虹の軌跡Ⅱ Prism of 《ARCUS》   作:テッチー

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第28話 定まる想い、揺れる想い

「やれ、アルノー!」

「やめろ、アルノー!」

 ユーシスとヘルムートが同時に叫ぶ。

 ヘクトルのコックピットの中、アルノーは引き金に掛ける指を一瞬止めた。

 どちらの命令に従うべきなのか。

 リィン・シュバルツァー。彼を仕留めることは表面上はどうあれ、ユーシスは望んでいないだろう。かつての仲間を大事に思っているからこそ、今の状況に悩んでいる。そのこともアルノーには察しがついていた。

 ならば照準を外すか? それは違う。あくまでも自分が仕えているのは、ヘルムート・アルバレアその人。少なくとも今は。

 優先すべきは『やれ』という言葉。

「ユーシス様はお恨みになるでしょうが――」 

 わずかに逡巡する。しかし躊躇はしなかった。

 私情は捨て去って、アルノーは冷徹にトリガーを引いた。

 轟音と激震。発射された砲弾は、眼前の灰色の騎士人形を撃ち貫いた。確実に命中。敵を貫通した砲弾は、庭園の向こうに着弾の土砂を噴き上げた。

 アイカメラを操作し、ユーシスをモニターに映す。彼は呆然として、立ち尽くしている。言い知れない後ろめたさが胸に去来した。

「……ユーシス様」

 あの時、本当は気付いていた。ユーシスの部屋、クローゼットの中に人の気配があったこと。それがきっと彼を迎えにきた仲間たちであろうこと。ユーシス自身が、自分でも気付かない心の奥底でそれを望んでいること。

 強い責任感と家のしがらみ、全ての状況が、彼をがんじがらめにして動けなくしていることも。

 ユーシス様、申し訳ありません。本当は――あなたを送り出したかった。たくさんの物を抱えるにはまだ早い、その辛そうな背を押したかった。

 でも、最後の決断はあなた自身がしなくてはならない。

 ただ、その前にこの結果が訪れた。これも一つの選択の先。

 騎士人形がぐらりと揺らぐ。

「……?」

 倒れない。胸部に大穴を開けたにも関わらずだ。違和感があった。目を凝らしてみる。揺らいでいるのは騎士人形を取り巻く景色だった。

 突然、東館の近くにいた一体のドラッケンが前のめりに倒れた。

 その後ろに立っていたのは、他でもない灰色の騎士人形。

「ど、どうなって」

 確かに命中したはずなのに。視線を正面に据え直すと、そこに相手はいなかった。

 いつの間にか庭園側に移動している。足音もしなかったし、まったく気付かなかった。待て、おかしい。ならばドラッケンの後ろにいるのは何だ。

 さらにそれは西館の前にも現れ、本館近くにも幽鬼のように佇んでいた。

「騎士人形が四体……!?」

 

 

 息荒く、リィンは打ち倒したばかりのドラッケンを見下ろした。

 彼にも起きたことは分かっていなかった。撃たれると思った刹那、ヘクトルが砲身の向きを自ら(・・)ずらしたのだ。際どい所で外れた砲撃は、胴体をかすめて背後に着弾した。

 すぐに身を返して、東館を迂回し、近くにいたドラッケンの後ろに移動する。不可解なことに、誰にも反応されなかった。

 核の中が銀色の輝きに覆われている。ヴァリマールに繋がる光のラインが、本館三階から伸びていた。リンクの光。その先にいたのはエマだった。

「これは騎神リンク……? 委員長のマスタークオーツは確か《ミラージュ》だったか」

 《ミラージュ》は幻属性のマスタークオーツ。そういうことか。

 ヴァリマールの虚像を創り出したのも、その力によるものだろうが、重要なのはそこではない。

 七耀属性において幻は“認識”を司る。

 文字通り認識をずらしたのだ。おそらくは特定の敵機ではなく、一定範囲のフィールドに効果を及ぼす形で。

 操縦兵たちの意識に揺らぎを作り、さらに騎神の虚像を投影する。《ミラージュ》の影響下にある相手には、あたかもヴァリマールが分身したかのように錯覚していたことだろう。

 幻惑の効果が薄まっていく。

 ヘクトルの外部音声が言った。

『妙な力を使いますね。今のは騎士人形の機能ですか?』

「ヴァリマールだけの力じゃありません。これは仲間の力でもあります」

『左様ですか』

 伏しているドラッケン。その手から離れて落ちているブレードを、リィンは拾い上げた。

 ヘクトルの左右を抜けて、二機のドラッケンが接近する。

「剣さえあれば!」

 大振りの横薙ぎで相手のブレードを弾き飛ばし、返す太刀でもう一体の右肩口を切り落とす。

 遠くにいたシュピーゲルが速射銃を構えた。埒があかないと踏んで、射撃を決めたのだろう。

「もう一度やるぞ、委員長!」

「任せて下さい!」

 彼女はエリゼとセリーヌを連れて、もう本館の外に出ていた。《ARCUS》に思惟を注ぎ、再びエマとリンクする。

 ヴァリマールを中心にして庭園に銀耀の輝粒が舞う。淡い光をまとったレースカーテンが押し広がるようだった。

 認識を狂わされたシュピーゲルが撃つ。幻惑に呑まれた弾丸は、こちらに向かってくることなく庭園中央の噴水を破壊した。壊れた水道管から水柱が吹き上がる。

 ブースト全開。盛大な水しぶきを突っ切って、シュピーゲルに高速接近。リアクティブアーマーを使わせる間は与えず、膝関節を狙って瞬時に両足を切断。

 背中から地面に落ちた隊長機は、まだ起こった事態を理解できないようで、のろのろと腕を動かしていた。

 ヴァリマールが告げる。

霊力(マナ)残量低下。残リ35パーセント』

「《ミラージュ》も使用量が多いな。効果範囲の制御も難しいし、多用はできないか」

 ランドローラーを使って背後からヘクトルが肉薄。色彩に溢れた花壇は見る影もなく、飛び散る土に混ぜ返されていた。

 特攻しながらヘクトルが拳を突き出す。大剣を立てて、リィンはそれを防いだ。拳打を受け止めた刀身がビリビリと振動する。

『この距離なら外しませんよ』

 二門の砲塔が向けられる。至近距離ではなくゼロ距離。これだと認識をずらしても意味がない。

 素早く仲間たちに目を向ける。機甲兵の戦闘が激しくなってきたから撤退する警備兵も出てきた。物量に追い詰められていたさっきまでと違って、今なら――

「ガイウス!」

「ああ!」

 応じたガイウスが《ARCUS》を掲げる。即座に繋がるリンク。ヴァリマールの双眸に、強い緑色の光が瞬く。

「うっ!?」

 リィンの眼にも異変が起こった。瞳の奥がずんと重くなり、血液の脈動が大きく感じられた。途端、視界が鮮明に映し出される。

 ヘクトルの砲口が凶暴に唸る。発射される砲弾。

 その光景が、時間を引き延ばしたみたいにスローで見えた。

 ガイウスのマスタークオーツ、《ファルコ》の特性。心眼だ。それが霊力を媒介にして増幅され、起動者にも影響を与えている。

 極限の集中。二軸の射線を見切り、ヴァリマールがその間をすり抜ける。発生した大気の乱流さえ見えるようだった。

『なんと!』

「おおおおっ!」

 回避からのカウンター。八葉一刀流・残月。この距離は俺の間合いだ。

 上体のひねりを最大限に活かし、腰に構えた大剣を逆袈裟に振り上げる。

 手ごたえはあった。しかし刃先は相手に届かず、青白い障壁に阻まれていた。

「リアクティブアーマー!? 新型にも実装されているのか!」

『押し切らせて頂く!』

 絶対防御の向こうで、砲口が再びこちらに狙いを定める。肩のキャノン砲だけではない。装備されている全てのウェポンパックが展開されていた。

 ヴァリマールの攻撃を弾いた瞬間にアーマーを解き、全弾撃ち込むつもりだ。この位置からの広範囲射撃は《ミラージュ》でも《ファルコ》でも回避しきれない。じりじりと剣が押し返されていく。

「退くな、リィン! こちらも押せ!」

 叫ぶ声は足元からだった。すぐ近くまでラウラがやってきていた。

「巻き込まれるぞ! そこから離れろ、ラウラ!」

「あの日から今日までずっと離れていた。もう離れるつもりはない!」

「何を言って……?」

 ラウラは《ARCUS》を自分の胸に押し付けた。

「一か月前、私はそなたの剣になると誓った。貸せる力は全て貸す!」

 眩い光軸が駆けると同時に、ブレードが赤い燐光を纏った。大剣に宿るは《ブレイブ》の特性。純然たる力。

 赤熱する紅の刃が、リアクティブアーマーとせめぎ合う。

 ヘクトルがさらに出力を上げ、全力のヴァリマールが踏みとどまる。衝撃が伝播し、何度も爆ぜる。拮抗する力場が、激しいスパークをほとばしらせた。

『むううう……!』

「負けるかあっ!」

「貫けえっ!」

 リィンとラウラの意志が合わさり、膨れ上がった赤の剣閃が青の障壁を突破する。

 その一撃は両肩の砲身ごと、ヘクトルの上半身を切り裂いた。大量の火花を噴き出しながら、重装型機甲兵はくずおれる。

 吹き飛んでいった砲身の一部が本館を直撃した。四階フロアに突き刺さった破片の横で、ヘルムートがずるずるとへたり込む。

「破った……のか。リアクティブアーマーを」

 ブレードに目を落とす。刃がぼろぼろになり、柄には亀裂が入っていた。大きすぎる力を受け止めきれなかったせいだ。もうこの大剣は使えない。

 近くに棒立ちのシュピーゲルがいた。思い出したように剣を振り上げ、襲ってくる。

 破損したブレードはその場に捨てて、リィンは片手で相手の腕を止めた。

「悪いがそっちをもらう」

 《ブレイブ》の特性は継続中だ。ヴァリマールは無造作にシュピーゲルの腕を握り潰す。金属のひしゃげる音がした。だらりと折れた腕からブレードが落ちて、地面に刺さる。

 それを引き抜くヴァリマールに、シュピーゲルは残った腕で銃を向けた。敵がトリガーを引くより早く、回し蹴りが炸裂する。絶大な威力の蹴足を受けて、鋼鉄の巨体が宙を舞った。

「新型を一機、隊長機を二機倒した。もう脱出できそうだ」

 残るドラッケンは数える程しかなく、いずれも戦意喪失が見て取れる。戦闘のどさくさで、外壁の一部が壊れていた。逃げるなら今だ。

 しかし歩兵には戦意を失っていない者もまだいる。総数は減っているものの、庭園の布陣はまだ厚い。

 この状況下で全員走って逃げられるのか……?

 

 

 

 膝をついたヘクトルは、もう動かなかった。

 操縦席からアルノーは出てこないが、斬撃はコックピットを外していた。おそらくは無事だろう。

「これが、灰の騎神か」

 ユーシスは悠然と立つヴァリマールを見上げた。

 燃えるような赤い剣がリアクティブアーマーを打ち破った時、知らずの内に拳を握りしめていた。胸の奥が熱くなっていた。

 それは久しく感じることのなかった心の動きだ。

 仲間たちは《ARCUS》のリンク機能を介して、騎神に力を伝えているようだった。

 リィンだけに任せていない。皆、戦っている。

「……俺は」

 俺は、どうしたいのだ?

 手にした《ARCUS》を眺めながら、自身に問う。

 アルバレア家に残り、領地運営を手伝う。本当にそれが今、俺のやりたいことか?

 仲間の元には歩み寄れず、さりとて警備兵を引かせる指示も出せず、荒れた庭園にユーシスは立ち尽くした。

 喧騒の中、ラウラたちの声が耳に届く。

「リィンが機甲兵を押さえた。撤退するぞ」

「囲まれてるのにどうやってよ!」

「ガーちゃんのビームで焼き払う?」

「まあ、それは穏やかではありませんね。ヴァリマールに踏み潰してもらうのがよいかと思いますが」

「その方法は穏やかなのか?」

 彼らは残った十数名の警備兵をかい潜りながら、何とか隙を作ろうとしていた。しかし兵は一時的に減っているだけだ。機甲兵の戦闘が収まったことを知れば、すぐに増援がやって来るだろう。

「皆さん!」

 本館側からエマが走ってきた。その後ろにはエリゼとセリーヌもいた。

「屋敷を出て、中央広場まで行きましょう。女神像の噴水があるところです!」

 意味が分からない様子の面々に、彼女は重ねて言う。

「あの場所になら七耀脈が通っています。ヴァリマールの残った霊力を使って、セリーヌが精霊の道を開きます」

「そういうこと。さっさとバリアハートから離脱するわよ」

 精霊の道。聞いたことのない言葉だったが、それが各地を渡っていたリィンたちの移動手段だとユーシスは察した。

「聞こえてたわね、リィン」

 セリーヌがヴァリマールに首を向けると『俺は問題ないが……』とリィンは少し迷ったように答えた。

 そもそも敷地の外に出たところで追っ手はかかる。貴族街を抜けて中央広場までは、かなり距離もある。兵の追撃を凌ぎながら全員逃げ切るのは困難だ。

 遠くから唸るような音がした。

 壊れた外壁を抜けて、こちらに何かが猛スピードで向かってくる。

『あ、あれは』

 最初に反応したのは騎神の中のリィンだった。

 ユーシスもそれは知っていた。かつてジョルジュやアンゼリカが製作した二輪型走行車。通称、導力バイク。

 疾走するバイクにまたがっているのは、囮役として町中を逃げていたはずのサラである。

 人垣を縫うように抜けて、彼女は全員の前に降り立った。

「ずいぶんやらかしたみたいね。事情は後で聞くとして、今はとっとと逃げるわよ!」

 学院を脱出する際、サラは技術棟前に停めてあった導力バイクを拝借していた。各地を周り、ケルディックでユーシスに再開した時も、そこからバリアハートへの移動にもこれを使用していた。細かなカスタムまではできていないらしく、サイドカーは付いたままであるが。

 中央広場まで向かうことを手短にエマが説明すると、サラはその場の人数を勘定した。

「了解よ。今ある移動手段をフル活用すれば何とかなるわ。そうね――」

 ヴァリマールの核内にセリーヌ、その手のひらにはエリゼとエマ。アガートラムの右腕にミリアム、左腕にガイウス。サラのテキパキとした振り分けに異論はなかった。

「そしてバイクの後ろにアリサ、サイドカーにラウラ。これでいいわね?」

「あら、サラ様。私の名前がありませんが」

 シャロンが小首をかしげた。勝ち誇ったように、サラはにたりと笑う。大人気ない仕返しの笑みだった。

「あらあ? 完全に定員オーバーだわ。残念だけど、あんたはここで警備兵を引きつけててくれるかしら?」

「それには及びませんわ」

「何がよ?」

「私とサラ様が運転を代われば、万事は丸く収まるかと」

「あたしの移動手段がなくなるでしょうが!」

「ここで囮をして頂くのですから、何も問題はないかと思いますが」

「あ、あんたってやつは……!」

 そんなやり取りの中で、サラは離れた位置に立つユーシスに気付いた。

「やっぱり来ないのね?」

「……行くことはできない」

 ユーシスは目を逸らす。

 やりたいこととやるべきことがあるなら、やるべきことを優先せねばならない。果たすべきはアルバレアの責任なのだ。

「立場は分かってるつもりよ。無理強いはしないわ。実際、ここに残ってできることもあると思う」

「俺の選択は正しいのか?」

 吐き出した言葉は疑問だった。自分でも分からなくなっていた。

 サラが歩み寄ってくる。警備兵が武器を構えたが、ユーシスはそれを手で制した。

「正しさなんて人それぞれよ。だから正解も間違いもない。選んだ道の正しさなんて、自分自身で証明するしかないの」

「サラ教官もそうしてきたのか?」

「失敗ばかりだったけどね。でも後悔はしてないわ。少なくとも今があるのは、過去のあたしが選択してきた結果だから」

 彼女は笑った。

「選ぶ道はなんだっていいから、あなたも後悔しない方を決めてみなさい」

 それは何度も悩み、考えたことだ。

 アルバレア家。四大名門。その血族たる自分が貴族連合側に立たねば家の名に傷がつくと。……少し違う。そちらに立つのが、ユーシス・アルバレアとして当然の姿なのだと思った。

 “やるべきこと”という型枠に自分をはめ込んで、“やりたいこと”を心の奥に押し隠して。

 だったら、俺のやりたかったことはなんだ。

「俺は……っ」

 喉まで出かかった言葉が、どうしても出せない。家という最後の枷が、鎖となって手足を縛る。

 ユーシスの額を、サラは指でつんと押した。

「一人で抱え込むから選べる道が少なくなるのよ。思い出してみなさい。あなたを大切に想う人たちはたくさんいたはず。その人たちはユーシスをどう見ていたの?」

「俺のことを?」

 思い浮かぶのは、自分にかけられた言葉。彼らの顔。

 

(立場や家の事情を度外視したとしたら、ユーシスの気持ちはどうなんだ)

 心中によぎるリィンの声。  

 

(アルバレア家があなたの全てではないのです)

 自分を慮るアルノーの言葉

 

(ユーシスさんはユーシスさんですよ)

 ロジーヌの微笑、澄んだ瞳。

 

 Ⅶ組の仲間。教会の子供たち。叔父のハモンド。亡くなった母親。

 視線を合わそうともしなかった父親とは違って、いつもまっすぐに自分の目を見る人たちが、温かい記憶と一緒に次々に現れる。

 彼らが俺をどう見ていたか? 何のことはない。立場をまとうアルバレアの人間ではなく、ユーシスという一人の人間として見ていた。

「俺は……俺、か」

 自分のことが一番見えていなかったのは、他ならない自分自身だった。

 家の名も大事だ。領地運営も学ぶべきことだ。その気持ちは変わらない。だけどそれを理由にして、自分の意志をねじ曲げるのは違う。

「顔付きが変わったわね。答えが出たの?」

「いや、答えはこれから探そうと思う」

 時間をかけて、たくさんのものを見て。

 家の責任は放棄しない。領民だって守る。不条理とは戦う。己の信念をもって。それがどのような結果になろうとも。自分の選択を後悔しない為に。

 どれか一つで悩むなら、全てを兼ねる道を探してやる。傲慢でいいのだ。

「聞こえるか、アルノー!」

 機能停止したヘクトルに向かって叫ぶ。さすがに本館のヘルムートには言葉が届かなさそうだった。

「俺はしばらく家を出ることにした。もっとも父上に戻ることを許されるかは分からんが。すまないが留守と此度の騒動の後処理を頼む。……かなりのことになるだろうから、出来る範囲で構わない」

 アルノーからの返事はなかった。

 よく見ればヘクトルのコックピットハッチは開いていた。操縦席にアルノーの姿もない。いつの間にか脱出していたらしい。しかしどこに行ったのか。

 軽快な足音が耳朶を打つ。一頭の白い馬が、ユーシスの元に駆けてきた。

「シュトラール? お前、どうしてここに」

 足を止めた愛馬は、ユーシスの前から動こうとしない。

 シュトラールは敷地の裏手、馬舎に繋いであったはずだ。誰かが離したのだろうか。ご丁寧に手綱や(あぶみ)をつけてまで。

「……お節介な誰かもいたものだ」

 ユーシスはシュトラールにまたがった。

「中央広場まで行くのだろう。いつまで止まっているつもりだ。言っておくが、もう追っ手を止める権限は俺にはないぞ」

「それは大変。じゃあ、早くしないとね?」

 いつものウインクを決めて、サラは脱出の合図をした。銘々が了解を返す中、シャロンが言った。

「サラ様ったら教師のようですわ」

「あたしは教師よ! って、あんた何でそれに乗ってるわけ!?」

 シャロンは興味深げに、導力バイクのグリップをいじり回していた。

「仕組みは大体分かりました。アリサお嬢様、ラウラ様、しっかりと捕まっていて下さいませ。少々とばします」

「ち、ちょっと待ちなさい!」

「うふふ、出発ですわ」

 サラの制止などには構わず、三人のメイドを乗せたバイクは走り出した。その後ろをミリアムとガイウスを抱えたアガートラムが飛び、エリゼとエマを手にすくったヴァリマールが続く。

「ああ! あたしの導力バイク! ユーシス、追いなさい! 今すぐ!」

「あれは確か、リィンがアンゼリカ先輩から譲渡されていたものだと思うが」

「細かいことはいいの!」

 怒り心頭のサラがシュトラールの背に飛び乗る。

 手綱を繰りながらユーシスは叫んだ。

「これよりユーシス・アルバレアは出奔する。追うも捕まえるも好きにするがいい!」

 そう言われて即座に動ける者などいなかった。

 当惑する警備兵の間を抜けて、ユーシスは庭園を後にした。ヘルムートの怒鳴り声が聞こえた気がしたが、振り返るつもりはなかった。

 壊れた外壁を越えて、敷地の外へ。戦闘の影響で混乱する貴族街を走り、中央区へと向かう。

 広場に着くと、噴水の前にヴァリマールが降り立つところだった。逃げ惑う市民の悲鳴や絶叫の中、地面に光陣が展開される。

 あれが精霊の道。そこに入った仲間たちが、光に呑まれて消えていく。

 シュトラールは怯えていない。このまま行ける。視界を流れる翡翠の町並。もしかしたらもう戻れないかもしれない。少なくとも屋敷には。

 この選択を後悔しているか? その答えは考える必要もなかった。

「サラ教官、礼を言う」

「え? 何か言った?」

「何でもない」

 力強く地を駆けた白馬が、輝きの中に飛び込んだ。

 

 ● ● ●

 

 転移した一同。精霊の道を抜けた先に広がっていたのは、渓谷道の雪景色――ではなかった。

 鬱蒼とした森林がどこまでも広がっている。

 身をかがめたエマは、湿った土を触ってみた。

「ここがユミル……じゃないですよね。どう考えても」

「そうね、違うわ。見覚えがある。ここはルナリア自然公園よ」

 ヴァリマールの核から出てきたセリーヌが言った。

「バリアハートからユミルまでの距離は相当だもの。ただでさえ戦闘で消費していたから、移動途中でヴァリマールの霊力が尽きたんだわ」

 ヴェスティア大森林はバリアハートとユミルを直線で繋いだ中間にある。

 ヴァリマールの双眸から光が消える。強制的な休眠状態に入ったのだ。同時にリィンが騎神から降ろされる。

「う……」

「リィン!」

 膝を折って倒れるリィンを、ユーシスとガイウスが支えた。力を使い果たして、彼は意識を失っていた。

 セリーヌが嘆息をつく。

「あれほど力の配分には注意しなさいって言ったのに。……まあ、今回は私も横にいなかったし、初めての騎神リンク相手も多かったから仕方ないのかもしれないけど」

 辺りを見回して、彼女は続ける。

「霊脈の真上だし、まだ上位三属性も働いてる。ローエングリン城と一緒で、ここならヴァリマールの回復も早いはず。半日くらいはここで待機するしかないわ」

 

 ● ● ●

 

 薄暗い森の中。アリサはガイウスと歩いていた。

 念の為、周囲の安全確認だ。

 危険な魔獣の巣などがないか、縄張りに踏み入っていないかを、数班に分かれて調べている最中である。

「というか魔獣の縄張りとか分からないんだけど」

「それは俺がわかるから安心するといい」

「どうやって?」

「例えば木の幹にある爪や牙の跡などだな。種族によっては特定の植物を木に吊るしたり、地面に石を並べたりもするらしいぞ」

「へえ、さすがガイウスね。そういう話、マキアスが喜びそうだけど」

 数か月くらい前から、マキアスは魔獣の生態に執心で、一人で色々と調べているようだった。

「……そうだな。ところでリィンのことだが」

 事情に心当たりがあるのか、ガイウスは曖昧に肯定してから話題を変えた。

「騎神リンク。あれは思った以上にリィンに負担を強いるのだな。リンク時はそれぞれがリィンの状態に気を払っておいた方がいいだろう」

「ええ、ノルドの時に私も思ったわ。特に私とリンクした場合は霊力の消費量が桁違いに多いみたいだし」

「俺の場合はヴァリマールよりも、リィンに直接作用したみたいだ。あの憔悴は俺が原因かもしれない」

 《ファルコ》の能力は神経系に影響を及ぼす。霊力使用の大小に関わらず、体の疲弊は避けられない。

「でもそれはガイウスのせいじゃないわよ」

「ああ。だが、何かいい方法はないものか」

「騎神リンクの制御……ね」

 思い出すことがあった。庭園での戦闘の時だ。リアクティブアーマーを打ち破った時、最後の最後でヴァリマールの力が跳ね上がっていた。

 うまく言い表す言葉は出てこないが、一方的にリィンが力を行使していた訳でも、ただラウラが力を受け渡していた訳でもなさそうだった。

 ただでさえ騎神戦の終盤。今までのことを考えると、あの強固な障壁を突破する程の力を使えば、それだけで霊力は枯渇しそうなものだが。しかしそれ以降もシュピーゲルを撃破したりと、ヴァリマールは戦っていた。

 途中で尽きたとはいえ、精霊の道を開く程の余力まで残している。

「もしかしたら……」

「アリサ?」

 重要なのは力の供給ではなく、意志の共有か。何となくだけど、ヒントはそこにありそうな気がする。

 仮にそうだとして、初めての騎神リンクでラウラはそれをやってのけた。

 ……どうしてだろう、まただ。気持ちが落ち着かなくなってくる。

「きゃっ!?」

 小石にけつまずいて、アリサはこけてしまった。

「いたた」

「大丈夫か? その服だからな。やはり歩きづらかったのだろう」

「ええ、ごめんなさい」

 ガイウスに手を引いて起こしてもらって、パンパンと膝についた砂を払う。

 アリサはメイド服のままだった。ちなみに潜入時に隠しておいた普段の服と武器は、バリアハートの中央広場に向かう途中に回収している。

 導力バイクを運転するシャロンが、忘れずに隠し場所に寄ってくれたからだ。あんな局面でも細かなところを失念しないあたり、彼女の有能さがうかがえる。

「近場の探索は俺一人で大丈夫だ。先にアリサはヴァリマールのところへ戻っているといい」

「でもガイウスに悪いわ」

「気にするな。じきに俺も引き返す」

 

 

 ヴァリマールは静かに眠っている。その足元のリィンも同様だ。

「私は荷物番か。こんな森の中でそんな役目はいらないと思うが……」

 じゃんけんで決まった班分けにあぶれたのだから仕方がない。それにリィンの容態を看る人間も必要だ。

 ラウラはリィンのそばに歩み寄る。顔色は悪くないから、しばらくしたら目を覚ますだろう。

「そういえば、二人きりは久しぶりだな」

 ふとアノール川のほとりで自分が作った弁当を食べてもらった時のことを思い出した。あの時はモニカ、ポーラ、ブリジットに協力してもらって料理を作ったのだったか。

 皆、変わりないだろうか。モニカはガレリア駐屯地にいると、バリアハートへの道中にリィンから聞いている。しかし彼女以外の安否はまだ分からない。

 今は無事を祈るほかなかった。 

「もう離れるつもりはない……か」

 リィンを見ながら、そうつぶやく。ヘクトルとの戦闘時に口走った言葉だ。深くも考えていなかったが、どうしてあんなことを叫んでしまったのか。

 前後の会話が成立していなかったし、もしかしたらリィンに変に思われたかもしれない。状況が状況だったから、さして気に留めていないかもしれないが。

 それはそれで、もうちょっと意識してくれてもいいのだが。

「………?」

 なぜそう思うのだ?

 理由を埋める最後の一ピースが、見つかりそうで見つからない。手を伸ばせば届く距離にありそうなのに、肝心な時に隠れてしまう。

 とりあえず何かやることを探そうか。

「シュトラールの世話……は必要なさそうだしな」

 紐で繋いでいないにも関わらず、ヴァリマールのそばから動こうとしない。賢い馬だ。精霊の道を通って、一緒にバリアハートを出てしまったのだ。ここまで来たなら、もうユミルに連れて行くしかないだろう。

「他には何か……あ」

 もう一度視線をリィンに向けて、ラウラは気付いた。

 敷物がないから、リィンは地べたに寝かされている。湿度のある土だし、それでは具合がよくない。

「そうだな。何か下に敷くものを探さねば」

 にわかにやる気を出して、荷物を探る。しかしシートのようなものはなかった。なんでもいい。代わりになるものはないだろうか。

 最終的に引っ張りだしたのはメイドに変装する前の、自分の旅装服だった。

 上下衣とも広げて幅を作り、苦心してリィンを左右に転がしながら、彼の下に敷いてやる。服は土で汚れてしまったが、まったく抵抗は感じなかった。

 布か何かを巻いて枕も作りたかったが、あいにく自分の服は敷き用に全部使っている。アリサの服を勝手に拝借するわけにもいかない。

「少しだけなら……リィンも眠っているし」

 頭側に移動し、地面に座る。彼の頭をそっと持ち上げ、自分のひざに乗せた。心なしかリィンの吐息が楽になったような気がする。

 年相応の寝顔だった。久しぶりに再会してみて、少し大人びた印象を受けたが、こうしてみるとやはり同い年の少年だ。

 くすりと笑みがこぼれる。そういう状況ではないのだが、どうにも安らいでしまう。彼のそばにいると気持ちが穏やかになる。不思議な感じだ。

 リィンの前髪がまぶたにかかっていた。優しげな手つきで、それを払おうとしたところで、近くから土を踏む音がした。

『え?』

 お互いに戸惑った声を重ねる。表情を固まらせたアリサが、すぐそばに立っていた。いつの間に帰ってきたのか。それもこんなに早く。

「ア、アリサ?」

「ラウラ……」

 赤い瞳がリィンとラウラを交互に見やる。ややあって小さくその口が開いた。

「何、してるの……?」

 

 

 ~続く~

 

 

 

 

 

 

 ――Side Stories――

 

 

《金欠クリエイターズ④》

 

「お買い上げありがとうございます。またのご来店をお待ちしておりますね」

 深々と頭を下げ、ドロテは客を見送った。

 受け取った商品代を金庫代わりの木箱に入れながら、彼女は息をつく。

 その場で現像できる写真に、風変りな一筆。物珍しさと噂が先立って、商売は順調だった。

 束になる紙幣。両手ですくいきれない硬貨。

 今まで生きてきて、これほどの金額を手に入れたことはなかった。欲しいものは何でも買える。ほとんどのトラブルはこれが解決してくれる。

 溢れるような高揚感。だけど、それを感じていたのは最初の頃だけだった。

「今日はお客さんの入りが悪いね。それでも十分な額は稼げたけど。何だか貴族街が騒がしいみたいだし、それと関係があるのかな?」

 導力カメラのメンテナンスをしながら、となりでフィデリオが言った。

「ドロテさん?」

「え? あ、そうですね。ちょっと早いですけど、もう閉めちゃいましょうか」

 高揚の代わりに感じるようになったのは、疑問だった。

 これでいいのか、という疑問。色々考えてみて、結局出した答えはイエス。

 これでいいのだ。フィデリオも言っていた。こういった文芸で食べていくことは容易ではない。営業戦略に則って売れる道を探すことが何よりも重要だと。

 夢で腹はふくれない。このバリアハートに来て、それを思い知らされた。

 だから、売れない小説ではなく、売れる詩集を前に並べるという自分の選択は正しい。正しいはずだ。

 でもなぜだろう。客が来れば来るほど、写真や詩集が売れれば売れるほど、違和感が強くなるのは。

 最初はすぐに慣れると思っていたのに、いつまでたっても心に引っ掛かるものが消えないのだ。得体の知れない不安は日ごとに大きくなっていく。

「おや、変わった露店だ。まだ開いているかな」

 パイプ椅子をたたみ、サンプルを飾るための簡易机を片付けようとしたところで、一人の客がやってきた。

 すっかり顔に張り付いてしまった接客用の笑みを浮かべ、しかしドロテは申し訳なさそうに言った。

「すみません。もう撮影器具は下げてしまいまして。セッティングに時間がかかるので、宜しければまた明日に足をお運び頂けると」

「写真はいい。それを見せてもらえるかい?」

 男が指差したのは片付け途中の詩集だった。ドロテは少し迷ったものの、それを手渡す。

 さっそく男はペラペラと目を通したが、半分も読み進めない内に冊子を閉じて彼女に返した。興味を失ったようだった。

 何この人。変なお客さん。

 その顔を確かめようとしたが、フードを頭にかぶっているからよく見えない。ちらりとのぞく灰色の口髭にはどこか見覚えもあったが、ドロテには思い出すことができなかった。

「次はそれを」

 男が続けて示したのは、荷物の下敷きになって半分隠れていた一冊のノート。街道暮らしの合間に書いていた小説だった。

「あ……その、それは売り物じゃないんです」 

「構わない」

「で、でも」

「ドロテさん、いいじゃないか」

 渋る彼女をフィデリオがたしなめる。

「どんな人でもお客さんの機嫌を損ねるのはよくないよ。明日来てもらえなくなる方が困るしさ。下手な対応をして、悪い風評が広がるのは避けなきゃ」

 もっともな言い様である。それでも抵抗はあったが、ドロテは男にノートを差し出した。

「どうぞ。……別に面白いものじゃないですけど」

「ふむ」

 ノートを開き、じっくりと読み進める。時間が掛かるようだったので、フィデリオは店じまいの片付けに戻ったが、ドロテはその場にじっと立っていた。

 ややあって、ノートが閉じられる。

「君が書いたんだね?」

「………はい」

 反応が怖い。何を言われるのだろう。面白くない? それとも無言で突き返される? 嫌だ。怖い。

「続きは」

「え?」

「続きは書かないのかな」

 予想していない言葉だった。

「そう、ですね。書かないと思います」

「なぜかね。一生懸命に作った話だろう。文章の端々からそれが伝わってくる。これは魂のある作品だ」

 力なく笑って、ドロテはかぶりを振った。

「だって売れないんです。私の小説。見て下さい、これ。最初に用意してた売り物用の短編小説。一応店頭に並べてますけど、誰も見向きもしてくれません」

「だから止めて、そちらの詩集にしたのかね。熱意もなく、感性に訴えるものもない、ただの文字の羅列に」

 後頭部を鈍器で殴られたようだった。

 売り手だとか買い手だとか、そんな立場など忘れてドロテは声を荒げた。

「あなたに何がわかるんですか。どんなに一生懸命に作った小説だって、受け入れてもらえないと意味がないじゃないですか。自分だけの趣味ならそれでよかった。けどこれでお金を稼ごうと思ったら、今までのままじゃダメだったんです」

「君の言うことは正しい。だが大衆に迎合した作品は得てして浅い。一時受け入れられたとしても、深さがなければ飽きられるのもまた早い」

「だったら! だったら……どうすればいいんですか……」

 努力して書いた小説より、適当に書いた詩集のほうが売れてしまった現実。そして、その売れ行きさえも長くは続かない。そのことは心のどこかで何となく分かっていた。それが不安の正体だ。

「……尊敬する作家さんがいるんです。私の夢はその人みたいな小説家になることでした」

「そうかね」

「でも夢のまま終わっちゃいそうです」

「見ているだけなら楽しい。叶えようとすれば苦しい。それが夢というものだよ」

「そんなの辛いです。普通に働いて、ご飯を食べる方が幸せじゃないですか。夢でお腹はいっぱいになりません」

「確かに夢で腹は満たせない。しかし胸を満たすことはできる。幸せの定義は人それぞれだ」

「あなたの言うことは、私には難しいみたいです」

 遠くから大きな音がした。鳥たちが一斉に飛び立つ。

「最終的には君が何を一番大切に思うかだろう」

「私の一番大切なもの……」

 どきりとして目を伏せる。

 急に心が痛んだ。見ないように、考えないようにしていたのだ。引き出しの奥にしまい込んだ宝物を思い出さないように。だって忘れていないと辛いから。

 でも、本当はわかっていた。

 生活か作品か。お金か信念か。現実か夢か。

 仕方ない。どうしようもない。そんな言葉を並べ立ててみても、どんな理屈をつけて自分を納得させてみても、結局自分の心までは騙しきれない。

 お金にはならないけど、お金では買えないもの。最後まで捨てきれなかった私の大切なもの。

 ドロテは手に持ったままのノートを抱きしめた。

「それでいいのかな?」

「やっぱり難しいことは分かりません。でも小説を描いてる時が一番楽しい。それだけはこの先も変わりません」

「実にいいね」

「え?」

 轟音が広場に響き渡る。噴水のそばに巨人が降り立った。

 一瞬、機甲兵かと思ったが違う。あれは帝国時報で最近よく記事になっている灰色の騎士人形だ。どうしてバリアハートに。

 騎士人形の手のひらに誰かが乗っていた。

「エ、エマさん!?」

 三つ編みおさげを振り乱して、彼女は騎士人形に何かを叫んでいる。

 地面に展開される光の紋様。立ち昇る不思議な輝き。その中に次々と見知った顔が飛び込んでいく。

 どういうことだろう。騎士人形を動かしていたのは彼らだったのか?

「きゃっ!?」

 光を中心に風が吹き荒れる。突風を受けて、お金を入れていた木箱が机から落ちた。衝撃に箱が開き、中の硬貨と紙幣が散乱する。

「うわあ! 大変だ! ドロテさんも早く拾って!」

 フィデリオは血相を変えて、宙を舞う紙幣を追いかけていた。切迫した彼の頼みにも応じず、ドロテは消えていくエマたちを見つめていた。

 白い馬が駆け込んだのを最後に、転移の光は霧散した。呆然とその光景を眺めていたが、ドロテは不意に我へと返る。

 走り回る人々、絶えない喧騒、遅れてやってきた領邦軍はひどく慌てている。辺りは混乱の極みだった。

「あ……さっきの人は」

 フードの男性はいなくなっていた。広場中に視線を巡らしてみたものの、彼の姿を見つけることはできなかった。

 もしかして彼は。いや、まさかそんなことあるわけがない。

「いつまで飛び跳ねているんですか!」

 相変わらず紙幣を追うフィデリオの肩を、ドロテはぐいっと引っ張った。

「君こそ、お金を集めるの手伝ってくれないか。硬貨があちこちに転がってしまって」

「そんなことより行きますよ」

「そ、そんなこと? 行くってどこへさ」

「とりあえずバリアハートの外へ。この騒動のおかげで壁門を抜けるのは簡単そうです。もうこの町でやり残したこともないですし」

「いやいや、お店があるよ。お金だって必要じゃないか」

「路銀なら今、フィデリオさんが集めてくれたので十分です。ここより外の方がやれることも多いと思います」

 フードの男と会話をして、エマたちの必死の表情を見て、自分の中の何かが確かに変わった。

 その場に留まって、明日もあさっても望まない作品を売り続ける。その気は完全に失せていた。

「目的は分かりませんけど、エマさんたちは行動しています。私たちもやれることを探してみましょう」

「いや、元々そのつもりでトリスタを出たんだけどね。誰かさんがお金を使い果たしたせいで、寄り道をする羽目になったんじゃないか」

「過去の話は無益です。未来の話こそ有益です」

「過去の教訓を顧みないから、未来に同じ過ちを繰り返すんだろ」

「ひ、ひどい! アノール川に身投げしちゃいますよ」

「うん、いいと思う」

「なおさらひどい!」

 疲れた様子でフィデリオは言うが、怒ってはいないようだった。

「でも旅の休憩がてら、フィデリオさんは風景画を撮れますし、私は小説を書けますし、めでたしめでたしじゃないですか」

「何もめでたくはないけども。まあ僕はカメラだからいいとして、ドロテさんは外で小説なんか満足に書けるのかい?」

 一冊のノートと一本のペンを掲げてみせて、ドロテは断言した。

「私にはこれだけあれば十分だったんです。いつか誰かに認めてもらえるまで、がんばりますから」

 報われない努力かもしれないけど、諦めてしまった後悔を後でするよりは余程いい。

 職人通りを早足で抜けて、二人は外へと向かう。ゲートが近付いてきたところで、フィデリオがぼやいた。

「はあ。また街道暮らしか」

「いいじゃないですか。フィデリオさんにしてみれば、女の子と二人旅。ムフフな展開を期待してもいいんですよ?」

「いやない。それはない。絶対ない」

「全否定しなくても!」

「まったく……」

 カメラとペンを手に、金欠の旅がまた始まる。足を止めて、フィデリオは空を仰いだ。

「僕は君に振り回されてばかりだ」

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 




お付き合い頂きありがとうございます。

原作ではバイクはユーシスが学院から取り寄せていましたが、本作ではサラが乗り回していました。

ケネスとエマには厄介に絡んでいくガイラーさんですが、悩めるドロテ先輩にはアドバイスをして去っていきます。

さてヴァリマールの能力が拡張されていきますが、例によってマイクを彼に引き継ぎたいと思います。

● ● ●

やあ、あとがきでしか出番のないステファンだ。
ロジーヌさんと魔獣が④まで進んでいるのにこれはどういうわけだ! 割とノーマークだった金欠組も気がつけば④だしな! というかもう第一部も終盤なのに、僕は本当に登場できるんだろうな!?
せめてもの役割なので、ここで声を張らせてもらう!



ステファン「ミラージュ・ファントーム!!」
ヴァリマール『イッパイ分身シタ』
エマ「認識を乱すフィールドを生み出して、そこにヴァリマールの姿を投影します。奇襲、撹乱に使えますね。ただし認識ずらしの幻惑と騎神の虚像は、一対にして発動しなければ効果がありませんのでご注意を。相手を惑わしていないと、分身体にすぐ気付かれてしまうということですね。投影量と発動フィールドの広さに応じた霊力を消費しますから、あんまり分身ばかりしていると本体が死んじゃいますよ」

ステファン「ファルコ……アーイズゥッ!!」
ヴァリマール『目ガ良クナッタ気ガスル』
ガイウス「全感覚を鋭敏化し、特に動体視力を引き上げるぞ。全開なら相手の動きがスローに映るほどだ。カウンターや至近距離での乱撃戦で使用するといい。機体に関しても知覚や検索範囲の拡張といった付随効果があるが、他のマスタークオーツと異なり、リィン自身に強く影響を及ぼすのが最大の特徴だ。効果時間と能力の強弱によって霊力消費量が決まる。五感に繋がる全神経を酷使するので、長時間の使用は衰弱死を招くぞ」

ステファン「ブレイブゥゥ……パワーッ!!」
ヴァリマール『力ガ強クナッタ気ガスル』
ラウラ「特性の全てを剣に宿すことで、攻撃力を爆発的に引き上げるぞ。剣がなければ四肢に力を回すことも可能だ。現状ではリアクティブアーマーを正面から突破する唯一の方法だが、剣が消耗して砕けてしまうので最終手段にした方がいいだろう。霊力消費は攻撃力の増強に比例する。攻めてばかりだとすぐに力尽きて死んでしまうな」


以上だ。やっぱり僕は叫んでいるだけだった!
次回もお楽しみ頂けると幸いだ!

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