イリーナ・ラインフォルトを奪還する際にヴァリマールが脱線させた《アイゼングラーフ》は、現在ルーレ駅に停車中である。
あれを線路上に戻すのは大掛かりな作業になると思っていたが、現場に出張って来たクレーン付き重機が、いともたやすくそれを成してしまった。
「機械っていうのはすごいんだな……」
人間の力が及ばないものを、人間が作り出す。素直に感嘆すべきか、はたまた畏怖すべきか。
考えるともなしに思いながら、マキアスは両どなりの座席に挟まれた絨毯敷きの通路を歩いている。
内装、設備、どこをとっても一流と呼ぶに相応しいそこは、アイゼングラーフの車両内だった。
「で、どこにあるんだ」
そう訊くと、横に並んで歩くミリアムはきょろきょろと首を巡らした。
「んーとね、まだ先だったかなー」
「どの車両も同じような設えだし、わからなくもなるだろうが……」
二つ目、三つ目と進み、四両目の車両でそれを見つけた。座席の一つに向かって、ミリアムが走っていく。
「良かった~!」
喜色満面で飛びついた先には、大きなクマのぬいぐるみがあった。可愛らしいデザインの、ふかふかしたテディベアだ。
以前にミリアムはアイゼングラーフに乗ることがあったそうだが、その折に置き忘れてしまったらしい。
この機会に回収したいという彼女の要望を受け、たまたま居合わせたマキアスが強制的に同行させられる羽目になったのだ。
事情説明の一つで、車内に立ち入る許可を得られたのは幸いと言える。
「そんなに大きなぬいぐるみを置き忘れるとか……大事なものなんだろう?」
「大事だよ。せっかくおじさんが買ってくれたんだし。でも忘れる時は忘れるんだもんね!」
「胸を張って言うことじゃない……ん? おじさんって、まさかオズボーン宰相か?」
「そうだよ」
「宰相が買ったのか、それを?」
「そうだってば」
まったく想像できないことだった。
かの鉄血宰相がいったいどんな顔をしてぬいぐるみを吟味したのか。愛らしいクマ顔と渋すぎる威圧顏が相対する光景は、あまりにもシュール過ぎる。
お眼鏡に適うテディベアを見つけた時には、にやりと不敵な笑みを浮かべたのだろうか。
ギリアス・オズボーンとぬいぐるみがセットでレジカウンターにやってきた時の会計スタッフの混乱は、察するに余りある。
「マキアス、なんだか勘違いしてない? その子を選んだのはボクで、おじさんはお金を払ってくれただけだよ」
「あ、ああ。それはそうか。それでも意外に感じるが」
「お店にまで付いて来てくれたのは初めてだったかな。ただの気まぐれだったと思うけど」
クマに抱き付きついたまま、ミリアムは淡々と話す。あまりにもあっさりした態度だから、気付くのが遅れてしまった。
「すまない」
「なにが?」
「オズボーン宰相のことだ。やっぱりミリアムにとっては大切な人だったんだろう。軽々しく話題にだして無神経だったというか……」
「え? おじさんの話でしょ。なんでマキアスが謝るの?」
申し訳なさそうにするマキアスとは反対に、ミリアムは普段通りの反応だった。というより、何を気遣われているのか、今一つ理解していない様子だ。
「いや、だから。思い出させたのなら悪いと思って」
「ああ、そういうこと。大丈夫だよ」
「悲しくないのか?」
「わかんないんだよね、それだけが」
ミリアムはクマの手を弄んだ。デフォルメされた肉球をぷにぷにとつっつく。
「みんなといると楽しいとか、お菓子があったら嬉しいとか、お化けは怖いとか、そういうのはわかるんだけど、悲しいっていうのがわかんない。悲しくて涙が出るって、どんな感じなのかな」
「泣いたことがないって言うのか?」
「そだよ」
あっけらかんと言う。
そんなことがあるのか。十代前半の多感な時期なのに。人一倍ころころと喜怒哀楽が変わるやつなのに。
いや待て。思い返せば喜怒哀楽の“哀”だけは、今までに一度も見た覚えがない。
慕っていたはずのオズボーン宰相が暗殺され、こうも平然としていられる。
底抜けに明るい性格だから? それだけで一括りにしてはいけないような気がした。
「ミリアム、君は――」
「そーだ! いーこと思いついた!」
ぴょんと飛び上がって、こちらに向き直る。
「ねえ、マキアス。お願いがあるんだけどさ」
「お願い……?」
ミリアムはニシシと笑った。
「ボクを泣かせてよ」
《☆☆☆ミリアムを泣かせ!☆☆☆》
「そういうわけで、ミリアムを泣かすことになった」
『いやいや』
そう告げると、そろった動きでⅦ組の男子たちは首を横に振った。
マキアスの招集で彼らが呼び出されたのは、大仰にもカレイジャスのミーティングルームである。
うんざりとした嘆息をついて、ユーシスは椅子の背もたれに寄りかかった。
「お前、本気か? 今回ばかりは見下げ果てたぞ」
「ぐっ……そう言われるとは思っていたが」
ホワイトボードを背にして立つマキアスは、針のむしろに座る心地だった。非難の目を浴びるだろうともわかっていたし、自分が何を言っているのかもわかっていた。
すなわち13歳そこそこの少女を、年上のお兄さんたちでよってたかって泣かせにかかろうというのだ。
「ううむ……」
「これはちょっと……」
「厳しいよな……」
ガイウス、エリオット、リィンも浮かべた渋面を見合わせる。やはり乗り気ではないらしい。
それも折り込み済みだ。何より自分だって乗り気ではなかった。だからミリアムのお願いを一度は断ったのだ。そんなことはできないと。
だが彼女がそれを望む理由を聞いて、マキアスは考えを改めた。
「ミリアムは理解したいと言った。僕たちが当たり前に持っている気持ちなら自分だって持ちたいって。興味本意で頼んできたわけじゃなかったんだ」
本当に今までに泣いたことがないのか、それは知りようのないことだ。ミリアムのことだし、もしかしたら単なる思いつきの提案だったのかもしれない。それでも彼女なりに思うところはあったのだろう。
できれば力になってやりたい。
「だが僕一人では難しい。どうか協力してもらえないだろうか」
真摯に頭を下げ、「僕は……どうしてもミリアムを泣かしたいんだ」と神妙な声音で押し重ねる。
ど直球の問題発言だったが、仲間たちはその雰囲気に流された。各々が沈思黙考の果てに、うつむけていた顔を上げる。
「ふん、やるからには半端はせんぞ」
まずユーシスが同意し、
「本当にいいのだろうか……」
疑念は持ちつつもガイウスが続き、
「ミリアム自身が望んでいるなら……まあ」
迷いながらリィンも承諾する。
「えぇ……みんなやるんだ。ごめん、僕には無理だよ」
エリオットだけは難色を示したまま、しかし心配だからと同行だけはしてくれることになった。
「理解してくれて感謝する。まずは作戦会議だ。緻密な戦略をもって任務を遂行しよう」
マキアスはマーカーを手に、ホワイトボードに向きなおった。
リィンが怪訝そうに問う。
「しようって言われても。具体的にどうするんだ?」
「それを今から考えるんじゃないか。いいか? あくまでも悲しい感情の元に泣かないと意味がない。身体に直接痛みを与えるとかはダメだぞ」
「わかってる、というかそんなこと考えもしてないから」
「精神的に追い詰めることが基本だな」
「その言い方は色々まずいだろ……」
自分たちのやろうとしていることに懐疑的ながらも、それでもポツポツと案が出始める。マキアスはそれらをボードに書き連ねていった。
時間が経つにつれ、議論に熱が入ってくる。最初の浮わついた雰囲気はいつしか消え、いたって真面目な会議へと様相を変えていた。
いたって真面目に、彼らはミリアムを泣かす方法を模索したのだ。やはりエリオットだけはまったく発言しなかったが。
時計の長針が二回りした頃、ようやく意見がまとまった。
「みんな、ありがとう。実に有意義な議論だった」
マキアスは疲れの見える彼らをねぎらった。そして眼鏡を押し上げ、不敵に口元を歪める。
今ここに、全ての準備は整った。
「それじゃあ、さっそく泣かしに行こうか」
●
奔放な性格だからか、普段からミリアムは艦内のあちこちを歩き回っている。気まぐれな動きのせいで移動先の予測がしにくかったが、幸運にも今日はすぐに発見できた。
『来たぞ、一人だ。通路の向こうから歩いてくる』
「了解した」
《ARCUS》からマキアスの声が届く。指示を出す仲間たちは、少し離れた物陰に身を隠しながら状況を見守っている。
通路の曲がり角に控えるガイウスは、静かにその時を待った。彼が一番手だった。
『今だ。オペレーション“ノルドの壁”スタート!』
タイミングを見計らった指示に従い、ガイウスはそれとなく角から歩み出る。
カレイジャスの三階、一本道の連絡通路。相対する形でお互いの距離が狭まってくる。
「ガイウスだ。やっほー」
「ああ、ミリアム」
ミリアムが気付いた。やるぞ。やるんだ。やらねば。
がばっとガイウスは手足を大きく広げた。威圧感たっぷりの長身が進路を塞ぐ。マキアスに言われているから、表情も険しく強張らせてみた。
これがノルドの壁。
要は通せんぼである。奥に行きたいミリアムを執拗なまでにブロックすることで、その心にじわじわとダメージを与えるのだ。
さあ泣くんだ。思う存分に泣いてくれ。
「あっ、よーし!」
ミリアムが走ってくる。勢いをつけて脇を抜ける気か。そうはさせない。
身を低くして、特攻に備える。まだ直線。左右のどちらから突破するか、ギリギリまで悟らせないつもりだ。
ガイウスはマスタークオーツ《ファルコ》の能力を使った。心眼と呼ばれる効果が身に宿る。
見える、見えるぞミリアム。
「どーん!」
しかし彼女は方向を変えることなく、真正面からガイウスにダイブした。
「なになにー? 抱っこしてくれるのー?」
「なっ……!?」
「えへへ」
ギュッーっと抱きついてくる。
その瞬間、ガイウスの脳裏に故郷の光景が拡がった。どこまでも続く青い空。緑と土の地平。軽快な馬の足音。高原を巡る柔らかな風。
(にいちゃーん)
蒼穹の大地の向こうから、弟妹が駆け寄ってくる。精一杯に手を振りながら、満面の笑みで。
幻視の中の彼らがミリアムと重なった。
「トーマ、シーダ、リリ……俺は、俺は……」
なんということを。俺はなんということをしてしまったのだ。強く抱きとめてやるのが兄たる者の役目だというのに。あろうことか泣かそうなどと。
震える両腕をミリアムの背に回すと、ガイウスは両膝からくずおれた。
「すまなかった……すまなかった……」
「なんで謝ってるの?」
「二番手は君だ。準備はいいか」
「ああ」
続いて指名されたリィンは、行動不能になっているガイウスを一瞥した。壁を背に座り込む彼は、ひどく落ち込んでいるようだ。
「ガイウスはもう動けないだろう。いいか、同じ過ちは繰り返すんじゃないぞ。良心はここに捨てていけ」
容赦のないマキアスの指示に、リィンは息を飲んだ。意気込みが半端ではない。どうあっても泣かせたいらしい。
「任せてくれ。ベストを尽くす」
そう答える以外にない迫力だった。
「昨晩の汚名返上の機会でもある。頼んだぞ」
「その話題には触れないでくれ……そもそもマキアスの早合点が原因のような気が……」
「どう考えても原因は君のセンスだ」
「う……」
あまりにも攻め過ぎた衣服のせいで起きてしまった、通称“人には言えない”騒動。なお例のギラギラの服は、ロッカールームの奥に封印済みである。
まさかあの服が格好良くなかったとは。ここでまた失敗して、例の一件を蒸し返されるのだけは避けたい。
気を引き締め、リィンは単身でミリアムの元へ向かう。
彼女の現在地は船倉ドック――その一角に設けられた馬舎スペースの前。
「おっきいねー。でもガーちゃんの方が大きいかな」
柵の外からシュトラールとマッハ号に話しかけていた。
シュトラールはユーシスがアルバレア城館から出奔の折、一緒に連れ出してきていた。以降はユミルに滞在していたのだが、活動拠点がカレイジャスに移るにあたり、こちらに移動させたのだ。
マッハ号は先日ポーラと合流した時に保護している。
スペースの都合でここにしか馬舎は作れず、その結果、機械整備と生き物飼育が混在するミスマッチな空間が出来上がったのだった。
「ミリアムじゃないか。どうしたんだ、こんなところで」
偶然を装いつつ、リィンはミリアムに声をかけた。
「別に用事はないよ。リィンこそどしたの?」
「ああ……ええと、そうだ。馬の散歩に来たんだ。日課だからな」
「へー面白そう! ボクも一緒にやりたいな!」
運動不足解消のために、船倉をぐるりと歩いて回るのだ。普段はユーシスとポーラが担当してくれている。
馬舎に入ったリィンは、まずシュトラールに手綱をつけると、慣れた動作でその背にまたがった。
そのまま出発。壁際に沿って歩を進めた。ミリアムはその後ろに付いてくる。
そわそわしながら彼女は言った。
「ねえ~、ボクも乗せてよ。乗りたいよー」
「そのうちな」
本当は乗せてやりたい。しかしダメなのだ。マキアスに止められている。とにかく拒めと言われている。
許してくれ。すまない。なんで俺はこんなことをしているんだろう。
「あっ」
シュトラールの横に並ぼうと歩調を早めたミリアムだったが、蹴つまずいてこけてしまった。
「いたた……」
「大丈夫か!?」
『構うんじゃない』
とっさに馬上から降りようとしたリィンを、通信越しにマキアスが止めた。
『目的を忘れたのか? これはむしろ好機だぞ。心を鬼にするんだ』
「そんなこと言ってる場合か。大体、痛みで泣いても意味がないって、マキアスが言ったことだろう」
『痛くて助けて欲しいところをスルーすることで、よりメンタルにダメージを与えられるじゃないか。さあ、冷徹な背中を見せてやるといい』
「鬼はお前だ……」
血も涙もない副委員長だった。
助けに行きたい衝動を歯をくいしばってこらえ、断腸の思いで目を逸らそうとする。
「リィン、起こして……」
小さな手が、ぷるぷるとこちらに伸ばされた。
その瞬間、リィンの脳裏に故郷の光景が拡がった。吐く息は白く、見渡す限りの銀世界。雪景色のユミルの山。
(にいさまー)
自分の後ろを小走りで付いて来る幼い妹。一生懸命に追いつこうとして足を滑らせ、ぼふっと雪の上でこけてしまう。
待って、置いていかないでと、少女は涙声で必死に兄の名を呼ぶ。
幻視の中で伸ばされた手が、ミリアムのそれと重なった。
「エ、エリゼ……!」
ここで手を差し伸べずして、何が兄か。一度は見捨てようとした自分が恥ずかしい。
シュトラールから飛び降りるや、リィンはミリアムに駆け寄った。
「怪我はないか? 痛むか?」
「ううん、大丈夫」
「念のためにあとで医務室に行くぞ。シャロンさんに診てもらおう」
「あはは、大げさだなあ。それよりも先に馬に乗りたいな」
「ああ、いいとも。思う存分に乗ればいいさ」
『おいリィン、何を勝手なことを言って――』
雑音を発する通信はオフに。
リィンはミリアムを抱きかかえると、シュトラールの背に乗せてやった。
「まったく、君たちは」
マキアスは呆れたように二人を見た。作戦を遂行できなかったリィンとガイウスは、通路の片隅で正座させられている。
「……俺はただ、常に胸を張っていられる兄でいたいだけだ」
リィンが言い、その横でガイウスもうなずく。
「そういうのは違う日にやってくれ。今日の主旨をわかっているのか?」
「それは……すまない。わかっていたつもりなんだが」
「あくまでもミリアムの為なんだぞ。中途半端な善意は何の役にも立たない! 尖っているのは君のファッションセンスだけだな!」
「今日のマキアス、厳し過ぎる……」
ぐうの音も出ず、二人は頭を垂らした。
「次は僕とユーシスが同時に仕掛ける。もう失敗はできないぞ」
「お前との共同作戦は不本意だが、受けた話だからな。足は引っ張らないでもらいたいが」
「こちらのセリフだ!」
お決まりのやり取りをしつつ、一同はその場から移動した。着いた先は遊戯室だ。
ユーシスとマキアスだけを残して、リィンたちは別室にて待機する。
二人はおもむろにビリヤードを始めた。
「作戦はわかっているな?」
マキアスが確認すると、「無論だ」と返して、ユーシスはキューで球を突いた。カンカンと軽快な音を立てて、弾かれた弾がポケットへと落ちていく。
「最初に断っておくが、俺は前の二人のように甘くはない。泣かすことは容易いが、その後の責任はお前が取れ」
「言われずともそのつもりだ」
ちゃんとメンタルフォローぐらい考えている。さすがに泣かせて終わりで済ますつもりはなかった。
不服そうに喉を鳴らして、マキアスも球を突く。
そうこうしていると、機嫌のいい鼻歌が聞こえてきた。ミリアムだ。またどこへ行くともなしに、艦内をぶらついていたのだろう。
マキアスは意図して声を大きくした。
「はっはー! 今日こそは僕の勝ちだな」
「威勢は良いが、それだけだ。勝ちは譲らん」
ユーシスも合わせて声量を上げる。
「なにやってるのー? あ、ユーシスとマキアスだ」
二人の会話を聞き留めたミリアムが、遊戯室に入ってきた。
餌にかかった。ここまでは想定通り。
「さあ勝負の続きをしようじゃないか」
「望むところだ」
「ねえねえー、なにしてるのってば!」
二人そろってまったく相手にしない。視界に入っていないかのごとく振る舞い続ける。
これは精神的にきついはずだ。暗い疎外感に苛まれ、気持ちを沈ませろ。そして知るがいい。それが悲しみだ。
しかし誤算が起こっていた。
「ねえったらねえったらねえー!」
周りをぴょんぴょん飛び跳ね、いつまでもまとわりついてくる。足にしがみついたり、背中に飛びついてきたり、いつまでたっても勢いが衰えない。
「ええい! 離れろ!」
「あっ、おい……!」
とうとう耐えられなくなったユーシスが、先に声を発してしまう。
彼はミスに気付き、苦い表情を一瞬浮かべたが、もう遅い。
しかしまだ策は用意してある。マキアスはユーシスと目配せして、作戦の第二段階へと移行した。
「ミリアム、今は勝負中だ。君は出て行ってくれないか」
「そうだ。邪魔だ」
すなわち直接“口撃”。冷たく邪険にあしらって、メンタルの耐久値を削ってやるのだ。
「集中が乱れるだろう。ほら、早く」
「ちょこまかとうっとうしい奴め」
「やーだね、ここにいるもん。ビリヤードはやめてさ、ダーツにしようよ!」
「こ、こら、引っ張るな」
無理やりビリヤード台から引き離される。まるで堪えていない。
その後も硬化した態度で接し続けてみたが、結局は効果なし。終始ミリアムのペースで進んでしまった。
「すまない、予想以上の強敵だった」
「あいつの精神構造はどうなっている……」
肩を落とすマキアス。ユーシスも疲れきった様子だ。
「とはいえ、考えてみれば当たり前だったかもしれない。意識して態度を変えたつもりだが、僕やユーシスはいつもとそこまで違いが出なかった気がする」
つまり落差がないのだ。普段と同じくらいに思われてしまっている。
「差……? そうか、ギャップか!」
マキアスはパチンと手を叩き合わせると、ある人物へ視線を向けた。
「え、なに?」
「君しかいない。エリオット」
名指しされたエリオットは、目を見開いた。
「ええー! だから無理だってば! 僕はついて行くだけって言ったよ!」
「気が進まないのはもちろん承知している。だがギャップというなら、普段温厚なエリオットが一番出しやすいだろう。頼む。もう僕たちは君に頼るしか手段が残されていないんだ」
「だったらあきらめようよ……」
「君はミリアムを泣かせたくないのか?」
「だからそうだって」
他のメンバーを見回す。同意してマキアスを止めてくれるかと思っていたが、そうではなかった。
「俺たちが不甲斐ないせいで……」
「すまない、エリオット」
「悪いとは思っている」
リィン、ガイウス、ユーシスと、順番にエリオットに謝る。
「ち、ちょっとみんな? なんか僕がやる流れになってない? やるなんて言ってないけど」
「エリオット!」
「ひっ!?」
マキアスの大声に、エリオットは身をすくめた。
「いい加減に腹をくくったらどうだ。フィオナさんを助けた時の気概はどこに行ってしまったんだ」
「いや、あの時と同列で考えられても」
「家族は助けても、仲間は助けられないって言うのか」
「違うよ! って、これ僕が間違ってる感じになってるの?」
なんだかよくわからなくなってきた。
「で、でもさ。みんなが失敗したのに僕が成功するとは思えないし、まず何をやったらいいかもわからないし……」
「難しく考える必要はないんだ。人の嫌がることをしてはいけないと教わったことがあるだろう。その逆だ」
「逆?」
エリオットの両肩に手を置き、マキアスは真正面から言った。
「ひたすらに嫌がられることをやればいい。延々と相手の心を消耗させるんだ」
「曇りのない目でそんなこと言わないでよ!」
「君にならできるさ」
「そこを期待されても!」
必死の抵抗も虚しく、エリオットは男子たちの願いを背負うことになってしまった。
一番乗り気でない自分が最後の砦にされてしまうとは。
重い足を動かして、エリオットはミリアムを探した。
このまま見つからなければタイムアップにできるかも。そんなことを考えてもみたが、運悪くと言うべきか、あいにく一発で見つけてしまった。
彼女は食堂のテーブルの一つを陣取っている。どうやら本を読んでいるらしい。普段とは打って変わって物静かな様子だった。
「あのさ、やっぱりやめない?」
穏やかな時間の邪魔をするのは、どうしても忍びない。良心の苛責に耐えきれず、エリオットは通信でマキアスに提案してみた。
『ここにきて今さら何を言うんだ』
「そうなんだけど……なんだか」
言葉に言い表せない罪悪感である。
わかってはいたが、やはり取り合ってもらえなかった。こうなったらさっさと済ましてしまおう。適当に声をかけて、無理だったという結果だけ持ち帰ろう。
ごめんね、ミリアム。
深く息を吐き出して、エリオットは食堂に足を踏み入れた。
「やあ、本を読んでるんだ?」
「わっ! エリオット、いつの間にいたの? びっくりした~」
よほど集中していたみたいだ。軽く声をかけただけなのに、ミリアムを驚かしてしまった。
「ごめん。でも珍しいよね。ミリアムが読書なんて」
「そうかなあ、最近はよく読むよ?」
「へえ」
相槌を返しながら、エリオットは対面して座る。
興味深く本に向かうなんて、これもトワ会長と委員長の勉強特訓の効果だろうか。ますます申し訳ない気持ちになってきた。
「ところで何読んでるの?」
「これ、《赤い月のロゼ》」
「え? ミリアムが読むには難しくない?」
有名な大衆小説だ。フィオナが買ってきたものを、エリオットも読んだことがある。
百年以上前の帝都を舞台にした、吸血鬼の物語。ハードな場面もあったりで、内容は印象強く覚えていた。
それにしても意外だ。ミリアムは絵本とか図鑑とか、そういう類のものを好むとばかり思っていたのだが。
「書庫にあったのを適当に持ってきたから。けっこう面白いよ。ちょっと怖いけど」
「ホラーテイストも入ってるしね。でも、そういうのはミリアム苦手じゃなかったっけ?」
「お化けじゃないから大丈夫! アルフォンスどうなるのかなー」
ちゃんと話も理解しているらしい。ジャンルは問わない乱読家のようだ。
ミリアムはこういった読書で得た知識や感性を、アガートラムのトランス能力に反映させることができる。この《赤い月のロゼ》からも何かをつかみ取り、自分の力に変えるのだろうか。
会話が途切れた。再び物語の世界に入り込むミリアム。
エリオットは悩んだ。ここからどうすればいいのか。マキアスは相手の嫌がることをやれと言うが……。
僕がされたくないこと。今この場面で。
一つ思いついたことを試してみた。
「ねえミリアム。登場人物の中に隊長いるでしょ。主人公の父親代わりみたいな人」
「ガラード隊長? うん、かっこいいよね」
「その人、黒幕だよ」
ページをめくるその手が、ぴたりと止まる。
「え?」
「だから黒幕。その人も吸血鬼」
一瞬硬直してから、ミリアムは怒った。
「な、なんで言っちゃうの~!?」
「ごめん。つい」
「もー!」
むくれるミリアムは《赤い月のロゼ》を閉じると、別のテーブルに移動した。不機嫌にさせてしまったようだ。
「こっちやるからいいよーだ」
彼女は別の本を取り出し、それを読み始めた。
『なかなかいいぞ。そのまま追撃だ。次は表情も変えてみてくれ』
《ARCUS》からマキアスの指示。エリオットはミリアムに後ろに回り込み、机上に開かれている冊子をのぞいてみる。
簡単な問題形式のクイズ本だった。計算問題などはなく、図形やパズル要素が多い内容だ。
「こうかな? あ、違うなー」
試行錯誤しながら、ミリアムは問題を進めている。ゲーム感覚でできるように、これもトワかエマが用意したものだろう。
エリオットはペンを持つと、ミリアムの横から手を伸ばして、すらすらと先に答えを書きいれてしまった。
「あっ、ボクが解こうとしてたのに!」
「うん」
「どうしてそんなことするのさ!」
返答はせず、無言のまま薄ら笑いを浮かべてみる。表情にも変化をと言われたから、とりあえずこんな演技をしてみた。
ミリアムはひどく怒っている。感情の揺れ幅が大きくなってきた。
『お、おお……その調子だ……』
どことなくマキアスの声が引き気味になった気がする。
続いてエリオットはキッチンの戸棚に向かった。棚の上部にあるビスケットをいくつか取ると、それをミリアムの前まで持ってきた。
「ミリアム、これ」
「くれるの!?」
さっきまでの不機嫌はどこへやら、ミリアムはころりと笑顔を咲かす。その明るい顔の目の前で、エリオットは自分の口の中にビスケットを放り込んだ。
「あっ……」
『あっ……』
ミリアムと仲間たちの反応が重なった。
腰を屈めて彼女と目線を合わせつつ、さらにもう一口頬張る。
「なんで……いじわるばっかり……ボクも欲しいのに……うっ」
大きな瞳が潤み、肩が小刻みに震える。
ついにこの時が来た。
本当にごめんね。あとでいくらでも謝るから。これは君の為なんだ。もう一息。あとほんの一息。
エリオットは指で挟んだビスケットをちらつかせた。
「これ、最後の一つ」
「うん。くれる……?」
「あげな――」
言いながらラストビスケットを口に入れた途端、いきなり景色が変わった。眼前のミリアムは消え、食堂でもない。
「なにをしているんですか?」
静かなのに、重い声音。無条件で背中に汗が染み出てくる。口からこぼれたビスケットが、床に落ちて砕けた。
関節を強張らせながら振り返ると、薄暗い部屋の中に丸眼鏡が鈍く光っていた。
「う、うわあああ、こ、ここ、これは……」
「ええ、どういうことでしょう」
お母さん登場。フィーとミリアムを守護する最強ガーディアンこと、エマ・ミルスティンが魔導杖を手にたたずんでいる。
口元はかろうじて微笑んでいるが、目がまったく笑っていない。
転移術で空き倉庫に移動させられたのだ。気付けば、部屋の隅っこには仲間たちの姿もある。みな沈痛な面持ちだ。
「マ、マキアス。説明して?」
「つ、つまりだ、エマ君。僕らは善意からミリアムを泣かそうと」
「泣かす?」
「違う、誤解だ! 泣かせて欲しいって頼まれたから……だから、そう……泣かすんだ!」
圧倒的言葉足らずの説明に、とうとう口元の笑みも消えた。
このままでは身が危険と察した男子たちは、全員でしどろもどろの説明と釈明を行う。苦しい言い訳の果てに、どうにかエマにも事情は伝わった。
その上で、彼女は一言だけ言った。
「他にもやりようはあったんじゃないでしょうか」
まったくの正論に反論の余地はない。話を聞きつけたトワも合流し、お説教は続けられる。
泣きたいのは彼らだった。
――続く――
――Side Stories――
《猛将列伝のすすめ⑧》
ミントがここに居合わせたのは偶然だった。
喉が乾いたから、ちょっと水を飲みにきた。その時、なんとなく水道の出が悪い気がした。
忙しくしているジョルジュにいちいち報告に行くのも悪いと思ったから、自分で直してみようと思った。ちなみにジョルジュからは、忙しくしていても逐一報告に来るように言われていたが。
すぐに愛用の工具セットを取りに行き、カウンター下の排水管を色々といじっていたところで、
「その人、黒幕だよ」
エリオットの声が聞こえた。そのあとで「な、なんで言っちゃうの~!?」と大きな声。これはミリアムだった。
なにか揉めてるのかな?
そのくらいのことを思っただけで、気にせずにミントは配管チェックを続けた。
ボルトが少し緩んで、水が漏れている。しかしこの程度で水圧は変わらない。内部弁の異常か、出水口のフィルターの目詰まりか。これ以上は分解してみないとわからない。
「あっ、ボクが解こうとしてたのに!」
また聞こえた。とても不満そうなミリアムの声だ。
どうしたんだろう。
工具を床に置いて、ミントはカウンター越しにそっと様子をうかがってみた。
テーブル前に座るミリアム。その横に立つエリオット。
机の上には問題集らしき冊子が開かれている。そしてエリオットの手にはペン。二人のやり取りから察するに、ミリアムがやろうとしていたクイズを、先に彼が解いてしまったようだ。
(………!)
そのエリオットの表情は――笑っていた。なんら悪びれることもなく、サディスティックとも言える笑みを湛えている。
つい出かかった声を、とっさに手で口をふさいでこらえた。
間違いない。猛将だ。
さらにエリオットは戸棚からビスケットを持ってくると、それをミリアムの目の前で食べ始めた。わざとらしく音を立てて。
少女に向けるとは思えない、とても非情ないやらしい責め。ミリアムの表情がみるみる内にくもっていく。
ミントはカウンターの中でしゃがみ込んだ。
《猛将列伝》をエリオットの父と姉に見せた時、彼らは信じようとしなかった。息子が、弟が、この本の内容のような行為をするなど、というかノンフィクションであるなど、どうあっても考えられないと。
どこまでも頑なだったのだ。
ならばこの光景はどう説明すればいい。彼が猛将である何よりの証明ではないか。
もう一度、顔をのぞかせてみる。
(………?)
ミリアムのみを残して、エリオットはいなくなっている。どこにもその姿がない。
またミントはカウンターの中側にかがむ。
全て理解した。つまりこういうことが起きていたのだ。
明確な理由さえなく、ただただ少女を虐めたくなったエリオットは、たまたま見つけたミリアムをその標的にした。無垢な年下の獲物を弄ぶことは、彼にとって造作もないことだったろう。
あらゆる狡猾な手を用いて彼女を精神的に追い詰め――そしてすぐに飽きた。興味のなくなったおもちゃを捨てるように、ミリアムを放置して背を向けた。
これが一連の顛末だ。
そうだ。お父さんとお姉さんに、このことを教えてあげよう。
そうすれば、あるべき彼の本当の姿を認めざるを得ないだろう。その猛々しい性癖に最初は抵抗を覚えるかもしれない。でも悪いことじゃないんだから。
絶対に理解してくれる。家族の間に隠し事はいらないでしょ。
ミントは純粋な善意から、そう決めた。
「良かったね、エリオットくん」
もう嘘をついて生きなくていいんだよ。
☆ ☆ ☆
《爆釣哀悼紀行④》
また来るから。
その宣言通り、彼女はやってきた。
「で、釣れた?」
フィー・クラウゼルがあくび混じりに訊いてくる。ケネスは視線を正面に置いたまま、「……まだだけど」と、汗ばむ手で釣竿を握り直した。
彼女に対しては苦手意識がある。学院にいた頃は、遭遇する度になんらかの事故に巻き込まれたからだ。なぜか記憶が曖昧な部分もあるが、尻に大根をぶっ刺されたことは、その感触も合わせて鮮明に覚えている。
もっとも大根の突撃に関しては、彼女の先輩であるエーデルが主犯だが。
アナベルの指輪を飲み込んだレインボウを釣り上げようとここで粘って、数えてみれば早一か月半。いまだにお目当てはかかってくれない。
「例のレインボウってここにいるの? もうどこかに行ったんじゃない」
「この季節は一定の区域に留まって、春の産卵に備えてるはずさ。必ず近辺には潜んでる」
魚の習性は知り尽くしている。逆にこの時期を逃すと上流に登ってしまうから、二度と出会うことはできない。
「でも一匹の個体を狙ってるんでしょ。それって判別できる?」
「そいつは頭に大きな傷痕があったんだ。一目でわかるよ」
「それが釣れるまではカレイジャスに乗るつもりはないんだ」
「まあ、そうだね」
「ふうん」
感情の読めない金色の瞳がケネスを見る。ぞくっと背すじが痺れた。
これは恐怖。狩られるネズミが猫に抱くそれと同じだ。
いつまでも委縮してはいけない。アナベルさんの為なんだ。はっきりノーと言える男にならないと。
「わ、悪いけど決めたことだから」
「要は指輪を食べたレインボウが釣れれば済む話。そうなればケネスはカレイジャスに乗る。それで間違いない?」
「え、うん」
いったい何の確認なのか。
フィーはごそごそとカバンを漁ると、取り出したものを軽い動作で川へと投げ入れた。
「伏せて」
「へ?」
直後にズッドーンと爆発。炸裂したのは閃光手榴弾だった。
川の中央に巨大な水柱が噴き上がり、やがて雨となって周囲に降り注いだ。
流れにたゆたいながら、プカプカと多くの魚が浮いてくる。大音響と光、衝撃が水中を走ったせいで、魚たちは意識を失ってしまったのだ。
フィーはじゃぶじゃぶと川の中へ入っていく。
「レインボウは綺麗だからすぐわかるよ。これは……傷なし。こっちも……違うね」
五匹目に近付いたフィーは目を細めた。無造作に下あごをつかむと、そのレインボウを岸辺まで引きずってくる。
レインボウの頭には、忘れようもない傷跡があった。
呆然としていたケネスが我に返るよりも早く、フィーは双銃剣でレインボウの腹をズパッと捌く。
「はい、見っけ」
輝く金属片がケネスに投げ渡される。間違いなくアナベルの指輪だった。
「良かったね。じゃ、行こっか」
なんの感慨もなく、フィーが言う。
一か月半。雨の日も風の日も、ここで釣竿を振り続けた。いつか奇跡が起こると信じて、辛く苦しい日々を耐え続けた。
待ち望んでいた奇跡は、こんなんじゃない。こんなごり押しのガチンコ漁じゃ、決してない。
四十日近い努力は、一発の手榴弾によって消し飛ばされた。
「あ、あ、ああ」
「釣竿片付けて」
「ありがとうございますぅ……」
「いいよ」
なぜ自分は礼を述べるのか。色々なものを台無しにされたのに。
しかし怒りは感じていない。
この感情はなんだろう。
「早く。寒いし」
「は、はいい!」
金色の瞳に射竦められ、また背すじが痺れる。
これはネズミが抱く猫に駆られる恐怖――とは違う。喜び、悦び。そしてほのかな期待。
そんなはずはない。断じてない。
胸の内に湧き立つ衝動をケネスは必死に拒む。健気な否定とは裏腹に、体の熱は冷めそうになかった。
☆ ☆ ☆
お付き合い頂きありがとうございます。
泣けないミリアムを泣かそうという、タイトル通りのお話でした。一応善意ですが、マキアスはちょっと修羅化していたかもしれません。妹いる組は戦力外でしたね!
猛将のポテンシャルが一番惜しいところまでいきました。これも善意です。
ミントがまた余計なことを思いつきました。これも善意です。
フィーはケネスのレインボウを手に入れてあげました。これも善意です。
優しい世界だと思います。
それでは次回のルーレ寄航日はフィーが主役となる物語です。引き続きお楽しみ頂ければ幸いです。