからと、マキアスからも煙たがられる。もうちょっとみんな私に優しくしてもいいんじゃない。ちなみにフィーネさんと初遭遇したマキアスの反応は、ユーシスとまったく同じだった。
射撃訓練室の中央に立つマキアス。その周りには複数の鏡面装置が滞空している。
クレア大尉から託されたミラーデバイスだ。これが彼の得た新たな能力だった。
「デバイスの扱いは難しい。複雑な軌道計算を一瞬で、しかも並列でしないといけない。ものすごく集中する必要があるんだ」
「その辺りを詳しく」
「だから一人にしてくれって言いたかったんだが」
「トワ艦長からの指示」
これ見よがしにメモ帳をちらつせて言う。不服そうにマキアスは応じた。この反応もユーシスと同じだった。本当は気が合ってるんじゃないだろうか。
《
レーザーなどの光子弾を跳ね返す鏡面加工がされていて、事前にプログラムした通りに空中を移動させることができる。装置には導力供給機能も備わっているから、反射する度にレーザー弾の威力が増加していく仕組みだ。
ただし自律移動ではないので、マキアスが言うようにミラーデバイスの移動速度や反射角を、あらかじめセットしなければならない。
そのためには高度な状況把握と未来予測が求められる。それこそクレア・リーヴェルトでしかできないほどの。
だから連続して多数の装置を操ると――
「うっ!」
強い頭痛に襲われるそうだ。顔をしかめて、マキアスはこめかみを押さえている。
「大丈夫?」
「ああ……問題ない。僕にはこれがあるからな……おあっ!?」
隅に置いてあった四角い容器のふたを開けたマキアスは、いきなり大声を上げた。
「な、ない。あと三つだけだと!? いつの間にこんなに食べてしまったんだ……!」
「なにが?」
肩越しにのぞき込む。容器の中にはチョコレートがあった。
「糖分補給用にって、クレア大尉が僕のために作ってくれたんだ。手作りだぞ! 僕のために!」
「あ、そう。まだ三つもあるけど」
「あと三つしか、だ!」
なぜか怒られた。それにしてもクレア大尉が作ったチョコ……きっと美味しいだろう。
「ねえ、一つだけ」
「ふんぬっ!」
すごい勢いで振り向いて威嚇してくる。メガネが真っ黒に染まっていた。
これが雪合戦の時に猛威を振るったという修羅化だ。話に聞く修羅百パーセントだ。
「やっぱりいらない」
クレア大尉のチョコの味は気になるが、下手に手を出して修羅眼鏡に付け回されるのは面倒だ。
四階から三階に降りて、Ⅶ組メンバーを探す。それぞれの好みそうな場所はだいたい分かっている。
後部デッキに出てみると、案の定そこにはガイウスがいた。デッキスペースの真ん中あたりで、こちらに背を向けてあぐらをかいている。大きな背中だ。
「フィーか。お前も風にあたりに来たのか?」
言いながら振り返ったガイウスの動きが硬直する。気配では確かにフィーだったのに、なぜかまったくの別人がいる――そんな反応だ。
「お……っ」
二の句が継げず、なおも固まっている。なんだか面白いので、こっちも黙ったまま立ち尽くす。
「………」
「………」
しばらく妙な沈黙が続き、何かに思い当たったかのようにガイウスはようやく口を開いた。
「お前は……そうか」
「そうだよ」
「迷い込んだのか?」
「違う」
彼は最後まで正解にたどり着けなかった。ルーレ市街の子供が、物珍しさで艦内に入ってきたと思ったようだ。
どこまでも子ども扱いされるこの感じには、納得いかないものがある。
「フィーだけど」
「……! か、風のいたずらか?」
「それってどういうリアクションなの」
前の男子たち同様に経緯を説明すると、ガイウスは半信半疑ながらも信じてくれた。それでもまだ半分しか信じていないのが謎だが。そんなにも普段の私と違うのだろうか。そろそろこの都度の説明にも疲れてきた。
「ガイウスも特訓中だよね。順調?」
「それなりにな」
ガイウスの周りには彫刻用の石材――その破片が転がっている。彼の特訓とは、ノミを使って石材を一発で砕くことだった。
なんでも物質には構造上、弱い部分や角度があるという。そこをピンポイントで突くことで破砕するのだとか。
そうは聞かされたものの、原理は今一つ理解できなかった。
「石とかはわかるんだけど、人形兵器みたいな金属にも弱点があるの?」
「あるにはあるが、常時そこを狙えるわけではない。体勢や構え、相手の動作によって、腰だったり胴だったり……様々だ」
そしてその破砕点を見切るのは、技術ではなく直感だそうだ。言葉で説明できる類のものではないらしい。
「どんなものでも砕けるんなら、たとえばすごく大きいものだったら? こんな石じゃなくて、岩盤みたいな」
「理屈は同じだ。ただあまりにも大き過ぎれば一発では無理かもしれん。何度も衝撃を与えて脆くした上で、核となる部分を突くことになると思うが」
今はその精度を上げるための訓練中。こればかりは繰り返し行なって、体に感覚を染み込ませるしかない。
「いつかは勝ちたいものだ。ウォレス准将に」
言いながら手元の石をノミで打つ。カンッと軽い音がして、それは二つに割れた。無駄な力を一切入れていないように見える。
ガイウスが勝ちたい相手。《黒旋風》こと、ウォレス・バルディアス。
彼が誰かを指して、はっきりと勝ちたいと言うのは珍しいことだった。
「ガイウスならできるよ。私が保証してあげる」
「ああ、感謝する」
ガイウスとウォレス。ノルドの血を引く者同士、また槍を交える日が来るのだろうか。
ガイウスはノミを置くと、フィーをまじまじと見た。
「それにしても……なんだ。やはり慣れないな」
「この格好?」
くるりと回ってみせる。ワンピースのすそがふわりと浮いた。
「気にいっているのか?」
「いってない。今までのに比べると動きやすいけど、やっぱり戦闘向きじゃないから」
「機能重視か。フィーにとって服は装備なんだな」
「そ。レポートまとめなきゃだし、もう行くね」
艦内へと引き返すフィー。
服が装備というのは、とても的を射ている。自分の動きの邪魔をしないか、耐久性は高いか、収納力は十分か。重要なのはその辺りだ。
おしゃれして綺麗な服を着る。良いことかもしれない。楽しいことかもしれない。ただ私には必要ない。多分そこに意義を感じていないのだと思う。
だって、それが必要な世界では生きてこなかったから。
三階ではガイウスしか見つからなかったので、二階に降りる。
遊戯室から話し声が聞こえてきた。これは委員長とセリーヌか。そういえば転移術の訓練中は、なぜかこの部屋を使っていた。
「委員長――」
「で、結社に入るわけ?」
室内に踏み入る寸前で聞こえた言葉に、フィーは動きを止める。
結社《身喰らう蛇》に委員長が? 何を言っている。
ドアに耳をつけ、中の会話を拾ってみる。
「そんなわけないでしょう。姉さんの真意は気になるけど、応じられる話じゃないもの」
「確かに意図は読めないわね。あと二回エマを誘って、最後には自分のところに来るとか言ってたかしら。なんでも思い通りにするって感じが気にくわないのよ」
エマが言う姉さんとは、ヴィータ・クロチルダを指している。二人の話から推察するに、結社第二柱《深淵の魔女》が、彼女を《身喰らう蛇》に誘ったということだ。
いつの間に敵と接触したのだろう。ユミルで貴族連合と交戦した際、エマの相手はそのクロチルダだったはずだが、まさかその時に?
「手段を選んでこない可能性もある。たとえば仲間を盾にされて、交換条件として結社入りを持ち出されたら……アンタ、拒みきれる?」
「それは……その時になってみないとわからないわ」
そんな状況なら、エマは相手の要求を飲む。自分の感情は置いてでも、私たちの為にきっとそうする。
フィーはそう思った。
「まあ、ネガティブな仮定ばかりしててもしょうがないしね。要はアンタにそれをはねのけられる力があればいいだけだし」
「そうね。付けられる力は付けておかないと。それじゃさっそくお願いできる?」
「ええ、やるわよ。念話術の習得」
それが転移術に続くエマの新たな能力のようだった。
会話はまだ続いている。
「しかしアンタも忙しいわね。他にも色々とつきまとわれてるんでしょ。あの用務員とか」
「思い出すから言わないで……レグラムでは声しか聞こえなかったけど、私がガイラーさんの計画の中核だって」
「どうでもいいけど、魔女のくせに予言受け過ぎなのよ」
「言わないで……」
なんだかまだ訳ありらしい。
張り詰めていた空気は幾分和らいでいるが、その中に入る気にはなれなかった。
エマの事情は気がかりだったが、ひとまずトワからの依頼の続きに戻る。
食堂なら誰かいるだろうと足を運んでみると、最近はここがお気に入りらしいミリアムと、ずっとここがお気に入りらしいラウラの姿があった。
ミリアムは手前のテーブルで本を読んでいて、ラウラは奥のキッチンカウンターで調理らしきことをしている。
「――ほう。トワ艦長とアンゼリカ先輩の計らいでか。私はよく似合っていると思うが」
調理の手は止めずにラウラは言った。ガーッとミキサーで何かを混ぜている。黄色の液体が激しく波打っていた。あ、緑色に変わった。
「うんうん、かわいいよフィー」
ミリアムも本を片手にラウラに続く。最近は新しいことを知るのが楽しいようで、色々な種類の本を読んでいるそうだ。この前はアガートラムを絵本に出てきた竜にトランスさせて遊んでいた。リアル過ぎて本物の火を吐いていたりしたが。そこに遭遇したマキアスの絶叫は、音圧だけで自身のメガネにひびを入れるほどだった。
「他人事だと思って。ミリアムだってその内、ミリーちゃんにさせられるよ」
「ボクは最近いい子だからねー。大丈夫だもん」
「まるで私が悪い子みたいなんだけど」
設定上のフィーネさんの妹がミリーちゃんである。緊張したミリアムの『~だす』のしゃべり口調から、田舎娘という謎の属性も付加されていた。
一人だけうまく逃げてずるい。今度は絶対に道連れにする。……今度があったら嫌だけど。
「で、ラウラは何を作ってるの?」
「野菜ジュースだ。見たらわかるだろう」
「あんまり飲んだことないし……でも野菜ジュースってそんなに次々と色が変わる感じだったっけ」
「赤はピーマン、黄はパプリカ、緑は菜っ葉。妥当な変色ではないか」
「今、青色」
目の冴えるようなブルーがかき混ぜられていた。粘度が強すぎて重いのか、ミキサーが苦しそうにうなっている。
「これはなんの色だったか……多分、魚?」
「私は知らないし。ラウラが飲むの?」
そう訊くと、ラウラは返答に詰まっていた。ちょっとの間のあと「リィン用だ」と小声でつぶやいて、棚の奥のしゃれたグラスを取り出す。
「栄養は豊富に入れたつもりだ。黒竜関の疲れがまだ残っているだろうしな」
「元気になって欲しいんだね」
「まあ……そういうことになる。フィーも飲んでいくか?」
「いいよ私は。一人分の量しかなさそうだし。リィンに渡してあげて」
「そうか。気を遣わせてすまない」
ラウラは出来上がった野菜ジュースをグラスに移し始めた。半固形状のスライムみたいな液体が、ゴボッと音をたてながら注がれていく。
ジュースを持っていったあとは、そのまま剣の稽古に向かうそうだ。本当に毎日剣を振っている。彼女曰く、一日稽古を休めば、その分を取り返すのに三日かかるのだとか。
ラウラは蒼耀剣を早くも使いこなしつつある。カスパルから受け渡されたその剣は、彼女のポテンシャルにもっとも合致する一振りで、イメージ通りの剣筋を描いてくれるのだという。それはヴィクターから伝授されたアルゼイド流の奥義の威力にも関わってくる。
武器の相性の重要性は、フィーにも理解できた。最近、双銃剣を繰る感覚が、以前よりずれている気がするのだ。風を読む能力を得てから、反応速度の質が変わったせいかもしれない。
「フィーはこれから他のみんなにも会いに行くんだよね?」
「そうだよ」
「アリサはこれから?」
「うん」
そう答えると、「ねえ、頼んでみたら?」と、ミリアムは意味ありげにラウラを見る。「う、うむ。そうだな」と、なぜか遠慮がちなラウラは、受け止めた視線をそのままフィーへと転じた。
「フィーが来る前にミリアムと話していたのだが、実は――」
「二人ともレイゼルに乗ってみたいんだってさ」
「ええ~?」
ラウラとミリアムからの要望を伝えると、アリサは困り顔だった。このフィーネさん衣装で登場した時よりも困惑顔だ。
「乗るって操縦するってこと? 私が言うのもなんだけど、難しいわよ。取り回しの癖とか、私用にカスタマイズしてるし……」
「そんなに本格的じゃなくていいみたい。こう……ちょっと腕を動かしたり、足を動かしたり、銃を撃ってみたり」
「最後のはダメだから」
「冗談」
船倉ドックの《レイゼル》の整備スペース前で、フィーは件の朱色の機体を見上げた。メンテナンスの為に各部の装甲は取り外され、複雑な内部フレームがあらわになっている。
翠耀の特性を身に宿し、風と雷を従える紅翼の守護者。カレイジャスからの降下後と黒竜関戦で、レイゼルはざっと二十機近い敵機甲兵を撃破している。貴族連合にしてみれば、まったく予期していなかった嵐というところか。
「……まあ、別に構わないわ。私がそばに付いていることが条件で」
「いいの?」
「ちょっと考えてることもあるしね。むしろ試し乗りしてもらった方がいいかも」
「じゃあさっそく」
すぐさまレイゼルに乗り込もうとするフィーを、アリサは腕をぐいっと引いて止めた。
「ちょ、ちょっと待ちなさい。メンテが終わってからだってば。なに、フィーも乗りたいの?」
「え、そうだけど」
当然だ。色々動かしてみたい。
「ローラー機動? あれやりたい。ヴァルキリーブーストっていうのも一緒に使って」
「死ぬわよ。本当に死ぬわよ。あれ一回使うたびに息できなくなるし、肋骨へし折れそうになるし」
「それでもアリサが無事なのって、その胸で衝撃緩和してるから?」
「そうそう弾力で――って何言わせるのよ! そんなわけないでしょう! ていうか何聞いてるんです!?」
レアなノリツッコミを披露してくれた。近くで会話を聞いていた整備スタッフの数人が、あわてて作業に戻っていく。
「そういえば、このレイゼルってシュピーゲルの改修型なんだよね。使えないの? リアクティブアーマー」
「ああ、それね。使えるけど使えないって言うか……」
「どういう意味?」
「機能としては残ってるのよ。でも五つの主武装に回す導力が大き過ぎて、さすがの連立式オーバルエンジンでもエネルギー障壁を発生させるほどの余裕はないの」
「使えないんだったら残しててもしょうがないんじゃない?」
「お祖父様に言ってよ。設計図面にも載ってなかったし、私も搭乗時に初めて知ったんだから。あ、そうそう設計図で思い出したわ」
少々納得いかなさそうにアリサは続けた。
「レイゼルの仕様が微妙に基本設計と違うのよね。母様に言われてから気付いたけど、確かにちょっと機体バランスが悪い。お祖父様のミスなのかしら。母様は含みのある言い方をしていたけど……」
「それは……どうだろうね」
一流の技術者に妥協はない。フィーにはグエン・ラインフォルトがそんなイージーミスをするとは思えなかった。
発動すらできないリアクティブアーマーの機能を残し、機体のバランスもなぜか最良からずれている。
おそらくレイゼルの性能は、現存する機甲兵の中で頂点だ。圧倒的な力を誇るのにも関わらず、しかし完璧ではない。
完璧を目指さなかった? あるいは完璧にできなかった? いったいどんな事情で? この機体の中にグエンは何を隠しているのだろう。
フィーには想像もできなかった。
「そ、それはどういうことなんだ?」
「フィーネさんということでございます」
リィンはヴァリマールのところにいた。先の戦闘データを見返していたらしい。
レイゼルの整備区画の向かいが、騎神の待機スペースになっている。そこに現れたフィーを見て、彼も案の定な反応をした。
なんとなく男子と女子でリアクションが二分されている気がする。
「経緯を説明してくれ」
「かくかくしかじか」
「いや、わからないから」
「もう何人目だと思ってるの。いちいち最初から話すの、かなり面倒なんだけど」
「俺が悪いのか」
「反省した方がいいよ」
「釈然としない……」
とにかく億劫な感じでいると、そこはきっちり空気を読んで、それ以上の追及はしてこなかった。
「戦闘データ、なんか面白いのあった?」
「面白いのはないだろ。今は重奏リンクの組み合わせをまとめていたんだ。マスタークオーツ同士の相性は重要だからな」
「ああ、繋げないのあるしね。私の《レイヴン》とマキアスの《アイアン》とか」
「繋げないわけじゃないんだ。能力が同時発現しないだけで」
「同じことでしょ」
「そうなんだが、繋げるってこと自体を何かに活かせないか……考え中だ」
《ARCUS》の機能。準契約者の存在。その二つの条件が重なることによって、騎神リンクはリィンにしか使えない能力として成立している。
まだその先の可能性があるのだろうか。
「そうだ。あれはわかったの? ユーシスとのリンクについて」
「いや。確かに変化は起きているらしいが……。ヴァリマールも不明だって言ってる」
彼のマスタークオーツ《ミストラル》は、騎神リンクで繋いでみても、何の効力も発揮しなかったのだ。正確には効力がわからない、か。
「本人が難儀な性格だから、マスタークオーツもそうなのかもね」
「絶対にユーシスの前で言うんじゃないぞ」
「言われなくても言わない。しつこく追い回されるし」
あとはトワ艦長に報告すれば終わり。晴れて昼寝ができる。昼はずいぶん過ぎてしまったけど。シャロンにおやつを出してもらって、それから良い場所を見つけて寝転がろう。
「じゃ、私行くから」
「ああ、気を付けて――……ん? ちょっと待ってくれフィー。普通に流してしまってたんだが、その恰好のこと最初になんて言ってた?」
「フィーネさん?」
「それ、どこかで聞いたな。確か、えっと……」
なにやらリィンは考え込んでいる。しばしのあと、思い当たったように口を開いた。
「もしかしてユミルでもやってたのか?」
「ん。着てた服はいつも違うけどね」
「外にも出たのか?」
「出たけど」
リィンの額に汗がにじみだした。妙に落ち着かない様子だ。
「……その恰好でラックに会ったことがあるか」
「あるよ、何回も」
「雪合戦の前ぐらいからフィーネさんフィーネさんって、うわ言みたいに繰り返してたから変だとは思ってたんだが……そういうことだったのか。……まずいな」
リィンは改めてフィーを見た。その表情からは深い苦悩と葛藤がうかがえる。
「言ったらショックを受けるかもしれない。でも言わなかったらあいつはいつまでも……くそ、どうしたら……」
「リィンはいつも悩んでるよね。あまり考え込まない方がいいと思う」
頭を抱えるリィンを残して、フィーはすたすたとその場を立ち去った。
●
「おかえりフィーちゃん!」
ブリッジに入るなり、トワが満面の笑みで出迎えた。
「ただいま。もういいよね。脱ぐよ」
「ここじゃダメだよ!?」
「わかってるし。はいこれ」
フィーは手記帳をトワに渡した。
「わざわざ書いてくれたんだ? えへへ、楽しみだなあ」
ページを読み進めたトワは、「あ、あれ?」と、小首をかしげた。不思議そうに手記帳とフィーネさんスタイルのフィーとを見比べている。
「みんなの様子は書いてある通り。特訓だったり趣味だったり、自由に過ごしてたよ」
「え、えー? そういう意味じゃなかったのにー! みんなはフィーネさんを見て、どんな反応だったの?」
「女子は「似合ってる」って。男子は「誰だお前は」って感じ」
「男の子たちにはお説教がいるね……」
トワは手記帳をフィーに返した。
「でも似合ってるのは間違いないから、今度は女の子で総掛かりになって、かつてないフィーネさんに仕上げてみせるよ!」
ものすごい気迫。かつてないフィーネさんという言葉には、もはや不安しか感じなかった。そんなフィーネさんにはなりたくない。どんなフィーネさんであろうともだが。
きっとお決まりの淑女レッスンもフルコースなのだろう。女子総動員とかありえない。
「いや、もう無理。無理だから」
「なんで?」
「やっぱり私には合わない。フィーネさんって素の私と全然違うし、そんな立ち振る舞いとか絶対身につかない」
淑やかな応対、丁寧な言葉、所作事、嗜み。それらの全てが縁遠いことだった。今更そんなものを上塗りしたところで、すぐにはがれ落ちていくだけなのに。
「んー、どうかな。フィーネさんとフィーちゃんは別人ってわけじゃないんだから、私は大丈夫だと思うけど」
「別人だよ。そんなふうには生きてこなかったんだから」
「だけど、そんなふうに生きてきたら、フィーネさんみたいになってたかもしれないよね?」
「え……」
何の気無しのトワの言葉にとまどう。
考えたことはなかった。
もしも身寄りを失わず、一般的な家庭に育ち、西風の猟団に拾われることもなく、今日までの日々を過ごしていたならどうなっていたか。
普通の女の子になっていたのかもしれない。それこそフィーネさんのような。
「よーし、今からプランを練らなきゃ。どんなのがいいかなー? あ、でも先にこの書類の束を処理してからかあ……」
やっぱり忙しいらしい。
フィーはブリッジのガラスに薄く映る自分の姿を眺めてみた。
見慣れない姿。だけど、あり得たかもしれない姿。
確かに普通の生き方ではなかった。武器を当たり前に持つ毎日。常にとなり合わせの危険。それでも自分の境遇を不幸だと思ったことはないが……。
当たり前。普通。戦いから離れた世界。
私のこの姿が、武器を持つことなく、普通に生きる当たり前の姿だとしたら。
ゼノやレオは――西風のみんなは、そんな私を見てどう思うのだろう。
――続く――
――Side Stories――
《プレリュード オブ……》
「またこんなとこで一人で昼食? さびしいよ」
カレル離宮西館の屋上にリゼットはやってきた。いつも通りの定位置で自前のお弁当を食べるエリゼに、いつも通り彼女は絡んでくる。
「おいしくないでしょ、そんなんじゃ」
「どこでどうやって食べても味は変わりません。私が作ったんですから」
「もっと自分からみんなの輪に入っていかないと。なんならあたしが仲立ちしてあげようか?」
エリゼはリゼットをじとっとにらみつけた。
「だ、れ、のせいだと思ってるんですか!」
わかってるくせに。
あの三人組とは仕事上でも関わるし、一応のコミニュケーションはがんばって取ってきたのだ。その甲斐あってか、セラムのお付きの二人――サターニャとルシルとはそれなりに会話を持てるようになっていた。調度品の掃除の仕方などについて、向こうから質問をしてくれることもある。
それがつい先日のトランプゲームの事件。リゼットが企画した親睦会の時だ。
負けたら罰ゲームとか余計なことをリゼットが言い出したせいで、元々負けん気の強いセラムに火が付いた。
結果、エリゼが勝った。
罰ゲームは撤回させたものの、深くプライドが傷ついたらしいセラムは、以前にも増してエリゼを敵視するようになってしまったのだ。
「難儀なやつだねえ……」
「あなたがです!」
最近わかってきたことだが、サターニャとルシルはそこまで自分に対して壁を作っていない。だがセラムが頑な態度を取っている以上、彼女たちもそれに合わせなければいけないのだろう。
「ま、あれは不幸な事故だったよ。実際運だったんだから仕方ないね」
「この人は……」
「そうむくれないでよ。詫び代わりにあたしの特技を見せてあげるから」
「特技?」
リゼットはフェンス際まで移動した。肩に担いでいた狙撃用ライフルを体の前に持ってくる。
「あんた目は良いっぽいけど、さすがに肉眼ではちょっと遠いかな」
「なにを……」
「ほら、これ使って」
コンパクトな双眼鏡を渡される。それで見るように指示されたのは、三〇〇アージュは離れた林の手前。そこに生えていた一本の木だった。
リゼットは狙撃銃を構え、自身の目をスコープに接着させた。
「見えるかい。左側の枝の先、ちょっと枯れてる茶色い葉っぱ」
「ええと、あれですね。見えますけど」
「あいよ」
リゼットの雰囲気が変わる。冷えた外気の中で、彼女の周りだけさらに温度が下がった気がした。まるで金属のような硬質な冷たさが、銃口の先に集まっていく――
銃声が響いた。
その直後、リゼットが言っていた茶色い枯れ葉が、はらりと地面に落ちていく。
「当たった」
気負いもなく彼女は告げる。双眼鏡越しにも遠すぎて、エリゼには命中したかの判別ができなかった。だが実際に落ちた葉を見るに、そういうことなのだろう。
エリゼは狙撃の技術や、その水準については詳しくない。しかしこれは驚異的な腕前ではないのか。
そういえば幻獣と交戦したあの時、リゼットはライフルの射撃で、何度もピンポイントで敵の目を撃ち抜いていた。幻獣の猛攻にさらされて激しく動き回る中なのに、あんな小さな的を一発で。
レンズから目を離して、リゼットを凝視する。彼女は得意気に胸をそらしていた。
「どーよ、驚いた?」
「ええ……すごく。あんなこと、訓練してできるものなんですか?」
「さあ? でも部隊の中であたしに勝てるやつはいないよ。狙撃試験だけはいつも首席だったね」
「あれだけ離れた葉っぱの一枚ですよ。どうやって狙いを……」
「コツがあんの。銃弾って弧を描いて飛ぶからさ。遠距離だと風向きとか湿度の影響とかも受けるし、スコープ通りの狙いじゃまず当たらない。だからその辺も考えて、あえてエイムをずらすんだよ。どんだけずらすかは……まあ、勘だね」
勘で一つでできる芸当とは到底思えなかった。天才的なセンスだ。軍属として活かせる特技など、これくらいしかないと彼女は笑うが。
コツコツと革靴の足音が二人の耳に届く。
「銃声が聞こえたから足を運んでみたのだが、君たちか」
戸口をくぐって、カール・レーグニッツが屋上にやってきた。「げっ、知事のおっさん」と小声でもらすリゼットは、すぐに表情を兵士のそれに変えた。
「何かあったのかね?」
「はっ。巡回中に東の林に不穏な影を発見しました。先日の騒ぎの一件もありますので、魔獣か動物か判断すべく、試射を行った次第であります」
そういうことにしとけと言っている目が、エリゼにちらと向けられた。
弾丸使用の報告書と残弾記録には、そう記載する腹づもりだろう。というか巡回中だったのか。
「なるほど。結果は?」
「動物でした。引き続き巡回の任務に当たります」
リゼットはさっさと館内に戻っていった。
その姿を見送ったカールは、エリゼの近くに歩み寄ってきた。
今の説明でごまかしきれたのか。なんにせよ、ばれるわけにはいかない。
律儀にもリゼットの話に合わせ、エリゼはその場を乗り切ろうとする。
「魔獣みたいな動物っているんですね。そういえば魔獣と動物の生物学上の違いというのは――」
「無理に取り繕わなくてもいい。彼女が隠し事をしたのは察しがついている。職業柄、人の嘘には敏感でね」
「も、申し訳ありません、知事閣下」
「構わないさ。咎めようとも思わないし、咎める立場にもない」
カールはフェンスの前に立った。先ほどリゼットが銃を撃った場所だ。
「で、本当のところは何を撃ったんだい?」
もうはぐらかすことはできない。エリゼは正直に答えた。
「あの遠くに見える木の葉を」
「狙ってかね?」
うなずく。信じてくれないと思ったが、カールは「それはすごいな」と感心していた。
「疑わないんですか? だってあんなに離れた場所にある、しかも葉っぱですよ」
「確かに非常に優れた技能だと思うが……《雪帝》の君になら同じことができるんじゃないかな?」
「で、できません。それに《雪帝》って……。機会があればお聞きしたかったのですが、やはり閣下は母と面識がおありなんですよね」
「ルシアか。知っているよ、シュバルツァー家に嫁ぐ前から。ああ、よく知っている……」
そんなに昔からの旧知だとは。ルシアはユミル出身ではなく、若い頃は帝都に済んでいたと聞いたことがあるが、その頃の知り合いだろうか。
何を思い出したのか、ぎりっとカールの表情が険しくなった。
「あのう……立ち入ったことをうかがいますが、お二人は険悪な仲なのでしょうか?」
「おっと、気を遣わせてしまったようだ。確執があるわけじゃないから安心して欲しい。ただ少し因縁があるだけで」
その因縁は確執と呼べるものではないだろうか。ただならぬ気配が漂っている。
「私からもいくつか質問させてもらおう。雪帝掌を使えるということは、エリゼ君はどのような形かでそれを伝授されたはずだ。いつだね?」
「ここに来る少し前に。雪合戦に母様が乱入して、その時に見た技です」
「雪合戦? あの忌まわれし振るいの儀式か……!?」
一応ユミルの伝統なのに、忌まわれしとか言われた。
「えっとですね、親睦目的の雪合戦なので、みんなで参加したんですよ。まあ……ちょっと一部は殺伐としてたみたいですけど」
「みんなと言うと、マキアスもかね」
「ええ、もちろん」
殺伐とした最たる原因であるが。
「なんということだ。まさか雪帝ルシアと直接戦ってはいないだろうな」
「すみません。マキアスさんをアウトにしたのは母でして」
「なんだと……」
ゆらゆらと怒りの炎が揺らいでいる。これはまずい。
「あ、でも雪合戦後の立食会では、母がマキアスさんをユミル六柱――雪合戦の主要メンバーに誘っていました。ですので禍根は残さずに――」
「おのれえっ!」
「きゃあ!」
その剣幕に思わずエリゼはたじろいだ。温厚なレーグニッツ知事がここまで感情を荒げるとは。
動くに動けず固まっていると、その様子に気付いたカールはエリゼに謝った。
「驚かしてすまない。私がその場にいさえすればと思うと、悔やんでも悔やみきれなくてね。しかしレーグニッツ家の跡取りと知っていながら、六柱の席に座らそうとは……やってくれる!」
「は、はあ……」
あっけにとられる反面、そういえばとエリゼは思い出す。
あの雪合戦。母様は手加減していた。あれほど滅茶苦茶をやったのに、結局、私とアリサさんとラウラさんには傷一つつけなかった。雪帝掌を見舞ったクレアさんにも、軽い当て身程度に力を押さえていた。
けれどマキアスさんだけは違う。
乱入早々、最初の標的にしてズタズタのボロ雑巾に変えたのだ。
そうだ。変だ。一発当てれば済むのに、他の人にはそうしてるのに、なぜ彼だけを全力で沈めたのだろう。
「約束の地を巡り、連綿と続く戦いの歴史。遥かな太古に端を発する裏切りの物語」
低い声で語りながら、カールは近くに落ちていた石片を拾った。
ぐんと力強く振りかぶる。膨れ上がる強靭な筋肉。ついにスーツがパァンッと破けた。サスペンダーもどこかへと弾け飛んでいった。
「レーグニッツ投法ファーストフォーム《デスペラード》――メガソニック!!」
放たれる一投。フェンスをぶち抜き、うなりを上げながら彼方へと加速するそれは、さっきリゼットが撃った木の幹に命中した。
メキメキメキ、ずずーんと根元から倒壊する大木。ギャアギャアと悲鳴を散らす鳥の群れが、林から慌ただしく飛び立っていく。
「まずは六〇パーセントと言ったところか。だが案ずる必要はないと言っておく」
カールはなおも硬直するエリゼに向き直った。
「負の連鎖は私の代で断ち切ってみせる。君にもマキアスにも、全ての因縁を引き継がせないことをここに誓おう」
きらりと眼鏡を光らせて、カールは去っていく。エリゼは何一つ話についていけない。
ひん曲がっていたフェンスが、がしゃんと音を立てて崩れ落ちた。
☆ ☆ ☆
お付き合い頂きありがとうございます。
各キャラの進捗をまとめつつ、次話以降の繋ぎもこなし、自身のストーリーもきっちり進めてくれるフィーネさん。とても有能です。
ついには先輩たちにまで弄ばれるようになってしまいましたが、ここでフィーネさんプロジェクトの意義がちょっとだけ見え隠れしています。
ともあれラックがどうなることでしょうか。
次回ですが、ずっと前からやりたかったストーリーでして、どれくらい前かと言えば前作の中盤ぐらいからになります。
当時に作った原案を、閃の軌跡Ⅱの登場キャラクターと今の設定に落とし込んだもので、そのせいか前作の雰囲気が強めのストーリーとなっています。
とある理由から、本編に関係なく好き放題できる仕様です。なので好き放題にしています!
それでは引き続きお楽しみ頂ければ幸いです。