虹の軌跡Ⅱ Prism of 《ARCUS》   作:テッチー

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第63話 陸風ドロップデイズ

《猛将列伝のすすめ⑦》

 

 悪夢のような時間だった。いや、どれだけ最悪であろうとも夢であればいい。目が覚めればそこには現実があるからだ。

 しかし今は、その現実こそが悪夢なのだから救いがない。

「これはどういうことなのか説明してちょうだい」

 ガレリア駐屯地のとある会議室にて、フィオナは卓上に一冊の本を差し出した。忌まわしい《猛将列伝》のタイトルが、エリオットの視界に粘っこく入ってくる。

「だから姉さん、それは誤解なんだって」

「なにが誤解なの。こんな本のモデルになるなんて」

「あ、あのさ。それって僕がどんな感じに描かれてるの?」

「そんな……そんなこと」

 フィオナはうつむいて、押し黙る。とても彼女の口からは言えない内容らしい。

「反省しろ、エリオット」

 部屋の角に立つナイトハルト少佐が追い打ちをかけてくる。なぜこの人がこの場に立ち会っているのか不明だ。

「ふむ……」

 一度も言葉を発さなかったオーラフが、ここに来て重い口を開いた。

「エリオットよ。愛する息子のことはもちろん信じている。これは何かの間違いだとな。そうなのだろう?」

「う、うん! 作中の登場人物と僕は一切関係ないから!」

「でもさ、火のないところで魚は焼けないっていうじゃない?」

 ナイトハルトとは反対側の隅に控えるミントが、余計な反論を挟んでくる。呼んでもいないのに、彼女もこの会合に参加していた。

「ミント嬢。君はあくまでもエリオットがその本のモデルだと言うのだな」

「うん」

「実際に学院で過ごすエリオットを見て、どう思う。この内容通りかね?」

 オーラフは《猛将列伝》の表紙を、とんとんと指で叩いた。

「そうだよ」

「ミント! 適当なことを言わないでよ!」

 迷いなく即答するミントを、エリオットは焦って止める。それが余計な怪しさに繋がってしまった。

「エリオット君はケインズさんのお店でイケナイ本をたくさん買うんだ。これって猛将でしょ?」

「買ってないから! 音楽関連の本だから!」

「うええん! エリオットがー!」

 溺愛する弟像を打ち砕かれ、号泣するフィオナ。渋面で腕を組むナイトハルト。

「いかんぞ、エリオット」

「少佐の立ち位置はなんなんですか……」

 オーラフが首をかしげた。

「ケインズ? この本の著者と同じ名前のようだが」

「だって《猛将列伝》はケインズさんが書いたんだもん。ね、エリオット君」

「僕に言われても困るんだけど……でもケインズさんが書いたのは本当だよ、父さん」

 彼こそが全ての元凶である。帝国各地に蔓延し始めている猛将ウイルス、その始祖と呼べる男だ。

「その者に問い質すのが一番確かか。それまでこの案件は保留としよう。これにて閉廷!」

「裁判だったんだ、これ……」

 様々な疑惑を残しながらも、ひとまずの収束を見せた猛将ジャッジ。

 しかしエリオットは知る由もなかった。この出来事がやがて、正規軍内部を二分する事態を招くことになるなどと。

 猛々しき呪いは、何一つとして解けていない。

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

《爆釣哀悼紀行③》

 

「はあ……今日も釣れないか」

 かじかんだ手をさすりながら、それでもケネスは釣竿を置こうとはしなかった。アナベルの落とした指輪を食べてしまったレインボウを釣り上げるために。

 過信するわけでもなく、自分の腕なら魚を釣るは容易い。しかし狙った個体ともなれば、そこに実力の介在する余地はほとんどなく、運のみが物を言う。その運というのも、並ならぬ強運でなければならない。

 求められるのは途方もない時間と、果てのない根気。

「待つことこそ釣りさ。待っていて、アナベルさん」

 やり遂げてみせる。必ず――

 

 そんな男気を見せるケネスを、離れた林の中から見つめるものがいた。

「ケネスっちゅーのはあいつで間違いあらへんか」

「白制服にハンチング帽、そして釣竿。入手情報とも一致する。決まりだろう」

 《西風の旅団》の二人、ゼノとレオニダスである。

 猟兵たちのまとう闘気は完全に臨戦態勢のそれだった。

 ゼノの鋭い細目がライフルのスコープに接着する。

「フィーにむらがる(はえ)が……!」

 この事態を生んだのはリィンだった。《パンタグリュエル》でフィーと仲の良い学生として、彼らにケネスの名を挙げたせいである。

 勘違いも甚だしくゼノたちはケネスを敵視し、最重要ターゲットとして認識していた。

「そういえばフィーは園芸部やったか。花が好きなんやろうな。あのケネスとかいうガキが、下心満載の花を手にフィーに言い寄る姿が目に浮かぶわ……!」

「咎には罰を。血の花を咲かせてやれ」

 怒りの火を瞳に灯し、レオニダスが言う。物騒この上ないご要望に、「白い制服を真っ赤に染め上げたる!」と、ゼノも物騒この上なく応じた。

 スコープの中に映るケネスの背に、照準の十字線が重なる。憎しみのトリガーが、ゆっくりと絞られていく。罪犯さずして罪人の烙印を押された釣り人の、あまりにも救いのない結末が今――

 不意にいくつかの枯れ葉が散り落ちる。

 歴戦の猟兵たちは、敏感にその異変を感じ取った。

「この気配。何者だ」

「そこや!」

 ライフルの銃口が向きを変え、離れた木の上を狙い撃つ。黒い影が弾け、別の木の枝へと飛び移った。

 黒いローブに身を包んだ男だった。

「よくない。実によくないね」

 目元まで覆う深いフードからのぞく口元には、鼻下でそろえられた灰色の髭がある。

 素性は知れないが、確かな実力者。そう判断した二人は各々の得物を装着した。先手必勝の攻撃を仕掛ける。

「ふんっ!!」

 レオニダスのマシンガントレットが、男の立つ木の幹を粉砕する。メキメキと巨木が悲鳴を上げて倒壊した。

 ローブをはためかせ、男は地に降り立つ。間髪入れずに接近するゼノ。

「もろた!」

 ブレードライフルの切り払いが、着地際の足元を狙った。

 つま先から着地した男は、そのまま重心を踵側に移動。風にたゆたう木の葉のような動きで、ゼノの激しい一閃を緩やかにかわしてみせた。

 そこからさらに一足飛びで距離を開け、二人との間合いを切る。

「誰や、お前は!」

「目的を話すがいい」

「しがない用務員とでも言っておこう。未来ある青い果実を守りに来た」

 フードの男は両手をゆらりと開いた。

快円の桃源郷(アモーレ・エテルーノ)

 謎の能力が発動され、紫色のフィールドが地表に拡がる。粘度を持ってまとわりつく不快な力場が、ゼノとレオニダスの自由を奪った。

「ぬっ、動けん」

「なにしたんや……!」

「ふふ……」

 男はぬらと両の手を組み合わせる。突出した二本の人差し指が一つとなり、その先端に毒々しい負のオーラが集約されていった。

「存分に味わってくれたまえ。真・鬼翔天穴を」

 身を低く構えた男は、地面すれすれを弾丸のごとく駆ける。指先からほとばしる悶気が、ゼノの一点を狙い迫った。

「ぬう……うおらああ!」

 気合いのウォークライで紫の拘束を振り払う。ゼノはライフル弾を乱れ撃ち、男の接近を阻んだ。

 足を止めさせられた男は、「ほう」とあごをしゃくる。

「自力で破るとは恐れ入る。そのたぎるような気迫、実にいいね」

「手加減はいらんようやな」

 声に殺気を滲ませ、ゼノは身の丈大のブレードライフルを肩に担いだ。

 レオニダスも力任せに術を破り、破壊獣の二つ名に違わぬ威圧を全身から放っている。

「これは穏便には済まないかな。お互いに、だが」

「素性は知らんが、自分を野放しにはできん。この際とことんやりあったろうやないか」

「おやおや、君たちが引くなら私も引くつもりだよ」

「は、言うやんか」

「待て」

 レオニダスがゼノを止めた。

「ターゲットを見ろ。場所を変えたぞ」

「ちっ、狙撃ポイントがずれてもうたか」

 二人が視線をケネスに移したのは一秒に満たない時間だったが、その一瞬の間に男の姿は消えていた。

 どこからか不気味な声だけが響く。

(彼はこれから熟していく。今はまだ摘むべき果実ではない。時が満ちるまで、私は何者の妨害からも彼を守ろう)

 その時が来たらどうするのか。男はそれ以上を語らなかった。

 紫色の気配が薄れて消えていく。

「どうする?」

「……いったん出直す。また横槍を入れられたら敵わんからな」

「やむを得んか。だが必ず……」

「ああ」

 ぎりと奥歯を軋り、二人分の憎悪が去りゆくケネスに向けられた。

「必ず仕留めたる。必ずや!」

 

 ●

 

 自分の命をめぐる攻防が繰り広げられているなどと思いもしないケネスは、目当てのレインボウを釣る為にポイントを変えようとしていた。

 せせらぐ小川、水面に反射する陽光、ささやく風の音。

 拡がる戦禍とも、わずらわしい世俗とも無縁な、穏やかな空間がそこにはある。

 ケネスは澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

「平和だなあ」

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

《芸術乱舞⑤》

 

『だめーじノ修復ガ完了シタ。イツデモ出撃可能ダ』

 ヴァリマールが報告し、クララが反応しない。いつものことである。

『主任。クララ主任』

 そこで終わらず、ヴァリマールが彼女に呼びかけるのもいつものことだった。彫刻を彫る手を止めて、「いったい何度言えば貴様は理解する?」と、クララはうっとうしそうに三白眼を向けた。

「報告は必要なものに限れ。必要な報告か否かは自分で判断しろ。そう言ったな」

『承知シテイル。故ニ報告シタ』

「判断の結果がそれか。見てくれは物々しかろうが、所詮は人形だな」

『私ハ人形デハナク騎神――』

「黙れ」

 冷えた声が会話を切る。また石を打つ音だけが響いた。

 少しの間のあと、ヴァリマールが言う。

『主任ハ……ドウシテ私ノ整備ヲ担当シヨウト思ッタノダ』

 それは純粋な疑問だった。考えた末でも答えが出せず、そして問いに転じたのだろう。

 ぴくりと反応したクララは、ようやく目だけではなく顔も上げた。

「お前に興味があった」

 回復し、傷の消えた灰色の装甲を見上げる。

「占拠された学院を出る時、機甲兵というものを見た。おそらくは現代技術の粋だろう。しかし鋼鉄の巨人を目の当たりにして、私はそれを未完成だと感じた」

『ナゼダ?』

「わからん。だから知りたい。自身がそう思った理由を。私がお前の整備士を希望したのは、お前にその答えがありそうな気がしていたからだ」

『……?』

「どちらも人を模した形をしているが、機甲兵になくて騎神にはあるものがある。だが、それがあったとして果たして完全と言えるのか。お前を創造した存在は、どうしてそれを宿らせたのか。鍵はそこだ」

『“ソレ”トハ――……』

「お前に理解できるとは思えん」

『意志ノコトカ?』

 クララはわずかに意外そうな顔をした。

「多少は考えることをするのか。その通りだ。しかしお前は意志――すなわち心を使おうとしない。だから機甲兵共と同じ機械人形だと言ったのだ。そしてそうであれば、私がお前に興味を持つ必要はない。整備士としてのポジションもいらん」

『私ハ心ヲ使ッテイナイノカ? コノヨウナ会話ガ出来ルノモ、心ト呼ベルモノヲ使ッテイルカラデハナイノカ?』

「有効に使っていない。お前に意志がある意味がない」

 しばしヴァリマールは黙った後、また言う。

『私ハ“敵ノ襲来”ト“霊力残量”ヲ告ゲルダケダト、以前主任ハ言ッタ。私ニハ他ニモ出来ルコトガアルノダナ? コノ“意志”を使ッテ』

「私が知ることか。それこそお前が考えろ。勝手にな」

 クララは中断していた彫刻作りを再開した。

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

《女王への階段⑥》

 

 カレイジャス三階の談話スペース。そこに神はいた。

「高みに座して初めて見える。人の世のなんと儚きことか。無為にうつろいゆく様は、風になびく前髪のごとし」

 前髪の神こと前神(まえがみ)ムンクである。

 悟ったようなそうでないような、とりあえずそれっぽいことをブツブツとつぶやき続けている。

「なにあれ。うっとうしいわね」

 通りすがり、そんな彼の様子を見留めたのはポーラだった。ちなみに二人ともⅤ組なので、学院では同じクラスである。

 ラウラのうっかり戦車砲によって、ムンクの心は宝物のラジオと一緒に砕け散った。それが引き金となり、斜め上方向に覚醒してしまったのだ。

 彼がこうなった原因の一端は、ポーラにもなくはない。とはいえ、それを気にするような性格でもない。

「いつまでそこにいるの。ていうか艦内業務の手伝いくらいしてきなさいよ」

 近くに寄って声をかける。ムンクは哀れむような口調で言った。

「なぜ私がそのようなことをせねばならない? お前たちに似合いの役割であろうが」

「はあ?」

 なんだこいつは偉そうに。

 心底不憫そうな目を向けてくるムンクに、ポーラはさっそく苛立った。

「ちょうど馬が二頭いるし、片足ずつ紐で縛って逆方向に引っ張ってみようかしら」

「おお、なんと野蛮な発想か。愚かと言う他ない」

「その辛気臭い前髪切ってあげるわ」

 無造作に手を伸ばすと、ムンクは身を引いて慌てた。

「やめい! ま、まさかお前は……? そうか、理解したぞ」

「なにがよ?」

 ポーラのポニーテールを見るムンクの表情が、たちまちに険しくなっていく。

「貴様、後神の化身だな!」

「うしろがみ?」

「かつて我と世界を二分した髪の神だ。問うまでもなく知っていよう。白々しい!」

「髪の神ってややこしい。二分してるのは単なる髪型の話じゃないの」

「おのれ、邪悪な一族が。トリートメントなど許さんぞ!」

 厄介な妄想極まれり。ムンクは違う次元の世界で生きているようだった。

「私がその後ろ神だったとして、あんたはどうしたいのよ」

「知れたこと。この世に神は二つといらぬ。どちらかが滅びるまで戦うのみ。お互いの眷属をもってしてな!」

「空の女(エイドス)神全否定ね。眷属ってことはなに? 私はポニーテール組を集めればいいのかしら。ざっと思い浮かべるだけでも相当数いるけど」

 ムンクは嘲笑を浮かべた。

「戦いは量より質だということをを教えてやろう」

「ならこっちは数の暴力を教えてあげる」

 相手にしなくてもいいのだが、ポーラもポーラでムンクを屈服させる気満々である。

 太古より続いているらしい《前神》と《後神》の因縁を、その身に引き受けた二人がそれっぽい雰囲気で対峙する。

 きわめて面倒な神たちの、どーでもいい争いが勃発した。

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

《グランローゼのバラ物語 chu!④》

 

 皿の上の料理が消える。テーブルに置かれた直後に消える。時々皿もろとも消える。

 どれほど食事を運んでも、マルガリータの手は止まらなかった。

「ムゲフォオオ」

 十数皿目をぺろりと平らげたところで、食器が振動するほどの大ゲップ。

 大型魔獣の咆哮を連想させるそれが鼓膜を穿ち、店主はすくみ上がって膝を折った。

 黒竜関に併設された休憩所。マルガリータは依然としてこの店に滞在していた。金銭はそれなりに持ち合わせがあるから、文句を言う人間は一人もいない。

 ひとまず食事を終え、紅茶で一服。

 料理の味はそこまで悪くない。実家のコックの腕には、さすがに敵うまいが。

「うふ、やっぱりいいわあ」

 卓上のグラスには一輪のバラが活けられている。店主にオーダーしてルーレ市まで買い付けに行かせたものだ。

 しぶる店主を前にして、マルガリータが相場の十倍の金額を押し付けたからか、先払いの硬貨を指でたやすく折り曲げてやったからか、これにも文句は出なかった。

「グランローズじゃないのが残念だけどお。まあ贅沢は言わないわあ」

 彼女がここに居座る理由はいたってシンプル。トリスタに戻れないから。

 愛しのヴィンセントに会う為、その気になれば検門など容易に突破できるのだが、問題はそこではない。単に道が分からないのである。

 これでも箱入りのお嬢様。実家にいた頃の移動は、導力車か四頭引きの馬車。行先など従者に告げるだけで良かった。

 それが一度町の外に出てみれば、方角はわからず地図の読み方もわからない。さまよった挙句、またルナリア自然公園なんかに迷い込むのは御免だった。

 せめて交通規制が解かれ、鉄道が動きだせば確実にトリスタ方面へは向かえる。

 そう考え、マルガリータはこの休憩所を拠点としたのだ。店主、従業員たちにとっては厄介以外の何者でもなかったが。

「こ、困ります。お客様」

 レジカウンター越しの領邦軍の兵士二人を相手にして、会計係のウェイターがなにやら焦っていた。

「お代金は表示通りの額で払って頂けないと……」

「なんだと、貴様。ここで商売が出来るのは誰のおかげだと思っている。黒竜関を守る我らが陣を敷いていてこそだ」

「それはもちろん承知しております。しかし他のお客様の手前、特別扱いというのはできかねまして」

「支払いを踏み倒そうなどとは言ってないだろう。端数分を融通しろと言っているのだ」

「ですからそれも――」

 要は多少なり負けろということらしい。

 ここを守護するログナー家の貴族兵は、他とは違い武闘派の気風がある。優美さと格式を主とする領邦軍にあっては、少々異質とも言える。気性の荒い者もいるのだろう。

 だとしても武に通じれば礼節は弁えているはずだが、どうも男たちは酒も飲んでいるようで、しかも年若い。勢い転じて、無茶な要望を押し付けているようだ。

 店主が仲裁に入るも、収まりはつきそうもない。

 しかしマルガリータの興味がそこに向くことはなかった。想い人と重ね合わせながら、うっとりと薔薇を愛でている。

「ええい、話にならん。営業取り止めにしてやろうか!」

「そ、そんな。営業認可証は正規軍から発行されておりますので、勝手にそのような……」

「今、正規軍と言ったか! 奴らはもはや正規ではなく、ただの烏合の衆に過ぎん! 貴様、さては革新派のスパイだなあ? ヒック」

 酔ってろれつも回っていない兵士の一人が店主に掴みかかろうとする。千鳥足がよろけ、男はマルガリータの机にぶつかった。

 バラの花が倒れる。

「まったくどいつもこいつも邪魔ゴブハアッ!?」

 花瓶が床に落ちるよりも、男の上半身が天井に埋まる方が早かった。木片をぱらつかせながら、両の足が力なく垂れる。

 マルガリータは残ったもう一人にジロリと視線を向けた。

「アンタァ……」

「ひっ!」

 豪腕アッパーがうなった拳からシュウゥと蒸気が立ち昇っている。兵士は気圧されながらも、腰のサーベルに手を伸ばした。

「お、おのれ! 一体誰に手を出したか分かって――」

 バラを汚した罪は死よりも重い。

 貸す耳すらなく、グランローゼの鉄拳が兵士のどてっ腹に炸裂する。見事な大の字の人型を店に残し、壁面を突き破った男は遥か彼方へと消えた。

「おお、すごい」

「あ、あれは伝説のコークスクリュー大根パンチ……」

「やめなさいって、あんたもぶっ飛ばされるわよ」

 従業員からもれる感嘆と畏怖の声の中、マルガリータは落ちたバラを拾い上げた。トゲさえも慈しむように、優しげな手付きで埃を払う。

「またお腹減っちゃったわあ。ちょっとあなた達、早く追加の注文受けて下さらなあい?」

『い、イエス・マム!』

 軍隊並みの機敏さで、厨房で大量生産されていく料理。

 エネルギーはとことん取り入れなければならない。いつか彼と再会した時、情熱の抱擁と灼熱の接吻を交わさなければならないのだから。

「はあん、ヴィンセント様……想像しただけでわたしぃ、ムフォッ、ムフォオオーン!!」

 溢れる想いに突き動かされるようにして、マルガリータはステーキの乗っていた鉄板皿に「んー……まっ!」と予行演習キッスをぶちかます。

 ミシッミシッと鉄板が悲鳴を上げ、肉厚の二枚貝が呪いの残痕を刻んだ。

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

《世直し任侠譚⑤》

 

「君の意気込みを否定するわけじゃない。でも僕たちはもう18歳。こういうのは中々どうして抵抗があるっていうかね? それに見ただろ、僕らが登場した時の皆さんのフリーズした顔を。やっぱり地区の方々のご理解とご協力を頂いてからの活動の方がいいっていうかさ」

「つまり何が言いたいんだよ」

「恥ずかしい」

 クドクドした長広舌のあと、ハイベルは訴えをまとめた一言を吐いた。

「ったく、お前ってやつは」

 呆れ顔のクレインはベンチに深くもたれて、雑踏の広場を見渡した。となりに座るハイベルは疲れた様子で肩を落としている。

「ジャスティスツーの活動はこれからだってのに」

「勘弁してくれ……」

 それは元々ハイベルの提案である。

 ケルディック地方で色々やらかした結果、二人は手配されてしまった。

 困っている人を見ると放っておけない性分のクレインだが、その度に顔割れ上等で飛び出し続けていては、いずれお縄につくのは時間の問題だ。その上バリアハートの領邦軍の警備は、ケルディックのそれとは段違いに厳しい。

 だとしてもクレインは自重しない。時と場所など度外視して、理不尽を正すべく突っ込んでいってしまう。

 だからせめて覆面で顔を隠そうと、ハイベルは言ったのだ。

「お前の言う通りにしてるのに何が悪いんだよ」

「いや、それだよ!」

 クレインが手に持ち、ひらひら振る布きれ。

 いわゆるこれが変装用覆面なのだが、変なロゴを入れたりマークをペイントしたりで、とにかくダサい。原色カラーで染められたマフラーもセットで、なおダサい。

「格好いいだろ? 何が不満なんだ」

「感性の違いだよ……強いて言えば名前もイヤだけど」

 本名では呼び合えないので互いの特徴を捉えたコードネームを決めたのだが、パワード(クレイン)にマジカル(ハイベル)と、これまた超ダサい。もちろんネーミングはクレインのセンスだ。

 登場ポーズも練習済みで、もうすぐそこに専用台詞も追加される予定である。

「でもよ。実際けっこう細かなトラブル起きてるだろ。しかもそういうの領邦軍の奴ら、あんまり相手にしないし。やっぱ俺らみたいな役回りが必要だ」

「事件が多いのは否定しない。翡翠の公都なんて言うから軽犯罪とは無縁の場所かと思ってたけど、世間がざわつくと人心も荒むのかな」

「地区ごとの自警団でもいりゃ話も違うんだけどな。領邦軍が幅を利かしてる今のご時世じゃあ、民間組織は認められねえだろうし」

「結論、ジャスティスツーは必要ってこと?」

「おう」

 うなだれるハイベル。恥ずかしい恰好は継続決定だ。

「きゃあ! 誰かー!」

 その時、悲鳴が響き渡る。

 地べたに尻もちを付く女性と、その場から逃げ去る男の姿が見えた。男は女性のものらしいカバンを脇に抱えている。

「引ったくりかよ、なめた真似しやがるぜ!」

「待つんだ、クレイン。まずは近くに領邦軍がいないかを確認して――って、変装はや!」

 高速で覆面を装着したクレインは、すでに赤マフラーをなびかせて男を追っていた。

「待てって言ってるだろ!」

「待ってたら男が逃げるだろ! 世直し戦隊出動だ!」

 走りながらハイベルも覆面を頭にかぶり、首元に黄色いマフラーを巻き付ける。

「戦隊っていいながら二人しかいないのも恥ずかしいんだぞ!」

「マフラーあと四つあるじゃん。最終的にはジャスティスシックスになれるって」

「ふ、増やすつもりなのか、メンバーを……!?」

 戦慄するハイベルを置き去りにして、気合十分のパワードCはさらに加速した。

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

《魔獣珍道中⑥》

 

 人が立ち入ることのないヴェスティア大森林の奥に、甲高い魔獣の鳴き声が幾重にもこだましていた。

 空を埋める程の、百匹近い飛び猫である。

「ミギャー!」

 その中の一匹が群れを飛び出し、クロの腹部に蹴りを見舞う。そいつは飛び猫軍勢の隊長的存在だった。

「シャアッ!?」

 人間に置き換えるなら『ぐはあっ!』みたいな叫びを上げて、クロは地面に墜落した。

 敵飛び猫たちも後を追って次々と着地する。

「ミッギッギィ(もうばてたのかい黒毛ボーイ。そんなんで老師から奥義を伝授してもらおうなんざ、甘すぎる考えだよなあ)」

「シ、シャア……(うるさい。勝負はまだ終わっちゃいない)」

「ミッギュー(ヘイ、みんな。黒毛ボーイがなんか言ってるぜ。まだ終わってないってさ。滑稽過ぎて、今日の爪とぎを忘れちまいそうだ)」

 トビネコンジョークなのか、周囲の部下猫たちもはやし立てる。

「ムッキュウ(Oh! そいつは傑作だ!)」

「ニャオーン(ママのミルクでも飲んで、なぐさめてもらわなきゃあな!?)」

「ウニャア(ついでに羽の毛づくろいもしてもらっちゃいなよ、ユー!)」

 バサッバサッと小さな翼を羽ばたかせ、老年の飛び猫がクロの前に降り立った。一同、頭を低くして敬服の姿勢を取る。

 彼は通称、飛び猫老師。この縄張りの長である。ありていに言って一番偉い。

「ジャッシャッシャ(威勢がよかったのは最初だけじゃったの、若造)」

「シャッ……(クソじじい……)」

「ジャキュウゥ(反抗的な目じゃなあ。ん~?)」

 老師はクロを蹴り起こし、あらわになった腹をぶにゅっと踏みつける。

「キュッキュ。キューウ!(ほう、こりゃあいい足置き場じゃわい。あ、愉快痛快ぃ!)」

「シャ、シャー!(やめろ……!)」

 一族に伝わる奥義を会得する為、クロは飛び猫老師の課した試練――“飛び猫百匹組手”に挑むことになった。しかし、あまりにも多勢に無勢な状況。突破は困難を極めていた。

 すり傷だらけの体を無理やり動かし、クロはどうにかして起きようとする。

 あざ笑うかのように老師が一鳴き。すると下っ端飛び猫たちがクロに群がり、その短い手足を押さえ込んだ。「シャシャア!?(なにしやがる!?)」

「ジャッジャジャーン(気に入らんのお、若さ故のプニプニな肉球が。実に生意気じゃわい)」

 老師は弾力あるクロの肉球を睥睨した。

「ジャウジャウ(見せしめじゃ者ども。そやつの肉球の間に砂を詰め込んで、ガッサガサにしてやれい!)」

 老師の指示で砂利が運ばれてくる。プライドと尊厳を奪う卑劣な拷問だ。

「ジャア……(くくく、肉球を辱められるなど、さぞやショックじゃろうなあ)」

「ショッキュー!(やめろ! ぶっとばすぞお!)」

 クロはなんとか抜け出そうとじたばた抵抗する。無駄だった。ざらつく砂がサラサラと肉球に注がれていく。このまま無慈悲にゴシゴシとこすり付けられるのだ。

「ショケーイ!(処刑じゃー!)」

「ニャニャーイ!(やめなさーい!)」

 間一髪で飛び込んできた白い飛び猫が、老師の頭にベシッと蹴りを入れた。

 彼女はシロ。飛び猫老師の孫である。

 ズシャーと地面を転がる老師を見て、部下猫たちは焦る。

「ウギャッ(お、お嬢。老師になんてことを……)」

「クギュウ(ここはどうかお下がりくだせえ。我々にも面子ってもんがありまさあ!)」

「キシー、キシー(すぐにその汚らしい黒毛に引導を渡しますけえの!)」

「ニャッキュー!(やめなさいって言ってんのよ!)」

 口々に悪罵を吐く飛び猫たちの横っ面を、シロは片っ端から叩いていく。老師以上に頭があがらない存在らしく、誰も彼も成されるがままシロのビンタを食らう。

「ニャニャニャー!(おじいちゃん、奥義だかなんだか知らないけど、こんな面倒なことせずにクロに教えてあげてよ)」

「ジャージャ……(し、しかしじゃな。こやつは試練をクリアしておらん)」

「ニャ!(百匹相手に勝てるわけないでしょ! だいたい一対一ならどう見てもクロの方が強いし)」

「ジャッキュジャッキュ(そう言うでないシロや。これは一族のしきたりでじゃな……)」

「フニャアン(あっそ。だったらおじいちゃんなんてもう知らない。私、クロといっしょにここ出ていくから)」

 ぷいっとシロが顔をそむけると、老師はもちろん他の飛び猫たちもひどく狼狽した。

 ざわつく周りに構わずクロを起こすと、シロはそのとなりにぴったりと寄り添った。喉から甘い鳴き声を出す。

「ウニャ~アン(ね、いいでしょクロ? 私を連れてって)」

「シャー?(いや俺はいいけど……いいのか?)」

 猛反対の声があちらこちらから上がる。

「ギョギャー!(いいわけねえだろ! その羽むしりとったろかい!)」

「ジャンキュンジャ!(調子こくなや、黒いの! ヒゲ抜いたらあ!)」

「ニョウ! ニョウ!(ああんコラ、おうコラ!)」

「フシャー!(黙りなさい、若衆!!)」

 クロへの猫なで声から一転、鋭い一喝が全員を沈黙させた。

「ジャジャア(待つのじゃ! 奥義は、奥義はどうする。そやつが困るぞ!)」

「ニャアウニャー(私、奥義のこと知ってるし。いざとなったら使わせてくれるんだよね?)」

「ジャーゴゥ……(それでいいのか、シロよ。人間の為に力を使うという者に、本気で付いていくのか? 我々と人が分かり合うことはないのじゃぞ)」

「……ニャ(子供の頃、私が人間に助けられたことはおじいちゃんも知ってるでしょ。クロが信じる人間に、私も会ってみたくなったの)」

 シロの話を聞いて、どこか懐かしむように老師は空を振り仰いだ。

「ジャジャンキュウ、ジャッキュ(“その者、漆黒の煌めきを双眼に宿し、交わらぬ種を繋ぐ架け橋とならん。失われし楽園の復活は彼のものと共に”。太古より口伝されてきた予言じゃ。カビの生えた言い伝えじゃが、あるいは――)」

 そして、静かに二匹に背を向ける。

「ジャージャ(行くがいい。奥義のこと、手配はしておこう)」

 手配の意味はクロにはわからなかったが、「ニャウ(ありがとう、おじいちゃん)」とシロは理解しているようだった。

「ニャウニャウ(すぐ戻ってくるから。大丈夫よ)」

 それは全員に言う。消沈した鳴き声が、若衆たちの喉からもれる。

「ゴフッ(俺らの清純派アイドルがよお……)」

「ゴフッ(黒いの、お嬢を泣かしたりしたら許さねえぞ)」

「ゴフッ(おう、おめえら。お嬢の旅立ちだ。しけたツラ浮かべてんな)」

 大勢の飛び猫ファミリーに見送られ、クロとシロは空に舞う。

「シャー(これで良かったのか?)」

「ニャー(私、あなたのとなりがいいの)」

「シャア?(はあ……?)」

 だんだんと遠ざかっていく飛び猫の森。次に目指すは仲間との合流である。

 果たしてルーダは無事でいるのだろうか。

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

《ロードオブハッカー③》

 

「いー……」

 と溜めて、

「らっしゃいまっせえっ!!」

 気合いを入れて客を出迎える。来店したばかりの女性客はステファンの勢いに困惑気味だ。

「お求めの商品はなんですか! 今日はセラスの薬がお買い得ですよ!」

「い、いえ雑貨を見ようと思って」

「今なら特別15パーセントオフ! おまけにアセラスの薬もつけましょう! さあさあさあ!」

「やっぱりいいですー!」

 勢いよく回れ右。扉にぶつかりそうになりながら女性客は外へと逃げ出してしまった。

「これだけ勧めてるのに……遠慮がちな女性なのか?」

「なにやってんだい!」

 後ろからスパーンと頭をはたかれる。丸めた雑誌を手に、店主のボロニアが嘆息を吐いた。

「あんな剣幕で客に詰め寄る店員がいるもんか。うちは八百屋じゃないんだよ。勝手に割引までしようとしてさ。だいたいセラスの薬を買ったおまけにアセラスの薬を付けてどうすんだい!? 百歩譲っても逆だよ!」

 ステファンは眼鏡を押し上げる。かの後輩と同じように。

「ふう、ボロニアさん。失礼ですが、損して得取れという言葉を知らないようですね」

「それは損以上の得を見込める場合に使うんだ。あんたのは損に損を重ねるって言うんだよ」

「お客様の笑顔が一番じゃないんですか! この店を始めた時の情熱はどこに行ってしまったんです!?」

「私の何を知ってんだい! この店を始めた時なんざ、あんたは生まれてすらいないよ!」

 スッパーンと二発目の雑誌棒が軽快な音を響かせる。

「リンデ、やっぱりあんたが売り子やんな」

「あはは、わかりました」

 ボロニアが言うと、陳列棚の奥からリンデが苦笑混じりの顔を見せた。双子姉妹、ヴィヴィの姉である。

 トリスタから逃げ出す折、彼女はヴィヴィと離れ離れになってしまい、一人このルーレにたどり着いた。来たはいいが当てなどなく、路頭に迷っていたところをボロニアに声をかけられ、住み込みで手伝いをするに至っている。

 先日、路地の片隅でボロ雑巾のようになって横たわるステファンを見つけたのも彼女だ。リンデの口利きもあって、店手伝いを条件に彼も住み込みを許されたのだった。

 《ボロニア商会》は大小様々な店が軒を連ねるルーレにあっても老舗で、店主のボロニアばあさんと言えば、それなりに名も通り、顔の広い人物だったりする。

 カラカラと鈴を鳴らして店のドアが開いた。

「こんにちは」

「しゃいませえっ!!」

「それをやめなって言ってんだ!」

 やってきた客に特攻する勢いのステファンに、すかさず三発目の雑誌棒が振り下ろされる。

 速やかに撃墜された彼を見下ろし、その客は苦笑した。

「あいかわらずみたいですね、ステファン先輩」

「いつつ……ああ、ヒューゴ君だったか」

「どうも」

 トールズ士官学院、一年Ⅲ組ヒューゴ・クライストである。彼もまた学院を抜け出し、ルーレにやってきていた一人だ。

 《クライスト商会》の跡取りである彼は、その立場を活かして商人たちとの連携を図り、物資などの流通経路を確保、構築しているという。

 ヒューゴと出会ったのもつい二日前、件の連携を取る一人としてボロニアを訪ねてきた時だ。今日もそのことで話をしに来たらしい。

「そういえば先輩。ここに来る途中で見たんですが、工科大でまたあれやってましたよ」

「……なんだって」

 ピクリと反応し、ゆらと顔を上げる。

「それは本当かい、ヒューゴ君」

「ええ、この目で見ましたから。盛況みたいで人だかりができていました」

 眼鏡の奥の瞳がらんらんと燃え盛る。

「ボロニアさん、ちょっと行ってきます!」

「あ、お待ち!」

 ボロニアの制止も聞こえていない様子で店から飛び出すステファン。

「ああもう。リンデ、あのバカを連れ戻しておくれ。午後からはタイムセールで忙しくなるんだからさ」

「分かりました。行こ、ヒューゴ君」

「な、なんで俺まで」

 リンデはヒューゴの腕を引っ張ってステファンの後を追った。

 

 ●

 

「たーのもーう!」

「エントランスに入るまで断りは要りませんよ」

「は、恥ずかしいよう……」

 ルーレ工科大学の正面ゲートを威勢よく抜けるステファンの後ろに、成り行きで同行することになったヒューゴとリンデが続く。

 人だかりはキャンパス内の広場にできていた。以前と同じ場所に、同じ機材が設置されている。

 自立思考プログラムを搭載したチェスゲーム。

 後ろの二人を置いて、ステファンは人垣をかき分けて前へと出た。

 ちょうど何人目かの挑戦者が敗北したところだった。

「さあさあ、他にはいないかい?」

「AIに勝てれば、なんでも望みを叶えるよ!」

 揚々とした声で司会をしている男性は、前回同様ハーヴェスとグレゴである。

 ステファンは手を挙げた。

「あれ? 君、確か前も来たよね」

「ああ本当だ。ええと……」

「ステファンです。一勝負お願いします」

 ハーヴェスたちは顔を見合わせて、失笑を漏らした。

「前に負けた人が今日勝てるってことはないと思うよ。対人のチェスなら運の要素も多少あるだろうけど、AIには関係ないからさ」

「それとも修行でもしてきたのかい? この数日間でそこまで腕が上がるとは思えないけど」

「いえ、チェスの実力は前と変わりません」

 呆れ顔の二人にかまうことなく、ステファンは仮設ステージに上がった。

 チェス盤の様子はギャラリーにも見えるよう、プロジェクターでスクリーンに投影されている。ステファン側の駒は通常のものだが、AI側はマス目にポーンやナイトなどの紋様を浮き立たせた特殊ライトを当てることで、駒の代わりとするのだ。

「僕が勝ったら、シュミット博士に会わせて下さい」

「君もしつこいなあ。だが約束は守ろう。勝ったらの話だけどね」

「もちろん、承知しています」

 G・シュミットから直接最新鋭の導力通信技術を学ぶこと。それがステファンの目的だ。

 双方の合意を確認後、ゲームは開始された。

 序盤、中盤と危なげなくステファンは駒を進めていく。前回は終盤に来て、じりじり追い詰められて、なんの大番狂わせもなく封殺された。

 そして今回。終盤に差し掛かろうとする頃合いだが、ほとんど前と同じ展開だった。

 互いの駒は削れているが、ナイトとクイーンを落とされたステファンが劣勢である。

 スクリーンの中の攻防を見守るリンデは、不安そうに言った。

「どうしよう……ステファン先輩、また負けちゃいそう」

「んー、大丈夫なんじゃないかな」

 対してヒューゴは楽観した見解を返す。リンデは小首をかしげた。

「なんでそう思うの?」

「それは――」

 観客からどよめきが起こった。

 リンデがスクリーンに視線を戻すと、ステファンが戦況を逆転させていた。残された駒で張った布陣がAIの攻手を防ぎ、活路を開く。

 乱れた敵陣にすかさず切り込み、十数手先を読んで配置していたとしか思えないビショップが、狙い澄ましたようなタイミングで敵のクイーンを刺した。

 そこが崩しの起点。AIは合理的な差し手で持ち直そうとするが、それこそステファンの読みの内。人間にならあって然りの、非効率をあえて戦略の一つとするという、裏の裏まで読むような探り合いがAIには発生しない。

 ならば、あとは安心して先手だけを押さえていける。

「ス、ステファン先輩すごい。ヒューゴ君わかってたの?」

「だってさ、前回の勝負でもそれなりにいい所までいったんだろ。何日もまともに食べず、寝ず、ぼろぼろの状態だったにも関わらず」

「あ……!」

 今日は違う。しっかり食べ、がっつり寝て、万全の状態だ。

 まさに今がステファンの本来の実力。元々持っていたのだ、AIを倒せる程度の力は。

「チェックメイト」

 涼やかにステファンが告げ、勝負が決まった。 

「お、おいおい」

「やばい、やばいぞこれ」

 まさかの結末にハーヴェスたちは露骨に焦っている。

 その時、学舎の中から白衣の男性が近付いてきた。しわの入った顔、白髪混じりの髪。しかし高齢とくくるには、背すじがピンと伸び、歩き方も覇気があって若々しい。

 その男性に気付いた学生たちは、そそくさと足早に離れていく。まるで関わり合いになりたくないとでも言わんばかりに。

 あっという間に人垣は消え、ステファンを含む残った数名の前まで男性はやってきた。

「なんだ、この玩具は?」

 ぞんざいな口調で吐き捨てると、彼はハーヴェスたちをじろりと見た。

「い、いえ。人口知能のプロトタイプと言いますか、その実験をやっていまして」

「一般学生に協力をしてもらっていた次第です」

 あからさまに声の上ずる二人に、男は鼻を鳴らす。

「くだらん。とっとと片付けて第三実験室まで来い。人手がいる」

 最低限の用件だけ告げると、男は踵を返した。理由を聞き返すでもなく、二人は大人しく従っている。

「ま、待って下さい!」

 とっさにステファンは男を引き留めた。

 その顔を知っていたからだ。幾度となく雑誌で見た、不愛想なその顔。

「あなたがシュミット博士ですよね!? 僕はステファンと言います」

 シュミットは振り返るなり、こう言った。

「だれだ、お前は」

「いや、だからステファンと言います」

 律儀に名を述べ直す。

 グレゴが横からシュミットに説明した。AIとのチェスゲームに勝利し、博士に会わせる約束をしていたことを。

 シュミットは訝しげな顔をした。

「お遊び程度だろうが、人工知能のひな型を上回ったと?」

 いい感触。ここぞとばかりにステファンは前に出る。

「はい! それでですね、ぜひシュミット博士から導力学のノウハウを――」

「なるほど」

「あだだだ!?」

 まるで話を聞かず、シュミットはステファンの頭をぐいっとつかんだ。

「機械による物事の判断か。人間の脳も人工知能も所詮は単なる信号の連なり。違いは経験によって拡がる選択肢があること、そして分岐によって発生するシチュエーションに対応できるか否かといったところだな」

 しげしげとステファンの顔を見ていたシュミットだったが、不意にこう言った。

「ふむ、興味が湧いた」

「そ、それじゃ!」

「研究室に来い。とりあえず脳に電気を流すところから始める。電極はどこにあったか……あとデータ採取用の接続モニターもいるな」

「……は? え、脳? 電気?」

 言葉の意味が理解できなかった。

 有無を言わさず連行されるステファンに、後ろからグレゴが耳打ちする。

「シュミット博士ってこんな人だからさ。思いついた実験はその場でやっちゃうし、助手もしょっちゅう入れ替わって慢性的な人手不足なんだよね。だからモルモ……協力者が必要なんだ」

「今モルモットって言おうとした! 絶対言おうとした!」

「人聞きが悪いよ。実験用のマウスだってば」

「さらに露骨になった! ち、違う! 僕は導力学を学びたくて、ここまで来たんです!」

「まあ、不憫だとは思うよ」

「そういう言葉が欲しいんじゃない!」

 ズルズルと学舎内に引きずられていく最中、ステファンは必死に救いの手を伸ばした。

「ヒューゴ君にリンデ君! 僕を助けてくれ! なんだか分からないが、とてつもなく嫌な予感がする!」

 懇願するが、二人とも立ち尽くしたまま動かない。展開の早さについていけないようだった。

 それでも何か言わねばと思ったのか、リンデは大きな声で叫んだ。

「午後からのセールは私とボロニアさんで乗り切るので、先輩がいなくても大丈夫ですからー!」

「そういう言葉が欲しいんじゃない!」

 研究棟に足が入る。引き返せない一線を越えてしまった。

 趣のある黒塗り扉が両側から閉まり、後輩たちの姿が見えなくなる。シュミットの歩調はますます早まり、絶望だけがステファンを支配した。

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 ――続く――

 

 

 

 

 

 




お付き合い頂きありがとうございます。今回はサイドストーリーのみの構成となっています。

リア獣というのでしょうか、魔獣たちの物語も勝手に進んでいますね。ちなみに今話から魔獣たちの会話は翻訳式に変えました。
あくまでも彼らの台詞じゃなく『人間言葉に変換したらこうなる』というこだわりで、今までは地文に入れ込む形にしていたのですが、もう台詞でいいよ、その方が書きやすいよと自分の中の何かがささやいた結果、一年守ったこだわりは一秒でダストシュートの中に消えました。

飛び猫ファミリーですが、アメリカンな感じでヘイヘイ言ってるのが年若いヤンチャ盛りで、~じゃけえの!とか言ってる仁義系が古参の幹部という、超どうでもいい設定があったりします。

次回にある一話を挟んだ後、ストーリーはルーレ編へと入っていきます。
引き続きお楽しみ頂ければ幸いです。


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