虹の軌跡Ⅱ Prism of 《ARCUS》   作:テッチー

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第58話 ノイズ・クロッシング

「幻獣がこんなところに……!?」

 フェンス際で踵を返したエリゼは、屋上の戸口まで走ろうとした。

 その手をリゼットがつかむ。

「待ちなよ! 幻獣ってなに? あんたは何を知ってんの?」

「今は説明している時間がありません。早く!」

 ちっと舌打ちをして、リゼットは眼下に見える幻獣《ヴォルグリフ》を一瞥した。

「よくわからないけど、時間がないってのは同感だ」

 建物の二階を優に超えるであろう巨体の歩みは遅々としているものの、しかし確実に中央棟への距離を狭めている。

「あんたは使用人たちに状況の伝達をして。それから担当上長の指示に従い、各々の行動に移ること。あたしは警備隊長に報告し、おそらく総員をもって戦闘を開始する。ったく、面倒だねえ……」

 さっきよりも近くなった二度目の咆哮を聞いて、二人は同時に走り出す。

 セリーヌの話を聞いた限りでは、地と気の乱れによって顕現される別次元に存在する異形。それが幻獣だ。

 ならばなぜ、カレル離宮に出現した。

 何かが乱れているのか。この場所にある何かが。だとして、それは一体?

 見当さえ付けられず、ひとまず疑念を振り払ったエリゼは視線を正面に向けた。いつの間にか追い抜かされていたリゼットの背中が視界に跳ねる。

 階段を飛び降りる白金色の髪が、鮮やかに波打っていた。

 

 

《――ノイズ・クロッシング――》

 

 

「ひいっ! な、ななな、なんですのあれは!?」

「は、早く立って下さい」

「こっちに来ちゃうかもしれませんよ!」

 階段を下ったエリゼが見たのは、窓越しに幻獣を見て腰を抜かすセラムと、その両脇から彼女を抱えて立たせようとするサターニャとルシルだった。

「セラムさん!」

「え……エリゼさん? あ、あんなに大きな魔獣が」

 エリゼも手を貸して、かちかちと奥歯を鳴らすセラムをどうにか立たす。

「幻獣――いえ、あの魔獣は中央棟に向かっています。状況を各フロア長に回したいんです」

 ここへ来てまだ一週間。普段の仕事で訪れる場所以外、建物の構造や内部配置など把握していない。

 情報を伝えるべき相手が、今どこにいるかなんてエリゼには知りようもないことだった。

「だから皆さんの力を貸して下さ――」

「ひええええ!」

「あっ、ちょっと」

 頼む言葉は耳に入っていなかった。エリゼを押し退けると、セラムたちは一目散に逃げていく。

 呼び止めかけて、やめた。あの様子だと協力は望めない。

 ここからどうしよう。どう動くべきなのか。

 すでにエリゼは次の行動を考えていた。

 ことのほか冷静な自分に気付く。こんな事態が起こっているのに、どうして私は彼女たちみたいに取り乱さないのだろう。

「……慣れちゃったのかしら」

 リィンたちに同行する最中、多くのハードな局面に直面してきた。逃げようとするよりも、何とかしようと思考を働かせている自分がいる。

 経験が確かな血肉になっている我が身を(かえり)みて、これが鉄火場慣れというものだろうかと、誇っていいのか悪いのか、エリゼは複雑な心境になった。

 なんにしても、恐怖にすくんで動けなくなるよりはマシか。

 思えば精霊の道で各地に転移する度に、魔獣に追われ続けたのだ。あの時はヴァリマールの嫌がらせかと恨みもしたが、実はメンタル強化に役立っていたらしい。

 体が大きいだけのあんな一匹、大したことない。

「大丈夫、やれる」

 奮い立たせるように口に出して、エリゼは止まっていた足を動かす。

 屋内が騒がしくなってきた。この西棟には侍女や使用人が多くいる。他の誰かも幻獣に気付いたのだろう。もしくはリゼットの情報伝達の方が早かったのかもしれない。

「きゃあああ! 魔獣~!」

「あんなのが近辺に生息してるなんて聞いてないぞ!」

「導力灯が壊れているんじゃなくて!? 早く整備士を呼んで下さいまし!」

「そんな悠長な……」

 通路の奥から大勢の使用人たちが団子になって押し寄せてくる。

 必死でその隙間をすり抜けながら、エリゼは流れに逆らって進んだ。

 どう見ても有事の指示系統が機能していない。これではまともな統制を保てずに、現場が混乱するだけだ。

 この状況下であれば、次に自分がとるべき行動は一つ。

「セドリック殿下たちをお守りしないと……!」

 

 ●

 

 西棟の玄関口から飛び出したエリゼの耳に、激しい銃撃の音が届く。

 中央棟へと伸びる芝生道の上では、警備兵と幻獣の戦いがすでに始まっていた。動きの遅い巨体を包囲しつつ、遠距離から銃弾の雨を浴びせている。しかし鎧のような外皮に弾かれ、さほどの効果はないようだった。

 兵士たちの後ろを横切って、エリゼは中央棟に向かう。その途中、戦う兵たちの中にリゼットの姿を見つけた。

「リゼットさん!」

「あ!? そんなとこで何やってんの!?」

 振り返るなり、リゼットは小銃を片手に駆け寄ってきた。

「私は中央棟に行って、殿下たちの避難誘導に加わります」

「そんなの、とっくに執事長あたりがやってるよ! 下がってな、邪魔だ!」

「混乱していて誘導ができていない可能性があります。状況だけでも確認したいんです!」

 地響きに足元が揺れる。まだ遠いが、着実にヴォルグリフが迫って来ていた。

 後続の増援が到着した。手に戦術オーブメントを持っている。散開して配置に着いた彼らはアーツを駆動させた。

 四方向から飛ぶ炎弾が幻獣を直撃する。燃え立つ炎の中でヴォルグリフが身をよじったように見えた。

「通じたか?」

「伏せて!」

 リゼットの襟首をつかんで無理やり地面に引き倒す。「あんた、なんのつもり!」と顔を上げようとする頭を力任せに抑えつけて、「起きちゃダメです!」とエリゼも身を低くした。

 直後、這いつくばる頭の上を凄まじい突風が過ぎる。敵の口から吐き出された空気の塊。風の爆弾とも言うべき威力が、周囲の景色を根こそぎ吹っ飛ばしていた。

「う……痛……っ」

「……ブレスだけでここまでか。勝てる気がしないね」

 体中にかぶった土くれを払いながら身を起こすと、今の攻撃で半数近い兵士が戦闘不能になっていた。

 皇族護衛の兵士だけのことはあって、逃げ出したり、戦意喪失している人はいないようだったが、手立てのない現状に変わりはない。

 しかしあの幻獣はなぜ中央棟を目指すのか。建物が狙いか、それとも人か。そもそも特定の何かを識別し、狙うなんてことをするのか。

 仮にそうだとしても、あそこにはアルノール家の方々と数名の関係者しかいないのに――

「皇族……?」

 歪みと乱れの集約点。

 なぜそう繋げたのか、自分でも分からない。

 普段なら不敬だと自分を戒めたかもしれない。けれど不意に湧いた答えはそれだった。

 仮定の話だが幻獣の目指す先が皇族なら、一時的に彼らを避難させても意味がない。ここを突破され、いずれは追いつかれてしまう。

 広大な敷地は切り立つ崖に囲まれている。自然の城砦とも言えるが、その反面、出るとなると手段は限られる。

 方法の一つが敷地内にある鉄道だ。ヘイムダルまで通じているから、それに乗ればひとまずは脱出できるだろう。だが発着場にたどり着くには幻獣を越えていかねばならないし、列車は離宮に常駐していないので、帝都から呼び寄せる必要がある。

 そんな時間はとてもない。

 倒さなければならない。今、この場で。

「リゼットさん、私の《ARCUS》はどこですか!」

「アークス? なに?」

「戦術オーブメントです、私の! 今だけでいいですから返して下さい。私も戦います!」

 リゼットは正気を疑う目を向けてきた。

「馬鹿言うんじゃないよ。了承できるわけないし、一人分の助力なんか役に立たないね。だいたい中央棟に行くんじゃないの?」

「事情が変わりました。先にあれを倒さないと、どのみち殿下たちが危険です」

「そもそもなんで戦術オーブメント持ってんだって話だよ。つーか戦えないだろ、あんたみたいなお嬢様は」

「中位アーツぐらいまでなら扱えます。サポートはできますから!」

「だから了承できないし、あたしにはその権限もない。無意味なことはやめときな」

「だったら権限を持っている人は誰ですか!?」

「そりゃ隊長だろうけど」

「隊長さんはどこです!?」

「そこにいるじゃんか」

 リゼットがあごで指し示した先、掘り返された花壇に頭から埋まっている男の姿が見えた。さっきのブレス攻撃に巻き込まれたようだ。完全に気絶しているらしく、ピクリとも動かない。

「そ、それなら副隊長さんに」

 言い終わらない内に追加の男が吹き飛んできて、隊長のとなりに同様の恰好で突き刺さる。

「それがうちの副隊長だ。二人そろって男前だろ」

「そんな……」

 歩みを止めない幻獣に銃撃、アーツが絶え間なく撃ち込まれる。激しい戦闘は継続中だ。ヴォルグリフの咆哮と兵士の悲鳴が交互に入り混じっていた。

 カレル離宮の兵は精鋭ぞろいではあるが、その分人数が多くない。いつしか東棟からの増援は途切れていた。

「潮時だ。もう少し時間を稼いだら、あたしらも撤退する」

「待って下さい! みんなで倒す方法を考えれば、もしかしたら何かが……」

「ない」

 冷徹にリゼットは否定した。

「引き際を見誤れば全滅する。兵力が半数以下になり、上官も指示を出せないこの状況になってまず優先すべきは、これ以上の損害を出さないよう速やかに退くことだ。きっと誰かが誘導して、皇族のお偉方ももう避難してるさ」

「さっきから中央棟には人の出入りがありません。みんな誰かがやるって思ってたら、誰も行ってないかもしれないのに!」

「よく見てるね。でも傍仕えの執事や侍女もついてるし、裏口から逃げてる可能性だってある」

「そんなことばかり、あなたは! 可能性で言うなら避難できてない可能性だってあるじゃないですか! それにもしあの幻獣の目指す先が殿下たちだったら、たとえ逃げていたって――」

「くどい!」

 リゼットに胸ぐらをつかまれたエリゼは、ぐいと顔を寄せられる。

「最優先で考えるべきは皇族の安全だってか? ご立派だとは思うけどね、あたしは違う。一番大事なのは自分の命だ」

「それでも近衛兵ですか……!」

「任務は任務でちゃんとやってるさ。ただ我が身を犠牲にしてまで、誰かを助けるほどの志は持ち合わせちゃいない」

「っ!」

「あんたの使命感を馬鹿にするつもりはない。だけどさ、こっちにまで押し付けんじゃないよ」

「………」

 感情では認めたくないが、理屈ではリゼットの言うことに一理あるのも分かっていた。

 巻き返しの望みがないのに、足りない兵力を総動員して攻撃を続けるというのは間違っている。

 幻獣が中央棟に向かうのは単なる進路上のことだけかもしれない。皇族を標的にしているというのも、自分の勘の話であって、当然根拠なんかない。であれば幻獣を倒す必要はなく、彼らの避難にのみ注力すればいい。

 そう、これは勘だ。

 ――だからこそ、最悪の可能性が頭から離れない。

「……《ARCUS》を返して下さい」

「このっ……!」

 首を絞めんばかりの勢いでリゼットの力が強くなる。負けじとエリゼも踏ん張った。

「分からず屋がっ!」

「どっちがっ!」

 ぱんと腕を払い、互い後ろにたたらを踏む。

「その戦術オーブメントを渡したとして、どうするつもり? あんた一人の力で何ができる!? 言ってみろ!」

「考えます。なんとかします」

「なんだそりゃ、答えになってないっての!」

 視線をぶつけ合い、にらみ合う。戦闘の真っ只中で立ち尽くす二人。

 怒号と戦いの音が近付いてくる。

 いつまでもエリゼの強い眼差しは揺るがず、とうとう根負けしたのはリゼットの方だった。

 わしゃわしゃと頭をかき、「……強情なやつ」と小さく嘆息してから彼女は言った。

「東棟二階の保管室」

「え?」

「入って右手にいくつかダイヤル式の金庫がある。押収物はその中に保管することになってるから、多分そこだと思う」

「リゼットさん……」

「今のはひとり言だ。考えてみりゃ、あんたが何してどうなろうが関係ないし。言っとくけど、あんたが戻ってきた時、あたしはここにいないから」

「リゼットさん」

「早く行きなよ。あんたと話してると調子が狂う」

「リゼットさん」

「なに。今さら謝ろうったって――」

「私、金庫の開け方わかりません」

「だー! そうだろうね!」

 花壇に埋まったままの隊長まで大股で近付くと、リゼットはそのズボンベルトに固定されていたキーの束をむしりとった。

「これ、七番の鍵!」

「は、はい」

「ダイヤル錠の真ん中にマスターキー用の差し込み口がある。いちいち番号を合わせなくても、これで開けられる」

 エリゼがこくこくとうなずくと、リゼットはそれをぽいっと投げ捨てた。

「大型魔獣の攻撃を受けた衝撃でその鍵は外れて、偶然そこに転がってた。それをあんたが勝手に拾って持っていった。いいね!」

「ええと」

「い、い、ね!?」

「はい!」

 剣幕に押し切られ、背すじを伸ばして返事をする。地面の上の鍵をつかむが早いか、エリゼは東棟に向かって走った。

 背中に聞こえる銃声の数が、明らかに少なくなっている。急がなくては――

  

 

 兵士は幻獣の迎撃の為に、全員が出払っているようだった。誰に見咎められることもなく、エリゼは東棟の物資保管室までたどり着く。

 教えられた通りの場所に金庫はあった。もらった、もとい拾ったキーを使って金庫を開いてみる。

「……あった」

 いくつかの押収物に紛れて、エリゼの《ARCUS》は置かれていた。管理ナンバーの書かれた札を取り外しながら、手早く状態をチェックする。

 見た目に破損はなく、クオーツも抜かれていない。ユミルでの戦闘時のままだから、攻撃、回復用のクオーツがそろっていたのは幸運だった。

 愛用のレイピアもここにあるはずだが、それは見つからなかった。あいにくゆっくりと探す時間もない。

 意志を繋げる相手もおらず、リンク機能の役割を失った《ARCUS》を手に、エリゼは来た道を急いで引き返す。

 

 エリゼが再び中央棟前に戻ってきた時、兵士はもう残っていなかった。戦闘不能になって転がっているか、リゼットの言うように撤退したかだろう。

 そしてそのリゼットの姿も、すでにここには――。

「リゼットさん!?」

 いた。膝をついて、地面に立てたライフルに寄りかかっている。慌てて駆け寄ると、彼女は擦り傷だらけの顔を向けてきた。

「……ほんとに戻ってきたんだ。このまま逃げるんじゃないかって半分くらいは思ってたんだけどね。っ……敵に近付いてもいないのに、攻撃の余波を食らってこのざまだ」

「動かないで下さい。今、回復のアーツをかけますから」

 《ARCUS》から発した静謐な光がリゼットを包む。

「リゼットさんこそ、なんで逃げなかったんですか? 撤退するって言ってたのに」

「別に。あんたと無駄話してたせいで、逃げる機を逸したんだよ」

 そんなはずはない。あの時点でもまだ逃げる時間は十分にあった。無言でじっとその目を見つめると、居心地悪そうにリゼットの視線が逸れていく。

「……この期に及んで、本当にあんたが戻ってくるような馬鹿だったらさ。多分一人でも戦うんでしょ」

「ええ、最初からそのつもりでしたし……」

「勝手に死なれても後味悪いし、首根っこつかまえてでもここから離れさせようと思った。それだけ」

 ぶっきらぼうに吐き捨てて、顔も逸らす。

 この人は嘘ばっかりだ。

 あんたがどうなってもあたしには関係ない。そう言った彼女の言葉でさえ嘘だった。

「優しいんですね」

「ばっ……んなわけないだろ! 次そんなこと言ったら殴るよ! しかもグーで! グーは痛いんだからな!?」

 カレル離宮で近衛兵をやっているということは、この人も貴族なのか。そんな感じには見えないけど。

 よろと立ち上がったリゼットは、ライフルを肩に担ぐ。

「よっ……と。まあまあ動けるね」

 アーツで傷が治ったりはしないが、幾分の体力は戻ったらしい。さっきより肌の血色も良くなっている。

「で、どうすんの? マジであれとやり合うわけ? やっぱりあたしは逃げた方が利口だと思うけどな」

 ズシン……ズシンと幻獣が近付いてくる。あの速度であっても、五分経たずにここまで到達するだろう。ヴォルグリフと中央棟、その中間点にエリゼとリゼットは位置している。

「やれるだけやってみましょう。逃げるのはそれからです。リゼットさんの装備は?」

「この軍用ライフルと支給された戦術オーブメントのみ。ちなみにアーツは不得意だよ」

「わかりました。私は幻獣に接近して攻撃を仕掛けてみます。私が駆動準備に入ったら、リゼットさんは注意を引き付けて下さい」

「アーツは効かないって、あんたも見てたろ? あ、待ちなって!」

 リゼットの制止は聞かず、エリゼはヴォルグリフの側面に回り込むように、大きく迂回するルートをとって走った。

 得体の知れない幻獣の特性を、常識で推し量ることはできない。しかし見た目で分かることもある。

 顔前面に位置する目とその形状から考えるに、しっかりと横を見るには頭ごと振らねばならないはずだ。そして張り出た顎が邪魔になり、前足付近はおそらく死角になっている。

 一歩の着足の衝撃で、足元が地震のように揺れる。こけそうになりながらも、エリゼは目標の一点を目指した。

 接近にするにつれ、その巨体に圧倒される。思わず息を呑んで《ARCUS》を握りしめた。

 こんな至近距離でさっきの息を食らったらどうなる。吹き飛ぶ程度では済まない。リゼットの前ではああ言ったものの、できればこんな相手に近付きたくなどなかった。

 だけどこれしか思いつかなかったのだ。

 できるだけ素早く、かつ慎重に進み続け、エリゼは幻獣の足元まで移動することに成功した。まだ気付かれていない。すかさずアーツを駆動させる。

 同時に響く銃声。ヴォルグリフの鋼皮に火花が散った。

「こっちだよ、デカブツ!」

 銃を連射しながら、リゼットが動き回る。ちゃんと囮役を引き受けてくれていた。

 うっとうしい羽虫程度には思ったのか、ギロと幻獣の目が彼女を追う。口の中に吸い込まれていく莫大な空気。まずい。ブレスを撃たれる。

 ぎりぎりでアーツ駆動が間に合った。

 氷の刃が生成され、開かれた大口に直接《フロストエッジ》を叩き込む。冷気が突き抜け、幻獣の口腔内の筋肉を瞬間的に収縮させた。『ゴガアッ』としゃがれた嗚咽を漏らして、ため込んだ空気が放散していく。

 初めてヴォルグリフの歩みが止まった。

 狙い通りだ。外皮には効かなくても、直接体内に攻撃すれば通じると思っていた。

「もう一発――」

「ばかっ、退きな!」

 リゼットを見ていたはずの目が、明確な敵意を湛えてエリゼに向けられていた。

 太い足が持ち上がる。踏み潰すつもりだ。

 突然、ヴォルグリフが悲鳴じみた雄叫びを上げた。かろうじて逸れた足裏が、勢いよく芝生をえぐって深い跡を残す。間一髪で逃れたエリゼは、転げるようにしてリゼットの元まで戻った。

「危なっかしいったらありゃしない! あんな相手に踏み込み過ぎだよ!」

「す、すみません。でもどうして銃が効いてるんですか?」

「あんたの攻撃を見て思いついた。外皮以外なら硬くないだろ?」

 言いながらライフルのスコープを見て、リゼットは引き金を絞る。吐き出された弾丸は、50アージュは離れたヴォルグリフの目に命中した。

 狙撃に特化した種類ではないとはいえ、この距離はライフルの射程内だ。しかしあんなに小さな的、ましてや動く相手に、ああも容易く当てられるものか?

 エリゼが呆然としている間にも、立て続けに放たれた弾丸はヴォルグリフの両目を交互に穿ち続けている。

 苦痛に叫ぶ幻獣の声が、腹の底をビリビリと痺れさせた。

「っ! いけない!」

 また空気を吸い込もうとしている。効果範囲まで接近して、エリゼはもう一度アーツを駆動させた。今度は《ヒートウェイブ》だ。熱せられた地面から炎が立ち昇り、周囲の大気を灼熱させる。

 高熱に炙られた熱波を体内に取り込んだヴォルグリフは激しく喘ぐものの、しかしその空気の砲弾を半ば強引に撃ち放った。

 狙いを定めずに撃ってくれたおかげで直撃は免れたが、二人して逆流してきた熱波に煽られてしまう。

「う、うぅ……」

 もう辺りはめちゃくちゃだ。

 瓦礫の一つとなって倒れ込んだエリゼは、力なく顔だけ上げてリゼットの姿を探した。

 少し離れた場所に彼女も倒れている。

 視線を幻獣に移す。大きな体がふらつき、ゴヒューゴヒューと不自然な呼吸をしていた。

 ダメージは確かに蓄積されている。だが決定打が足りない。あと何発か同様の攻撃を繰り返せば、なんとかなるかもしれないのに。

 もう体が動かない。

 幻獣が大きく息を吸う。銃弾に傷つけられた両眼は、それでも伏すエリゼとリゼットを捉えていた。

「兄様――」

 待っているって言ったのに、約束を守れなくてごめんなさい。

 閉ざす瞳の裏でリィンの顔を浮かべ、凶暴な唸り声がそれをかき消す。

 エリゼの意識が暗闇の淵に落ちかけた刹那、どこからか飛来した灰色の塊が幻獣の牙を鋭く打ち据えた。

「なにが……?」

 予想外の出来事にどうにか気を繋ぎ止め、エリゼは首を巡らす。

 中央棟の屋上に誰かが立っていた。ダークグレーのスーツを着た男性だと分かったが、逆光に塗り込められた顔までは見えない。

「レーグニッツ投法、ファーストフォーム《デスパレード》」

 人影は確かにそう言った。 

 

 

 屋上から眼下の惨状を見下ろすカール・レーグニッツは、かたわらに詰み上げられた手の平大の石をつかんだ。

「普通の魔獣ではないようだが……正体が何であれ、この離宮にそれ以上近づけることはできんな」

 ウォーミングアップがてらに肩を回すカールに、セドリックが小脇に抱えた石片を運んで来る。

「これくらいの大きさでいいですか?」

「申し訳ありません。殿下にこのような力添えをお願いすることになろうとは……」

 セドリックは首を横に振った。

「いえ、僕にできることでしたら、何でも言って下さい」

「身に余るお言葉、謹んで賜ります。しかしもうご心配には及びません。石の量は十分ですし、勇気ある者たちが時間も稼いでくれました」

 屋上の際に立つカールは、鋭い目つきでヴォルグリフを睥睨した。

「牙とは歯。歯はあごに繋がるもの。すなわち、牙に与えられた振動は、あごの骨を伝って体内に直接響く」

 片足を大きく振り上げ、上半身を引き絞る。スーツの下に鍛え上げられた筋肉が、背広を破きそうになっていた。

「続けて受けるといい。レーグニッツ投法、セカンドフォーム《デスサイズ》の切れ味を」

 強靭な投石器と化した帝都知事は、不敵に眼鏡を光らせた。

 

 

 鋭い弧を描いて風を裂く石片が、寸分たがわずヴォルグリフの牙に突き刺さる。

 一発では終わらない。変幻自在の変化球が嵐のごとく襲い掛かっていた。

「大丈夫かい? 立てる?」

「な、なんとか」

 先に体を起こしたリゼットがエリゼの横までやってくる。彼女の肩を借りて、どうにか立ち上がったエリゼは今一度屋上を見上げた。

 雲が太陽を隠しているおかげで、件の人物が誰なのかはすでに判明していた。

「一体何が起きてるんですか?」

「あたしにもよく分かんない。なんかスーツのおっさんが屋上から凄い勢いで石投げてんだけど」

「それはそうですけど……もうちょっと他に言い方があるでしょう。あの方、知事閣下ですよ?」

「やっぱそうだよね。よくもまあヘイムダル占領の時、抵抗もせずこちらの指示に従ってくれたもんだよ」

 ズドンと特大の石が撃ち込まれた。

 びきりと牙に亀裂が走り、ヴォルグリフが前膝を折る。あごから地面に落ち、土煙が舞い上がった。

 しかしまだだ。滞留する土煙が口の端から吸い込まれていく。最後の抵抗なのだろう。あれを撃たせるわけにはいかない。

「リゼットさん。動けますか?」

「あばらを痛めてるみたいだから、大して動けないと思う。でも根性は見せるよ。あたしは何をしたらいい?」

「今から幻獣の口を開けます。そこに思いきりアーツを撃ち込んで下さい」

「アーツは苦手……とも言ってられないか。もう駆動準備に入るから、あとは任せた」

 どうやって口を開けるんだと、リゼットは聞き返してこなかった。「行きます」とだけ告げて、エリゼはヴォルグリフの顔面に向かって正面から駆け出す。顔だけでもとてつもない大きさだ。

 最後の手段が残っていた。

 エリゼは腰に引っかけてあった、白い毛糸の小袋に手を伸ばす。それはセリーヌにプレゼントしたマフラーの余りの生地で作ったと、エマからもらったものだった。

 その小袋から、あるものを取り出す。それはリィンと一緒にパンタグリュエルに飛ぶ直前、フィーから預けられたものだった。

 マクバーン相手に使おうとして果たせず、結局使いどころが無くなっていた奥の手の一発。

「ピンを外して五秒後……!」

 閃光手榴弾。ノルドの監視塔でも一回使っている。

 弾いたピンが宙に舞う。口中でカウントダウンを刻む。

 まだ投げない。百パーセント狙い通りの場所にこれを送り込む為には――

「ええい!」

 腕を思いきり突き出し、ヴォルグリフの口の隙間から直接閃光弾を押し入れた。

 ユミル最強の十八番。ルシア直伝、雪帝掌が炸裂する。

 すぐに手を引き、耳をふさいで目を閉じる。直後に爆発する鮮烈な光と大音響。

 目的は光ではなく、この音。普通なら鼓膜が内側から破壊されていてもおかしくない。幻獣に鼓膜があるかは知らないが、感覚器を有している以上、必ず何らかの効果は出るはずだ。

 光と音が収まっていく。小刻みに震える口が、重々しく開いた。

「離れな! ぶっ放すよ!」

 間髪入れずにリゼットのアーツが駆動した。虚空を走った雷撃が喉の奥に飛び込み、体の中から焼き焦がす。

 《ARCUS》の戦術リンクを使った時みたいに、これ以上ない最高のタイミングだった。

「これが一番効くだろ。……もう立つんじゃないよ。これ以上はさすがに――」

「大丈夫……やりました」

 かすれた断末魔。

 まばゆい銀色の光粒になって、幻獣の体が霧散していく。景色に溶け込むように薄れ、やがてヴォルグリフは完全に消滅した。

「はは……勝った? 本当に?」

 どさっとリゼットが仰向けに寝転がる。限界などとうに超えているのだろう。自分だって同じだ。

 彼女に続こうとしたエリゼの視界の端に、小さく煌めくものが映る。

 幻獣が消えたその場所に、光る石のようなものが落ちていた。近付いてそれを拾い上げる。

「なにかしら、これ。クオーツにも似てるけど……?」

 不思議な輝きを宿す珠を、エリゼは空にかざしてみた。

 

 ●

 

 荒れに荒れた敷地内の修復は、夜になっても終わる気配がなかった。

 しばらくは使用人、兵士含めて原状回復に没頭することになるだろう。きれいさっぱり土景色になった花壇の前で立ち尽くす執事長の後ろ姿には、なんとも言えない悲壮感が漂っていたものだが。

「痛……」

 カーテンに仕切られた自室のベッドで、エリゼは体を休めている。打ち身と擦り傷で少し動くだけでも、あちこちが痛んだ。

 苦労して上体を起こし、ベッドに座る。それだけの動作に数分を要した。

 カレル離宮の混乱は、一応の収束を見せている。もちろん忙しい人たちは忙しいままではあるが。

 引き続き警戒を厳にしながら、今後の防衛対策の練り直し。緊急時マニュアルの想定内容の追加。情報伝達の仕組みの再見直しと周知徹底など、ようやく団体らしい機能が動き始めたようだった。

 それは関わる人たちでやってくれたらいい。とにかく今日は疲れた。五体満足でいられることが奇跡に思える。

 エリゼが包帯の巻かれた細腕に目を落とした時、カーテンの向こうから話し声がした。

「まったく散々でしたわ。警備兵の方々は一体何をしていらっしゃったのかしら。そうは思いませんこと?」

「本当ですね。見張りの人数をもっと増やせばいいのに」

「私も思います」

 同室の三人、サターニャとルシルが相変わらずセラムの言葉に追従している。いつもの愚痴だ。

 ひとしきりの不満を並べ立てたあと、話題が自分へと移ってきた。

「そういえば、ほら。魔獣が現れた時、エリゼさんったらずいぶん慌てていましたわね。普段のすましたお顔がどこへやら」

 クスクスと聞こえてくる笑い声。その言葉はそっくりそのままセラムたちに返したい。

 腹を立てるのも馬鹿馬鹿しいし、今はそんな体力もない。エリゼは聞き流すつもりだった。

「ところで、わたくし思い出しましたの。シュバルツァーってユミル地方を治めている領主の家名でしたわ。帝都での公事にも長く来ていなかったし、忘れていましたけど」

「来ていない? どうしてですか?」

 不思議そうにサターニャが訊ねる。「お父様から聞いたんですけど、それはあ……」ともったいぶったようにセラムは言った。

「何年か前にシュバルツァー男爵は山中で捨て子を拾ったんですって。血統も分からない子供を貴族家に迎え入れるなんて愚挙をしたのですから、当然おめおめと衆目の前に姿は見せられないでしょう」

「まあ、本当ですか?」

「……物好きな」

 セラムは嘲笑を吐いて、こう続けた。

「考えられませんわよね。そんな得体の知れない浮浪児を拾って育てるだなんて」

 エリゼの中の何かが切れた。

 自分のことなら別にいい。両親のことでも我慢はできた。でも、それだけは許さない。 

 体の痛みさえ忘れて、気付けば弾かれたように立ち上がっていた。抑えられない激情に任せるまま、勢いよくカーテンを引き開く。

 呆気に取られたセラムたちの瞳が、丸く開かれていた。

「ち、ちょっといきなりなんですの? 失礼じゃありませんこと!?」

「知らないくせに……何も、兄様のこと」

 さらに詰め寄って、右手を振り上げる。凄みのあるエリゼの目に射竦められ、セラムが身を固くした。もう止められないし、止めるつもりもなかった。

 この後、もっとひどい仕返しをされるのかもしれない。けれど、そんなのどうだっていい。

 大切なものを踏みにじられてなお、物わかりよく矛を収めることができるほど、自分は人間ができていない。

「ひっ、いや……!?」

 その右手が思いきり振り抜かれる寸前、ノックもなく部屋のドアが開いた。 

「邪魔するよ。って取り込み中だった?」

 つかつかとリゼットが室内に入ってくる。爆発間際だった心中の温度がわずかに下がり、上げていた腕も下りていく。その声と姿で我に返ったのは自分でも意外だった。

「まあ、いいか。先に用件だけ伝えるよ」

 リゼットはエリゼに目をやる。

「今すぐ荷物をまとめな。引っ越しだ」

「引っ越し……どこへですか?」

「あたしの部屋。同室だけど、別にいいでしょ?」

 にっと笑う。

 口を挟んだのはセラムだった。

「ちょっとリゼットさん? そんなことを勝手に決められたら困りますし、第一あなたにそんな権限はないでしょう」

「あんた達が困ることは一つもないと思うけどねえ。それと権限ならあるよ」

「は?」

 リゼットは軍服の胸に付けられたバッジをツンツンとつつく。それを見たセラムたちは言葉を失っていた。

「略式だけどさっき早々に済ましてきた。今日からあたしは警護隊の副隊長だ」

「な、なんであなたが?」

「そりゃ隊長と副隊長がそろって大ケガしちまって任務に付けないから。それであたしにその役が回ってくるってのは、さすがに予想してなかったけどさ。在籍年数が長いからかね」

 妥当だとエリゼは思った。おそらく今日の功績が認められたのだ。

 彼女の行動を広めたのは誰かと考えた脳裏に、眼鏡の知事の顔がよぎった。彼も保護という名目でここにいる以上、物を発言できる立場にはあるのだろう。もちろん、人事への口出しまではできまいが。

「正確には“副隊長兼隊長業務代行”だ。だから役職は副隊長だけど、権限は隊長と同等だと思ってもらっていい。副隊長以上には個室も与えられるし、部屋替え程度の指示はなにも問題ないと思うけど?」

「だったら、なんでエリゼさんが移動なのか説明して下さい」

「あんたには関係ないよ」

「わたくしは侯爵家の――」

「それも関係ないね」

 セラムの言を切り捨てたリゼットは「あんたも異議がないんだったら、早く準備しな」と、自分と同様に包帯の巻かれた腕で、エリゼの部屋スペースを指さした。

 言われたとおりに応じて、エリゼは手早く着替えだけを取りまとめる。大して持っていくものもなかった。

「よし、じゃあ行こうか」

「え、ええ」

 刺さる視線は気にしないようにして、エリゼは先に通路へと出る。続くリゼットはドアを閉める前に、セラムたちに振り返った。

「あ、そうそう。あんたたちは明日から一週間、全棟のトイレ掃除な」

 口をあんぐりあけて、セラムは反論する。

「なんでですの!?」

「あんたたち三人、あのでっかい魔獣を見て一目散に逃げたらしいね。一切誰にも報告せず。そのペナルティにしては恩情をかけてやったつもりだよ」

「そ、そんなの他の皆さんだって……。わたくしたちだけペナルティなんて納得できません。横暴ですわ! 上に言い付けますから!」

「あんたたちの諸事申し立ての一次担当はあたしにしといたから。お姉さんに何でも相談してちょうだいな」

「くううっ!」

 投げつけられた枕が、閉めた扉にぶつかった。

 

 

「あいつらの顔見たかい? 傑作だったね」

 からからと楽しそうに笑うリゼットと肩を並べて、エリゼは絨毯敷きの通路を歩いていた。

「でも、あんなことしていいんですか?」

「いいんだよ、別に。副隊長だなんて面倒を請け負うんだ。与えられた職権は使わなきゃ損さ」

「そういうものですか」

「そ。部屋は三階の一番奥な」

 本来兵士用の部屋は東棟なのだが、リゼットは使用人詰所でもあるこの西棟に個室を用意したらしい。

「あんな男だらけのむさい場所はごめんだし。さすがにあんたを向こうに呼ぶってのはダメだろうし」

「でも隊長業務もこなすのでしたら、東棟に腰を据えた方が何かと便利じゃないんですか?」

「日中は東棟で勤務なんだから、別に構わないしょ」

 エリゼは足を止めた。

「リゼットさん。どうして私を同室にしようとしたんですか?」

 リゼットも立ち止まった。

「理由は二つ。一つは面白そうだったから」

「面白そう?」

「ずっと閃光弾を隠し持ってた上に、あんなでっかいのの口に直接突っ込むなんてさ。お堅いお嬢様かと思ってたけど中々どうしてぶっ飛んでる」

「それを面白いって言われても……もう一つは?」

「あんたが気に入ったから」

 淡々と告げるリゼットだが、エリゼもまた彼女に興味を抱いていた。

 “らしくない”領邦軍兵士が、ここにいる理由に。

「リゼット・ヴェールだ。改めてよろしく」

「エリゼ・シュバルツァーです。こちらこそ」

 それは大局には影響を及ぼさない、取るに足らない邂逅のはずだった。かちりと時計の針が進む音が、不意にエリゼの耳朶を打つ。

「さてとエリゼ。今度こそちゃんと話してもらうからね。あんたが何者なのか。同室の相手に隠し事は無しだよ」

 思いのほか子供っぽいウインクをして、リゼットはエリゼの額を小突いてみせた。

 

 

 ――続く――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――Side Stories――

 

 

《エールオブモニカ④》

 

 昼時だというのに、食堂には誰もいなかった。

 明らかな不自然を訝しげに思いながらも、ナイトハルトは運ばれてきた昼食に目を落とす。トレイの上にはコッペパンに出来物のコンビーフ、オニオンサラダ、あとは具の少ないスープである。

「ごめんなさい。食材が少なくて、なかなかメニューが増やせないんです」

 食事を運んで来たのはフィオナ・クレイグだ。双竜橋で救出後、ガレリア駐屯地で保護するようになってから数日。何もせずに滞在するのは気が咎めると、彼女は炊事洗濯などを自ら手伝ってくれている。

「いえ、お気になさらず。質素倹約は軍人として然るべき心構えです」

「近々ケルディックからの物資も届くそうですし、そうすれば皆さんにもっと精の付くものをお作りしますね」

「は……」

 ナイトハルトはちらりと入口扉を見やる。

 やはり誰も来ない。いつものこの時間は兵士たちでごった返すはずなのに。いったいどうなっているのだ。

 フィオナもそこは不思議なようで「皆さん、昼食は召し上がらないんですか?」と小首をかしげている。「いえ、普段はこうではないのですが」と応じつつ、ナイトハルトはひとまずスープを口にした。

「……おお」

 うまい。無駄に塩気の強い軍食とは違い、ちゃんとした味付けがしてある。限られた食材だけで、よくここまでのものが仕上がるものだ。

「どうですか? お口に合えばいいのですけど」

「ええ、とてもおいしいです」

「良かった。ふふ」

 にこりと微笑むフィオナ。ナイトハルトは妙に落ち着かない心地になった。

 トールズ士官学院を卒業し、軍に入隊したのが十年前。

 第四機甲師団に配属された後は、当時から隊を束ねていたクレイグ准将に目をかけられ、公私共によく面倒を見てもらっていた。

 休暇が重なったりすると邸宅に招かれ、食事を振る舞ってもらったりもした。フィオナとはその時に出会っている。

 かつて女学生だった彼女は、今や一人の女性として美しく成長していた。

 奥方に似たのだろうか。写真でしか見たことのないその人と重ね合わせ、ふとそんなことを考える。

「あの、どうかしましたか?」

「あ、いや。失礼」

 知らずの内に顔をまじまじと見てしまっていた。ほのかに頬に赤みを増したフィオナから視線を外し、ナイトハルトは無心でコッペパンにかじりつく。

 何か話したほうがいいのだろうか? だとして何を? 彼女の興味がありそうな話題など持ち合わせていない。だがそれでも何かを言わねばいけない気がする。

 《剛撃》の二つ名を持つ男は考えに考え抜いた末、ようやく口を開いた。

「今後の領邦軍の動向ですが、やはりバリアハート方面が重要になってきます。つまり我々が取るべき対応としては補給ルートの確立と、先んじて侵攻の情報を得ることこそが……」

 フィオナはきょとんとしている。

 違う、これではない。外からは戦車のエンジン音が聞こえてくる。メンテナンスに時間が掛かっているのか。戦車……そうだ、戦車!

「戦車といえばラインフォルト社が主流ですが、部品一つ異なるだけで取り回しの感覚が異なるのです。フィオナさんは戦車の性能などに興味はありませんか?」

「いえ、特には……」

「……そうでしょうね」

 剛撃的な話題しか出てこない。いや剛撃的な話題とはなんだ。落ち着け、ナイトハルト。

 だいたい《剛撃》などと誰が言い始めたのだ。自分はそんな名付けを頼んでないのに。剛撃とはなんだ。自分にとっての剛撃とは。

 いかん、剛撃から思考を外せ。また剛撃的な話題が口から出るぞ。だから剛撃的な話題とはなんなのだ。

「ぐおおお!」

「あ、あのどうされました? お水を持ってきますね?」

 焦るフィオナがパタパタと厨房に走っていく。

 

 

 一人で勝手に追い詰められたナイトハルトが剛撃的な無限ループに入り込んでしまった頃、食堂前のスペースでは。

「やっと昼食時だってのによ……」

「ああ、腹減ったぜ……」

「なんの仕打ちだよ、こりゃあ」

 口々に不満をもらす男性兵士たち。彼らの前に立ちはだかるのは、横一列の壁を成す女性兵士たちだった。誰もがサーベルを床に突き立て、不動の仁王立ち。その威圧感たるや、城砦のごとしである。

「ウィルジニー隊長! なぜ我らは食堂に入れないのです!」

 耐えかねた一人が声をあらげた。女性軍の中央に立つウィルジニー戦車隊長は「おだまりなさい」とそれを一蹴する。男衆も男衆で、その迫力に口をつぐんだ。

「今この食堂の中ではとても重要なイベントが発生しているの。あなた達の昼食なんかよりよっぽど重要な、ね」

「はあ、してその重要なイベントとは?」

「教えない。詮索も許可しない」

 これではさすがに男性陣も引き下がれなかった。

「なあ、モニカちゃん。君も事情を知っているなら説明してくれよ」

 視線を向けられ、モニカはびくりと肩を震わせた。

 なぜか女性隊列に加えられていた彼女は、なるべく目立たないように列の端に控えていた。その手にあるのは剣ではなく掃除用モップだったが。

「えーと、その……これはですね」

 人払いをする事情は知っていた。

 フィオナとナイトハルト。その二人だけの空間を作るためである。

 ウィルジニーが言うに、二人には微妙な壁があるという。

 フィオナにしてみれば父の部下、ナイトハルトにしてみれば上官の娘。お互い旧知の間柄ではあるものの、同時に“失礼をしてはいけない関係同士”でもある。

 その意識が、どこか遠慮し合う雰囲気を作っているのだとか。

 まるで別世界の話のように思えたが、理解できなくはなかった。むしろ、そういった壁を乗り越えて結ばれるのだと思うと、なんだか素敵な話にも感じてしまう。

 実際そんな感情が二人にあるのか、どちらにも初対面であるモニカにはわからない。どちらかといえば、このシチュエーションを作り出すことでウィルジニーらが楽しんでいるようにも思えるが、それはさておき。

 他人の色恋には興味を持ち、興味を持てばこそ応援もする。まだ再会できない友人の恋模様とも重ね合わせ、モニカは首を横に振った。

「ごめんなさい。言えません」

 それでも中々引き下がらない男性陣たちに、ウィルジニーは言った。

「ちょっとぐらい昼食の時間がずれるくらいで騒ぎ立てて、まったく情けない。わかったわ、もういい」

 彼女が右手を振り上げると、近くに停めてあった戦車の一台が起動した。ギリギリギリと回転した砲塔が、聞き分けのない男たちに向けられる。

「や、やばいぞ!」

「いや、さすがに脅しだろ」

「ここで引いては帝国男子の名がすたるぞ。断固応戦の構えを崩すな!」

「飯を食わせろー! 我らに飯をー!」

 アンニュイな嘆息を吐くウィルジニー。その瞳が細まり、妖艶な色香を漂わせていた。前触れなく、こういう目をする女性は危険である。

「うふふ、撃ち方構え。あなた達の何人かは夕飯のハンバーグの材料になるわね。そうでしょ、モニカちゃん」

 急に話題を振られ、とっさにうなずいてしまう。

「え、はい。そのう……こんな感じでミンチ肉になった皆さんをこね回したいと思いますが……」

 いったい私はなにを言ってるんだろう。自問自答はしつつも、ギュッギュッと手ごね感のある手つきを披露した。

 砲塔の奥からガコンという音が響く。弾が装填されたのだ。

「さようなら。今日のディナーでまた会いましょう」

「総員撤退ーっ!!」

 蜘蛛の子を散らすように、男たちは全力疾走で逃げていった。

 誰もいなくなった一帯。女性隊員たちは食堂周りに取り付き、こそこそと聞き耳を立てたり、窓から中の様子をのぞき見ようとしていたりする。

 そんな中、ウィルジニーがモニカに歩み寄ってきた。

「ありがとう、モニカちゃん。協力してくれて」

「いえ、私にできることでしたら」

「じゃあ次は私が協力する番ね」

「え?」

「あれよ、あれ」

 ウィルジニーが見る先に、ベンチに座ってぶつぶつ呟くムンクの姿があった。

 好きだったラジオ番組が終わったり、ラジオも調子が悪かったりと、何かとテンションの低かったムンク。

 なんとか元気づけようとしていたモニカだったが、あの日トヴァルがラジオを撃ち抜いたせいで彼の精神は完全に崩壊してしまった。

「ムンク君を元気にさせたいんでしょ。任せておいて」

「前に軍隊式で気合いを入れるって言ってたあれですか? 歓迎委員会を組織するとか」

「そうそう、それ。人数も集まってるし、このままやっちゃいましょうよ」

 ウィルジニーが合図をすると、事情を聞いていたらしい女性隊員たちはのぞきをピタリと止め、機敏な動きで配置についた。

 両脇を抱えられ、引きずられるように連行されたムンクは、演習場のど真ん中にぞんざいに投げ捨てられる。その彼を三台の戦車が包囲した。

「あ、あの……ウィルジニーさん?」

「始めるわ。モニカちゃんも手伝ってね」

 ろくな説明もなく、ウィルジニーは上げていた腕を振り下ろした。

 三つの砲塔が同時に火を噴く。モニカが悲鳴を上げるよりも早く、ムンクは爆発の中に消えた。直視してはいけないハンバーグの材料的なものが、色々飛び散っていた。

 

 ☆ ☆ ☆

 




お付き合い頂き、ありがとうございます。

幻獣戦の勝因
①強制開口、エリゼの閃光手榴弾
②目潰し上等、リゼットのライフル
③中年乱舞、おっさんの石

ちなみにエリゼの手榴弾について、
・離宮に来た時点で手榴弾が押収されなかったのは、ノルド監視塔の時と同様にスカートの中に引っかけていた為。
・通常清掃中も手榴弾を肌身につけていたのは、部屋に置いたままにして万が一にも発見されるのを防ぐ為。
そんな裏設定があったりします。ストーリー的には対マクバーンではなく、元々今回のヴォルグリフ戦用でした。フィーちゃんグッジョブ。さよならムンク。

尚、カレル離宮周りの描写はゲーム本編よりフラットな地形を想定しています。


次回から久々の日常パート。ルーレ編に入るまでがっつりやって、サブストーリーも進めようと思います。

次話はトワ主役。
ケルディック寄航日、『トワ艦長の忙しない一日』でお送りします。

一話丸々トワ視点で展開するストーリーは何気に初めてですね。
引き続きお楽しみ頂ければ幸いです。




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