「すまない……」
「ごめんなさい……」
「申し訳ありません……」
一人一人が罰悪そうに謝りながら、最悪のタイミングで現れた女中を拘束する。
叫ばれるより早く取り押さえることができたのは不幸中の幸いだった。
「んーんー!」
散らばった清掃用具。うめく女中の口にはシーツで代用した猿ぐつわを噛ませている。
「あとは手と足も縛らないとな。本当に悪いんだが……」
「兄様、それは私がします」
「わたくしも手伝いますわ」
散乱した清掃用具の中に丁度いい長さの紐があった。エリゼとアルフィンはそれを手に、リィンの前に歩み出た。
「大丈夫だ。こういうのは俺がやる」
「ダメです。相手は女性の方ですよ。兄様が色々触っちゃうかもしれませんし」
「いや、触らないから」
「それに私はノルドで一度拘束されてますので、縛るのは慣れています」
「縛られる方だよな、それって。……まあ、そこまで言うなら任せるが」
引き下がるリィンと入れ違い、二人が女中に近付く。彼女は観念した様子で、もう暴れたりする素振りは見せなかった。しかし万が一に備えて、リィンは油断なくそばに控えた。
「では私は足を、姫様は手をお願いします」
「ごめんなさい、あんまり痛くはしませんから」
遠慮しつつも二人は女中の手足を縛り始めた。
「あ、あら? わたくしとエリゼの紐が絡まってますけど」
「え? 本当ですね。途中まで解かないと……」
作業の最中にこんがらがってしまった紐を、焦ってお互いに手繰り寄せる。団子になっている部分を外そうと四苦八苦している内に、余計にややこしいことになっていた。
「……解けそうにないし、もうこのまま縛ってみる?」
「やむを得ませんね。そっちをこう回して……」
「それじゃ反対になるわ。ここを下からこうやって」
「違いますよ、姫様。腕を後ろに回した方があとで上手くいきます」
「そうなの? あ、そっちも絡まってるみたいだけど」
談論の途絶えない少女たちの手によって、抵抗の術を持たない女中はあられもない雁字搦めにされていく。不可抗力とはいえ、教育上不適切な絵面だった。
止めるべきか否か。リィンが声をかけるタイミングをつかめず、そうこうしている内に、どうにか二人は緊縛行為を終えた。
「えーと、これでいいのかしら」
「いいんじゃないでしょうか。とりあえず動けないと思いますし」
「それよりエリゼもこんな感じで縛られていたの? ちょっと見てみたかったけど」
「そんなわけないでしょう! 手だけです、手!」
「もう、エリゼったら大人なんだから」
「姫様~っ!」
果たしてこれが普通の女友達らしい会話なのだろうか。あいにくリィンはその答えを持ち合わせていなかった。
ふと床に横たわっている女中に視線を落とす。
年端いかぬ少女たちに好き放題されてしまった彼女の目は、何とも悲しげだった。
《――二軸の閃――》
縛りに縛った女中はベッドに乗せ、周囲をレースカーテンで覆っておいた。これがどこまでの時間稼ぎになるかは運次第といったところか。
ひとまずリィンたちは自室へ戻ることにした。階段を降りてエントランスフロアに着く。そこで不意に声をかけられた。
「おお、これはアルフィン殿下。どちらへ?」
黒いスーツに身を包んだフロアマネージャーの男性だった。彼はアルフィンの姿を見るなり、カウンターから早足で近付いてくる。
リィンは息を呑んだ。いきなり彼女を連れだしたことが露呈してしまった。
しかしアルフィンは落ち着き払った態度で彼に応じた。
「こちらの方々はわたくしの知り合いなのです。ちょうど女中さんがお掃除に来て下さったので、彼らの部屋に雑談の場所を移そうかと」
「それは大変失礼しました。清掃などいくらでも時間を変えられますのに。すぐに注意してまいりますので」
「いいんです。広すぎるお部屋だと逆に落ち着きませんから。彼女にはゆっくり掃除をして下さいと頼んできました」
「左様でございましたか。ご配慮痛み入ります」
男性はアルフィンが部屋に閉じこもっていたことを気にかけていたらしく、こうしてフロアまで出てきたことを嬉しく思っているようだった。
小さな後ろめたさを感じつつ、三人はそそくさと部屋に入った。
手早くエリゼは細剣、リィンは太刀を腰に携える。
「武器を携行したままだと目立ってしまいますね。でもさすがにこれは置いて行けませんし」
「そうだな。だけど大丈夫だ」
リィンは天井を見上げる。隅の一角に換気用ダクトがあった。
「マキアス
「名言ですね」
椅子を台にしてダクトのふたを取り外す。意外と簡単に外れてくれた。
あとは登るだけなのだが、リィンはやむなくこの提案をする。
「俺が肩車で一人ずつダクトに押し上げる。構わないか?」
仕方ないことなのだ。自分が先に登って引っ張り上げることもできるが、それは一人だけだ。二人目を引き上げる為には一人目と位置を変わらなければならないが、人ひとり分通るのがやっとのダクト内で、そんな移動は容易にできない。
事情を理解したらしく、エリゼは同意した。
「アルバレア城館に潜入した時も肩車をして頂いていますから、それはいいのですけど……絶対に上は見ないで下さいね?」
「約束する。絶対だ」
「そんなに見られちゃダメなのかしら」
エリゼの背後に回ったアルフィンが、白いスカートをつまみあげた。
「きゃああ!?」
「可愛いと思うわ。別にリィンさんに見られても問題ないと思うけれど」
「姫様! 姫様ーっ!!」
「冗談よ。怒らないで」
「怒ります!!」
「頼むから静かにしてくれ……」
ここで見つかったら冗談ではすまない。頭を抱え、うなだれるリィン。
ぷしゅーと頭から蒸気を上げるエリゼをなだめ付かせた後、順番に二人をダクトへと登らせた。
残った自分はまた椅子に乗り、腕力だけで天井へと這い上がる。もう後戻りはできない。慎重に行動しなければ。
新造艦ということもあってか、ダクト内に汚れは少なかった。
「このまま進み続ければいいですか?」
先頭を行くエリゼが訊いてくる。登った順なので二番手はアルフィンで、最後尾がリィンだ。もちろんリィンは前を見ることなく答えた。しっかりと紳士協定は遵守している。
「ああ。目指すのはヴァリマールが繋留されている上部デッキだ。とりあえずこの来賓区画を抜け出さないとな」
ブリッジからここに通された時に見たが、来賓区画と他のフロアを繋ぐ通路には、いかにも重厚そうな扉が備え付けられていた。導力錠もかかっているようで、普通に出ることはできない。仮に抜け出たとしても、巡回兵の警備網をかい潜り続けることは至難の業だ。
可能な限り、ダクト内を経路とするのが安全だろう。
「ヴァリマールがデッキから移動させられていたら……」
「今のところは大丈夫だ。大体の位置は掴めるからな」
起動者と騎神が繋がっている故か、ある程度の場所は感知できるのだ。
ここからは口を閉ざす。貴族連合の協力者たち、彼らの部屋の真上を通らなければならない。
より注意して、三人は音を立てないように這い進んだ。
何番目かの部屋に差し掛かった時、話し声が聞こえてきた。
(――そんでフィーの授業風景の話やけど、やっぱり黒板に向かって座るところを見たいやろ?)
(トールズでは授業参観などやっていないのだろうか)
《西風》の二人の部屋だ。
(でも堂々とは行かれへんしな……離れたところから双眼鏡で覗くしかあらへんか)
(それがいいだろう。ケネスとやらの監視もできる。隙があれば――)
(ああ、狙撃や。胸と頭に二発ずつな)
ゼノとレオニダスは相も変わらずフィーの話にご執心のようである。あれからもずっとその話題だったのだろうか。
そしてすまない、ケネス。俺の不用意な一言のせいで、お前は大陸最強の猟兵団のターゲットにされてしまった。
話に夢中だからなのか、彼らはこちらの気配に気付かない。
さっさと通り過ぎ、しばらく進んだところでダクトは終点になった。移動距離的からすれば、もう来賓区画を抜けている。
「ダクトのふたは外せそうか?」
「ええ、なんとか……」
エリゼが見るに直下は倉庫のようで、その部屋には誰もいないとのことだ。
ふたが開いた。警戒は切らさないまま、彼女はダクトから飛び降りる。高さに気後れしながらもアルフィンが続き、リィンも倉庫へと降り立った。
壁際に木箱が多く詰まれ、床には何かの資材が置かれていた。照明は付いておらず、薄暗い。普段から頻繁に出入りする部屋ではないのだろう。
「なんとかここまで来たな」
一息つくリィンのとなりで、エリゼは乱れた衣服を正す。
「どうしましょう。ダクトはこの部屋までしか続いていませんでしたし」
「なるべく昇降機の近くまで繋がっている別のダクトを探そう。これほど大きな艦だから、他の部屋や通路にも通風口はあるはずだ」
同じフロア内の移動ならダクトだけでいい。しかし上層に行くなら階段かエレベータを使う必要がある。
パンタグリュエルの構造を把握しているはずもないが、とにかく目指す場所は上だ。リィンは内鍵を開け、ドアの隙間から用心深く辺りを見回してみる。
来賓区画の優美さからは一転、鉄の通路に精彩はなく、戦闘艦の様相が見て取れた。
「見張りの兵士はいないな。まだ気配も遠い」
「各地に同行するようになって特に思うのですけど、その気配の感知って便利ですよね」
「なんならエリゼも修行してみるか? 三年もあれば身に付くと思うぞ」
「遠慮しておきます」
「ふふ、仲のよろしいこと」
兄妹のやりとりを見て、くすくすとアルフィンが笑う。
リィンから先に通路に出る。扉がいくつか見えたが、さすがに客人の部屋などではないようだ。注意しながら視線を巡らすと、近くに別のダクトがあった。今度は天井ではなく、壁面下部だ。
リィンは急いで駆け寄り、さっきと同じようにふたを外そうと試みる。
「固い……!」
天井付けとは固定の仕方が違うらしい。ボルトやネジ穴などは正面に無い。はめ込み式か?
柵状の部分をつかんで、少し上にあげながら横にスライドさせてみる。動いてくれた。
「よし取れた。殿下、エリゼ、早く中へ」
「いいえ、兄様からお先にどうぞ」
スカートを抑えながらエリゼが言う。さすがのリィンも理解した。野暮を言う前に「了解だ、後に続いてくれ」と、自分から先に身を屈める。
上半身までダクトに入った時だった。
「おい、こっちから音がしたよな」
「本当か?」
進行方向を変えた数名の兵士が早足で近付いてくる。
それは感知したが、この状態から引き返すこともできない。リィンは急いでダクトの奥へ進みながら「巡回兵が向かってきている!」と後ろの二人を急かした。
「姫様、お早く!」
「で、でもエリゼ」
「私は後でいいですから!」
アルフィンをダクト内へと押し込み、エリゼは外から柵蓋を閉める。自分まで入る時間がないと、彼女には分かっていた。
「後で合流しましょう。先に進んで下さい」
兵士の靴音が近くなる。ダクトに入った二人には、どうすることもできなかった。
「通路異常なし。次はこの部屋だ」
兵士が扉を開けて中に入ってくる。エリゼは息を潜めて、詰まれた木箱の陰に隠れていた。この部屋は、先ほど天井のダクトを抜けてきた倉庫だ。
ここに逃げ込んだ時、忘れずに内鍵はかけておいた。時間を稼ぐ為ではなく、最初から開錠していることに疑問を持たれない為である。
兵士は一つずつ木箱をどかして、裏まで確認している。ケルディック領邦軍などと違い、旗艦詰めの兵はさすがに職務に忠実らしい。
自分が隠れている横の木箱が動かされた。差し込む光が膝元を照らし、エリゼは慌てて足を引っ込める
次がいよいよ自分の隠れている木箱の番。
手にした閃光手榴弾のピンに親指をかける。これを炸裂させて、この場を凌いだとしても、大音響が他の兵士を呼んでしまうだろう。
果たしてどれくらいの時間が稼げるか。その間にダクトまで走り、もう一度柵を外し、中に滑り込むことができれば――
決意が固まらない内に、男の手が視界に伸びてきた。じっとりと汗ばむ背中。手榴弾を握る手がぐっと強張る。
「おい、そっちに異常はあったか?」
通路からの別の声に、目前の兵士の手が止まる。
「いや、特になしだ。ちゃんと施錠もされていたしな」
彼はエリゼのいる木箱の裏を見ずに、倉庫から出ていった。
「はあ……」
深い嘆息。脱力してへたり込む。際どいところで助かった。施錠の手間もちゃんと効果があったというわけだ。
「……今からどうしようかしら」
エリゼには二つの選択肢があった。
リィンたちを追いかけるか。それともここで隠れ続けるか。
ダクトを離れる寸前、アルフィン越しにリィンから伝えられたことがあるのだ。
“もしこちらに追いつくことが困難な場合、どこかで身を隠せ。ヴァリマールを奪還次第、《ARCUS》で場所を特定し、パンタグリュエルの外装を破って救出する”
ただし、これはリスクが大きい。
逃げ出したことは確実にばれるし、エリゼの位置特定が遅くなると、その分オルディーネに追撃されるまでの時間が短くなる。
そっと倉庫の外の様子を窺う。さっきの兵士は遠ざかったようで、近くに姿は見えない。どれだけ離れてくれたのか定かではないが。
冗談ではなく、本当に気配を読む能力が欲しいと思った。
難しい判断だったが、エリゼはリィンたちの後を追うことにした。
ここに隠れて続けても見つからない保証はなく、先にあの女中が見つかる可能性もある。ならば動いた方がいい。
ゆっくりとドアを開けて、辺りを再確認。リィンたちが入ったダクトはすぐそばにある。加えて柵蓋はきっちりとはめ直していないから、二回目の取り外しは容易のはずだ。
息を吸って、覚悟を決めて、エリゼは通路へと飛び出した。
わき目も振らず、ダクトへ全力疾走。距離は10アージュもないが、とてつもなく遠く感じる。あと5アージュ、4、3、2、1、もう少し――
「何やってんだ、お前」
唐突に声をかけられ、柵に触れかけた指先がぴたりと硬直する。やってしまった。まだ近くに誰かいたのだ。
今度こそエリゼは手榴弾に手をかけた。先制の不意打ちで逃げ切るしかない。
「おいって」
「っ!」
素早く背後に振り向いて――しかし体の動きを止める。
「あ……」
「なんだ、お前。もしかして逃げるつもりだったのかよ」
男は気だるそうに頭をかいた。
「面倒くせえ。どうせならもっと上手く逃げろよな」
マクバーンだった。閃光弾を使う考えなど、一瞬で消え去っていた。
●
「殿下、まだ走れますか!?」
「はあ、はあ……はい!」
搬入前の物らしいコンテナの陰で、アルフィンは乱れた呼吸を整える。
ダクトを抜けたリィンたちは甲板までたどり着いていた。気配を読みながら巡回兵をかわしたり、やり過ごしたりしながら艦内を進み、専用昇降機に乗り込むことができたのだ。
昇降機が途中のフロアで止まったり、誰かが入ってきたりするリスクはあったが、運は良かったようだ。
パンタグリュエルのデッキは桁違いの広さだった。大型旅客艇でも縦に三隻は余裕で収まるスペースがある。戦闘時などは艦内ドックと甲板に、多くの機甲兵が待機するのだろう。
その中程近くにヴァリマールの姿が見えた。片膝を付き、四肢を鎖で繋がれている。
「どうしましょう、あれでは動けないですね」
「問題ありません。あの程度の鎖なら、騎神の力で引きちぎれます」
あくまでも形式的な拘束。起動者である自分が搭乗しなければ、単機で勝手な離脱はしないと分かっているのだ。
管制システムがブリッジに集中しているからか、あるいは飛行中だからか、今のところデッキに見張りはいない。
「ここまで来たら一気に走り抜けましょう。殿下、お手を失礼します」
「え、あ、はい。よ、よろしくお願いしますね」
たどたどしく言って、アルフィンは可憐な仕草で手を差し出した。状況が状況でなければ、まるでダンスのパートナーにそうするかのようだった。
手の平を合わせ、しっかりと握る。
駆け出す二人。エリゼは追いついて来なかった。どこかで隠れているのか、それとも。
いずれにせよ騎神を奪取したら、すぐエリゼの居場所を割り出さなければ――
「やっぱここに来るよな。なかなか大胆な逃避行じゃねえか」
響く声。ヴァリマールの陰からクロウが姿を見せた。
先回りされた? 逃亡がばれていたのか。
「女中からの報告だ。アルフィン皇女の部屋で拘束されているのを、様子を確認しにいったマネージャーが見つけたんだよ。えらくマニアックな縛り方だったらしいが、リィンの趣味か?」
「殿下とエリゼだ」
「お、おう。そうか。最近の女学生は進んでんだな……」
「リィンさん、その言い方だと誤解されます」
絡まった末の不慮の結果だと、一応の釈明をアルフィンが入れる。
「逃げ出したと分かっていた割には、追跡の手が緩かったみたいだが」
「下手に警報鳴らして隠れられた方が面倒だったんでな。ここで待ってるのが一番確実だろ」
クロウは怪訝顔で首をひねる。
「って、二人だけか? エリゼはどこだ」
「すぐ迎えに行くさ」
「なるほど。灰の騎神に乗ってか。はぐれたか、やむなく分断したって感じだな」
相変わらず察しがいい。口振りからすると、エリゼの動向はクロウも掴んでいないようだ。
艦内放送は流されなかったから、自分たちの脱走を知っているのは口頭伝達された一部の人間だけだろう。だがそれも時間の問題か。
「急ぐ必要が出てきた。そこを退いてもらう」
「通すと思うか?」
「力付くでも、その先へ行く」
「いいぜ、やってみろ」
肌を刺す戦闘の空気を感じて「……お気をつけて」とアルフィンは巻き込まれない位置まで離れた。
「行くぞ!」
「来やがれ!」
背から双刃剣を引き抜いたクロウが、身の丈以上の得物を豪快に振り回す。
リィンは太刀を鞘から抜かず、腰に構えたまま特攻した。
上体をひねって右手を柄に手掛け、左手で鋭く鞘を引く。鞘離れと同時に加速する切先が、鋭利な三日月を描いた。初撃の速さならこちらが上だ。
「させねえよ!」
双刃の片刃が斬撃を止める。火花を飛び散らせながら、回転した反対側の刃が迫ってきた。
重い衝撃。鎬で流そうとして捌き切れず、力で受ける羽目になった全身が軋みの音を上げた。
「ぐっ……!」
「仮面を外して生身で戦うのは、そういえば初めてだったか」
「仮面か。そんなものいつから付けていた」
「始めからだ。お前と出会うよりも、ずっと前だ」
譲らない刃と刃がせめぎ合う。どちらも鍔迫り合いは引かなかった。
「俺はお前が仮面を付けた理由を知らない」
「知ったところでどうなるもんでもねえだろ」
教える気はないのか。言い返そうと下手に力んだせいで、わずかに均衡点がずれる。その隙を見逃さず、クロウはリィンを押し切った。
「接近戦なら錬度で勝てるなんて勘違いするなよ。俺の武器は昔からこいつだ!」
「銃の方が似合ってるけどな!」
「そりゃお前の勝手なイメージだ!」
二丁拳銃を使っていた時と体捌きまで違う。得物を変えても動きの癖は残るはずなのに。本当に別人と戦っているようだった。
以前マキアスとフィーとクロウの三人で、サラとの射撃訓練をしたと聞いたことがある。
その時クロウは自ら囮となったマキアスに『捨て駒にはしない』と言ったそうだ。その後、彼の策で誰一人被弾することなく、サラ相手に勝利を収めている。
一体、どんな気持ちでその台詞を口にした。なんで――
「なんで!」
行き場のない感情が刃に乗り、太刀筋を乱す。間合いを見誤った剣閃が空を切った。
しまった。瞬間的に頭が冷える。すぐに正中線に刀身を戻そうとしたが、間に合わなかった。
踏み込んでくるクロウ。打ち払われる太刀。開いた懐に掌底が叩き込まれる。
「くそっ……!」
「雑念だらけじゃねえか。勢いだけで押し通れると思ったのか」
うめき、膝を折るリィンをクロウは見下ろした。
「リィンさん!」
アルフィンが駆け寄ってきて、彼の傍らに寄り添う。
「殿下、こちらに来てはいけません」
「でもこのままだと!」
「そう、このまま終わりだ。アルフィン皇女には元の客室に戻ってもらうし、リィンはまあ、拘束だろうな。エリゼは今から艦内を捜索するとして――いや、その手間もなくなったか」
引いた双刃剣を肩にかつぎ、クロウは視線を転じる。
後ろ手をマクバーンに掴まれたエリゼが、昇降機を降りてこちらに連れて来られるところだった。
「エリゼ!」
「……申し訳ありません、兄様」
彼女の後ろにはマクバーンだけでなく、貴族連合の協力者たちが勢ぞろいしていた。ルーファスやヴィータ、その最奥にはカイエン公爵の姿まで。
カイエンはゆったりと前に出てくるや、余裕を滲ませる口調で言った。
「やあ、リィン君。思い切ったことをしてくれたものが、まあいい。若さゆえの勢いは嫌いではない」
その態度を見るに、こちらの逃亡をまったく予想していなかったわけでもないらしい。
「さて、これ以上引き伸ばしても意味がなかろう。昨日の返答を聞かせてもらいたい。今、この場で」
「……もし断ったら?」
「その選択肢が君にあるのかな」
勝ち誇った顔。応じなければ、妹の安全は保障しない。曇った眼が暗にそう告げている。
ヴァリマールまで走り抜ければ何とかなるか? いや、ならない。蒼の騎神が出てくるだろうし、そもそもこの顔触れを前にたどり着けるとは思えなかった。
突破口はない。
気持ちを固めたのに、状況がそれを貫かせない。結局はこうなるのか――
パンタグリュエルの甲板に大きな影が映ったのは、無力感に拳を握りしめた時だった。
見上げた先、視界いっぱいに飛び込んできたのは、白雲の尾を引く一対の紅き翼。
「カレイジャス!?」
リベールの白き翼として名を知られた《アルセイユ》Ⅱ番艦。ラインフォルト社とツァイス中央工房の共同開発によって実現した、エレボニア最速の性能を誇る巡洋艦だ。
大空を駆ける紅の船体がパンタグリュエルをあっという間に追い抜かし、前方に広がる雲を吹き散らしながら旋回する。
再び真上に戻ってきたカレイジャスから、複数の人影が飛び降りてきた。
次々と着地する彼らを見て、リィンは驚いた。
トヴァル、クレア、サラ、シャロン。さらにはオリヴァルト皇子。そして、
「久しいな。壮健そうで何よりだ」
宝剣《ガランシャール》を携え、ヴィクター・S・アルゼイドがそう言った。「で、出ましたわね」とデュバリィの顔が分かりやすく引きつっている。
ほぼ同時、甲板上に転移陣が拡がる。最初に現れたのは魔導杖を構えるエマ。続いて、その周囲にⅦ組の仲間たちが転移されてくる。
「お兄様!」
「やあ、アルフィン。変わりないようだね?」
アルフィンがオリヴァルトの胸に飛び込んだ。
「でもどうしてここに?」
「灰の騎神の活躍は各地で聞いていた。君らがユミルを拠点にしているとまでは掴めなかったんだが、先にパンタグリュエルから動いてくれたおかげで察しが付いたというわけさ」
この最高のタイミングまで計っていたわけじゃないんだが、と彼はニヒルなウインクを決めた。
カレイジャスがユミルに到着した時、すでにリィンとエリゼは発った後だったが、事情を知ったオリヴァルトたちが追跡の針路を取ってくれたのだ。
「おお、我が美の好敵手! 期待を裏切らない派手な登場をしてくれる!」
「そっちも相変わらずだねえ。なんだか腐れ縁になってきた気がするよ」
大手を広げるブルブランをよそに、カイエンが恭しく礼をした。
「これはオリヴァルト殿下。ようこそ、パンタグリュエルへ」
「カイエン公。妹は返してもらうよ。今日まで手厚い保護をありがとう」
「ええ、ご随意に」
あくまでも皇族に接する態度は慇懃だ。しかし伏せたままの表情は窺いようがなかった。
「このままエリゼ君もこちらに引き渡して欲しいのだがね」
「そのような要望に応じては、折り合いというものがつきませんな」
上げた顔がにやと笑う。まだ手札は失っていない。そんな低劣な考えが口元に表れていた。
対峙し、にらみ合う両陣営。
「こいつは困った状況だ。さて、落としどころはどこかね」
クロウが肩をすくめる。
双方とも迂闊に手を出せず、膠着している理由は一つ。互いの戦力が大き過ぎ、そして拮抗しているからだ。
雌雄を決するなら、今が手っ取り早い。だがどちらにとっても致命的な損害は避けられない。この状態と局面でそれをするのは場違い。まだその時ではないのだ。
「……エリゼ」
アルフィンは返してやる。その代わりにエリゼを置いていけ。釣り合う人物ではないが、そちらにとっては打撃だろう。これで痛み分けにしてやる。
カイエンが言う折り合いはそういう意味だ。クロウも分かった上で落としどころなどと発言している。
それはリィンにも――いや、この場の誰もが理解していた。
……だからといって、そんなことを認めるものか。
「ひっ!?」
小さな悲鳴をもらし、先頭にいたカイエンが尻もちをつく。
発せられる強大な圧。リィンの黒髪が白く、瞳が赤く染まり始めていた。
「へえ、それがお前の顕れ方か」
傾けた首を鳴らし、マクバーンが興味深げに言った。
胸の内に仄暗い衝動が拡がっていく。燃え盛る黒い炎が心を焦がしていく。吹き荒れる力が高空の大気を激しく鳴動させた。
力が拮抗して動けないのなら、そのバランスを崩せばいいだけのこと。
壊してやる、全てを――
視界が白く染まって消失し、やがてまた戻ってくる。
開けた景色の中に敵の姿はなかった。仲間たちの姿さえもなかった。なにより場所が違う。パンタグリュエルの甲板ではない。
足元は砂地。周囲を見回す。乾いた大地に突き刺さる、おびただしい剣の数々。
太陽はなく、灰色だけがどこまでも続く荒涼とした世界。
あの場所だ。起動者としての試練を受けた、あの異界の戦場に酷似している。アイゼンガルド連峰でヴァリマールの中から目覚める前にも、同じ景色を見たことを思い出した。
傷だらけの剣、曲がった剣、折れた剣、綺麗な剣もある。
どこまでも、どこまでも連なっていく剣の群れ。
異界の戦場に似ているだけで、異界の戦場そのものではないと直感する。だけど確かに知っている場所。果たしてここはどこなのだろう。
「ここには多くの剣がある」
それは自分の声ではなかった。しかし知っている声。幾度となく問い掛けをしてきた、あの声だ。
いつも遠くから頭に直接響いていたのに、今は違う。
すぐ近く。真後ろからはっきりと声が聞こえていた。
「お前の剣はどれだ。先送りにしてきたその答え。今なら選べるか」
すぐ背後に声の主がいる。リィンは振り返らなかった。
正面に自分の目を捉えて離さない一振りの剣があったのだ。威圧を放つ刃を煌めかせ、黒々とした刀身を熱気の中に揺らめかせている。
吸い寄せられるように、リィンの手が黒い剣へと伸びた。
「それがお前の剣なのだな」
そうだ。この力は俺に必要なものだ。何の為に? 決まっている。幼少のあの日。白雪に染まる渓谷道で、初めてこの剣に触れた時と同じ理由だ。
その柄に指先が触れる寸前、
――ダメです、兄様
強く眩い光が差し込み、まっすぐな意志が届いた。
まばたきのあとリィンが目を開くと、そこにあったのは現実の光景。敵勢が最大の警戒を見せる中、怖れ
光のラインがリィンとエリゼの《ARCUS》を繋いでいた。リンクを通じて温かな思惟が流れてくる。自分のことを案じていると感じる。
臨界に達していた力の塊が、身の内へと霧散していった。
「その力は使わないで下さい」
「……どうしてだ」
そこからお前を連れ戻せるのに。なぜ止めた。
冷たい風が頬を撫でる。エリゼは静かに言った。
「たとえその力を使って、ここにいる人たちを全員倒して、私がそちらに行けたとしても……きっと兄様は傷つきます」
「そんなこと――」
「あるでしょう?」
悲しげにエリゼは笑った。
忌避する力を行使して、我を失ってまで戦い、目的を果たす。その先に待っているのは耐えがたい自己嫌悪だ。
自分がそうなることをエリゼは知っている。
「せっかく選んだ道を曲げないで、兄様」
「っ!」
後悔しない為の決断をして、ここまで走ってきた。だが鬼と呼ばれた力に呑まれれば、俺はやはり自分の選択を悔いるのだろう。
エリゼもまた決断したのだ。リィンが選んだ道の先を、彼女自身が塞いでしまわない為に。
「私はここに残ります。エマさん、セリーヌさん。身勝手を言ってごめんなさい、皆さんをお願いできますか」
「アンタ、馬鹿言ってんじゃないわよ!」
「エリゼちゃん、でも……」
「心配しないで下さい。私なら大丈夫。大丈夫ですから」
納得はできない。しかし他に場を平定する代案を、誰も持たない。エリゼの意志を尊重する以外になかった。
「エマ。ヴァリマールの霊力も借りて、数人ずつカレイジャスに送るわ。アタシの術と同調してサポートお願い」
「……ええ」
魔導杖を床に突き立てる。エマとセリーヌの力が合わさり、再び巨大な転移陣が展開された。
エリゼは一人一人に視線を移していく。
「トヴァルさん、今までありがとうございました。でも色々と忘れませんから」
「いいかい、お嬢さん。俺が頼れるお兄さんだってこと、いつか証明してやるからな。……待ってなよ」
勇気づけるような強い声音だった。エリゼはうなずいて、次にクレアを見た。
「内戦が終わったら帝都にショッピングに行くお約束。覚えて下さっていますか?」
「もちろん。たくさんお店を回りましょう。私とエリゼさんの大切な約束です」
細めた目を伏せて、クレアは導力銃をホルダーに納めた。今はどうやっても状況を覆せないことを、彼女こそ分かっているのだろう。
ヴィクター、オリヴァルト、サラ、シャロン、トヴァル、クレア。まずはこの六人が光陣の中に消えた。
「今までずっと守って頂いて、ありがとうございました。私がここまで来れたのは皆さんのおかげです」
次はⅦ組の男子たちだった。
各地で出会った彼らも、旅に不慣れなエリゼをずっとサポートしてきたのだ。
「エリオットさんのバイオリンの音色が好きでした。お体には気をつけて下さいね。マキアスさんも。ノルドでは危険を顧みずに助けに来てもらいました。あなたがいなかったら、どうなっていたか分かりません」
「次に演奏を聴いてもらう時には、もっと上達してるように頑張るから。エリゼちゃんこそ、絶対に無事でいてよ」
「あの時は我ながら無茶をしたと思ってるが。……すまない、こんな時こそ僕が策を考えないといけないのに、何も思いつかないんだ」
エリオットには首を縦に振り、マキアスには横に振って答える。
「ガイウスさんは郷の雪かきをよくして下さいましたね。ユーシスさんはアーサーの世話を。いつも助かっていました」
「雪かきぐらい、いくらでも手伝おう。郷のことは心配しなくていい」
「馬の世話ならお手の物だ。テオ殿が快復されるまで、馬舎の管理も任せておくがいい」
それぞれの足元が輝き、順々に転移されていく。
続いては女子たちだ。
「フィーさん、ミリアムさん。私がいなくても朝はちゃんと起きて下さいね。お昼まで寝たらダメですよ」
「約束はできないけど善処するよ。約束はできないけど」
「エリゼが起こしに来ないといつまでも寝てるかもしれないよーだ!」
斜に構える態度は、多分わざとだ。
「エマさんからもらった毛糸の小物入れは持って行きます。セリーヌさんともおそろいの毛糸だし、心強いですから」
「おまじないをかけて編み込んでおきました。……ずっと身に着けて、お守りにしておいて下さいね」
「アンタは無茶ばかりして。リィンに似たんじゃないの? 本当に、もう……」
呆れ口調で悪態をつくセリーヌだが、その尻尾は意気なく垂れている。
「……エリゼ」
「エリゼちゃん……!」
今にも駆け出しそうなのはラウラとアリサだ。
「ラウラさん、アリサさん。また一緒に雪合戦をしましょう。それと、ええと――」
二人には何を言うべきか、エリゼは悩んでいるようだった。
「兄様のこと、よろしくお願いします。もちろんそういう意味ではありませんけど」
『ど、どういう意味?』
異口同音の反応だが、そのニュアンスは微妙に違うようだ。ラウラは今一つ分かっていなくて、アリサはしっかり分かってしまっている。
別離の時が近付いてくる。不安は見せず、エリゼは毅然とした態度を貫いていた。そんな彼女の意を汲んでか、誰も悲壮感は出そうとしない。
そしてエリゼとアルフィンの視線が合う。
「せっかく会えたのに、また離れ離れだなんて……」
「申し訳ありません、姫様。でもお救いできて本当に良かったです。これがずっと私の目的でした」
「今度はわたくしがエリゼを迎えに行くわ。その時まであきらめないで、何があっても」
友人との再会。その約束を交わしたあと、最後にエリゼはリィンへと向き直った。
しばらく二人の間に会話はなかった。敵勢も無粋な横槍は入れて来ない。黙して二人のやり取りを見ている。
エマが言った。
「リィンさん、私たちは先に行きます。転移陣は長く保ちませんが、少しの時間ならカレイジャスと繋いだままにできますので」
「わかった。ヴァリマールも先に行ってくれ」
『承知シタ』
女子たちが光陣の中にかき消えていく。四肢の鎖を引きちぎったヴァリマールは、直接カレイジャスに向かって飛翔した。
残ったのはリィンだけだ。
未だに許容できない気持ちだった。敵陣にエリゼ一人を置いていくなど。父さんと母さんになんて言えばいい。
「母様たちには、私がわがままを押し通しただけだとお伝えして頂けますか」
表情から考えを汲み取ったのか、エリゼはそう言った。
「兄様を責めたりもしないでしょう。分かって下さるはずです」
「……そうだろうな」
責めてもらう方が楽だった。あの人たちなら、逆に俺を慮り、励まそうとするだろう。自分たちだって辛いのに、その辛さを表に出そうともせず。
「エリゼの安全は保証できるか」
クロウに問う。口頭での気休めだとしても、確認せずにはいられなかった。
「さすがに客人という待遇にはできねえが、捕虜扱いにはしない。このあとの対応は俺が一任するから安心しろ」
クロウが念押しの目をルーファスに向けると、彼は「それで構わない」とうなずいた。
最大限の便宜を図ると言うのなら、今はこれ以上望めない。
錯綜していた輝きが周囲に集まり、その範囲を狭めてくる。リィンの転移が始まったのだ。
もう時間がない。最後に何を告げるべきだろうか。逡巡したが、先に口を開いたのはエリゼだった。
「覚えていますか。兄様がアイゼンガルド連峰で目を覚まして、ユミルに戻ってきた日。鳳翼館の温泉でお話したこと」
「ああ」
道を見失って途方に暮れる俺の背中を叩いてくれた。おかげで一つの迷いを吹っ切って、各地に仲間を探しに行くと決めたのだ。
そうだ。自分の最初の決断を後押ししてくれたのもエリゼだった。
「あの時、私はいつだって兄様の力になりますと、そう言いました。そのあとに続けた言葉も覚えていますか」
「……たとえそばにいなくても、離れていても……だったな」
エリゼとのリンクは繋がったままだ。想いの全てが流れ込んでくる。
どうして俺のことを心配しているんだ。もっと自分のことを心配してくれ。
俺がもっと強ければ、今この場で助けることができたのか? お前にその選択をさせずに済んだのか?
強くなってみせる。守りたい相手を守れるように。呑まれることなく鬼の力を従え、いつか今日出来なかったことを必ず、必ず――
「必ず助ける」
「お待ちしています」
「信じてくれ」
「疑ったことなどありません」
それが最後の言葉だった。立ち昇る無数の輝きがリィンに収束していく。眩い閃光に包まれて、繋がっていた意志と共にエリゼの姿が薄れていく。
やがて《ARCUS》のリンクは完全に途絶え、兄妹の道が分かたれた。
――続く――