今日も小雪がちらついている。窓から見えるユミルの町並は、相変わらず白に彩られて綺麗だ。
しかし見とれてばかりもいられない。アリサは手にした雑巾で窓枠のほこりを拭きとった。
「うん、ここは終わりね」
場所はシュバルツァー邸のリビング。時間は午前十一頃。
鳳翼館で朝食を済ましたその足で、彼女は屋敷を訪れていた。
「ルシアおば様、次は何をお手伝いしたらいいですか?」
洗濯物をたたむ手を止めて、ルシアはアリサに振り向いた。
「ありがとう。でもせっかくの休息日だもの。あなたも体を休めてちょうだい」
「私なら大丈夫です。どうかお手伝いをさせて下さい」
「まあ。ラインフォルト社のご令嬢だと伺っていたけれど、アリサさんは働き者なのね」
「い、いえ。そんな……」
だって、動いていないと余計なことを考えてしまいそうだから。
「だったら雑貨屋のお買い物をお願いしてもいいかしら。食材とお薬と……あら包帯も切らしていたんだったわ」
「わかりました。すぐに行ってきますね」
「待って。さすがに女の子一人では抱えられないと思う。リィンを呼んでくるから、二人でいってらっしゃい」
「えっ!?」
心臓が跳ね上がる。私一人で大丈夫ですと告げる前に、ルシアは二階に叫んでいた。
「リィン、降りてきて。お買い物を手伝ってもらえるかしら」
二階から返事はなかった。二回目の呼びかけを行おうとしたところで、「あ、そうだったわ」とルシアは諸手を打った。
「あの子、朝早くに出かけてたわ。鳳翼館に行くって言ってたけど、アリサさんは会ってない?」
「え、ええ。私は見ていないので、多分行き違いだと思います」
「困ったわ、どうしましょう」
アリサは内心でほっと息をつく。彼に関して、別に意識する必要もないのは分かっているのだが。
ちなみにユミルに戻ってすぐ、リィンは目を覚ましている。ノルドの時ほどの疲弊はなかったらしく、少し休んだ後は普段通りに動き回っている。
心配は心配なのだが、本人が大丈夫という以上は大丈夫なのだろう。いや、リィンの『大丈夫』ほど当てにならないものはないが。無理をしていなければいいけど。
「おば様、私一人で大丈夫です」
「でもねえ……」
「どうかしたか?」
上から声がした。見上げると、二階の手すりに体を預けて、テオ・シュバルツァーが一階に顔をのぞかせている。
「あなた、また部屋から出てきて!」
「いつまでも動かないでいると、体が鈍ってしまうのでな」
テオの容態は良好だ。傷もほとんど塞がり、あとは体力の回復を待つだけだという。ルシアやエリゼにしてみれば安静にしていて欲しいのだが、下手に動き回る分、余計に気が落ち着かないといったところだろう。
「聞いていれば荷物持ちが必要のようだ。どれ、私に任せてもらおう」
「何を言っているんですか!」
「そうです、男爵閣下!」
二人掛かりで責められて、テオは引き下がるしかなかった。
「むう。そこまで止められたら仕方がない」
納得しかねる様子で一階を見下ろしたまま、テオはしみじみと言った。
「しかしリィンも隅に置けないな。シュバルツァー家もこれで安泰――」
「あなた、そういうことを口に出して!」
「そ、そういうのじゃありませんから! 行ってきます!」
一瞬で赤面したアリサは踵を返し、玄関から飛び出した。
その背後で丸めた洗濯物がテオの顔面を直撃していたが、アリサには知る由もないことだった。
☆☆☆《ユミル休息日 ~狭間のきもち》☆☆☆
そういうのじゃない。というのは本当だ。
ただ単に動きたかったのと、何かとお世話になっている身として、手伝いの一つはこなさねばという気持ちがあったのだ。
そういうのとはどういうのだと問われたら、返答にはちょっと困ってしまうけど。
雑貨店《千鳥》はシュバルツァー邸を出て、すぐ右隣にある。短い距離とはいえ、確かに購入物を全て抱えて屋敷まで運ぶのは骨が折れそうだ。
勢い込んで出てしまったものの、どうしようか。
「誰か手の空いてそうな人でもいないかしら?」
見渡してみると、足湯場の近くにトヴァルがいた。しかしアリサは声をかけるのをためらう。
以前の休息日のこと。彼はキキにもらった“幸せの雪うさぎ”を尻で座り潰した挙句に、その残骸を足湯の中にはたき落としたのだ。
あの清々しい笑顔は忘れられない。悪気がないのは分かっているが、おかげでキキに顔を合わせ辛くなってしまった。
うん。また何かやらかしそうだし、トヴァルさんはやめておこう。
そういえばあの時はシャロンのことで悩んでいたのだったか。
「休息日になる度に悩んでいるわね、私」
トヴァルから視線を移した時、不意にその人物が視界に入る。
ラウラだ。鳳翼館の近くを歩いている。誰かと一緒に。誰だろう。もしかして。
目を凝らして見ると、連れ立っているのはマキアスだった。
「……あ」
珍しい組み合わせだと思ったのも一瞬、どこか安堵している自分に気付く。
続けて去来したのは小さな自己嫌悪。ざわつく胸の内。私はこんなにも余裕のない人間だっただろうか。
一人居心地が悪くなって、アリサは早足で《千鳥》に向かった。
陳列された商品の間を、アリサは買い物カゴを片手に見て回る。
「お肉に野菜、あと調味料。えーと薬は反対側の棚ね」
この時点でだいぶ重い。白い細腕にカゴの持ち手が食い込んで、赤い跡を残していた。
コショウの入った袋を手に取る。これも頼まれていたものだ。それをぼーっと眺めながら、物思いにふける。
ルナリア自然公園の奥での出来事。
ラウラがリィンをひざ枕していた。あの光景が目に焼き付いて離れない。今は寝ても覚めてもそのことばかり考えてしまう。
その現場にて、ラウラは特に慌てた様子もなくアリサに説明した。
地べたに寝ているのがどうかと思ったから、リィンの下に自分の服を敷いた。呼吸がしづらそうだったが枕代わりになるものが見当たらなかったので、自分の膝を使った。
言い訳がましくもなく、落ち着いた口調だったから、ラウラにしてみれば普通のことだったのかもしれない。
その後も彼女は何ら変わりなくアリサに接している。アリサもラウラに対する態度は今まで通りだ。
会話もするし、談笑もする。
どことなく気を遣われているような感じがしないでもないけど、それこそ自分がそう思っているだけの事に違いない。
「………」
何も変わっていない。ただ自分の心がもやもやしているだけ。
だけど気になってしまう。本当にそれだけだったのか。ラウラがリィンをどう思っているのか。その逆も。
仮にそれを知ったとして、私はどうしたいの? どうしてこんなに気持ちになるの? 心に何度も問いかける。だけど明確な答えは出せない。まるで自分自身が答えを出すことを拒否しているみたいに――
「あら、お嬢様」
「きゃあ!」
シャロンが真横に立っていた。不意打ちにも程がある。どうしていちいち気配を消して近付くのよ。いや、私は元々気配なんて読めないけれど。
強張る手の平から、コショウ袋が落ちた。焦って掴もうとするも、腕が痺れていてまともに動かない。考え込んでいたせいか、腕の痺れなんてまったく気が付かなかった。
ならば困った時のシャロンだ。
「お願い、キャッチして!」
「あらあら、お嬢様」
落ち着き払った彼女の両手には、それぞれ買い物カゴが握られていた。
「え」
「ちょっと無理そうですわ」
困った時に頼れるシャロンが困っていた。
床にぶちまかれた大量のコショウが、空調に乗って店内に舞い広がる。
店主のライオが刺激物の粉末にまみれて転げまわる一方、レジカウンターのカミラはどこかで仕入れてきたらしい防塵マスクを速やかに顔面に装着していた。
もちろんそんなものなど持ち合わせていないシャロンとアリサである。爆心地に立ち尽くした二人は、存分にコショウの洗礼を浴びるのだった。
「くしゅっ! あ~、まだ鼻がムズムズするわ」
何度目になるか分からないくしゃみをしながら、アリサはコショウのまとわりついた体を洗う。
苦心して《千鳥》の床掃除を済ませた後は、鳳翼館の温泉までシャロンと足を運んでいた。まだ昼過ぎなので、貸し切り状態である。
「お嬢様、お背中を流しますわ」
「子供じゃないんだから別にいいわよ。というかシャロンはもう洗ったの?」
シャロンは浴室用の座椅子をアリサの後ろに置きながら、「
「え、いいってば」
「お嬢様の髪を洗うなんて、いつ以来でしょうね。感慨深いものですわ」
わたわたと腕を振るアリサに構わず、シャロンはブロンド髪に手を入れた。
しなやかな指が優しく動く。適度なマッサージも挟みながらの洗髪。
「かゆいところはございませんか?」
「……ん」
気持ちいい。いい匂い。それに懐かしい。まぶたがとろりと落ちてくる。
「それにしても、お嬢様も成長なさいましたね」
「色々あったもの。この一か月は特にね」
「いえ、そういうことではなく」
「え?」
するりとシャロンの手が伸びてくる。髪からうなじをなぞり、鎖骨をすべり落ち――
「や、ちょっと!?」
「うふふ。私とお嬢様の仲ですもの。今さら恥ずかしがることもありませんわ。先日は姉のように思っていると仰って下さったじゃありませんか」
「それとこれとは話が別よ! お、怒るわよ?」
「どうぞ」
問答無用の手練手管が迫る。アリサの抗弁など意に介した様子もなく、むしろその反応を愉しんでいるかのようだった。
浴室に艶やかな悲鳴が響く。
数分後。解放されたアリサはぐったりと湯船に体を沈めていた。
「も、もてあそばれた……」
「スキンシップというものですわ。さて――」
同じくとなりで湯に浸かるシャロンは、おもむろに言った。
「お悩みのようですね」
「……分かるの?」
今さら意外にも思わない。もしかしたらさっきの戯れは私を元気づけようとして――いや、それはないわ。
「お嬢様のことですから。どうされたのです?」
「当ててみてよ」
顔を伏せて、ちょっと意地悪を言う。
「そうですね。ラウラ様がリィン様を膝まくらしていた件でしょうか」
「ぶっ」
思わず顔面が着水する。当て推量の次元を越えている。超能力者の域だ。
「な、ななな、なんで!?」
「あの時、私は近くの木の上におりましたので。丸見えでした」
「どうしてそんなところにいるのよ! 魔獣がいないか辺りを見回ってたはずでしょ!?」
「それがサラ様に追い回されてまして。逃げ惑った結果、あの場所に辿りつきました。下手な魔獣よりよほど凶暴でしたわ」
バイクを奪ったりしただけでなく、囮にも使ったらしいし、サラ教官の怒りはもっともな物だっただろう。
そんなことより、まさかあの場面を目撃されていたとは。
どうしよう。何から話せばいいか分からない。
固まらない言葉を口中に留めていると、先にシャロンが言った。
「今のままでいられなくなってしまうかもしれないのが不安なのですね。どちらもお嬢様の大切な人ですもの」
「なんのこと?」
「失礼を。少々先走りました」
少し考えてから、シャロンはもう一度口を開く。
「お聞きしたいのですが、ラウラ様はお嬢様にとってどういう方ですか」
「……Ⅶ組の仲間よ。大切な友人だと思っているわ」
「ラウラ様もきっと同じことを思っているのでしょうね」
「それは、そう……ね」
だからこそ、どうしたらいいのか。この揺れる気持ちの原因はどこにあるのか。アリサは口元を水面にうずめ、ぶくぶくと泡を吹く。
「あとはお嬢様次第。ゆっくりと時間をかけるべきことかとは思いますが――そうですね。そろそろ向き合う頃なのかもしれません」
「抽象的すぎるわ。もっとはっきり言ってちょうだい」
「私からお伝えすることではありませんわ」
「もう、そんなのばっかり」
アリサは立ち上がる。そろそろ屋敷に戻らないといけない。
鳳翼館に来る前に、《千鳥》で購入した品はシャロンと一緒に運んでルシアに手渡している。彼女はアリサたちの有様に相当驚いていた。
あまり玄関先にコショウを落としたくなかったから、簡単な事情だけ説明し、体を洗ったらすぐに戻るとだけ告げていたのだ。
「お嬢様」
戸口に向かうアリサに、湯船の中から声が掛けられる。
「今回のことは多分きっかけで、遅かれ早かれ直面することだったでしょう。ですが、私は案外楽観しているのですよ」
「楽観?」
「そうです」
人の気も知らないで。さすがに怒ろうかと本気で思ったが、先にシャロンが続けた。
「だってそうでしょう。このくらいで崩れてしまうような関係なら、それは友人とは呼べませんもの」
「崩れるだなんて大げさな……私はちょっと理由が気になってるだけよ。じゃあ、先上がってるから」
しかし心に突き立つ言葉だった。無条件にその通りだと感じた。振り返ると白い湯気が濃くなって、シャロンの姿は薄い影になっている。
心配してくれてありがとう、ぐらいは言うべきだろうか。そんなことを束の間考えていたら、白濁の視界の向こうから涼しげな声が届いた。
「心配してくれてありがとう、なんて思ってます?」
「思ってないわよ!」
いちいち的中させてくるシャロンに背を向けて、アリサは脱衣室の扉を開けた。
シュバルツァー邸に戻ったのは、それから三十分ほど経ってからだった。
どこかに寄り道していたわけではない。髪を乾かし、身だしなみを整えていただけである。
外は寒い。短い距離でも湯冷めしたら風邪を引いてしまうし、それに乱れた衣服で訪ねるのはどうしても気が引ける。
風邪といえば、体調不良のエリオットはしっかり回復したらしい。鳳翼館に行ったついでに顔を見たが元気そうだった。メイプルとかいう鳳翼館勤めの使用人に、えらく絡まれてはいたが。
「お帰りなさい。大変だったみたいね」
出迎えてくれたルシアは気の毒そうにアリサの手を取った。自分が頼み事をしたせいだと思っているのかもしれない。
「私の不注意で時間を取ってしまいました。すみません」
「そんなの気にしなくていいのよ。さあ、もう休憩。お昼ご飯はうちで食べていって」
「あ、いえ。そこまでご厄介になるつもりは」
「朝からお手伝いをしてくれたお礼よ。エリゼも外に出ているし、一人の食事は寂しいもの」
そこまで言われて、断る無粋はできなかった。
リビングに通され、ソファーに座るように勧められる。まだ昼食準備には時間が掛かるから、ゆっくりするようにと気遣ってくれた。
キッチンから聞こえてくる包丁の音。煮込んだ鍋の良い匂い。ルシアの上機嫌な鼻歌。
改めて思う。この人がリィンのお母様。義理の母であっても、その愛情は本物だ。男爵閣下もそうだろう。もちろん、エリゼちゃんも。
彼は温かい家庭で育ったのだ。
(私の母様とは違う。当たり前だけど)
シャロンがいてくれたから、自分とて孤独に苛まれたりはしなかった。手作り料理の味も知っている。ただ、母親の手料理を最後に食べたのはいつだったか――。
「……覚えてないわ」
「何か言った?」
つぶやいた言葉が耳に届いてしまったらしく、ルシアがキッチンから顔を出した。アリサは慌てて態度を取り繕う。
「い、いえ。何でもありません。それよりもおば様、私も何かお手伝いを……」
「いいのよ。もう十分助けてもらったから。あとは休んでいて」
「ですけど……」
やはり座っているだけというのも所在ない。皿の準備でもテーブル拭きでもさせて欲しい。
そんな心情を察してくれたのか、ルシアは困ったように笑って、
「だったら、一つお願いしてもいいかしら」
「はい、何でもどうぞ」
「まだ掃除できていない場所があるの。よかったら昼食ができるまで、その場所のお片付けをして欲しいのだけど」
願ってもない話だ。一も二もなくアリサは快諾した。
「それで、どこを片付けたらいいですか?」
「リィンの部屋よ」
「え」
にわかに固まるアリサを見て、ルシアはにっこりと微笑んだ。
「いやいや! おば様、それはちょっとさすがに!」
もちろん首を横に振る。
「同年代の女子が勝手に入るのもどうかと思いますし、リィンもきっといい気はしないでしょうし!」
「大丈夫よ。見られて困るものもないし、私がいいと言ったんだもの。勝手ではないでしょう?」
見られて困るかどうかはリィンが決めることのような。なんとなくシュバルツァー家のパワーバランスが見えてきた。
自分から何でもどうぞと言った手前もある。半ば押し切られる形で、アリサは二階に歩を向けることになった。
まさかリィンの部屋掃除をすることになるとは。
聞けばトリスタでの寮住まいの間も、彼やエリゼの部屋掃除は欠かさずに行っていたそうだ。子供たちが家を離れても、母親の気持ちはいつまでも持っていたいとはルシアの談だが、アリサには今一つ実感が湧かなかった。
「お、お邪魔するわよ?」
誰もいない部屋と知りつつ、あえてノックをする。幾分か良心の呵責を和らげた心地になりながら、アリサはリィンの部屋の扉を開いた。
入るのは初めてではない。ノルドで倒れたリィンの容態を見に、先日も訪室している。
整然とした室内は相変わらずだ。目立つ汚れも見当たらなく、正直どこを掃除していいのか迷うほどである。
どうしてわざわざこの部屋を指定したのだろう。反応を期待していたような節もあるし、あの優しいルシアおば様のこと、まさか困らせたいわけでもないとは思うけど。
「机は……」
整頓されている。文具は引き出しに収まり、ノート類もブックエンドを使って並べられていた。そこに昔の日記らしきものがあった。ものすごく中身を読んでみたかったが、鋼鉄の意志で自制する。
「ベッドは……」
起きた後にしっかりと掛け毛布をたたんでいる。シーツも伸ばしてしわがない。
ふとベッドに転がってみたい衝動に駆られたが、それも無理やりに視線をそむける。
この足元が定まらない感覚。関節がぎくしゃくする。というか、やることがないじゃないの。
「次は……本棚。あ、ちょっと埃が溜まってるわね」
少しほっとして、さっそく拭き掃除を始める。
五分経たずに終わった。
もうない。本当にない。ルシアからのお呼びはまだ掛かっていないが、一度一階に戻ろうか。
そう思って本棚から離れかけた時、ふと目に留まるものがあった。厚い背表紙の冊子。何気なしに手に取ってみる。日記などではないようだし、まあ大丈夫だろう。
表紙をめくる。シュバルツァー家の集合写真だった。
「ああ……アルバムね」
幼い頃のリィン。雰囲気は今とさほど変わっていない。その彼に寄り添うエリゼ。仲睦まじい兄妹の後ろに立つルシアとテオは柔らかい笑みを湛えている。
理屈抜きに羨ましいと思った。
ラインフォルト社の令嬢。生まれたその瞬間に手にした肩書きと立場。
特異な境遇だったとは思うが、物心つく頃にはそれが当然という感覚になっていた。幸か不幸かを考えたことはあまりない。
ただ父親が亡くなって、母親が家を――つまりは私を――顧みなくなって、羨むわけではないけれど、初めて普通の家庭というものを意識した。
もし当たり前の一般家庭だったなら、こんな家族になっていたのだろうか。
「………」
一枚めくる。最初はエリゼの成長を追ったページが続き、途中からリィンが現れる。七、八才くらいだ。拾われて間もない頃。表情には遠慮や不安が映っていた。
成長するにつれてリィンの笑顔が増えていく。彼を受け入れたユミルの人たちのおかげでもあるに違いない。
枚数はかなりの量だった。写真の現像はカメラを専用店に持っていく必要がある。ユミルにはないから、おそらくはテオが足しげく郷外の町に通っていたのだろう。
「あ、エリゼちゃん泣いてる。リィンが慌ててるから、うっかり泣かしちゃったのかしら。でもこれを撮ってるお父様もお父様よね」
二枚、三枚とページが進む中、ふと手を止める。写真に映る風景をどこか懐かしく感じたのだ。
いや、気のせいではない。記憶の中に確かにある。
子供の頃にも、私はユミルにきたことがある。父がまだ生きていた頃、シャロンが家に来る前。ちょうどこの写真ぐらいの時期――九年前だ。
「そうだったわ。ずいぶん昔のことだし忘れてたわね。リィンともどこかですれ違っていたりして」
写真の中、小さなリィンに目を落とす。
そのあどけない顔を何気なく見て、不意に心の奥底が揺れた。
「え――」
唐突にフラッシュバックする光景。
誰もいない雪山で、すすり泣いている自分が見えた。
一人で郷の外に出て、迷ってしまったのだ。寒くて、怖くて、膝に顔をうずめている。どのくらいの時間そうしていただろう。
(大丈夫? どうしたの)
声をかけられる。黒髪の少年だった。見つけてもらえたという安堵はなく、泣きはらした目のまま言う。
(迷っちゃったの。父様も母様もいなくて……帰る道もわからなくて……っ)
(だったら郷に一緒に行こう。僕が君の家族を見つけてあげる)
(いい。知らない人について行っちゃダメって言われてるから)
この後に及んで私は何を言っているのか。少年は少し悩んでから、手の平で雪を集めて何かを作った。
(はい、これ。あげるよ)
(雪でできたうさぎちゃん?)
(“幸せの雪うさぎ”。元気のでるお守り。笑って欲しい人に渡すんだって)
(私にくれるの? どうして?)
(だって泣いてるから)
あまりにも単純な理由。彼は私の手を引いて、立ち上がらせる。私も単純だった。もう安心していて、知らない人という頭もない。
(ついて来て。郷はすぐだから)
(うん、ありがとう。あなたの名前はなんていうの?)
(僕は――)
思い出の中の少年――その黒髪とまっすぐな瞳が、自分のよく知る人物と重なって映る。
そう、私は知っていた。
「そっか……」
誰にでも手を差し伸べるお人好しは昔からだ。雪うさぎに見覚えがある理由にも合点がいった。
記憶をたどり、彼のことを想い、自分を見つめる。出会ってから、今までの全てを。
わかってしまった。気付いてしまった。
今の心が落ち着かない原因も、ラウラのことが気にかかってしまう理由も。
それはたった一つだったのだ。たった一つの、感情。
「……私、リィンのことを……うん」
驚きはさほどなかった。こういうものかと自覚するだけだった。
それでも。
その気持ちを形にして、言葉に固めるのは勇気のいることだった。
散って隠れていた想いの欠片を一つ一つより合わせて、長い長い時間をかけて、ようやくアリサはその言葉を紡ぎ出した。
「好き……だったんだわ」
――END――
――Side Stories――
《パトリックにおまかせ③》
「――というわけで花壇の日除けが壊れちゃったの」
のんびりとした口調で言うのは、園芸部部長のエーデルだった。
見れば確かに日除け屋根を支える支柱がポッキリと折れている。手作りなのだろう。要所が劣化していて、放っておいたら他の場所も壊れてしまいそうだった。
パトリックは鼻を鳴らした。
「今は冬でしょう。日差しも弱い。さして問題とも思えませんが」
「でも雪よけにもなるのよねえ。今育ててる中には霜に弱い品種もあるから」
パトリックは渋面を浮かべた。
ここ最近、こんな補修ばっかり任される。先日は泥まみれになって水道管を直したし、すきま風が入るからと窓の歪みを矯正したりもした。
頭を悩ませ、手探りでの修復作業。足りない材料を補うために、色々と工夫もした。
立て続けにそんなことをやるものだから、補修スキルだけは妙に身についてきたが、別に嬉しいことはない。雑用ばかりが増えていく。
むやみやたらに物を頼まれると思っていたら、どうやらフリーデル部長のせいらしい。『何か困ったことがあったらパトリックにお願いしなさい』と学院中に吹聴し回っているそうだ。
確かにやけになって“学院トラブルは僕に任せろ”などと宣言してしまったが、これは明らかにオーバーワークだろう。
しぶっていると、
「……直してはもらえないんですか?」
大きな帽子をうつむかせて、エーデルは花壇に歩み入る。
「フィーちゃんとヴィヴィちゃんが帰ってきた時の為に、ここは守っておきたいの」
慣れない手つきで、彼女は一人補修を始めた。支柱をテープでぐるぐる巻きにするだけの、お粗末な修理だった。
ああ、そうじゃない。先に根元を固定しないと。まったく手際が悪い。もう見ていられない。
「どいて下さい」
「え?」
エーデルを押し退けて、パトリックは壊れた個所を注意深く観察した。原因はすぐにわかった。単に自重に耐えきれず、土台に負荷がかかっていたのだろう。
器材庫から適当な金属の棒を持って来て、支柱に括りつけてやった。これだけでもだいぶマシのはずだが、少々心許ない。
どうせ修理するなら頑丈にしたい。長持ちすれば、自分が手を煩わす頻度も減るのだから。
屋根を支えるポイントをあと二つ増やそう。ただし花壇の手入れが邪魔にならないような配置でだ。ついでに接続部の補強もしておこう。ここは針金と防水テープでできそうだ。
そもそも誰だ。こんな脆い日除け屋根を作ったやつは。設計段階でもっと練り込まないから、後々不具合が発生するのだ。
園芸部の活動中に倒れてきたらどうするつもりだ。
ぶつくさとぼやきながら、全ての補修を終えたのは二時間後のことだった。
疲れた。疲れ切った。
中庭のベンチにどっかりと座り、パトリックはそこから見える花壇を眺めた。
日除け屋根の修理は完璧だ。木目だけのシンプルさが気に入らなかったから、塗装もゴージャスに仕上げたし、支柱には趣きのある紋様も彫ってやった。修理というよりは改造である。
パーフェクト以外の言葉がない。花など愛でるな。僕の作品を称えろ。
欲を言うなら製造年月日と製作者たる自分の名前をどこかに刻印したかったが、さすがに品性を欠く気がしたので止めておいた。
それに自分の名前を見た誰かが、新たな修理依頼をしてきても厄介だ。
「まあ、立派ねえ」
エーデルが戻ってきた。正直近くにいると足手まといだったので、補修は僕がやるから他の用事を済ませてきてくれと頼んでいたのだ。
最初の内は必要な修理道具を運んでもらっていたのだが、動きがゆっくりなくせに、やたらとつまずくし。そう何度も頭の上に釘をぶちまけられてたまるか。
のこぎりとハンマーを持って『あらあら~?』と突っ込んできた時は戦慄ものだった。人間は修理できないんだぞ。
「じゃあ僕はこれで」
「どうぞ」
立ち上がろうとしたパトリックに、エーデルはティーカップを差し出した。
「なんですか?」
「ささやかだけどお礼です。花壇で作ったハーブの紅茶。パトリック君、今日はありがとう」
「別に大したことはありません。……頂きます」
この労働の見返りが茶の一杯とは。思いながらカップを受け取り、一口飲んでみる。
ハーブの程よい香りが口の中に広がる。温度も丁度いい。優しい甘さが体に染み渡っていった。
「……うまい」
「ふふ、よかった」
つぶやいた言葉は本心だった。嬉しそうにエーデルが笑う。充実を感じる自分がいた。
「よかったらまた飲みに来てね。いろんな種類のハーブティーを用意してるから」
「ええ、気が向いた時にでも」
「パトリック君なら園芸部の名誉会員一号にしてあげてもいいわ」
「それは遠慮しておきます」
なんだそれは。部員と会員は違うのか。どうでもいいが。
カップをエーデルに返して、改めてベンチから立ち上がった時、
「パトリック~!」
トラブルの報告者がやってきた。フェリスだ。最近は彼女が死神に見えてくる。
「大変ですわ! 大変なのですわ!」
「今度はなんだ……」
一体何が壊れたんだ。水が止まらないのか、窓が割れたのか、手すりが外れたのか、扉の立て付けが悪いのか、それともフリーデル部長がまた何かやらかしたのか。
「ランベルト先輩が馬舎に引きこもってしまったんです」
「は?」
「マッハ号がずっと戻ってこないからって元気がなくて、とにかく早く来てください」
「待て待て! なぜ僕が行かなくちゃならない!?」
袖を引っ張るフェリスを振り払おうとするが、彼女は離さない。
「だってフリーデル先輩が『それもパトリックにお任せよ。花壇の辺りにいると思うから連れて行きなさい』って言うんですもの」
「か、勝手な事ばかり……!」
すました笑みが容易に想像できる。そもそもあの人は何で自分のいる場所を逐一把握しているのだ。
「やめろ、引っ張るな。僕は行かないし、やらない」
「四の五の言わずに走って下さいまし」
「カウンセリングなんてできるものか!」
「どちらかというとネゴシエイトですわ!」
ずるずるとグラウンドに連行されるパトリック。その後ろでは上機嫌のエーデルが、ひらひらと麦わら帽を振って見送っていた。
☆ ☆ ☆
お付き合い頂きありがとうございます。
まずはアリササイドでお送りしています。色々なきっかけを経て、自分自身で言葉にして、ようやく気持ちを自覚したところです。
想いをぼかしながらストーリーを進めるかは悩んだ所ですが、はっきりさせることにしました。
前作、虹の軌跡からと考えると長い道のりですね。もちろんまだ掘り下げなくてはいけない部分ではありますが。
そしてフルメンバーそろいました。人数多っ!
今回のユミル休息日は数日に分けて何人も描く上に、ショートショート詰め合わせも予定していますので、かなり話数が行きそうです。(原作でリィンを動かせる休息日は一日しかありませんが、実際は数日あります)
そして休息日のラストが件の雪合戦ですね。荒れそうです。
パトリックは中間管理職のやるせなさを実感中。身分は彼が上なのですが、まあ関係なしですな。物品補修からメンタルケアまで。ご用命の際はお気軽にどうぞ。
次回はラウラサイドとなりますので、お楽しみ頂ければ幸いです。