「ではリィン。行ってくるぞ」
「ああ、気を付けてくれ」
ラウラとヴィクターを乗せた小舟は、ローエングリン城に向かって前進し始めた。やがて船影は霧の中にかすんで見えなくなっていく。
もう夕方だ。何をするのか具体的には明かされなかったが、滞りなく特訓が済めば、明日の朝には戻れるらしい。
父が娘に託す技。厳しい伝授ではあろうが、あの光の剣匠の直接指導。過分の心配はしていない。
だから、そっちはそれでいいのだが――
「俺は……?」
本当に行ってしまった。俺を連れてきた理由を最後まで告げることなく。このあと一体どうすればいいのだろう。
「リィン君、待っていたわ」
悩んでいると、聞き覚えのある声が耳に届く。船着き場に現れたのはヴィヴィだった。
前回のレグラム来訪時に、リィンは彼女と会っていない。久方ぶりの再会だ。トリスタが襲撃を受けた折、カスパルといっしょにレグラムまで逃げ延びたのだとヴィヴィは経緯を語った。
「そうか、無事でよかった」
「リィン君もね。ところで各地を回る中でリンデを見たりはしなかった?」
「すまない。まだ彼女には会ってないんだ」
「そう……」
表情に陰りが見えたのも一瞬、ヴィヴィはかすかに口の端を上げた。
「疲れてるでしょう。とりあえず宿屋に案内するわね」
「宿も取ってくれているのか。……俺、なんの為にレグラムに来たんだろうな」
仲間たちはそれぞれが力を付けている最中だ。自分だって強くなる足掛かりを見つけなければならないのに。
ひとり言のつもりだったが、ヴィヴィは反応を見せた。
「なんの為に……ね。それは明日に説明するから。今日は鋭気を養って」
「何か知っているのか?」
「さあ、んふふ」
訝しむリィンに背を向ける。企みの笑みが霧の中に溶けていった。
《――アルゼイドの試練――》
ローエングリン城の最上層のホール。天井も高く、広さもあり、剣を振るうには困らない場所だ。
時計がないので時間は分からないが、窓から差し込む陽光が赤みを帯びてきたから、そろそろ日没だろう。
型の伝授は思いのほか早くに済んだ。おそらく二時間程度。たったの二時間である。
まず技における“理”と“効”を説明され、そこから実際に“体”の指導を受けた。娘という立場を抜きにしても、丁寧な教え方だったと思う。
《獅子洸翔斬》、それが奥義の名だ。
「もう自在に扱えるか?」
「……はい」
自在とはどこまでを指すのか。定かではなかったが、ヴィクターの確認にラウラは一応うなずく。確かに使うことはできるからだ。
極限まで高めた闘気を刃に乗せ、斬撃と共に一気に放出する剛の奥義。
複合的な技術も工程もない。ただ気を練り、力を込め、臨界点で放つ。シンプルだが、それだけに強力無比。が、奥義と呼ばれる技がこれほど単純なものであって良いのだろうか。
そんな疑念を見透かしたようにヴィクターは言った。
「型を真似られたとて、それは体得したことにならない。そなたが使用できるのは敵のいない平面上での話であろう」
「それは承知していますが」
基本形を学び、理念を理解し、奥義たる所以を知る。そこまでが第一段階。
「では肝心の伝授に移ろう」
ヴィクターは《ガランシャール》を引き抜いた。獅子戦役の遥か前より伝わる、アルゼイド家の宝剣。
伝授という言葉を、彼はここで初めて口にした。
ならばここまでのことは単なる前準備か。理解した頭が、無意識にラウラにも構えをとらせる。
「目まぐるしく状況を変えていくのが戦いの常。その中で、いつ、どのようにして、どのような心持ちで奥義を放つのか。重要なのはそれだ。どういう意味か分かるな?」
「つまり、呼吸を知れと言うのですね」
「そうだ。今のまま、やみくもに扱っては数ある内の“ただ強い技”に留まってしまう。己の意志で最大限の威力を引き出せて初めて、この技は正真正銘そなたの奥義となる」
ガランシャールの刀身が淡い光を帯びる。呼応するかのように、空気が振動を始めた。
「こればかりは口頭で教えられん。実感として掴み取るしかない。その方法は今も昔もただ一つ」
立っていられない程の圧が体全体にのし掛かる。大剣を持つ両腕が折れてしまいそうだった。
「手加減はしない。獅子洸翔斬を用いて、日の出までに私に一太刀でも入れてみせよ」
「私が父上に……!?」
一本を取ったことはもちろん、一太刀を入れたことさえ生まれて一度もない。今の実力で自分にそれができるのか。厳しいには違いないが、それでも――
「必ず入れます!」
「意気やよし!」
互いに床を蹴り、大剣同士が激突する。霧の古城に激しい剣戟の音が響いた。
●
「おっはよう、リィン君!」
バンと部屋のドアが開かれ、ヴィヴィが入ってきた。
いきなりの訪室に回らない頭をのろのろと持ち上げ、リィンはベッドから身を起こす。
「ああ……おはよう。ってまだ朝の4時じゃないか……」
早起きの自分であっても、4時は早すぎる。こんな時間に彼女は何をしにきたのだろう。
「安心して? 別に夜這いをかけにきたわけじゃないから」
「いや、聞いてない」
「むしろ期待してたくせに~! 本当はがっかりしてるくせに~!」
くねくねと間抜けなセクシーポーズを決めるヴィヴィ。
朝四時だぞ。なんでそんなにハイテンションなんだ。
「はい、というわけで起きた起きた。もう準備はできてるから」
「な、なにが。うわっ」
質問する暇もなく毛布をはぎ取られる。
ヴィヴィは強引に腕を引いて、戸惑うリィンを宿屋の外へと連れ出した。
連れて来られたのは町の入口近く、レグラムの景観が一望できる駅前だった。とはいえ太陽はまだ顔さえ出しておらず、趣きある町並を捉えることはできなかったが。
テンション高いままのヴィヴィが言う。
「さあ、目は覚めたかしら?」
「この寒さじゃさすがに眠気も飛ぶさ。だけどヴィヴィ、こんな早朝に騒いだら迷惑だぞ」
「大丈夫よ。町の人たちみんな起きてるから」
「本当か?」
相変わらず要点が見えてこない。彼女は俺に何をさせるつもりだ。
「まあ何も知らないままも可哀そうだし、この優しいヴィヴィちゃんが優しく説明してあげる。んふ、私って優しい」
「何回自分で言うんだよ……」
「今からリィン君にやってもらうのはアルゼイドの試練よ。はい、じゃあ位置について――」
「ち、ちょっと待ってくれ!」
説明が荒すぎる。どこに優しさがあるんだ。
「もっと言うことがあるだろ。アルゼイドの試練というのはなんなんだ」
「んもー、仕方ないわねー。この優しいヴィヴィちゃんが優しく教えてあげる。んふ、私って優しい!」
「それが言いたいだけだろ!」
ようやくヴィヴィはまともな説明を始めた。
「アルゼイドの試練っていうのはね、レグラムに古くから伝わる慣習で、まあ――力試しみたいなものよ」
「それを俺が受けるのか?」
「子爵閣下も了承しているわ。私が試練の段取りを組むことについても一任してくれたし」
俺がレグラムに同行させられた理由はこれか。
あらかたの事情を聞いた後でも、残った不明点はやはり二つ。なぜ俺がその対象なのかと、なぜヴィヴィが一任されているかだ。
そこを問い質してみるものの、彼女は曖昧にはぐらかすだけだった。しかしアルゼイド子爵まで了承しているというのなら、深い意図があるかもしれないし、最初から断るわけにもいかない。
「俺は具体的に何をしたらいい?」
「やる気になってくれたみたいで嬉しいわ。これを見て」
ヴィヴィが取り出したのは、腕輪ほどの大きさのシルバーリングだった。リングの淵には両翼を拡げた白い鳥――アルゼイド家の紋章が彫られている。
「この銀の輪がレグラムの町のどこかに隠されているの。それを手に入れてゴールまでたどり着ければ合格よ。ただ町のみんなが邪魔してくるからね。宝探しと障害物ラリーを混合させたものだと思ってくれたらいいわ」
「町の人たちが起きているってそういうことか。邪魔ってどの程度の?」
「そうねえ。進路を阻むとか、そんな感じ?」
「うまくかわしていく必要があるってことだな。それにしても町全部とは捜索範囲が広いな……」
「一応ヒントをあげるけど、屋内には隠してないから。がんばれば見つかると思うわ。んふふ」
「了解だ」
簡単なストレッチをしながら、リィンはうなずく。
大々的に町の人も巻き込む形で申し訳ないのだが、いまだに主旨が掴みきれない。合格という言葉も気になった。合格とは認可されることだ。誰が、何を認めるのだろう。
「それでゴールってどこだ?」
「アルゼイド流の練武場よ」
このレグラムを象徴するような場所だ。最終地点に相応しい。
ヴィヴィは片腕を上げる。
「もう質問はないわね?」
「あるにはあるが、答える気はないんだろう。なら先に試練をクリアする」
「さすがリィン君、話が早いわ。それじゃ改めて、位置について……よーいスタート!」
腕を振り下ろすと同時に景気のいい号令。ついにアルゼイドの試練が開始された。
暗がりの階段を駆け下りて、リィンは広場区画へと踏み入る。
「さて……どこから探すか」
やること自体は難しくない。銀の輪を見つけて、練武場に持って行く。言わばそれだけだ。
さほど大きな町ではないし、しらみ潰しでいくべきか。
その時、視界の端に二つの人影が映った。目を凝らすと、見知った二人だと分かった。
「クラウスさんに、ええと……プラナさんでしたか? そういえば町の人も関わってるんでしたね」
アルゼイド家の執事にメイドである。二人は少し離れた街灯の下に立っていた。
クラウスが静かに口を開く。
「リィン……」
呼び捨てに違和感を覚えた。彼はその立場から、誰にも敬称をつける。今までだってリィン様とかしこまった呼び方をしていたのに。
「リィン……殺す!」
いきなり剣を抜き、襲い掛かってきた。木刀ではなく真剣だ。アルゼイド流師範代の本気の太刀筋が、リィンの胸元をかすめて過ぎた。
「クラウスさん、何を!?」
上空にも殺気。跳躍したプラナがメイド服をなびかせながら、薄闇を背景に拳を固めている。腕に装着しているのは鋼の手甲だ。
身をそらして間一髪で回避。路面にめり込んだ拳打が、アスファルトの破片を散らせた。
「お嬢様は渡さなイィ!」
「な……!?」
これが妨害? 邪魔というのは、せいぜい進路妨害程度ではなかったのか。完全に息の根を止めにきた一撃だ。道を阻むなどというレベルを越えている。
今の一撃が合図になったように、民家の明かりが一斉に点灯する。目の据わった町人たちが大量に飛び出してきた。一人の例外もなくリィンに向かって。
凶暴な雄叫びが飛び交う霧の町。その中心でリィンは理解した。
これは並の試練じゃない。
●
わかってはいたが、ヴィクターに一太刀入れるというのは生半可なことではなかった。
まる夜中費やしても、かすりさえしない。それを教えられたばかりの奥義でやってのけなくてはならないのだ。
「疲れているようだな。無理もないが」
そう言うヴィクターは息一つ切らしていない。体力の大少ではないだろう。剣を体の延長として扱うから、無意味な力を使っていないのだ。理想的な剣心一体。
「……まだやれます」
対するラウラは憔悴しきっていた。相手はヴィクター・S・アルゼイド。帝国中に名を馳せる《光の剣匠》。
父とはいえ、緊張もするし、力みもする。それでも彼女はよく食らいついているが、対峙するだけでも精神は消耗し、体は疲弊する。
長期戦になればなるほど、当てるべき刃は遠退いていく。
知らずの内に床に垂れていた剣先を、気力だけで持ち上げてみせる。ひどく重く感じた。
ヴィクターが背にしているテラスの大窓。そこから見える空は、まだ暗い。しかし月明りが薄くなり始めている。夜明けが近い。
「私に剣が当たらないのは不思議か?」
「まさか、不思議には思いません。実力が遠く及ばないのはわかっています」
卑屈ではなく事実。自分より強い相手には勝てない。これは動かない鉄則だ。
運や気合が勝利要因に介在できるのは、同等か背伸びして届く程度の相手にのみ。ここまで圧倒的な格上相手には、戦局に些細な影響も与えない。
それを重々承知の上でラウラはヴィクターに挑んだ。勝てないまでも、せめて一太刀ならと。
甘過ぎる見立てだった。
終始間合いに入れない。隙など一瞬たりともありはしない。それを打破する術を自分は持たない。いや、その術こそが奥義なのかもしれないが、まともに振るえない技など技たり得ない。
それこそ型だ。
「
満月にガランシャールを掲げ、ヴィクターは言った。
子供の頃からよく教えられていたことだ。
教わったものは型。理合を知って形。理解の上で体現できて技。
「そなたに問おう。体得した実力を百パーセント発揮しようとする時、そこに心や気迫は必要か?」
「それは……」
必要だと答えたかった。現実は違う。そのことをラウラは肌で知っている。
「分かっているようだな。不要だ。怒りも憎しみも悲しみも、そのほとんどは剣筋を狂わせ、足枷にしかならない。ぶれない力を行使したいのなら、主義も主張もすてて機械のようになるべきなのだ」
聞きたい言葉ではなかった。悩むことも、疑問を持つことも無駄だと言うに等しいのだから。
「けれど私は、私たちは――」
「そう、機械ではない」
ヴィクターは大剣を力強く床に突き立てる。月に照らされた長刀身が青い光を滲ませていた。
「人の心など不完全だ。故に想いがあればこそ、剣は揺れる。ならば想いがなければ剣は定まるのか。いつの時代も、どんな剣士も、必ずそこで足を止め、自問自答する」
「父上もですか?」
「無論。葛藤なき剣士は剣士ではない。ラウラよ、そなたはどうだ。想いの是非をどう考える。その理由も今ここで答えてみせるがいい」
剣を振るう理由。剣に乗せる心。私の想い。その在処。
遠くにあるようで、すぐ近くにある、揺るがない自分だけのたった一つ。
即答はできなかった。口を開きかけてつぐむラウラに「悩むがいい」と、父の声でヴィクターは重ねる。
「ただし刻限はずらさぬ。日の出までに芯の伴う答えが聞けなかった場合、そして私に一太刀も入れられなかった場合。この先、獅子洸翔斬を使うことは一切禁ずる」
「………委細承知しました」
ラウラも剣を床に突き立て、静かに瞳を閉じる。もう時間がない。体力的に奥義を撃てるのもあと一度が限界だ。
答えは考えるものではなく、きっとすでに自分の中にある。
己と向き合って、見つけなければ。心の最奥、ずっと奥深く、何度も拾おうとして拾えなかった何かを。
今まで無意識に目をそらしてきた何かを――。
●
「ひねり潰エッ!」
「こんノ害虫がァッ!」
「壊ス! たクさん壊ス!」
口ぐちに呪いの罵詈雑言を吐きながら、レグラムの住人たちが四方八方から襲い掛かってくる。老若男女問わず、手には棒やら、壺やら、椅子やらを携えて。それらはまだいい。笑えないのは包丁や農具の
押し寄せる憎悪の津波。まるで一つの災害のようだった。
「どうなっているんだ……!」
集団私刑のような錯覚を覚えるこれが、本当に試練なのか。
応戦しようにも、しきれる物量ではない。太刀があればやりようはあるが、それは部屋においたままだ。凶器の乱舞をかいくぐりながら、リィンは必死に活路を探していた。
死角から突き出される穂先。気配で察し、とっさに身をよじって回避。がたいのいい男性の一人が、物々しい槍を携えていた。
「串刺しにシて焼き鳥に――否、焼きリィンにしてやル!」
「シャレになってない!」
火あぶりまで用意されているとは。本気とは思いたくないが、それ以上に冗談だと思えない。
とにかく一旦体勢を整えなければ。
増え続ける刺客たちを振り切り、リィンは狭い路地に走り込んだ。しかし執拗な追っ手は途切れない。後方から怒声と荒い足音が近づいてくる。
知らない町ではないものの、建物の配置や道の繋がりなど完全には把握していない。追いつかれるか、回り込まれるか、いずれにしても時間の問題だ。
「こっちだよ、早くお入り!」
路地に面する民家の裏口が開いて、中から誰かが手招きしている。隠れられるような場所は他にない。リィンは誘われるまま駆け込んだ。同時に閉められる扉。
大勢の足音が過ぎ去っていくのを背中で聞きながら、自分の身を救ってくれた老婦人に礼を言う。
「助かりました、ええと」
「ダフネだよ。ここらじゃダフネ婆さんって呼ばれてる。ほら、そんなところに突っ立ってないで椅子に座っておいき」
リィンをリビングに案内したダフネは「まったく……」と呆れた様子だ。
「朝から騒々しいと思ったら何事だい。こんな若い子をみんなして追いかけ回してさ。事情は知らないけど、落ち着くまでここにいたらいいからね」
「ありがとうございます。けどダフネさんの迷惑になるんじゃありませんか」
「迷惑だったら言わないよ。年を取ると大抵のことには動じなくなるんでね。紅茶でいいかい?」
「い、いえ。そこまでお気遣いをして頂くわけには……」
「年寄りの好意は素直に受け取っておくもんさ。あんたは孫と同じくらいの年だから、つい世話を焼きたくなるんだよ」
「ダフネさん……」
異常地帯に一人放り込まれていたからか、何気ない優しさが胸に沁みた。
「ええと、確かその棚に紅茶の葉があったんだけどね」
「危ないですよ、俺が取ります」
背伸びしてよろめくダフネを退かせ、リィンは立ち位置を変わった。
「この棚ですか?」
「ああ、その奥にないかい?」
「うーん……?」
「ほら、もうちょっと先に」
手前に置いてあったガラスのコップに手が触れる。きらりとコップの側面に光が反射した。硬質な刃物の光が――
「はっ!?」
「シャアアア!」
反射的に身を屈めるリィンの頭上を、鋭い刃風が擦過する。はらりと眼前に舞い落ちる数本の髪の向こうに、鋭利な
「小僧が。勘も運もいいらしい」
「ダフネさん!?」
「あたしゃね、ラウラお嬢様のことをお生まれになった時から知ってる。彼女はレグラムの宝だよ。それをあんたが……」
ぎりりと歯ぎしり。顔のしわが怒りに歪む。
なぜラウラの話がここで出るのか。その質問をする時間はなかった。
今までの優しい声音は完全に消え去り、辟易したような口調でダフネは言う。
「その首を刈り取ってやる……そこいらの雑草のようにねえ!」
殺意の鎌が迫る。素手では防げない。リィンは引き寄せた椅子を盾替わりにした。容赦ない斬撃が木製の背もたれを両断する。
相手は高齢だ。手荒な真似はできない。家から脱出するため、リィンはリビングを抜けて、正面玄関に走った。
「おや、逃げるのかい?」
「あなたに手はあげられない。そんな物騒なもの、早く手放して下さい!」
「優しいね、優しいついでに首を置いていってくれたら助かるんだけどねえ」
表に飛び出る。また広場に戻ってしまった。しかしダフネの足なら追いつかれることはないだろう。
ひとまずは隠れられる場所を探さないと。そう思った直後、斜め上方向から空気を切り裂く音がした。首を向けると、弧を描いて滑空する鎌が視界に入ってくる。
投げたのか? いや違う。単に投げただけなら刃の重みで回転するはずだ。恐ろしいほどの正確さで首筋に迫るこれは、
「鎖鎌……!」
分割された柄部から伸びる金属製のチェーン。それを繰るのは言わずもがなダフネだ。
予測しづらい軌道の一撃を、リィンは路面にへばりつくようにして避ける。すぐに身を起こして振り返ると、腰の曲がった老婆が凶器をヒュンヒュンと振り回していた。
「誰がただの鎌と言ったんだい? レグラム三将が一人、《鎖鎌》のダフネ。現役時代、あたしの間合いから逃れられた輩はいないよ」
「どこかで聞いたような肩書だが……って、ユミル六柱か」
歴史ある町には必ずそんな役どころがあるのだろうか。
ダフネが声を張り上げる。
「そらそら若衆! 不届き者はここにいるよおっ!」
『うおおおお!』
聞き付けた町人たちが集まってくる。暴言、悪罵の大合唱。けたたましい咆哮と殺到する足踏みが、レグラムの地を激しく揺らした。
もう逃げる他ない。でもどこへ? 一息つける場所など、この町のどこにもないのではないか?
「そうだ、宿屋へ行けば!」
部屋には太刀を置いたままだ。まさか抜き身で応戦はできまいが、長物さえ手にあれば相手の攻撃を凌ぐくらいはできる。町人を極力傷つけないようにしながら無力化し、この試練を終わらせるために必要な銀の輪を探すのだ。
ようやく見えた一筋の光明。
全力疾走で宿屋《アプリコーゼ》を目指す。とはいえ広場を直進するのはリスクが高い。細道を抜けたり、脇道を迂回しながらリィンは目的地との距離を詰めた。
そしてようやく《アプリコーゼ》へと到達する。
「……くそ! 当然か」
扉が開かない。内側から鍵がかかっている。
振り切れなかった追手が近づいてきていた。自分の部屋は二階だ。かくなる上は壁をよじ登って窓から侵入してみるか。
なりふり構っていられず、壁面に手をかけた時、二階の窓が先に開いた。顔を出したのは《アプリコーゼ》の店主、ウェイバーという青年だ。
ウェイバーはリィンを見下ろして、にこりと笑う。
「リィン君は自分の剣を取りに来たんだろう?」
「そうなんです! 今そっちに行きますから!」
「お前が行くのは煉獄だ」
バンと閉められる窓。ガチャンと閉められる鍵。さっと閉められるカーテン。無情に尽きる三連シャットアウト。光明は闇の中へとかき消えた。
「ひゃああ!」
間の抜けた掛け声。こちらに走ってくるのはまたしても高齢の――今度は男性だった。
武器屋を営むワトーだ。レグラム実習の時には、武器のメンテナンスなんかでよく世話になったものだ。その彼が杖を振り上げて襲い掛かってくる。
「覚悟せい~! はおっ!?」
急に失速。ワトーはへたり込んでしまった。
「あたたた、こ、腰をやってもうた」
「ワトーさん! 無茶をするから……肩を貸します。つかまってください」
「お、お前さん?」
駆け寄るリィンを見て、彼は驚いているようだった。
「ワシはお前さんを攻撃しようとしたんじゃぞ……なぜ助けてくれるんじゃ」
「放ってはおけません。それだけです」
「なんという……こんなワシの……」
申し訳なさそうに頭を垂れるワトー。
「このワシの間合いに入ったな、小僧」
「え?」
瞬間的に膨れ上がる強烈な殺気。同時に縦一閃の煌めきが視界を裂く。
飛び退くが間に合わなかった。赤いジャケットに深い切り傷が刻まれる。
「ちっ、反応は悪くないの」
ワトーの持つ杖から白刃がのぞいている。彼はゆらりと立ち上がった。
「レグラム三将が一人、《仕込み杖》のワトーじゃ。ワシがこいつを抜いたが最後、生きてレグラムを出られると思うな」
「ダフネさんと同じか……!」
あと一人は年代的にクラウスだろう。多分、若い頃は三人つるんで色々無茶をやっていたに違いない。
「というか腰はどうしたんですか!?」
「すこぶる快調じゃが?」
「もう誰も信じられない!」
逃げ出そうとするリィンの動きを制するように、上空から飛来した矢が足元に突き刺さった。
教会の尖塔の頂に、修道服がはためいていた。シスター・セラミスだ。彼女は手にしている弓に矢をつがえると、今度は上空目がけて放った。
笛がくくりつけてあるらしく、空に舞う矢は『ピィィィ!』と甲高い音を響かせる。
「なんだ? 何かの合図か?」
悪寒が走り、全身が総毛立つ。近くの民家の屋根の上、そこに複数の気配があった。
『リィン……いタ……』
『首ガ欲しイィィ。血ガ見たイィィ』
『胴体ヲ真っ二つにシチャウー? そうシチャウー?』
屋根から飛び降りてくる彼らは、アルゼイド流の門下生たち。ダット、アレス、フリッツだ。練習試合として手合せをしたこともある。
清々しく気持ちのいい人たちだった。なのに今、彼らはドス黒いオーラをまとい、頬を引きつらせた不気味な笑みを浮かべている。
フリッツは剣を握りしめ、瞳孔の開きかけた目でリィンをにらみつけた。
「我々ノ鍛錬は全テ、今日の日の為ダ!」
「絶対違うと思いますけど!?」
ずいぶんと派手にやってくれている。予想通り、いやそれ以上だ。
一足先に練武場まで移動してきたヴィヴィは、怒号の絶えない外の喧騒を聞いて、自分の仕込みが成功しているのだと確信した。
町の人たちにはイベント説明と称して召集をかけ、集団催眠を行った。中でも特にラウラと関わりが深そうな人たちには、個別に集めて強力な暗示を施した。
その結果、彼らを縛る鎖はなくなった。
「なんかさっきからすごい音してるけど、リィンは大丈夫なのか?」
不安そうにカスパルが聞いてくる。ちなみに彼には催眠をかけていない。この場にいるのは自分とカスパルの二人だけだ。
「んー、大丈夫なんじゃない?」
「そんな適当な」
「大丈夫、大丈夫」
実際リィンのみならず、Ⅶ組の障害突破力は優れているのだろう。
彼らが実習先で毎度笑えないレベルのアクシデントに見舞われつつも、それでもしっかり帰還するあたりにそれが表れている。クラスこそ違えど、よく話題に上がっていたものだ。
「ところでカスパルは知ってる? この世で一番恐ろしいのは、知性のない獣じゃないの。理性を失った人間こそが一番怖いのよ」
「その話を聞く限りだと、リィンが大丈夫だとはとても思えない……」
正確に表現するなら“知性を有したまま、理性だけを失った人間”か。大脳皮質が感情を抑制せず、自分の望みのままに行動してしまうのだ。暗示で鈍らせたのは、その“律する機能”である。
「でもさ、リィンが試練を乗り越えたら、ちゃんとみんなの洗脳を解くんだろ? そうなったらヴィヴィ、色々と責められるんじゃないか?」
「あ、私のこと心配してくれてるんだ?」
「いや、どっちかというと町の人がちゃんと正気に戻るかどうかをだけどな」
「むうー」
ぷくりと頬を膨らます。
「だから洗脳じゃなくて暗示だってば。人聞きの悪いこと言わないでよ。ちゃんと元には戻るし」
そして私は責められない。そうなる細工をしておいた。
「タイムリミットの日の出まではあと一時間ってところね。……そろそろ動いてもらおうかしら」
「動く? 誰がだ?」
カスパルの問いには答えず、ヴィヴィは練武場の天井を振り仰いだ。
「大切な人の幸せを望みながらも、自分のそばから離れていってしまうことには抵抗を覚える。大概の人が持つ当たり前の感情だけれど、それが抑えられないくらいに膨れ上がった時、理性の枷なんて役に立たない。そこにある矛盾なんて、当人にとってはどうでもいいもの」
「ああ、そう」
「耐えるだけの時間は、やがて理不尽な怒りにすり変わる。愛が憎しみを呼ぶとはよく言ったものだわ」
「お前が仕向けたくせに……。そのわざとらしく黒幕っぽい雰囲気を醸し出すのやめろよな」
「んふふ、やーだ」
くるりとターンしてみせたヴィヴィは、いかにも楽しそうだった。
猛攻という言葉が相応しい。
鍛え上げられ、磨き抜かれた技の数々が、容赦なくリィンを追い詰める。
「刺ス! 胸を刺ス! アバラの隙間を順番ニ刺ス!」
「えっぐール! 目をエっぐール! 耳も削ーグ! 削ぎターイ!」
言ってることがもう相当アレな感じだが、しかしフリッツたちの攻撃は苛烈だった。
胸や頭などの急所を標的にするのもそうだが、隙あらば脇下や首、大腿の動脈も狙ってくるあたり、武術の心得を持った者だと納得できる。
はっきり言って分が悪い。
追いついてきたダフネが鎖鎌をぶん回し、気配を断つワトーは静かに間合いに踏み込んでくる。うかうかしていると、教会の屋根からシスターの矢が飛んでくるし、他の町人も包囲を狭めてくる。
俺は今日ここで死ぬのかもしれない。
半ば本気でリィンがそう思った時、
「リィン君、こっちだ! 走れ!」
民家の陰から自分を呼ぶ声がした。ガヴェリだった。クラウス師範代に次いで、門下生たちのまとめ役になっている人だ。
「何を止まっている! 早く!」
「………」
とてつもなく嫌な予感がした。ダフネの時と同じだ。助けてくれると思わせて、あっさり裏切られるパターンかもしれない。
リィンは疑心暗鬼に陥っていた。
だが考え直す。手詰まりの状況には変わりないのだ。一縷の望みに賭けてみよう。
刃の群れをかいくぐり、ガヴェリの元まで走り抜ける。彼はリィンの腕をひっつかむと、狭い細道に誘導した。
石を離れた場所に投げたりして、音で追っ手の進路を巧みに変えながら、うまく人気のない道を進んでいく。
「ひとまずは大丈夫だろう。無事か?」
「……助かりました、ガヴェリさん」
「礼には及ばん。これはさすがにやり過ぎだからな」
つい先ほども経験したこのやり取り。やはり不安は拭えない。とはいえ助けてくれたのは事実か。
二人が身を隠しているのはエベル湖に面した船着場近く、ブロック塀が作る死角だ。
ようやく一息つけた心地で、リィンはガヴェリに質問した。
「これは一体どういう意図の試練なんですか? 力試しが目的とは聞きましたが、さすがにおかしいと言いますか……」
「私もまさかここまでの事態になるとは思っていなかった。全ての発端はヴィヴィ君だ」
「ヴィヴィが……なんでも試練の段取りや進行を一任されたとか」
「うむ。彼女は試練の難度を引き上げる為に、町の人々を集め、催眠術を施したのだ。皆が異常に攻撃的になっているのはその影響だろう」
「催眠術?」
ヴィヴィがそんなものを使えるなどと聞いたことはない。いたずら好きなのは知っていたが、どこで覚えたのだろう。
だが得心はいった。レグラムの住人たちの凶行は催眠効果によるものだ。ただ不思議なのは、このむき出しの敵意がどこから生まれるのか、である。
そこまで詳しくないが、催眠の要は元々ある感情を増幅したり、固定したり、揺さぶり起こしたりすることにあるという。
つまり俺は、彼らから何らかの怒りを買う理由があったということか?
「恨まれる覚えはまったくないんだけどな……」
「どうかしたか?」
「いえ、なにも」
待て。そういえば危惧すべき可能性が一つある。リィンは思い付き、ガヴェリを見た。
「ガヴェリさんは受けていないんですか? その……ヴィヴィの催眠を」
「もちろん受けたさ。だが安心して欲しい。私は彼女の術中にはまっていないよ」
そう言って、彼は強い眼差しを向けてくる。確かに他の人たちのような据わった眼はしておらず、そこには彼自身の意志が感じられる。
「ヴィヴィ君を欺いて行動する為に、かかったふりをしていたのだ。彼女も私の演技を看破することはできなかったようだね」
「安心しました。心強いです」
「アルゼイドの試練を終わらすため、私も協力させてもらう。さしあたってはリィン君。まずこれをつけてくれ」
促されるまま差し出した両手首に、ガチャンと手錠がかけられた。
「……え?」
「よし、ではその状態でエベル湖に飛び込んでくれるか?」
「いえ、なんの冗談だか分からないのですが」
「はは、私は冗談は苦手だよ。早く飛び込むがいい」
「な、なんで!?」
「これで試練が終わるだろう。何か変な事を言っているかね?」
自分の発言に疑問を抱いていない。これは本気で言っている。その迷いのない目を見て、リィンはうすら寒いものを感じた。まさか、この人は。
「なるほど、そうか。足にも錠を付けないといけなかったな。ふふ、これは恥ずかしいミスをしてしまった」
じゃらりと取り出した二つ目の手錠が、足首に近付いてくる。
「いやいやちょっと待って下さい!」
「む! なぜ逃げる!」
「それは逃げますよ! どういうことですか!?」
「死んでくれないとは狭量な男だな、君は! やはり相応しくない! 相応しくないぞっ!」
「思いっきり暗示にかかってる……!」
言動が支離滅裂だ。しかしまったく自我がないようにも思えない。
ヴィヴィの催眠下にあるのは間違いないが、どうも今までの人たちと状態が違う。
「エベル湖に沈めえーっ!」
「気を確かに持って下さい! あなたは今、おかしくなっている!」
「私におかしいと言ったか! 礼節も欠いているようだな、リィン・シュバルツァー! とりあえず飛び込め! 話はそれからだ!」
会話が通じているようで成立していない。
催眠深度の影響か。とっさにリィンはそう考えた。
暗示の効果は当然、個人によって異なる。浅い者、深い者、それぞれのかかり具合に、何が影響しているのかまでは定かではなかったが――
湧き上がる狂気に呑まれて正気を失っているのは、一般の住人たちだ。直情的で直線的な行動が目立ち、これはむしろ“浅い”と判断できる。
次にアルゼイド流の門下生たち。彼らも狂気に支配されている。だが他人と連携が取れるところを見ると、制御は出来ていないものの、わずかばかりの正気は残っていそうだ。中程度の暗示効果と言えるだろう。
そしてガヴェリ。自分自身の意識はありながら、それが異常なものという認識がない。狂気と正気が同一のものとして融和しているのだ。
つまり彼は“深い”。
「落とす、落とす! お嬢様の為に落ちろっ!」
ガヴェリの身のこなしや体術のキレは健在だ。対してリィンは両手を手錠で封じられている。あっという間に桟橋の端まで追い詰められてしまった。
暗い湖面が波打ち、ずり出た踵をしぶきが濡らす。
「なんでラウラの為なんですか!」
「それを私の口から言わせるか!」
特攻してくるガヴェリ。本気で突き落とす気だ。迎え撃つしかない。リィンも前に出た。
互いにぶつかる体当たり。助走距離が長い分、相手の勢いの方が強い。押し返され、波の音が背中に近付いてくる。
「耐えたところで無駄だ。結末は動かない」
「ぐっ!」
もう退路がない。落とされる。
「我らとて本来は祝福したいのだ! だから君の本気を知る為に! 君がお嬢様をどう思っているかを知る為に、こんなっ!」
「ガヴェリさん……?」
「嬉しいではないか! 剣一筋に生きてこられたお嬢様が、多くのことに興味を持つのは! それが得体の知れない料理であっても、同級生の男子であっても! 我々は嬉しいのだ! けれど同時に寂しく……認めがたくっ、わ、私は何を言って……あああああ!!」
絶叫。崩れる正気と狂気の均衡。力が一瞬ゆるみ、ガヴェリの体勢が傾く。その隙をついてリィンは一気に押し返した。
もつれ合い倒れる二人。ごんと鈍い衝撃。
ガヴェリが動かくなった。地面に頭をぶつけたせいで失神している。
「はあ、はあ……すみません」
身を起こし、リィンは彼の上から退いた。
こうするしかなかった。そこまで強くは打っていないし、しばらくすれば目を覚ますだろう。
どうして俺はこの試練に挑み、そして乗り越えることになったのだったか。もう何も分からない。とにかく早く終わらせたい気持ちでいっぱいだ。
「それにしても銀の輪ってどこにあるんだ」
やみくもに探す時間は残っていない。目星をつけて動きたいところだが。
ゴール地点は練武場。レグラムを象徴する場所の一つ。銀の輪も適当な場所には隠さず、縁ある場所に設置していると考えるべきか。
象徴、縁。
二つの言葉が重なり、リィンの目は自然とそこに向けられた。
ローエングリン城を臨む湖岸に立つ、若き女性の像。槍の聖女と謳われし、リアンヌ・サンドロット。
「……あった」
彼女の掲げるランスの先に、きらりと輝くシルバーリングがかかっていた。
桟橋から聖女像までは目鼻の距離だ。それでもリィンは警戒し、慎重に近づいていく。あれを手に入れれば全てが終わる――はずだった。
「ここまで来るなんてね」
像の裏から姿を現したのは、三人の乙女たち。
クロエ、セリア、シンディ。ラウラ親衛隊だ。彼女たちとも以前の実習時に会っている。ラウラに同行する自分に含みのある視線を向けてきたことを覚えている。
「君たちもヴィヴィと関わったのか?」
訊いたところでまともな答えが返ってくるのかは微妙なところだが、この応答の具合で催眠深度が測れる。
三人は顔を見合わせるとクスクスと笑った。自然な振る舞いだ。
クロエは持っていた掃除用のハタキをふわりと振った。
空気が揺らいだと思った直後、リィンの背後のブロック塀が真っ二つに割れる。削れた岩粉を噴き上げて、石の壁が崩落した。
「な、なんだ!?」
刃のような風圧だった。これほどの力を少女が易々と使うなんて。
クロエは照れたように、はにかんでいる。
「あ、外しちゃった」
「ふふ、クロエったら慌てんぼうさん。私だったら確実にやれたのに」
そう言うセリアが手にしているのは雑巾だ。ただの清掃道具のはずなのに、この上ない凶器に見えるのはなぜだ。
二人の前に歩み出るシンディ。
「ねえ、リィン君。たくさん走って疲れたでしょう?」
彼女は可憐な声で言った。
「もう死んでいいわよ」
●
同刻、ユミルの町。
早朝からルシア・シュバルツァーは屋敷の掃除をしていた。
「……ずいぶんと広く感じるものね」
よく家事を手伝ってくれていたアリサやラウラがいなくなったからだろうか。
Ⅶ組と協力者たちは、カレイジャスを拠点として各地を回ることになった。度々様子を見に戻ってくるとリィンは言っていたが、しばらくは会えないかもしれない。
「……エリゼ」
ぽつりとその名をつぶやく。
事の顛末はリィンから聞いた。彼はひどく自分を責めていた。そうではないのに。
エリゼが自分で貴族連合の艦に残ると決めたのなら、それがその時、その場で、リィンにとっても最良の道であったはずなのだ。
なぜならあの子は、いつだってリィンのことを一番に考えているのだから。
今は辛くとも、その選択が実を結ぶ瞬間が必ず来る。
「次はリビングね。フローリングを拭いて、カーペットも洗っちゃいましょうか」
だから家は綺麗にしておく。いつでも二人が戻ってきていいように。それが母親たる私の役目。
自分自身に言い聞かせるように、ルシアは強く口にした。
「大丈夫、二人とも必ず帰ってくるわ」
パリン。何かが割れる音がした。音は食器棚の中からだった。開けてのぞいてみると、ティーカップが割れている。リィンが使っていたカップだ。
「……なんなの」
試すつもりでルシアはもう一度言ってみる。
「二人は必ず帰ってくるわ」
パリン。別のリィンのカップが割れた。
「……エリゼは帰ってくるわ」
これは割れなかった。
「リィンは帰ってくるわ」
パリン。皿が割れた。リィンが愛用していた皿だ。
「リィ」
パリン。名前を言いかけただけで割れた。
なぜリィンのものばかり。
「……とりあえずお掃除の続きをしなくちゃ」
ルシアはそっと棚の扉を閉めた。
●
「聖女様の像は傷つけたくないの。だってラウラお姉様が一番尊敬しているお方だから」
手にした雑巾を弄びながら、気負いもなくセリアは言う。
「だからクロエは待ってなさい。さっきみたいに石垣を壊して、破片が像に当たってもいけないわ」
「そっか。そうだよね」
「ええ、リィン君を動けなくしてから至近距離で撃つ方がいいと思う」
「そっか。そうだよね」
「納得するポイントがおかしい!」
切り抜けられるか? リィンは油断なく思考を巡らした。
三人は散開し、すでに自分を囲むような位置にいる。クロエはハタキ、セリアは雑巾、シンディは見たところ素手だが、何かを隠し持っている可能性はある。
聖女の槍から銀の輪を抜き取って、練武場まで走り抜けられればいいのだが、この手錠があるせいでそこまで俊敏には動けない。
後ろから追いつかれようものなら最悪だ。無防備な背中にクロエの一撃を食らえば、それこそ五体バラバラにされてしまう。幸いここでの使用は、セリアが控えさせてくれたが。
そのセリアがリィンに雑巾を向けた。
「知ってる? こんな雑巾でも水に浸して口と鼻に被せちゃえば、あっという間に息が出来なくなって女神様の元に行けるのよ。あ、間違えた。リィン君が行くのは女神様のところじゃなくて煉獄だったわ」
「悪いが、まだどっちも行くわけにはいかない」
「ううん、行って。苦しまないようにこの雑巾も特別製のにしたから」
「ありがたくない配慮だな……特に変わった感じはしないが」
「この雑巾はね。床にこぼした牛乳を拭いた後、洗わずロッカーの中に三日間放置したやつなの。それはもう強烈な臭いを発しているわ」
「苦しませる気しかないだろ!」
それを普通につかんでいる君の手は大丈夫なのか。
「そーれ!」
「しまっ、うわ!」
セリアに気を取られ過ぎていた。回り込んできたクロエに足をすくわれ、引き倒されてしまう。
間髪入れずセリアにも馬乗りにされ、腕を押さえつけられる。二人ともすごい力だ。まったく抗えない。とりあえず牛乳雑巾を手放してくれたのだけが救いだった。
視界の端に聖女像に近付くシンディが見えた。彼女が像の裏から取り出したのはシャベルだった。畑などで使用する大型のスコップである。
シャベルの先端をカラカラと引きずり、シンディがゆっくりと歩み寄ってきた。
「私シャベルって好きよ。叩いて、掘って、埋める。これ一つで一通りの工程が事足りるもの」
リィンは理解した。正気と狂気を融和したのがガヴェリなら、正気の中に狂気を取り込んでいるのが彼女たちだ。
脳のリミッターを外しつつも、完全に自分の意志で力を制御し、湧き立つ狂気さえ飼いならしている。
これぞヴィヴィの生み出した催眠究極体。真・ラウラ親衛隊だ。
シンディはリィンの前で足を止めると、シャベルを高く振り上げた。
「ラウラお姉様との寮生活は楽しかった? 楽しかったでしょうね。不可抗力を理由に色々接触を図ったりとかして」
「し、してない! わざとじゃない!」
「そう。わざとじゃなくても、あったのね」
失言だった。シンディの目に昏い光が灯る。
「色々ハレンチな想像もしてたんでしょう。『ご飯にする? お風呂にする? それともワ・タ・シ?』みたいなことを」
「ない! ないって!」
「ふふ、ふふふ、許せない」
なんとか逃げようとリィンはもがく。だがダメだ。クロエもセリアもがっちり四肢をつかんで離さない。
「そんなリィン君の望みを叶えてあげる」
「な、なにが?」
艶っぽい表情を浮かべるシンディ。
空が白んでいる。まもなく日の出だ。エベル湖を照らす薄明かりが、掲げられたシャベルの刃を鈍く光らせた。
「腕からいく? 足からいく? それともア・タ・マ?」
答えさせてももらえなかった。リィンの脳天目がけて、狂気のかたまりが降り落ちた。
――続く――
DEAD END……