第6話 旅立ちの朝
「支度はできましたか?」
猟兵がユミルを襲撃した翌日の朝。シュバルツァー邸の玄関口で、ルシアはそう言った。
「はい、母さん」
動きやすい旅装に着替え、入用になりそうな手荷物を持ち、一振りの太刀を腰に携える。リィンの準備は万端だ。
ユミルの町に被害は出ていなかった。郷の人たちにも目立つケガはない。
ただ一人を除いては。
「……父さんのこと、お願いします」
一命は取り留めたものの、テオは昏睡状態のまま意識を戻さない。あとは体力次第だという。
本来ならば領主の息子として、郷を守るのが自分の役割なのかもしれない。だけどやるべきことが、成すべきことがある。
「心配はいりませんよ。こちらは任せて、あなたはあなたにしか出来ない事をやってきなさい」
この内戦下、自分がどこまで動けるか、何ができるのか。その答えは明確には出ていない。だが、このまま燻っていることもできない。
Ⅶ組の仲間を探し出して合流すること。そして攫われたアルフィン皇女を助け出すこと。
まずはその二つを目標にして、リィンはユミルを発つことを決めた。
「よう、お待たせ」
「はあ、外は寒いわよね」
トヴァルとセリーヌもいつでも出発できるようだ。
そしてもう一人――
「も、もう行くのですか」
ドタバタと音を立てて、大きな荷物を引き下げたエリゼが階段を下りてきた。
リィンたちの前まで来ると、肩で息をしながらパンパンに膨らんだリュックサックをどさっと床に降ろす。このリュックはテオが狩りに出掛ける時に愛用していたものだ。
トヴァルが目を丸くした。
「お嬢さん、こりゃいくらなんでも詰め込み過ぎだ」
「そんなことありません。旅先で何が起こるか分かりませんし、備えあれば憂いなしです」
「そうは言ってもなあ……」
聞けば、着替えや洗面道具などのお出掛けセット一式に、諸々の薬類。ついでに弁当もこさえてきたらしい。セリーヌを含めて、きっちり四人分。
「アンタねえ。友達のところへお泊りにでも行くつもり? 第一、そんなに重かったら動けないでしょうが」
「で、ですけど……」
「こっちに持ってきなさい。アタシがいるものといらないものを選別するから」
世話がやけるわね、などとぼやきつつ、セリーヌは旅慣れしていないエリゼに、事前準備の何たるかを手ほどきし始めた。
その後ろ姿をしばし眺めてから、ルシアは視線をトヴァルに移した。
「どうか二人を――リィンとエリゼのことをお願いします」
最初、エリゼの同行にリィンは反対していた。せめて彼女だけでも残っていた方が、ルシアが安心するだろうと思ったのだ。
親友を助ける為に何かがしたいというエリゼ。リィンを説得し、その後押しをしたのは、意外にもルシアだった。
「その依頼、確かに引き受けました。ギルドの名にかけて、きっちりこなしてみせます」
心配は顔に出すまいと努めているのだろう。ルシアは精一杯に微笑んでみせた。
その折、荷物の整理を終えたエリゼとセリーヌが戻ってくる。
「呆れたわ。よくもまあ、あそこまで詰め込んだものね」
「せめて着替えはあと一着……」
「ダメよ」
「うう……」
不要と判断された荷物の山を、名残惜しそうにエリゼは何度も振り返る。その都度、セリーヌにせっつかされながら彼女はリィンの横に並んだ。
ルシアは二人を抱きしめる。
「エリゼが女学院へ、リィンが士官学院へ進むと決めた時と同じです。子供の決意を止める理由はありません。また元気な顔を見せてくれるのなら、他には何も望みません」
「母さん……」
「……必ず戻ってきますから」
母の腕に抱かれながら、兄妹は声をそろえて言った。
『いってきます』
● ● ●
「さて、と。まずはあれをどうするかだが……」
玄関から外に出て、トヴァルは広場の一画に目をやる。灰の騎神が膝を付いている姿があった。
昨日の戦闘後、
特に変わりのない騎神の様子を見て、安堵したようにセリーヌが言う。
「あの女のことだから、何かしてくるかもと思ってたけど。とりあえず大丈夫そうね」
「クロチルダさんか……セリーヌは彼女と面識があるんだったな。当然、エマもだろうが」
「まあね。もう察しはついてるでしょうけど、ヴィータも
エマはどうか分からないが、少なくともセリーヌは彼女に対して強い警戒心を抱いていた。どういう関係なのだろうか。
「エマの姉弟子といったところね。七年前に禁を犯して以来、行方知れずになっていたけど。ヴィータを探すのがエマの目的の一つでもあったわ」
リィンは違和感を覚えた。
ヴィータ・クロチルダはラジオパーソナリィティのミスティとして、何度もトリスタに足を運んでいた。今思えばクロウとのコンタクトや、旧校舎の異変を気にかけていたのかもしれないが――。しかし、アーベントタイムの話題は学生の間でも出ていたし、顔写真がプリントされたステッカーまで出回っていた。
その中で、半年以上も彼女の情報に触れられない。そんなことがあるのだろうか。
リィンが疑問を口にするより先にセリーヌが続ける。
「魔女の秘術――呪いをかけていたんだと思う。因果を操作して、私たちにヴィータの情報が入らないようにする、ね」
「そんなことが……」
「出来てしまうのよ。あの女には」
彼女の目的は、結局セリーヌでも分からなかった。ただ騎神を奪ったり、破壊したりするつもりは、今の所ないらしい。
ヴァリマールの近くまで歩を進める。
『来タカ』
瞳に光を宿らせたヴァリマールが、先に声をかけてきた。一晩経って、霊力もそこそこ回復してきているようだ。完全な再起動にはもうしばらくの休眠が必要とのことだが。
「とりあえず休んでてちょうだい。また何かあれば呼び出させてもらうから」
『了解シタ』
ヴァリマールを見上げて、リィンは言う。
「俺たちはしばらくユミルを離れる。皇女殿下を助け、離れ離れになった仲間と再会する為だ。だから――」
『仲間――《起動者》の契約時ノ“協力者タチ”ヲ指ス言葉ト推定スル』
「え?」
『三方向ニ分散シテイルガ、イズレモ生体反応ニ異常ハ見ラレナイ』
うなずいたセリーヌは、「そういうことだったのね」とつぶやいて、その目をリィンに向けた。
「旧校舎の地下でアンタは仲間と共に試練を乗り越えた。それであの場にいた全員が準契約者として認められたみたいね。もちろん《蒼の起動者》以外だけど」
ヴァリマールによれば、ノルド方面に三名、レグラム方面に二名、ケルディック方面に四名いるという。
みんなは無事でいてくれた。安堵した胸に熱いものが込み上げてくる。
しかし問題があった。要所の街道や町は貴族連合に押さえられている。容易には辿り着けないだろう。
「……ねえ、ヴァリマール。アンタなら“精霊の道”が使えるんじゃないの?」
思い出したようにセリーヌはヴァリマールに訊ねる。聞いたことのない言葉に小首を傾げるリィンたち。
『肯定スル』
「やっぱり……!」
セリーヌが言うには、七耀脈の流れを利用して離れた場所へと一瞬で移る“古の移動手段”とのことだ。
距離に応じた霊力を使用しなければならないが、賭ける価値は十分にあると思えた。
「じゃあ、その精霊の道をここで使うんですか?」
エリゼの問いに、彼女は首を横に振る。
「七耀脈同士が繋がってる場所に限られるわ。この近くなら……そうね――」
セリーヌは霊力の流れを感知する。
「渓谷道の奥。そこに流れが集中してる場所があるみたい」
ユミル渓谷道。
積もる雪が道を隠し、足場は悪い。川沿いは凍っている場所もあり、うっかり足を滑らすと命取りになりかねない。
そんな渓谷道をリィンたちは慎重に進んだ。
三人と一匹の後ろを、重い足音を響かせてヴァリマールが続く。
「なんつーか……圧巻だな」
後ろを振り返ったトヴァルが声をもらした。歩幅が違うので、こちらの速度に合わせてヴァリマールは一歩を踏み出すようにしてくれている。
「間違って踏み潰さないでよね」
『承知シテイル』
踏み潰される第一候補のセリーヌは、割と本気でそんなことを言っていた。
「ヴァリマールは兄様が乗らなくても動けるんですか?」
エリゼは前を行くリィンに訊ねた。
「そうみたいだが……」
それは自分でも気になっていたところだ。どこまで彼は自由に動けるのか。完全な自律行動ができるのなら、起動者の操縦はどこまで必要なのか。その辺りの詳細はリィンにも分からない。
答えたのは他でもないヴァリマールだった。
『起動者ガ必要トナルノハ、霊力ヲ使用スル時ダ』
最たるものを挙げれば戦闘機動、今から使用する精霊の道、呼び掛けに応じて起動者の元に飛翔する時。搭乗の有無に関わらず、基本的には起動者の意志が必要になるという。
このように歩く程度であれば、ほとんど霊力は使用しないらしい。
「なんとなく分かったよ」
つまり俺は、鍵のようなものか。騎神のリミッターを外し、力の全てを開放する為の。
起動者となった今でも、騎神の力の全容は未だ理解できていない。こちらの意志で動くと言うのなら、何より重要なのは自分の心という事だ。
昨日、騎神の中で暴走した時、エリゼの声で正気に戻ることができた。
だが、もしあの場にエリゼがいなかったら?
怒りに任せて暴れ回り、この手で町を破壊していたかもしれない。いや、多分そうなっていただろう。
制御できない力を行使する怖さが、今さらになって胸に去来してくる。
『ドウシタ』
「ああ……なんでもない」
ふとセリーヌの言った言葉を思い出した。
“時に災厄を退けて人々を守り、時に全てを破壊し、支配するもの”
果たして灰の騎神はどちらとなるのか。全ては自分の在り様次第――
「じゃあヴァリマール。こっちに来てちょうだい」
渓谷道最奥。セリーヌは立ち並ぶ石碑の前に、ヴァリマールを誘導する。
「この辺でいいわ。ほら、突っ立ってないでアンタたちも来なさいよ」
促されるままに、リィンたちはヴァリマールの周りに歩み寄った。
「私もサポートする。いつでもいいわよ」
『承知シタ。残存霊力ヲ展開――精霊ノ道ヲ起動スル』
足元に光の陣が拡がっていく。
「きゃっ?」
「お嬢さん、光の外に出たら多分取り残されるぞ」
「は、はい」
驚いて足を引きかけるエリゼに、トヴァルは言った。
「リィン、彼に目的地を告げて!」
「ああ、目指すのは――」
ヴァリマールの霊力は全快していない。距離に応じて消費量が多くなると言うのなら、まずはユミルから近い場所を。
それに、そこには四人もの仲間がいる。
「方角は南東、ケルディックだ!」
光が膨れ上がり、その中に体が呑み込まれていく。
白く染まる視界。身を包む浮遊感。渦を巻く七耀の力。
「これが……精霊の道」
リィンは周囲に視線を巡らせた。
温かいような、涼しいような。どこか懐かしく、心地良ささえある。身体の自由は利かなかったが、不思議と怖れは抱かなかった。
「エリゼ、大丈夫か?」
「はい、兄様」
「旅先では何が起こるか分からない。気をつけるんだぞ」
エリゼは旅をしたことがない。戦術オーブメントに家伝の細剣技。戦う術は身に付けていても、実戦経験などほとんどないのだ。
何があっても守り抜かなくては。二人で両親の待つ、あの家に帰る為にも。
輝きが錯綜する巨大なトンネルの中を、リィンは流れのままに飛んだ。
「きゃあああ!」
旅というのが、こんなに過酷なものだったなんて。
いつも通り働いてくれない頭の中で、エリゼはそんなことを思った。
ケルディック方面への転移は問題なかった。光をくぐり抜けた先に広がっていたのはルナリア自然公園、その最奥部。周囲にはユミル渓谷の最奥部と同じように、精霊信仰の石碑が立ち並んでいた。
ここはリィンが初めての特別実習で訪れた場所だという。どうも以前とは様子が違っていて、今は上位三属性が働いているとのことだ。セリーヌに言わせれば“何かが乱れている”としか表しようがないらしい。
そこまで聞いたところで、獣の咆哮が大地を震わせた。
地響きと共に現れたのは巨大な猿型魔獣、《グルノージャ》。この森の主だ。
唐突過ぎる展開に絶句するエリゼ。その手を引いて撤退を指示したのはリィンだった。
旅先では何が起こるか分からないと言われたばかりだったが、まさかいきなりこれほど大きな魔獣に追われる羽目になるとは。
「兄様、ヴァリマールを置いたままです!」
「霊力を使い果たして彼はどのみち動けない。魔獣も騎神は襲わないはずだ」
「そうなんですか?」
「食べられないしな」
兄様、何か間違っている気がします。
走りながら振り返ったエリゼが見たのは、猛り狂い迫ってくるグルノージャと、その足の間からのぞくヴァリマールがゆっくりと片膝を付く姿だった。
こちらの窮地には関せず、緩慢な動作で休眠状態へ移行している。
「彼は大丈夫よ。実際、魔獣に襲われたりはしないと思う」
先行するセリーヌが、軽快に障害物を飛び越えながら言った。猫らしいしなやかさだ。彼女が言うならそうなのだろうとエリゼは納得する。
「いっそ腹括って撃退してみるか!?」
そっちの方が早いかもしれんと背後を一瞥したトヴァルに、リィンは「いえ、逃げ切りましょう」と返して、次いで並走するエリゼを見やった。
「まだ走れるか?」
「大丈夫です!」
そうは言ったものの、かなりきつい。せめて靴をもう少し動きやすいものにしておけば良かった。
「もう少しだ、お嬢さん。魔獣ってのは自分の縄張りを越えてまでは追って来ないもんだ」
木々の合間から差し込む光が増えてきている。出口が近い。逃げ切れる。
「あっ!?」
地面から張り出した木の根に足がかかってしまった。勢いのまま横転するエリゼ。幸い湿った腐葉土のおかげで大したケガはなかったが――
土埃を巻き上げながら、 グルノージャが接近する。
「エリゼ!」
すぐにリィンが駆け寄り、エリゼを起こす。一瞬遅れてトヴァルが事態に気づいた。構えた彼の《ARCUS》から光が弾ける。
「二人とも伏せろ!」
高速駆動。渦を巻く炎がリィンたちと巨猿との間に立ち昇った。獣は火を恐れる。グルノージャも例外ではないらしく、少しの間、臆したようだった。
「今だ、走れ!」
焦れた声に押され、エリゼは思い出したように足を動かす。トヴァルが再び《ARCUS》を掲げた。放たれた火球が頭上をかすめて飛んでいく。同じ炎でも先程とは種類の違うアーツだ。
「これ以上は木に燃え移っちまう。今の内に逃げるぜ!」
足にはこけた時のすり傷。どこかでぶつけたらしい手の平はじんじんと痺れている。旅装用とはいえ清楚な服は泥だらけ。
出発早々、散々だった。おまけにリィンたちの足を引っ張ってしまった。護身用のレイピアを抜く暇もなく、自分の《ARCUS》を使うという考えも出てこなかった。
漠然と思い知る。
これが私の知らない世界。安全を保証されていない外の世界。そして、兄が見てきた世界。知らないことばかりのこの世界で、これから自分は何を見て、何を思い、何をするのだろう。
前途多難な旅の始まり。上下に揺れる視界の中を、息を切らしてただ走る。
頬にも付いていた泥を手で拭って、エリゼは開けてきた青い空を見上げた。
ルナリア自然公園を出てまもなく、一軒の農家を見つけた。情報収集の為、一同はその家を訪ねてみることにしたのだった。
「俺たちは旅の行商人でね。最近この地方に回ってきたんだが、ケルディックの状況が分からなくて困っているんだ」
さも当然のようにトヴァルは言ってのける。
「このご時世に大変だなあ」
「話ぐらいなら、全然構わねえよ」
傍目には奇妙な取り合わせの三人と一匹だが、行商人という括りにさして疑問を持った様子も見せず、家人の親子――父がポールで息子がロビンだ――は最近の情勢を教えてくれた。
内戦が始まってほぼ一か月。二人の話を聞くに、ケルディックは戦禍を免れているそうだ。町はそれなりに緊張感も漂っているが、とりあえずは平穏を保っている。
問題は農業。鉄道網が大幅に規制された挙句、大市も規模を縮小している。ケルディックには大陸横断鉄道の中継駅もあるから、商業へ及ぼす影響は大きい。その上、物資の徴発の動きまであるという。
「内戦なんて早く終わって欲しいもんだよ」
ポールが言うとなりで、ロビンも深く首を縦に振る。作物が焼かれないだけ、まだマシだとも話していた。
彼らにとっては陣営の優劣より、生活の方が重要なのだろう。
貴族連合の動向が大まかには分かったが、重要な話は出て来なかった。やはり直接町に赴いて情報収集するほかはなさそうだ。
リィンが最後に訊いた。
「あの……この辺で学生を見かけませんでしたか?」
「リィン」
直球すぎるぞと、リィンの脇腹をトヴァルが小突く。ポールとロビンは顔を見合わせた。
「ああ、一人うちに泊まってる。今は出かけているけどな」
「え……!?」
予想外の一言だった。しかし行商人を装っているから、そこを細かく聞くのは不自然だ。どう問うべきかと一瞬言葉に詰まった様子のリィンを横目に見て、口を開いたのはエリゼだった。
「その方の制服は何色ですか?」
「えっと、緑だな」
「緑……」
トールズ士官学院の制服は三色ある。白が貴族生徒、緑が平民生徒、赤が特科Ⅶ組。つまり、学年は分からないが、平民生徒の誰かがここにいるということだ。もちろんトールズと断定はできないが。
「なんでそんなことを聞くんだ?」
ロビンが訝しむ態度をみせた。
「あ、それは……えっと」
その切り返しは考えていなかったエリゼ。返答に窮する彼女をフォローしたのは、一周回ってやはりトヴァルだった。
「その子の友達は士官学院生なんだけどさ。ほら、一か月前の騒動で連絡が付かなくなっちまってね。探している制服の色は確か白だったよな?」
「は、はい。そうです!」
赤、とは言えない。Ⅶ組はマークされている可能性が高いのだ。
ロビンは気の毒そうにエリゼを見る。
「ああ、そうだったのか」
「そうなんだよ。な?」
これ以上のボロが出る前にと、エリゼは口をつぐみ、こくりとうなずくだけに留める。
「貴重な話、感謝するよ。それじゃそろそろお暇させてもらうか」
その緑服の生徒のことは気にかかっていたが、町に行くのを優先することにした。
まさか帰ってくるまで待たせてもらうわけにもいかないし、下手にリィンと顔を合わせて、不用意な発言から彼がⅦ組だと露呈するおそれもあったからだ。
戸口をくぐって外に出ようとした時、ロビンがエリゼに声をかけた。
「気を落とすなよ、お嬢さん。その友達とはきっとまた会えるさ」
偶然に言われたことだが、友達という言葉に彼女はアルフィンを思い出す。
「はい、必ず」
そう微笑み返して、エリゼは深々とお辞儀をした。
● ● ●
「兄様、リンクしている時の連携について教えて欲しいのですけれど――」
「ああ、どうしたんだ?」
前を行く兄妹のそんなやり取りを耳に入れながら、トヴァルは拡がる穀倉地帯と点在する風車小屋を何気なく眺めていた。
先ほどの農家を出て西ケルディック街道を南に下れば、まもなくケルディックの町並が見えてくるはずだった。
が、今一同が歩いているのは脇道に逸れて、東トリスタ街道である。
目的はトリスタ方面の様子を見に行くためだ。徒歩なら二、三時間はかかる距離なのだが、トリスタが気がかりな様子のリィンの心中を察して、トヴァルがそう提案したのだった。
もっともトヴァル自身、ミヒュトとコンタクトが取れれば――などという思惑はあったのだが。
「リィンとエリゼお嬢さん、仲がいいよなあ」
「胸やけするわ」
足元のセリーヌに小声で言うと、彼女は気のなさそうな返事を返してきた。
「妬いてるのか?」
「そんなわけないでしょ!」
全身の毛を逆立てて、セリーヌは否定した。また引っかきを食らっては敵わないので、それ以上は何も言わないことにする。温泉でのあの一件は夢に出てきそうだった。
実際、仲がいいのは良いことなのだ。上辺ではなく、心の深くで繋がっていること。それはリンク戦闘において、確実にプラスに働いてくれる。
エリゼはリンク機能にもっと慣れる必要がある為、トリスタに向かいがてら、小型魔獣との戦闘を繰り返していた。
その中で、トヴァルには気になることがあった。
「………」
エリゼが自分とまったくリンクを繋がない。リィンとばっかりだ。そしてこちらがリィンとリンク状態に入ると、余ったエリゼは物言いたげな目で自分を見つめてくる。
何と言うか、これは。お兄さん、やりにくいぜ。
「ああ、なんだ。エリゼお嬢さん。ずいぶん慣れてきたみたいだし、そろそろリンク切り替えも練習しといた方がいいんじゃないのか?」
エリゼはちらっとトヴァルを見て――またぷいっと正面に向き直った。
「お、おいおい。どうしたんだ?」
「トヴァルさんは」
前を向いたまま、エリゼは続けた。
「トヴァルさんは、兄様を崖に落としました」
「そっ……」
それが理由か。一連の騒動でうやむやになっていたが、この少女はきっちり覚えていたのだ。気にするほどでもなかったから流していたが、そういえば日常会話の中では、若干トゲのある口調だったような。
「ま、待つんだ、お嬢さん。あの時はだな――」
「反対に」
「ふにゃっ!?」
凛として歩み寄って、エリゼはセリーヌを抱きかかえた。
「セリーヌさんは兄様を助けてくれました。それも二回も」
一か月前に騎神で戦域から離脱した時、そして件の崖から落ちた時だ。彼女はセリーヌに感謝しているらしく、何かと世話を焼いている。
リィンがたしなめるように言った。
「エリゼ、トヴァルさんにも悪気があったわけじゃないんだぞ」
「それは分かっていますが……」
その後もリィンのフォローを受けつつ、トヴァルは平謝りを繰り返して、ようやくエリゼの許しをもらうに至るだった。
ようやく態度が軟化してきた頃、エリゼはトヴァルに言った。
「あの、《ARCUS》について質問があるのですが」
きた。頼れるお兄さんの出番だ。自信あり気にトヴァルは自身の胸を叩く。
「任せてくれ。戦術オーブメントのことなら何でも答えられる」
「ルナリア自然公園であの大きな魔獣に追われて、私がこけてしまった時のことなんですけど」
「ああ、それがどうしたんだ?」
「私を助けてくれようとして、トヴァルさんが《ARCUS》を構えた時、何かいつもと光り方が違ったような気がしたんです。……兄様の《ARCUS》も」
「光り方……?」
あの時は切羽詰まった状況だったから、あまり細かいことを覚えていない。光り方、と言われても――いや、そういえば、いつもよりアーツの駆動がさらに早かったような。
「リィン、分かるか?」
「いえ。あの時トヴァルさんと俺はリンクしていなかったので、こっちの《ARCUS》まで光るというのは……」
そうだ。リィンとはリンクしていなかった。だが思い返してみれば、確かに彼の《ARCUS》も光を放っていた気がする。これはどういうことだ。
思案顔をする三人。セリーヌが口を開いた。
「それは私も気付いていたわよ。どういうことかは私にも分からなかったから、何も言わなかったけどね」
「そうなのか?」
「ただ、共鳴に近い現象だったかしら。急激にオーブメント内の導力の伝達効率が跳ね上がった感じがしたけど。というか、アンタの方が内部機構には詳しいんじゃないの?」
うーんとうなって、トヴァルは腕組みをした。
確かに《ARCUS》の中身をいじって、高速駆動なんて荒業をやってのけているが、実際に改造したのはアーツ駆動に関わるクォーツ周りと導力系統の一部だけだ。
通信とリンク機能を司る部位には手を出さなかった。いや、出せなかった。特にリンク機能。最新の機器を使用した上に、複雑なシステムを重ねているらしく、仕組みを理解することができなかったのだ。
「悪い、お嬢さん。俺にはちょっと分からないな」
「さっき何でも答えられるって……」
「うっ」
いけない。自分に対する彼女の心象はまだ回復していない。
「専門的なことは専門家に聞くのが一番よ。ほら、学院にも一人いたじゃない。あのツナギ姿の」
「ああ、ジョルジュ先輩か。とはいえ、学院に残ったままだったら、どの道すぐには会えないしな」
リィンが名前を出したジョルジュというのは、技術部の部長で、かなり腕がいいとのことだ。
いくつか可能性の話をしてみたが、結局、答えにはつながらず、ひとまずは保留の案件となる。
口には出さなかったが、トヴァルはあることに思い当たっていた。
「……ふむ」
魔獣に追われてエリゼがこけた際、自分は彼女を助けようとした。もちろんリィンも同じだろう。通常リンク機能を使うと、光のラインが繋がってから二人の意志はそろう。そこから連携が始まっていくわけだ。
しかし、あの時は二人の意志がすでにそろった状態でリンクしようとしていた。それも瞬間的に跳ね上がったような、雑念が入る余地もない相当強い意思で。
その辺りに何かがあるような気がするのだ。けれど――
「やっぱり、よく分からんな」
エリゼには聞こえない声で、トヴァルはそう呟いた。
小川沿いに東トリスタ街道を進む。この小川はアノール川と言って、流れはトリスタの町にも続いている。
「身をかがめて、街道の脇まで動くぞ」
トヴァルはリィンとエリゼにそう指示し、近くにあった茂みの裏に移動した。
視線の先。小川にかかる橋の上に、貴族連合軍の検問があった。
「トリスタを経由すればヘイムダルにも行ける。まあ、当然の陣取りだな」
ざっと見たところでは、機甲兵が二機。装甲車が六、七台。見張りの歩兵は数名だが、奥に見える簡易テントの中には、まだそれなりの人数が控えているのだろう。
正攻法はもちろん、搦め手を使っても、あれを突破するのは容易ではなかった。ご丁寧に橋の下にも鉄線が張られ、川からの進入も阻んでいる。
「悪い。無駄足を踏ませたみたいだ」
「いえ、踏ん切りがつきました」
心に引っ掛かりがあれば、行動力も鈍ってくる。リィンにとっては確認が出来ただけでもよかったらしい。
強い眼差しを湛えたその横顔。トヴァルはそれを視界の端に入れながら、ふと物思いにふける。
彼と同じ年の頃、俺はどんな目をしていただろうか。少なくとも、ここまで真っ直ぐな瞳はしていなかった。
出会いが自分を変えたのだ。今の俺があるのは、ほんの些細な出会いのおかげだ。
リィンだって幾多の出会いを重ねて、その心をここまで成長させてきたに違いない。それは彼にとっての大切な人々。
引き離されて辛いはずだ。自分の無力が悔しいはずだ。トリスタまでのわずかな距離を埋められないのが歯がゆいはずだ。
その距離を少しでも埋める手助けをしてやる。それが人生の先輩としての役目ってやつだ。
「それじゃ改めて行くか、ケルディックへ」
悩んで、迷って、挫折を味わって、最後にまた立ち上がって、少年は青年になるもんだぜ。
「諦めんなよ」
そう言って、トヴァルはリィンの背中を叩く。ちょっと強すぎたらしく、彼は「いたっ」と足をもつれさせた。
「あ! また兄様に何かしましたね!」
「ち、違うぞ。これは気合いを入れようとしてだな」
「知りません」
じろりと流し目をくれると、エリゼはリィンの背を押して早々と歩き出してしまう。
「アンタって貧乏くじ引きやすいの?」
「かもな」
セリーヌが嘆息をついて二人の後に続く。最後尾に残されたトヴァルは「まいったぜ」と頭をかいて、ふと検問所に振り返った。
変わらずにたたずむ機甲兵。
「………」
今さらながら疑問があった。
どうして機甲兵は人型をしているのだと、そんな疑問が。
巨大な騎士を連想させるそれは、確かに人に畏怖を感じさせる。その多用な機動性と、有機的な連携が実現する戦術の幅は、なるほど、次世代の兵器とも言えなくはないが……。
だが戦いになれば、実は無敵ではない。未だに正規軍が何とか戦車部隊で持ちこたえているのが、いい証拠だ。
戦車の砲撃はいかに機甲兵用の盾と言えども防ぎきれない。盾が無事でも、衝撃で腕関節の方が破壊される。また一度転倒してしまえば、体勢を立て直すのに時間が掛かる。
資材と資金があったのなら、高性能の戦車や戦闘飛行艇を量産した方が、相手を圧倒できたのではないか?
人が人を模して、己の似姿を作ること。それが技術の発展と進歩の証明なのだと聞いたことがある。単に力の誇示、象徴の為に製作されたとも考えられるが。
「そういえば……」
情報を受けただけだが、リベールで現れたゴルディオス級。クロスベルに現れたという神機。機甲兵。魔煌兵。そして騎神。いずれも人型だ。
機甲兵は騎神――おそらく《オルディーネ》――をモデルにしているらしい。では騎神は何を元に、何を目的として、誰が作ったのか。
複数を関連付けるには、あまりにも情報が足りない。
ただ、どんな複雑な物事にも必ず“起こり”というものがある。この状況に合わせたかのような、数々の巨人の出現。突飛な考えだが、もしも、それらが一つに帰結するのなら。
全ての始まりは、一体どこからなのだろう。
~続く~
――Side Stories――
《女王への階段②》
「あの行商人の人たちも大変だよなあ」
「うーん、しかしあの黒髪の少年はどこかで見た事があるような、ないような……」
トヴァル達が出ていって、数分後。ポールとロビンの親子はそんな会話をしていた。
玄関の扉が開く。
「薪集め、終わりました」
家の中に入ってきたのは、緑色の学院服を着たポニーテールの少女だ。ポールが軽く手を掲げて、笑ってみせた。
「ああ、おかえり。ポーラちゃん」
ポーラは薪を暖炉のそばに置くと、次はキッチンに向かった。
そろそろ昼食時である。
「少し休んだら? 食事は別にあとでもいいぜ」
ロビンが気遣わしげな言葉をかける。ポーラは肩をすくめた。
「別に大丈夫ですよ。お腹空いてるでしょう?」
メニューは野菜スープとパンの付け合わせ。質素なものではあるが、ポールたちにとっては料理というだけで救われる。
この家族、実はもう一人いる。ロビンの姉で、今はケルディックの町に働きに出ている。住み込みなので、一度家を出ると中々帰って来ない。
姉に任せきりなので、この男二人組は家事ができないのだ。三日も経てば、家の中は散々たる有様だ。
そこにポーラがやってきた。
雑木林の中でブリジットとモニカと別れてから、彼女はケルディック方面を訪れていた。そこで農家を転々と渡り歩きながら、宿代代わりに手伝いを申し出ていて、今に至るのである。ちなみにこの農家で三軒目だ。
馬術部だから馬の世話はできるし、キビキビ動くから、評判は良かった。あまり一所に長く居続けるのも気が咎めたので、色々な農家を回って厄介になっているわけだが。
「ふんふーん」
鼻歌交じりにじゃがいもの皮を向くポーラの後ろ姿を見ながら、「ポーラちゃん、いい子だよな」とロビンは本音をもらした。
そんな息子にポールは言う。
「あんな娘がお前の嫁さんになってくれたら、うちも安泰なんだがなあ」
「ばっか、親父何言ってんだ」
顔は赤くしつつも、まんざらでもなさそうなロビンは、リビングのソファから腰を上げた。
何やら角ばった動きでキッチンに近付いていき、
「なあ、ポーラちゃん。洗濯のやり方教えてくれよ。俺も何か手伝いたいからさ」
ちょっと意外そうな顔をしたのも一瞬、「いいですよ」と笑って、ポーラは調理の手を止める。
カゴに溜まった洗濯物を抱えて、ポーラとロビンは家の外に出た。
「服の素材によっては、あまり強くこすっちゃダメですよ。水の流れで汚れを落とすようにして下さい」
「な、なるほど」
家の裏手に流れる小川で、ロビンは洗濯のあれこれをポーラから教わる。
「うう……冷たい」
しかし、真冬の川である。水温は低い。あっという間に手がかじかんで強張っていく。
もたもたと慣れない服洗いに勤しむロビンを見て、ポーラの胸の奥にある衝動が湧き立ちつつあった。
「………」
いじめたい。
はっきりそうと思い浮かべたわけではなかったが、彼女の身を苛む、疼くような心地を言葉に変換したなら、まあそうなるだろう。
誰を見てもそのように感じはしない。心の深淵でくすぶる、潜在的な無意識が彼女に告げるのだ。
こいつは痛ぶり甲斐があるぞ、と。
そして――スイッチが入った。
「ねえ、ロビンさん。いえ、ロビン」
「は?」
こうなると彼女はもはやポーラではない。瞳を嗜虐の色に染めたサディスティック・クイーン――ポーラ様となるのだ。
「川の中心の方が流れが早くて、よく汚れが落ちると思うわ。行ってみたら?」
雰囲気と口調が急変したポーラに、ロビンは戸惑った。
「え、いや、でも」
「行きなさい」
促しですらない。これは命令。クイーンズオーダーだ。
抗えない何かに背を蹴られたみたいに、いくつかの洗濯物を手にロビンは川の真ん中に向かった。膝が浸かるくらいの深さである。
「洗いなさい」
「ひいっ」
鋭い眼光に射抜かれ、じゃぶじゃぶとシャツを洗う。
「手を抜いたりしたら、そのまま川下りの刑に処すわよ」
カタカタと震えながら、ただ命令に従うロビン。
片口を吊り上げた凄惨な笑みを向けられて、なぜか彼はどきりとした。
どうにかこうにか洗濯を終えて、家の中に戻るなり、ロビンは玄関口に倒れこんだ。殺虫剤をかけられた小虫のように、ぷるぷると震えながら暖炉の前まで這い進むと、彼はそれきり沈黙して動かなくなった。
「ポーラちゃん? ロビンどうしたんだ?」
息子の奇行に、ポールは目を丸くする。
構いもせず「そういえば昼食の準備中だったわね」と、ポーラはむきかけのじゃがいもを一瞥した。
「あんたがむきなさい」
クイーンセンサーが新たな獲物を感知した。異様な雰囲気にポールは「いや、やったことがないんだが」と口を開きかけたが、それより早く『ピッシィッ!』という乾いた音が床に弾けた。
ムチだった。馬用のそれではなく、黒くしなる女王様仕様の一品だ。学院から出るときに、ポーラが唯一持ってきたものである。
「むきなさいって言ったわ」
「は、はい」
女王にはいかなる抗弁も許されない。ただ等しく『Yes』と答えればいいのだ。
危うげな手つきで、じゃがいもの皮を向き始めるポール。
時間をかけて、ようやく一個むき終わる。身がほとんど残っていなかった。
それを摘みあげると、「何よ、これ。使い古しの消しゴムかと思ったわ」とポーラはぞんざいに鼻を鳴らした。
その仕草に、なぜか彼はどきりとした。
「やり直し」
ポーラは中年太りの腹に、ムチのグリップをぐりっとめり込ませる。
「おおうっ」
いい年のおっさんが変な声をあげた。
一つむく。
「ぜんぜんダメ」
「はいっ」
一つむく。
「豚の方がまだ器用だわ」
「ごもっともで!」
一つむく。
「むしろ豚になってみたら?」
「よろこんで!」
一つむく。
「お鳴きっ!」
「ブヒィッ!」
ポーラ様の素敵な笑い声は、その後しばらくケルディック街道に響き渡っていたという。
☆ ☆ ☆
《修道女の願い②》
困りました。どうしましょう。
「んだからよお。ちょっと詰所に来て酒を注げばいいんだって」
「早くするがいい、娘」
大市の一角、薬剤取り扱い店の前でロジーヌは身を固くしていた。
トリスタを出た彼女が、身を寄せているのはケルディックの教会である。そこで色々な手伝いをして過ごしていた。
今日は先輩シスターのオリーヴから、薬の調合に使ういくつかの材料の購入を頼まれていた。店まで来たものの、結局材料は品切れで手に入らなかったのだが。
どうしようかと悩んでいる所に、現れたのがこの二人の男。領邦軍の兵士である。彼らはロジーヌを見るなり、横柄な態度で絡んできたのだった。
「あ、あの。教会のお勤めもありますので、その、そろそろ帰らないと……」
「あんだと~?」
一人が顔を近づけてきた。お酒臭い。周りを見回してみる。この状況に気付いている人は何人かいた。しかし、誰もこちらと目を合わせようとしない。
領邦軍ともめると、下手をすれば町全体の問題に発展しかねない。それがあるから、不用意に間に入ってこれないのだ。
見かねて声をあげようとしたのは、今し方買い物をしようとしていた薬剤店の女性店主だった。
それはいけない。矛先がこの人に向いてしまう。
女性が口を開くよりも早く、
「わかりまし――」
「お前たち」
わかりましたと言いかけたところで、第三者の声が割って入った。
兵士たちが露骨に顔をしかめる。
「なんだ、お前は。とっとと失せろ」
「誰がこの町の治安を守ってるか知らないわけじゃあるまい」
やってきた彼は、兵士に臆した様子もない。
「そうか。ならば教えてもらおうか。お前たちが何を守っているのか」
ロジーヌは驚いていた。こんなところで会えるとは思っていなかったからだ。
「言わせておけば、貴様。いいか、我々は、だ……な」
男の語尾が詰まり、あっという間に顔面蒼白になっていく。顔中に油汗がびっしりだ。
「ユ、ユ、ユ……ユーシス様!?」
「な、ななな、なぜここに!?」
一瞬で酔いが吹き飛んだ様子の二人の兵士は、板に打ち付けられたみたいに背すじを正した。
鋭い目を注ぎ、ユーシス・アルバレアは言った。
「アルバレア家の領地に俺がいることがおかしいか? それよりもお前たち、ずいぶんと上機嫌なようだな。それに酒臭い。まさかとは思うが――」
「滅相もありません!」
「じ、自分たちは見張りの任に戻りますので!」
ばたばたと転げそうになりながら、彼らは逃げるように去っていく。そして向こうの方で柱にぶつかって、やっぱりこけた。
「あ、あの!」
我に返って、ロジーヌはユーシスに向き直る。彼はすでに背を向けようとしていた。
「待って下さい、ユーシスさん。私です」
名前を呼ばれて、怪訝そうに振り返る。こちらが誰か分かっていない様子だ。
ああ、そうだった。
被っていた修道服のフードを脱ぐロジーヌ。
ショートのブロンド髪が風にそよぎ、透き通るような青い瞳でユーシスを見る。さすがに予想していなかったらしく、彼も驚いたようだった。
「ロジーヌ……か?」
教会に戻り、シスター・オリーヴにことのあらましを説明する。彼女はずいぶんと心配してくれたようだった。
お使いを頼んだことを悔いている様子のオリーヴには「大丈夫ですから、気になさらないで下さい」と笑って告げて、ロジーヌはそのままキッチンに向かった。
戸棚からティーカップを取り出し、紅茶を注ぎ入れる。何かお菓子を添えようと探してみたが、あいにく紅茶に合いそうなものはなかった。
カップを持って、教会内の別室へ。来客用だが、あまり飾り気のない応接室だ。扉を開けると、ユーシスが座って待ってくれていた。
「お待たせしました、どうぞ」
「気を遣わせたようだな」
「助けて下さったお礼です」
お礼にするには、いささか簡素すぎるかとも思ったが、「ああ、頂こう」と特に気にした様子もなく、ユーシスは紅茶に口をつけた。
話を聞くに、彼はしばらくレグラムにいたそうだが、先日、実家のあるバリアハートに戻ったのだという。
そこで父であるアルバレア公の下について、領地運営の一端を担っているらしい。
今日ケルディックに来たのは、現地視察を兼ねてとのことだった。ちなみに同行してきている数名のお付きの人たちは、宿屋で待機中だ。
カップを一度卓上に置いて、ユーシスは言った。
「ずいぶん領邦軍が幅を利かせているようだな。住人は手荒な真似をされていないのか?」
「はい、町の人たちも無用に彼らに近づいたりはしませんので。……今日みたいなことは、まあ、時々あるようなんですが」
「……あとで詰所の方にも顔を出すとしよう」
しばらく雑談を交わす。
その最中、ユーシスは不意に言葉を止めると、ちらとロジーヌを見た。
「お前は」
ポツリと言う。
「はい?」
「お前は、俺のことをおかしいと思わないのか?」
最初、言葉の意図が分からなかった。でも、彼の立場と境遇を考えると、言わんとしていることが分かった。
トリスタを占拠したのは貴族連合軍。そこに自分が今、組していることがおかしいことだと思わないのか。彼はそう訊いているのだ。
「思いません」
はっきりと、そう答えた。
実家に戻る。その選択は彼にとって苦しいものであったに違いない。未だって悩んでいるように見える。このような質問をするのが何よりの証だ。
心を吐露するような問いかけを私にしてくれて、ちょっと嬉しい。ついそんなことを思ってしまったけど、それは一旦片隅に置いておいて、
「あの時――子供たちの為に劇をしてくれた時にも言いました」
「何をだ?」
「ユーシスさんはユーシスさんですから、とそう言いました」
「ああ、言われたな」
「そういうことです」
「答えになっていないぞ」
ユーシスはふうと息を吐いて、また紅茶をすする。それ以上は何も訊こうとしなかった。
わずかな沈黙の中、ロジーヌはお菓子を添えていないことを思い出した。
「ごめんなさい。この教会はオーブンが無くて、クッキーが焼けないんです」
「そうか、仕方あるまい」
表情は変わらなかったが、ロジーヌには彼がどことなく残念そうに見えた。
「これからどうするのですか?」
「穀倉地帯の農家も見て回ろうと思っている。自分の足で歩かなければ分からないこともあるからな。あとは……オットー元締めの話も聞いておくべきだろうな」
自分の足で歩き、自分の目で見る。それは彼がⅦ組で過ごし、各地を回る特別実習を通じて得たもの。実家に戻る決断をしたのも、これが理由なのかもしれない。
「ケルディックにはいつまで?」
「そうだな。今日は滞在して、明日にでも発とうと思う」
「明日……ですか」
早い。せっかく会えたのに。でも引き留めたら、彼の迷惑になってしまうかもしれない。どうしよう。
「どうした?」
「えっと、あの」
女神様。今だけ、ほんの少しだけ、わがままになっても許して頂けるでしょうか……?
「な、なんだ」
じっと彼を見つめる。
「この教会にも子供たちがいます。不安がっています」
「……そうか」
「他にも話を聞いて欲しい人はたくさんいます。いるはずです。間違いありません」
「ま、間違いないのか」
深い空色の瞳で、さらに見つめる。ユーシスは観念したように息を付いた。
「父上から緊急の用事は受けていない。こちらで出来る雑務もあるし、二日くらいなら滞在しても問題はない」
「ケルディック地方は広いです。」
「知っている」
「二日では回りきれません。絶対に無理です」
「ぜ、絶対に無理なのか」
じーっと根気強く見つめ続ける。ユーシスはしばし考え込む素振りをしてから、
「……三日ぐらいは大丈夫だ」
半分折れる形で、そう言った。
「いいんですか?」
「お前な……」
「ごめんなさい」
ぺこりと先に頭を下げる。
「視察に時間をかけるのは悪いことではない。だから、構わん」
「ごめんなさい」
「構わんと言った。まったく」
彼の都合も知らず、無理を言ったとは思う。今はそっぽを向かれてしまっているけど。本気で怒ってるわけじゃないのは、分かっている
空のティーカップを手に立ち上がると、しとやかにロジーヌは微笑んだ。
「紅茶のおかわり、淹れてきますね」
☆ ☆ ☆
お付き合い頂きありがとうございます。
今回から第Ⅰ部『灰色の戦記』がスタートです。
ユミル出発からトリスタ街道まで、そしてサイドストーリー二つでお送りしています。
これが虹の軌跡Ⅱの基本スタイルですが、休息日なんかは前作のような短編形式がメインとなっていきます。先は長いですね。
栄えあるサブストーリー一発目はこの二人。
ロジーヌさんが穏やかに紅茶を注ぐ裏で、ポーラ様がムチを振るって素敵に笑う。片方の人、自重して下さい。
次回もお楽しみ頂ければ幸いです。