灰の騎神が、ユミルの町に降り立った。
中世の騎士を彷彿とさせる鎧甲冑。装甲の随所に見られる流麗な紋様。舞い散る小雪に映える、威風堂々たるその姿。
「いくわよ」
「ああ!」
セリーヌとリィンを包み込んだ光が、ヴァリマールの
問答無用で襲ってきたオルトヘイムが剣を振り下ろした。
騎神の双眸に緑光が瞬く。
同時、半身に構え、迫る巨剣の腹を腕で弾いた。凄まじい膂力に、よろめく魔煌兵。機を逃さず、体当たりを見舞う。轟音を響かせて、オルトヘイムは大の字に倒れた。
『三人とも今の内に!』
騎神からリィンの声がした。
「ほ、本当に兄様が動かしているんですか」
「こいつがトリスタ防衛戦で活躍したっていう代物か! 殿下、お嬢さん、ここはリィンの言う通りに」
「リィンさん、どうかお気を付けて」
下手に近くにいる方が危ない。トヴァル達は山道側に向かった。
ヴァリマールの核内。リィンは操縦空間を見回した。
フットペダル、コントロールレバーの類などはない。正面の大モニターにはヴァリマールが見る視界がそのまま映し出されている。画面の端々には機体の状態を示すデータの羅列が、見た事もない文字で上から下へと流れていた。
本来なら読み取ることさえ出来ない情報だが、リィンにはその全てが理解できた。
今分かったのではない。始めから知っていたような、既視感に近いものがある。
「起動者になった時点で、必要な情報はすでにアンタの中にあるわ。やれるわね?」
「ああ」
胸前にコンソールパネルが展開される。考えもせずにいくつかの設定操作を済ますと、操縦席前面、両サイドに設置されていた半球状の水晶が光を放った。
それぞれに手の平を添える。
意識が拡張し、機体に自分の神経が通うような感覚。
「騎神は表層の意志には反応しないわよ。逆に雑念や迷いは動きを鈍らせるから注意して」
「分かってる」
一度乗っただけだが、あの時の操作を体が覚えていた。
騎神の操縦は、どこか剣の扱いにも似ている。己の一部として、体の延長として扱うのだ。それこそ、考えて出来ることではない。
腕ではなく肚で動かす、というのが一番しっくりくる表現か。
「ヴァリマール、宜しく頼む」
『承知シタ』
核に直接声が届いた。
『但シ、
「リィン、来るわ!」
セリーヌの声で視線を正面に戻す。起き上がったオルトへイムが突っ込んできていた。
両腕で組み合い、突進を力ずくで止める。二機分の重量に耐えきれず、足下の舗装地面が大きくひび割れて砕けた。
激震するコックピットの中、セリーヌはリィンの膝にしがみつく。
「どうするの!?」
「町中では戦えない。渓谷道まで出るぞ!」
組み合ったまま背部の両スラスターを起動させ、一気に霊力を爆ぜさせる。推力に任せるままオルトヘイムを押し戻した。
「うっ!?」
急加速でシートに体が押し付けられる。
「アタシ専用の席が欲しいわね!」
「シートベルトもだ!」
中央広場を突っ切って渓谷道へと向かう二機の巨人を目で追いながら、トヴァルは喉を唸らせた。
「あれなら本当に何とかしちまうかもしれないな」
だが避難は継続だ。割って入れる戦いではないが、こうなると巻き込まれるリスクを考えなくてはならない。どのみち、全員の退避はもう少しで終わる。
「あら?」
アルフィンが山道側に目をやって、小首を傾げた。逃げたはずの人々が走って戻ってくる。
「しまった。魔獣が出たのか!」
早く護衛に付くべきだった。だが今こちらに来ては――
「いや、あれは……!」
何かに追い立てられてはいるが魔獣ではない。複数の人影。あの装いには見覚えがある。
「猟兵!?」
なぜユミルに。しかもこのタイミングで。
トヴァルの脳裏に走ったのは三つの可能性だった。
一つ目はリィンと騎神の鹵獲、あるいは破壊。
二つ目はアルフィンの身柄を確保。
三つ目はその両方。
昨日の謎の通信のこともある。リィンと騎神が目当てというのはあり得そうな話だった。だが視認できる限り、猟兵は小隊。本気で押さえたいならもっと大規模で来るだろう。第一、リィンが騎神をユミルへ呼び寄せたのは今し方だ。狙えるタイミングではない。
となると、やはり。
「エリゼお嬢さん、殿下を連れて屋敷の中へ!」
「は、はい」
「俺はあいつらを牽制します。この町の人達に手出しはさせない!」
この一ヶ月で分かったが、ユミルは領主を筆頭に一枚岩だ。ケーブルカーも最低限しか動かしていないし、そうそう外に情報が漏れることはない。
だとするならば、
「くそっ!」
ここに向かう道中を目撃されていた。そして方角的にもある程度、逃亡先の当たりを付けられていた。
かなり周囲には気を払い、ルートの選定も慎重を重ねたつもりだが、それでも甘かったということか。まさか何の通告もなく、いきなり猟兵を使った強行手段に出てくるとは。
「俺のミスだ……!」
およそ六、七名の猟兵が、町中へ押し入ってくる。
アルフィンを逃がす時間も無かった。エリゼ共々、あっという間に囲まれてしまう。
猟兵の一人が言った。
「アルフィン皇女殿下とお見受けする。我々はクロイツェン州と契約を結んだ猟兵団だ」
「クロイツェン……アルバレア公ですね」
「大人しく従って頂ければ事を荒立てるつもりはありません。ですが、そうでなければ手段は問わない。その了承も得ています」
猟兵の背後には大きなタルのような容れ物があった。鼻を突く臭いから、トヴァルにはそれが可燃性の液体だと分かった。要求が通らなければ、町に火を放つつもりだ。
どうすればいい。優先順位はなんだ。皇女殿下を逃がすことか。郷の人達の安全確保か。こいつらを掃討できれば話は早いが、この状況では分が悪すぎる。
突然、後列にいた猟兵の一人が膝をつく。男が地面に突っ伏すよりも早く、その脇から騎士剣を手にしたテオが飛び出してきた。
「トヴァル殿、不躾なる客人の相手は私も務めよう」
剣先で相手を威圧しながら、テオは言った。遅れてルシアもその場にやってくる。
「ルシア、エリゼ。殿下をお守りするのだ。シュバルツァー家の役目としてこれに勝るものはない」
アルフィンのそばにエリゼたちが控えた。
テオは家伝の剣術を修めている。加えてトヴァルの高速アーツ駆動。人数の不利はあるが、戦術次第では互角以上に渡り合える。
やってやれないことはない。トヴァルがそう思った時だった。
近くの民家に立てかけてあった木材が、がたがたと音を立てて崩れた。
「あっ」
「でちゃダメなの」
木片の隙間に子供が見えた。キキとアルフだ。
遊んでいて避難に遅れた二人は、ずっとその場所に隠れていたのだ。
口元を歪めた猟兵が子供たちに向けて、銃の筒先を持ち上げる。
「やめろ!」
飛び出すテオ。
それは誘いだった。即座に銃身がひるがえり、テオに
トヴァルがスタンロッドを抜き出すよりも早く、猟兵は引き金を引いた。
渓谷道の木々が、響き渡る硬い衝突音に震えていた。
「おおおっ!」
気勢と共に攻める。無手の構えからの拳打が、オルトヘイムを追い詰めていた。
相手の腕を払いのけ、隙ができた胸部に掌底を叩き込む。相手はたたらを踏んで後退したが、へこんで歪む装甲など意に介した様子もない。
「何やってるの、核を狙って!」
「腹の光ってるやつか!?」
腹部に球体があった。巨体の中心で怪しげな光を滲ませている。
「あれを破壊しない限り、いずれ自己修復するわよ」
「最初に言ってくれ!」
拳を構え直した時、オルトヘイムが身を屈めた。核から陽炎のように立ち昇る霊力が、その体を覆っていく。
開放。両肩からさらに二本の腕が突出した。大剣も四つに分裂し、それぞれの手に握られている。
別々の軌道を取った斬撃が四方から襲い来る。
「捌き切れない……っ」
間合いを潰すしかなかった。あえて接近し、態勢を崩そうと試みる。
オルトヘイムはよろめかない。先ほどは効いていた体当たりが通じなかった。
「な、なんで……うっ?」
今度は逆に押し返される。踏みとどまろうとして果たせず、ヴァリマールは町側に後退させられていく。
『霊力低下。アト六〇秒デ行動不能』
「早すぎるぞ!? まだ五分も経ってないのに」
「さっきのスラスターのせいよ。あれでかなり消費したんだわ」
敵の力は増加し、こちらの力は減少している。
形勢が変わった。まともに抗うことも出来ない。もう町はすぐ後ろにあった。
オルトヘイムの頭突きが入る。間合いを開けられた上に、そばの小川に足を滑らせた。盛大に水しぶきが上がる中、リィンは必死で機体を繰る。
「くそっ」
「前見て、前!」
前のめりになるヴァリマールの腹部を、思いきりオルトヘイムが蹴り上げる。
落雷のような衝撃に、リィンとセリーヌの叫び声が重なった。
上下左右の感覚さえ定まらなかったが、リィンはなんとかしてモニターに目をやる。足湯場が近くに見えた。完全に町中まで押し戻され、さらに倒されてしまっている。
機体を起こそうとしたが、その前にオルトヘイムがヴァリマールの頭を掴み上げた。いつの間にか、相手の剣は一本に戻っていた。
「離れないと……!」
振り解こうとするが両腕が動かない。相手の腕に外側から押さえられていた。
残った腕で持つ剣の先が、ヴァリマールの胸に向けられる。相手はこちらの核を狙っていた。
とっさに視線を走らせた。何か使えそうなものはないか。いやあったとしても、どの道もうすぐ霊力が尽きて動けなくなってしまう。どうすれば――
少し離れた所に人だかりが見えた。
まだ避難が終わっていないのか。そう思ったが違った。ズームアップされたモニターに映るのは、複数の猟兵。
どうしてユミルに猟兵がいる?
その疑問は浮かんだが、一発の銃声が思考を根元から刈り取った。
「……え?」
直後、テオがくずおれる。
拡がる血だまりに沈んでいく父の姿。
ルシアの背後に回った猟兵が、彼女を小銃の柄で打ち据えた。固まるアルフィンの横で、母も倒れゆく。
真っ白になった頭の中に、エリゼの絶叫が響き渡る。
どうして父さんと母さんを
あんなにも優しい人たちを
夕食を一緒に食べるはずだったのに
笑って送り出してくれたばかりなのに
エリゼが泣いている
許サない。許サナい。ユルサナイ――
何かを繋ぎ止めていた見えない鎖が、音を立てて引き千切れた。
「ち、ちょっとアンタ!?」
鳴動が大きくなっていく。リィンの黒髪が白く、瞳が赤く染まっていく。まるで何かに侵食されていくように。
獣じみた剥き出しの闘気が、核内部に充満していった。
「な、なに?……ヴァリマールの力が回復してる……? きゃあっ!?」
何物をも寄せ付けない力が膨れ上がり、セリーヌは機体の外に弾き出された。
オルトヘイムが剣先を突き立てるよりも早く、腕の拘束を振り払い、ヴァリマールはその首元をわし掴んだ。
抵抗の間さえ与えず、一息に握り潰す。べきゃりと金属がひしゃげる音がした。オルトヘイムの首から上が、でたらめな方向にひん曲がる。
片腕を腰に構えるヴァリマール。拳に赤い光が収束する。
オルトヘイムは四つの腕を腹前で交差させ、自分の核を防御した。
真紅の尾を引き、放たれる暴拳。
一撃で全ての腕を粉砕し、その奥の核までを貫いた。
断末魔の咆哮。オルトヘイムから霊力が抜け落ちていく。紫光に巻かれながら、魔煌兵はその巨体を霧散させた。
「すごい……」
呆然としながらセリーヌはその様を眺める。
起動者の変容が映し出されたかのように、双眸に赤い燐光を宿したヴァリマールは、すでに歩先を猟兵たちへと向けていた。
「な、なんだ。あれは機甲兵なのか?」
「事前情報にはなかったぞ!」
地面を踏み鳴らして迫るヴァリマールを、猟兵たちは困惑の表情で見上げている。
核の中に収まるリィンは、憎しみと怒りに支配されていた。
心は黒く染まり、視界は赤く染まる。闇のように、血のように。
お前ら――
――キサマラ
意識が何かと混ざり、自我が追いやられて縮小していく。わずかに残る正気は制止を叫んでいた。
駄目だ。抑えろ。早く治療を――
――ツブセ、コワセ、ホロボセ
強大な力が濁流となって、リィンの意思をかき消していく。
「滅ビヨ」
もはや自分が発した声なのかも分からない。
立ち竦む猟兵の前に立ち、握った拳を軋ませる。脆弱な生身の人間が、騎神の一撃を凌げるはずもない。
鋼の腕が持ち上がる。
「ひ、ひいっ!」
恐怖に顔を歪める男を見ても、リィンは何も思わなかった。どす黒い感情だけが身を支配し、全ての凶行を肯定している。
――消シ飛ベ――
「ダメです!兄様!!」
悲痛な声がヴァリマールの装甲を突き抜け、リィンの胸に刺さる。
エリゼが足元に駆け寄ってきた。
「母様は当身を受けただけです! 父様は急いで傷の処置をする必要がありますが、急所は外れています。だから……!」
エリゼとて猟兵を許せはしない。だがここでリィンが暴走を続ければ、意識を戻した時、誰よりも傷つくのは他ならぬ彼だと分かっていた。
八年前のあの日のように。
「エ、リゼ……? ぐっ!」
懇願を乗せた視線を受け止め、リィンは無理やりに胸の内へと力を押し込める。沈んでいた自分の意識を浮上させ、ずっと止めていた息を再開したかのように大きく空気を吸った。
次第に赤黒いオーラは収まり、髪と瞳が元の色に戻っていく。
「はあっ、はあっ! また、俺は、力を抑えられずに」
「いいえ、兄様は戻ってきてくれました」
喘ぎ喘ぎリィンは言い、伏せていた顔を上げる。
モニターの端に映るエリゼは、赤く目を腫らしていた。テオの方に視界を転じると、ルシア共々、駆けつけた教区長が応急手当を施してくれているところだった。
だからと言って安心できる状況ではない。収まらない動悸と胸の鈍痛をこらえ、リィンは猟兵たちを見た。
「なんだ?」
彼らの様子がおかしい。呆けたように立ち尽くし、うつむいてその動きを止めている。
頭上から甲高い鳴き声がした。輝く軌跡を引きながら、青い鳥が旋回している。
『騎神という力に抱かれながら、なお異質な力を行使する。だけど二つの力は交わらなかったのね。興味深いわ』
澄んだ女性の声が響く。
滑空する鳥が描く円の中心から、何かが降りてきた。
『帝都のブティック以来、一か月半ぶりかしら。元気そうで何よりだわ。ねえ、リィン君?』
軽やかな佇まいで中空に立つのは、妖艶に笑むヴィータ・クロチルダだった。
『皇女殿下におかれましてはご機嫌麗しゅう。妹さんと遊撃士さんは初めまして。セリーヌはお久しぶりと言ったところかしら。グリアノス越しで失礼するわよ』
ヴィータは実体ではなかった。使い魔に姿を投影していると言う。
「ミスティ……いや、クロチルダさん。これはあなたが仕組んだんですか」
怒気を孕んだ声音で、リィンはヴァリマールの中から言う。困ったようにヴィータは肩をすくめた。
『怖い顔をしてるのが想像できるわ。でもこの一件に私は関与していない。アルバレア公の独断よ。カイエン公を出し抜きたかったんでしょうけどね』
「その女が関わってないっていうのは本当だと思う」
セリーヌが肯定すると、「あら?」とヴィータは意外そうな声を上げた。
「だって人ひとりをさらう程度、アンタならもっと違う手段を取るわ。いやらしくて、狡猾な手段を。そうでしょう、ヴィータ。いえ、今は《深淵の魔女》なんて呼ばれてるんだっけ」
険を隠そうともせず、セリーヌは言う。
『ふふ、言ってくれるじゃない。七年前より口が悪くなったかしら?』
「アンタは性格の方がね」
トヴァルが口を差し挟んだ。
「旧知の語らいをしてるところで悪いが、《深淵の魔女》ってのは何だ。どうも友好な関係には見えないが」
「《身喰らう蛇》の使徒、その第二柱よ。アンタも遊撃士なら多少は知ってるんでしょ」
「結社の最高幹部か……!」
《身喰らう蛇》とは大陸各地で暗躍する、有り体に言えば謎の組織だ。その全容は計り知れないが、分かっていることを挙げるなら。
盟主と呼ばれる存在を頂点として、何らかの目的の下に動いていること。
独自のネットワークと、人形兵器に代表されるような高い技術力を有していること。
盟主の意思を代行するヴィータたちのような幹部を使徒と呼び、その下に執行者という実際の作戦に従事する者たちがいること。ただし、その有り様は型にはまっておらず、かなり自由な行動を認められているらしい。
そして、帝国にも影響を及ぼした一年前の《リベールの異変》は、彼らが関与していたことだ。
活動が縮小しつつある帝国ギルドにも、その辺りの情報は入ってきている。
トヴァルは身構えた。
「あんたの差し金じゃないのが事実だとしたら、どうしてここに来た?」
『私が探していたのはリィン君と灰の騎神の行方よ。この一か月は動向を追っていたんだけど、魔煌兵の稼働を感知してこの場所を突き止めたというわけ。アルフィン皇女の捜索とは別口ね』
「……それだけか?」
ヴィータは依然として動かない猟兵を一瞥した。訝しみながらも、トヴァルはその視線を追う。何かの幻術にかけられているようだった。
『彼らが無粋な真似をしないか心配だったのもあるわ。まあ、手遅れではあったけど』
手遅れという一語にエリゼが反応する。強い目つきで、宙に浮くヴィータをにらみ上げた。
『そんな顔をしないで。お詫びはするつもりよ』
「何を……」
両の腕をしなやかに広げ、まるでステージに立つオペラ歌手のようにヴィータは歌った。どこまでも透き通るような静謐な歌声が、ユミルに拡がっていく。
束の間、エリゼやリィンでさえも、ざわめく胸中を鎮められたような心地になった。
猟兵たちがゆらりと顔を上げた。
『あなた達はもうお帰りなさい。“アルフィン皇女はユミルを経った後だった。”アルバレア公にはそう報告を。ああ、ついでに灰色の騎士人形のことも忘れておきなさい』
脳に直接すり込まれた言葉。猟兵たちは力なくうなずいたあと、虚ろな操り人形のようになって山道を降りていった。
『これくらいでは許してもらえないかもしれないけどね』
罰悪そうな様子で控えめに微笑し、ヴィータはエリゼに向き直る。
「あなたは……」
「気を抜かないで! そんなに甘い女じゃないわ!」
わずかに緊張が解ける一同の中で、セリーヌだけが警戒を崩していなかった。
ヴィータの口の端が小さくつり上がる。同時にエリゼとアルフィンの背後の空間が歪んだ。
顕れたのは黒い巨躯。大きな腕をフックのように使い、エリゼとアルフィンを拘束した。
「きゃあ!」
「な、なに!?」
抜け出そうと身をよじる二人に「抵抗は無意味です」と平坦な声が届く。黒いフードをかぶった少女が、もう片方の腕に抱かれていた。
『エリゼ! 殿下!……あれは!?』
黒い傀儡を前にして、リィンは動かしかけたヴァリマールを止めた。あまりにも酷似していたからだ。あのミリアムのアガートラムに。
戸惑う頭がとっさに判断を下せず、連動する騎神の挙動が鈍くなる。
『魔女の前で気を抜いちゃダメよ。特にいじわるな魔女の前ではね』
ヴァリマールに次いでセリーヌを見やり、最後に黒衣の少女に視線を移したヴィータはくすくすと笑った。
「クロチルダ様、撤退の指示を」
少女は抑揚のない声音で言い、感情の映らない瞳でヴィータを見返した。『そうね』と一言応じたヴィータの青いドレスが、幻惑の波に揺られ、薄れていく。
『リィン君。あなたの力はまだ脆く、そしてつたない。あがいて、もがいて、たどり着いてみなさい。蒼の騎士――クロウの待つ舞台へ』
物語はすでに始まっているわ――
虚空に溶けていく声がそれだけを耳に残し、ヴィータの姿は消える。代わりに現れたグリアノスが羽を広げ、飛び去っていった。
羽ばたく青い鳥を追うように、黒い傀儡も浮上する。
「んー!」
「離して!」
じたばたと手足を振って抵抗するエリゼとアルフィンに「暴れると落ちますよ」と形だけの警告をして、少女は先行するグリアノスに視線を戻す。それ以外はすでに意識の範疇外のようだった。
眼前で連れ去られていく妹と皇女。
届かない手。見上げるしかない無力。何もできない歯痒さを噛みしめる。
もしそれが生身だったならば、そうするしなかっただろう。
しかし、今は違う。
「飛ぶぞ! ヴァリマール!」
『否、多少霊力ハ回復シタガ、十分ナ飛行ハ――』
「いいから飛んでくれ!」
力に呑まれかけた直後だ。この上、満足に扱えもしない騎神の力をさらに行使することにためらいはあったが、何もせずここで見逃すことはできない。
地を蹴り、跳躍する。背のブーストバインダーが展開され、ヴァリマールは飛翔した。
「よし、追いついたぞ!」
アガートラムに似たそれをモニター越しに視認する。
上空とはいえ、高度はさほどなく、相手の速度も決して速くない。それでもユミルの町からはかなり遠ざかってしまったが。
距離をさらに詰める。こちらの方が速い。
黒い傀儡が急転回。ヴァリマールに向き直った。エリゼとアルフィンが見えた。吹きつける冷たい風にさらされて、辛そうに身を固くしている。
すぐに助ける。待っていてくれ。
「っ!?」
胴体部、目にも見える部位に光が収束する。
やはりアガートラムと同じ。撃たれると告げた直感が、反射的に機体を横ロールさせた。ほぼ同時、モニターを鮮烈な光が染め上げ、伸びた光軸がヴァリマールの肩装甲を擦過する。
「あ、危なかった」
『導力圧再上昇。警戒ヲ継続スルガイイ』
「またか!」
続けざまに放たれた第二射も際どく回避。さらに撃たれる可能性もあったが、構わずに機体を加速させた。
黒衣の少女が表情をわずかに曇らせたように見えた。
腕を伸ばす。ヴァリマールの手が相手をかすめた。飛行姿勢が崩れて拘束が緩む。
「きゃあっ!」
一人が腕から抜け落ちた。突風に煽られて中空を踊る人影を、速度を合わせながら慎重に両の手で受け止める。
「無事か!?」
「私は大丈夫です!」
エリゼだった。
「つかまっていてくれ。このまま殿下も救い出す」
再び黒い傀儡に追い迫る。
「兄様、私を姫様のところへ近づけて下さい」
「分かった。落ちるんじゃないぞ」
「姫様、手を!」
アルフィンに接近するヴァリマール。その手の平の上から、エリゼは精一杯に腕を伸ばす。
「エリゼ!」
アルフィンも懸命に手を差し出した。
もう少し。あと少し。
そして、二人の指先が触れる。
だが次の瞬間には、また離れていた。ガクンと急に速度が落ちる。
『霊力不足。飛行ヲ維持デキナイ』
「待て、ヴァリマール! あとちょっとなんだ。頑張ってくれ!」
『コレヨリ着地スル』
「おい!」
高度が下がり始め、距離が開いていく。
風に負けない声で、エリゼは必死に言う。
「姫様! 必ず助けにいきます!」
「エリゼ!」
「セドリック殿下と仲直りするまで、絶対に諦めないで下さい!」
「ええ……!」
遠ざかるアルフィンと黒衣の少女。最低限のスラスターを噴出して、勢いを殺しながら降下するヴァリマール。山間の丘陵が近付いてくる。
雪雲に覆われた灰色の空を見上げながら、エリゼはもう姿の見えない親友の名を何度も叫んでいた。
明けましておめでとうございます。
少し原作と差が出てきたところでしょうか。とはいえ、彼女は意味なく仲間に加わるわけではなく、中盤以降きっちりストーリーの展開には絡んでいく予定です。
さて、間もなく序章終了ですが、次回より『虹の軌跡Ⅱ』が本格始動となります。久しぶりに前後編に分けてお送りする形となりますので、またお楽しみ頂ければ幸いです。
本年もどうぞよろしくお願い致します。