虹の軌跡Ⅱ Prism of 《ARCUS》   作:テッチー

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第5話 動き出す者たち(後編)

 学院を飛び出した時、何も持っていなかった。

 唯一あるのは首からかけた導力カメラのみ。

 いつものニット帽を心なしか深くかぶり、レックスは落ち込んだ顔を地面に向けていた。

 彼はすでにトリスタの外にいる。

 貴族連合が攻め込んできた時、屋上から事態の一部始終の写真を撮っていた。潮時をわきまえることができたのはそのおかげだ。もっともその引き際を指示したのは、一緒に写真を撮っていた写真部部長のフィデリオではあるのだが。

 選択肢は二つあった。

 学院に残るか、今の内に学院の外に出るか。さして悩みもせず、レックスは抜け出すことを決めた。

 性格なのだろうが、あまり彼はこの状況を深刻に捉えてはいなかった。楽観視していたわけでも、事の重大性が理解できなかったわけでもないが――

 そこまで深く考えなかった。故に悲観しなかったというだけである。

 そういう性分のレックスだが、今だけは違う。拭い切れない不安が、ずっと心に残ったままだった。

 カメラだけしか持ってこなかったこと――違う。

 フィデリオとはぐれてしまったこと――違う。

 あいつを学院に置いてきてしまったこと――これだ。

「ベリル……」

 それが思い浮かべる少女の名。

 探しには行ったのだ。フィデリオの制止も振り切って。学生会館まで全力で走って。フィデリオとはぐれたのは、それが理由だ。カメラ以外の荷物を用意する時間がなかったのも。

「あいつ、どこに行ったんだ。学院の中で隠れてるんならいいんだけど」

 最近ベリルとの距離が開いた気がしていた。それどころか避けられているようにさえ感じる。

 レックスにはその理由が分からなかった。

「おっと、やべ!」

 足を止めていてはいけない。こうしている間に兵士がやってくるかもしれないのだ。ベリルのことは気がかりだったが、ここまで来ると探しようもない。

 ……まあ大丈夫だろう。

 根拠はないが、そう思うことにした。

「これからどうすっかな」

 やれることを考えてみる。あまり多くはなかった。というか一つしかない。

 フィデリオから教えてもらったことがある。戦いが起こった時、真実は往々にして捻じ曲げられると。情報の隠匿や書き換えが必ずと言っていいほど行われるのだと。

 文書は改ざん出来るし、人の証言は絶対ではない。

 その中で決して偽れない“記録”。それこそが写真だ。

 レックスはカメラのファインダーをのぞき込んだ。

 四角いフレームに映るのは、もう戻れない学び舎の姿。角度的に全容は捉えられないが、そびえ立つ鐘楼塔ははっきりと見える。

 一枚撮る。これが始まりの一枚。

「うーん。建物とか風景とかって、今一つうまく撮れないんだよな」

 そういえばフィデリオに『レックスは生きた表情を撮るのが上手い』と言われたことがある。やはり被写体にするなら人だろう。

 もはや嗅覚や直感の類だが、レックスはその人の表情が一番輝く瞬間を捉えることに長けていた。それが女子なら、そのセンスはさらに発揮される。

 この旅の最後に撮る一枚には、果たして何が映っているのだろうか。

 

 ――《真実のファインダー》に続く――

 

 

 

 たとえば実家に戻るという選択肢もあった。

 己の身の安全を考えるなら、あるいは立場を鑑みるなら、そうすべきだっただろう。

 しかし、パトリックは学院に残った。

 理由はいくつかある。彼の家名はハイアームズ。四大名門だ。当然、クーデターを起こした貴族連合に組している。その是非は問わない。貴族派と革新派の対立は十分に承知しているから。行く着くところまで行き、こじれるところまでこじれた果ての結果だ。

 気に入らないのは、自分にその連絡が無かったことだ。

 セレスタンには数週間前から、屋敷に戻ってくるように伝達があったという。今思えば、このクーデターに関連したことだったのだろう。

「……ふん」

 なぜ僕には何も言わなかった。情報が漏れると思われていたのか? 

 真意の程はともかく、不愉快な気分には違いない。

 さらにあろうことか、この学院を占拠するなどという愚挙。まったくもってふざけている。

 一人廊下に立ち、窓縁にかけた手に力が入る。

 先ほど館内放送があった。ヴァンダイク学院長が街道の防衛線を解除したらしい。学生たちは抵抗せず、貴族連合の指示に従うようにとのことだ。そうすれば、一先ずは危害を被る心配はないとも。

 ……戦いに加勢したⅦ組がどうなったかについては、何も触れられなかった。

「彼らは、あんなものと戦ったのか」

 二階の窓からグラウンド側に見える、巨大な人型兵器。全高は七アージュ近くある。一振りで大木をまとめて薙ぎ払えるような大剣も持っている。正直、戦おうという気さえしない。

 敵わないと分かっていたはずだ。凌げないと分かっていたはずだ。

 それなのにどうして戦った。

「……ふん」

 何となく分かっている。

 理不尽を許容できなかったのだろう。抗わずにはいられなかったのだろう。やれることがあるのに、それをしないことが出来なかったのだろう。

 鬱陶しいくらいに全力。腹立たしいくらいにまっすぐ。

 あいつらは――いや、あいつは、そういう奴だ。

「僕にやれること、か」

 意識せずに口から出ていた言葉だった。

 あいつ――リィン・シュバルツァーに感化されたとは思いたくないが、しかしこの状況を許容できないという一点に関しては同意だ。

 危害を加えてこないと放送にあったが、この先、どこまで連中がそれを守るかは怪しい。彼らを牽制し、抑止ともなり、場合によっては交渉も行えるものが必要だ。

 考えてみたが、やはり自分をおいて他にない。

 こうなればハイアームズの名を、最大限に利用してやる。

 家名が自分自身の力でないことは、先だっての体育大会で百も承知だが、それでもあえて使わせてもらう。

「なら、まずやるべきは一つだな」

 先ほどの放送の通り、抵抗しないよう働きかけることだ。土足で学院内を踏み荒らす兵士たちに、学生がいい感情を持つわけがない。逸ってこちらから手を出すようなことがあれば最悪だ。下手をすれば、自分でも庇いきれないかもしれない。

 急がなければ。

「あら、パトリック?」

 その場から動こうとした時、声をかけてきたのはフリーデルだった。丁度いい。上回生への伝達は彼女にも手伝ってもらおう。

「お願いしたいことがあります、フリーデル部長。今から全員、に……」

 言葉が途切れ、止まった。

 パトリックの視線が宙に逸れていく。見てはいけないものを見てしまった。

 フリーデルの右手にはフェンシング用のサーベルが。左手には襟首をわしづかみにされ、ぐったりとした男が。

 間違いなく貴族連合の兵士だった。

 絶句するパトリックに、フリーデルはいつもの微笑を浮かべてみせた。

「ああ、これ? 横柄な態度だったから、ちょっとね」

「ちょっと?」

「うん、ちょっと」

 どう見てもちょっとじゃないだろ。完全に意識がとんでるじゃないか。何をやってくれたんだ、この人は。

「それでお願いごとって何かしら。かわいい後輩の頼みだもの。なんでも聞いてあげちゃうわよ」

「……とりあえず、もう何もしないで下さい」

 パトリックの奮闘は、ここから始まるのだった。

 

 ――《パトリックにおまかせ》に続く――

 

 

 

 ケネス・レイクロードはマイペースだった。

 楽観というのか、どこか浮世離れしているというのか、とにかく自分のスタンスを崩さなかった。いつものハンチング帽をかぶり、背には釣竿ケースを引っ下げている。

 彼が学院を出た動機は単純。このままだと釣りができなくなりそうだったから。

 ケネスには『自分に何ができるだろう』とか、『やるべきことを探そう』などという強い意識は、あまり持ち合わせていなかった。

 もちろん、事態は承知している。だが何とかなると、学院が最悪の状態になることはないと、そう思っていた。楽観というよりも達観なのだろう。

 川を泳ぐ魚たちのように、全ては流れのままに。

 それがケネスの人生観だった。

「うーん。どこへ行こうかな」

 小川を伝って歩くのもいいかもしれない。何とはなしに、そう思った。

 ケネスは街道へは向かわず、町を流れるアノール川に沿いながら、トリスタを離れることにしたのだった。

 しばらく歩くと、川を眺める一人の女性を見つけた。

「あ。あの人……」

 見覚えがあった。女性もケネスに気付くと、驚いたような顔をした。

「あら、もしかしてケネスさん?」

「うん、そうだよ」

 彼女の名はアナベル。ケネスの兄の婚約者だった。

「なんだか街道の方が騒がしくて、魚が全然釣れませんの。困りましたわ」

「だったら場所を変える? 僕もしばらくは色々回ろうと思ってるんだ」

「そうですの? じゃあご一緒しようかしら」

 優先順位の最上位に釣りがくる二人である。お互いに相手の状況を詳しく訊くことさえせず、まずはよさそうなポイントを探して足を動かす。

 釣り師(アングラー)同士、込み入る話は釣りをしながら、というのが暗黙のルールなのだった。

「はあ……」

「ケネスさん?」

「あ、なんでもないよ」

 歩きながら、ため息を付いてしまっていた。

 何だろう。やっぱりだ。何かが物足りない気がする。最近、どうも自分のことがよく分からないのだ。

 大好きな釣りをしていても、どこか心が満たされない。大物を釣り上げても、そこまで気持ちの高揚がない。嬉しいのはもちろん嬉しいが。僕はどうかしてしまったのだろうか。しかもここ一か月、ところどころ記憶が欠如していて、思い出せない事がある。

 時々ふと脳裏によぎるのは、金色の瞳とぎらりと光る鋭利な刃。そして、灰色の瞳と妖しく蠢く指先。

 ケネスはぶるると身震いをした。

「まあ、風邪ですか?」

「はは、大丈夫……」

 寒いわけではなかった。むしろ熱い。体の芯が熱を持っていた。これはどういうことだ。

「きゃっ!?」

 川沿いのぬかるんだ地面に、アナベルが足を滑らせた。

「危ない!」

 とっさに彼女を支えようとするケネス。体勢を戻そうと大きく振ったアナベルの手が、運悪くケネスの頬を打ち据えてしまった。

 スパーンと鮮やかに決まった平手打ち。

 瞬間。ケネスの脳天から足先までを電流が駆け抜けた。

「あ、あ、ああ……」

 へなへなと膝を折る。

「ご、ごめんなさい! 大丈夫ですか?」

「はふぅっ」

 大丈夫と言おうとしたが言葉にならず、口の端から空気がもれただけだった。

 全身が歓喜に打ち震える。心の隙間が埋まり、潤いが溢れ出す。得も言われぬ高揚感が胸を突き抜けていく。

 喜びが、否、悦びが止まらない。全ての細胞が踊り狂っているようだ。

「ケ、ケネスさん?」

「くふぅっ」

「く、くふぅ!?」

 なんなんだこれ。すごい、なにこれ。どうしようこれ。

「だ、ダメだ!」

「ひっ!?」

 自分の中で膨れる上がる何かに、ケネスは必死で抗う。これはダメなやつだと、理性が警鐘を打ち鳴らしていた。

「うあああ!」

 耐えることが苦しい。押し寄せる衝動に身を任せたい。

 胸をかきむしり、天を振り仰ぎ、ケネスは叫喚する。

「ひえええ!」

 そんな彼をどうしたらいいか分からず、アナベルもまた悲鳴をあげていた。

 せめぎ合う理性と本能の狭間で、ケネスの葛藤は続く――

 

 ――《爆釣哀悼紀行》に続く――

 

 

 

 成り行きだったが、彼女たちは学院に戻ることが出来なくなっていた。

「どうしよう」

 不安げな声でそう言ったのはモニカで、両隣で「うーん」と頭を抱えているのはポーラとブリジットである。

 三人はラウラと仲が良い。些細なきっかけからだったが、それぞれが彼女と関わりを持ち、友人となったのだ。

 彼女たちは学院を抜け出していた。

 目指した場所は、ラウラたちⅦ組が貴族連合軍と戦っているトリスタ街道。前線で加勢はできないにしても、何か後方支援ぐらいならできるのではないかと考えたからである。

 しかし、彼女たちがその場に到着した時、戦闘はすでに終わっていた。Ⅶ組の姿は――ラウラの姿はどこにも見えなかった。

 荒れて、えぐれて、焦げ付いた地面。薙ぎ倒された木々。容易に激戦が想像できた。

 ポーラが言う。

「来るのが遅かったかしら……」

 ブリジットが答える。

「旧校舎側の林で迷ったし、思ったより時間がかかったみたいね」

 正門はジョルジュとトワが閉ざしていた。裏門からも外には出られるが、位置的に街道まで遠回りすることになってしまう。そういう理由で旧校舎側から林道を突っ切ったのだが、走っている内に方向が分からなくなり、絶え間なく続いていた戦闘の轟音も、いつの間にかなくなっていたというわけである。

「ラウラ……逃げられたのかな。捕まってたりなんかしないよね」

 モニカは不安を隠せない。あとの二人も同じだった。

 いくつかの足音が聞こえてきた。モニカたちは慌てて身を低くして、息をひそめる。

 三人が隠れているのは、街道脇に連なった茂みの一つだ。

「抵抗していた赤服の学生共は見つかったか?」

「いや、まだだ。一応学院内の捜索も行ってはいるが」

「トリスタから逃げた可能性もあるな。隊長に報告をした方がよさそうだ。街道の検門の設置も、もう少しかかるしな。お前はここで待機して見張りを頼む」

「了解だ」

 貴族連合の兵士だ。一人は町の方へと走って行き、一人は言われた通り見張り役として残っている。

 彼らの話しぶりからして、どうやらⅦ組はうまく撤退したらしい。ひとまずは安心する三人。

 しかし、

(ど、どうしよう。ここから動けないよ)

(あいつがどこかに行けばいいんだけど)

 ひそひそと小声で話すモニカとポーラ。その間に挟まれたブリジットが「は、は……」と小さく身震いをした。

(え、ちょっと)

(だ、ダメよ。我慢なさい!)

 しかし、二人が気付いた時にはすでに遅く、

「っくしゅん!」

 ブリジットはくしゃみをしてしまった。

「ん? 今そっちの茂みから音がしたか?」

 男が近付いてくる。

 懲りもせず二発目を放とうとするブリジットの口元を二人掛かりで押さえつけ、見つからないよう女神に祈りながら呼吸を止める。

 訝しげに茂みを眺める男だったが、ややあって「気のせいか」と踵を返した。

 が、ほっとしたのもつかの間。彼はすぐにまた戻って来た。

「うむ。誰もいないな?」

 しきりに辺りを見回している。三人は生きた心地がしなかった。

 そして、想像を絶する試練が少女たちに訪れる。

「ずっと我慢していたが限界だ。こう寒いと参る」

 何がだ? 顔を見合わせるモニカたちの耳に、カチャカチャとベルトを外す音が聞こえた。ジーっとファスナーを下ろす音もだ。

 まさか、この男……。みるみる内に全員の表情が青ざめていく。

「おっと、手がかじかんで……ままならんな」

 間違いない。この茂みに向かって用を足す気だ。

 どうする。耐えられるか。ここさえ凌げばもう見つからないだろう。逆に動いたり、声をあげようものなら、確実に見つかって拘束されてしまう。

 額から冷たい汗が流れ落ちる。

 どうすればいいかなど決まっている。耐えるのだ。この理不尽な責め苦に。

「って、耐えられるわけないでしょーが!」

 勢いよくポーラが立ち上がり、モニカとブリジットも続く。

「な、な、な!?」

 いきなり過ぎる登場に男がたじろぐ。うら若き乙女の、怒りに満ちた制裁が繰り出された。

「最低!」

 ポーラが愛用のムチでピッシィと男の手を打ち据える。

「最低!」

 足を引きかけた瞬間に、電撃的に間合いを詰めて、モニカが首元に手刀を入れた。

「最低!」

 とどめの一発は、ブリジットの全力ビンタだった。

 三人分の『最低!』を存分に頂いた男は、よろめいたものの、しかし踏みとどまった。

「ぐっ、お前たちは士官学院の生徒だな。茂みに隠れて俺をのぞこうとは。好奇心旺盛ここに極まれりと言ったところか!」

「あ、あんた、なに勘違いしてんのよ。被害を受けそうになったのはこっちなんだから」

 再度ポーラが振るったムチをかわして、男は距離を取った。

「なんにせよ、お前たちは捕縛させてもらう」

 男は銃を持っていた。三人同時にあることに気付き、まったく同じタイミングで顔をうつむかせる。地面に視線を落としたまま、誰も動こうとしない。

 男は銃を掲げて前に出る。

「ふふ。どうした。こいつに怖気づいたのか?」

 さらに一歩近付く。モニカたちの背がびくりと震えた。

「本物を見たのは初めてのようだな。所詮は学生。教科書での知識しかないのだろう。そのままおとなしくしていれば――」

 言葉の途中で、全員回れ右。弾かれたように逃げ出した。「こら、待て!」と男は焦って追いかける。

「逃げられると思っているのか!」

 ポーラが男にちらりと振り返る。

「いいからそれ、しまいなさいよ!」

「銃をしまえと? ふざけるな」

「ふざけてんのはそっちよ!」

「口も悪いな。お前たち、帝国子女なら慎みを覚えるがいい」

「まず慎むべきはあんただわ!」

「ええい、とにかく止まらんか!」

『いやあああ!!』

 重なる悲鳴。理解の遅い男は構わず追ってきた。

 襲い来る変態に逃げ惑いながら、ブリジットが言った。

「分かれて逃げましょう!」

 相手は一人。林の中で撒ければ、なんとか逃げ遂せるはずだ。

 ポーラもモニカも異論はないようで、強くうなずいた。

「みんな無事で。また一緒に《キルシェ》に行きましょう。その時はもちろんラウラも一緒に」

 それぞれの手の平を合わせたのを最後に、三人は三方向に離れゆく。

 

 

 ポーラは走る。

 馬があればいいのにとも思ったが、さすがに今から学院には戻れない。今、手元にあるのはムチだけ。馬用の鞭ではなく、攻撃用のウィップだ。

 このムチ一つで、全ての困難を乗り越えなくてはならない。果たしてやれるだろうか。

 グリップを握り締め、黒光りするそれを見つめる。

「やってやるわよ」

 枯れ葉を踏みしめ、彼女は強い口調でそう言った。

 

 ――《女王への階段》に続く――

 

 

 ブリジットは走る。

 その最中思い出すのは、一人の幼馴染だった。頑固で、融通が利かないところもあって、でも真っ直ぐで、優しい彼。

 お別れも言えなかった。しばらくは会えない。いつまでかも分からない。そう思うと、急に会いたくなってしまった。

 胸の真ん中があつくなる。

 私はあきらめない。ラウラだけじゃない。必ずあなたにも、もう一度会う。会ってみせる。

 ……会ってどうするんだろう? そんな疑問がふと浮かんだ。その先がよく分からない。私はどうしたいんだろう。あつくなった胸が、ちょっと締め付けられるような気分。喉まで出かかった言葉が、奥に逃げてしまうような感じ。

 次に会う時までに、その答えも見つけよう。

「……アラン」

 あの真っ直ぐな瞳を胸中に映し、ブリジットは幼馴染の名を口にした。

 

 ――《続・A/B恋物語 Bパート》に続く――

 

 

 モニカは走る。

 途中、木の陰にうずくまる学生を見つけた。緑服。男子生徒。

 見覚えがある……ような、ないような。

「あ……モニカさん」

 消え入るような細い声で彼は言う。相手は自分の名前を知っているようだった。

 えーと、えーと。

 思考を巡らせた果てに、ようやく彼の名前を思い出す。

「えと、ムンク君……ですよね? Ⅴ組の」

 仲のいいラウラたちならともかく、基本的にモニカは他人に対して敬語である。「そうだよ」と答えたムンクは、右側だけかかったうっとうしそうな前髪ごとモニカを見上げた。

「どうしてんなところに? 大丈夫ですか?」

「はは……放っておいてくれよ」

 どういう理由だか知らないが、かなり落ち込んでいる様子だった。モニカは彼を放っておけなかった。

「立って下さい、早く。変態が追いかけてきてるんです。ここから逃げないと」

「変態? どうだっていいさ。どうせ――」

「頑張って下さい! 私がついてますから」

 急かすように立たせ、のろのろと動き出すムンクの手を引きながら、モニカはまた走り出す。もう片方の彼の手には、ノイズを走らせる導力ラジオがあった。かなりの音量だ。

「ムンク君。できればラジオのスイッチ切って欲しいんですけど……」

「はは、僕のスイッチも切れちゃいそうさ」

「な、なんだか分からないけど負けないで下さい。応援しますから。ね?」

 

 ――《エール オブ モニカ》に続く――

 

 

 

「ねえ。もっと他に持ってくるものがあったと思うんだけど」

 大量の調理器具を抱えたニコラスに、エミリーはそう言った。

「それは僕も言いたいんだけど」

 大事そうにラクロスのラケットを握り締めているエミリーに、ニコラスはそう言った。

『………』

 双方沈黙。どっちもどっちだった。ニコラスは調理部、エミリーはラクロス部。それぞれの部活の部長である。

 二人は学院を出る際、これだけは手放せないというものを持ち出していた。それがこの先の旅に役立つかは度外視して。

 ちなみにエミリーとニコラスが出会ったのは偶然だ。

「でもほら! これからどんな相手が出てくるかわからないし。ラクロスのラケットって意外と強いのよ」

 びしっとラケットを構えるエミリーに、ならばとニコラスも口を開く。

「何をするにも食事は不可欠さ。どんな食材でも僕は美味しく料理してみせるよ。それに調理器具を装備するとね――」

 皿を盾に、おたまを剣として装備し、鍋を兜として装着する。貧相この上ない気の毒な騎士が完成した。

『…………』

 再びの沈黙。ひゅううと風が吹く。

「やっぱり、ラクロスのラケットでもあると心強いかな」

「私も食事に困らないのは助かるわ」

 三度目の沈黙が降りてくる。変な空気だった。

 ややあって、

『なんか……ごめん』

 同時に謝る。なんで誤ったのかは本人たちにも分からない。何となくである。

「二人旅だけどよろしくね。紳士そうだしニコラス君なら安心かな?」

「え? 何が?」

「おいしい料理、期待してるってこと」 

 ショートカットの髪をかき上げて、エミリーは笑った。

「それは任せて欲しいな。ところでエミリーさんは料理できるの?」

「ん? んー。まあ、そこそこかしら。少なくともうちの後輩たちよりはマシなつもりよ。あと実技試験でのサバイバル適正は高かったわ」

「僕はそれ低かったけど。とにかくこちらこそよろしく。とりあえず歩きながら、これからどうするかを決めようよ」

 限られた道具だけを頼りにして、先行きの見えない旅路を妙なコンビが歩いていく。

 

 ――《体育会系クッキング》に続く――

 

 

 

「ねえ、ドロテさん。もっと他に持ってくるものがあったと思うんだけど」

 一本のペンと原稿用紙の束を大事そうに抱えたドロテに、フィデリオはそう言った。

 ふるふるとドロテは首を横に振る。

「ダメです、これがないと私は生きていけません。フィデリオさんだってカメラしか持ってないじゃないですか」

 フィデリオの首からぶら下がる導力カメラに視線を移す。

「確かに僕も人の事は言えないけど。でも一応、入用になりそうなものは持って来たつもりだよ」

 彼の背には大きめのリュックサックがあった。パンパンに膨らんでいて、実際何かと詰め込んであるのだろう。片やドロテはというと、通学用の手提げカバンに数日分の着替え諸々が入っているだけだった。あとは件の原稿用紙である。

 フィデリオはドロテをじっと見つめる。

「……もしかして私、責められてます?」

「いや、そんなことはないけど」

「いいえ、その目は私を責めてます」

 ドロテの荷物を取りに寮に戻る時間はなかった。もうトリスタは貴族連合が占拠を始めている。

 二人して一緒に逃げてきたわけではなく、たまたま出くわして、成り行きで一緒にトリスタを離れることになったのだった。

「責めてはないけど、せめてもう少し使えるものが何かあったんじゃないかと……」

「ほら、やっぱり。あ、もしかして今のは“責めて”と“せめて”をかけているんですか?」

 普段の彼は温和である。そんなフィデリオのこめかみが、ぴくりと動いた。無言の視線をドロテに注ぐ。

「ああ! やっぱり私責められてますよね!?」

「今のは……まあ、そうだね」

 ドロテはその場に座り込んだ。

「足手まといって言うんでしょう。だったら私をここに置いていけばいいじゃないですか。そして私は魔獣に食べられちゃうんです。そんな凄惨な光景をフィデリオさんは遠くからそのカメラで激写したらいいんです」

「激写って。いやいや、そんなことしないから」

「私が必死に助けを求める声をあげる最中も、フィデリオさんは薄笑いを浮かべながら、狂気に取り付かれたようにシャッターを切り続けるんです。『僕の作品になれることを光栄に思うがいい。ふははー!』とか言ったりなんかして」

「君の中の僕は一体どんなやつなんだよ……」

 力なく頭を垂れたフィデリオは、疲れた様子で嘆息を吐く。

「責めてもないし、怒ってもないから。そろそろ出発しよう。足りない物はどこかの町に寄って買えばいい話だし」

「そうですよね」

 ドロテはすくりと立ち上がり、けろりとした笑顔を見せていた。文芸部の部長はあなどれない。写真部の部長はそう思った。

「あ、そうです。フィデリオさん」

「なに?」

 さらりとドロテは言う。

「私、お金も持ってないですから」

 

 ――《金欠クリエイターズ》に続く――

 

 

 

「あとはここだけか」

 長廊下の一角に立ち、彼はとある部屋の前で足を止めた。貴族連合軍、トールズ士官学院制圧班の一人である。

 士官学院とはいえ、一学校を制圧目標にするのは正直気が咎める。卒業後に正規軍に志願する生徒が多く、内戦下での反抗が予想できることから、その対象になったそうだが。

 実際、応戦はされた。回ってきた報告では学院の教官勢、そして赤服の学院生が立ちはだかってきたという。

 その戦闘はすでに終着している。何でも赤服の学院生たちは戦線から離脱し、教官勢はヴァンダイク学院長の指示の下、防戦態勢を解除したらしい。

 ヴァンダイク学院長。帝国軍名誉元帥。

 さんざん戦車や機甲兵をぶった切っておいて、適度な所で矛を収めるというのは、なんとも老獪な手際だった。

 完全に屈服させるには高くつく相手とこちらに認識させた上で、学院生たちには手を出さないよう交渉していく腹積もりなのだろう。

 現在は学院内の制圧メンバーが複数班に分かれ、各教室、施設を順に回っている。状況説明をする為、残った学院生や学院関係者たちに講堂へ向かうよう指示する為だ。

 彼は後ろを振り向いた。

 もう一人、男がいる。班は二人一組で動いているので、その相方だ。

 相方が言う。

「他の施設は概ね制圧したと報告があった。逃げた学生もいたらしいが、それは別班で追っているそうだ」

「そうか」

「大げさだとは思わんか。士官学院生とはいえ子供相手に」

「お偉方の耳に入ると事だぞ。余計な事は言わない方がいい」

 そうは言ったものの、確かに気になることではあった。別に士官学院はここだけではない。なぜトールズ士官学院のみが占拠対象となったのだろうか。

 気にはなる。が、兵士に疑問は必要ない。

 意識を戻して、彼は目の前の扉に向き直る。相方が「ん?」と何かに気付いたような声をあげた。

「お前、それ。この前までは付けてなかったな?」

 左手の薬指。そこにはめられた指輪に視線が向いている。彼は「ああ……」と少し照れくさそうに、銀色に輝く指輪を掲げてみせた。

「実はこの作戦が始まる前に、恋人にプロポーズしたんだ。喜んでくれたよ、彼女」

「これから帝国内は荒れるぞ。なにもこんな時に……」

「こんな時だからさ」

 貴族連合の大部分を占めるのは、大貴族が有する私兵。いわゆる領邦軍である。大義があって戦いに臨む者もいれば、そうでない者もいる。彼は後者だった。

 余談だが――雇いの私兵ということで、これまで領邦軍の末端には、数こそ少ないものの平民が含まれることもあった。しかしこのクーデターを起こすにあたり、その辺りの平民兵は一切の理由を告げられることなく、解雇処分をされている。

 それはさておくとして――

 彼は生真面目な男だった。一兵士としての立場から作戦に従事しているが、貴族連合の在り方の全てを肯定しているわけではない。

 ただ、正規軍でも領邦軍でも、統率の下に動く集団において、個人の主張はどこまでも通せない。撃てと言われれば引き金を引かねばならないし、逃げるなと言われれば踏み止まらなくてはならない。

 今の彼に出来ることは、命じられた任務をこなし、この後勃発するであろう内戦が、速やかに自軍の勝利で終わるよう尽力することだけだった。

 相方は肩をすくめた。

「まあ、どんな時代でも人の営みは大切か。俺とて戦わずに済むなら戦いたくはない。……別に革新派に対して恨みまではないしな。目障りな主張をしていたのは確かだが……」

 前線に出ている貴族兵ももちろんいるが、爵位が高い者ほど指揮官だったり、機甲兵の操縦者であったり、あるいは旗艦《パンタグリュエル》のブリッジクルーとしての任に就いていたりする。

 このような作戦の歩兵部隊は、家柄が低く――尚且つ長子を除いて選ばれていた。もちろん公に明言はされていないが、彼らとてそれくらい察している。

「給金がいいから、やっているところもある」

「……まあ、な」

 自分も含めて、それが案外本音かもなと彼は思った。貴族といえども様々だ。望んで領邦軍に入った者。実家の運営手伝いをする必要が無い程、領地の規模が少ない者。実家との折り合いが悪い者。授爵状に定められた規定から外れ、家督相続ができなかった者など(この場合は貴族家の者とされても、爵位の括りからは外れる)

 個々の事情がある。それぞれの生活がある。生活の為には金がいる。家族がいれば、尚の事。

 指輪を渡した時の彼女の顔を思い出す。泣いたり笑ったりを繰り返していた顔。とても喜んでいた。生まれてきて、今日が一番幸せだと言っていた。

 親が結婚相手を決めることも珍しくない、貴族社会の中での恋愛結婚。運も良かったのだろう。

 あの笑顔を守ること。それが自分の全て。

 ドアノブに手をかけ、扉を開く。

 誓いの意味もあったのか、彼は自分自身に言い聞かせるようにこう言った。

「この戦いが終わったら、俺……結婚するんだ」

 部屋に足を踏み入れる。

 扉上のプレートにはこう記されていた。

 “用務員室”と。

 

「誰もいないのか」

 部屋の真ん中には簡素な事務机が一つ。壁際に大きめの本棚が一つ。あとは高枝バサミやらほうきやら、細かな物品が隅にまとめて置かれている。

 妙にすえた空気の中を、一歩、二歩と進む。

 突然、バタンと扉が閉まった。

「お、おい」

 一瞬、廊下側から相方が閉めたのかと思った。だが違う。そんなことをする必要がないし、相方は扉の外から何かを叫んでいる。

 声が聞き取りにくい。壁一面に防音処理が施されているのか? 音楽室でもないのに、なぜ。

 内側から扉を開けようとしてみた。開かない。

「……なんだ」

 異様な雰囲気が部屋の中に漂っている。ふと机の上に紙の束があることに気付いた。

 一番上の用紙を手に取ってみる。用務員室なので作業報告書あたりだろう。そう思い、何気なしに目を通した。

 

『クロック……教えてくれよ。お前の本当のキモチ』

『お前が俺に追いつけたらな、リィン。ほら、競争開始だ』

『あっ、ずるいぞ。先に走り出すなんて』

『俺はズルい男なんだよ。知ってるだろ?』

『待てよ、待てったら!』

『ハハハ、捕まえられたらご褒美だ!』

 

「う、うわあああ!?」

 たまらず用紙を机に叩き戻す。体の震えが収まらない。背中をムカデが這うような嫌悪感がいつまでも残っている。

 普通じゃない。この用務員室は普通じゃない。

 身を返し、もう一度扉を開こうとする。ダメだった。押しても引いてもだ。相方も外から何とかしようとしてくれているみたいだが、開くような気配はない。

 淀んだ空気がうなじに触れた。ぞっとして振り向く。誰もいない。得体の知れない恐怖を払拭するように「隠れているなら出てこい!」と彼は声を荒げた。

 静けさの中、小さな息遣いが聞こえた。自分のものではない、不吉な息遣いが。

「……!?」

 部屋の中心から室内をぐるりと見回す。依然として物言わぬ本棚と机。あとは紫色の主張をし続ける原稿用紙の束しかない。

「なんなんだよ……」

 かすれる声が、自分でも驚く程に弱々しい。

 

 ――ふふ

 

 確かに耳に届いた、小さな嗤い声。これは気のせいではない。やはり誰かいる。どこかから自分を見ている。獣が獲物を狙う時のように、昂ぶる感情を押し殺しながら。

 どこだ。このベッタリ張り付くような不快感。近い、すごく近い。

 ……まさか。

 じっとりと手が汗ばむ。間違いであってくれ。そう胸中に念じながら、彼はゆっくりと背後に振り向いた。

 誰もいない。わずかな安堵。が、しかし。

 顔を正面に戻した時、それはそこにいた。

 灰色がかった髪と瞳。にたりと頬をゆがませる初老の男性。鼻息がかかる程に至近距離。声を出す間もなかった。蠢く魔手が視界の中に伸びてきて――

「実にいいね」

 全てを失う前に彼が聞いた最後の言葉だった。指から抜け落ちたリングが、乾いた音を立てて床を転がっていく。

 その時、用務員室の扉が勢いよく開いた。相方の男が駆け込んでくる。

「大丈夫か!」

「君も悪くないね」

 悲鳴が廊下に響くまで、一秒もかからなかった。

 

 数分後。その用務員――ガイラーはゆったりと椅子に腰かけていた。足元には戦利品が転がっている。二人の兵士だ。

 動かない彼らを満足そうに眺めた後、ガイラーは緩慢に立ち上がった。窓際に歩み寄り、閉ざしていた遮光カーテンをスライドさせる。落ちかけた赤い夕日が差し込み、用務員室を朱色に染めた。

「混迷の時代がやってくる。嘆かわしいことだよ」

 物憂げな嘆息が、窓を曇らせた。

「学生の諸君には申し訳ないが、しばしのお暇を頂こう」

 コツコツと足音を鳴らし、ガイラーは戸口へと向かう。途中、彼らのそばに膝をついた。

「私は見てみたい。戦乱の中で生まれる真の友愛というものを。自分の目と足で学んだものだけが真実の知識。その経験こそが作品のクオリティを上げるのだ」

 二人の首筋に人差し指をそっと這わせ、「君達もそう思わないかい?」と慈しむように声をかけた。反応はない。

 ややあって足音が遠ざかっていく。

 残された彼らの間には、交差させたペンが✕印となって置かれている。

 内戦が勃発したその日。狂い咲きの用務員が、人知れず学院から解き放たれた。

 

 ――《裏・灰色の戦記》に続く――

 

 

 

 貴族連合軍がトリスタに攻めてきたその一か月後。すなわち、時が戻って今現在のことである。

 旧校舎の地下。水路に挟まれた薄暗い空間の一角に、多くの魔獣が集合していた。おそらく辺り一帯の魔獣が集まっているのだろう。

 種族は定まっていない。昆虫型、獣型、軟体生物型など様々だ。

 当然、縄張り区画も違うし、生態も違う。だというのに彼らは一同に会し、しかも互いを威嚇したり、戦いを始めたりする様子もなかった。鳴き声一つ上げず、静かにその場で控えている。

 言うなればそう、“統率が取れている”とか“秩序がある”といった表現が近いかもしれない。

 そこに新たな二匹の魔獣がやってきた。

 待機していた魔獣たちは彼らが姿を見せると、あるものは腹を見せ、あるものは頭を伏せ、またあるものは爪を隠した。これはそれぞれが服従を示すポーズである。

 忠誠の意を受けながら悠然と進み、円になった彼らの中心まで来ると、その二匹は動きを止めた

 飛び猫とドローメだ。

 この二匹には名前があった。

 飛び猫が“クロ”で、ドローメが“ルーダ”だ。二匹に名前を与えたのは、誰あろうマキアス・レーグニッツである。

 事の発端は二か月程前、この二匹がヘイムダルのレーグニッツ邸に現れたことからだった。それから紆余曲折を経て、彼らはこの旧校舎の地下に移動してきたという経緯である。

「シャーッ」

 クロが一鳴きすると、その場の魔獣たちは服従姿勢を解き、待機状態へと戻った。 

 この群れのボスはクロとルーダなのだ。

 負けた魔獣は、勝った魔獣に従う。それが自然界のルールだ。種族の違う魔獣同士が、仲違いをせずに徒党を組んで現れるのは、これが理由だったりする。

 二匹は戦いを繰り返し、少しずつ縄張りと手下を増やしていった。そして今や、このフロアの主に登り詰めた。

 別に必要以上の縄張りが欲しかったわけではない。その目的は一つだった。マキアスが来訪しやすくする為である。

 マキアスは足しげく旧校舎に通い、クロとルーダに自作のコーヒーを飲ませていた。彼らもマキアスが作ってくれるコーヒーが好きだった。

 しかしその都度、他の魔獣が襲って来ないか警戒していて、マキアスは中々落ち着けない様子だった。実際に襲われて、せっかくのコーヒーをこぼしてしまったこともある。

 だから二匹は戦いを始め、このフロアを完全に手中に収めることにしたのだ。彼が安心してコーヒーを持って来られるように。

 それはいい。しかし妙なことがあった。この一か月ほど、マキアスが姿を見せないのだ。三日に一回は顔を見に来てくれていたのに。

 どうしたんだろう。何かあったのかもしれない。クロとルーダはそう思った。

 そこからの行動はシンプルだった。

 彼を探しに行こう。

「フシャー!」

 あとはお前たちに任せたぜ。クロはそんなことを言っていた、かもしれない。

 ピシィパシィッとルーダは触手で床を打ち鳴らす。

 あんた達、あたしらがいない間のことを頼んだよ。ルーダはそんなことを言っていた、かもしれない。ちなみにルーダはメスだ。

 応じたように、周囲から雄叫びが上がる。

 兄貴、姉御、いってらっしゃいやせ! 魔獣たちはそんなことを言っていた、かもしれない。

 外には凶暴な魔獣がいる。それこそ地下水道にはいないような強敵が数えきれないほど。険しい旅になるだろう。目的を果たせずに、どこかで力尽きるかもしれない。

 クロには首元に、ルーダには触手の付け根に、それぞれ小さな容れ物が括りつけてあった。中にはコーヒー豆が入っている。香りだけでも楽しめるようにと、マキアスが付けてくれたものだ。

 これは証だった。決して交わることのない人と魔獣。その二つを繋ぐ、確かな絆の証。

 種族として、決して戦闘力に優れているとはいえない飛び猫とドローメ。

 それでも彼らは行く。

 マキアスが自分たちの為にしてくれたことを忘れていないから。もし彼が窮地に立たされているのなら、今度はその力になりたいから。

 大勢の舎弟に見送られて、二匹は旧校舎の外を目指すのだった。

 

 ――《魔獣珍道中》に続く――

 

 

    ● ● ●

 

 

 パンタグリュエル、貴賓区画一階。

 ここはクロウを含め、“協力者”たちが使用する居室がある。ちなみに二階はアルフィン皇女を迎える為の特別室だそうだ。

「さて、お姫様にはにらまれたくねえもんだが」

 自嘲気味にぼやいて、クロウは肩をすくめた。

 にらまれるのはまだいいかもしれない。泣きじゃくられた方が困る。

「あら、クロウ。戻っていたのね」

「どうした? 浮かねえ顔してるな」

 ブリッジから貴賓区画に続く昇降機を降りたところで、クロウは二人に出くわした。

 スカーレットとヴァルカンだ。

 帝国解放戦線の同志《S》と《V》。もうコードネームで呼ぶ必要もないから、互い本名で呼んでいる。

「もうすぐアルフィン皇女が到着する。相当ご機嫌ななめのはずだからな。なだめるのはスカーレットがやってくれや」

「冗談でしょ」

「ヴァルカンでもいいけどよ」

「それこそ冗談。余計怖がらせるだけじゃない」

 スカーレットがとなりの強面に目をやる。

「うるせえ」

 むすりとしてヴァルカンは押し黙った。

 艦底ドックに新型の機甲兵の製作状況を見に行くという二人と別れて、クロウは来賓区画に足を踏み入れる。手入れの行き届いた絨毯が一面に敷かれたそのフロアは、帝都にある一流ホテルのロビーと比べても遜色がない。

「おや、《蒼の騎士》殿ではないか」

 芝居がかったような口調で呼ばれる。エントランスホールの一角、談話スペースの机の前に座るのは、結社《身喰らう蛇》の執行者NoX。怪盗紳士ブルブランだ。何をもって紳士なのかは理解に苦しむところだが。

 その彼に対面して座っているもう一人。

「ぜ、全然勝てませんわ」

 同じく結社、使徒第七柱直属の鉄機隊――その筆頭、《神速》のデュバリィである。見たところトランプゲームに興じていたようだが、どうやら彼女は軽くあしらわれているらしい。

 大方、誘ったのがブルブランで、デュバリィは挑発に乗せられたという流れだろう。

「ふははは、鉄機隊とはこの程度かね? まさに神速で私の九連勝だな」

「きいー! もう一回ですわ! もう一回!」

 高笑いするブルブラン。バンバンと机を叩くデュバリィ。

 教えてやるべきか、どうするか。

「それは一向に構わないのだが、忘れてはいないだろうね。私が十連勝したら、君にはペナルティとしてパンタグリュエルの甲板で空に向かって――」

「のっぞっむところですわ!」

 ……やっぱり教えてやろう。

「あー、取り込んでるとこ悪いが」

「なんですの!」

「そいつ、イカサマしてんぞ」

 

 

「油断も隙もない……。あなたのおかげで助かりましたわ」

「そいつはどうも」

 自分も一通りのイカサマは心得ている。だから見破れるのだ。見破れないイカサマでも、なんだかこいつは怪しいと直感が告げる。

 あの後、デュバリィは凄まじい剣幕でブルブランに詰め寄った。彼が自室に退散してからもしばらく憤慨していたのだが、程なくするとなんとか落ち着きを取り戻す。

 クロウも自室に戻ろうとしたところで、デュバリィは彼を呼び止めた。

 律儀な性格なのだろう。彼女は借りはすぐに返しておきたいと譲らず――その結果、食事を一緒に取ることになったのだった。

 もっとも、最初にデュバリィが持ち出してきた“お礼”は『剣の稽古に付き合ってあげますわ』だったので、それなら食事とかで済ませといてくれた方が助かると、クロウから提案する形にはなったのだが。

 そういった誘いには慣れていないのか、彼女は『し、食事? べ、べべ、別にかっ、構いませんわよ』などとひどくうろたえていた様子だった。

 場所は移り、貴賓用の船内レストラン――

「で、ペナルティってなんだったんだよ」

「それは! それは……言えませんわ……」

 声がどんどん小さくなる。彼女は話題を変えた。

「……料理遅いですわね」

「そうか? こんなもんだろ」

 そわそわと周りを見回すデュバリィ。

 普段はルームサービスを使用するので、貴賓用のレストランは使わない。他の連中もそうなのだろう。広いスペースには自分たち以外誰もいなかった。

 ちなみに食事はもちろんだが無料だ。なので、これがお礼になるかというと微妙なところではあるのだが、その辺は深く考えない。容赦のない全力稽古に付き合わされるよりは、よほどいい。

 しばらくすると料理が運ばれてきた。

 コース料理にはしなかった。適当な単品を二つ三つだ。

 二つ三つ、のはずだった。

「何をじろじろ見ているんですの?」

「いや、なんでもねえ」

 何で十皿近くあるんだ。見ているだけで腹がいっぱいになる。

「そういえばお前さんの相方はどうした?」

「相方? ……ああ」

 露骨に不機嫌な顔になった。あまり触れていい話題ではなかったらしい。

「彼なら部屋で寝ているんでしょう。どうせ」

 付け加えた『どうせ』に棘があった。コンビを組んでいることに不満があるようだ。命令だから渋々という呈なのだろう。

「あの猟兵たちも部屋に入っていくところを見ましたわ」

「そもそも用がない時は、あいつらあまり出て来ないしな」

 カイエン公が雇った猟兵団――《西風の旅団》の二人だ。団自体は解散しているので、“元”ではあるが。

 あとはこちらに向かっているヴィータと黒兎。先ほどすれ違ったヴァルカンとスカーレット。そしてブルブランとこのデュバリィ、その相方。そこに自分を合わせた十名が、カイエンの言う“協力者”である。

 この布陣なら万が一もあり得ない。戦力、資材、資金。全てが万全。正規軍が総力戦を仕掛けてきても、そう易々と状況は覆せないだろう。

 

 ただ、もし万に一つが起こるとすれば。その可能性があるとすれば。それは――

 

「何を笑っていますの?」 

ほんのわずか口元が緩んだクロウに、デュバリィは不思議そうに問う。

「ああ……あいつらはさ――」

「あいつら?」

 先ほど、ブリッジでルーファスにも言ったことだ。“あいつら”とはⅦ組だけを指した言葉ではない。少なくともこの艦の中では自分が一番知っている。

 今は拙くて、切れそうな細い糸の数々。取るに足らないそれらを束ね合わせて、決してちぎれない強固な一つとなって、やがては立ちはだかってくる。

 その予感があった。

「あいつら、しぶといからな」

 話が見えず小首を傾げるデュバリィをよそに、クロウは静かにグラスをかかげた。透き通った水に、頭上からシャンデリアの光が降り注ぐ。

 幾重にも反射した鮮やかな光が、グラスの中に虹色の輝きを煌めかせていた。

 

 

〜続く〜

 

 




後編もお付き合い頂きありがとうございます。
色々出てきましたので、以下にまとめてみました。

《世直し任侠譚》……クレイン・ハイベル
《カサギン男道》……カスパル
《女王への階段》……ポーラ
《ピンキートラップ》……ヴィヴィ
《看板娘の奮闘日記》……コレット
《黒色ミステリーツアー》……ベリル
《芸術乱舞》……クララ
《ロードオブハッカー》……ステファン
《続・A/B恋物語 Aパート》……アラン・ロギンス
《続・A/B恋物語 Bパート》……ブリジット
《グランローゼのバラ物語 chu!》……マルガリータ
《猛将列伝のすすめ》……ミント
《修道女の願い》……ロジーヌ
《真実のファインダー》……レックス
《パトリックにおまかせ》……パトリック
《爆釣哀悼紀行》……ケネス
《エール オブ モニカ》……モニカ・ムンク
《体育会系クッキング》……エミリー・ニコラス
《金欠クリエイターズ》……ドロテ・フィデリオ
《裏・灰色の戦記》……ガイラーさん
《魔獣珍道中》……クロ・ルーダ

 ざっとラインナップはこんな感じとなります。気になるお話はあったでしょうか?ストーリーが進めばⅦ組やトヴァルたち協力者のサイドストーリーもここに加わってくる感じです。

 これにて序章は終了です。次回より第一部開始となります。先は長いですが、またお付き合い頂ければ幸いです。

そして上の羅列を見ていて気付きました。用務員やら魔獣やらは平然と参戦してるのに……ベッキーとヒューゴ忘れちゃったよ

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