「で、今からどうするの?」
あきらめ半分の声でそう言ったのはセリーヌだった。
アルバレア城館敷地内、何かの建物の裏手。人目に付きにくいその場所で、リィンたちは身を潜めている。
塀外の巡回から逃れる為に、壁を乗り越えて敷地に入ったはいいが、今度は出られなくなったのだ。
リィンは茂みから顔をのぞかせて、周囲の様子をうかがってみる。今のところ、見回りが来る気配はない。
「手立てを考えるから下手に動くなってアリサは言っていたが」
しかし、そんなものが都合よく浮かぶとも思えなかった。やはり自分たちで脱出するのが一番いい。問題は、その方法こそが浮かばないということだったが。
「だからといって、いつまでもここにいるわけにもいきませんし……」
エリゼは不安そうにしている。そんな彼女の手を取り、「大丈夫ですよ、なんとかなりますから」と元気付けるエマは、傍目に見ても優しいお姉さんである。
これがフィーやミリアム相手ならお母さんに見えるんだろうな、と切迫した状況とは外れたことを思うリィンは、ふとこちらに近付く足音を聞いた。
見れば、領邦軍の制服を着た男が一人歩いてくる。外のことといい、こんな人通りのない場所まで巡回ルートに入っているとは、敷地内の警備は想像以上に厳しいようだ。
まっすぐリィンたちに向かってくる兵士。茂みに隠れてはいるものの、近くから見られたら一発でばれてしまう。
「一撃で気絶させるしかないな」
言いながら太刀に手がける。呼び笛を鳴らされるまでが勝負だ。先制の機を狙うリィンに「待って下さい」と告げ、エマは自分の眼鏡を外した。
「ここは私が」
「委員長?」
一歩、また一歩と地面を踏みしめる音が近くなる。
高まる緊張の中、エマはその場でいきなり立ち上がった。兵士との距離は三アージュもなかった。
呆気にとられる兵士と、そしてリィンたち。
「な、なんだお前は」
『――我が声に耳を傾けよ――』
戸惑う意識の隙間をついて、エマの声が男の頭蓋を揺らす。彼は虚ろな表情となり、その場に立ち尽くした。
「いくつか質問します。あなたの知る範囲で教えて下さい。――まずこの敷地内の造りを教えてもらえますか」
輝きを放つ金色の瞳に見つめられ、男はおもむろに口を開く。
「……アルバレア家城館は、中央庭園を囲むように数棟が分かれて建っている……厨房などがあって使用人が勤めるのは主に東館。来客を迎えたり、接待用の設備があるのが西館。公爵様がお住まいになっておられるのが奥の本館だ」
「ユーシス様はもう館にお戻りですか?」
「……先ほど屋敷に帰ってこられたのを見た……」
「彼の自室も本館ですね? 何階のどこですか?」
「……私の担当区画ではない。分からない……」
「ありがとうございます。ではこの区画は異常なしです。警備の続きに戻って下さい」
こくりとうなずいて、兵士はふらふらと歩き始めた。
「そういうことのようです」
と、エマはリィンたちに振り向く。エリゼは感嘆の声をもらした。
「す、すごいです。というかエマさんの術があれば脱出できるんじゃないですか?」
「それはちょっと難しいですね。今みたいに不意を突かないといけませんし、同時に多人数を術にかけるのは限界がありますから」
エマは眼鏡を掛け直した。
「リィンさん、あの本館を目指しましょう」
「俺もそれがいいと思う。このままユーシスに会いに行くんだな」
エマが言った通り、この状況で彼女の力を駆使しても、すんなりと脱出はできそうにない。ここに留まっていても、いずれ別の巡回がやってくる。ならばこの敷地内で唯一の安全圏と言えるユーシスの部屋を目指そうというのだ。
彼の立場がどうあれ、さすがに問答無用で見張りに突き出されることはないだろう。多少の希望的観測も含んではいるが。
「どのみちこの場所からは動くしかない。行ける所まで行ってみよう」
● ● ●
「お嬢様方、もっと胸を張ってお歩きくださいませ」
「わ、わかってるわよ」
「胆力が鍛えられるな、これは……」
何食わぬ顔で使用人用の裏口から進入を果たしたメイド姿のアリサたちは、東棟の一階廊下を歩いていた。
同じ使用人らしき何人かとすれ違いもしたが、そもそも従業員数の桁が違うのだろう、知らない顔だと不信がられるようなことはなかった。
「生きた心地がしないわ、ほんと」
「私はこの使用人服にも違和感がある。着慣れないからな、このようなヒラヒラしたものは」
スカートにあしらわれたフリルを触るラウラは、いささか落ち着かない様子だ。
「そう? 似合ってると思うけど」
「か、からかわないで欲しい。アリサこそ着こなしているではないか」
シャロンがくすりと笑う。
「ラウラ様もアリサお嬢様もお似合いですわ。その姿のお二人を見たら、きっとリィン様もどぎまぎしてしまうでしょうね」
『え?』
不意打ちにリィンの名前を出され、二人は戸惑った。
一瞬硬直したあと、今一度自分たちの服を見て、頬を赤らめ、続いて首をぶんぶんと横に振り、ようやく我に返って、そしてシャロンに猛抗議。見事にシンクロした動きだった。
「なんでそこでリィンの名前が出るのよ!」
「まったくだ! まったくだ!」
「うふふ、申し訳ありません」
乙女の抗弁をどこ吹く風で流したシャロンは「あら、あれは」と壁掛けのそれに気が付いた。
「これは館内見取り図ですね」
あいにく敷地の全てを記したものではなかったが、この建物内をフロアごとに分けた簡略図で、構造の分からない彼女たちにはありがたいものだった。
それによればこの東塔は三階建てで、一階は食料保存庫や厨房設備などがあり、上層は住み込み使用人の居住区画にもなっている。
「なるほど。様々な作業を統括しつつ、従業員詰所を兼ねた場所か。この東棟だけでもかなりの広さだな」
「いまさらだけど、どうやってリィンたちを探すの? いくらこの服でも関係ないところをうろついてたら不自然に映るわよ」
「それは私に考えがあります。まず行くべきは――」
「あなた達、何をしているんですか」
シャロンの言葉を遮って、一人の女性が早足で近付いてきた。
使用人服だが若干仕立てが違う。もしかしたらメイド長だとか、上の立場の人かもしれなかった。
息を呑んで、アリサとラウラは姿勢を正す。嫌な汗が背に滲んでいた。
「昼時で忙しいのですから、早く持ち場について下さい。どこの担当ですか?」
内心で焦る二人とは逆に、「厨房ですわ」とシャロンは落ち着き払った声で即答した。
「だったら早くお行きなさい。今日はお客人もいらっしゃっているのですよ。お食事のご対応が遅れたら家名の沽券に関わります」
「かしこまりました。では」
「で、では」
「うむ、失礼する」
会釈して足を進めかけたアリサたちを「……いえ、やはりお待ちなさい」と、その女性は引き止めた。
「名札を見せなさい」
左胸に付けているネームプレートである。外でシャロンが調達してきたものだ。何か勘付かれたかもしれないと、アリサは必死で平静を装った。
順番に名札を渡すと、彼女は裏面を確認する。
「アイリーン、ヴァネッサ、リサ……ああ、先日入った新人の。名簿を見たから名前は知っています。まだ慣れないのでしょうが、それでも持ち場を離れるのは感心しませんね」
裏側には勤務開始年月日が表記されてたらしい。得心がいったようで、彼女はシャロンたちに名札を返した。
「重々反省しております。先輩方とお客様にご迷惑をかけないよう、至急厨房に戻らせて頂きますわ」
「結構。それでは急ぎなさい」
深々とお辞儀をして、何とかその場をやり過ごす。女性が遠ざかってから、アリサは息をついた。
「どうなることかと思ったわ。こんな調子じゃ進むのは無理よ」
「いえ、宣告通り、このまま厨房に入ります」
「む、無茶言わないで。さすがにばれるわ」
「そういえば、さっき考えがあると言っていたが……」
思い出したようにラウラが言うと、シャロンはうなずいた。
「目的を再確認します。第一はリィン様たちの発見、合流、しかる後に脱出。ユーシス様との再会は二の次に考えて、仕切り直しと割り切りましょう」
「それはいいんだけど。でも想像よりも自由に動けないし、そもそも私たちの脱出自体も危うい感じなのよ。どうするつもり?」
シャロンの言うことは分かるが、それがどうして厨房に行くことに繋がるのか、アリサたちには理解できなかった。
「今は詳しくお伝えする時間がありません。ここからは私にお任せ下さいませ」
「……不安しかないんだけど」
「ううむ……」
表情を曇らせる二人に、シャロンは微笑んでみせた。
● ● ●
「《ソルシエラ》の使いだ。依頼されていた食材を届けに来た」
給仕服のガイウスは、城館の正門前までやってきていた。門番は訝しげな表情で、妙に泰然とした給仕を見る。
「厨房宛ての納品があることは聞いているが、普段は業者用の裏口を使っているだろう。どうして今日に限って正面から来たのだ?」
さっそく予定外が起こった。ハモンドからそのようなことは聞いていない。考えてみれば足を運んでの直接納品など、わざわざ料理長が出張るとも思えない。
故にハモンド自身、裏口の存在を伝えるのを失念していたのだろう。
困ったガイウスは、とりあえず最初に浮かんだ言い訳を口にした。
「俺は新人だ。裏口があるなど知らなかったのだ」
「し、新人のくせに堂々としすぎだ」
「こちらから入れないのなら、裏に回らせてもらう。では失礼する」
「ああ、待て待て」
門番はガイウスを呼び止めた。
「来てしまったものは仕方がない。裏口は遠いし、納品が遅れても困るからな。今回は特例で正面から入れてやる。次からは気をつけるがいい」
「そうか、感謝する」
「本当に重役みたいな雰囲気の新人だな……。まあいい。ただ一応、積荷の確認だけはさせてもらうぞ」
男は配膳台車に歩み寄ってきた。台車は上部と下部の二層式になっている。上部はいい。玉ねぎやら人参やらジャガイモやら、袋に入った野菜類をこれ見よがしに詰んでいて、特に怪しまれるようなものはないからだ。
問題は下部。そこにどっかりと乗っている寸胴鍋である。この中にはミリアムが入っている。開けられでもしたら終わりだ。新種の食材などと言い張って、押し通せないものだろうか。うむ、無理だ。
「上は問題なし。で下は――おお、これは大きな鍋だな」
男の手が鍋蓋に伸びる。
「ま、待ってくれ」
「どうした? 中身を見るだけだぞ」
「それはよくない。よくないんだ」
「何がよくないのか分からんが」
ガイウスの脳裏をいくつもの打開策が巡る。
元々彼はとっさのごまかしであったり、その場を凌ぐ為の方便というものが得意ではない。しかし今だけは何とかして理由をひねり出さないと、城館に入るまでもなくミリアム共々お縄になってしまうのだ。
ガイウスは思考をフル回転させた。
「……これはハモンド料理長の新作スープなのだ」
「そうか。それをどうして開けてはいけない?」
「その、とても繊細な味付けだ。……むやみに外気にさらして香りを逃がしてもいけないし……埃などが入ったら台無しになってしまう」
少し考えていたようだが「ふむ、それは確かによくないな」と、男は寸胴鍋から手を引いた。
「エントランスに入って右手の通路をまっすぐ進め。東棟の一階に厨房がある」
「すまないな」
「下積み時代は大事だ。精進するがいい。お前は出世しそうな気がするよ」
「そうだろうか?」
そこそこに親切な門番に促され、解放されたゲートをくぐる。舗装された石道を少し進むと、来賓用の大きな正面扉が目に入った。
その扉前にも立っていた警備員に事情を話し、ガイウスは城館内へと足を踏み入れた。
豪奢そのもののシャンデリアに目を
場違いな業者の来訪に探るような視線が注がれていたが、ガイウスは気にした素振りも見せず、門番に言われた通り右の通路を進む。
このまま道なりに行けば東棟に着くそうだ。しかしすんなりと厨房に入るわけにはいかない。自分たちの目的は、あくまで仲間を救出することだからだ。
小声でガイウスは言う。
「聞こえるか、ミリアム。もうすぐ厨房に着く」
「え? それってまずいよね」
鍋の中からくぐもったミリアムの声が返ってきた。
「台車を渡したら、そのまま帰るしかなくなっちゃうよ。厨房に行くまでにリィンたちを見つけないと」
《ARCUS》で通信をすれば彼らの所在は掴めるのだが、それはユーシスに通信を行わない理由と同じで、気軽にはできなかった。悪いタイミングで《ARCUS》を鳴らしてしまうと、それが原因でリィンたちが見張りに発見されてしまうかもしれない。
「最初にしてきたリィンからの状況報告では、“屋敷を正面から右に回って、そこを抜けた先の塀を乗り越えた”と言っていた」
「えーと方角は……多分西側だよね。何か見える?」
「大きな建物がある。こちらが東館だから、向こうは西館で間違いないだろう」
むやみに動いていないなら、リィンたちがそこに隠れている可能性は高い。
「合流できたら脱出はガーちゃんに頼もうか?」
「目立つからなるべく避けたかったが、それしかないな。警備の目を盗んで、俺たちを抱えたまま塀を越えてもらおう。人数が多いから往復してもらわないといけないが」
侵入時にアガートラムを使わなかったのも、目立つからというのが大きな要因だった。敷地内部の様子が分からない状態で、あの巨躯を扱うのは色々とリスクが多かったのだ。
「西館はここから反対側だよね。見つからずにいけるかな」
「ここまで来たら普通に進んでみよう。そのまま中央の庭園を突っ切れば最短ルートだ」
「大丈夫? ボクは外の様子が分からないから何とも言えないけど」
「心配はいらない。呼び止められたら、迷ったということにしてみる。何といっても俺は新人だ。慣れない場所だから迷ってもおかしくないのだ」
「どうかなー。門番の人も言ってたけど、ガイウスって新人っぽくないんだよね」
ガイウスは台車の向きを西館へと向ける。庭園を横断すると言っても、その面積は広大だ。庭師か使用人か、いずれにしても誰かしらとは遭遇するだろう。
気を入れ直して、台車を押そうとした時だった。
「ああ、そんなところにいたのか! 君、《ソルシエラ》の人だろ? 納品時間過ぎてるんだから、早くこっちで食材降ろしてよ」
少し先、東館の戸口から、コックらしき人が慌てて手招きしている。
「これは……参ったな」
考えてはみたが、この状態で西館に進む正当な理由など、出てくるはずもなかった。ガイウスは仕方なく東館へと歩先を向けた。
● ● ●
仲間たちが二班に分かれて、こちらの窮地を救いに来ているなどと思いもしないリィンたちは、警戒に警戒を重ねて移動し、なんとか本館二階までたどり着いていた。
絨毯が敷き詰められた廊下。壁にはいかにも高価そうな絵画が等間隔で飾られている。
曲がり角の物陰に身を潜め、先頭のリィンは意識を集中した。
「……前方二〇アージュ。一人だ。こっちに歩いてくる」
「反対方向は誰もいないわね。今ならやれるわよ。エリゼ、エマ」
セリーヌからの号令を受けて、まずはエリゼが外で拾ってきた小石を放り投げる。石は窓にぶつかり、こつんと小さな音を鳴らした。
「ん、何の音だ?」
警備の男が窓に注意を逸らした隙に、エマがその背後に忍び寄る。
とんとんと男の肩を叩いて、振り向き様に、
『――我が声に耳を傾けよ――』
瞳の奥を見据え、一息で術にかける。「庭園の警備に向かって下さい」と告げると、男は「了解だ……」とうなずき、呆けたように階段を下っていった。
「よし。このフロアはこれで大丈夫だな」
「さ、さすがに少し疲れましたが……」
やはり本館の警備は他の場所より厳重だった。しかしリィンとセリーヌが巡回の気配を察知することで難から逃れ、絶妙のタイミングでエリゼが相手の気を引き、その都度エマが術をかけまくるという方法でここまで進んできた。
もはや暗示テロ。巡回の兵士たちはことごとく庭園送りである。今頃、庭園の警備はかつてないほど濃密なものになっているに違いない。
「この階は領地記録の書庫ばかりだな。上に行った方がよさそうだ」
ひとしきり二階の部屋を調べ終わり、リィンたちは三階へと上がる。
清掃の行き届いた長廊下には、部屋がいくつか並んでいた。その中から人の気配がする。
幸いなことに見張りの姿はなかった。リィンたちは廊下の中腹まで移動する。
「このどれかがユーシスさんの部屋なんでしょうか」
エリゼが言う。横並ぶ部屋に名札などは掛かっていないが、まさか開けて確認するわけにもいかない。
「わからない。まだ四階もあるみたいだから、一概にも言いきれないしな。気配だけで個人が特定できればよかったんだが……」
「それはアタシにも無理ね。エマのなら分かるけど」
どうするかと思案していると、リィンとセリーヌが同時に動きを止める。接近する気配を感じたのだ。
「まずいぞ。四階から降りてきてる。しかもこれは――」
「ろ、廊下両端の階段から一人ずつだわ!」
前後を挟まれた形である。隠れる場所もなく、エマの暗示も一度にかけられない。これが一番危険なパターンだった。
エマが一番近くの部屋に走った。
「この中に隠れましょう!」
「いやダメだ。その部屋には誰かいる!」
「入ると同時に術を使います。やむを得ません」
言いながらドアノブを回すエマ。
「っ!」
開かない。内側から鍵がかかっていた。もう三階に巡回が戻ってくる。
不意に扉が開いた。
「騒がしいぞ。一体何事だ」
ユーシスだった。
「お久しぶりです! 失礼します!」
「な!? お、お前たち――」
顔を見るが早いか、彼の驚愕そっちのけで、全員がユーシスの部屋になだれ込んだ。
● ● ●
「《ソルシエラ》から食材が届いたぞ!」
「ようやくか。急いでメインディッシュの調理にかかれ」
厨房は慌ただしさの中にあった。
先ほど到着した客人の為に食事を用意する手筈だったのだが、食材の到着が遅れたせいで予定していた料理が作れないでいたという。
にわかに騒がしくなってきた厨房の一角にアリサたちはいた。それぞれが目立たないように手伝いをしている。
メインの調理はコックがするのだが、盛り付けや前菜作りはメイドも担当するらしい。
アリサとラウラは皿の片付けや取り出し。シャロンはしれっとキッチンに馴染んで、テキパキと調理補助に勤しんでいた。
「ねえ、ラウラ。私たちこんなことしてる場合じゃないと思うんだけど」
「だがシャロン殿が任せろと言ったのだ。事実、我々にはいい策も浮かばない」
「それはそうなんだけど……」
「あなた達! 無駄口を叩いている暇があったら、しっかり手を動かしなさい!」
先輩メイドから注意が飛んできて、『す、すみません』と二人は声をそろえて謝った。
「皿出しに二人はいらないわ。ええと、アイリーンはそのまま食器の用意をして、ヴァネッサは前菜作りをしてちょうだい!」
先輩はアリサたちの名札を見ながら言う。ちなみにアイリーンはアリサで、ヴァネッサはラウラだ。本物の彼女たちは、今もまだ家屋の物陰で毛布に包まれているのだろう。
気の毒には思うけど、恨むならシャロンを恨んでよと、アリサは心中でそんなことを思った。
「ふふ、任せて下さい」と謎の自信をみせるラウラが調理台に向かう傍ら、アリサはさりげなくシャロンの横まで移動する。
「で、これからどうするの?」
小声で訊く。シャロンは目にも止まらない速さでジャガイモの皮をむいていた。手際をまったく緩めることなく彼女は言う。
「ええ。そろそろ頃合いですね」
「何が?」
シャロンが視線で示した先、「メインディッシュ完成だ! 付け合わせの品も出来ているか?」と一人のコックが完成したばかりの皿を手に、配膳台へと急いでいる。
シャロンの指がくいっと動いた。直後、そのコックは何かに足を取られたようにつんのめり、転倒。料理を床にぶちまけてしまった。
「あ、あああ!!」
「おい、何をやってるんだ!?」
顔を真っ青にして体を起こす彼に、前菜らしき皿を持った別のコックが駆け寄ってくる。
シャロンの指がまた動く。やってきたコックも横転した。彩も鮮やかに、前菜が宙を舞う。
それだけに留まらなかった。シャロンは立て続けに五指を繰る。メイドやコックの隙間を縫って伸びた鋼糸が、鍋をひっくり返すわ、フライパンを床に落とすわ、トラブルの大量生産を始めた。
混沌吹き荒れる中、青ざめた顔をしていたのはアリサもだった。
「ち、ちょっとやめなさい、シャロン!?」
「あら、ここではリサと呼んでくださいませ。アイリーンさん?」
そうこうしている間にも被害は拡がっていく。
厨房を取り仕切る料理長は、キッチンの片隅で気絶していた。
未曾有の大惨事を目の当たりにしたショックかと思ったが、彼のそばに大鍋が転がっているのを見て、アリサはその原因がシャロンだと分かった。おそらくは狙ってぶつけたのだ。
頭目を失って混乱する厨房内に、シャロンは場違いなほど穏やかな声を響かせた。
「皆様、落ち着いて下さい。ここからの指揮は私が執りましょう」
顔も覚えられていない新人メイドの大それた提案に、その場の全員が当惑していた。
反論の口を開かれるより早く、シャロンは続ける。
「こう見えても私は、帝都にある皇族御用達のレストラン――その厨房を任されていた経験があります」
もちろん嘘だ。
「自身の立場も弁えず、失礼も重々承知の上なのですが。皆様が私の指示に従って頂けるのなら、この状況を切り抜けることができます」
ざわざわと顔を見合わすキッチンスタッフ。シャロンはさらに重ねて言う。
「少なくとも公爵様のお顔に泥を塗ることは避けられるでしょう。万が一、お客様のご不興を買うようなことがあれば、この私が責任も取ります」
その言葉が効いた。こんな失態がアルバレア公の耳に入れば、自分たちの首が飛ぶ。それを理解した者たちは、異議を申し立てることなくシャロンの提案を了承した。責任の所在を明確にしたのも効果的だったかもしれない。
いくらでもすげ替えの利く新人が、わざわざ矢面に立とうというのだから。
「では一から作り直しです。ああ、その前に」
シャロンは近くにいたメイドの一人に目をやった。
「今日一日の全スタッフのスケジュール表のようなものはありますか? 厨房以外も――警備や清掃に関わるものも頂きたいのですが」
「え? ええ、作業ローテーション一覧でよければ」
切羽詰った状況で、判断力が鈍くなっている。その不自然な要求を、メイドは不自然と感じていなかった。意図を理解できないまま、すぐに言われた通りのものを持って来る。数枚の用紙に記載された、時間単位で区切られたローテーション表。
誰が今、どこを担当しているか。ここからどう動くのか。
見慣れなければ複雑に映るであろうその表を、シャロンはひとしきり目を通す。そして悟られぬよう密やかに、小さく口元を緩めた。
「では、アイリーンさん」
「は、はい」
アイリーンことアリサに、シャロンは言った。
「私の指示を該当する人に伝えて下さい。まず現在、本館の清掃を担当しているローザをこちらに呼び戻します。大至急です。そしてローザの代わりにあなたが本館の清掃に入って下さい」
「え、私が?」
「ローザは何回か厨房の手伝いも経験しているようです。仕事を分かっている人に来てもらう方が効率を上げられます」
「む……」
演技とは分かっていても、面白くない言い様だ。わずかに頬を膨らますアリサに「あら、反抗的な目ですこと」と演技なのかどうか微妙なラインの嗜虐的な瞳で、シャロンは一歩詰め寄った。
たじろぐアリサに耳打ちする。
「お嬢様はそのまま本館周りの捜索を。あと本館に向かう途中、ここに記した数名の警備の者にも今から言う私の指示を伝えて下さい。公爵の名前をちらつかせれば、すぐに応じると思います」
一体いつの間に書いたのか、彼女はアリサの手にそっと四つ折りの紙を握らせた。
「現場のローテーションを計算して狂わすことで、ちょうど一時間後に、裏口の警備を五分間だけ無人にします」
「それって……」
つまり一時間以内にリィンたちと合流し、生み出した五分の警備の穴を突いて外へと脱出しろというのだ。
「お願いできますか?」
「わかったわ。任せて」
際どい策には違いないが、それでもようやく可能性がみえた。アリサは厨房の外に出て、本館へと走る。
彼女の姿が見えなくなると、シャロンは両の手を打ち鳴らした。
「ではさっそく調理再開です。ジグさんはメインに取り掛かってください。リデルさんはスープの温め直しを。ノーラさん、デザートの準備はまだ早いですわ。お皿を冷やしておくだけで大丈夫ですよ。先に魚の下処理をお願いします。次にジェイムズさんは――」
自身も敏速に動きながら、一人一人に指示を出していくシャロン。アルバレアの厨房を支配するラインフォルトのメイドがそこにいた。
「ヴァネッサさん」
「あ、ああ、私か。お呼びか、シャロ――リサ殿」
ラウラはシャロンに向き直る。
「先程から作っていたサラダはもうできていますか?」
「今し方、完成したところだが」
「ではスープと合わせて、前菜として先にお出ししましょう。西館のお客様に運んで頂けますか?」
食器に紛れさせて、ラウラにもメモ紙を渡す。
手のひらの中でそれを確認したラウラは、「承知した。では行ってくる」とサラダを配膳用のトレイに乗せた。
配膳に見せかけてこの場を離れ、ラウラは西館周りの捜索をする算段だ。
一人厨房に残ったシャロンは作業をこなしながら、なおもスケジュール表に目を落とす。
「塀側の巡回時間もずらした方が、より確実な撤退ルートを構築できますね。……ふふ、次はどこの配置を変えちゃいましょうか」
怪しげに、危なげに、そして楽しげに。
思惑たっぷりの微笑を湛えて、彼女は次なる調理に取り掛かった。
● ● ●
ガイウスは悩んでいた。
まっすぐに運ぶつもりのなかった《ソルシエラ》からの食材を、不本意ながらというか、なし崩し的にというか、そのまま厨房に届けてしまったのだ。
台車から食材を下ろすなどの搬入は、厨房のスタッフたちがやってくれた。客人が来ているからと、相当焦った様子だった。
言葉を差し挟む余地さえなく、ミリアム入りの寸胴鍋も運ばれていってしまった。
「……これは困ったことになったな」
厨房の隅に立ち尽くし、ガイウスは腕を組んだ。
彼女の居場所は分かっている。厨房の中央付近に設置されてあるテーブル台だ。鍋類がまとめて置かれたその中に、ミリアム入りの鍋もある。
どうにかして回収したいが、人目に付くことなくそれをするのは無理だ。
いい方法はないものかと考えていると、厨房に異変が起こった。
出来上がったばかりの料理を運んでいたコックが、いきなりこけたのだ。駆け寄ってきたもう一人も、同じようにこける。不自然な転倒だった。けたたましい音を立てて、料理が床に散乱する。
それを皮切りに、異変は伝播した。
壁にかかっていた調理器具が突然落ちたり、作っている途中の皿が割れたり――切れたようにも見えたが――喧騒と怒号と混乱が、あっという間に拡がっていく。
よく分からないが、好機だった。
叫喚の中、ガイウスは例のテーブルに走った。誰も彼のことなど気にしなかった。それどころではないといった感じだ。
「今の内に……っ!?」
テーブル前で足を止め、寸胴鍋に手をかけようとしたガイウスの動きがぴたりと止まる。
そこには同じ型の寸胴鍋が複数あったのだ。その数五個。もしかしたら以前に食材の納品に訪れた《ソルシエラ》のものかもしれない。
ここが定位置なのか、返却予定のものを固めているのかは知らないが、これではミリアム入りの鍋を特定できない。
騒がしい中とはいえ、さすがに鍋に声はかけられない。万が一にも中身を見られたらまずいので、上蓋も開けられない。
「……そうだ」
ミリアムが入っているなら、相応の重量があるはずである。ガイウスは一番手前の鍋を、ほんの少しだけ持ち上げてみた。軽い。これは空っぽだ。続けて二つ目。これも違う。三つ目も外れ。
当たりは四つ目できた。この重さだ。間違いない。
「ふんっ」
気合いを入れて持ち上げる。若干よたつきながらも、寸胴鍋を元の配膳台車へと運び戻した。
あとは引き返す振りをして、改めて西館裏の敷地を探しにいけばいい。
厨房の混乱は続いている。ガイウスはそそくさと台車を押して、その場を離れた。
「ミリアム、なんとかなった。このまま西館に行くぞ」
寸胴鍋からの返事はない。
「ミリアム?」
もう一度声をかけるも、反応はない。ガイウスは感心した。
「用心深いな。俺も見習うとしよう」
厨房のテーブルに残された、触られることのなかった五つ目の寸胴鍋。それが不意にがたりと動いたが、彼がそれに気づくことはなかった。
● ● ●
東館と西館は離れている。
運んでいる最中に出来た料理が冷めてしまわないよう、厨房には温蔵機能のある配膳車がいくつか常備されていた。
ならば西館にも厨房を設置すればとラウラは思ったが、来客用の館がみだりに騒がしくなったり、生ごみの排出が頻繁にあるのは頂けない。
まあ、やむを得ない事情なのだろう。そんなことを考えながら歩を進めていると、西館はもう目の前だった。
シャロンから渡されたメモを読み返す。
一時間以内にリィンたちと合流し、そのまま裏口から脱出せよとのことだ。その為のルートは巡回兵や使用人のタイムシフトをいじることで作り出すという。
「万能すぎるな……」
アリサの頭が上がらないのもうなずける。
ラウラは辺りをぐるりと見回した。当然だが、見える範囲にリィンたちの姿はない。
配膳はフェイクなので、台車を適当な場所に隠して、早々に彼らの捜索に移ってもいいのだが――
「とりあえず前菜だけは持っていこう」
客人とやらが、料理が遅いなどのクレームを言い出しても厄介だ。
ラウラは西館へと入ることにした。
適当な使用人をつかまえて、客室の場所を聞く。実際に料理も持っていたので、怪しまれるようなことはなかった。
相変わらず高級な設えの回廊の先、一階の最奥に迎賓室はあった。
ノックをするも応答はない。
時間をかけてもいられない。ラウラはもう一度ノックをすると「失礼します」と断りを入れて、扉を開いた。
調度品に飾られた豪華な一室。中央のソファーに誰か座っている。女性のようだが、なぜか怒っているようで、ぶつぶつと不満をつぶやいていた。
「まったく、どうなっていますの。わざわざこちらから出向いたのに会おうともしないなんて。これが四大名門のアルバレア公だなんて、礼節のれの字もないですわ!」
「ええと……」
「あの人は館内をぶらついてくるとか言って、かれこれ一時間は戻りませんし。今さらですけど、どうして私が彼と同行しないといけないのですか!?」
「その……」
「それに食事を用意するなんて言うから待ってるのに、一体どれだけ時間をかけていますの! あーもう!!」
「すみませんが……」
「なんですのっ!?」
怒り心頭の女性は、勢いよくラウラに顔を向けた。
「あ、いえ。お食事をお持ちしましたが。お待たせしたようで申し訳ありません」
「あ、あら。ようやくですか」
こほんと咳払いをして、彼女はソファーに座り直した。
前の卓上に温蔵庫から取り出したサラダとスープを並べるラウラを、その女性は不思議そうに眺めていた。
「……あなた、どこかで見たような気が……」
「そうでしょうか」
平然と応対したが、内心どきりとする。しかし思い返してみるも、彼女との面識など記憶になかった。
「まあいいですわ。せっかくですので頂きます」
「メインディッシュは後ほどお運びいたします。サラダにはこちらのドレッシングをお使いください」
サラダもそうだが、このドレッシングは自分が調合したオリジナルだ。本来の目的を忘れてはいなかったが、普段の癖で、ついつい気合いを入れて作ってしまったのだ。
「ではごゆっくり」
踵を返すラウラ。その後ろで、サラダを口にする女性。
「ごふっ」
嗚咽に続き、フォークが床に落ちた。
からんからんと空虚な音が響き、ぷるぷると肩を震わせた女性が立ち上がる。顔は青くなって、はげしくむせ込んでいた。
「の、飲みもっ……! はうぅっ!」
水を一気に飲み干すと、グラスの底をだんとテーブルに打ち付ける。ぜいぜいと肩で息をしながら、彼女は喉を絞るようにして言った。
「お、思い、出しました……わ! なんでそんな恰好で、こんな所にいるのかは知りませんけど……! 盛りましたわね……毒的なものを……っ」
全身から怒りのオーラを立ち昇らせ、彼女――デュバリィは首をかしげるラウラをにらみつけた。
「ア、ル、ゼ、イ、ド、の、娘ええ~ッ!!」
~続く~
お付き合い頂きありがとうございます。
まだまだ続くアルバレア城館潜入編。三班の目的、行動がそれぞれ異なっているので、現時点での状況を以下にまとめておきました。
・リィン班……仲間が心配しているから早急の脱出を考える。ユーシスと再会すると共に脱出の手引きをしてもらいたい。仲間が助けに来ているとは考えていない。気配読みと魔女暗示のおかげで、どうにかユーシス様の部屋に押し入ることには成功。
エマ『エマ・ミルスティンが命じる。貴様は――死ねっ!』
兵士『イエス・ユア・マジェスティ!』
・アリサ班……リィンたちの単独脱出を難しいと考える。ラウラとアリサで別館を捜索する間に、シャロンが作業ローテーションを狂わせることで警備に空白地帯を生み、撤退ルートを時間限定で出現させる。アリサは本館へ、ラウラは西館に向かう。
ラウラ『さあ、召し上がれ』
デュバリィ『ほぎゃあああ!』
・ガイウス班……リィンたちの単独脱出を難しいと考える。新人の肩書と給仕服を活かし、敷地内捜索。目星をつけているのは西館裏。合流でき次第、警備の隙間をついてアガートラムで塀外に脱出。ミリアムが厨房に置き去りなのは気付いていない風の兄貴。
ガイウス『ミリアム、おとなしいな』
寸胴鍋『………』
※アリサ班とガイウス班は(特にアリサ班)リィンからの報告を受けてから城館潜入までが迅速だった為、連絡を取り合う機会を逸している。
※故にアリサ班とガイウス班はお互いに潜入していることを知らない(状況報告は受けていても、外で待機中だと思っている)
※この時点でアリサ班とガイウス班は、ユーシスとの再会を脱出してから仕切り直す必要があると考えている。事を荒立てるとそのチャンスがなくなる為、強行突破はしたくない。
――という各班の物理的、心理的状況のもと、今回のストーリーは進んでいます。
例によって大変なことになってきていますが、引き続きお楽しみ頂ければ幸いです。