虹の軌跡Ⅱ Prism of 《ARCUS》   作:テッチー

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第57話 クロス・ノイジング

 館外に広がる自然は壮観、館内はどこを見ても美麗。

 調度品は一流の物しかなく、しかし主張し過ぎず風景の一つとして馴染んでいる。建築物としての格式も高くなければ、このような調和は決して生まれない。

 まるで一個の芸術。

 ヘイムダル近郊にあり、皇族が所有するこのカレル離宮はそういう場所だった。

 広大な敷地内に建物はいくつかあって、大きく分ければ近衛兵などが詰める東棟、使用人や侍女などの生活区となっている西棟、そして皇族や要人などが腰を据える中央棟である。

 館内警護の為、あるいは身辺の用命を仰せつかる為に、東西から中央棟に仕えにいくという感覚が一番近いかもしれない。

 今日のエリゼの担当区域はその中央棟、一階通路の清掃だった。

「……はあ。広い」

 雑巾を片手に思わずつぶやく。もれた吐息が窓ガラスに白いくもりを生んだ。窓の向こうに見える景色は素晴らしいものなのだが。

 《パンタグリュエル》からカレル離宮に移送されて、今日で一週間。

 末席の侍女の名目で連れてこられた身に相応しく、回ってくる仕事は清掃を始めとした雑務の数々だった。

 それでも捕虜の扱いを受けないというのは、相当の好待遇であるということも分かっていた。

 自分がここに来た本当の経緯は誰も知らないようだ。それらしい事情をでっちあげたのだろう。怪しむ視線は向けられるものの、正面きって問い質されもしない。クロウが図ってくれた便宜である。

「双竜橋が落とされただと?」

「は、例の《紅き翼》の介入で状況が混乱したものと思われます」

 通路の奥から近付く足音と話し声を聞いて、エリゼは止まっていた手を慌てて動かした。

「どういうことだ。正規軍に助力したということか」

「現場からの報告では連携を取っている様子は見受けられず、おそらくは独自行動かと」

「介入の動機は?」 

「不明ですが、敵戦闘員の降下前にアルフィン皇女と思われる人物の声明があったそうです」

「馬鹿をいうな。皇女殿下はパンタグリュエルに保護しているのだろう。事の真偽は?」

「それも不明です。旗艦からの通達はありません」

 二人の男性の会話。歩いてくる彼らをちらりと見ると、近衛兵部隊の隊長と副隊長だとわかった。離宮に着いた時に面通しはしている。

 《紅き翼》――カレイジャス。敵戦闘員というのはⅦ組のことだろうか。もう少し詳しく聞きたい。

 無関心を装い、エリゼは窓を拭き続けた。しかしそれ以上のことは彼らも口にしなかった。

 特に声をかけられるでもなく、男たちは通り過ぎていく。

 二人の後ろにはもう一人いた。小脇に書類の挟まったバインダーを抱え、隊長と副隊長に続く女性兵士。

 離宮に着いた初日、館内を案内してくれた人。確かリゼットという名前だ。終始事務的で、そっけない態度だったことを覚えている。

 最初の印象もあって、エリゼはこのリゼットが少し苦手だった。

 すれ違う時、リゼットはエリゼを一瞥した。一瞬だけ合った視線はすぐに外され、興味のない目が再び正面に据え直される。

 冷たい空気、とは違う。温度がない、と表現すべきか。

 いずれにせよ、関わりを持ちたいとは思えない。

 腰をかがめたエリゼは、ほこりで汚れたぞうきんをバケツの水につける。拭き残している窓の枚数を数えると、頭が痛くなりそうだった。

 

 

《クロス・ノイジング》

 

 

 手を抜くことなく全ての窓ガラスを磨き上げ、その他割り当て分の区画の清掃も終える。

 モップとバケツを手に用具置き場に戻ろうとしたところで、後ろから声をかけられた。

「あの……もしかしてエリゼさん?」

「え?」

 聞き覚えのある優しげな声音。振り返った視界に入るのは、ブロンド髪と赤色が印象的な礼服。

 セドリック・ライゼ・アルノールだった。エレボニア帝国第二皇子にして、アルフィンの双子の弟だ。

 保護という名目で――おそらく本当にそう思っている兵士も多いらしい――皇族が幽閉されている場所である。彼がここにいることは聞いていたものの、そうそう会えるとも思っていなかった。

「やっぱり! 今朝方に偶然あなたを見かけたんです。エリゼさんに似ているとは思っていたけど、まさか本人だったなんて」

「セドリック殿下、ご無事で何よりでした」

 掃除用具は床に置いて、すぐに一礼する。

 アルフィンに呼ばれるなどして、エリゼはバルフレイム宮に何度も足を運んでいる。それゆえ、もちろんセドリックとの面識も持っていた。

 アルフィンと違って彼は少々奥手な性格で、自分からエリゼに話しかけて来ることは稀であったが。

「でも、どうしてここに? 一体いつから?」

「ここに来たのは一週間前です。その理由は――」

 ありのままを語っていいのか? とっさの疑問が脳裏をかすめ、喉元まで出かかった言葉を引き止める。

 セドリックであれば、おそらく隠す必要はない。しかし自分の持つ情報を知ることが、彼の不利益になったりはしないだろうか。

 すぐに判断することはできなかった。

「エリゼさん?」

「いえ……長くなる話ですので、ここで立ち話では。折の合う機会がありましたら、その時に」

 二人で話す機会など巡ってはこないだろうが、ひとまずこれでいい。

 そこに別の侍女がやってきた。廊下の角から姿を見せたその人物は、エリゼと歳の変わらない少女だった。

「こちらの掃除は終わりまして? あなたが最後ですわよ。日が暮れる前に……あら」

 セドリックに気付くなり、彼女はささっと佇まいを正す。

「これは殿下、失礼を」

 スカートの両裾を軽く上げ、いかにも貴族子女らしい挨拶をこなしてみせた。

 この辺りの応答は不得手らしく「ああ、ええと、気にしないで下さい」と、セドリックはたどたどしく身を引く。

「エリゼさん、お掃除は?」

「はい、今終わりました」

「では片付けを。殿下の足をお止めしてはいけませんよ」

「違うんです。彼女には僕から――」

「申し訳ありません」

 セドリックが弁解を口にする前に、エリゼはそう言った。新参者がむやみに擁護を受けてしまうと角が立つ。

 わずらわしい宮仕えの機微をそこまで気にはしないが、今の状況で無用な波は立てたくない。彼の気遣いには感謝しつつ、頭を下げるのが一番だった。

 セドリックには見えない位置から、少女は含みのある目をよこして去っていった。

 長話も控えた方がよさそうだ。エリゼは置いていた掃除用具を手にする。

「それでは、私もこれで」

「う、うん。また」

 別れ際、エリゼは立ち止まる。周囲には誰もいない。言うべきか否か。でもこれだけは……

「内戦が起こった後、私と姫様はユミルまで逃げ遂せました」

 悩んだ末、エリゼは慎重に言葉を続けた。

「アルフィンと!? あれ、でも今は貴族連合の旗艦にいるはずじゃ……?」

 そこまでの情報は知っているらしい。でもこれは知らないはずだ。

「まだ他言無用でお願いしますが、姫様はもうパンタグリュエルにはおられません。今いらっしゃるのはカレイジャスです」

「オリヴァルト兄様の艦に?」

「ええ、士官学院の方々を始め、多くの人が姫様をお守りするでしょう」

「本当によかった。でも……」

 なぜあなたがそんなことを知っている。そう言いたげなセドリックの先を取り、エリゼは重ねて言う。これだけはどうしても伝えておきたかった。

「ヘイムダルが貴族連合の襲撃を受けたあの日。姫様はセドリック殿下と喧嘩別れになってしまったことを、ずっと後悔していました」

「それは……僕もです」

「お二人が再会した時、きっと姫様は『ごめんなさい』と仰ると思います。殿下はなんとお答えされますか?」

「……『こちらこそ』かな」

「安心しました」

 しっとりとエリゼが微笑むと、セドリックは照れたようにうつむいた。

 

 ●

 

 使用人でも役職付きの女官なら個室が与えられるそうだが、経験の浅い若手の侍女ではそうともいかない。

 例にもれず、エリゼに割り当てられた部屋は四人部屋だった。

 大部屋をカーテンで四つに仕切り、一人分のスペースを作っている。ベッドとデスク、クローゼットと一体になった化粧台が設置されている程度だが、案外不自由はなかった。

 日も落ちた夕暮れ。部屋に戻ったエリゼは椅子に腰かける。しばらくそのままで、時計の音だけを聞く時間が過ぎた。

 ……やることがない。

 正直、もっとこき使われると思っていた。厳しい尋問もあると思っていた。拘束だって覚悟していた。

 しかし扱いは新人侍女に対するそれだ。

 安堵半分、当惑半分と言った心地である。やはりクロウの《蒼の騎士》としての口利きのおかげだろう。このまま悪目立ちしないようにしなければ――

「エリゼさん、今よろしくて?」

 不意にカーテンの向こうから呼ばれる。「はい、どうぞ」と応じつつ椅子から立ち上がり、エリゼはカーテンを開いた。

 そこにいたのは三人。同室の侍女たちだ。

 同じ空間に過ごしているというだけで、今日までほとんど話をしてこなかった。距離を置かれている自覚はあったが、一応名前くらいは知っている。

「……お邪魔します」

 横並びの左にいるのはルシル。

 見た目からしておそらくは年下で、長い黒髪を結い上げてまとめている。あまり前には出たがらない性格なのか、今も他の二人より一歩下がった位置にいた。

「私は特に用事はないのだけれど」

 右に立つのはサターニャ。

 やや褐色がかった肌と理知的な眼鏡が印象的だ。一番年上なのだろう。相応の落ち着いた雰囲気を持っている。しかし三人組の中心は彼女ではないようだった。

「わたくし、あなたに聞きたいことがありますの」

 真ん中で腰に手を当てるツインテールの少女が言う。彼女の名はセラム。今日の清掃時、セドリックとの間に入ってきた侍女である。

「セドリック殿下とお話ししてましたわね、あなた」

 やはりそのことか。どう返すのがいいのか、エリゼは迷った。しばし無言でいると、先にセラムが口を開く。

「殿下はお優しい方だから誰にでも声をかけて下さるの。あなただけではありませんわ」

「え?」

「勘違いなさらないで。そう言ってるのよ」

 粘着質な視線がエリゼに注がれる。セラムの両脇に控えるルシルとサターニャもうなずいていた。

 まるで見当違いの妬みだったが、弁解をするつもりはなく「わかりました」とエリゼは相手の言葉に合わせる。セラムはそれで満足したようだ。

「それで、殿下とはどのような話を?」

「それは申し上げられません」

 やんわりと、しかしはっきりとエリゼは告げる。適当にごまかしても良かったのだが、とっさの方便は出てこなかった。

 セラムは虚を突かれたように動きを止め、そして咳払いを一つしてみせる。

「エリゼさん、あなたの家柄は?」

「家柄?」

「事情は知りませんが、この離宮の侍女として務めるならばあなたも貴族でしょう? シュバルツァーの名にも聞き覚えはあります」

「シュバルツァー家は男爵位ですが」

「男爵位……そう、男爵家なのね」

 その口元がかすかに笑んだ。

「わたくしは侯爵家の娘ですの。ちなみにルシルさんは子爵家、サターニャさんは伯爵家のご息女ですわ」

「そうでしたか」

 したり顔を浮かべて、セラムは今一度言う。

「それで、殿下とはどのような話を?」

「ですので、それは申し上げられません」

「な、なんでです!」

 完全に想定外の返答だったらしく、セラムはずっこけそうになっていた。

 なんでと聞かれても困る。言えないものは言えないのに。しかしどうして家柄なんかを訊いたのか。

「……あ」

 はっとして、思い至る。

 爵位が上だから、相応の態度で接しろ。言えと言ったことは言え。そう暗に含めていたのだろう。

 三人の中心にいるのが彼女なのも侯爵家だからだ。あとの二人はそれを弁えて付き従っている。

 その彼女に、つい普段の感覚で話してしまっていた。もう少し注意して言葉を選ぶべきだった。

 Ⅶ組の中でしばらく行動を共にしていた影響もある。彼らは身分の差をほとんど意識していなかった。その雰囲気にいつの間にか感化されていたのだ。本来は公爵家のユーシスなど、エリゼにとっては『様』付けで呼ぶような相手である。

 慣れから来るうっかり。確かにエリゼの失敗だったが、無理からぬことでもあった。

 ひとまずは謝る。

「ご、ごめんなさい」

「不愉快ですわ。あなた方はどう思いまして?」

 セラムは引きつらせた頬のまま、両横の二人に首を振る。

「やはり特別扱いされたと勘違いしてますね。やれやれ……」

「私、そういうの良くないと思います」

 サターニャが肩をすくめ、ルシルも追従する。

 出来上がる三対一の図式。

 それ以上の会話はなく、小さく鼻を鳴らしたセラムはぞんざいにカーテンを閉めた。

 

 ●

 

 それから数日が経った。

 場所が変わるだけで、同じ作業の繰り返しが続く。今日はこの東棟の清掃だ。これまで通り、セラムたちと四人一組になって、担当区に分かれての掃除。

 これまで通り、ではないかもしれない。あの日を境に、彼女たちのエリゼに対する態度は露骨に変わった。

 何かを訊いても答えない。いない存在のように目もくれない。にも関わらず、部屋の中ではカーテン越しにも聞こえるようなひそひそ話をしてくる。内容は知らない。耳をふさいでいたから。

 とりあえず廊下の掃除をしよう。

 立てかけていたモップに手を伸ばしそうとした矢先、ガランガランと耳障りな音がした。

 置いておいたバケツが倒れ、中の水が全てこぼれてしまっている。転がるバケツのそばにはセラムが立っていた。

「あら、足が引っかかってしまいましたわ。邪魔な場所にこんなものを置いて、本当に気の遣えない人」

 そうならないように、ちゃんとバケツは通路の端に置いていた。考えるまでもなくわざとだ。それも自分の担当場所からわざわざこっちまで来て。

「ちょっとあなた達も見て下さらない? エリゼさんのせいで余計な仕事が増えてしまいましたわ」

 すぐにサターニャとルシルがやってくるが、ずいぶん早い。どうやら通路の角に待機していたらしい。深い嘆息を吐き出したいのを、エリゼはどうにかしてこらえた。

「廊下びちゃびちゃですね」

「どん臭いこと」

 話したって無駄だ。もういいから向こうに行って欲しい。感情を殺して「すぐに片付けます」とモップを持ち直すエリゼに、セラムはのぞきこむようにして顔を近付けた。

「それよりも先に謝って下さらない?」

「……どうしてですか」

「あなたの置いたバケツのせいでこうなったのですから当たり前でしょう。謝罪一つもできないだなんて、ご両親のしつけを疑いますわね」

 手を強く握りしめる。ここで親のことを口に出すなんて。

 我慢だ。事を荒げてしまってはいけない。焼け付くような胸の内を抑えて、エリゼは固めていた手を解いた。

「申し訳ありません。廊下は私が責任をもって元通りにします」

 悔しい顔なんて死んだって見せない。持ち前の気丈さが、かろうじて自制を保たせた。

「ま、いいわ。わたくし達はこれからお昼の休憩ですけど、あなたには東棟全部のトイレ掃除をお願いしますわね? もちろんここを片付けたあとで」

 それは全員で分担することになっている業務だった。

「わかりました」

「……気も遣えない上に、つまらない人」

 吐き捨てるように言って、セラムたちはその場を去っていく。エリゼは無言で床の水を掃き始めた。

 

 

 昼食を食べる気にはなれなかった。

 なるべく他のことを考ないように動き通し、全ての仕事を済ましたのは14時を回った頃だった。

 手伝えることがないか聞きに行く気も、居心地の悪い部屋に戻る気もない。自ずと人の少ない方へ足を進めていると、気付けばエリゼは屋上にまで来ていた。

 なぜかドアの鍵は施錠されていない。そのまま外へと出てみる。

 そよ風が前髪を浮かせて過ぎた。緑と青が織りなす美しい景色が視界いっぱいに広がる。

 屋上の端まで歩いたエリゼは、その光景を漫然と見つめた。刻々と雲が形を変え、やがて緩やかにちぎれていく。

 大きな雲から離れてしまった小さな雲は私だろうか。

 とりとめもないことを考えていると、『わんっ』と足元から鳴き声がした。茶色い毛並の子犬が自分の顔を見上げている。

「あ、ルビィちゃん。ここ屋上なのに……?」

 しゃがみ込んで頭を一撫でする。ルビィは気持ちよさそうに伸びをした。

 紆余曲折を経てアルフィンがⅦ組から預かり、内戦後はセドリックに連れられてエベル離宮までやって来た子犬。ただの野良から皇室付きの犬とは、ずいぶんと出世したものである。

 いずれにせよ、バルフレイム宮に置き去りにされずに済んで良かった。

「……こんなところに一人でいるなんて、なんだか変な感じ。すごく……遠くに来ちゃった気がする」

 ルビィと会ったせいか、リィンたちと過ごした日々のことが急に思い出された。

 夏に差しかかった頃、学生寮に押し掛けたあの日。

 Ⅶ組の皆がユミルに旅行に来てくれたあの日。

 姫様がさらわれてからは、兄様に同行して各地を巡った。

 ケルディックではエリオットさん、マキアスさん、フィーさん、クレアさんと合流した。

 初めてあんなに舗装されていない道を歩いた。たくさん歩いて疲れた私を気遣って、フィーさんが寄り添ってくれたことを覚えている。

 思えばエリオットさんはあの日から体調が悪かった。今はもう大丈夫なのか気になる。

 マキアスさんが地雷を踏んだ時は、正直もう終わったと思った。木っ端微塵に砕け散る眼鏡は衝撃的だった。

 内戦が終わったら二人で帝都に買い物に行くという約束、クレアさんは忘れていないだろうか。

「私、なんで……」

 ノルドではガイウスさん、ミリアムさん、アリサさん、シャロンさんと合流した。

 よく雪かきを手伝ってくれたガイウスさん。絵がお上手らしいので、兄様と二人でいるところを描いて欲しかったけど、二の足を踏んでばかりでとうとう頼むことができなかった。

 ミリアムさんはちゃんと朝起きているのか心配だ。それについてはフィーさんも。エマさんが目を光らせているから大丈夫だと信じたい。

 アリサさんとも色んな話をした。兄様の話題になる度にわかりやすく興味深々の反応をしていた。それを見た私も、何かと落ち着かなくなっていたりしたのは内緒だ。

 シャロンさんは何でもできて驚いた。スーパーメイドだとは聞いていたけど、まさかあれほどだなんて。いつか家事のいろはを教わってみたい。

「……どうして」

 レグラム、バリアハートではラウラさん、エマさん、ユーシスさん、サラさんと合流した。

 いつも凛としているラウラさんは素敵だ。その上お料理も出来ると言うのだから死角がない。私も負けていられない。そういえば作ったものを食べさせてくれることになっていたのに、こんなことになってその機会を逃してしまった。

 エマさんとは一緒にフィーネさんプロジェクトをやり遂げたかった。強力な助っ人ができて、せっかくこれからというところだったのに。彼女からもらった毛糸の小物入れは、ずっと身に付けていたから今も持っている。

 最初は近付き辛かったユーシスさんだけど、ガイウスさんと二人で率先して馬の世話をしてくれた。父様が動けなかったから、馬舎の手入れまでしてくれたのはとても助かっていた。 

 サラさんは気さくで壁がない印象だった。昼からお酒を飲んではトヴァルさんにたしなめられていた。私としては数えきれない前科を持つトヴァルさんをたしなめたいのだけど。

「……あ」

 みんな優しくしてくれた。私を妹のように可愛がってくれた。嬉しかった。リィン兄様以外にも兄姉ができたみたいで。

「……か、」

 口に出してはいけない。我慢しなきゃ。大丈夫、私はまだまだ大丈夫――

「帰りたい……っ」

 みんなの笑顔がある場所に。感情が溢れ出して止まらない。自分で選んでここに来たのに、一番言ってはいけない言葉なのに。

 胸が詰まって、目頭の奥に熱が込み上げる。ダメだ。泣く――

「帰ったらいいじゃん」

「!?」

 心臓が跳ね上がり、エリゼは嗚咽を呑み込んだ。

 唐突な声はすぐ近く、屋上を囲むフェンスの向こうからだった。おそるおそる様子をうかがうと、内側からだと死角になって見えないが、金網の先には段差があるとわかった。

 そこに声の主はいた。白金色の括り髪に領邦軍の制服。リゼットだ。こちらを見るでもなく、正面の景色に目を置いたまま彼女は続けた。

「帰りたかったら帰れば? あたしは別に構わないと思うけどね」

「い、いつからそこに?」

「どうでもいいじゃない、そんなの。あんたが後から来たんだよ」

 案内してくれた時は事務的な口調だったが、これが彼女の素らしい。いつもの秘書っぽい立ち振る舞いは見せかけのようだ。

「トイレ掃除終わったんだ? 押し付けられたところ見てたよ。まあ、セラムも意地が悪いからねえ。言い返さないあんたもどうかって感じだけどさ」

「そんなことより、そこで何してるんですか!?」

「んー? そりゃ巡回でしょ」

「動いてないじゃないですか」

「じゃあ見張りかな」

「適当な……。さぼってるんですね」

「ふうん、見た目通りお堅いんだ。正解はそいつの散歩に付き合ってる、でした」

 フェンス際に顔を出すルビィを一瞥する。空色の瞳は自分と似ているが、彼女の方が青味が少し強い。年齢は二十歳を過ぎた頃だろうか。少なくとも自分やリィンたちよりは年上だ。

「散歩に付き合うって、結局怠けてるのと同じじゃ……」

「あとは好きなように解釈して。で、あんたは何しにきたの? あいつらにはぶられて、逃げてきたのかい」

「そんなのじゃありません!」

「あ、そ。その辺りはあたしには関係ないし、どうでもいいんだけど。でも関係ある部分もあるんだな」

「え?」

 軽い身のこなしでリゼットはフェンスを飛び越えてきた。エリゼの目の前に着地すると、彼女は言う。

「あんた、何者だよ」

 射るような青い瞳に見据えられ、エリゼは継ぐ言葉を失った。

「旗艦詰めの上役の令嬢。その父親の計らいで、内戦の間は戦禍に巻き込まれないよう離宮の侍女として務めることになった。それがあんたの身の上なんでしょ」

 そういうことらしい。その設定を自分が知らないのは危ういことなのだが。

「詮索もしないようにって、上のお偉方は《蒼の騎士》に言いくるめられてたけどさ。どうにも引っかかることが多いじゃない?」

「……なにがですか」

「あんたがここに来る四日前。重要な作戦以外は動かないはずのパンタグリュエルが移動した。どこに行ったのかは知らないけど、方角的には北だったかな」

 おそらくユミルを襲撃する為の移動だ。距離と時間を考えてもつじつまが合う。

「そしてここに来て五日後。双竜橋が《紅き翼》の介入で攻略された。直前にアルフィン皇女の声らしい宣言も確認されてる。パンタグリュエルに軟禁してたはずなのに」

 保護ではなく軟禁と言い切った。この人はどの視点から物事を見ているのだろう。ここは肯定も否定もしないほうがいい。

「何の話かわかりませんが」

「大きな事が起こる前後の境目に、あんたがやってきたのは偶然なのか。あたしの引っ掛かりの一つはそこだね」

「タイミングの話であれば、それは偶然でしょう」

「そうかな。移送時に使われた飛行艇って旗艦付きのやつでしょ。つまりその前にあんたはパンタグリュエルにいたことになる。父親ってのがどんな上役か知らないけど、さも当然に娘を戦闘艦に乗せるもんかね。戦禍に巻き込みたくないって言葉と矛盾してる。ま、そこが一番安全だったって考え方もできるけど」

 位置を変えたリゼットは、さりげなく館内への扉を背に隠す。

「だいたい《蒼の騎士》が直々に移送役を務めるってのも不自然だ。指揮系統を考えればカイエン公がそう指示したか、あるいは自身の意志で務めたってあたりが妥当だと思う」

「その事情も私は知りません」

「そう、それじゃ最後に一つ質問。どうしてあんたは皇族付きの犬の名前を知ってるの?」

「それは……その、聞いたからです。誰かが話してるのを」

「ウソだね。ここに来た日、ルビィはあんたに駆け寄った。その時、あんたがルビィの名を呼んだのをあたしは聞いている」

 やってしまった。滲んだ汗を悟られないよう、そっと手の平をスカートに押し付ける。これ以上、平静を装える自信はない。

 何を言えばいい。それとも何も言わない方がいいのか。ここから離れようにも、その方法が思いつかない。

「おそらくその“境目の日”にパンタグリュエルで何かがあった。あたしの考えでは、そこでアルフィン皇女は《紅き翼》に渡っている。そしてルビィを知っていたことから、かねてより皇女と面識があったと仮定すれば……あんたが一連の出来事に何らかの形で関わっている可能性は高い」

 限られた情報から推察し、かつ的を射ている。

 ここまで見抜いてきた相手を、この状況からはぐらかせるだろうか。監視塔で捕まった時みたいにクレアさんならできるかもしれないが、私にはとても無理だ。

「以上の見解を踏まえてもう一回訊こうか。あんたは何者?」

 遠くの木々のざわめく音が屋上にまで届いてくる。エリゼはごくりと息を呑んだ。

「……仮にあなたの言う通りだったとしたら、どうしますか?」

「別にどうもしない。いちいち上官殿に報告するのも面倒だしね。あたしが納得するだけだよ」

「納得? それだけ?」

 これほど鋭い予測を立てておきながら、自分の内だけで収めると言うのだ。

 彼女の思惑が読めない。

 信じていいのか、疑うべきか。しかし沈黙を貫いていても、リゼットは退いてくれないだろう。

「私は――」

 考えもまとまりきらないまま口を開こうとした、その時。

 周囲をとりまく空気の“質”が変わった気がした。

 この感覚には覚えがある。粟立つ肌を押さえながら、エリゼはフェンス越しに視線を巡らした。

「どこ見てんの? 先にあたしの質問に答えな」

「静かにして下さい」

「ああ?」

 敷地の遠く。整備された雑木林の手前。その一部分の景色だけがいびつに屈曲している。

 歪んだ空間の中から巨大な影が姿を現した。メキメキと木々を押し倒しながら、それは実体として顕現する。

 太く強靭な四脚。張り出た下顎から突き上がる柱のような二本牙。顔から胴体までを覆う金属のような鋼皮。

 間違いない。

「あれは……幻獣!」

「げん……なんだって?」

 大地を震わす咆哮が、凄まじい鼻息と共に吐き出される。

 淡い銀色の光を身に宿し、幻獣《ヴォルグリフ》が中央棟に向かって重々しく進み始めた。

 

 

 ――続く――

  

 


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