“料理の題目はクジにてランダムに決める”
“使用する食材もクジにてランダムに決める”
この二つがトヴァルの提示した特別ルールだった。
調理者の三人――サラ、シャロン、クレアはエプロン姿で厨房に立っている。各々に割り当てられたキッチンスペースがあった。
「……どうしましょうか」
シャロンは困っていた。彼女の料理の腕は、おそらくこの中では一番だ。どんな題目が出ても確実に作ることができるはずだった。
そんな万能メイドが困る理由。
引いたばかりのクジを眺めて、シャロンは小首をひねる。二枚の用紙にはこう記されていた。
お題のクジには『スープ』。
食材のクジには『肉』。
「スープを作るのに……肉?」
これがトヴァルのミスだった。
サラの不利を埋め、シャロンとクレアの有利を制限する為に設定したルール。
全てがランダムなら、本人たちにとって不得手なメニューだったり、作りにくい食材が適当に散らばると憶測してのことだったのだが――当然こういった食い違いも発生する。
雪合戦のことに気が回っていたからか、単に意識から抜けていたのか。いずれにせよ、トヴァルはその重大な穴に気付けなかった。
とりあえずシャロンは調理場の一角、ジャンルごとに並べられた食材の元へ向かう。
使っていい食材は肉。牛、豚、鳥など各種用意されているが、特に指定はない。
「骨からダシを……でも時間が」
調理時間は三十分という設定。ダシが出るまでしっかり煮込む時間はない。
悩みながらも、シャロンは一通りの肉を持ってキッチンへと戻った。
導力演算機並と称される彼女の頭脳をもってしても、引き当てたクジの内容を理解するのは困難なことだった。
一枚のクジを見る。お題は、
「……米料理」
もう一枚を見る。食材は、
「……魚」
クレアは何度も読み返した。しかしそうとしか書かれていない。
米料理を作ることはできる。たとえばピラフだったり、ドリアだったり。作ったことがなくても、レシピに目を通せば定められた形にできる。
しかしこれはレシピ以前の問題だ。
「トヴァルさんは一体どういうつもりで、こんなルールを作ったのかしら」
一応の意義は彼から聞いている。
限られた食材で指定されたメニューを作る。それは戦場で食料が尽きた時に、調達できたものだけで食いつなぐ術を学ぶ――あるいはその感性を養っておく為、だとか。
言っていることは分かる。
しかしその想定で調理するなら、メニューの指定は別にいらないのでは。そんな極限状態に追い込まれてまで、グルメを追求する兵士がどこにいるというのだ。
「でも、やらないといけませんね」
ひとまず色合いの良さそうな魚を選ぶ。
トヴァルからの事前説明では“ルール厳守”と強く言付けられていた。
ただでさえ職業軍人。規則に従うことは肌に染みついている。
クレアは真面目だった。
真面目に魚を使った米料理、否、魚しか使わない米料理を模索した。明晰な頭脳をフル回転させ、脳内のデータベースから打開策に繋がるあらゆる情報を引き出そうとした。
ダメだった。救いのない一つの解だけが眼前に突き付けられる。
「……どうやっても魚は米にならないのですが」
光沢のある鮮魚を抱えたまま、氷の乙女は立ち尽くした。
「一体なによ、このルールは」
サラはトヴァルに対して内心で憤っていた。
確かに運の要素を絡めるとは言っていたが、むしろ運の要素しかない。ただのルーレットの組み合わせではないか。
しかも余計なことに、調味料さえランダムにしてあった。
塩、砂糖、ドレッシング、油に至るまで、見栄えの同じ容器に移し替えていて、どれがどれだか分からないようになっているのだ。おまけに味見も控えるようにお達しが出ていた。
「……ここに運の要素はいらないわよ」
自分は味音痴なわけではない。調味料の調整くらい出来る。見くびり過ぎの上に、いらない気遣いだ。
ちなみに調味料をランダムにした件については“夜間まったく明かりのない野外で、勘だけを頼りに調理する状況になった時を想定して”だそうだ。
どんなシチュエーションなのよ。
異議申し立てをしようにも、肝心のトヴァルはこの場にいない。部屋にこもって雪合戦の段取りを詰めるそうだ。
そう、異議申し立てをしようと思っていた。ついさっき、この二枚のクジを引くまでは。
サラはほくそ笑んで、クレアとシャロンの様子をそっと窺う。何を引き当てたのかは知らないが、二人とも困っているみたいだ。
「ふ、ふふ。勝ったわ」
自分のクジ用紙に目を落とす。
お題は『ドリンク』。食材は『野菜』。
ラッキーだ。この指定なら作るものは考えるまでもない。野菜ジュースにすればいいのだ。決してあり得ない組み合わせではない上に、作成自体も簡単である。博打のように調味料を使う必要だってない。
「まーったくもう、やってらんないわ。トヴァルったら余計なことに巻き込んでくれちゃってー」
お題と食材の相性が良かった。運がものを言うのなら、自分はまさしくその運を掴んだということになる。
しらじらしく悪態をついてから、サラは軽い足取りで野菜の物色に向かった。
● ● ●
食堂の中央に備えられた長テーブルに、男子たちは横並びに座っていた。
誰しもが無言で、厨房の奥から聞こえてくる調理の音だけが響いている。
「なあ……なんだか」
リィンがぽつりと口を開く。
「思い出すよな、あの時のこと」
ぴくりと男子たちの肩が動いた。
今年の夏、とある日の放課後。彼らは学院の調理室で惨劇に見舞われた。
調理実習を乗り切ろうとした女子による、手料理の試食会がそこで行われたのである。しかし皿の上に乗って運ばれてきたのは、料理と称していいのか分からないほど異様で異形な物体の数々。
それらを胃に収めたリィンたちは、凄まじい状態異常のオンパレードに一人、また一人と意識を失っていった。
「……うん、この並びだからかな。僕も同じこと考えてた」
落ち着かない様子のエリオットが、うつむかせていた顔を上げる。
あの日の出来事は全員のトラウマだった。普段は泰然としているガイウスでさえも「……大丈夫だ。今日は大丈夫だ」と呟きながら、しかし不安そうに何度も壁掛け時計に目をやっていた。
「ガイウスの言うとおりだ。俺たちの心配など杞憂だろう」
腕を組み、ぎしっと背もたれを軋ませるユーシス。
「彼女たちはⅦ組の女子とは違う。サラ教官は少々心配ではあるが……まあ、よほどの無茶をやらかさなければ問題あるまい」
サラに関してはそれこそ“つまみ”程度でいいのだ。心得のない者が背伸びをし、特別なアレンジを加えた結果がどうなるか、皆が身をもって知っている。
燻る不安を払拭するようにリィンが言った。
「でも確かに心配する必要はないか。シャロンさんの腕は知ってるし、クレア大尉は何でも作れそうだし。サラ教官の料理さえ警戒しておけば」
担任教官に対して散々な言い様ではあるが、反論はなかった。
「そういえばマキアス、全然しゃべらないな。やっぱり不安なのか?」
「ん、いや」
彼は口元を緩める。余裕の笑みだった。
「正直、楽しみしかない。かなり空腹だしな」
堂々たる態度にガイウスやエリオットから感嘆の声が上がる。
「マキアスはすごいよね。僕なんか大丈夫ってわかってても、ちょっと構えちゃうっていうか」
「さすがは副委員長だ」
「ははは、やめてくれ」
クレアが手料理を作ると聞くや、彼は鳳翼館を飛び出して腹を空かす為の走り込みをしていたりする。
男子たちはトヴァルの考えた“変則調理ルール”など知らない。ただ単に、美味い料理を選んでくれと頼まれただけである。厨房手伝いのシャロンもいるから、新メニュー開発の参考にするとか、その程度のものだと思っていた。
キッチンの奥では調理が進んでいる。
時を刻む秒針の音だけが、妙に大きく聞こえていた。
それから間もなく、
「皆様、大変お待たせしました」
配膳台車を押して、シャロンが食堂に姿を見せる。
全員から安堵の息がもれた。誰が誰の料理か分からない状態で食べるわけではないらしい。それだけでも幾分と気が楽になった。
「一番手はシャロンさんか」
「新作かな。楽しみだよね」
一様に表情が明るくなった面々の前に、半
「食前のスープでございます。……どうぞ、冷めない内にお召し上がりください」
なんとなくシャロンの口調がいつもと違った。自分が並べた皿に対して、どこか疑問があるような感じだ。
彼女に促され、クローシュを開く。
そして硬直。彼らは自らの目を疑った。
シャロンが作るスープといえば澱みがなくどこまでも澄んでいて、味付けも胃に優しい柔らかなものだった。
しかし今、スープ皿に注がれているのは、ぎとぎとの脂にまみれた赤茶色い液体。
手にしたスプーンをかたかたと震わして、リィンはシャロンを見た。
「シ、シャロンさん。これは?」
「スープでございます」
「でもこの色は」
「スープでございます」
いつも通り優しげな声音でありながら、シャロンは言い切った。
皿を眺めることしばし。
「えっと、頂こうか?」
疑問形である。見た目よりもシャロン作成というブランドが勝り、スープと呼ばれたそれを訝しみながらもスプーンにすくう。
ずしりと重い。所々、謎のかたまりが浮いている。
彼らは顔を見合わせてから、同時にスープを口にした。
「こはあっ……!」
口の中にまとわりつく、ねっとりとした食感。いつまでも舌の上に残り、喉を通らない肉の脂。
噴き出しそうになるのを堪えた頬がリスのようにふくらみ、無理やりに力を込めた背がビクンとのけぞる。
咀嚼が苦痛だ。いや、そもそもスープに咀嚼は必要だっただろうか。
「はっ! はふうっ! シャロンさん!?」
必死で飲み込んだリィンは、すがるようにシャロンを見上げる。これは何かの間違いでしょう? そう言わんばかりの目で。
彼女はひどく申し訳なさそうな顔をした。
「実はスープに肉しか使えないという制限がありまして。ならば骨からダシをとも考えましたが時間が足りず……」
「制限……?」
「ひとまず肉を煮込みながら脂と灰汁を抜き、調味料で味を整えようとしたのです。出来物のブロードはあったので、それを使おうとしたのですが」
「ですが?」
「思いきり油を投入してしまいました」
「な、なんでですか!?」
ラインフォルトのメイドが乱心である。
調味料の容器がランダム仕様となり、味見さえ許可されていない事情など、彼らには知りようもなかった。
「……それで、お味はいかがでしょうか。いえ、聞かずとも分かります。お口に合わないようであれば、どうぞ残して下さいませ」
口に合う合わないではなく、胃に入れて良いか悪いかの次元である。残していいと言うのだから、これは残すべきだ。
しかしリィンはスプーンを置くことができなかった。
憂いを秘めたシャロンの瞳が揺れている。
どうしてこんなスープが出来上がったのか、その経緯こそ不明だが、実際申し訳ないとは思っているのだろう。
いつもおいしい料理を作ってくれていたシャロンさん。たまたまじゃないか。たった一回、料理に失敗しただけじゃないか。
その一回すら受け入れず、せっかくの一品を突き返してしまうのか。
リィンは想像してしまった。寂しげな笑みを口元に浮かべて、一人一人の残ったスープを流し台に捨てるシャロンの後ろ姿を。
そんな悲しい光景を現実のものにするわけにはいかなかった。
「いえ、食べます。その……味付けがちょっとすごく独特なだけですし、食べ物としては成立してる気がしなくもありませんし……。そうだろう、みんな。食べるだろう」
『えっ』
戸惑った仲間たちの声が返ってくる。なんでこっちまで巻き込んだと、刺さるような視線が告げていた。
「まあ、嬉しい。皆様のお食事を作ることができてシャロンは幸せです」
『………』
もう後には引けない。
脂に油をブレンドした《オイル&ラードスープ》をリィンたちは再び食べ始めた。時間をかけて冷えてしまうと脂が固まって、さらにえげつない進化を遂げてしまう。
そうなる前に片を付けるしかなかった。かき込むように喉へと流し込む。
ここからは帝国男子の意地。常在戦場。命がけの特攻だ。
平静を演じていた彼らが嗚咽をもらしたのは、シャロンが空になった皿をまとめて厨房へと戻ってからである。
「リィン、よくも俺たちまで付き合わせてくれたな」
うぷっと餌付きながら、ユーシスがリィンをにらむ。
「すまなかった。でもあんなことを言われたら仕方ないだろ。それにしてもシャロンさんが料理を失敗するなんて、一体――」
からん、とスプーンの落ちる音がした。
腕をだらりと垂らしたエリオットが、青くなった唇を震わしている。
「……エリオット?」
「リィン。僕はここまでみたいだ」
「ま、またこのパターンか!?」
そういえば前の時も最初に倒れたのはエリオットだった。アリサの作った煉獄スープの餌食になったのだ。そして今回はシャロン。彼はラインフォルト製の
「はは、何だろう。手足が痺れるんだ……」
ずるりと椅子から滑り落ちたエリオットは、冷たい食堂の床に横たわった。
倒れた彼を仲間が囲む。
「心を強く持て。まだこれからやることがあるだろう」
「そう、だね。ごめん。僕、みんなの役に立てなかった……」
ユーシスが肩をゆすると、弱々しい笑みを浮かべた。その瞳からは光が失せ始めていた。
「ケルディックでは野草ばかり食べてたし、ユミルに来ても川に落ちるし、結局どこにも同行できなかったし……思い返せば散々だったなあ……僕がいる意味ってあったのかな」
「あるに決まっている」
マキアスが強く断言した。
「自分を卑下するんじゃない。エリオットはⅦ組のかけがえのない仲間だぞ」
「うん、ありがとう。でも僕が川に落ちた原因って、君がカエルに食べられたからなんだけどね……」
一時治りかけていた体調不良は、そこからぶり返して今に至っている。
ガイウスがエリオットの手を握った。
「またバイオリンの演奏を聞かせて欲しい。それはこの手じゃないとできないんだ。代わりはいない」
「バイオリンか……弾きたいな。でもダメだよ。もう腕の感覚もないんだ」
「エリオット……!」
「あれ? 急に声が聞こえなくなってきた。ははは、なんだか耳の奥が痛いや」
目の焦点が定まっていない。虚ろな視線が中空をさまよっている。
皆が励ましの言葉をかけ続けたが、エリオットにはもう届いていなかった。
「ああ、切れたバイオリンの弦が伸びてきて――」
まぶたが落ちる。
「僕の首を絞めるよ」
救いようのない幻視の中で、彼は力尽きた。
また
言い知れない不安を胸に、残った男子たちはうなだれる。
「早くに退場した方が得だよな、こういうの」
ぼやきながらリィンは食堂端にあるソファーに目を向ける。そこには動かなくなったエリオットが寝かされていた。
「僕には亡骸が安置されているようにしかみえないんだが」
「あの場所に俺たちの誰かが続かないことを願うばかりだな」
表情を暗くするマキアスとユーシス。
友人の屍から視線を戻して、ガイウスが言った。
「気になっていることがある。さっきシャロンさんが“制限”という言葉を使っていた」
「ああ、俺も引っ掛かる部分だった」
リィンも同意見だ。先ほどは会話の流れで質問するタイミングを逸していたが、どう考えてもやはり変だ。
Ⅶ組のお嬢様たちならいざ知らず、普通の環境でシャロンがあんな料理を作ることなどあり得ない。
だとするなら環境がおかしいのではないか。
「俺たちに審査員を頼みに来た時のトヴァルさんは、何か様子が変だった。詳しい説明もなかったし」
妙に焦っているようでもあった。
制限という言葉から察するに、特殊なルールを強いられていると予想できる。
そして件のお兄さんはこの場に姿を見せない。
「まさか……トヴァルさん」
彼の事情や思惑など知りようもないが、全員の不信感が募っていく。自分たちは生贄的な扱いでこの処刑場に連れて来られたのではないかと。
うすら寒い予感がよぎった時、二品目の皿がやってきた。
「皆さん、お待たせしました」
クレアである。マキアスは暗澹とした表情を一瞬で消し去った。
「いいえ! 大尉の手料理なら何万年でも待ちま――ふぉおおっ!」
クレアはフリルのついたエプロンを着用していた。かわいい雪うさぎのイラスト付きだ。その立ち姿にマキアスは脳天を撃ち抜かれた。
それまで感じていた厨房内への不安など、彼の中から見事に消し飛んでいた。
「あら。エリオットさんはどうしてソファーに?」
「どうも体調が戻り切っていなかったみたいで。なに、大したことはありませんよ」
「そうですか。それならいいのですが」
「ええ、いいのです」
エリオットの安否よりも、クレアの手料理の方が気になる薄情な副委員長である。
「それで大尉の一品とは?」
「え、ええ。こちらになります」
マキアスに急かされて、クレアはためらいがちに皿を各人の前に並べていく。
クローシュは付いていない。彼女が作ったのはオムライスだった。薄焼きの卵が一部の隙間もなくチキンライスを覆っている。見栄えはまったく問題がない。
「オムッライスッ! 大尉のっ! オムッ!」
「いちいち反応がうるさいぞ」
横から突いてくるユーシスの小言さえ耳に入らず、マキアスは勢いよく椅子から立ち上がる。
卵の上にはケチャップで絵が描いてあった。星だったり、ポップな動物だったり――ハートマークだったり。彼の拳はふるふると打ち震えていた。
「ガイウスはこのオムライスを絵画にしてくれ。リィンはカメラで写真に収めてくれ。これは後世に残すべき宝だ」
「描いてる間に冷めてしまうぞ」
「レックスじゃあるまいし、カメラなんか常備してないんだが」
「阿呆が」
ともあれ実食である。見た目がいいから、さしたる抵抗も警戒もなかった。
しかし異変はスプーンを手にした瞬間に起きる。ピシッと小さく弾ける音がした。
「お、おい。お前、それは?」
「え?」
ユーシスの双眸が見開かれる。マキアスの眼鏡――そのフレームに突然ひびが入ったのだ。まるで不吉を暗示するかのように。
その事態にガイウスが身構えた。
「俺たちよりも早くに眼鏡が危険を察知したのではないか?」
「まさか……いや、あり得るかもしれない」
リィンもうなずく。何かとトラブルに巻き込まれることの多かったマキアス。かつて彼の眼鏡は週一ペースで割れていた。ひどい時には、新しく眼鏡を買い替えた次の日に割れたこともある。
砕け散った眼鏡たちの無念が新たな眼鏡に引き継がれ、レンズ防衛の為に危機察知能力を開花させていたとしたら、あるいは。
「まったく、君たちは大げさだな。クレア大尉に失礼だろう」
マキアスは落ち着き払っていた。
「さあ頂こうじゃないか。こんな機会は滅多にないぞ」
スプーンを持ち直す。まったく手を付けないなど確かにできない。やむなく納得したリィンたちも彼に続いた。
卵とライスをすくい、そこにケチャップを少量つけて食べてみる。
「ぬがふっ!」
米とは思えないパサつき。というかこれは米ではない。さらにはその味。形容できない風味に、もはやオムライスの要素など一つもない。
むしろそれでもオムライスの形を保っていることが恐ろしかった。
激しくむせ込みながら、リィンはクレアに言う。
「お、俺の知ってるオムライスと違うんですが」
「その……米の代わりにサモーナの身をほぐして焼いてフレーク状にしたんです。大きさや形は米みたいになりそうだったので」
「そこは普通に米を使えばいいのでは!?」
「使ったらダメだったので……すみません」
やっぱり、と言わんばかりにクレアは目を伏せた。
焼きサモーナのフレークと言われたら、まあ分からなくはない。焼きが十分ではなかったのか、微妙に生臭さも残っているくらいだ。
しかしこの未知の味はそれだけでは到底生み出せない。
鼻腔を抜けて脳髄を貫くような刺激臭。その狭間に見え隠れする不快な甘味。おまけに卵を綺麗に被せてあるものだから、中の臭いが外に漏れ出さず、口にするその瞬間まで異物と認識できなかった。
命名するなら《遅効性トラップオムライス》か。
制作経緯についてクレアは言いづらそうに説明を始めた。
「ただのサモーナフレークでは味気ないと思ったので塩コショウを振りましたが、誤って粉末のからしを投入してしまいました」
「か、からし?」
そこで尋常ならざる辛みが生まれた。
「料理酒を加えれば多少マシになるかと考えました。さっそくフライパンに注いでみたところ、それは酢でした」
「な、なぜ?」
「調味料の容器が同じものに変えられていて、勘に頼らざるを得なかったのです。中身が液体のようだったのでこれだと思ったのですけど……」
ここで刺激臭が追加されたわけだ。
「せめてオムライスらしくケチャップで卵に彩りを付けようと試みました。模様を描き終えてから気付いたのですが、チューブボトルから出てきていたのはイチゴジャムでした」
異様な甘さはこれだ。
辛味、酸味、甘味。絶望的なデルタ融合の果てに生み出された物質。それがこのオムライスの形をしたモノの正体である。
全員の手が止まる。これはきつい。
「どうか無理をなさらずに、そのまま残しておいて――」
「いやあ、うまい。これは最高だ」
マキアスだけがガツガツとオムライス(らしきモノ)を頬張っていた。
「マ、マキアスさん?」
「僕の好みの味です。さすがはクレア大尉。どうしたんだ、君たち。いらないなら僕が食べるぞ」
他の三人の皿も引き寄せて、彼は一心不乱に食べ続けた。それもものすごい勢いで。
「ふう、ごちそうさまでした」
絶句する仲間には目もくれず、一気に計四人分を平らげてみせる。心配そうにクレアが訊いた。
「だ、大丈夫ですか? もしかして私に気を遣われたのでは……」
「とんでもない。おいしかったですよ。……また作ってくれますか?」
「ええ、もちろん。そんなに喜んでもらえるなら作り甲斐もありますから」
嬉しそうに微笑んで、クレアは空になった皿の片付けを始める。
彼女が厨房に戻ってからマキアスは静かに口を開いた。
「みんな、クレア大尉はもういないか?」
「ああ、もういない。見ればわかるだ――」
言いかけてユーシスは察する。
「お前、まさか目が……」
「そうか、よかった」
ふっと笑みをこぼした直後、彼の眼鏡は爆散した。
● ● ●
己の信念に殉じたマキアスが壮絶な最後を迎えた頃、事の元凶たるトヴァルは自室で頭をひねっていた。
例によって雪合戦のあれこれである。
「よし、チーム分けはやっぱり自由にしよう。そんで競技エリアは山道側の一部まではオーケーっと」
着々と細部を詰めていく。テオの許可も取ったし、ユミルの人たちと仲間たちへの周知も十分だ。
「んー。やっぱ優勝チームには何か特典がないとなあ。この辺りをどうするかね……」
くるくるとペンを回しながら、色々と思案する。
ふと時計を見てみれば十八時前。もう“試食会”も始まっている時分だろう。
果たしてサラは勝てるのか。少々気がかりではあるが、しかしお膳立てはそろえてやったのだ。あとは彼女次第。
「ん?」
お膳立て。変則調理ルール。
「待てよ……待て待て」
お題はランダム。食材もランダム。全員の実力を均等にして、運の要素が絡むようにそう設定した。
……これだと料理と材料に食い違いが発生するのではないか?
たとえば『食材だけをランダムにあてがって、自由にオリジナル料理を作る』にした方がスマートだったのではないか?
ようやくトヴァルは思い至った。
「……な、なんで俺こんなことに気付かなかったんだ」
早く雪合戦の準備に取りかかりたかったからだ。気が急いていて、調理ルールの整合性までを考えなかった。
しかも何を思ったのか、調味料までランダムにしてしまっている。これだと運の要素しか残らない。
適当な調理シチュエーションをでっちあげた挙句、サラたちにはルール厳守と強く言ってしまっている。そして誰も文句を言いに来ないところを見るに、そのルールで調理が進んでいるのだろう。
「お、おお……」
やべえな。
トヴァルは頭をぽりぽりとかく。
「後で様子を見に行ったほうがよさそうだ」
● ● ●
ソファーという名の遺体安置所に二体目の屍が並ぶ。
砕けたレンズは全て拾い集め、微動だにしないマキアスの胸ポケットに詰め込んであった。男を見せた彼に対する、ささやかながら追悼の意だ。
「マキアスが全部食べてくれたおかげで、俺たちは生きながらえたな」
「それが幸運とは思わんぞ、俺は」
「今日は風が導いてくれない……」
残るはリィン、ガイウス、ユーシスである。沈痛な面持ちで彼らは待機していた。もう逃げてもいいのではないか? そんな考えが脳裏によぎった時、
「ふっふーん、おっ待たせー!」
最後の刺客が姿を見せた。もう調理者などという認識ではなかった。
シャロンとクレアとは異なり、戸惑っているような様子はない。自信にあふれた歩みでサラがやってくる。
「どうだったかしら。前二品の出来栄えは?」
ふふんと勝ち誇ったように鼻を鳴らす。
「あの通りです」
「あらあら。口直しが必要みたいね」
リィンが後ろのソファーを一瞥するとサラは肩をすくめた。
「じゃあ次はあたしの――」
「というわけであの二人を教会に連れて行きます。リサ姉なら薬とか持ってるはずですし」
「緊急事態だからな。では失礼する」
「俺がエリオットを担ごう。マキアスはリィンとユーシスで頼めるか? 担架でもあればいいのだが」
「待ちなさい、あんたたち」
そそくさと立ち去ろうとした三人を、サラは強引に席へ戻した。
「行くのはいいけど、あたしの一品を味わってからよ。ドリンクだから時間は取らせないわ」
「だ、ダメです。早く二人を助けないと」
「一口も飲まずに行くつもりなら、ただじゃ済まないわよ」
「飲んだら飲んだでただじゃ済まない気がする……!」
抗うリィンを黙らすように、ドンと卓上にビールジョッキが置かれた。
「中身はお酒じゃないから安心なさい。成長期の体に嬉しい栄養満点の野菜ジュースよ」
「や、野菜ジュース?」
「そ。自然の恵みたっぷりのね」
ジョッキを凝視する一同の中、ユーシスが言った。
「なんだ、この色は」
濁った緑なら理解できる。それは元来の野菜の色。しかしこの液体は青色。身震いするほどに鮮やかな青だった。
基本的に人間は青いモノを食さない。純然たる青自体が自然界に微量しかないという理由もあるが、何よりそれらは毒を有していることが多いからだ。本能が好まないのである。
どのように野菜を調合すれば、こんな危険な色が生成されるのか。
全員がごくりと喉を鳴らす。おいしそうだからではない。戦慄に生唾を飲み下しただけだ。
「ほら、男の子でしょ。多少の苦さは我慢しなさいよ?」
これを飲まねば外には出られない。サラが相手だから強行突破も無理だ。
彼らは覚悟を決めて、ジョッキに手をかける。
「はい、一気いーっき!」
腹の立つテンションだ。そうは思いつつも言葉に出せるわけがなく、おそるおそる青い液体を口に含む。
「ぐばっ、があああ!」
舐めた程度だというのに、今日一番、最大級の衝撃が襲う。
苦みに重なる苦みが絶え間なく押し寄せてきた。大陸中の苦味成分を凝縮させたら、こんな味になるのかもしれない。いや、もう味かどうかも分からない。舌の上に硫酸を流し込まれたような圧倒的な苦痛だけが、無限に無秩序に拡大されていく。
「た、助け……」
「青……い、花が……咲き乱れ、」
「は、は、ハイヤーッ!!」
三人は焼け爛れそうな喉をかきむしり、叫びにならない叫びを上げ続けた。
青い野菜ジュースを噴水のように吐き出し、順番に崩れ落ちていく教え子たち。
眼前の惨状に呆然としていたサラは、数秒遅れてようやく事態を呑み込んだ。
「ち、ちょっとあんたたち!? シャロン、クレア! こっちに来て!」
切羽詰った呼び声に、シャロンとクレアが厨房から顔を出す。
生気を失って横たわる男子五人を見て、彼女たちもまた理解した。
「私としたことが、料理でこのような失態を……」
「やはり無理をしてくれていたのですね、マキアスさん……」
「ど、どうしよう。どうしたら……」
珍しくサラは狼狽していた。
ここまでの状況になるとは考えてもいなかった。エリオットやマキアスも少し休んでいるだけだと思っていたのだ。どうやらリィンたちの焦りは本気だったらしい。
余計な小細工をしたからこんなことになったのか。自分の実力を見せてやろうと意気込んだだけなのに。
大切な教え子たちが、水揚げされた魚のようにビッチビッチと床の上を小刻みに跳ね回っている。
複数の状態異常にかかっているのは間違いない。それもかなり重度だ。的確に解毒しないといけないが、その診断は自分にはできない。
「ふ、二人とも」
サラは頭を下げた。
元はといえば私のせいだ。トヴァルの言う通り、始まりは大人気ない嫉妬だったのだろう。
自分の中にある二人への確執? そんなものはどうでもいい。彼らを助けることが最優先だ。
「お願いよ。力を貸して」
「もちろんですわ」
「ええ、こうなってしまった原因は私にもあります」
「え……」
あまりにもすんなり応じたシャロンたちに、サラは少なからず戸惑った。
クレアが手早く全員の容態を看る。一通りの確認が済むと、走り書きしたメモをシャロンに渡した。
「これが各人の状態異常のリストです。なんとかなりますか?」
「これなら大丈夫ですわ。ですが私だけでは手が足りません」
「何でも言って。私も手伝うから」
三人は急いで厨房に戻った。
基本的な調理スキルはサラにもクレアにもある。シャロンの指示に従って、解毒料理の作成が突貫作業で行われた。
各々の役割を完璧にこなす連携には一切の無駄がなく、あっという間に五人分を完成させる。
それを持って食堂に戻り、半分以上意識の無いリィンたちに食べさせた。生存本能がそうさせるのか、そんな状態でも料理を健気に咀嚼し、弱々しく嚥下する。
ともあれ献身的なお姉さんたちの介抱のおかげで、彼らは命を繋ぎ止めたのだった。
「う、うう」
徐々に男子の意識が戻ってくる。
「みんな、ごめんね」
「申し訳ありません」
「すみませんでした」
サラもシャロンもクレアもそろって謝る。全力で治療してくれた彼女たちを責めようとする者はいなかった。
「いえ、何か事情があったようですし」と逆にフォローするリィン。
「全員無事なのだ。これ以上望むこともない」と相変わらず寛大なガイウス。
「あいつの料理が懐かしいな……」と誰かを思い出しているらしいユーシス。
「自分はおいしかったです!」と懲りもせずに言い張るマキアス。
「弦が、弦が首を絞めるよお」とまだ回復しきっていないエリオット。
彼らにしてみれば命があっただけでも十分なのだろう。
リィンがサラに質問する。
「厨房では何が起こっていたんですか? シャロンさんやクレア大尉まで妙な料理を出してくるなんて」
「その言い方だと、あたしが変な料理を出すことは想像してたみたいに聞こえるんだけど」
「い、いえ。そんなことは」
「まあいいわ。もう洗いざらい白状するわよ。実は――」
「医食同源って言葉がある」
唐突に第三者の声が割って入った。
食堂の戸口に、渋い雰囲気を醸し出すトヴァルが寄りかかっていた
「体を壊すのも食事なら、治すのもまた食事ってことさ。今回のことで身をもって知ったんじゃないか?」
皆が無言で彼を見つめる。惨劇の仕組みを用意した彼を。
「サラ、シャロンさん、クレア大尉。俺の目にはずいぶんとあんた達の距離が近付いたように見えるぜ。男子もだ。一緒に死線を越えることで仲間の結束ってやつは強まっていくもんだ」
『………』
「これぞ雨降って地固まるってな。とまあ――」
非難の視線を受け流し、トヴァルはニヒルなウインクを決めてみせた。
「こんな感じでどうだい?」
寒々しい沈黙の中、全員が思った。
なんだ、この人は。
――END――
――Side Stories――
《ロードオブハッカー②》
検問を迂回して道に迷ったりもした。飢えに耐えかねるあまり、木の根をかじったりもした。疲れ果てて寝ようとした矢先、魔獣の群れに襲われたりもした。
心身はずたぼろ。拾った枝を杖代わりにして、どれだけ歩いたことか。
学院を出て、苦節一ヶ月。日の落ちかけた夕暮れに、ステファンはようやくルーレに辿りついたのだった。
「おお……夢にまで見た黒銀の鋼都」
今、彼がいるのは市外の工業地区。居住区画と異なり、無骨なフェンスに囲われた工場が立ち並んでいる。
所狭しと灰色の建物が密集する様は、殺風景ではないが無節操というべきか。重機が頻繁に往復するのだろう、路面はすり減り、ひび割れがあちこちに見えた。
機械を製造するけたたましい音が、絶えることなく茜色の空に響き渡る。
しかしその光景でさえ、ステファンとっては桃源郷に等しかった。
「ルーレ工科大学は……中央区か」
ここに来た目的は忘れていない。導力ネットワークの運用を詳しく学ぶ為だ。
情報を制するものが戦いを制す。
エレボニアはクロスベルなどに比べて、ネットワーク技術の導入が遅かった。
つまりは帝国において、これから発展していく分野。その先駆けに立つことは他より優位な武器を持つに同義である。
時代を先取りする男。それが僕、ステファンだ。
「待っていろ……!」
目的はもう一つある。同じクラスのクララを見返してやりたいのだ。
かつてステファンは屋外での近接戦訓練の折、対戦相手のクララに瞬殺された挙句、公衆の面前で衣服をはぎ取られた過去を持つ。
いつか必ずぎゃふんと言わせてみせる、ぎゃふんとな。
中央区に到着。
自動昇降階段に乗り、上階層へ。言わずと知れたラインフォルト本社ビルを右手に見ながら、いくつかの店の前を通りすぎる。
やがて目当ての建物が視界に入ってきた。
白で統一された外壁。門の奥に見えるのは、分野毎に分かれた研究棟の数々。ここが噂に名高いルーレ工科大学。
ステファンは力強い一歩を踏み出した。
「たのもう!」
「お引き取り下さい」
受付のお姉さんは丁寧な口調でそう告げた。
工科大の学生以外は講義に出られない。設備の使用も許可されない。
当然のことだが、あろうことかステファンはその想定をまったくしていなかった。すぐに研究室的な施設に招き入れてもらえると、なぜか断じて疑わなかったのだ。
「いや、そこを何とか。はるばるトリスタから出向いてきたわけで」
「次年度の入学試験は二月の予定です」
「お願いします。僕は導力学の発展に貢献したいと思っています。この熱意は誰にも負けません」
「願書の申請はこちらの用紙にご記入下さい」
食い下がるステファンをお姉さんは完全にシャットアウトする。徹底した事務的な態度が、彼の心をへし折っていった。
取り付く島もない。ステファンはあきらめて外に出ることにした。
僕は何の為にここまで来たのか。
足取りが重い。急に疲れを感じる。ああ、空腹だ。昨日の木の根を温存しておくんだった。
「はは。お金もないから宿も取れないよ」
クララも学院を出たんだろうか。いや、それはない。どうせ情勢などとは関係なく、美術室で寡黙に彫刻を彫っているに違いない。
あのインドア派には分かるまい。世界の広さも、残酷さも。知らない土地で一人生きることが、どれだけ苦しいことかを。
次に会ったら僕の冒険譚を聞かせてやろう。きっと腰を抜かして、ぎゃふんコース一直線だ。
「次に会ったら……か」
それ自体が無理な気がしてきた。
学生達の声が聞こえてきて、ステファンはふと顔を上げた。正門脇に人だかりがあった。
「さあ、次の挑戦者はいないか?」
「遠慮せずに名乗り出てくれよ」
その中心で声を張る男性が二人。何かの催しだろうか。後ろの方にいた見物人の一人に詳しい事を訊いてみる。
「すみません。あれは何をやってるんですか?」
「ああ、あの二人はシュミット博士のゼミ生でさ。面白いプログラムを組んだからってお披露目してるんだよ」
「シュミット博士って、あのG・シュミットですか!?」
かのアルバート・ラッセルと同様、C・エプスタイン博士の弟子の一人である。
今から46年前、ラインフォルト社――当時はラインフォルト工房だったか――と共同で、鉄道の前進となる導力駆動車を開発した人物だ。
彼は現在、このルーレ工科大学の学長を務めているという。
「で、面白いプログラムというのは?」
「それがね――って君なんだ? 体中ボロボロじゃないか!」
「僕のことはいいですから教えて下さい」
「あ、ああ。人工知能プログラムだよ。AIっていうやつ。簡単なものらしいけどね」
「人工知能……? 機械が人の考えを模しているんですか?」
「ははは、まさか。そんな大層なもの作れるわけないだろ。シミュレーション上の状況に応じて、適正な判断を下せるかのテスト段階さ」
やはり工科大学はすごい。自分にはその技術が何に応用できるのかを想像することさえ難しい。
「参加者を募っているみたいですが、どんなテストなんです?」
「AIとのチェス対決。もし勝てたらどんな要望でも聞くってさ。といっても、もうAIの十連勝中だけど――おい、君!?」
聞くが早いかステファンは人混みをかき分けて、その中央へとまろび出る。
「僕が挑戦者だ!」
二人の司会者はきょとんとして、不憫な格好の彼を見やる。
「えーと、君。うちの学院生?」
「違いますが、参加しちゃいけませんか」
「別にいいけど、チェスのルールは知ってるのかな?」
周りから失笑が起きる。
「一応、人並みには」
「うーん、人並みじゃ難しいと思うなあ。AIは強いよ。分かるかな、AI」
また失笑。露骨に笑う者もいた。
笑いたければ笑え。馬鹿にするならしろ。そういうのは慣れてる。
「そのAIに勝ったら、何でもお願いを聞いてくれるんですよね」
「ああ。それは約束する」
「なら、僕が勝ったらシュミット博士に会わせて下さい」
笑いは起きなかった。代わりに向けられたのは正気を疑う目である。司会の二人は少し考える素振りを見せたが、
「いいよ。僕はグレゴ、彼はハーヴェス。シュミット博士のゼミに所属してる。面会の席くらいは作れると思う」
「ただし、もちろん勝てたらの話だからね」
「感謝します」
どうせ勝てないと思って、簡単に承諾したんだろう。
大きなモニターにチェス盤が映し出されている。モニターに繋がれたコードの先に見たことのない機器があった。多分あれがAIと呼ばれる大元か。
そして人工知能との勝負が始まった。
ステファンは白の駒。操作はボタン一つでできるから簡単だった。
序盤。セオリー通りに布陣してみる。AIは教本のような手堅い一手を繰り出してきた。確かに強い。
中盤。AIの癖が分かってきた。こいつはプログラムされた対応しかできない。戦術は読んでくるが、裏の裏まで考える心理戦はできないようだ。
激戦。白と黒の応酬。
いつしか周囲はその勝負に見入っていた。
「お、おいおい。まじかよ」
「何者だ、彼は」
もうこれしかない。地道に、愚直に、高めてきたチェスの実力。この一手をもって道を開いてみせる。これが僕のアイデンティティー。自分が自分である証。
「トールズ士官学院二年、第二チェス部部長のステファンだ! 僕は負けないっ!」
その数分後に勝負は終わった。
負けた。
劇的な展開があったわけではない。地味に追い詰められ、キングは逃げ場を失くし、普通に封殺された。
「いやあ、君強いね。驚いたよ」
「一時はAI相手に優勢に立ち回ってたもんね。おかげで貴重なデータを取れたよ。それじゃあ」
ハーヴェスとグレゴはモニターを台車に引き上げると、早々に立ち去ってしまった。
見物人たちも三々五々に解散していく。
すっかり陽が落ちて、もう辺りには誰もいない。冷たい風が疲労困憊の体を容赦なくなぶる。
「………」
こういう時は気合いで勝てるんじゃないのか。僕のアイデンティティーはどこにいった。
☆ ☆ ☆
後編もお付き合い頂き、ありがとうございます。
Ⅶ組女子ズと違って、ちゃんと惨状に気付いたお姉さんたちはアフターケアまでしてくれました。
シャロンとクレアに関しては、制作段階で「大丈夫かしら?」と首をひねりながらも結局料理を出しちゃうあたり、中々容赦がなかったりします。半分は天然なのでしょうが。
ラストはトヴァルさんがしめてくれました。こんな感じでどうだい?じゃないのだよ。
サイドストーリーはようやくこの男の出番です。
前過ぎて印象が薄いかもしれませんが、クララとの一件については①で触れていました。
ここから巻き返しのステファン!
まあ、負けましたけども。
次回は女子組。男子組は午後だったので、午前メインの話となります。
タイトルは『フィーネさんレボリューションズ』。ようやく休息日の半分まできた……
引き続きお楽しみ頂ければ幸いです。