「もう双竜橋のこと耳に入ってるかしら。紅き翼が介入してきたらしいわよ」
《パンタグリュエル》来賓フロアのロビー。ソファーに腰掛けていると、スカーレットが声をかけてきた。彼女に視線を転じたクロウは、「みたいだな」と、読み途中の報告書を卓上に置く。
「あら意外。そういうのにちゃんと目を通すのね」
「そりゃそうだろ。最新情報は把握しとくもんだ」
「そう? ミーティングで張り出される各地の勢力図とか、まるで興味なさそうだったじゃない」
「よく見てんな……」
「まあね。カイエン公の話がつまらなかった?」
「それは多いにある」
基本的に優勢地域のことしか話さず、ケルディックなどの痛手を受けた部分は巧みに煙に巻く。
実状を弁舌で隠し、率いる者たちに自軍の勝利を疑わせない話術はさすがと言えるが、直近の戦況を知る自分にとっては生あくびを堪えるだけの時間でしかなかった。
「実際、優勢には違いないけど。カイエン公の心中は穏やかじゃないでしょうね」
「痛手を被ったポイントでは必ずリィンたちが噛んでるしな。最近増えてきた優勢を強調するパフォーマンスは、苛立ちと焦りの裏返しだろうよ」
あとはエリゼに『主催者ではなく首謀者』と、正面切ってブリッジの全員の前で言われたことか。あの時は目に見えて機嫌が悪かった。
「あなた、ちょっと楽しそうな顔してるわ」
知らずの内に、にやついていたらしい。
「盤石なゲームなんて面白くないだろ。何事も不測の事態あってこそだ」
「ふうん」
気のない相槌を打って、スカーレットは対面に座る。黒眼帯に隠れていない左目が、じっとクロウをのぞき込んだ。
「そのゲームは、あなたの中でまだ続いているの?」
「……?」
なんのことだ。そう問い返そうとした時、「おう、二人そろってたか」と、野太い声が割って入ってきた。双竜橋から帰艦したばかりのヴァルカンだ。
「お帰りなさい。報告は聞いてるわ。大変だったみたいね」
「大したこたねえ。まあ、寒中水泳はさすがにキツかったが」
「はあ? こんな真冬に何やってるのよ」
スカーレットが呆れ顔を浮かべると、ヴァルカンは太い首をゴキゴキと回した。
クロウは苦笑した。
「先に届いた報告書は読んだ。あいつらとやり合ったんだろ。どうだった?」
「強くなっていた。あの小僧も、お姫さんもな」
ヴァルカンが双竜橋にいるタイミングで《紅き翼》の介入を受けたのは偶然だったが、直に一戦交えた彼が言うならそうなのだろう。
パンタグリュエルで最後に顔を合わせてから一週間と少し。
エリゼを置いていく選択を取るしかなかったリィン。あいつの性格のこと、今頃は無力感に苛まれているかと思っていたが、どうやら吹っ切れたらしい。
「事前情報にあった灰の騎神の“色替え”だが、それに加えて二種の特性を混合させて使ってきた。《ヘクトル》では押し切れなかった」
「今度は能力合成か。マジでなんでもしてくるな、あいつ……」
「だんだんとできることが増えてる。手札が多くなれば、応用力も高まってくる。あいつら、まだ強くなるぜ」
「へえ……俺よりもか?」
「いや、それでもクロウが上だな。お前の《オルディーネ》と正面から戦っても、あの小僧にまず勝ち目はない。現状では、だが」
「引っかかる物言いだな」
聞き流しても良かった。いつもならきっとそうしていた。けどなぜか、今は気に障った。
「俺は三年以上も騎神を乗りこなしてきた。リィンがどれだけ力を得ようとも、一か月程度の時間で習得できることなんて限られてる」
「時間が力ってか?」
「ああ、無条件に自分の血肉になる」
重ねた時間の分だけ強くなれる。それは間違いない。
ヴァルカンは薄く笑った。
「お前が言うか」
「どういう意味だ」
「トールズのガキどもをあっさり捨てたじゃねえか。積んだ時間が力になるなんて、お前に一番不似合いな言葉だ」
「……てめえ」
凄んで立ち上がるクロウ。
「元々隠れ蓑の居場所だ。偽りの関係だ。捨てる以前に、手にしてもないんだよ!」
言葉に固めて吐き出して、不意にズキリと痛む胸の内。圧迫されるような痛みの元に理解は向かず、クロウはヴァルカンに詰め寄った。
「さっきから何が言いてえんだ。はっきり言えよ」
「……お前、なんで戦ってる。カイエン公との契約だからって答えはなしだぜ」
「ああ?」
問いに対する問いの上、意図も見えない。帰ってくるなり、えらく突っ掛かってきやがる。リィンたちに負けた腹いせのつもりか?
わずかな苛立ちを覚えたクロウは、投げやりに即答してやろうと思った。
しかし言葉が出てこない。言い淀むなんて、自分でも意外だった。
喉を詰まらせたわずかな間に、ヴァルカンに胸ぐらを掴まれる。
「言えないんだろ。もう目的が見つからねえもんな?」
どんと突き放され、ぶつかった机からグラスが落ちる。絨毯のおかげで割れはしなかったが、半分以上残っていた水が床に黒い染みを拡げた。
乱れた襟元を正そうともせず、クロウは刺すような鋭い目をヴァルカンに据えた。
「何が気に入らねえのか知らねえが、やる気なら表出ろよ。相手してやる」
「上等だ。一度サシでやってみたいと思ってたんでな」
「その辺りで止めておいたら?」
臨界に達しかけた空気の中に、スカーレットが一応の制止を投げ入れる。
「私は別にケンカ程度で焦りはしないけど、仮にも貴族連合の協力者同士でしょ。場所を弁えない小競り合いは周りに示しがつかないんじゃない?」
まったくの正論。加えてスカーレットの落ち着き払った態度に、頭が冷えた。
馬鹿らしい。どうして俺がこんなにむきになる。ガラじゃねえだろ。
「部屋に戻ってる。なんかあったら呼んでくれや」
二人に背を向けて、クロウはその場を離れた。
ヴァルカンが何かを言おうとしていたが、聞く気もなかった。
「で、なんであんなこと言ったの? クロウを責めるっていうのは筋違いだし、それをあなたが言うのもお門違いだし」
クロウが去った後で、スカーレットは嘆息を吐く。ヴァルカンは落ちたグラスを拾い上げると、それをテーブルの上に戻した。
「わからん。どうもイライラしてやがるな、俺も」
「どうして? 《紅き翼》の介入でやられちゃったから?」
「そういうわけじゃねえが……つーか、負けてねえぞ。戦略的撤退だ」
「まあ、それはどうでもいいけど」
「いいのかよ」
ヴァルカンは座椅子にどっかりと尻を沈めた。苦しげに背もたれが軋む。
「トールズの奴ら、必死だった」
「それはそうでしょうね。一拠点に殴り込みの上、頭数だって少なかったんだから」
「いったい何に必死なんだろうな」
「私に訊かれても困るわ。トリスタを奪還したいとか、そんな感じなんじゃない?」
適当に返しながら、スカーレットは考える。
彼らが取り戻したいもの。
当たり前にあった場所。当たり前に過ごしていた生活。当たり前にとなりにいた友人。
その友人の中には、クロウも含まれているのだろうか?
偽りの関係だったと正面から告げられてなお、共有した時間だけを信じて彼に手を伸ばすのか? どれだけ力を付けて追いついたところで、差し伸べた手を握り返してはもらえないのに。
「お前、この戦いが終わった後の目的ってあるか?」
「ないわ」
考えるまでもなかった。「だろうな、俺もだ」と自嘲気味に笑って、ヴァルカンは天井を仰いだ。
「鉄血の野郎を討った時点で、俺たちの――帝国解放戦線の目的は達成してる。貴族派や革新派のいざこざなんざどうだっていいんだ。貴族連合に手を貸していたのは利害の一致と、資金面の援助が見込めたからだ」
「そうね」
帝国をあるべき姿に。そうカイエンが揚々と宣言する度、胸中の寒々しさは増していく。実を言えば、興味のなさそうなクロウの気持ちは十分に理解できるのだ。
自軍の優勢劣勢に一喜一憂する感情はない。
それはきっと、その先の未来を求めていないから。
「トールズの奴らを捨てたって言った時、クロウ怒ってたよな。それが見当違いの指摘だったなら、いつもみたいにかわせばいいだけなのによ」
「クロウにとって聞き流せないことだったってことでしょ。……ああ、それって――」
見当違いではないということ。
『捨てた』ではなく、『捨ててしまった』という悔恨の意識が心のどこかにあるから、気持ちを荒げずにはいられなかった。
多分本人自身は気付いていない。気付こうとしていないだけかもしれないけれど。
「どのみち戻れる場所はねえ。ただまあ、目的がなくともやることはある。契約中である以上、務めは果たす」
「猟兵のルール?」
「そんな感じだ。俺は今からノルティア州に行く。査察も兼ねて次は黒龍関詰めだ」
「ログナー侯のところね。……来るかしら、彼ら」
「さあな。介入する大義名分があれば来るだろうさ。万全の準備はしておくつもりだ」
「《ゴライアス》を出すのね?」
ヘクトルなど比較にならない超重装型機甲兵。騎神がいかな能力を駆使しようとも、圧倒的な力をもってねじ伏せるだろう。
「お前はどうする? 待機ばかりで鈍ってるならついてきてもいいぜ。運が良けりゃあ、あのお姫様の元気な声が空から聞こえるかもな」
「あら、楽しみ」
私のフルコースを一口も食べなかった強情な皇女殿下。世の中思い通りにならないこともあるって教えてあげようかしら。
「ええ、同行させて。《ケストレル》の新型装備も持って行く。これなら騎神も仕留められるわ。一応クロウにも声かけとく?」
「好きにしろ。けど来ねえだろ、どうせ」
ゴライアスの最終調整をすると、ヴァルカンはドックへ向かった。
彼の言う通りなのだ。
もう自分たちに目的はない。ならばあと望むことは、熱を失った灰に等しいこの人生に、どこで区切りをつけるか。
それだけだった。
《★★★リザルト・ダイバージェンス★★★》
「起きて下さい! 起きて下さいってば!」
「……うるさいって。あと一時間は寝れるでしょ……」
ベッドから出てくる気配のないリゼットを、エリゼは必死で揺さぶっていた。
「もう朝の八時ですよ!」
「なにさ……やっぱりあと一時間寝れるじゃん」
「寝れません!」
シーツを体に巻き付けながら、リゼットはベッドの奥側へと転がっていく。
「夜番とのシフト交代は九時からだっつーの」
「副隊長になったんですから最低でも三十分前には現場に出て下さい! それに朝の定時ミーティングはリゼットさんの号令がないと始まらないんでしょう!? というか九時勤務で九時に起きるってどういうことですか!」
「あーもう分かったから、耳元で騒がないで。低血圧なんだよ」
「また適当なことを言って」
自身もベッドに乗ったエリゼは、ミノムシみたいになっているリゼットを毛布から引きずりだした。着替えようともしない彼女の寝巻きを脱がしにかかる。
「鬼、悪魔、ぺったんこ」
「ぺっ……!? 私はこれからです!」
「負け犬はだいたいそう言うんだよ。ほれほれ、お姉さんのナイスバディがうらやましーか。欲しいっつっても分けてやんないかんね」
無理やり起こした仕返しなのか、ベッドの上で見せつけるように、下着姿のまま『せくしーぽーず』を決めるリゼット。くびれのあるウェストと張りのある胸の谷間は、くやしいかな、確かに抜群のスタイルの良さだった。
「これでも近衛兵だし、面倒だけど鍛えてんのよ」
「もう分かりましたから、早く軍服を着て下さい。髪は私が結いますので」
「はいはい、適当に後ろで一つにまとめてくれたらいいから。その辺りに括り紐が――って、そりゃシュシュじゃんか。あたしのじゃないよ」
「私のです。私はストレートのままですから、これはリゼットさんに貸してあげます。可愛いですよ?」
「やめなって。似合わないし、今から警備任務なんだし、そんなうわついたもん付けられないし」
「一応そういう意識はあるんですね……。でも大丈夫です。鉄道憲兵隊のクレア・リーヴェルト大尉知ってます? クレアさんも髪留め用のシュシュ使ってるんですよ」
「ていうかなに、
呆然としている隙にシュシュを手早く付ける。ホワイトブロンドの髪にライトグリーンのシュシュは良く栄えていた。金色と緑色は相性がいい。
「ばっちり似合ってますよ」
「勘弁してよ、もう」
言いつつもリゼットはシュシュを外そうとしなかった。
「食事は簡単なサンドイッチを作ってますから。あ、先に顔を洗って来てくださいね」
「りょーかい」
のろのろと洗面台へと向かうリゼットを視界の端に入れながら、エリゼは紅茶を淹れる。
副隊長となった彼女に誘われて、同室で過ごすようになってから数日。
上官用の私室と言うこともあって、生活用品を始め、入用なものは大体そろっていたが、その管理のほとんどをエリゼが担っていた。
多少予想はしていたものの、エリゼにとってリゼットは見過ごせないレベルの面倒くさがりだったのである。
「はあ……また寝巻き脱ぎっぱなし」
ベッドの端から半分ずり落ちた状態になっていたそれを拾い上げると、折り目正しく畳んで枕元に置く。
「なんだかミリアムさんとフィーさんを起こしてた時と変わらない気が……」
「誰がなんだって?」
洗面を済ましたリゼットが戻ってくる。
「いいえ、なんでも。紅茶どうぞ」
「角砂糖一個とミルク半量がいい」
「してあります。早く食べて下さい」
時刻は8時40分。もう時間に余裕はない。
朝食を食べ終えた二人は身支度を整えると、それぞれの業務場所へと向かう。
エリゼは小走りで、リゼットは歩いていた。
●
午前中の担当区画は東棟だった。基本の仕事は数人一グループで館内清掃を行う。
侍女は多くいるが、いかんせん敷地は広い。屋内、屋外を含めると班別に割り振っても、かなりの範囲をこなさなければならないのだ。
「間に合ってよかった……」
安堵のため息をもらしながら、エリゼは窓枠のほこりを布でふき取る。毎日掃除をしていても、汚れるものは汚れるのだ。
ここ最近はリゼットの朝の支度を手伝うから、集合時間ギリギリになってしまうことが増えてきた。今のところ遅刻には至っていないが、早く行くに越したことはない。なぜならば――
「あらあらエリゼさん。一番最後にやってきたのに、仕事の手も遅いんじゃなくて?」
こうなるからだ。
部屋が変われどもグループまで変更にはならない。リゼットはメンバーを入れ替えると言ってくれたが、エリゼはそれを断わった。
特別扱いはして欲しくなかったし、何より逃げたようになってしまう。
そういうわけで元同室の三人――セラム、サターニャ、ルシルとの関係は続いていた。
「遅く来てしまったことは申し訳ありません。次回から気を付けます」
謝るのはその部分だけ。特に仕事のスピードは遅くないと思うし、清掃の後を見るに、おそらく自分の方が丁寧にしている。
「あなたが遅れてくる分だけ、わたくし達のお仕事に回ってくるのですよ。そこの自覚は持っていて欲しいものですわね。ねえ、そう思いませんこと?」
セラムは両隣の二人に問う。問うと言うより同意を求める
当然サターニャとルシルは追従する。
「まったくですね」
「あなたのせい。全部あなたのせいです」
リゼットにトイレ掃除一週間を命じられた八つ当たりがこちらに向いているのだろう。相変わらず突っかかって来るが、最近はそのやり取りに慣れ始めている自分もいた。
セラムが難癖をつけてきて、後ろの二人が支持する。こちらから下手に反論しなければ、悪態と捨て台詞を吐いて帰っていく。彼女たちは結構ワンパターンなのだ。
「さてエリゼさん。遅れて来た分のお仕事、やってくれますわよねえ。トイレ掃除とかトイレ掃除とか」
「所定時間には間に合っていますので、業務開始は同時だったはずですけど」
「ま! お二人とも今の聞きまして? 反省の色なしですわ!」
『そういうのどうかと思います』
リハーサルでもしていたのだろうか。サターニャとルシルは予定調和のごとく、異口同音に言った。
エリゼは内心で嘆息する。
このやり取りに費やした時間で、窓の三枚は仕上げられたのに。トイレ掃除くらい請け負って、早々にお引き取り願った方がてっとり早いかもしれない。
しかし一度それをやると、次からもっと要求がエスカレートしてきそうだ。どう答えるべきか。
「黙りこくって、返事はどうしました? はいとお言いなさいな!」
「ワン!」
返事代わりの一吠えが足元から突き上がる。「ひゃっ!?」と驚いたセラムは、その場で尻もちをついてしまった。
「セ、セドリック殿下のワンちゃん……!? なんでこんなところに」
「ルビィちゃん?」
おそらくはカレル離宮でもっとも自由な権限を与えられているロイヤルドッグ。ルビィが低く喉をうならすと、セラムはずりずりと尻もちのまま後退し、
「ワン!」
「いやああ!」
ダメ押しのもう一吠えで、彼女たちは一目散に逃げ出した。よほど慌てたのか、廊下の向こうから派手にバケツをひっくり返す音が聞こえてくる。
「助けてくれたんですね。ありがとう」
茶色い毛並を撫でてから、エリゼは掃除を再開する。残っている窓拭きを全て終えるまで、ルビィは通路の端にずっと控えていた。
●
昼食は屋上で取ることにしている。
使用人用の大食堂はもちろんあるが、まだ好奇と疑惑の視線を向けられるエリゼにとって、大勢の集まる場所は決して居心地のいいものではない。
「いただきます」
タッパーのフタを開けて、サンドイッチを取り出す。朝食を作るとき、昼の分も一緒にこしらえておいたのだ。栄養を考えて、中の具材は変えている。
上官用の部屋に簡易キッチンとシャワールームが備え付けられていたのが、何よりありがたいことだった。
食材の数々も調理場からリゼットが調達してきてくれる。勝手に持ってきているのかと問うと、親しくしている料理長から不要分を内緒で回してもらっていると彼女は言った。いくつか無断で拝借もしているものもあるらしいが、あえて詳しくは訊かなかった。
「……う」
一口食べて、鼻の奥につんと刺激が走る。
レタスとハムとチーズを挟んだサンドイッチだが、ちょっと繋ぎのマスタードを多くし過ぎたようだ。
水筒に手を伸ばした時、
「あーらあら? こんなところで一人で昼食だなんて、寂しい人ですこと」
セラムたちが屋上に現れた。わずかばかりの平穏な時間が終わりを告げる。
彼女はつかつかと歩み寄ってきた。
「まあサンドイッチ? 貧相な具材を挟み込んでパンが泣いていますわ」
「パンは泣かないと思いますけど」
「ウィットの欠片もない返答ですわね。寂しい上に感性も足りないと見えますわ」
むしろパンが喜ぶ具材とはなんなのだろう。腹を立てるでもなく、エリゼは普通に疑問だった。
「で、どうして屋上で食事を? しかも一人で? ねえ教えてくださいません?」
ずいずいずいと顔が近付いてくる。
なぜこんなに絡んでくるのか。その為にわざわざやってきたのか。放っておいてくれたらいいのに。一体私に何を言わせたいのだろう。
サターニャとルシルは相変わらず、セラムの後ろでうなずいている。
「ふふ、何も言えないのですね。ま、当然でしょう。こんな誰もいない屋上で食事なんて、根暗で陰険な人しかしないでしょうし」
「失礼。ちょっとそこをどいてもらえるかな」
「なんですの。今取り込み中で――え゛」
セラムたちの表情が一瞬で硬化した。
ダークグレーのスーツに、シルバーのハーフフレーム眼鏡がキラリと光る。
「レ、レーグニッツ知事!? なぜこのようなところに」
「来てはいけないかな? “保護”されている身で恐縮だが、好きな場所で食事をする権利くらいはあるだろう」
カール・レーグニッツは小脇に抱えたバスケットを右手に持ち変えた。
「ところで君たちの会話の内容、なんだったかな。そう――屋上で食事なんて、根暗で陰険な人しかしないとか」
「いえ、それは、誰かが言っていたような気が……決してわたくし自身の言葉ではないといいますか」
「興味深い意見だ。ぜひ根拠を聞いてみたいね」
「用事を思い出しましたので、これで失礼しますっ!」
慌てふためく三人はセラムを筆頭に回れ右。あっという間に屋上から退散した。
「やれやれ。となり、失礼していいかな」
「え、ええ」
エリゼも戸惑いながら、ベンチ代わりにしていた段差を横にずれる。カールはそこに座ると、自前のバスケットをひざに乗せた。
「どこにでも彼女らのような人はいる。気にしないことだ」
「ありがとうございます。気にしていませんから」
「ははは、芯が強いね」
安心したようにカールは笑う。ルビィ同様、彼もまた自分を助けてくれたのだろうか。
「君もサンドイッチか。おいしそうだ。良かったら私のと一つ交換してくれないか」
「お口に合うか分かりませんが……どうぞ」
「ではさっそく……おお、これはうまい。マスタードが最高だ」
「辛くないですか?」
「そこがいいんじゃないか」
カールは美味しそうにエリゼのサンドイッチを頬張っている。
「私のもぜひ食べてくれ。男の手料理なので大味に違いないが、それなりに自信はある。題して“知事サンド”だ」
「……頂戴します」
しがらみの多そうなネーミングのサンドイッチの実態は、ボリューム満点のベーコンサンドだった。
かなり大きい。一つ食べ終えただけで、もうお腹いっぱいである。残っていた自分のサンドイッチは、カールに全部食べてもらった。
一服したあとで、彼は言った。
「もっと早くに君と話をしたかったのだが、なかなか機会を作れなくてね。時間は大丈夫かな」
「話……私とですか? 休憩時間はまだ残ってますけど……」
「良かった。ここにいると情報が入ってこない。だから外の現状を知りたいんだ」
「そういうことでしたら」
「それと、君がカレル離宮に来るに至った経緯も」
付け加えられた質問に、思わず言葉を詰まらせた。
信頼できるか、否か。一瞬迷って、エリゼは決めた。
この人には話そう。
ほとんど直感でそう思ったのは、見知った面影が彼にあったからか。
「そうですね……では姫様とユミルに着いてからのことを――」
内戦勃発から一か月、アイゼンガルド連峰で騎神とリィンの目覚め。トヴァルのやらかし。魔煌兵と猟兵の襲撃。連れ去られたアルフィン。Ⅶ組の仲間を求めて各地への転移し、その先々での戦い。トヴァルのやらかし。パンタグリュエルのユミル襲来。
そして自分がここにいる理由。
順序立てて語ったあと、カールは納得したようにうなずく。
「なるほど。大まかな情勢は理解したよ。あと君がトヴァル氏とやらを危険視していることも」
「そこに関してはまだ語り尽くしていませんが」
「そ、そうか。まあ今日はこのくらいでいい。……それにしてもよかった。マキアスも無事で、今は《紅き翼》に乗っているのだろう。そのことを知れただけでも十分だ」
なぜカレイジャスがあのタイミングでパンタグリュエルに現れたのか。Ⅶ組が搭乗していたところを見るに、おそらく先にユミルを訪れたのだろうが、そのいきさつまではエリゼには分からなかった。
「ありがとう、エリゼ君。つらい環境だと思うが、君の判断と行動は必ず何かに繋がる。あきらめずにがんばりなさい。私にできる助力は多くないが、困ったことがあれば頼って欲しい」
「もったいないお言葉です。私こそ知事閣下にお礼を言わないといけないのに」
「知事閣下などと固い。カールと呼んでくれたまえ。それで君が私にお礼とは?」
「ええと、ではカールさん。この前の幻じゅ――大きな魔獣から助けてくれてありがとうございました。本当に危ないところでしたから」
幻獣《ヴォルグリフ》がとどめの一撃を放つ直前、エリゼとリゼットを石片の投擲で救ったのがカールだった。背広が破けんばかりのダイナミックな投石フォームは、目に焼き付いたまま離れない。
「あれは君たちの奮闘のおかげだ。だから私は絶好のポジションに付き、手頃な石を集めることができたのだよ。……ふむ、そういえばもう一つ君に訊かねばならないことがあったな」
「なんでしょう?」
「最後に君が閃光弾を使った時に見せた技……あれは《雪帝掌》だね」
カールの雰囲気が変わった。ピリッと肌の表面を緊張が走るのを、エリゼは感じた。
「どうしてそれを?」
「やはりか。わかりきっていることだが、あえて問おう。君の母上はルシア・シュバルツァーか」
「ええ、仰る通りですが……あのう、母と面識がおありで?」
「ふふ……そうだな。今、多くは語るまい。それに察するところ、エリゼ君にあの技までは伝授していないようだ。つまりは《雪帝》見習いというところだろう」
「は、はあ」
あの技とか《雪帝》見習いだとか、ユミル伝統の雪合戦のことを彼はどうして知っているのか。自分でさえも、例の裏事情を知ったのはごく最近だと言うのに。
「太古の昔に端を発す黒と白の物語さ。連綿と続く戦いの系譜。繰り返される歴史。一つの真実をいずれ君は知ることになる。そしてマキアスも……。運命――いや、これは宿命か」
バスケットを手に、カールは席を立つ。
「サンドイッチ、ごちそうさま。また話そう」
そう言って去っていく。慌ててペコリと頭を下げるエリゼだが、何を言っていいのかわからない。
成り行きのまま勝手に背負わされた《雪帝》の称号は、どうやら思った以上に厄介なものだったらしい。
●
このフロアに入る前には、上長から様々な注意点の説明を受ける。
毎回というのが煩わしいことではあるが、それもやむなしか。午後からの担当場所は、要人と皇族の居住区になっている中央棟だ。
東西の別棟に比べれば建物自体の規模は小さいものの、清掃の念入り度は他の比ではない。共用部のあらゆるものに、ほこり一つ残すことさえ許されない。
「あ、この置物に水拭きはだめだわ。あと拭き布も目が細かいものに変えないと」
調度品には種別に応じたメンテナンスの仕方がある。それを見誤ると表面を痛めたり、劣化を早めたりしてしまう。おまけに一流の高級品ばかりで、いずれの値段も天井知らず。
普通なら極度の緊張で手も震えようものだが、エリゼの作業は迅速かつ的確だった。
バルフレイム宮に頻繁に出入りしていたおかげで目利きは自然と身についていたし、教養の一つとしてそれらの難しい手入れもルシアから学んでいた。
マニュアルを片手にもたつくセラムたちには真似できない手際で、エリゼは黙々と清掃をこなしていく。
「いい気にならないで下さいます?」
エントランスフロアに差し掛かった時、いきなりセラムが絡んできた。
「なんのことですか?」
「まあ白々しい! セラムさん、サターニャさん、おいでになって!」
例によって二人を呼びつけ、お決まりの立ち位置ができあがる。
「エリゼさんったら、ちょーっと調度品の扱いを知ってるからって、わたくしたちのことを小馬鹿にしていますわ。ぜーったいそう思ってますわ!」
何を言われているかサッパリだった。しかしお付きの反応は言わずもがな。
「見せつけてくるんですね。性格悪いです」
「まったく、掃除くらい真面目にやって欲しいものですが」
これもそのまま言い返したい。が、言い返したところでその後の展開は目に見えている。
流すのが一番なのだが、どうもセラムは昼に会った時より不機嫌なようで、今回は逃がしてもらえそうにない。
「なんとか言ってごらんなさいな。お人形さんですの? あ、今のはお人形さんみたいに可愛いって意味じゃありませんから! 勝手に勘違いしないで下さる!?」
「してません」
「いーえ、思ってる顔! それは思ってる顔!」
「す、すみません」
「謝りましたわね、今! 聞きまして? ついにエリゼさんがわたくしに頭を下げて――あら?」
今の“すみません”はエリゼの声ではなかった。
振り返って、一瞬で石化する三人。彼女たちの表情を見る限り、その衝撃はカールが現れた時と段違いだ。
「セ、セセセセッ、セドリック殿下あっ!?」
「声が聞こえたから見に来ました」
セドリックは偶然エントランスを通りがかったらしい。さすがに先に口を開けないセラムたちに、「ごめんなさい、ちょっと外してもらえますか?」と、セドリックは少々申し訳なさそうに言う。異論を返せるはずもなく、三人はぎこちない礼をして、そそくさと離れていった。
エリゼはセドリックに謝った。
「騒がしくしてしまって申し訳ありません」
「ああ、そんなことは別にいいんです。今日は中央棟に来てくれていたんですね」
「はい」
「えっと……今日は良い天気ですね?」
「そうですね。風は強いですが、最近ではまだ暖かい方です」
「ほ、本日はお日柄も良く……」
「え? はい、良いお天気です」
「………」
上手く話を繋げられず、セドリックは無言になる。
微妙な沈黙の後、彼は意を決したように言った。
「あ、あの! このあと、よかったらお茶をご一緒しませんか?」
「お茶……ですか? 私と?」
「時間があったらでいいんです! 迷惑でなかったらでいいんです!」
エリゼは困った。当然迷惑ではないし、皇子からのお誘いを断わるなんて失礼もいいところだ。
受けるべきなのだが、仕事がまだ残っている。掃除だけでなく、物品の在庫チェックや細かな雑用もやらなければならないのだ。
返答に窮していると、
「……やっぱり迷惑でしたか」
「ち、違うんです。まだやることがありまして……」
「行っといでよ」
そう言って近付いてきたのはリゼットだった。副隊長になってからあれこれ動き回っている彼女だが、今日は中央棟で警備に当たっているらしい。
「お話中に失礼します、セドリック殿下。彼女の業務はちょうど終わったところですので、どうぞご随意に」
一応の礼節は心得ているようで、リゼットは慇懃に振る舞っている。
エリゼは小声で彼女を諌めた。
(リゼットさん、仕事はまだ終わってません)
(いーんだよ、こっちでなんとかしとくから)
(なんとかって……在庫チェックしてくれるんですか)
(やるよ、あいつらが)
リゼットが視線を振った先に、物陰からこちらの様子をのぞき見るセラムたちの姿があった。
残った雑務を押し付ける気だ。副隊長権限とやらを使って。
(職権乱用ですよ!)
(権利は使ってなんぼだろ!)
「あの?」
『お構いなくー』
不思議そうに首を傾げるセドリックに、二人はごまかし上等の笑顔を向ける。
(とにかく私は自分のやることをやります)
(固いっつってんの。在庫ちまちま数合わせすんのと皇族との密会、どっちが大切なのさ)
(密会って! お茶です、お茶)
(面白そうだろ、いいから行けよ!)
(それが本音ですね!? 面白がってたんですね!? もうわかりました!)
(ああ?)
「殿下!」
「は、はい!」
エリゼはセドリックに向き直った。
「やはりまだ仕事を抜けられそうにありません」
「そうですか、いえ仕方ないですよね。エリゼさんの都合も考えずにすみません」
これ見よがしに「あーあ……」と髪をかき上げるリゼットの腹を軽く小突いて、「ですが」とエリゼは続けた。
「あと一時間あれば終わります。恐縮ですが、もしお待ち頂けるなら」
「待つ! 待ちます!」
言い終わるより早くセドリックは反応し、「なんなら手伝います!」とまで言ってきた。本当にやりかねない勢いだった。
さすがにそれは無理過ぎる。エリゼが丁重に断ると、先にお茶のセッティングをすると、セドリックは私室のバルコニーへと駆け上がっていった。
リゼットが神妙な顔を浮かべた。
「部屋で茶かよ。いいかエリゼ。よく聞きな」
「はい」
「必要なのは既成事実だ。皇子サマが隙を見せたら押し倒せ」
問答無用の雪帝掌が、リゼットにクリーンヒットした。
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水と風に囲まれた地形ともあって、ここ一帯、夜の気温は急激に下がる。窓枠にはうっすらと霜が付き始めていた。
夕食も済まし、あとは就寝を残すのみとなった時分、二つ並んだベッドの上でリゼットが訊いてくる。
「で、どうだった?」
「別になにも。紅茶を頂いて、少しお話しただけです」
「へえ、どんな話?」
セドリックとのやり取りについてエリゼは端的に答える。さらりと流して欲しかったが、リゼットは詳細を教えろと食いついてきた。
「姫様――アルフィン殿下のこととか、私がここに来た経緯とか」
「それだけ? 押し倒しはしたの?」
「してません」
「じゃあ押し倒された?」
「されてません」
「意気地なしだねえ、二人とも。皇子サマも無理やり詰めよって『僕の身分はわかっているよね』とか言って口を塞ぐくらいできるだろうに」
「リゼットさん?」
静かに雪帝掌の構えを取ると、「いや冗談だから。やめて。手引っ込めて」と、リゼットは焦った様子でお腹をかばう。
昼の一撃が相当堪えたらしい。二発目は是が非でも回避したいようで、「しかしなんだなー」と彼女は話題を変えた。
「あんたがここに来た理由、知事のおっさんと皇子サマにまで話しちゃったわけか。良かったの?」
「隠し通せる雰囲気じゃなかったんです。一応他言は控えて頂くようにお伝えしています」
「ふーん。まあそれで十分だろうね。別に知ったからって二人が不利益を被ることはないと思うよ」
リゼットにも自分の事情は打ち明けている。彼女は興味深げに聞いていたが、必要以上の詮索まではしてこなかった。ただ一言『人生色々だねえ』と、軽く締めくくられて終わった。
「ま、いいさ。今日も疲れたし、とっとと寝よ」
「明日こそは早く起きてもらいますから――って、リゼットさん!」
「なに?」
「また服脱ぎっぱなし! 上着は肩の線を合わせてハンガーにかけて、ズボンはシワを伸ばして畳んでって言ったじゃないですか!」
「あー、うん。やってよ」
「もう!」
プンスカ怒りながらも、エリゼは団子になっていた軍服を整えにかかる。
「あんたはいい嫁になるよ。あたしが保証してあげる」
「なんの保証ですか。それに私よりリゼットさんです。兵士勤めとはいえ、女性らしい振る舞いは必要ですよ」
ふとフィーネさんプロジェクトのことを思い出した。あの取り組みは続けてくれているだろうか。エマさんがいれば、まず大丈夫だとは思うけど。
「その辺は子供の頃に一通り身につけたし。今は使ってないだけだし」
「できるならやって下さい。たとえば……」
細かなところをまとめて指摘しようと思って気付く。衣類のことはともかく、意外に少ない。
食事の食べ方は綺麗だし、カトラリーの扱いもきっちりしていた。
改めて思い返すと、そういえば食べ終えるタイミングはいつもリゼットと一緒だった気がする。相手の食べる速さと自分のペースを合わせるのも、食事におけるマナーの一つだ。
歩き姿勢も綺麗だ。胸を張って足から前に出る兵士特有のそれとは違い、うなじと背すじのラインを正して、腰から前に出るスマートな歩法。たとえばそれは社交界に出入りするような女性の所作で、少なくとも訓練しなければ身に付かないものである。
「たとえば、なにさ?」
「いえ……」
体に染み付いた習慣だから、意識せずにできているのだろう。子供の頃に学んだというのは、おそらく本当だ。
「大体さあ、女らしくしろっつーのが固いんだ。らしさって何? 社会規範? 大衆認知? うりうり、答えてみなー」
「あうぅ」
ほっぺたを指でぐりぐりと押される。この手の問答に入ると、まず自分に勝ち目はない。なにを言おうとも論破されてしまう。
「それにこう見えて粛々としてんだよ、あたし」
「具体的な例をあげて下さい」
「あ、ウソだと思ってんな? ほら、寝てる時とか静かだろ。いびきとかかかないだろ」
「確かにそうですけど、それも適当でしょう。眠ってるのに自分がどうなってるかなんて分からないはずです」
「人に聞いたから知ってんだよ」
「それって……」
女性の寝姿など他人がそうそう見れるものだろうか。常にそばにいるような人でなければ無理だ。つまり、
「大人な関係の人……!」
「あんた意外と耳年増だね。兄貴だよ、兄貴。あたし四人兄妹の末っ子なの」
恥ずかしい勘違いにエリゼは赤くなる。
「15歳のエリゼちゃんは興味津々の年頃か? お姉さんがレクチャーしてやろうか、ん〜?」
「い、いりません! もう寝ますよ!」
「あいよ、おやすみ」
ベッドに横になり、毛布を頭までかぶる。
兄妹。あまり考えもしなかったが、彼女にも家族はいる。今、その人たちはどこに?
教養と嗜みを学べる環境だったにも関わらず、どうして彼女は一人でこんな場所にいるのだろう。
それは果たして訊いていいことなのか。迷いながらリゼットの横顔をちらりとのぞき見ると、
「その内教えてあげるよ」
相変わらずの勘の良さでそう答え、室内の照明が落とされる。
差し込む月明かりに照らされた横顔から、彼女の感情を読み取ることはできなかった。
――続く――
お付き合い頂きありがとうございます。
今回は連合サイドのストーリーとなります。スポットを当てているのは解放戦線の三人ですが、普段はどんな関係なんでしょうね。多分、古参のメンバーとして、ある種の連帯感はありそうなのですが、果たして……
後半はがんばっているエリゼ嬢。知事閣下というおっさん枠を追加できて満足です。面倒なおっさんおかわりです。
では次回からいよいよルーレ編に入ります。引き続きお楽しみ頂ければ幸いです。