「エリオットは大きくなったら何になりたいの?」
僕の手を引く姉さんが、楽しそうに訊いてくる。何に、と問われてもすぐには答えられない。もごもごと口を動かして困っていると、
「フィオナったら。エリオットはまだ小さいのよ。そんなことわからないわ」
前を歩く母さんが笑いながら振り返った。
「音楽関係よ、きっと。わたしやお母様といっしょ。ねえ?」
同意を求める目が自分に向けられる。他にできる返答もなく、僕は首をうなずかせた。姉さんは顏の全部を笑顔にして、繋いだ手をぶんぶんと振る。引っ張られてこけそうになった。
「ほらお母様、エリオットもそうだって」
「今のはフィオナが言わせたんじゃない。エリオットがなりたいものにならせてあげなさいな」
「エリオットはお姉ちゃんといっしょがいいの!」
「あなたがエリオットといっしょがいいんでしょうに」
母さんは困ったように笑う。
なりたいもの。決まってない。ただ姉さんの言うように、音楽に関わっていたいとは漠然と思う。
母さんのピアノの音色はとてもきれいだ。姉さんもピアノを弾く。僕はバイオリンを習っている。
音楽の絶えない家。
生まれた時から音楽はずっと近くにあった。あって当たり前。今までも、これからも。
「あなたもそう思うでしょう?」
聞き分けのない姉さんをたしなめたいらしく、母さんは歩調を早めて一番前を歩く父さんに並んだ。
「音楽か。学ぶのはもちろんいいが、それで生計を立てていくとすれば別の話だな。天使のようなエリオットとはいえ、帝国男子なわけで……しかし軍などに入ってゴツゴツした体になるのは……うーむ」
「えー! そんなのいや! よくわからないけどゴツゴツはいや! ぷにぷにのエリオットじゃなきゃいや!」
手を解いた姉さんが走り出して、父さんの足にしがみつく。
「わかっているぞ、フィオナ。父さんも嫌だ。もう一つ言えばフィオナがお嫁に行くのも父さんは嫌だぞ」
「だいじょうぶ。大きくなったらわたし、お父様と結婚するわ」
「おお……フィオナ……!」
「もう、あなた達は……」
こめかみを押さえた母さんがため息をつく。怒ってはいないみたいだけど。
アルト通りの川沿いを、家族そろって歩く。家が遠くに見えてきた。今から帰って夕食の支度だ。今日の献立はなんだろう。
大小三つの背中を眺めながら、僕もその後を追う。
だけど追いつけない。なぜか誰も振り返ってくれない。前を向いたままで、母さんが言った。
「あなたはあなたがなりたいものになればいい。お母さんの言葉を大きくなっても覚えていてね、エリオット」
その言葉を最後に、母さんの姿が薄れて消えてしまった。
急に天気が暗くなる。ずっと響いていたピアノの音色が、一人分少なくなった。
姉さんと父さんの背に必死で追いすがる。まだ追いつけない。
父さんはいつの間にか軍服を着ていた。姉さんも背が高くなって、もう大人だ。ますます母さんに似てきたその後ろ姿が、母さんと同じように消えていく。
父さんの顔は見えないけど、固く拳を握って何かに耐えているようだった。
そしてとうとうピアノの音が全部聴こえなくなって――
「エリオット、大丈夫か?」
「え、うん。大丈夫だよ」
気遣わしげなリィンの声で、エリオットはうつむけていた視線を戻した。数秒にも満たない意識の乖離が見せた、悪い幻影だ。
「気落ちするのは当然だ。必ず助け出そう」
「ありがとう。……がんばるよ」
全員が集まるカレイジャスのブリッジ。頭を振って、エリオットは正面のスライドモニターに集中した。
トワ主導の下、フィオナ・クレイグ救出作戦の段取りが進んでいく。
カレイジャスの運用を任されてから初めて行う、内戦への介入行動。その中心にいるのが、まさか自分の身内とは。
成功するのか。もし失敗したら姉さんはどうなる。考えたくもない。
しくじれないというプレッシャーが、エリオットの両足を震わせていた。
《――決意の宣言――》
とある民間人を貴族連合が帝都から連行してきたという情報は、元々ケルディック地方にいる協力者から寄せられたものだった。各地に散っている彼らはカレイジャスに繋がる通信手段を持っている。
民間人と言うだけでははっきりしなかったが、本人の容貌を含め、第四機甲師団との会戦のタイミングや戦場へと連れて行く有効性などから、フィオナ・クレイグだと特定するに至ったのだ。
「……はあ」
どうしても気持ちを落ち着けることができず、エリオットは艦内を所在なくうろついていた。現在カレイジャスは、戦端がすでに開かれているという双竜橋へ向かっている。
到着までは、あと一時間と言ったところか。
「転移術はどうなの? まともに扱えるようになったわけ?」
「長距離はまだ無理だわ。せいぜい三百アージュが限界だと思う」
近くの部屋から話し声が聞こえてきた。エマとセリーヌだ。
「だったら上空から東側への転移はアタシがやる。西側へはカレイジャスでぎりぎりまで降下して、術の有効範囲に入ってからアンタが転移しなさい」
「わかったわ。……ごめんね」
「いいわよ、別に」
会話はこのあとの段取りについてらしい。
作戦内容はこうだ。
双竜橋に到着後、基地東側――すなわち正規軍と貴族連合の交戦地帯に陽動班が転移術で降りる。ヴァリマールを要とし、可能な限りの部隊を引き付ける。
カレイジャスはそのまま西ゲート側に直進し、同じく突入班を降下。浅くなった守りを突破し、基地周辺もしくは内部にいるであろうフィオナの捜索と奪還を行う。
電撃作戦における転移術は不可欠だ。着陸の隙を生まず、一瞬で敵陣の懐に切り込める。エマとセリーヌはその起点たる役割を担ってくれるのだ。
エリオットはそっと部屋の前を離れた。別のフロアに移動しようとした矢先、背後から声をかけられる。振り返ると、そこにいたのはユーシスだった。彼はエリオットに頭を下げた。
「姉君のこと、すまないことをした」
「そんな……ユーシスのせいじゃないよ。気にしないで」
フィオナを拉致したのはクロイツェン領邦軍。その指示を出したのはヘルムート・アルバレア。際立つ戦果がないどころか失態の報が先立ち、貴族連合の中核から外れつつある彼が、その席に居座り続ける為に起こした凶行だった。それすらも失態の一つであるとは考えもせずに。
「本来なら俺が矢面に立つべきなのだが、この作戦には参加できないことになった」
「え、そうなんだ。どうして?」
「
「そっか……うん、仕方ないよ」
あの新型機甲兵も出撃できたら心強かったのに。聞いた話では、かなり特殊な武装を搭載してあるらしく、アリサと言えども事前訓練無しでは扱いきれない機体だそうだ。
「武運を祈る」
「あ、ありがとう」
そう言うとユーシスは去っていった。
あまり馴染みのない言葉にエリオットは戸惑った。武運とは自分に似つかわしくない言葉だと思う。それこそリィンやラウラやガイウスや――前衛に立って道を切り拓く人たちに相応しい。
ふと指先に小さなしびれを感じた。
手が震えているのだ。一時間後の自分を想像すると、とても平静ではいられなかった。
「無理……無理だ。僕には無理だよ……」
喉から絞り出すような声音で、ひとりつぶやく。
エリオットは突入班だった。
自分が前衛に出ることに不安こそあるものの、抵抗はさほどない。仲間の役には立ちたいし、与えられた役割をこなしたいとも思う。
でもその“役”は今じゃなきゃダメなのか。
慣れない前衛に出て、それでうまくいかなくて、あろうことかそのミスが原因で作戦が失敗したら?
失敗が何を意味するのかは理解していた。救えないことが命を失わせることになると、必ずしも直結するわけではないが――当然その可能性は含まれている。
そうなれば、僕の手で姉さんを死なせてしまうことと同義だ。それが怖い。
「エリオット、いいか?」
動かせない足のまま固まっていると、今度は別の声が近付いてきた。心配はかけさせたくない、というより見せたくない。体面を取り繕おうと、エリオットは震えの収まらない両手を後ろに回す。
声の主はマキアスだった。
「どうしたの?」
「いや、様子を見にきた。本当はさっきからいたんだが……」
マキアスは言葉尻を濁す。多分ユーシスと話していたからだろう。声をかけるタイミングを計っていたのだ。
「不安なんだろう、色んなことが。そう顔に出ているぞ」
「……正直に言うとね。ちゃんとやれるかが分からないんだ」
ブレていた心中を読まれては、もう虚勢も張れなかった。
「君は突入班でよかったと思う」
「自分の手で姉さんを助けられるから?」
「もちろんそうだ」
「……だよね」
エリオットは首を横に振りたかった。感情で語れば、姉さんは自分が救いたい。でも作戦に感情は必要ない。最優先で考えるのは成功率をいかにあげるか。その為には個人の感情など度外視するべきなのだ。
……違う。それは逃げ口上だ。作戦の成否に関わらないポジションに、自分がつきたいが為の。
この期に及んで、まだ後ろに下がりたがっている。誰かの背中を見ていないと、いつの間にか安心できなくなったのかもしれない。
本当に僕は弱い。
「エリオット。僕は君と同じ突入班だ。最初の振り分けでは陽動班だったが、自分で志願して変更させてもらった」
「どうして?」
「直接君をサポートする為だ」
強い眼差しがまっすぐに向けられる。自信に満ち溢れた瞳だった。
「クレア大尉と何かやってたよね。個別特訓はうまくいったんだ?」
「ああ。大尉は多くのことを託してくれた。僕が仲間を守れるようにって」
オリヴァルトたちがカレイジャスを降りたタイミングで、クレアも鉄道憲兵隊に復帰している。これからは情報提供を軸に、各地との連絡面で協力してくれるそうだ。
「エリオットの背中は僕が守る。その為に手に入れた力だ。だから君は、君が助けたい人だけを見て走ればいい」
軽くエリオットの肩を叩いて、マキアスは先にエレベーターに乗った。
皆に気遣われている。励まされている。
本心からありがたいと思う反面、逃げ場のない責任だけが増していくような心地だった。
作戦開始まで三十分を切った。まだ距離はあるが、ケルディック地方にまたがる広大な牧草地帯が遠くに見えてくる。
前部甲板デッキまで出て風に当たってみるが、それでも気持ちは固まってくれない。
浅い息をエリオットが吐いた時、ドアが開いた。
「探したわよ。なーにその顔は。しゃきっとしなさい、しゃきっと!」
「いやいや、そりゃ緊張するだろ。なあ?」
あえてそうしているのか、サラは威勢よく大股で近付いてくる。その後ろからトヴァルも苦笑交じりの顔をのぞかせた。
どうやら二人も自分の様子を見に来てくれたらしい。辛気臭い顔はどうにか吹き消して、エリオットはマキアスの前ではできなかった強がりを口にした。
「心配をかけてすみません。僕なら大丈夫ですから」
「大丈夫だって言うなら、もっと気の入った声を出しなさいよ」
「ははは、だな」
が、一瞬で看破されてしまった。さすがにこの二人は欺けない。
横に並んだトヴァルが肩に腕を回してきた。
「そんな心配すんな。俺らは二人とも突入班に入る。頼れるお兄さんに任せとけ」
「頼れるお姉さんにもね」
トヴァルとは反対側に立ったサラは、そう言ってエリオットの頭にぽんと手を置く。同級生たちとはまた違う安心感があった。
「相手の戦力は機甲兵に領邦軍歩兵部隊。装甲車も相当数配置されているでしょうね。……あと猟兵も」
つけ加えた一語を口にした時、サラの雰囲気が変わったと感じたのは気のせいか。
その顔を横目で確認しようとしたエリオットは「これは遊撃士の本懐だ」と、芯の通ったトヴァルの声を聞いた。
「民間人を盾にするなんざ最低だ。許されることじゃないし、なにより俺が許さない。支える籠手の紋章に誓って、必ずエリオットの姉さんは救出する」
「今は遊撃士じゃないけど、あたしも同じ気持ちよ」
誰しもが姉の為に全力を尽くそうとしてくれている。自分だって、いや自分こそ頑張らなければいけない。
しかしエリオットは二人に言った。
「僕は……今回だけ、バックアップに回してもらえませんか」
どうしても堪えきれなかったのだ。それだけで察してくれたらしい。何か言おうとするサラを視線で制したトヴァルは、肩に回していた手を解いてエリオットと向き合った。
「お前さんが考えてること、わかるぜ。当然だと思うよ。全部がかかってる上に、自分のスキルはまだ心許ない。こんな重大な作戦に不安材料を持ち込む必要はないだろうしな」
「で、ですよね。だったら」
「だけど今逃げたら、次もまた逃げる。逃げ方を覚えちまう。やれる時だけやって、やれない時は次に回そうとする。自分を後ろに引かせる理由なんて、いくらでも作れるんだ」
「これは別にそういう話じゃ……!」
「そういう話さ。どうも勘違いしてるみたいだが……成功するかどうかなんて、単なる足し引きじゃ測れない。お前さんがいるから失敗するわけでも、いないから成功するわけでもないんだ」
トヴァルの話は理解していた。
そもそも無理にムービングドライブを使えとも言われていない。前線に立つとはいえ、今まで通りの立ち回りでいいのだ。
ただ今回の作戦は迅速さが肝心だ。突入班の誰もが最前線を駆け抜ける。果たしてその流れについていけるのか。足を引っ張らないでいられるのか。
自信なんてなかった。
「昨日も言ったよな。男にはやらなきゃいけない時があるって。だけどその瞬間が訪れた時に、必ずしも準備万端だとは限らない。それでも足を前に出せるやつが、きっと何かを成せる人間なんだと俺は思う」
「前に出したのに……うまくいかなかったら?」
「そういうことを考えるやつほど、結局最後まで足を出さないもんさ。言ってること分かるよな?」
「………はい」
不確定な要素にばかり囚われて、多くのポジティブな可能性を殺している。アクシデントの想定は最悪を考えるものだが、それはあくまで成功に繋げるためのものだ。
できない言い訳を並べるためじゃない。
トヴァルはエリオットの両肩を力強く掴んだ。
「俺たちのことは信じているか? Ⅶ組の仲間もだ」
「そ、それはもちろん」
「だったらあとは自分を信じてやれ」
「………」
ここまで気持ちを案じてくれている。ここまで背中を押してくれている。
心にあった
足元に落としていた目を上げて、エリオットは正面からトヴァルと視線を合わせた。
「……うし。腹くくったみたいだな」
「そういうのってあたしの役割なんだけどね、まあ、今回は譲ってあげるわよ」
「悪いな、教官殿」
トヴァルが冗談めかして言った時、艦内放送が全フロアに響き渡った。
『ブリッジ、トワ・ハーシェルより各員へ。これより戦闘区域に入ります。陽動、突入班は配置について下さい』
●
双竜橋。
東ケルディック街道とガレリア間道のほぼ中間に位置する中継基地で、主にはガレリア要塞との連絡経路としての役割が大きかった。物資搬入の為の鉄道線路も、ケルディックの町と直通している。
貴族連合に占拠されてからは、ガレリア演習場に陣を構える第四機甲師団――彼らへの物資補給や人的援護を阻む砦と化していた。
橋、鉄路、基地はほぼ一体化していて、それらを合わせての呼称という認識が一般的だ。
その双竜橋の東側、ガレリア間道の中腹では激しい戦闘が行われていた。
『撃てえっ!』
戦車隊隊長ウィルジニーの掛け声が飛び、即時旋回した砲塔が火を噴く。12リジュ口径の徹甲弾が舗装道路に着弾し、爆発と共に大量の土砂を噴きあげた。衝撃と粉塵に煽られた敵機甲兵が、大きく姿勢を崩す。
『ウィルジニーに遅れるな。部隊を左右に展開しながら、射線は徐々に狭めて相手の行動範囲を制限していけ!』
間髪入れずに発されたオーラフ・クレイグの指示を無線に聞いて、「続けて砲撃! 足を狙い続けろ」とナイトハルトも自身が搭乗する戦車の中で声を張った。
「人型をしているから逐一の重心移動が分かりやすい。進行方向を予測して、砲塔を先に向けておけ」
「そんなの少佐にしか分かりませんよ! 軍事訓練だけでそこまでの芸当は身につきませんって」
運転を担当する操縦士が焦れた声を返してくる。ナイトハルトは後部座席用の別モニターに視線を移しながら、
「ならば私が目になる。主砲転回55、下げ10度。速度そのまま、二秒後に撃て」
「り、了解!」
きっかり二秒後に放たれた砲弾は、進路を変えたばかりのドラッケンの右膝を撃ち抜いた。
「気を抜くなよ。転回20度。次は三秒後だ」
「イエス・サー!」
敵数は残り四機。全てドラッケンだ。いずれも後退の挙動を見せ始めている。
ナイトハルトが第四機甲師団に合流したのは、つい先日のことだった。
検門がしかれているであろう正規の街道を通るわけにはいかず、時間をかけてバリアハート方面から回り込んで、ようやくガレリア要塞にたどり着いたのだ。
貴族連合が積極的に仕掛けてくるようになったのは、彼がオーラフと再会した直後である。
その理由も、ここに来るまでに得た情報で知っていた。
攻撃の手を緩めることなく、後退していく機甲兵を追う。間道と双竜橋東区画を繋ぐ短いトンネルに入った。ローラー機動で逃げる機甲兵。それらを追撃するけたたましいキャタピラ音が壁に反響する。
一見して優勢に思えるが、そうでないことは全員が理解していた。
おそらくはこのトンネルを抜けた先に――
『止まれ!』
光の下に出た直後、鋭い声が響いた。通信ではなく外部からの音声。
同時に、幾つかの尖塔を抱えた巨大な凸型のシルエットが視界に広がる。これが双竜橋だ。
声の主は、その東ゲート前で複数の機甲兵に守られるようにして立っている。白い羽飾りがあしらわれた青い軍帽を見るに、おそらくヤツが司令官か。
戦車隊が順に動きを制止する。相対距離およそ50アージュ。いつでも撃ち合える位置だ。
拡声器を手に敵司令官は言う。
『攻撃を中止し、今すぐ撤退――いや、降伏するがいい。さもなければこの女の身の安全は保証しない』
男のとなりに連れられてきたのは、やはりフィオナ・クレイグだった。彼女は怯えた様子もなく、毅然としていた。
一台の戦車の上部ハッチが開く。機内から出たオーラフは、砲塔のかたわらに身一つで屹立する。
「見くびるでないわ! 貴様らの要求など断じて呑まぬ!」
片や拡声器なしの怒声が突き抜ける。あまりの迫力に相手の司令官はおろか、機甲兵でさえ身を引いたように見えた。
分かっていたことだった。
相手が下劣極まりない選択をすることも。それをオーラフが拒否することも。
歯がみしたナイトハルトは、自身もハッチを開けて外に出る。
『愚かな……これが見えんのか?』
フィオナのこめかみに銃口が突き付けられる。
愚かなのはどっちだ、クズめ。
本心を吐露するなら、当然彼女は助けたい。だが引くことは屈すること。屈してはならぬのが正規たる軍の矜持。
しかし別の可能性だってあったのだ。矜持を脇に置いて、彼女を助けるという選択肢が。
人質を盾にしたとて、もっとお前たちが賢い交渉のやり方を選んでいれば、こちらはその要求を受け入れざるを得なかったかもしれないのに。
こんな正面切って脅すようなやり方で、一軍が引けるとでも思っているのか。
なぜそれが理解できない。なぜその行為に意味がないと気付けない。考えられる中での最悪手だ。ならば中将が返す言葉は――
「そやつも軍人の娘だ。とうに覚悟は決めていよう!」
『馬鹿が! 撃てないとでも思っているのか!?』
「それはこちらの台詞でもある!」
オーラフが右手を上げる。撃ち方構えのサインだ。全機から息を呑む気配が伝わってくる。
反射的に身を乗り出すナイトハルト。待って下さい、喉から出かかる言葉。しかし鋼鉄の自制心で思い留まる。それは軍人として言ってはいけない。
隠すように握りしめているオーラフの左拳からは、ぽたぽたと血が滴っていた。
彼が一番苦しいのだ。おそらく今までの人生の中で、もっとも苦しんでいる。
司令官の指が引き金にかかる。オーラフの右手が前方にかざされる。戦車の砲口が持ち上がる。機甲兵も銃を構える。
フィオナが静かに目を閉じた。
不意に遮られる太陽。
取り返しのつかない一瞬が訪れようとした刹那、晴天を裂く轟音と共に紅い翼が飛来した。
艦長席に収まるトワの横に立ち、その一触即発の光景をアルフィンは見ていた。
「皇女殿下」
「ええ、わかっています。マイクを貸して下さい」
全員の準備は整っている。あとは自分の言葉一つ。何よりも重要な“宣言”を成さねばならない。
それこそ私が今、ここにいる意味。
艦長席のひじ掛けには有線式の拡声マイクが備えられていた。艦内はもちろん、艦外にも音声が届く仕様になっている。
それをトワから受け取ると、アルフィンは小さく息を吸った。
彼らの行動の正当性は、皇族の名と意をもって保証できる。しかし無論、作戦における身の安全までは保証されない。
ブリッジクルーの視線が一手に集中する。中には先日合流したばかりのカスパルとヴィヴィの姿もあった。
「皆さん、よろしくお願いします」
多くの意味がこもった言葉に、クルーたちは返礼で応じる。
どんな地位にいようとも、15歳の少女には重い役割だ。しかし重いと自覚できる人間にしか、務まらない役割。
さあ、胸を張って。自信を見せて。凛として響かせて。エリゼにまで届くくらいに。
自分自身に言い聞かせるよう心中に念じてから、アルフィンはマイクに声を吹き込んだ。
『わたくしはエレボニア帝国皇女、アルフィン・ライゼ・アルノール』
「こっ、皇女殿下!?」
突如として戦場に現れた《カレイジャス》を見上げたのは、貴族連合の司令官だけではなかった。
正規軍、フィオナ、果ては機甲兵まで。
そして帝国解放戦線《V》――ヴァルカンもだった。
クロイツェン領邦軍、引いてはアルバレア公爵の動向確認をカイエンから命ぜられた彼は、偶然この状況に居合わせていた。
いや偶然ではない。査察役として到着したタイミングで戦闘が起きたことは偶然であったが、そのまま留まり、その後の展開まで見届けようとしたのは彼の意志だからだ。
『民間人を戦に巻き込み、あまつさえ盾として利用する愚行。仮にも軍を名乗る者たちのやることではありません』
司令官の後ろに控えるヴァルカンは、口元に密かな笑みを浮かべた。
覇気のあるいい声だ。覚悟、それに決意も乗っていると感じる。《パンタグリュエル》で滅入っていた時の彼女とは、まるで別人。
いいじゃねえか。最初からそんくらいの気概でいやがれってんだ。
『恥を知りなさい。あなた方の行いを断じて許すわけには参りません』
「お、おのれ……!」
上空から注がれる皇女の責め句に、司令官の肩がわなわなと震える。
「あれは本物の皇女殿下ではない! 我々を惑わそうとする偽物だ。構わず撃て!」
『し、しかし』
命を受けた機甲兵が戸惑う挙動を見せた。
「いいから撃たんか! 命令違反は厳罰に処すぞ!」
人質の娘に銃口を押し付けたまま、司令官が怒鳴る。冷静な思考ができておらず、直情的な指示であることは明らかだったが、『り、了解』とドラッケンは速射銃を空へ向けた。
「バカ野郎が。やめねえか!」
ヴァルカンが制止するより早く、一発の銃声が轟く。距離があり過ぎて、その弾丸はカレイジャスにはかすりもしなかった。
司令官は振り返ると、したり顔で鼻を鳴らした。
「旗艦付きの査察官と聞いているが、見た目よりも甘い男なのだな。今の程度、ただの威嚇射撃だ」
「わかってねえな。威嚇だろうが本気だろうが関係ない。お前は奴らに理由を与えただけだぜ」
「理由?」
「身構えとけ。来るぞ」
カレイジャスの後部ハッチが開いていく。
『これより紅き翼の力を行使します。――アルノールの名において!』
展開したハッチから何かが投下された。
剣だ。機甲兵用のブレード。どこかで奪われたものだろう。しかし、なぜ剣だけ。
その意図を理解しようとするわずかの間に、ドラッケンの操縦兵が叫んだ。
『レーダーに反応! こちらに向かって何かが――』
報告を言い終える前に、そのドラッケンは吹き飛んでいた。高速で戦場に切り込んできた黒い巨影が、電光石火の体当たりを繰り出したのだ。
さらに漆黒の残光を景色に刻みながら疾駆するそれは、目にも止まらぬ速さで二体目のドラッケンを地面に引き倒した。
「き、騎士人形か! いったいどこから!?」
「灰の騎神……確かヴァリマールって名前だったな。ま、今は黒っぽいが」
「そんな戯言はいい! 仕留めろ!」
残る二機のドラッケンが大剣を手に騎神に襲い掛かる。装甲の隙間から滲み出ていた黒い光が消え、代わりに双眸に緑色の光が瞬いた。
二刀からなる波状の斬撃を、至近距離にも関わらず容易く避ける。刃すれすれの距離だというのに、まるで当然のように回避してみせた。
紙一重の攻防の最中、先ほどのブレードが直上に落ちてくる。一瞥さえせず、ヴァリマールは完璧なタイミングで剣の柄をつかむ。
ドラッケンが再度攻撃をしかける。騎神の手にした剣が、今度は赤い輝きを発した。燃えるような光。
走る紅の一閃。
二機の機甲兵の上半身がそろって宙を舞う。立ち尽くしたまま生き別れになった下半身は、その切断面からバチバチと火花を散らしていた。
「騎神だけあらかじめどっかに待機してたか。完全に先手を取られたな」
「は……」
「呆けてんなよ、司令官殿。多分あいつらの目的は、お前が銃突き付けてるその女だぜ」
「わ、私はどうすれば」
「人質連れて、とっとと基地内に戻ってろ。ここは俺が受け持ってやる」
「なにを馬鹿な! 所属の違う貴様が首を突っ込んで――ぐう!?」
頭の巡りが悪い男の首元をわしづかみ、ヴァルカンは言った。
「どこぞの無能が指揮するよりはマシだろ。双竜橋内で待機中の機甲兵を全部こっちに回せ。あとお前らが保有している新型、《ヘクトル》だったな」
「げほっ、それがどうした……」
「あれもよこせ。俺が乗る。さすがに《ゴライアス》はここにないんでな」
「いい加減にしろ。そんなことが許可できるか!」
「つくづくわかってねえ。お前には俺が頼んでいるように見えるのか?」
「…………う」
有無を言わさぬ眼光に射竦められた司令官に、もはや他の選択肢は浮かばない。フィオナの腕を荒く掴むや、慌てて基地内部へと踵を返した。
「さて、と」
ヴァルカンが視線を正面に戻すと、ヴァリマールの足元に数名の人影があった。
トールズのガキどもだ。パンタグリュエルに現れた時と同様、転移術で降りてきたのだろう。どうもあの黒猫が使い手らしい。
カレイジャスは頭上を飛び過ぎ、西ゲートへと進んでいる。
「基地の形状を利用した挟撃か。今さらだが、空を移動できるってのは便利だな」
双竜橋内から重い足音が近付いてくる。後続の機甲兵だ。
反対側にも配備を残してやるか。思いかけて、その考えを否定する。ここの連中が勝とうと負けようと、詰まるところ自分にはさしたる関係がない。あの人質の女がどうなろうともだ。
こちらの増援に臆する姿勢は一切見せず、灰の騎神は堂々と剣先を向けてきた。
『トールズ士官学院特科Ⅶ組、リィン・シュバルツァーだ。何十体でも相手になる!』
「ははっ! この局面で名乗りやがったか!」
揺るぎのない声音。迷いのない宣言。名乗ることの意味もわかっているだろう。
どいつもこいつも、本当に面白い。
見定めてやる。お前らがどれほどやれるのかを。
東ゲート側で始まった戦闘の音は、カレイジャスの甲板にいる突入班にも届いていた。
「続いて双竜橋西側に降下するわ。300アージュが転移範囲よね?」
「はい、皆さん私の周りに集まって下さい」
サラの確認にうなずいたエマは、甲板の先端まで移動すると眼下を見下ろした。見えているところか、行ったところにしか転移はできないらしい。
エマが魔導杖を床に突き立てる。淡い輝きと共に、足元に広がる転移陣。
突入班のメンバーはトヴァル、サラ、エマ、マキアス、エリオットだ。尚、陽動班はリィン、ラウラ、フィー、ミリアム、ガイウスである。
「いけるな?」
トヴァルがエリオットの背中をたたく。
必ずしも起こした行動が報われるとは限らない。どれだけがんばっても失うかもしれない。
せっかく行動した先の結果が、望まぬことになってしまうのが怖かった。
でも一番いけないのは何もしないことだ。
じんとした熱さを背に感じながら、エリオットは「いけます」と断言した。
「その意気だぜ。……ところで転移の地点は細かく調整できるのか?」
地上の様子に目を凝らしたトヴァルは、続けてエマにそんなことを問う。
「コンディションや術の修練具合によりますが、多少なら」
「なら、あの場所に転移したい」
「……なるほど。やってみます」
トヴァルの指差す方に視線を合わせたあと、エマはさらに集中力を高めた。
その時、ブリッジ待機のユーシスから音声が届く。
『高度300を切った。完全に敵の射程内だ。これ以上は降下できんぞ』
「もう十分です。……いきます!」
陣から溢れ出す輝きが勢いを増し、転移が始まる。
視界を染める光が収まった時、そこはもうカレイジャスの甲板ではなかった。紅い船体は遥か頭上に見える。
転移成功。目論見どおり、機甲兵は東側のヴァリマールにおびき寄せられていた。
しかし西側の装甲車配備はそこまで薄くなっていない。歩兵部隊もそれなりの数が残っている。装いから判別するに、中には猟兵も混じっていた。
見える範囲での敵戦力を大まかに把握したところで、エリオットは疑問に思った。
視線の高さが妙だ。
そして気付く。自分たちが降り立った場所は、ゲートから少し離れたところ――橋にさしかかるぐらいの位置に停まっていた装甲車の一台。その
幸いカレイジャスに気を取られていたようで、ここに転移したことは歩兵の誰にも気付かれていない。
「ぐえっ」
「ぎゃっ」
二つの小さな悲鳴。すでに行動していたトヴァルとサラが、運転席と助手席にいた兵士を秒速で落としていた。
締め上げて意識を失った彼らを地面に放りだすと、二人は再び装甲車の上に登ってくる。
身を低くしながらエリオットはトヴァルに言った。
「ここから見つからずに進めればいいんですけど……」
「そいつは無理な話だぜ。なあサラ」
「そうよ。隠密作戦じゃないって言ったでしょ」
含み笑いを浮かべるサラの手には、運転席に置いてあったらしいメガホンがあった。嫌な予感がした。
「マキアス、エマ。あんた達は運転を担当しなさい」
「ま、まさか突っ込むつもりですか!?」
「運転なんてやったことありませんけど……」
予想外の指示に当惑する二人。そんな様子を意に介せず、サラは彼らを無理やり車内に押し込めた。
「たらたらしてらんないし、さっさと行くわよ。右がアクセル、左がブレーキね。それだけ覚えてれば、まあ何とかなるわ」
「なりませんよ! エマ君も何か言ってくれ!」
「いざとなったら私は転移で脱出できますから」
「……その時はもちろん、僕もいっしょに連れ出してくれると信じている」
あきらめ半分でシートベルトを締め、運転席のマキアスはハンドルを握った。
エリオットが不安げにたずねる。
「あのー、サラ教官。それどうするんですか?」
「そんなの決まってるじゃない」
さらりと言って、サラはメガホンをトヴァルに渡した。「あいよ」と立ち上がったトヴァルは、メガホンを顔の前まで持ち上げる。
『全員ちゅーもーく!!』
ハウリング混じりの大音声が西ゲート一帯に響き渡る。何事かと兵たちの目の全てがこちらに向けられた。
構わずに、装甲車の上からトヴァルは意気揚々と続ける。
『遊撃士協会規約第二項! “遊撃士は民間人の生命・権利が不当に脅かされようとしていた場合、これを保護する義務と責任を持つ”!』
そこでサラがメガホンを継いだ。
『かみ砕いて言うとね。あんたらみたいな下衆共は、ぶっ潰してでも人質を救出せよってこと。そして今日、それをやってのけるのは――』
サラとトヴァルの両方に肩をつかまれ、エリオットは前に押し出された。
メガホンを無理やり持たされ、混乱の極みのエリオットにトヴァルがささやく。
「名乗れ。気合い入れて、でっかい声で」
「な、なんでですか?」
「お前が来たって教えてやれ。姉ちゃんを安心させてやれ」
「……!」
歩兵たちが陣を敷き始めた。敵の装甲車のエンジンがうなる。
刺さるような敵意が自分に集中しているとわかる。足がすくむ。目まいがする。怖い。
だけど。
姉さんはもっと怖いに違いない。
『ぼ、ぼ、ぼぼぼ、僕は!』
震える喉をぐっと抑え、下腹に力を入れる。
『トールズ士官学院特科Ⅶ組、エリオット・クレイグ! 姉さんを助けに来た!』
――続く――
猛将☆デビュー!