虹の軌跡Ⅱ Prism of 《ARCUS》   作:テッチー

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第70話 サウンド・オブ・サイレンス

 うっすらとまぶたを開く。ぼやけた視界に白い天井が映っていた。

 泥に埋まったみたいに、ひどく体が重い。のろのろと首を巡らすのが精一杯だった。

 ここはどこだろう。どうやらベッドに寝かされているようだが、いったい俺はどうなったんだ。

「あ、目が覚めたんだね。良かった」 

 身じろぎした気配を察したのか、周囲を覆っていたカーテンの隙間からトワ・ハーシェルが顔をのぞかせる。心底安堵したような表情だ。

 彼女の向こうに見える景色から、リィンはここがカレイジャスの医務室であるとわかった。

「作戦終了から16時間。カレイジャスはルーレ空港に停泊中。力を使い切ったリィン君はずっと気を失ってたんだよ。みんな心配してたんだからね?」

 言いながらトワは血圧や脈拍を測り、手早くバイタルチェックを済ます。

 16時間も眠っていたのか。またやってしまった。これは仲間たちからのお叱りは免れなさそうだ。

「なにがあったか覚えてる?」

「いえ、あまり……」

 まだ頭が回らない。黒竜関で戦っていたはずだが、詳細が思い出せない。

 かぶりを振ると、トワは経緯と状況を説明してくれた。

「まずは現状からね。アンちゃんがログナー侯に勝ったことで、ノルティア領邦軍は黒竜関から撤退。アルフィン殿下の前で、ログナー侯自ら内戦への不干渉を誓ってくれたの」

 それは予想以上の戦果と言えた。ゲルハルトがアンゼリカとの約束を反故にする可能性だってあったのだ。

「ラインフォルト社は?」

「ユーシスくんたちが潜入して、ハイデル取締の確保には成功……したんだけど。彼の身柄の引き受けと事後処理はイリーナ会長が手配してくれてね。そこからの情報はまだないの」

 とりあえず決裁権はイリーナに戻ったらしい。今は山積みになっていた仕事に忙殺されているそうだが、彼女の手腕なら手際よく片付けるのだろう。

 他にもいくつかの話を聞き、あらかたの状況を理解したところで、最後はリィンから質問した。

「ヴァルカンは?」

 もう思い出していた。オーバーロードしたゴライアスのコックピットに乗り込んで、ヴァルカンを説得しようとしたことを。

 彼は最後まで応じなかった。そして機体が限界を迎えた。

「……あのタイミングじゃ逃げられるはずがない。なんで俺は助かったんですか?」

「私はその場にいなかったから聞いた話になるんだけど、リィン君は爆発の直前にヴァルカンから操縦席の外に押し出されたみたい」

 しかし間に合わなかった。すさまじい勢いで眼前に炎が迫って来て――記憶が残っているのはそこまでだ。

「空中に投げ出されたリィン君を受け止めてくれたのはヴァリマールだよ」

(ケルン)に戻る時間も余裕もなかったと思います。……ヴァリマールが爆風から守ってくれたんですね」

 トワは表情を曇らせた。

「そうじゃないの。守ったのは……多分ヴァルカンだと思う」

「……え」

「リィン君を突き放したあと、彼はリアクティブアーマーを発動させた。そのおかげで爆発は防護障壁の中だけに収まった。だけど爆発のエネルギー全部を限定された空間に押し留めたせいで……」

 トワの言葉が止まる。先を促さなくても、どうなったのかは想像がついた。

 爆炎と衝撃に巻かれた巨体が残骸と化すまでに、ものの数秒とかからなかっただろう。

「……クロウは? 確かオルディーネが来ていたはずです」

「ゴライアスが爆発した場所にしばらくかがんでいたみたいだけど、少ししたらそのまま離脱したんだって。……アンちゃんたちには特に何も言わなかったよ」

「そうですか」

「まだ休んでてね」

 リィンの額を、トワは優しげな手付きで撫でた。

「気になることも考えたいこともあると思う。でも今は休んでいて」

 誰よりも多くのことを気にし、考えているであろう彼女にそう言われてしまっては、リィンにうなずく以外の選択肢はなかった。

「わかりました」

「本当に?」

「ええ」

「約束だよ?」

「はい」

「約束守ってくれなかったら、私泣いちゃうよ?」

「えっと……それは困りますが」

 念押しの確認を何度もしたあと、ようやく納得したらしいトワは医務室から出ていった。

 一人になった室内で、リィンはじっと右腕を眺めた。

 ヴァルカンに握り返された感触が、言い知れない悔恨と共に胸に染みだしてくる。傷だらけの手の平は強く、頑なで、そして寂しかった。

 なぜあそこで止まってしまったのか。なぜ無理やりにでも彼を引きずりださなかったのか。もしかしたらどうにかできたかもしれないのに。

 そうではない。彼がそれを望んでいないと知って、ほんのわずかに躊躇してしまったのだ。

「……だったら、どうすればよかったんだ」

 自分にとっての正しさが、他人にとっても正しいとは限らない。救わないことが救いであるなど、今まで考えもしなかった。

 俺はここでいい。最後にそう告げたヴァルカンの言葉が、いつまでも耳に残っている。

 

 

《サウンド・オブ・サイレンス》

 

 

 俺が目を覚ましたことを、トワ会長がみんなに伝えたらしい。入れ替わり立ち代わり、仲間たちが顔を見せに来てくれた。

 人の出入りが落ち着いたのはつい先ごろ。ずいぶんと時間が経ったように思う。

「18時か……」

 ちょうど壁掛け時計の長針と短針が縦一本になっている。軽く伸びをしてから、リィンは体の調子を確かめてみた。

 節々の痛みと気だるさはあるが、それは騎神戦のあとならいつものことであって、概ね体力は回復しつつあるようだ。体を動かすのもずいぶん楽になってきている。

 ふと空腹を感じた。丸一日何も食べていないなら当たり前か。食堂くらいまでなら行けそうだし、ちょっと出歩いてみようか。

「リィン、入るわよ」

 ベッドから床に足を下ろした時、扉をノックする音に続いてアリサが医務室に入ってきた。

「あら、起きるところ? 体はいいの?」

「もう大丈夫だ。心配かけたな」

「そう」

 アリサはじっとリィンを見つめる。

「……すまない」

 無言の視線に耐えかねて、とりあえず謝ってみた。

「な、なんなのよ、いきなり」

「そうしないといけない流れのような気がしたんだが。また力を使い果たしてしまったし……」

「どんな流れよ。確かに無茶したのは心配だったけど、今回は私も人のことを言えないわ。さっきジョルジュ先輩から釘を刺されたもの」

「アリサが無茶って、もしかしてレイゼルのことか?」

「ええ。扱いが激しすぎ、出力上げすぎ、直角機動多すぎ……とか注意されたことはまだまだあるけど、全部聞く?」

「いや、やめておく」

 機体ポテンシャルの高いレイゼルだからこそ、アリサの操縦技能について来れるのだという。

 ドラッケンなどの一般型なら、戦闘中盤でオーバーロードしているほどの動き方らしい。

「一対七とかなんだから、多少は無茶もするわよ。でも騎神で戦うリィンの気持ちがわかった気がする。その……今まで怒ってばかりでごめんなさい」

「アリサが謝ることはないだろ。けど黒竜関ではずいぶん助けられたよな。正直心強かった」

「そ、そう? なら良かったけど」

 アリサはツインテールの片側をくるくると指で巻く。

 リィンは横付けの机に置いてある水を口にした。

「そういえば起きるところだったのよね? どこかに行こうとしてたの?」

「ちょっと小腹が空いてて、食堂で軽いものでも食べようかと思っていたんだ」

「食欲があるのはいいことだけど……というかそんなに動いて大丈夫?」

「ケガをしてるわけじゃないし、体力さえ戻れば問題ないさ」

「ふーん……」

 何やら考え込んだアリサは、しばらくして言った。

「だったら町を少し歩かない? 軽食があるお店くらい知ってるから」

「今からか?」

 18時過ぎとはいえ、冬の夜は早い。外はすっかり暗くなっている。

 アリサはあたふたと理由を取り繕った。

「し、しんどかったらいいのよ? 別に無理に行く必要はないし? 私もほら、気が向いたから誘ったぐらいの軽い気持ちだし? ………で、どうなのかしら?」

「んー……」

 アリサは不安そうにリィンの返答を待っている。落ち着かない上目遣いだった。

 リィンは自分の手を握り、開いてみる。感覚はしっかりしていた。足は少々ふらつくが、このくらいなら歩いている内にマシになってくるだろう。問題なさそうだ。

「ああ、行こう」

「ほんと!?」

 表情を明るくしたアリサは、早足で医務室を出た。

「外出許可もらってくるわ。外は冷えるし、暖かい服に着替えておいてちょうだい。私も準備が済んだらまた来るから」

「了解だ」

 アリサが離れてから、リィンはベッド脇にたたんであった私服に手を伸ばす。彼女が戻ってくるまでに行っておきたいところがあった。

 

 

 エレベーターを降りた先、扉を開いて奥へと進む。

 ガンゴンと金属を打つ音。頭の上を飛び交う指示。機材を手に走り回る作業員。

 いつにも増して船倉ドックは忙しそうだった。

 わけても慌ただしいのはレイゼルのメンテナンススペースだ。ハンガーに固定された朱色の機体に、複数の技術者がつきっきりで点検整備をしている。その中にはジョルジュとミントの姿もあった。

 そこには向かわずに、リィンはドック左方の一角、ヴァリマールの待機区画に歩を進めた。

「調子はどうだ?」

 たたずむヴァリマールの足元から声をかけてみる。反応はなかった。

「ヴァリマール?」

「そいつなら休眠中だ」

 応じないヴァリマールに代わって口を開いたのは、近くの作業机に向き合うクララだった。学院では美術部部長である彼女は、ここでは騎神の整備主任だ。

 机の上には製作途中と思わしき彫像があった。

「失礼しました、クララ先輩……主任?」

「呼び方などなんでもいい。用がないなら行け」

「いえ、ヴァリマールの様子を見にきたんですが」

「見た通りだ。わかったら行け」

 露骨に煙たがられている。彼女の直属の後輩であるガイウスの気苦労が窺えるようだ。見た通りと言われても、

「どこを見たら……」

「ちっ」

 隠しもしない舌打ちを投げよこし、戸惑うリィンにクララは言った。

「貴様の目は飾りか。もっと観察しろ」

「す、すみません」

 あわててヴァリマールに近付いて注視してみる。

 灰色の装甲に細かい傷が入っていた。薄い焦げ跡も残っている。

 リィンは首をひねった。こんなものなのか? 最高速度のアイゼングラーフを真向から止め、続くゴライアス相手にかなりの苦戦を強いられたにも関わらず、この程度の損傷で済んでいるのか? 

 訝しんでいるリィンを、クララはちらと見やった。

「昨日はもっと深い亀裂が入っていた。歪曲しているフレームもあったし、ひび割れもひどかった。炎に炙られた装甲の一部は、溶け崩れて変色していた。それが一日で、こうだ」

「たったの一日で……」

「霊力とやらを取り込んで、機体の修繕に充てているのだろう。今はその回復速度を上げるための休眠状態だ。だが過信するな。この能力の行使は、こいつにとって負担らしいからな」

 三白眼にじろりとにらまれ、リィンは我知らず背すじを伸ばした。彫刻を彫っていたクララの手の動きが、いつの間にか止まっている。

「もっと上手く戦え。……少し違うな。もっとこいつの力を引き出せ。まだやれることはあるはずだ」

 やれること。すなわち今の自分にできていないこと。

「今回は特にヴァリマールに無理をさせてしまいました。俺にできること、色々考えてみます」

「勝手にやれ。私には関係ない」

 クララはもう彫像製作の続きに戻っている。これ以上は話せそうにない。

 他人を寄せ付けない雰囲気のある人だが、本質を見抜くことに何よりも長けている――というのはガイウスの談だ。

 案じて助言をしてくれたのか、面倒だから早々に追っ払いたかったのか、それは最後までわからなかったが。

 そういえばヴァリマールの話す内容に変化が表れたのは、クララが専属整備士になってからのような気がする。

「いた! ちょっとリィン、探したんだけど!」

「あ」

「あ、じゃないわよ!」

 船倉にアリサが飛んできた。とてもお怒りだ。ヴァリマールの様子を見たらすぐに医務室まで戻るつもりだったのだが、思ったより時間が経ってしまっていた。

「す、すまない」

「もう……まあ、それだけ動けるんならいいわ」

 アリサは言って、踵を返す。

「準備できてるなら早く行きましょ。あんまり目立ちたくないし、後部デッキからね」

「外出許可をもらっているのに、目立つとダメなのか?」

「え? えああっと……ほら、あなたの体調を心配する人もいるかもしれないから」

「そうか。なんだか申し訳ない気分だ」

「………ん」

 リィンとアリサはドックをあとにする。喧騒の中、カツカツと彫像を彫る音が、妙に大きく二人の背に届いていた。

 

⚫︎

 

 アリサが案内してくれたのは、夜でもやっているカフェだった。

 そこでリィンはアリサに勧められたトマトリゾットを食べたのだが、これがまた絶品だった。

 トマトのほのかな酸味と風味豊かなバター、チーズのまろやかさが抜群に合っている。柔らかい食べ口だったから、まだ十分に起きていない胃にもするりと入っていった。

 食事を終えて店を出た二人は、どこへともなしに歩いている。

「どう? おいしかった?」

「ああ、さすがはアリサが紹介する店って感じだな」

「そんなことないわよ。大衆向けで、値段もお手頃だったじゃない」

 トマトリゾットとオニオンスープのセットで1500ミラ。ディナーにしても割高だと思ったが、アリサとは金銭感覚が少し違うのかもしれない。彼女は浪費家ではないし、金使いが荒いイメージもないが、そこはやはりお嬢様だということか。

「トールズに入学する前は、シャロンともよく一緒に行ったのよ。目当ては特製のモンブランケーキ。季節限定の商品で、とてもおいしいの。男子はあんまりデザートとか食べないでしょうけど」

「俺は食べる方だと思うぞ」

「へえ、意外ね」

「エリゼの付き添いで、そういう店には出入りしていたからな。けど俺からすれば、シャロンさんが店でデザートを食べてる方がちょっと意外だ」

「どうして? シャロンは甘いもの好きよ。あ、そうそうシャロンと言えば」

 アリサは思い出したように言った。

「今日からまたカレイジャスに乗るんだって。色々サポートしてくれるみたい」

「イリーナ会長の補佐はいいのか?」

「だって母様がそう指示したみたいだし、いいんじゃない?」

 一度シャロンが艦を降りてから、まだ一週間も経たないぐらいだが、それでも空いた穴は大きかった。

 主には生活面。食事、健康管理、衛生、雑務と、彼女の多種多様な助力には、多くのクルーが世話になっていたのだ。ちなみに同時期にトヴァルも退艦しているが、彼の話題は悲しいくらいに出ない。

 アリサは自分の腕時計に目を落とした。

「まだカレイジャスに戻らなくてもいいわよね。リィンの体調はどうかしら?」

「温かいリゾットを食べたおかげか、むしろ良いくらいだが……」

「良かった。だったら私のとっておきの場所に案内してあげる」

 アリサに連れられて、入り組んだ街路を進む。階段を上り、下り、少し歩いてまた上る。

 ルーレ市は企業の発展と共に、居住区、工業区、商業区などが層として拡張されてきた街だ。それだけに構造がややこしく、目的地に着くためには近くであっても迂回したり、高低差を越えて行かなければならないことも多いという。

「こんなに複雑な道で、アリサは迷子になったりしたことがないのか?」

「ないわ。帰り道がわからなくなる程度よ」

「それを迷子って言うんだろ……」

 もっともアリサがそんな状況になった場合は、有能メイドがすぐさま救出に向かうのだろうが。

 最後に長めの階段を上りきると、少し開けたスペースに出た。

「ここは……すごいな」

「気に入ってくれたかしら。子供の頃に迷子――じゃなくて帰り道がわからなくなっていた時に、たまたま見つけたところなの」

 思わず感嘆の声をもらすと、アリサが得意気な横目を向けてきた。

 場所の高さや角度の加減で、雑多に立ち並ぶ建物の光が瞬いてみえる。空に散らばる星々の煌めきとも相まって、人工と自然が織りなすイルミネーションが視界いっぱいに広がっていた。

「自分の部屋から見る景色も綺麗だけど、あそこからだと見下ろすしかないから。ここなら人の生活の音や、町の空気……そういうものを感じられる。私とシャロンと……あなたしか知らない秘密の場所よ」

「シャロンさんも知ってるんだな」

「うん、多分だけど」

「どういうことだ?」

「あれ」

 アリサが指さした先に、二人掛け用のこじゃれたベンチが設置されていた。定期的に整備されているようで、汚れも錆もない。

「ここに足を運ぶようになって何回目かに、突然あのベンチが置いてあったのよ」

「……多分というか、もう決まりだな」

 二人でベンチに座る。

 しばらくは無言で景色を眺める時間が続いた。建物の隙間風が、びゅうと音を立てて過ぎていく。

 ふとアリサが言った。

「渡すの忘れてたわ。これ使って」

 手さげのバックの中から、丁寧に折り畳まれたマフラーを取り出す。

「冷えると思ってあなたの分も持ってきておいたの。男性でも違和感のないデザインとカラーだから」

「ありがとう、助かるよ」

 解放されたRF社の私室に戻った折、いくつかの服や小物をカレイジャスに持ち込んだそうだ。

 受け取った淡いグレーのマフラーを、リィンは自分の首に巻いた。ふわりと柔らかな香りが漂い、鼻先をくすぐっていく。アリサが使っている香水の匂いだろうか。

 なんだか今日は優しい気がする。そう思ったが、そんなことを口に出せば、『いつもが優しくないみたいじゃない!?』と機嫌を損ねてしまうので、リィンは胸に留めることにした。

「……ちょっとは元気出た?」

「ああ」

 うなずいて、笑い返す。

 薄々察していたが、気を遣わせていたみたいだ。

 これ以上は心配させられない。明るく振る舞おうとしてみたが、ここで気持ちを吐露しないのは、どこか不誠実に思えた。

 胸の内を話そう。リィンはそう決めた。

「ヴァルカンのこと、ずっと心に引っ掛かってる。どうしたら良かったんだろうって」

 最後は自分が一番近くにいた。助けることができたかもしれない。だけどヴァルカンはそれを望んでいなかった。

 仮に助けたとして、そのあとの彼の人生には何が残っている。まさか自由に生きろなどと言えるはずもない。帝国解放戦線の幹部として、然るべき処置がなされるだろう。

 あの一瞬にそこまで考え付いたわけではなかったが、全てを度外視してヴァルカンを操縦席から引っ張り出す判断は即座にできなかった。

 その結果、今になって迷っている。

 目の前で誰かが命を落とす瞬間に立ち会ったのは、実は二回目だった。

 初めてはノルド実習の時、石切り場の最奥。巨大な蜘蛛型の魔獣が現れて、相対していた猟兵の一人を飲み込んでしまったのだ。

 半分は立ち位置と運の悪さでもあったし、なにより非常事態だったから、そこに気を留める余裕までなかった。不憫だとは思うが、顔も知らず、感傷に浸れる相手でないのも事実。

 ヴァルカンは違う。

 顔を知り、言葉を交わし、感情をぶつけあった。彼の過去の断片も知ってしまっていた。相容れない立場だったには違いないが、それで割り切るには関わりを持ちすぎた。

「医務室にはアルフィン殿下も立ち寄って下さった。殿下もヴァルカンについて話していた。思うところがあったらしい」

 アルフィンがパンタグリュエルで軟禁状態にあった時、食事を摂ろうとしない彼女の為に、スカーレットやヴァルカンが足しげく手料理を運んでいてくれたそうだ。

 彼女はこんなことを言っていた。

 

『ヴァルカンさんが作る料理は、とてもこってりとしたお肉ばかりでした。ソースもギトギトで』

『骨が付いたままのスペアリブなんて食べたことがなかったですし、どこから食べていいのかもわからなかったです』

『わたくしがあまりにも意固地になって食べなかったものだから、いい加減にしろと怒られたこともあります』

『でもそれは体調を気遣ってくれた言葉だったし、粗っぽい人でしたけど不器用な優しさも感じました』

『今思えば……一口ぐらい食べておけば良かったのかもって、そう思います』

 

 一抹の寂しさが滲んだ声音だった。

 良かれ悪かれ、多かれ少なかれ、誰かがいなくなれば、誰かに影響をもたらす。

 スカーレットやクロウは彼の死をどう受け止めているのだろうか。

「良いか、悪いか、私もわからないわ」

 アリサは首を横に振った。

「リィンのことだから、きっとそのことで悩んでるって思ってた。でもごめんなさい。私にも答えは出せない」

「いいんだ。アリサが気にすることじゃない」

「そういう言い方はやめて。あなたが気にするなら私だって気にする。一人で抱え込んで一人でしんどくなるのはダメよ。苦しいなら分けてちょうだい。私――私たちに」

 膝に置いていた手の甲に、そっとアリサの手の平が重ねられる。

「答えは二択じゃないかもしれないし、そもそも答えなんてないのかもしれない。結局見つからないかもしれないけれど、それを探すことは無意味じゃないと思う」

「アリサ……」

「もっと頼って。私だってこれから機甲兵で戦うんだし、あなたに守られてばかりじゃないんだからね?」

 最後は冗談ぽく言って、アリサはリィンの額を指でつつく。

 彼女の笑顔を見て、気持ちが楽になっている自分に気付いた。

 ヴァルカンのこと。彼が言ったクロウのこと。区切り。落としどころ。

 まだ何一つ終着点は見えない。折り合いをつけられないまま、望まぬ未来が訪れるのかもしれない。それでも。悩みながらでも、今は前に進まなければ。

 そうしなければ、全てが終わった時に後悔しか残らない。

「よし、切り替えられた!」

「吹っ切れてはないんでしょ。また時間が経ったら考え込むくせに」

「……俺のこと、よくわかってるな」

「まあね」

 俺は見透かされやすいのだろうか。エリゼにもよく心の内を指摘されていたし。妙な心地だ。

「でも一つ決めたこともあるぞ」

「あら、なに?」

「ヴァリマールの新しい剣を探す」

 痛感していた。ゴライアス戦でも、動きに剣がついてこない場面がいくつもあった。

 やはりこのままで戦い続けるのは厳しい。ラウラに大剣の使い方を指南してもらったりしたが、どうしても八葉一刀流の技術を活かしきれていない。

 そしてクロウにできて自分にできていないことの一つに、武器への霊力伝達がある。彼は霊力をオルディーネの武器にまとわせることで、強大な力を振るっていた。

 何回かリィンも試してはいるが、なぜか機甲兵用のブレードには、うまく霊力を伝わせることができない。

 理由はいくつか考えられたが、おそらくは武器の相性。不可視の氣を刃に伝達するにあたり、普段から使い慣れない大剣ではイメージが掴みにくかったのだ。

 前に進むにも、まず力がいる。

 まだやれることがあるはず。クララに告げられたその言葉が、ここで自分の気持ちとも重なった。

「当てはあるの?」

「……ない。けど――」

「みんなで相談、ね」

「間違っているか?」

「いいえ、正解」

 微笑んで、アリサはリィンを見つめた。

 白い吐息が揺れ、鮮やかな紅い瞳がほのかに潤んでいる。互いの手は重なったままだった。彼女の体温が伝わってくる。

「……あのね」

「ん?」

「どうしよう、ここで言うのってフェアじゃないのかしら。でも……んん……」

 なにやら小声で呟いている。近い距離だがよく聞き取れなかった。

「えっと、リィンに聞いて欲しいことがあるんだけど」

「はは、改まってどうしたんだ」

「だ、黙って聞いてよ。その、一回しか言わないし」

 アリサの頬がうっすらと赤らんでいる。上を向いたり下を向いたり、逡巡を何度も何度も繰り返した後で、

「わ、私、あなたのことが――」

「っくしゅん!」

 超絶に間の悪いくしゃみが、続きの言葉をさえぎった。口を開いたまま、アリサは固まっている。

「………」

「わるい、ちょっと冷えたかも。……うわ、雨も降ってきたな」

 追い打ちの雨。冷たいしずくが、ぽつぽつと髪を打ち始めた。

「まずい、早くカレイジャスに戻ろう」

「え、あ! ちょっと!」

 アリサの手を引いて立たせ、リィンは早足で歩き出す。

「それでなんの話だったんだ?」

「……もういいわよ。もたもたしてた私も悪いし。こういうの勢いもいると思うし」

「? そうか」

「うん、やっぱりフェアじゃなかった」

「アリサ」

「なによ」

「ありがとう」

「……どういたしまして」

 そっぽを向いて、そう答えられる。降りしきる雨の中、アリサの表情はよく見えなかった。

 

 ●

 

 カレイジャスに戻った時には、大雨でずぶ濡れだった。

「うわ、ズボンの裾までびちゃびちゃだ」

 アリサと一旦わかれ、男子部屋に入る。誰もいない。点々と水を滴らせながら、リィンは着替えを取る為に自分のロッカーへと向かった。

「しまった……」

 ロッカーの中に着替えがない。うっかりしていた。一昨日に洗濯して、今は別室に干しているのだ。

 カレイジャス内には男女で分かれた洗濯室と乾燥室がある。そのどちらも、このロッカールームからは遠い。衣類は乾いているかもしれないが、こんな水浸しの状態で取り込みに行くわけにもいかない。

「何かないか……ん?」

 ごそごそと私物を漁っていると、ロッカーの奥に布の感触があった。引っぱり出してみると、やはりそれは服だった。幸運なことに上下そろっている。

 持ってきた覚えはない。先だってユミルから発つ際にまとめた荷物に紛れていたのだろう。

 不意に誰かの制止を聞いた気がしたが、服を広げるリィンの手は止まらなかった。

 トリスタに来るより以前に購入したものである。サイズが合うか心配だったが、どうにか着ることができた。

「昔はこういう服をかっこいいと思ってた時期もあったんだよな。まあ、今でもいけないことはなさそうだが……」

 人のセンスとはそうそう変わらない。

 リィンが着用している服は、かつてエリゼをして“人には言えない”と評された、尖り過ぎたデザインのものだった。

 当時ピンと来ていなかったリィンは、妹の涙目の意味を理解できず、残念なことに今もってなお理解が及んでいない。

「おっ、これも持ってきてたのか。ははは、懐かしいな。せっかくだし付けてみるか」

 すちゃっと付属品のゴーグルを顔にかける。

 これがカレイジャスを混乱の渦に突き落とす事件の始まりだった。

 

 

 ――続く――

 

 

 

 

 

 

 ――another scene――

 

 そのババ抜きは非常に重苦しい空気の中で行われていた。

 カレル離宮。エリゼとリゼットの部屋に、かの三人娘のセラム、ルシル、サターニャがいる。にこりともしない表情の三人を交えた総勢五人は、ひざを突き合わせて円となり、各々の手にトランプカードを扇状に広げている。

「……どうぞ」

「……はい」

 この中では一番年少のルシルが差し出したカードの一枚を、じっくりと吟味することもなくエリゼは抜き取った。同じカードがそろったので、場に二枚捨てる。

「どうぞ」

「ええ」

 次にエリゼのカードをサターニャが取る。うまくそろったようで、これで彼女はあがりだ。しかし喜ぶ素振りもなく、無表情を貫き通していた。

 カッチコッチと時計の音だけが聞こえる中、寒々しいババ抜きは進められていく。

 提案したのはリゼットだった。

『いつまでもあいつらに絡まれてたんじゃ、あんたも仕事がやりにくいっしょ。ここらで一つ親睦会でもやってさ。腹割って話そうじゃないの』

 そういう理由で、この苦行じみた会合が設定されたわけである。

 エリゼとて気乗りはしていなかった。しかしセラムたちが来るはずはないと高をくくり、軽い気持ちで了承したのだ。

 なのに彼女たちは来た。来てしまった。そろいもそろって不機嫌な顔で。

 事情を聞くに、リゼットが副隊長命令を下したそうだ。“業務を円滑に遂行する為のミーティング”だのと、適当な申告で命令書まででっち上げて。

 当のリゼットはと言えば、何食わぬ顔でババ抜きに参加している。彼女の顔を見やると、時々噴き出しそうになるのを堪えているようだった。間違いなくこの微妙な空気を面白がっている。

 あとで絶対文句を言おう。そして明日の朝は絶対に起こしてあげない。エリゼは密かに決めた。

「はい、あたしもあがりー。あとはあんた達だけだかんね。がんばりなよ」

 ルシルが二番、リゼットが三番手で抜け、セラムとエリゼだけが残った。

「あーそうそう言い忘れてた。ビリになった方が罰ゲームね。廊下の雑巾がけダッシュ往復五回で」

「ええ!?」

「なんですって!?」

 リゼットの言葉に、ビリ候補の二人は驚愕する。

「自分が抜けたとたんに言うだなんて……!」

「わたくし、聞いてませんわよ!」

「いーから早くやんなよ。ほれほれ」

 どこ吹く風のリゼットは、エリゼたちの抗弁をさらりと受け流す。すでに勝ち抜けたルシルとサターニャも呆れ顔だ。

「こっ、これは負けられませんわ」

 是が非でも罰ゲームを回避したいセラムは、本気の目付きでエリゼのカードを凝視している。

 セラムは残り一枚。エリゼは二枚。ジョーカーはエリゼが持っていた。

 エリゼは困った。

 彼女が負ければ、自分は恨まれるだろう。逆恨みも甚だしいが、きっとそうなる。後々余計に絡まれることになる。

 ならば私が罰を受ける方が丸く収まる。

 悟られないように嘆息を吐き、数字札の方をさりげなく前に出す。うまい具合にセラムの手は、数字札側に伸びていた。

 これでゲームセット。

 彼女の指がカードに触れた、まさにその瞬間。強烈な悪寒がエリゼの背を走った。

 それは直感。

 遠く離れた場所にいるはずの兄の姿がよぎった。なにか取り返しの付かないことをしようとしている。“人には言えない”それに手をかけようとしている。

「それだけはダメーっ!!」

 衝動的に叫び、はっと我に返る。

 セラムは唖然として手を止めていたが、ややあって哄笑を響かせた。

「ふ、ふふ、おーほほほっ! そんな手にひっかかるとお思いで? いくらあなたがイノシシ級の単純な人だったとしても、わざわざ今みたいに叫ぶはずがありません。わたくし、裏の裏を読める女でしてよ」

「あっ、今のは違うんですけど……」

「つまりわたくしが最初に選ぼうとしていた方がジョーカー! わざとらしくダメと言うことで逆にジョーカーではないと誤認させ、こちらの心変わりを防ぐという策と見ました。ああ、姑息!」

「な、何が何だか……私にそんな意図はなくてですね……」

「お黙りなさい!」

 ぴしゃりと言ったセラムは、最初に取ろうとしていたカード――ではない方を抜き取った。

「ほーらご覧なさい。これでわたくしの勝利――んなっ!?」

 がっつりジョーカーである。わなわなとその肩が震える。

「ひ、卑怯なあ!」

「はい?」

「いいですわ、いいですわ! だったらわたくしも同じ手段であなたを惑わせてあげますから!」

 エリゼのターン。めらめらと怒りの炎を背景に踊らせて、セラムはカードをずいと前に出す。

 エリゼが適当に選んだ方に手を伸ばしかけたところで、

「そっちはダメですわー!」

 と、叫ぶ。

 これを無視したら、また機嫌を損ねるのだろう。そう思ったエリゼは素直に忠告に従い、別のカードを取った。

 数字札だった。

「あがりです……けど?」

 気遣わしげにセラムを見る。

 手に残されたジョーカーを眺める彼女の瞳に、じわじわと涙がにじみ出した。

「う、ひっ……なんで、わたくしっ……うえっ」

「だ、大丈夫です。罰ゲームなんてないですから。そうでしょう、リゼットさん」

「えー、どうしよっかなあ」

「ないですから!」

「わ、わかったって。本気で怒んないでよ」

「ほら、罰ゲームないって言ってますよ。罰ゲームないんですよ?」

 エリゼがどうにかなだめ付かせようとするも効果はなく、おもむろに立ち上がったセラムは、戸口に向かって駆け出してしまった。

「絶対! ぜーったい! お父様に言い付けてやりますから~!」

 嗚咽混じりにそう言い残して。

 ルシルとサターニャは彼女の後をあわてて追った。

「あーあ、泣かせた」

「リゼットさんのせいですよ!」

 床に散らばったトランプを集めながら、エリゼはリゼットをたしなめた。

「いやいや、あんたがいきなり叫ぶからじゃん。あれなんのつもりだったの?」

「あれは……自分でもよくわかりません。なんだったんでしょうか?」

「あたしに訊かれても」

 エリゼは窓の外に視線を移す。いつの間にか雨が降っていた。雨風の勢いは増し、分厚い雲がごろごろと唸り始める。

 ただただ嫌な予感しかしなかった。

 

 ☆ ☆ ☆ 

 

 

 

 

 




2017年の初投稿となります。今年もよろしくお願い致します。

この翌日からルーレ寄航日となりますが、その前にリィンには気持ちの整理が必要です。あと私物の整理もしておくべきでしたね。

落ち込んでいる主人公→励ますヒロイン→流れる穏やかな時間→そしてリィンは悩みつつもあらたな方向を見出す→爆殺。
今話はそのような構成でした。

次回タイトルは『ミッドナイトヘブン』
傷ついたリィンを癒す為の、優しい物語になると思います。

引き続きお楽しみ頂ければ幸いです。

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