《猛将列伝のすすめ③》
食堂の前を通りがかると話し声が聞こえてきた。
「だから猛将はこう言うわけよ。『ひれ伏せ、矮小な愚民めが』ってな」
「いやいや、そのシチュエーションなら問答無用で首の骨をへし折るんじゃないか?」
「お前、にわかだな。猛将はまず相手の心を折るんだよ」
「はあ、やっぱ『5歳から75歳までが僕のテリトリー!』は屈指の名台詞だぜ」
食堂では数名の兵士がテーブルを囲み、熱い猛将談義を繰り広げている。
そこには入らず、通り過ぎる。
少し通路を進むと、何人かの兵士が立ち話をしていた。
「でさあ、普通なら負けを認めた相手は許すだろ。ここで猛将エリオットはどうしたと思う?」
「んー、やっぱ見逃したんじゃないか。二度目は無いとか釘を刺してさ」
「馬鹿言え。許しを乞う敵の頭に無言でハイキックよ」
「かあー、猛将半端ねえ!」
ここでも猛将。どこでも猛将。行き違う男たちは皆、口々にその言葉を発している。
「ぐああああっ!」
すぐそばの医務室から叫び声。のぞいてみるとベッドの上で一人の兵士がもだえていた。胸をかきむしって苦しそうにしている。
軍医が急いで駆け寄ってくる。
「いかん、また例の発作か」
「あああ! 猛将列伝の下巻はまだかあ! 読みてえ、読みてえんだよーっ!」
「血圧、脈拍上昇。これ以上猛ると危険です!」
別の看護医が焦った声をあげた。
「やむを得ん。鎮静剤を打とう」
「は、はい。すぐにキットを用意します」
「用意? その必要はない――そいやあ!」
軍医は暴れる男の腹めがけて、拳を振り下ろした。
「そーらそらそらそらそらあ!!」
しかも連打だ。ぎしぎしと軋むベッドの上で、男の足がビクビクと跳ね上がる。
やがて彼は完全に沈黙した。額の汗を拭いながら軍医は言う。
「拳に勝る鎮静剤なし」
「あっ、そのセリフ!」
「ふふ、君も読んでいたか。そう、猛将エリオットのお言葉だ」
患者そっちのけで盛り上がる二人。
医務室でも猛将。猛々しさ極まるゼンダー門。
これは浸透ではなく蔓延だった。ウイルス感染にも似た爆発的速度で、猛将エリオットの名は拡がっていく。
この状況に発信源たるミントは満足していた。
始まりはたった一冊の本である。ケインズの書いた《猛将列伝》が、ここまでの事態を引き起こしたのだ。
「うんうん、ケインズさんも喜ぶよね。みんながトリスタに行けるようになったら売り上げアップ間違いなしだよ」
上機嫌のミントはさらに歩を進める。
やがて彼女は通路の最奥、とある部屋の前で立ち止まった。ノックをすると「入るがいい」と中から声が聞こえてきた。
「こんにちはー」
「おや、ミント君だったか」
執務机に座る眼帯の男が顔を上げる。
彼はこのゼンダー門を統括する責任者、ゼクス・ヴァンダール。《隻眼》のゼクスと言えば、軍属ならば知って然りの通り名である。
ここは指令室だった。
ミントのような一般人がおいそれと入れるような部屋ではないし、普通は入室自体にも気が引けるものだが、あいにくと彼女にそんな殊勝な感性はなかった。
「いつも整備班が助かっていると報告を受けているぞ。そうだ、戸棚に菓子があるのだ。礼にしては些細なものだが持っていくがいい」
「えへへ、ありがとう」
士官学院の一年生が正規軍中将にタメ口である。
ナチュラル過ぎる態度だったが、特に気にもした様子もなくゼクスは応じた。
「それで用向きは何かな」
「うん。最近ここの兵士さんたち変わったと思わない?」
「ふむ? 監視塔奪還も果たしたし、士気は高まっていると感じるが」
奪還に関してはリィンたちの働きによるところが大きい。もっとも騎神と機甲兵の激しい戦闘があったせいで、敷地は全壊している。通常配置に戻す目途はまだ立っていない段階ではあるが。
それでも状況は以前よりずいぶん良くなっている。
「優勢とはいかないまでも、消耗戦を強いられるだけの劣勢ではなくなった。勢い付くのは当然と言えよう」
「本当にそれだけかなあ」
「他に理由があると?」
「知りたい?」
「指揮官としては、やはり興味がある」
後ろ手に隠していたそれを、満を持して卓上に置く。
「ふっふーん。これでーす」
「本? タイトルは《猛将列伝》か。……兵法書か何かかね」
「猛将の実録記だよ」
「ほう。《猛将》というのは第四機甲師団のオーラフ殿のことだな」
「ううん。これは息子のエリオット君のこと」
ゼクスは不思議そうに首をひねる。
「ご子息がいることは知っているが……しかし本の一冊が兵士の士気を上げるとは、にわかに信じがたいのだが」
「百聞は……なんだっけ。とりあえず読んでみてよ」
「せっかくの勧めで申し訳ないが、これでも忙しい身でな。中々読書に興じる時間は――」
「だったらせめて3ページ目まで読んで」
「それだけでは内容が理解できんだろう。読まないのと同じだ」
「お願い。ねっ」
少女の懇願を完全にはねのけることは、さしものゼクスにもできなかった。「そこまで言うなら3ページだけだ」と念を押してから、しぶしぶ本を手に取る。
それから十分後。
ゼクスは本を手放していない。3ページはとうに過ぎていた。
ミントは部屋の隅の椅子に腰掛け、戸棚から引っ張り出してきたお菓子にぱくついている。
三十分後。
何かに憑りつかれたようにゼクスはページをめくり続けている。その目は血走っていた。
一時間後。
軍服が張り裂けそうなくらいに、ゼクスの筋肉が盛り上がっている。その息遣いは荒い。
一時間半後。
ぱたりと《猛将列伝》が閉じられる。一回も休憩を挟むことなく読破したのだ。
ミントが問う。
「どうだった?」
「な、なんだこれは……血が熱い。たぎる、たぎるぞ……ぬっ、ぬっ、ぬうっ……!」
猛将の洗礼を浴びた肉体が、内奥から沸き立つ衝動に打ち震えていた。
「ぬあっふぁああああっ!!」
上服が勢いよく破れ、胸の勲章が天井まで弾け飛ぶ。
ゼンダー門が猛将の手に落ちた瞬間だった。
☆ ☆ ☆
《続・A/B恋物語 Aパート③》
ロギンス先輩は相変わらずだった。
「シチュエーションが大事だと思うぞ、俺は」
「はあ……」
アランはおとなしく彼のアドバイスに聞き従っている。
次にブリジットに会ったらお前から告白しろ。その為の心構えや段取りは俺が仕込んでやる。
そう言われて早一ヶ月。街道生活は続き、昼は情報収集、夜はテントの中で恋愛レクチャーの繰り返しだ。
「シチュエーションというのは、例えばどんな感じですか?」
「そりゃお前あれだろ。なんつーかあれだ。満天の星空の下とか」
「………」
先輩はベタだった。
硬派一徹のロギンスのこと、それなりに男らしい告白の仕方を教えてもらえると、実は密かな期待がないでもなかったのだが。
「あと雰囲気作りっていったらこれだな。一つのグラスにストロー二つ入れてよ。向かいあってジュースを――おっと、これはお前にはまだ早かったな。忘れろや」
いかんせんベタだった。
アランへのレクチャーは、ほとんどがロギンスの持論のみで行われている。
その持論と言うのが、また偏っているのだ。世間知らずの貴族のお嬢さんたちが、甘い妄想に浸りながら窓際で嗜む恋愛小説のような設定ばかり。ありていに言えば、ちょっと古い。それが硬派故なのかは知りようもなかったが。
そんなことを言おうものなら、拳が飛んで来るのは目に見えているので、もちろん口にしたりはしない。
「どうだ。イメージ出来てきたか?」
「ええと……」
実際に自分とブリジットに置き換えて想像してみると、すごく恥ずかしかった。ただ、そんな場面が絶対に嫌かと言うと、必ずしもそうではない自分もいたりする。
「よし。次の題目は『私と仕事、どっちが大切かと問われた時の最適解』について」
「お前が大切だから仕事をしている、とかですか」
「先に言うんじゃねえ!」
ごすっと鉄拳制裁。
もはやお決まりの理不尽ナックルだ。講義を受ける度に、必ず一発は食らっている気がする。最近では痛みに慣れてしまって、回復も早くなってきた。
頭をさすりながら下を向くアラン。彼には思うことがあった。
ブリジットに会ったら告白する。これは半ば強引にロギンスが決めたことだ。正面切って反論することもできず、ここまで少々流された感もあるのだが。
問題は肝心の自分の気持ちだった。
俺はブリジットのことをどう思っているんだろう。
仲のいい幼馴染。決して嫌いじゃない。じゃあ好きなのか。異性として。
分からなかった。
そういう感情がどういうもなのかが、はっきり分からないのだ。同年代とそんな話をする機会もなかったし、相手もいなかった。
「同年代か……あいつはどうなんだろ」
ふとマキアスの顔が脳裏に浮かぶ。再会できたら訊いてみたいが、あいつは見るからに堅そうだしな。気になる異性とか、それこそいなさそうだ。
「ったく、次は『レストランで席に着く際のさりげない配慮』についてだ」
またロギンスが微妙な議題を打ち出したが、それはアランの耳に留まることなく抜けていく。
「いや待てよ。ちょっと段階を飛ばし過ぎたか。やっぱ先に告白のシチュエーションを固めるのが先だよな。ところでお前はどんな感じの――」
ロギンスが何かを言っている。アランは聞いていない。
「ブリジットは……」
逆にブリジットは俺のことをどう思っているのか。
仲のいい幼馴染。嫌われてはいないと思う。じゃあ好かれているのか。異性として。
「………」
それこそ余計に分からない。
不安があった。拭おうとしても拭いきれない不安が。
相手は貴族で、自分は平民。そんなもの互いに気にしない関係ではあるが、周りは違う。この国に根付く慣習は深い。
身分違いの悲恋で済むのならまだいい。周囲に翻弄されて、悲惨な目にあった人間も少なからずいるはずなのだ。
自分がそうならないなんて言い切れない。
俺がそばにいることで、彼女が辛い思いをしたりしないか。考えたら怖くなって、足を前に出せなくなる。
いいのか。本当に。このまま進んで。
「やっぱ一番高いとこがいいかもな。空の上で告白とかどうだ。おい、聞いてんのか」
「俺は……」
自分の気持ちを知るのが怖いのかもしれない。
もし“その時”が来たら、俺は彼女に何を告げるのだろう。
☆ ☆ ☆
《パトリックにおまかせ④》
屋上でベンチに座る。
売店で購入したホットティーを片手に、パトリックはそびえる鐘楼塔を見上げた。
「ようやく一息つけたか……」
今日も今日とて校舎内のトラブル解決。少し前までは物品補修が主だったのだが、最近はそれに加えて人的な――いわゆるメンタルフォローの案件も増えてきた。
特に先日は大変だった。
ランベルトが馬舎に引きこもってしまったのだ。貴族連合襲撃の折、愛馬のマッハ号が逃げたことが原因だ。
マッハ号は街道に出たらしい。探しに行こうにも行動規制が厳しく、自由に町の外には出られない。
心配が募った挙句、彼は思い出の馬舎に閉じこもったわけである。
丸二日は飲まず食わずのランベルト。誰が説得しても効果はなかった。
そこでパトリックは領邦軍の責任者に直談判し、限定的ながら街道捜索の許可を得た。それはひどく骨の折れる交渉だった。
ハイアームズの名がなければ取り合ってももらえなかっただろう。悔しいが家名の力の大きさを実感した。
交渉結果を伝えたことで、ようやく馬舎の扉は開いた。
もっとも肝心のマッハ号は、いまだに見つかっていないが。
「大変ですわー!」
五分の休息もなかった。いつもの依頼仲介人が忙しなく屋上にやってくる。なぜフェリスは僕のいる場所をこうも簡単に見つけ出すのだ。
察しは付く。フリーデル部長が手引きしているのだろう。あの人はなぜかそういうのが分かるらしい。気配、というやつだろうか。
「パトリック、聞いて下さいまし!」
「断る。僕はやらない」
「まだ何も言ってませんわ!」
「面倒なことだろう」
絶対そうだ。違った試しがない。
「とりあえず立って下さいな」
「せめてこれを飲み終わってからにしてくれ」
「何を悠長な。事は一刻を争うのです!」
無理やりにパトリックを立たせるフェリス。
しぶしぶホットティーを横に置くと、いつも通り彼は連行された。
「ここですわ」
「はあ……」
連れて来られた先は空き教室の一つだった。その前の廊下に立ち、フェリスは内側から施錠された扉を叩いた。
「お兄様、いい加減に出てきて下さい!」
中にいるのは彼女の兄、ヴィンセント・フロラルドである。
「それで、どうしてヴィンセント先輩は立てこもったんだ? というか二年の男子はよく立てこもるな……」
「些細な口論が原因なんですけど――」
フェリスは説明を始めた。
事の発端はヴィンセントが自分の槍の実力を自慢したことからだ。
いつものことだと聞き流していたフェリスだったが、長広舌に飽きて、ついこう言ってしまったらしい。
『そんなに仰るんでしたら、貴族連合が攻めてきた時に前線で戦えばよかったのに』
それが彼のメンタルを打ち砕いた。
聞けばその時、ヴィンセントはトイレに入っていた。別に隠れていたわけではなく、これはタイミングの問題である。
結果、同級生の戦いにも加われず、後輩を守りにいくこともできず。
彼がトイレから出てきたのは、ある程度事態が収束してからである。当然、そこで初めて状況を知った。包囲が敷かれた後だったから、もちろんトリスタから出ることもできない。
ヴィンセントが戦ったとて結果は変わらなかっただろう。しかし間の悪さは悔やんでも悔やみきれないものだ。
もっとも触れてはならない繊細な部分に、フェリスの言葉は的確に突き刺さった。得てして妹は兄の心を折ることに長けた生き物であるが。
「つまり原因は君じゃないか」
「過ぎたことを論じても無意味でしてよ。まずは目の前の厄介事を片付けなくては」
兄妹そろっていい性格だ。苦悩の末の兄の行動を厄介事で括るんじゃない。というかこれは急がなくてもいい用件だろう。僕のホットティーを返せ。
とにもかくにも声をかけてみる。
「ヴィンセント先輩、パトリックです。事情は把握していますが、どうか出てきて頂きたい」
返事はない。
「フェリスも言い過ぎたと反省しています。ここは僕に免じて」
「別に反省はしてませんけど」
「ちょっと黙っててくれ」
余計な事を言えば、もっとややこしくなるだろうが。
一体何を言えばいいんだ。考えろ、考えろ。
「先輩は……先輩は悪くありません」
最初に浮かんだ言葉をそのまま口にしてから、パトリックは続けた。
「悪いのは……ええと、それは――」
貴族連合? タイミングの悪さ? ダメだ、漠然としている。
もう、これだろ。
「腹痛です」
「は?」
横のフェリスは意味が分かっていない。心配するな、僕にもよく分からない。
「なんというか、多分そのタイミングで腹が痛くなったのは……女神の意志です」
もう勢いで突破してやる。
「勇猛果敢なヴィンセント先輩のこと。コンディションが万全だったなら、迷わず槍を手にして最後まで戦い抜いたことでしょう。しかし味方の盾になることも辞さない先輩ですから、必然誰よりも傷を負うはず」
「それはないですわ」
空気を読め。誰の尻拭いをしていると思ってるんだ。
「先輩はこの先のトールズには不可欠な人材。あなたを失ってはならぬと、女神が腹痛を引き起こして動けなくしたのです。そうに決まっている!」
拳を握って熱弁。
しばしの後、扉の内側からがちゃんと鍵が開く音がした。するするとドアが横開き、ヴィンセントがゆらりと顔を出す。
「そういうことだったのか……罪深きは僕の有能さか」
「心配をかけて! お兄様のばかっ!」
いつから持っていたのか、ラクロスのラケットが彼の顔面を打ち据えた。
伏したままヴィンセントがフェリスのお説教を受ける傍ら、「あら、パトリック」といつもの済ました声が聞こえた。
フリーデル部長がにこにこと近付いてくる。嫌な予感がした。
「今時間あるかしら?」
「ありません。失礼します」
「困ってる人がいるの。今すぐ町まで行ってちょうだい」
断らせる気がないのなら、なんでそんな質問をしたんだ。
「今すぐって……え、町?」
「そ、トリスタの町」
「なんで町のトラブルまで僕が請け負うんですか!?」
「だって行動規制の中である程度自由に動けるのって、あなたぐらいなんだもの」
「フリーデル部長だって自由に動いてるでしょう。止めてくる兵士をその都度返り討ちにして」
「かよわい女子になんてこと言うのよ。傷ついたわ。今夜は眠れないかも」
絶対うそだ。ぐっすり眠るに決まっている。
「何か言いたそうね」
「いえ何も。それで僕は町のどこに行けばいいですか?」
反抗しても無駄なことは知っている。あきらめ半分のパトリックに彼女が告げた。
「《ケインズ書房》のケインズさん。協力して欲しいことがあるそうよ」
☆ ☆ ☆
《体育会系クッキング③》
「……今日は遅いなあ」
テントで夕食の準備をしていたニコラスは、不安げに腕時計に目を落とす。
エミリーが食材調達に出かけてから、かれこれ二時間。いつもなら一時間あれば必ず戻ってくるのだが。
食材調理はニコラスの担当。食材調達はエミリーの担当。
話し合って決めたわけではないが、いつの間にかそれが暗黙の役割分担になっていた。
木の実や山菜など、食材を探し当てる彼女の嗅覚は天性のものだ。一度出かければ、必ず何かしらを採ってくる。それに魔獣の通り道も上手く見分けるから、危機回避にも長けていた。
だからニコラスはさして心配していなかった。だが、ここまで遅くなるのは初めてのことだった。
何かあったのだろうか。
「探しに行った方がいいのかな」
テントの裏手、雑木林に振り返る。エミリーはここに分け入って、食材を探しに行った。
奥に行けば導力灯もないから、当然魔獣も生息している。
ニコラスは生唾を飲み下す。やっぱりここで待っているべきかもしれない。
「僕よりエミリーさんの方が方向感覚もあるし、下手に探しに行って逆に迷っちゃうかもしれないし……もしかしたらいつもよりたくさん食材が見つかって、時間がかかってるだけかもしれないし……」
でも、もしそうじゃなかったら? 最悪の結果が頭によぎる。
「……だよね。行かないと」
コトコト煮立つ鍋の火を落とした。
空いているボウルを頭にかぶり、鍋のふたを盾に、おたまを剣代わりに携える。これが今できる最大限の装備だった。
恰好はつかないが、気にしていられない。ニコラスは彼女を追って、雑木林へと踏み入った。
「ニコラス君、心配してるかなあ……」
エミリーは空を見上げる。木々の間から見える狭い空は、もう暗くなり始めていた。
初歩的なミスだった。
普段通り食材を調達してテントに帰ろうとした時、落ち葉に隠れた落差に気付かず、足を滑らせたのだ。
しかも倒れた先に地面がなく、おそらく三アージュは転落している。幸い土がクッションになって大ケガはしなかったが、右足首をくじいてしまっていた。
「いっ……た……」
何度か立ち上がろうと試みはしたが、ひどい激痛でまともに歩くことさえできそうにない。持ち前の根性でもこればかりはどうにもならなかった。痛めた部分が紫色に腫れている。
「折れてはない……と思うけど」
雑木林の中をかなり奥まで進んでいた。さすがにニコラス一人ではここに来られない。
せめて、まともな道に這い上がらないと。近くの木に体を寄りかからせて、左足に力を入れる。
中腰くらいには立ち上がれたが――そこまでだった。結局歩くことはできなくて、その場にしゃがみ込む。
「はあ……寒い」
かじかんだ両手を息で温めた時、うなり声が聞こえた。
獰猛に喉を鳴らす、獣の啼き声。
声の主が茂みの中から姿を見せる。狼型の魔獣だった。
「あ、いや……」
こちらが動けないことが分かっているのだろう。いきなり牙をむいて飛びかかってきた。
身を守れるようなものは近くにない。エミリーは固く目を閉じる。
「わああああっ!」
叫びは彼女のものではなかった。
山道を突っ切ってきたニコラスが割って入り、おたまで魔獣の横面を打ち据える。間一髪のタイミングだった。
不意の一撃をくらって魔獣は距離を開けるが、逃げる様子はない。
「二、ニコラス君?」
「だ、だだだ大丈夫?」
お鍋やらおたまで身を固めた、何とも不憫な騎士姿。おまけに両足がガクガクと震えている。
「ごめんなさい、足を滑らせちゃって」
「ケガしてるのかい? すぐに手当てしなきゃ」
「それよりあの魔獣、何とかなりそう?」
「も、ももも問題ないさ」
問題だらけだ。へっぴり腰だし、汗でびっしょりだし。こんなの二人そろってやられるだけだ。
「私のことはいいから逃げ――」
「わああ! わあああっ!」
大声を出しながらニコラスは鍋のフタをおたまでガンガン叩き始めた。
けたたましい騒音が響き渡る。
「どわああああー!!」
急にバタバタと騒ぎ立てる人間を異様に思ったのか、魔獣が警戒を見せた。
次第にじりじりと後ずさり、茂みの奥へと引き返していく。
『た、助かった……』
異口同音にそうこぼし、深いため息が重なった。
「重くない?」
「お、重くないよ」
「その割にはしんどそうなんだけど」
動けないエミリーを背負い、ニコラスは足場の悪い山道を歩く。
「助けに来てくれてありがとね。でもなんで私のいる場所が分かったの?」
「かき分けた茂みの跡とか不自然に折れた枝を追ったんだ。まあ、最後の方は勘だったけど」
「勘?」
エミリーはおかしそうに言った。
「あはは、変なの。変といえばニコラス君の格好も変だけどさ。もっと他にあったでしょう」
ボウルをかぶった頭をつつく。
「変かなあ。でも何も無いよりマシさ」
「だったら、おたまより包丁にした方が攻撃力は高かったと思うわ」
「あれは食材を切るものだし。僕のポリシーなんだ」
「ふーん」
気のない相づち。
「私の命とあなたのポリシー。どっちが大切なの?」
「えっ? ええ……」
「そこは即答して欲しいんだけど。ま、冗談よ」
山道を抜けるとテントはすぐそこだ。
すっかり冷めてしまった鍋を温め直すかたわら、ニコラスはエミリーの手当てをする。
腫れてはいるものの、骨は折れていないようだった。包帯でテーピングして後は安静にするしかない。
「それじゃ寝ようか。今日はゆっくり休もう」
「う、うん」
スープと簡素な根菜サラダを夕食にして、後は就寝するだけなのだが、エミリーの様子がどこかおかしかった。
「もしかして足痛い?」
「そうじゃないんだけど……その」
「うん」
「……近い」
「え?」
テントの中に横並ぶ二つの寝袋の位置だ。エミリーはずりずりとニコラスと自分の寝袋を離した。
「い、いや。昨日も同じくらいの位置だったと思うよ」
「だってニコラス君は男の子だし」
「……? 昨日も男だけど……?」
今まで気にした素振り一つ見せなかったのに、何を言い出すのだろう。
「しばらく私は動けそうにないし、明日からニコラス君が食材集めもお願いね」
「ええ? でも、そうなるのか……まあ、がんばるよ」
「うん、頼りにしてる」
エミリーはにっこりと笑った。彼女らしい快活な笑みだった。
☆ ☆ ☆
《銀色の面影》
「はあ……」
ため息をつきながら、適当に盛ってきたサラダを口に運ぶ。
雪合戦後の鳳翼館。食堂では参加者たちによる懇親会が開かれていた。正確に言うなら件の雪合戦こそが親睦会のはずだったのだが。
離れたテーブルに一人座るラックは、浮かない顔で辺りを見渡した。
立食パーティー。雑談に花を咲かせる人がいれば、黙々と料理を食べ続けている人もいる。
近くではローストビーフを片手に、トヴァルがエリゼのあとを追っている。振り返ろうともしないエリゼは、早足でラウラたちの元へと向かっていった。
「エリゼちゃんは怒ると長引くからなあ……子供の頃、リィンも苦労してたっけ」
小さな頃はリィンの後ろにべったりで、必然、彼と遊ぶ時はエリゼもセットになる。
年上の足に付いて来れなくて泣くエリゼを、二人してよくなだめたものだった。それが今や、あの《雪帝》相手に正面から立ち向かうほどになるとは。
以前に無かったたくましさは、リィンたちに同行する中で得たのだろうか。
「勝てなかったな、雪合戦……」
まさか雪玉の中に閃光弾を仕込んであるとは思わなかった。反則ギリギリ、ルール無用のラフプレイだ。
フィー・クラウゼル。その名をリィンから聞いたのは、ごく最近のことだ。
あの子に勝って、あわよくばMVPも手に入れて、フィーネさんが望むものを贈りたかったのに。
そういえばフィーネさんはこの立食パーティーには来ていないようだ。雪合戦参加者ではないから当然かもしれないが。
無様にやられた自分の失態を、どこかで彼女に見られていないかが気がかりだ。
「ラック」
「うわあ!?」
いつの間にか横にフィーが立っていた。思わず椅子から転げ落ちそうになる。
「目、もう大丈夫?」
「目? あ、ああ。問題ないさ」
「まあ、光の威力は抑えてたからね」
そういう問題じゃないと言いかけて、ラックは口をつぐんだ。この瞳に見つめられると何も言えなくなってしまうのだ。まさしく蛇に睨まれた蛙である。
「あんまり食欲ないの? サラダしか食べてないみたいだけど」
「まあね。ちょっと疲れたみたいだ」
「だったらそれいらないよね。トヴァルが最後の一枚を持って行っちゃったから」
「え?」
意味を理解するより早く伸びてきたフィーの手が、ローストビーフの盛られた皿を卓上から回収した。強奪である。
「じゃ。ミリアムと分けてくる」
踵を返すなり、フィーは早々と遠ざかっていった。
止めるつもりも、その気力もなく、ラックは彼女の背中をただ見送るだけだった。
唐突に、その姿が二重にぶれる。
「うん……?」
なんだ、今のは。
本当に俺は疲れているのか。フィーネさんの為にMVPを取れなかったことが、思ったより堪えているようだ。
――何言ってるのさ、フィーネさんとフィーは――
目をこするラックの脳裏に、不意によみがえる声。雪合戦中、ミリアムを倒した時、最後に彼女が言いかけた言葉。
「フィーネさんが……どうしたって言うんだ」
揺れる銀髪、綺麗な金瞳。
天敵と想い人の面影が、なぜか重なって映る。
落としていた視線を上げると、フィーの姿はもう見えなかった。
「やっぱ疲れだな。今日は先に切り上げさせてもらおう」
散らばっていたいくつもの符号が繋がりつつある。正体不明の落ち着かなさを胸の内に留め、ラックは喧騒の食堂を後にした。
☆ ☆ ☆
《カサギン男道③》
食い入るように、穴が開く程に、どこまでも集中し、ただ眺める。
剣を、斧を、槍を、籠手を。
飽きもせず、愚直なまでに、練武場の片隅で。
「………」
オーレリア将軍には触れることもできなかった。勝負という域ですらなかった。威圧を向けられただけで、意識が飛んだのだ。あらゆる桁が違う。
自分のどんな技術、能力を持ってしても、彼女に届く物はないだろう。
目を覚ました時、カスパルは身を焼くような悔しさに襲われた。歯牙にもかけられず、ただ“払われた”という感覚だけがいつまでも胸に突き刺さっている。
いつかクレインの力になりたいと、そう息を巻いてトリスタを出たのに。武器の手入れを教えてもらえることになって、これから何かをやれると思っていたのに。
そんな気になっていた――だけだった。
「………」
武具を見つめている間だけは、不思議と余計なことを忘れられた。
冷たく冴える刃紋が何かを訴えている。これを打った人は、どういう気持ちで刃を鍛えたのだろうか。
物言わぬ剣の中へと心を没入させていく。
見えるはずのない作り手の顔が見えてきた。聞こえるはずのない刃打ちの音が聞こえてきた。
「パル――、おいカスパル君!」
「え?」
顔を上げる。心配そうにこちらをのぞき込んでくるガヴェリの姿があった。
アルゼイド子爵が不在の今、道場をまとめている若手の剣士だ。カスパルに剣の手入れを教えてくれているのも彼である。
「どうしたのだ。さっきから何度も呼んでいるのに反応しないから心配したぞ」
「すみません。頼まれてた柄の汚れ取り終わりました」
「ほう、早いな。それに丁寧だ。中々筋がいいぞ。次は槍を頼めるか? 剣とは勝手が違うから難しいと思うが」
「はい、やらせて下さい」
アルゼイド流は剣術だけでなく、槍術や斧術も含んでいる。
「ん?」
ガヴェリが不思議そうに首をかしげた。手入れの終わった練習用の剣の中で、一振りだけ端に除けてあるものがあったのだ。
「どうしてその剣だけ別にして置いているんだ」
「こいつは壊れてて修理が必要みたいなんです。まだ俺じゃ直せないから……」
「ふむ? 損傷個所は見当たらないが――」
「ガヴェリさーん」
門下生の一人、ダットが駆け寄ってくる。
「道場内は走るな。どうした?」
「申し訳ないっス。この剣は刃こぼれしてて、もう使わない方がよさそうッス」
彼の持って来た剣は刀身がぼろぼろだ。ガヴェリはそれを受け取ると、カスパルに見せた。
「これくらいが損傷と呼べるものだ。こうなると刀身交換をしないといけない。稽古用だし、頻繁に打ち合うから劣化も早いのだがね」
ガヴェリはダットに代わりの剣を渡した。カスパルが修理が必要だと言った、その剣を。
「あっ」と反応したカスパルが制止する間もなく、ダットは受け取った剣を持って稽古に戻ってしまった。
そして、まもなくそれは起きた。
稽古中盤。ダットが正面切りの型を練習していた時、突然刀身が根元から折れたのだ。何かにぶつけたわけでもなく、素振りの最中にである。
焦るダットはよそに、驚いた様子のガヴェリがカスパルの元にやってきた。
「ごく稀にだが……今みたいに剣が折れることはある。例えば柄の中にヒビが入っていたり、芯に金属疲労を起こしていたり、あるいは刃筋が狂う瞬間と強い空気抵抗が重なったり――理由は様々あるが、そのほとんどは目に見えない要因が絡んでいる」
「は、はあ」
「君はあの剣が壊れていると言ったな。どうしてそう思った」
「そ、そんなこと訊かれても……何となくっていうか……」
本当に理由などなかった。何となく“この剣は痛んでいる”。そう思っただけだった。
「そうか……少し待っていてくれ」
しばらくすると、彼は何人かの門下生を引き連れてくる。いずれも数本の剣を抱えていた。
その中から無作為に二つ剣を取り、ガヴェリはカスパルに差し出す。
「君の主観でいい。どちらが“悪い剣”か分かるか?」
分かるわけがない。そもそも剣の良し悪しを決める定義さえ知らないのに。いや――
「右……ですか?」
「なぜだ」
「うまく言えないですけど、何だかずれてる気がするような……」
門下生たちが顔を見合わせる。異様な緊張感があった。
「この剣は柄と刀身の接合部がわずかに緩んでいる。近く修理に出す予定の一振りだ。感覚の鋭い剣士が持てばその重心の“ずれ”にはすぐに気付く。しかし君は……」
カスパルは触れもせず、見ただけで“ずれ”を違和感として認識した。
その後も多くの剣を前に出され、どちらが良くて悪いのかを問われた。
剣に関する知識自体は乏しいので、根拠までは答えられなかったのだが、驚くべきことにそれでも彼は全て正解を選び取っていた。
その結果を受けて、ガヴェリは言う。
「ついてくるがいい。君に見せたいものがある」
「才能と言うのかな」
アルゼイド子爵邸。地下に続く階段を下りながら、ガヴェリはそんなことを言った。
「俺にはよく分かりません。今までそんなこと言われたこともなかったし」
「そうだろうとも。持ち得る才に気付かずに生涯を終える人の方が多いのだ。気付く機会があるかないか、違いはそれだけなんだろうが」
君には目利きの才がある。そう言われはしたものの、カスパルは今一つ実感が湧かなかった。
「あるいはオーレリア将軍の気を直接受けたことで、奥底に眠っていた資質を揺さぶり起こされたのかもしれないな。一流の格に感化されることは稀にあることだ」
「だとしたらちょっと複雑ですけど……」
「だが何にせよ、それは元より君が持ち合わせていたものだ」
下り階段を終えると、大きな鉄製の扉が待ち構えていた。
「ここは本来、限られた者しか入れない。私もその許可を頂いたのはごく最近だ。君をここに招くにあたっては、クラウス師範代の了承を得ている」
三つある錠前が外されていく。重々しい音を立てながら、鉄扉が開かれた。
「アルゼイド家の武器庫だ。中には古くから伝わる由緒正しいものもある」
「なんで俺をここに?」
「本物を見て欲しかったからだ。感性を磨くにはそれが一番いい」
足を踏み入れる。棚、壁問わず、所狭しと武具が並んでいた。
押し迫るような迫力を具えるものもあれば、静かな凄みを湛えるものもある。どれも一級品ばかりだ。
もし本当に、俺に才能があるというのなら、ここにあるような武器を使えば強くなれるだろうか。
「勘違いしてはいけない」
カスパルの考えを見透かしたようにガヴェリは言った。厳しい口調だった。
「目利きの才に優れた者であっても、剣術の才にまで恵まれているとは限らない。もちろん逆も然りだが」
「……ですよね。すみません」
分不相応な夢を見た自分に恥ずかしさを覚える。
少し気勢を削がれた心地で、カスパルは武器庫の中を見て回った。
「これはなんていう剣ですか?」
「それは《ブレイバー》。手堅い作りで信頼性がある。ラウラお嬢様も愛用されていた」
「こっちは?」
「《タイタスエッジ》。攻撃力は高いがかなり重く、扱いが難しい剣だ」
色々と質問する最中、カスパルはこんなことを訊いた。
「この中で一番強い剣ってどれですか?」
「そんなものはない」
ガヴェリは即答する。
「例えば子爵閣下の《ガランシャール》であってもだ。人の作ったものに完全はない。獅子戦役の頃から250年無敵を誇る剣だが、それは相応の使い手が持つからであって、剣が最強だからではない。もちろん二つとない宝剣であることは間違いないが」
ならば一番強い剣士が持つのなら、果物ナイフでもいいのではないか?
あえてその極論をガヴェリにぶつけたところ、彼は楽しそうに笑った。
「そういう問答は好きな口でね。君の見解は半分正解だと思う」
「半分?」
「確かに果物ナイフと最高の相性を持つ剣士がそれを持てば、向かうところ敵なしだろう」
「………?」
「つまり重要なのは最強ではなく最適。最適だからこそ剣士は実力の全てを引き出せる。しかしどの剣が最適なのかは、当然人によって異なる」
ガヴェリはカスパルの肩をぽんと叩く。
「多分、君にはそれを見極められる才がある。武器の良し悪しを直感できるのは、そこから派生する能力だ」
カスパルは戸惑っていた。
「はっきり言えば、一生かかっても君はオーレリア将軍に剣では勝てない。だけど君には君の武器がある。才覚を研いで磨いて一流になって、いつか自分の土俵で彼女を打ち負かせ」
「そ、そんなこと言われても」
要はその人に合った武器を選ぶということだ。それだけでどう勝てと、何をもって勝ちというのか。
「刀鍛冶の一番の栄誉は、自分の生み出した剣が激戦を潜り抜けて、その使い手と共に頂点に在ることだという。君も同じだ。その目を以て最適の剣を選び取り、自分の想いを託せる剣士に渡せ」
それがその人にとって、実力の全てを引き出すことのできる無二の剣と成る。
その剣士がいつの日かオーレリアを越えるなら、自分の牙は少なからず彼女に届いたことになる。
「だが剣と人。双方を見極めなければならない。見誤れば大切な局面で取り返しの付かないことになるかもしれない。選んで託す以上は責任を背負って、君も命を懸けるつもりでいろ」
胸が熱い。
厳しい言葉の裏に、確かな優しさを感じた。
彼は教えてくれているのだ。戦う術は力だけではないということを。
「君に心当たりはあるか? あのオーレリア将軍をいつか越えると信じられる剣士が。自らもそれを望む、そんな高い志を持った剣士が。君の想いを重荷に感じることなく、選んだ剣を受け取ってくれる剣士が」
問われるまでもなく、一人しかいなかった。
「……少し一人にしてもらっていいですか」
意を組んで、ガヴェリは武器庫の前で待ってくれている。
一人になったカスパルは、多くの武器の一つ一つに目を凝らして回った。
たとえどんなにいい剣でも、その人に合わなければ意味がない。
だからまず、その人のことを考える。直接剣を振っているところを見る機会は少なかったが――動きの癖なら分かる。
姿勢。挙動。所作。歩き方から、何気ない仕草に至るまで一つずつ記憶を思い返す。
頭の中で何千回とイメージを繰り返し、その動きと合致する剣を選定していく。神経がすり減る、気の遠くなるような作業を延々と続けた。
相応の責任を伴うのなら、もっと剣について詳しくなってから選んだ方がいいかもしれない。そう思う頭もないではなかった。
だけどやっぱり、今だ。今、全力を注ぎ込みたい。
俺にできることがあるのなら、ここで全てを懸けてみたい。妥協はしない。擦り切れるほど限界まで、自分の力を出してやる。
カスパルが武器庫の扉を開いたのは、十時間は経ったあとだった。もうとっくに夜になっている。
そしてガヴェリの姿は、変わらずにそこにあった。声をかけることもなく、ただずっと待っていたのだ。
「う……」
「カスパル君!」
憔悴して倒れ込むカスパルを、ガヴェリは支えた。
カスパルは全精力を使い切っていた。それでも震える指先を持ち上げ、かろうじて武器庫の中――その一角をさし示す。
「ラウラに……渡したい剣があります」
☆ ☆ ☆
お付き合い頂きありがとうございます。
冬空恋歌といいつつ、さらに恋の要素が薄くなった後編でした。ゼンダー門の人たちのせいだと思います。
いざカサギン男道。ただの武器屋では終わりません。
それでは次回から幕間に入りますが、当作では幕間終了までが第一部という構成となります。
次回、幕間『交錯の鎖』
引き続きお楽しみ頂ければ幸いです。