虹の軌跡Ⅱ Prism of 《ARCUS》   作:テッチー

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第19話 ユミル休息日 ~フィーネさんリターンズ

「くああ……むー」

 あくびをしてフィーは寝ぼけ眼をこすった。

 カーテンの隙間から差し込む光。窓の外で小鳥が鳴いている。雪もちらついているのだろう、今日も外は寒そうだ。

 ここはシュバルツァー邸の二階、客室の一つである。仲間が増えてきたので、大体のメンバーは鳳翼館に移っているが、フィーはこの部屋に留まることにしていた。理由は単純。ベッドの寝心地がいいからだ。

 ふかふかだし暖かいし、いつまでも眠っていられる。

 寝返りをうって、ごろんと右をむく。

 同じベッドの中、横にはミリアムが寝ていた。すーすーと幸せそうに寝息をたてている。

 彼女もこのベッドが気に入った一人だ。二人で一部屋を使わしてもらっている。

 今、何時だろう?

 腕を伸ばして置時計を取る。

「ん……フィー?」

「ごめん。起こした?」

「いいよー」

 改めて時計を見る。時刻は朝の十時。なんてことだ。起きるにはまだ早い。

 ミリアムがフィーの袖を引っ張った。

「もう少し寝ようよ」

「同感」

「ダメです」

 唐突にはぎ取られる毛布。ベッド横にエリゼが立っていた。

「エリゼ、ひどい」

「返せー、毛布を返せー」

 寒さに耐えるかのように、身を寄せ合ってベッド上で丸まる子猫二匹。彼女たちは恨めしそうな目でエリゼを見上げている。

「いつまで寝ているんですか。もう他の皆さんは起きていますよ」

「あと五十分だけ……」

「人でなし~」

 もぞもぞと毛布を取り返そうとするフィーとミリアムに構わず、エリゼは手早く毛布をたたんでクローゼットにしまい込んだ。

「さあ、お二人とも。まずはお顔を洗って着替えです」

 子猫たちは無言だった。黙ったまま目を閉ざして、動こうとしない。正当性の是非はともかく、これは理不尽に対する抵抗である。

「仕方ないですね。クレアさん」

「ええ。やむを得ません」

 ベッドの反対側。部屋の奥にもう一人、クレアが控えていた。彼女はフィーに歩み寄ると、耳元にこうささやく。

「変身の時間ですよ。フィーネさん」

 フィーの身がびくりと固くなった。

 

 

 ☆☆☆《ユミル休息日 ~フィーネさん リターンズ》☆☆☆

 

 

 黒を基調にしたミディブラウス。上衣とは対照的な白いサーキュラースカート。胸元にはパールブローチをあしらって、ストレートにといた銀髪に飾るのは、薄水色のリボンバレッタ。

 着こなしの難しい黒いシャツを清楚にまとめ上げたのは、言わずもがなエリゼとクレアのコーディネートである。

 一応抵抗はした。逃げようともした。しかし捕まってしまった。有無を言わさず化粧台の前に座らされて、あとはされるがままだった。

 起床からおよそ一時間後、フィーはフィーネさんになっていた。

 エリゼは満足気な様子だ。

「今日のフィーネさんもいい感じですね」

「相変わらず動きづらいんだけど」

 今日のフィーネさんとは何だろう。まさか明日のフィーネさんもあるのだろうか。それはちょっと勘弁してほしい。

「こちらも完成ですよ」

「うー……なんでボクまで」

 部屋の奥からミリアムを連れてクレアが戻ってくる。

 ミリアムはワンピースタイプのチュニックを着せられていた。フィーネさんよりは幾分か活動的な印象だが、それでも普段のイメージとは正反対だ。

 もちろん彼女も嫌がっていたが、身ぐるみをはがされてからは早かった。フィーと同じく着せ替え人形にされて、あっという間にお嬢様然とした装いに変えられている。

 クレアは優しくミリアムの頭を一撫でした。

「ミリアムちゃんはそうですね。ミリーちゃんにしましょう。フィーネさんの妹です」

「な、なにそれ?」

「説明します。先日ユミルにたどり着いた姉、フィーネさんを追いかけてきた妹。それがミリーちゃんなんです」

「だからそれなにー!?」

「ミリーちゃんです」

 そこはかとなく嬉しそうなクレアに、わけも分からず戸惑っているミリアム。

 フィーはもう理解していた。着替えが済んで二人が満足したからといって、この時間が終わるわけではないことを。問題はこの先に待ち構えている。

「さあ、お二人とも」

 エリゼがニコニコしながら近付いてくる。嫌な予感しかしない。

「ここからは淑女のレッスンですよ」

 ほらきた。

 

 

 リビングの椅子に座らされたフィーとミリアム、もといフィーネさんとミリーちゃんがクレアの講義を黙って受けている。

 内容は言葉遣いのあれこれ。語彙の正しい用法や丁寧な受け答えなどについてが主だ。フィーに関しては以前怪しかった箇所のおさらいの意味合いもある。

 抵抗が無意味だと観念してからは、二人ともおとなしいものだった。

「――そのような理由から礼節は重要な意味を持ち、つまりこれらを学ぶことは――」

「………」

 途中、うつらうつらとそろって舟を漕ぐ。

 その都度、エリゼが後ろからグキッと座り姿勢を整えていた。

「寝ちゃダメです」

「起きるから、それやめて」

「うー……つらいよー」

 これではとても眠れない。そもそも果たしてこの起こし方自体は、淑女とやらのそれなのだろうか。フィーはそんなことを思ったが、なんとなく口に出さないでおいた。この場における自分の発言権は無いに等しい。

 となりのミリアムはすでに限界のようだ。虚ろな表情でクレアの話を耳に入れているが、なんだか両目の焦点が合っていない気がする。

 キッチンからコトコトと鍋を煮込む音がしていた。いい匂いもする。多分クリームシチュー。調理しているのはルシアだ。

 先ほどまではシャロンが火加減を見ていたそうだが、自分たちが一階へ来る少し前に鳳翼館に戻ったという。

 アリサと一緒に。

 どうやら仲が元通りになったらしい。ちょっと心配していたので、それは本当に良かったと思う。

 そしてもう一つ、ルシアが教えてくれたことがある。

 リィンが目を覚ましたそうだ。体調も問題ないとのことだったので、これで最たる気がかりは解消されたのだが――

「集中が切れてますよ」

 エリゼの手が伸びてくる。フィーは急いで姿勢を正した。

 リィンの覚醒を知るが早いか、エリゼは部屋に駆け込んでいった。

 彼と話した後、意外に早くリビングに戻ってきたのだが、父親の回復と合わせて不安の種が取れたおかげか、この前に比べて彼女のマナー指導は厳しさを増していた。

 何というか心配事が減った分、勢いが出てきたというか、そんな感じだ。

「では座学はこのくらいにしておきましょう。次は立ち姿勢の基本練習です」

 ぐったりしたフィーたちを立たせると、クレアはまず自分が手本となってみせる。

「手は体の前で自然と組みます。左手を前に、右手は下に。これにはいくつかの意味もあるので、合わせて覚えておきましょう」

「了解」

「わかったよー」

 クレアに倣いながら、ついいつものように返答してしまうと「それではいけません。さっきのお勉強を思い出して下さい」とさっそくエリゼからの指摘が入る。

「かしこまります」

「わかったよー……です?」

「むりやりに、ですとますを付ければいいわけじゃないですから……」

 そうこうしている内に、シャロンとアリサが戻ってきた。

「失礼します、奥様。お手伝いの続きを――って、あなたたち何をやってるのよ?」

 様変わりしたフィーとミリアムを見るや、アリサは目をぱちくりとさせた。その後ろに控えるシャロンも「まあ……」と口元に手をあてて、驚いた表情を浮かべている。

「あ、アリサさん。これはですね――」

 エリゼが簡単に経緯を説明する。何かと生活面でルーズなフィーを、内外面ともに淑女にしようという企画――いわゆる『フィーネさんプロジェクト』のことを。

 それと分からないように、フィーはほんの少し頬を膨らました。

 ルーズも何も、ほんのちょっと寝坊しただけなのに。やっぱり鳳翼館に泊まるべきだっただろうか。いや、ダメだ。向こうは向こうでクレア大尉がいる。困った。逃げ場がない。

 エリゼの説明を聞き終えて、アリサは肩をすくめた。

「大体わかったわ。フィーにはいい機会じゃないかしら? エマが見たら喜ぶと思うわよ」

「アリサのいじわる」

「それに、そういう事を覚えていて損はないわ」

「潜入ミッションの幅が広がるから?」

「なんでそうなるのよ」

 すくめた肩を落として、アリサはため息を吐く。その横にシャロンが歩み出た。

「お嬢様、ここは私たちもお力添えするべきかと」

「うーん、でも奥様のお手伝いもあるし」

 アリサが悩んでいると、キッチンからルシアが顔を出した。

「先ほどからお話は聞こえていましたよ。私は大丈夫だから、次は皆さんのお手伝いをしてあげて下さい」

「奥様……」

「お心遣い、痛み入ります」

 そろって頭を下げる二人。

 自分の意見を差し挟む余地はなく、勝手に話が進んでいる。

 フィーとしては、アリサたちはルシアの手伝いに回って欲しかった。エリゼと双璧を成す生粋のお嬢様のマナー指導など、考えただけでも身震いしてしまう。

 アリサとシャロンがこちらに向き直った。あらためてその姿をしげしげと眺めると、

「それじゃ、さっそく」

「ええ、始めると致しましょう」

 こともなく、そう告げた。

 

 その数分後。

 フィーとミリアムは水の入った皿を頭に乗せて、リビング中を歩き回らされていた。

「な、なんの意味があるのこれ?」

 よたよたとふらつきながらミリアムが問う。シャロンは楽しそうに笑った。

「軸をキープして歩くことは、美しい姿勢の基本ですわ」

 バランス感覚には長けているフィーでも、これには苦戦していた。

「背中がつりそうなんだけど……」

「はい、あごを引いて。肩に力を入れちゃダメよ」

 二人の後ろにつきながら、アリサが逐一指摘を入れていく。これまた容赦がなかった。

「あ……ちょっと無理かも」

 フィーの頭から皿が落ちそうになる。次の瞬間、風切り音と共に、傾いていた皿が元通りの角度に戻った。

「ご安心ください。万が一にもカーペットが汚れることはありませんわ」

 微笑んだシャロンの指から糸が垂れている。皿のどこに引っかけたのか分からないが、落下の寸前に糸で引き戻したのだろう。

 というか今、切れ味抜群の鋼糸が自分の頭すれすれをかすめたのか。

 ひそかに息を呑んで、フィーはシャロンに視線だけを移した。

「さあ、あと十周はして頂きませんと」

 相変わらず優しげな笑みを湛えているが、瞳の奥にどこか嗜虐的な色が見えるのは気のせいだろうか。

 

 その二十分後。

 フィーとミリアムは小さなテーブルに座らされていた。さらにその周りを、エリゼたちが取り囲んでいる。

 卓上にあるのは平皿に注がれたスープが二つ。

 ルシアが作っているシチューはまだ完成していなかったので、空いているコンロでシャロンが簡単に仕上げたものだ。練習用の一品で、塩コショウのみの味付けだけというが、それでもいい匂いだ。

 普段なら喜んで食べるところだが。

「さあ、お召し上がり下さい」

 シャロンに促され、二人は無言でスプーンを手に取った。

 あれだ。音は立てない様に飲むのがマナーというやつだろう。それくらいは自分でも知っている。

 フィーはミリアムと目配せしてスープをすくった。

「止まって」

 即、アリサから制止が入る。

「スープは手前から奥にすくうのよ。まあ、地方や国のマナー形式によっては逆の場合もあるけど」

「……了解」

 面倒この上ない。どちらでもいいと思う。

 とりあえず言われたとおり、皿の手前から奥にスプーンを動かして、すくいあげたスープを口元に近付けた。

 周りのお姉さんたちは、その挙動の一つ一つをじっと見つめている。刺すような静寂。異様な雰囲気だ。

 ふと横のミリアムを見てみた。

「うう。うう……」

 ガチガチに緊張している。カタカタと手が震えて、スプーンからスープの滴がぽたぽたと皿に落ちていた。

 巻き込んでごめん。でも私も巻き込まれた側だから。

 口の中にスープを注ぎ入れる。音は立てない様に飲み込む。おいしいんだろうけど、今ばかりは味を感じない。

 クレアが手元のチェックリストらしき用紙に色々と書き込んでいる。そういうのが緊張するからやめて欲しいのに。

 ミリアムなんかはたったの一口で、むせ込んでしまっている。

 スプーンの上下運動を無心で繰り返す。もう少しで完食だ。

 残ったスープをすくおうとした所で、スプーンと皿があたってカチャと音を立てた。全員の視線がこちらを向く。嫌な汗がにじんできた。

 クレアが口を開いた。

「スープが少なくなると、スプーンではすくいにくくなりますよね。そういう時はどうするか分かりますか?」

 分からない。今までどうしていたっけ。意識したことがないから思い出せない。

 皿を傾けてすくう、というのはいかにも間違っている気がする。まさか皿から直接飲むとか? いや、さすがにそれはないか。

 悩んでいると、クレアはさりげなく小皿にのったロールパンを卓上に置いた。

 なるほど、そういうことか。

 フィーはロールパンをちぎってスープにひたし、それを口に入れる。その様子を見て、クレアはうなずいた。

「そういう時はもう食べません。スプーンですくえなくなった時点で終了です」

「………」

「スープにパンをひたすのもマナー違反となります。これは減点ですね」

 じゃあ、なんでロールパンをテーブルに置いたの。

 抗議の視線を送るが、クレアは意に介した様子もなく、すまし顔でさらさらとチェックリストを書き込んでいた。

 

 ● ● ●

 

 午前中のカリキュラムは終了した。

 午後からは実地訓練――つまり外出である。

 前回と同じく、マフラーの裏に通信状態の《ARCUS》を隠して、散歩するフィーとミリアムにエリゼたちがあれこれと指示を出すのだ。

 てくてくと歩くフィーネさんとミリーちゃんの後ろ、離れた民家の陰や遮蔽物に隠れながら、エリゼ、クレア、アリサ、シャロンの四人がついて回る。事情を知らない人たちが見たら、怪しい光景に違いなかった。

「ねえ、フィー。今さらだけど、これってなんなの」

「私にもよく分からない」

 郷の中を一回りする途中、ミリアムがそんなことを訊ねてきた。実際、よく分からないのだ。

 前回は着ているものがよくないと、エリゼとクレアに服装を見立てられた。

 今回は立ち振る舞いや、食事のマナーをアリサとシャロンに教えられた。

 皆が言うには、言葉遣いもまだまだとのこと。常時丁寧にしなくてもいいが、使い分けくらいは出来るようになっておいた方がいいと何度も言われた。

『フィーネさん、姿勢が崩れてますよ。背すじを伸ばして、あごを引いて下さい』

 エリゼの声が首裏に引っかけた《ARCUS》から届く。

 続いてミリアムにも通信が入る。クレアからだった。

『ミリーちゃんも。今は飛んだり跳ねたりはダメですからね。粛々とフィーネお姉さまの後に続いて下さい』

「分かってるけどさー」

『ミリーちゃん?』

「……分かってる……ます」

 ミリアムはフィーに比べて、言葉遣いに対する飲み込みが早かった。気を抜くとすぐにおかしくはなっているが。

 足元に視線を巡らすミリアム。

「なんだか今日、雪が少なくない?」

「うん、おかげで助かってる」

 雪を踏んで歩くのは疲れるから嫌だったのだが、ほとんど積もっていない。道の端に固められた雪塊がたくさんあるので、もしかしたら誰かが雪かきをやってくれたのかもしれない。

 途中、何人か郷の婦人方とすれ違ったが、誰もフィーたちだとは気付かなかった。

 指示通り、ぺこりと会釈をして、そそくさと通り過ぎる。その背後からは「まあ、お上品な娘さんたちだこと」などと聞こえてきた。

 お上品? これが上品なのだろうか。佇まい一つで印象が変わるとはシャロンの弁だが、自分には今一つ理解できない。

 というよりも、その重要性が実感できなかった。

 服は機能性があればよし。防護性があればなおよし。言葉は相手に伝わればよし。

 それではダメなのだろうか。

「……ダメ、かもね」

「フィー?」

「なんでもないよ」

 猟兵だったなら、それでよかったのかもしれない。

 でも、違う生き方をするとしたら? 今は無理でも――いつか武器を置いて暮らす日々が訪れたとしたら?

 花の育て方を学んだように、もしかしたら他にも覚えるべきことがあるのではないか。

 心のどこかで漠然とそう思う自分がいる。

 だからフィーは理解できなくても面倒でも、エリゼたちのお節介を受け入れているのだ。とはいえ、半分以上逃げ出したかったのは事実だが。

「フィ、フィ、フィフィフィ」

 遠くから怪しげな声が聞こえた。「フィフィフィッ」と前方から全速力で走ってくる男性が視界に映る。

 半ば転倒しそうになりながらフィーたちの前まで来ると、うつむいて肩でぜいぜいと息をしながら――彼は突然に顔を上げる。

「フィーネさんっ!!」

 全身を歓喜に震わして、駅員ラックは叫んだ。

 

 

 

「へえ、フィーネさんに妹がいたなんて知らなかったよ」

「いたのでございます」

 今は休憩中だというラック。彼は郷を歩くフィーネさんの姿を見かけるや、放たれた弾丸のようにダッシュしてきた。

 休憩中とは言うものの、ケーブルカーはほとんど運行停止状態なので、暇を持て余しているのが現状らしいが。

 ラックとフィーネさん、そしてミリーちゃんの三人が座るのは宿酒場《木霊亭》の、窓側に近いテーブルの一つである。

 ちなみにエリゼたちはフィーたちの入店の後にそれとなく続き、今は店内隅の目立たない一角を陣取っている。

 現時点でフィーネさんと関係があると割れているのは――親戚という設定だ――エリゼだけなので、彼女は特にラックから見えない位置に控えていた。

 ほどなく、店主のジェラルドが二人分のレモネードを運んでくる。これはフィーとミリアムの分で、ラックはコーヒーを頼んでいた。

 ラックはフィーネさんとの再会に、とても嬉しそうだった。

「そっかあ。フィーネさんを追ってユミルまで。ミリーちゃんも大変だったね?」

 ラックが気さくにミリアムに話しかける。

 普段のミリアムなら「全然大丈夫だよ」くらい、あっけらかんと笑って答えそうなものだが、厳しい特訓を受けたせいか、いかんせん彼女のあらゆる動作はぎこちなかった。

 フィーも今日初めて感じたが、慣れない制約の中での行動を強要されると、ミリアムはひどく緊張するらしい。

 それこそ、初めて外に放り出された子猫のようなものだ。

 任務中であれば、こうはならないはずだが。おそらくは、後ろからお姉さん先生たちが見張っていることも、緊張の要因の一つなのだろう。

 この状態でまともに話せるはずもない。

 混乱する頭で『だよ』やら『です』が混ざった結果。

「全然大丈夫だす」

 謎の田舎娘に仕上がった。

「だ、だす? ……ええと、そういえばミリーちゃんは何歳?」

「十三歳だす!」

 聞き間違いではないと理解したラックは、フィーネさんに視線を戻した。

「そういえば二人はお散歩中だったのかい? ミリーちゃんに郷の中を案内していたの?」

 その辺りは考えていなかった。どう答えようかと思案していると、《ARCUS》に小声で通信が入った。フィーにしか聞こえない程度の音量だ

『適当で大丈夫ですよ。ラックさんにまた案内をさせたら悪いですし』

 エリゼが言う。前回もラックは時間を割いて、郷の案内をしてくれたのだ。

 ならば何かよさそうな理由を――ああ、そうだ。

「山道に下りてキジを狩ろうと思っていたのでございます」

「キ、キジ? 狩る……?」

 これは本当のことだった。

 エリゼたちに捕まってしまったものの、元々の予定では目を覚ました男爵の為に、精のつくものを探してこようと思っていたのだ。リィンも覚醒したそうだから、尚さら丁度いい。

 目を見開いて驚いているラックにそのことを伝えてみたところ、

「そ、そんな……フィーネさん……」

 何やら彼は衝撃を受けているようだった。

「床に伏せる男爵様とリィンの為に、やったこともないキジ狩りに行こうとするなんて……! 優しい、優しすぎるよフィーネさん!」

「いや、やったことがないわけじゃ」

「やっぱり天使! 天使だ!」

 あばたもえくぼ状態である。勢いよく立ち上がり、ラックは窓の外に目を向けた。

「でも山は危険だよ。ユミルの地理だってよく知らないじゃないか。だから、ここは俺に任せて」

「え?」

「俺がキジを捕ってくる。はは、心配しないで。これでも郷の若衆さ。猟銃くらい使えるから」

 銃を構える真似をしてみせて、ラックは店主のジェラルドを呼んだ。

「おう、ラック。どうした」

「追加オーダーお願いします。彼女たちに苺のミルフィーユを。あと食後の紅茶も。お代は先に置いときます。おっと、お釣りは要りませんので」

 数枚の紙幣を怪訝顔のジェラルドに渡すと、ラックは戸口に向かった。その背中に醸し出すのは、頼れる男感だ。

 彼は振り返りもせず、親指だけを立ててみせた。

「楽しみに待っていて、フィーネさん。俺はキジを捕ってくる。君の為に」

 もはや男爵の為でもなくなっている。

 走り去るラックを見送った後で、困惑気味のジェラルドが訊ねてきた。

「よく分からんが……お嬢さんたち、苺のミルフィーユを食べるのか?」

「頂くでございます」

「おいしそうだす」

 フィーネさんとミリーちゃんは即答した。

 

 ● ● ●

 

 壁掛け時計が鳴り響く。

 見れば時刻は一七時。夕食には少々早いが、小腹も空いてきた。

 鳳翼館のラウンジ。そのソファーに沈み込んだフィーは、ぐうと鳴ったお腹を軽くさすってみた。

 となりに座るミリアムも疲れた様子である。彼女の場合は、歩き回った以上に気疲れしたのだろう。フィー共々、すでに普段通りの服装に着替えていた。

「ラックさん、大丈夫かしら……」

 先ほどからエリゼは心配そうに外を眺めている。太陽も沈みかけて、辺りは薄暗くなってきていた。

 地形も熟知しているし、問題ないだろうとはエリゼ自身も口にしているが、それでも心配そうだった。

「さあ、次はどうしようかしらね」

 対面するソファーに座るアリサがそんなことを言う。「何が?」とフィーが彼女を見ると「次回のフィーネさんよ」とさらりと返してきた。

 それなりに楽しかったらしく、アリサも普通にプロジェクトメンバーに入ってしまっている。となると必然、シャロンも自動加入だ。

 クレアとシャロンは離れたテーブルで、色々と打ち合わせをしている。

 郷の防衛方針についてかと思いきや、「次回のレッスンはどこに重点を置きましょう」だとか「次は応対マナーでしょうか」などといった具合で、二人の間のメモ紙には、今後の変身プランがびっしりと書き込まれていた。

「ねえ、ボクは抜けてもいいかな?」

「ダメ」

 巻き込んだのは悪いと思うが、ここで抜けられてしまうと全員の矛先が自分に集中してしまう。

 フィーはミリアムの腕をがしっと掴んだ。

「逃がさないよ」

「な、なんでさー!」

 その時、鳳翼館のドアが勢いよく開いた。

 いかにも憔悴した様子のマキアスが、ふらふらと入ってくる。一歩を踏み出した途端、彼は床に倒れ込んでしまった。

 一同がマキアスに駆け寄る。虚ろな瞳でなにかボソボソと呟いているが、ほとんど聞き取れなかった。なぜか顔に眼鏡をかけていない。

「……これなに?」

 ふとフィーが気付く。マキアスは右手に何か持っていた。小奇麗な皿に乗った、白くて丸いもの。

 それを皿ごと回収して、とりあえずそばのテーブルに置いておいた。

「多分、疲労ですね。まずは部屋にお連れしましょう」

 ざっと容態を看たシャロンが言った。

 バギンス支配人はカウンターから離れていて、どこに行ったのか男性陣も鳳翼館にはいない。

 大きめのバスタオルを担架代わりにして、女性五人がかりでマキアスを二階へと運ぶことになった。

 しかしミリアムがバスタオルの端から手を滑らして、マキアスの頭が床に落ちたりと、中々に骨の折れる作業だった。

「目が覚めるまで、一階のソファーで寝かしていた方がよかったかもしれませんね」

 階段を登る途中、クレアが言った。

「さすがクレアさん。でも、もう少し早く言って頂けると……」

 エリゼは息を切らせている。まもなく二階だ

「マキアス様に糸を巻き付けて、私が二階から引き上げる方法もありましたわね」

 シャロンが困った表情を浮かべると、アリサは首を横に振った。

「それって体が切れたりしないものなの?」

「大丈夫ですわ。ただちょっと力加減を間違えると、キャベツの千切りみたいになってしまいますけど」

「や、やめときなさいよ」

 ようやく二階に到達する。そこからは引きずるようにマキアスを部屋へと運んだ。ゴン、ガンと色々な場所をぶつけた気がしないでもないが、そこはスルーだ。

「マキアス、どうしたのかな」

「でも大したことなさそうだけどねー」

 部屋に着いてからの処置はシャロンたちに任せて、フィーとミリアムは一足早く一階に降りて来ていた。

「あ、そういえば」

 そのテーブルに足を向ける。さっきマキアスが持っていたものを、ここに置いたままにしていた。

「フィー、それなに?」

「見た事ないけど……食べ物かな」

「ふーん?」

 皿に乗った白い何かを、くんくんとミリアムが匂いを嗅ぐ。やはり食べられそうだ。お腹は減っている。そしてマキアスは意識を失っている。

 さて、どうするべきか。

 フィーとミリアムはお互いの顔を見合わせて、それぞれ一言。

「頂くでございます」

「おいしそうだす」

 

 

 時刻は二十時を回った。

 みんなで夕食を済まし、フィーとミリアムはシュバルツァー邸に帰ってきていた。

 ミリアムは部屋で休んでいて、エリゼはリィン、ルシアはテオの様子をそれぞれ見に行っている。

 リビングにはフィー一人だった。

 ソファーに寝そべりながら、ぼーっとして暖炉を眺める。パチパチと音を立てる薪。ゆらゆらと揺れる炎。心地良い暖気が身を包む。

 あっという間に眠気がやってきた。

 夢うつつにまどろんでいると、玄関扉をノックする音がした。

「……ん」

 一階にはフィー以外誰もいない。仕方ないので、自分が向かうことにする。

 ドアを開けると、そこに立っていたのはラックだった。

 雪と泥にまみれて、頬にいくつものすり傷があった。その手には一羽のキジが握られている。立派な大きさだ。

「……ああ、君はリィンの友人だったよね。士官学院の」

 フィーがうなずくと、ラックは彼女越しにリビングを見やり「誰もいないのか?」と息も絶え絶えに訊いてきた。

「みんな今は二階。呼んでこようか?」

「フィーネさんは?」

「え?」

 虚を突かれて、フィーはラックを見返す。

 銀髪という共通点だけでは、自分とフィーネさんを同一人物として認識できないらしい。そんなに違うのだろうか?

 ちょっとばかり返答に困ったが、

「フィーネさんも二階で休んでるよ」

 一応そう答えておいた。自分がフィーネさんだと伝えたところで信じてもらえないかもしれないし、逆に信じてもらったとしても、その後どうしたらいいのか分からない。

「そっか……いや、呼んでこなくていいよ。そのまま休ませてあげたらいい」

「了解」

「一つ頼まれてくれるかな。これをフィーネさんに渡して欲しい。約束していたものなんだ」

 ラックはキジを差し出してきた。

「三羽くらいを目標にしてたんだけど、この時間まで粘っても一羽しか捕れなかった」

 不甲斐ないけど、と付け加えたラックにフィーは言った。

「フィーネさんも喜ぶと思うよ。これでリィンと、リィンのお父さんも元気になるし」

「そうだといいな。……あ」

 何かに気付いた様子で、ラックは「しまった」とつぶやいて、キジを指さした。

「キジをそのままで持ってきちゃった。調理ならルシアさんでも大丈夫だろうけど、その状態から捌くんなら男爵様じゃないとできないかも」

「ラックはできないの?」

「俺もやったことないよ。狩りによく出る人じゃないと、そういうことしないし。ん? そういえば君、何で僕の名前を――」

「ちょっと貸して」

 言葉の途中で、フィーはラックからキジをつかみ取った。戸惑う彼を置き去りに、スタスタとキッチンへと向かう。

 その持ち方たるや、キジの首根っこをがっしり握るというワイルドぶりだ。

「あ、ちょっと!」

 思わずラックは彼女の後を追う。

 フィーに続いて調理場に足を踏み入れた直後、彼の視界に映り込んだのは、双銃剣によってスッパーンと首を切り落とされたキジの姿だった。

 流し台に転がる鳥さんの頭。

「………」

「まずは血抜き、と。このキジ、捕まえてからどれくらい経ってるの?」

 フィーは平然としていて、ラックは呆然としている。

「ラック?」

「え! えっと……一時間は経ってるような?」

「この寒さだし、だったら血は出にくいかもね。じゃあ先に」

 言いながら、ぶちぶちと羽をまとめて引き抜いていく。手つきに一切の迷いがない。見る間に羽がむしり取られていった。

「こんなものかな。次は――」

 顕わになった表面皮を、たわしでゴシゴシこすって汚れを洗い落とす。

 それが終わると、お尻から肋骨まで切れ目を入れて、内臓を取り出す。もちろん手でだ。

「あ、忘れてた。久しぶりだからかな」

「な、何がですか?」

 知らずの内に敬語になっているラック。

 ちょっと照れたようにはにかんでから、フィーはキジの足をズダンと切断した。刃先まで下のまな板に食い込んでいる。

 感情の読めない少女が、凄まじい手際でキジを解体していく。少量飛び散った鮮血が、フィーの頬に付着した。

「ふふ」

「ひっ……」

 不意に頬を緩めるフィー。キジが手に入って単純に嬉しかっただけなのだが、猟奇的なイメージを感じたのか、ラックは一歩後じさる。

 その背が他の調理器具に当たって耳障りな音を立てた。フィーは手を止め、彼に横目を向ける。

「静かにしないとダメだよ」

「ゆ、許して下さい!」

「別に怒ってないけど……」

 ほどなくしてキジの下処理が終わる。少し考え込んだあと、フィーは言った。

「ラック」

「は、はい!?」

「ちょっと食べていく?」

「は、は?」

「キジ。ささみの刺身くらいなら、すぐに切り分けられるから」

 彼が勝手に突っ走ったとはいえ、自分が捕ろうと思っていたキジを持って来てくれたのだ。

 不器用ながらも、それはフィーのお礼だった。

 しかし彼はぶんぶんと残像を残す勢いで首を横に振る。

「あ、あ、ありがとうございます! でもお腹いっぱいだからっ!」

「遠慮しなくてもいいんだけど」

「失礼します!」

 急速回れ右。ラックは外に駆け出した。いや、逃げ出した。

「………?」

 どうしたんだろう。せっかくキジを食べられるようにしたのに。

 まあ、別にいいけど。

 手の内で双銃剣をくるくると回転させながら、フィーは首をかしげた。

 

 

 ――END――

 

 

 

 

 ――Side Stories――

 

 

《看板娘の奮闘日記②》

 

 中央広場に向かって緩やかに坂道が伸びている。

 その石畳の道を挟んで軒を連ねる、様々な店構えの並び。仕立て屋、宝飾店、宿酒場、工房まである。

 通称、職人通り。《Artisan,s Street》と言えば、観光客にも人気のあるバリアハートの一角だ。

「それじゃ行ってきま―す」

 宿酒場《アルエット》の戸口に立ち、コレットは店主のジオラモに笑顔を向けた。カウンターから「ああ、行ってらっしゃい」と手を振るジオラモを背に、手にした紙袋の中身をもう一度確認する。

 三段重なった四角い容器。さっき作ったばかりのお弁当だ。

 斜めにならないように注意しながら、扉を開いて外に出ると、入口に置いてある黒板のメニュー表をせっせと書き換える少年がいた。ジオラモの息子で、ビスケという名だ。彼はよく店の手伝いをしている。

「今日のランチはなーに? ビスケ君」

「あ、コレット姉ちゃん。ハンバーグ定食だってさ。どっかいくの?」

「向かいのレトラさんのとこ。今日はお弁当頼んでくれたんだ。私が作ったんだよ」

 コレットは紙袋を得意気に持ち上げた。

「大丈夫かよ、それ。姉ちゃん、ちょくちょくドジするからな」

「むー、失礼ねー」

「いてっ」

 頬を膨らませて、生意気盛りのおでこを指ではじく。

「というかハンバーグ定食ってまだ書いてないじゃない。もうすぐお昼のお客さん来ちゃうよ」

「分かってるけどさ」

 コレットは気付いた。仕返しとばかりに、にやついてみせる。

「黒板の一番上に手が届かないんだ?」

「う、うるせーな」

 つま先立ちで腕を伸ばせば、それなりに届いてはいるのだが、そこから文字を書くとなると難しいらしい。

「コレットお姉さんにまっかせなさい」

 ビスケから白チョークを取って、さらさらと『ハンバーグ定食♡』と書いてやった。文字のレタリングも可愛らしく仕上げてみる。

「値段は?」

「700ミラ。……あとさ、ハートはいらないんだけど」

「分かってないなあ、ビスケ君は。こういうとこで目を惹かないとお客さんは来ないよ」

 ちっちと指を左右に振って、メニューの横に値段も書き加える。

 この手の定食ランチで700ミラは妥当な金額だろう。客はお金持ちの貴族だけではない。それなりにリーズナブルな値段にしないと、一般客が入ってこないのだ。

「まあいいけど。とりあえず、レトラさんとこに弁当届けてきたら?」

「あ、そうだった」

 せっかくの出来たてだもの。温かい内に食べてもらわなくちゃ。

 コレットは駆け足で仕立て屋《ヴァレンティ》に向かった。

 

 

「レトラさん、こんにちは」

「いらっしゃい、コレットちゃん。もう持って来てくれたのね」

「えへへ、自信作だよ」

 弁当箱の入った紙袋をレトラに手渡し、コレットは店内を見回した。既製品も展示しているが、仕立て屋ということで基本はオーダーメイドである。

 それなりに値は張るが、主な顧客が貴族相手なので品質の方が重要なのだろう。

 最近分かってきたことだが、自分たちのような庶民が安くて良い物を求めるのに対し、貴族は高くて良い物を求める気風がある。

 高くても良い物、ではない。高くて良い物だ。値段自体がステータスの一部みたいな感じだ。

「ところでガゼルさんとトゥーリーちゃんは?」

「主人は二階で作業してて、トゥーリーはその手伝い。言われた生地や道具を持って行くぐらいだけど」

 店主のガゼルは職人気質でサバサバした性格だ。娘のトゥーリーはビスケよりも年下だが、やはり家業を手伝っている。

 仕事の邪魔をしても悪いので、二階には上がらないことにした。

「昼時で客足も落ち着いてるから、ゆっくりしていってね」

 店内には一人の客がいたが、それ以外は誰もいなかった。

「それにしても、コレットちゃんがここに来てそろそろ一か月ぐらいかしら? もうずいぶん慣れたみたいね」

「あはは、みなさんのおかげです」

 トリスタから離れてバリアハートに着いたはいいが、コレットにそこからの当てはなかった。しかもよりによって貴族の町である。途方に暮れて、街角に座り込んでいた彼女に声をかけたのが、職人通りの人たちだった。

 コレット自身もただ厄介になるつもりはなく、部屋を貸してくれている宿酒場や、他の店も度々手伝いに行ったりして今に至っている。

 持ち前の明るい性格もあって、二週間も経つ頃にはすっかり馴染んでいたのだった。

「おい、店員」

 横柄な口調で、その客がレトラを呼んだ。「はい、ただいま」と彼女は急ぎ足でその男に近付く。

 小奇麗なスーツに身を包んだ若い男。多分貴族だ。彼が指さす先には見本用のブラウンの生地があった。

「これと同じ生地で色は白がいい。トレンチコートを仕立ててくれ」

「申し訳ありません。白の生地は在庫を切らしておりまして。発注中なのですが、物流も制限されていまして、取り寄せから納品までには一ヶ月以上はかかるかと」

 慇懃にレトラは頭を下げたが、男は納得しなかった。

 なぜ余分に取り置いておかなかった。私はすぐに欲しいから足を運んだのだ。なんとかしてみせろ。など、威圧的な態度でレトラに詰め寄っている。

 彼女は困って、ガゼルを呼ぶべきか迷っているようだった。

「えーと、お客様」

 見かねて、コレットが間に割って入った。「なんだ、お前は?」とにらんでくる男に、彼女は深々と頭を下げて、「もし宜しければ、こちらのお品はどうでしょう」と、カウンターから持ってきたカタログを開いてみせた。

 男は顔をしかめる。

「そんなものはいらん。私が必要なのはこの生地だ」

「もちろんそちらの色もお客様にお似合いですが、この冬から春にかけてはこの色が流行しますよ。ヘイムダルや近郊都市では早くも品薄になっています」

 そう言って淡いベージュの生地を指し示す。色合いの上品さが目を引く。ちなみに流行っているのは本当だ。もっともそれは一か月前の話であって、ヘイムダルの現状まではさすがに分からないが。

 まあ、その辺りはさして重要じゃない。

「ブラウンの生地は少ししたら入荷できます。でもこの生地は少ししたら確実になくなります。それこそ一か月程度では再入荷が難しいくらいに」

 帝都での流行り。これから予測される品薄。貴族に取ってはレアリティもステータス。

 気持ちの動きを心得たコレットの勧め文句だった。

 男は興味を示し、いくつかの質問を始めた。

 こうなるとこちらのペースだ。

 無理に商品を買わせようとするのではなく、基本的に相手から話させて、何を望んでいるかを先読みする。しかし勧めすぎてうとましく思われると、相手の購買意欲は削げてしまう。

 出過ぎず、引き過ぎず。大切なのは距離感と空気感。

 ショッピング好きのコレットは、その線引きを経験から弁えていた。

 あれこれとやり取りを交わしたあと、

「……ではこのベージュでコートを仕立ててもらおう。納期はどれくらいだ」

「お急ぎとのことでしたよね。レトラさん、どうですか?」

「え、あ、はい!」

 思い出したようにレトラが受注状況を確認する。

「至急作業に入りますので、二週間頂ければ仕上がるかと」

「ふむ。まあ、そんなものか」

 先ほど会話の流れで、通常のコートなら三週間はかかるとさりげなく差し挟んでおいた。二週間という期限なら、彼には短く感じられたことだろう。

 終始憮然とした態度ではあったが、男は満足したようだった。

 彼が店を出ると、レトラが礼を言ってきた。

「気にしないで下さい。別に大したことはしてませんし」

「怒るお客さんに納得して帰ってもらうって、すごい難しいことなのよ。……コレットちゃん、よかったらうちで働いてみない?」

「私にできることなら喜んで。でも――」

 部屋を貸してもらっている手前、やはりメインで手伝うべきは《アルエット》だった。

「今から戻ってハンバーグ定食売らないといけないんです」

 

 

 《ヴァレンティ》を出てすぐ、コレットは首をかしげた。

 変だ。昼時なのに、お客さんがほとんど入ってない。この時間、普段なら店の外まで並ぶくらいなのに。

 外から店内をのぞいてみると、カウンターでジオラモが嘆いている。ビスケも暇そうに、机を拭いていた。

「えー、なんで~?」

 せっかく、かわいい文字でメニューまで書いたのに。

 その折、店に入ろうとした通行人も立て看板を見るなり、進路を変えてそそくさと他の店に入っていく。

 中には二度、三度見してから――やはり他の店に行く人もいた。

「なんなのよー。私のメニューの書き方が気に入らないって言うのー!?」

 ぷんぷんとむくれて、コレットは看板の前に回ってみる。

 そこで客がこない理由をすぐに理解した。

「あちゃー」

 看板にはでかでかと『ハンバーグ定食♡ 7000ミラ♡』と書いてあった。

 ……うん。ビスケ君には黙っておこう。

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 




お付き合い頂きありがとうございます。
フィーネさんとコレットの二本立てでお送りしています。
フィーネさんは順調(?)に色々学びつつあります。妹分もできて彼女はどこに向かう(向かわされる)のでしょうか。

休息日も三話目ですが、ちょっとここでそれぞれの時間軸をまとめました。


5:00 ガイウス起床
6:00 マキアス起床
8:00 アリサ起床
8:30 マキアス、ガイウス、一回目の雪かきから帰ってくる
9:30 二回目の雪かき開始。足湯場でアリサとトヴァル会話
10:00 フィー、ミリアム起床。着替え開始。
10:20 アリサビンタ、リィン覚醒
10:50 シャロンとアリサ仲直り。朝食の為、鳳翼館に二人で移動
11:00 フィーネさんとミリーちゃん、リビングで特訓。
11:30 シャロンとアリサがシュバルツァー邸に戻る。
12:50 昼食後に女性陣外へ
13:00 男性陣、カミラにあずき探しを頼まれる。
13:30 フィーネさん、ラックと遭遇(ガイウスとのあずき会話の後)。木霊亭に行ったのはマキアスより後。
14:00 スノーボードで男性陣クラッシュ。
14:30 ラック、キジ狩りへ
14:50 女性陣、鳳翼館に戻る。
17:00 饅頭完成
17:30 マキアス、鳳翼館入口で気絶。
19:00 マキアス復活。クレアとの会話。
21:00 ラック帰還。キジをフィーに渡す。トラウマを負う。

そんな感じでした。フィー達の起きる五時間も前に、ガイウスの兄貴は活動していたのです。ミリアムもノルドにいましたが、彼女の生活習慣は変わっていないっぽいですね。

ユミル休息日――とは少々離れますが、メインストーリー進行の前にもう二話ほど挟みます。

引き続きお付き合い頂ければ幸いです。

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