疲れは残っていたが、マキアスはことのほか早く目を覚ましていた。
時計を見ると、朝の六時前。外はまだ薄暗さを残している。
「む……」
寝ぼけ眼のまま枕元に置いてあるケースから眼鏡を取り出し、一つあくびをしながらそれを掛ける。
明瞭になった視界に映るのは、整然とした室内。厚意で宿泊させてもらっている鳳翼館の一室だ。
二度寝しようかと、枕を一瞥する。いや、やめておこう。もう眠れない気がする。
マキアスはベッドから起き上がって、着替えを始めた。
ノルドから帰って来て一日。リィンの意識はまだ戻らない。アリサとシャロンさんも何だか変な感じだ。不安なことは色々と多い。
しかし心配してばかりしていても仕方がない。僕は僕にできることをやろう。と言っても、まずは体と心を休めることが先決なのだが。
自分にとって一番安らぐ時間は言わずもがな、チェス盤と対面している時だ。考え抜いた果てに至高の一手を導き出した時など、何にも変え難い最上の瞬間と表しても過言ではない。
「ああ、そうだ」
以前の約束もある。今日あたり、クレア大尉をチェスに誘ってみようか。
☆☆☆《ユミル休息日 ~look for red beans》☆☆☆
とりあえずエントランスに下りてみたが誰もいない。
この時間だから当たり前だ。そう思っていたが、カウンターの奥からがさごそと音がしている。バギンス支配人がほうきとちり取りを取り出していた。
食堂の方からも水の流れる音や、食材を刻む音が聞こえてくる。
朝の挨拶がてらにバギンス支配人に話を聞いたところ、鳳翼館の一日の始まりは大体この時間からだという。宿泊人数が多いときは、もっと早くなることもあるそうだ。さすがは老舗旅館というべきか。
ちなみに宿直は交代制でパープルやメイプルが務めることもあるらしい。
掃除の手伝いくらいはできると申し出たのだが、バギンス支配人は恐縮した様子で、丁重に断られてしまった。
困らせるのは本意ではないので、それ以上は無理強いをせず、マキアスは外の空気を吸いに外に出てみることにした。
「お、寒いな」
頬を冷たい風が撫でていく。上着を羽織ってきて正解だった。
クレアをチェスを誘いに行くには、あまりにも早すぎる時間だ。しかし心が浮き立つ。意識の戻らないリィンを置いては少々気が咎めないでもないが、やはり楽しみだ。
しかし、マキアスはふと思う。
「……どうやって誘えばいいんだ?」
どうもこうもない。『お時間が空いていれば、チェスをやりませんか』でいいはずだ。元々約束だってしているわけだし。
それが普通。だが果たして普通でいいのか。何だかつまらない奴じゃないか。
これでは簡素過ぎる気がする。だが女性をチェスに誘ったことなど、ついぞ記憶にない。しかも自分よりも年上の女性。
いかん、クレア大尉の前に立った自分を想像するだけで緊張してきた。
考えるのだ、マキアス・レーグニッツ。自然な流れで大尉をチェスに誘える方法を。
何気ない世間話から入るのはどうだ。『今日はいい天気ですね。なんだかチェスがしたくなりませんか?』とか。ダメだ。不自然極まりない。一体どんな天気がチェス日和だというのだ。
もっと頭を使え。僕の得意分野じゃないか。
例えばクレア大尉の部屋の前に、チェスの駒をこれ見よがしに置いておく。そこから廊下伝いに等間隔で駒を次々と設置していくのだ。部屋から出てきて、それに気付いた彼女はまず一つ目の駒を拾い上げるだろう。
そして次。また次と駒を拾っていく内に、知らずの内に一階に誘導されている。そして最後の駒を拾った先には、卓上に用意されたチェス盤と、ソファーに座った自分が構えているわけだ。
驚く彼女に漆黒のナイトを掲げてみせ、そしてこう告げるのだ。『お待ちしていました。さあ、
「できるか! 人格を疑われるぞ!」
「マ、マキアス?」
全力で叫んだ時、そばで名前を呼ばれた。一瞬で硬直した体を無理やり動かして、声の主を視界に入れる。
ひどく心配そうな顔をしたガイウスが立っていた。
「いや、本当に何でもないんだ。気にしないでくれ」
積もった雪をスコップで道の端によけながら、マキアスはガイウスに言った。
「それならいいんだが」
そう返したガイウスも、同じようにスコップを持っている。
聞けばガイウスは自分が目を覚ます一時間前には起床し、町中を歩き回っていたのだという。つまり五時前だ。相変わらずではあるのだが、彼の朝は凄まじく早い。
出会ったはいいものの、特にやることも見当たらなかった二人。とりあえずバギンスに承諾をもらい、倉庫からスコップを借りて、早朝の雪かきに精を出しているのだった。
「地味だが……けっこう大変だな」
そこまで雪の層は厚くないが、中々の力仕事だ。鳳翼館周りを済ましただけで、結構な時間がかかった。
「ひとまずはこんなものだろう。残りは朝食を頂いてからにしよう」
「残りって?」
「残りは残りだが?」
ガイウスの視線を追うと、彼の目は町全体を見渡していた。
ちょっと君、本気で言ってるのか。
ぐったりとして食堂の席につく。奥の調理場でヴェルナー料理長が手際よく動いていたが、出来上がった朝食を持って来てくれたのは、なぜかシャロンだった。
「シャロンさん、何をしてるんですか?」
マキアスが問うと「見ての通りお手伝いですわ」とにっこり微笑んで、彼女はいくつかの皿を卓上に並べていった。
焼き上がったばかりのロールパンと、柔らかな香りのコーンスープ。みずみずしいサラダに、カリカリに焼いたベーコンに、出汁の利いた卵焼き。それだけでも十分過ぎるくらいだったが、彼女は最後にそっと、瓶詰めのジャムをテーブルの中央に置いた。
ふと、鳳翼館に戻るときにすれ違ったアリサのことを思い出した。すごい勢いで駆け抜けていったので、声をかける暇もなかったのだが。
一段落したらしいヴェルナーが、手を洗いながら話しかけてきた。
「そのジャムは試食させてもらったが、絶品の一語に尽きる。作りたいものがあると言うから厨房を開けていたが、夜も明けきらない内から準備していたのだろう」
「恐れ入ります。無理なお願いを聞き入れて下さって、ありがとうございます」
「いや、構わない。ぜひそのレシピを伝授して欲しいものだ」
「ふふ、喜んで」
シャロンさん、元気がないな。いつもと変わらない立ち振る舞いなのだが、どことなくそう感じる。やはりアリサとのことだろうか。
「お、いい匂いがするな」
「本当ですね。わあ、おいしそう」
食堂にトヴァルとエリオットがやってくる。二人もマキアスたちと同じテーブルに座った。
パンにジャムを塗りながら、エリオットが言った。
「ガイウスは相変わらず朝が早いよね。外に行ってたみたいだけど何してたの?」
「ちょっと雪かきをな。朝食を終えたらマキアスと続きをやろうと思っている」
ちょっとじゃないだろう。そしてやっぱり、僕も朝食後の雪かきに引き続き参加する感じなのか。
トヴァルが「へえ」と声をもらした。
「そいつは感心だな。よし、俺も手伝うぜ。エリオットはどうする?」
「もう体調も戻ったし、僕もやります」
その朝食後。
エリオットの手から落ちたスコップが、カランカランと路面に転がった。
ガイウスから雪かきの範囲を指し示されるや否やのリアクションだった。その表情は途方もない絶望に塗り込められている。また体調不良がぶり返しそうな雰囲気だ。
その横でトヴァルも「これがノルドクオリティかよ……」と呆然とした視線を雪景色に注いでいた。
「四人もいればすぐだろう。では手分けして始めようか」
ガイウスは朗らかにそう告げた。
● ● ●
それぞれが自分の担当区画の雪かきを終わらしたのは、昼を過ぎた頃だった。
体力を使い果たした四人は、近くにあった雑貨店《千鳥》へと息を切らしながらなだれ込む。
鳳翼館に戻って昼食を待つ気力はなかった。菓子でも何でもいいから、とにかく口に入れたかった。
「――まあ、郷の為に朝から雪かきしてくれてたなんて。おばさん嬉しいわ~」
「それで俺たち腹が空いちまって。ちょっとした食べ物でもあれば買いたいんだが」
感激した様子のカミラにトヴァルが言った。
「若い子が頑張ってくれたんだもの。お代なんていらないわ。ああ、そうよ。おばさん、いいこと思いついちゃった」
カミラはパチンと両手を打った。
「みんなに郷の名物菓子を振る舞ってあげるわ。かの剣聖ユン・カーファイが伝えて下さった東方の菓子。その名も饅頭よ! 名物に決定したのは私だけど」
「なんだ、そりゃ」
「でも困ったことにあずきがないと作れないのよね。今切らしちゃってて。そういうわけで、みんなにはあずきを調達してきて欲しいの」
『あずき?』
異口同音に首をかしげる学生組に、博識のお兄さんが説明の口を開いた。
「帝国はもちろん、ノルドでも馴染みは薄いだろうな。主に東方で使われる食材で、まあ有体にいうと赤い色した豆だ。ていうかちょっと待ってくれ。探すのか? 俺たちが? 今から?」
「そうだけど?」
カミラは平然としていた。疲れ果て、腹を空かした上で四人が来店したことなど、完全に忘れ去っている。
マキアスが問う。
「そのあずきはどこにあるんですか?」
「ユミルでは時々食べるから、郷のどこかにはあると思うけど~」
つまりこんな疲れ切った状態からユミル中を駆け回らなければならないのだ。普段ならともかく、さすがに今はきつい。マキアスが他の三人をちらりと見ると、彼らも同様の意見のようだった。
「すみません、カミラさん。ちょっと今は――」
「これがすごくおいしくてね。控え目で上品な甘さだから、大人の女性にも人気があるのよ」
言いかけたマキアスの言葉がぴたりと止まる。
大人の女性が好む菓子。すなわちクレアが好む菓子。
午後のティータイム時に颯爽と現れ、それを彼女に差し出したとしたら?
食べた頬がほころび、気分も向上することだろう。そのタイミングでこう言うのだ。『
これだ。
是が非でも『饅頭』とやらを作ってもらわねば。その為には。
「引き受けましょう。あずき探し」
絶句する三人を背に、マキアスは眼鏡を押し上げた。
● ● ●
「というわけなんですけど、あずきってないですか?」
鳳翼館裏手の倉庫前。忙しなくしている様子のメイプルにエリオットは尋ねてみた。彼女は手を止めることなく、こう答えた。
「知らないわよ」
「そうですか……」
町中を固まって捜索するのは非効率だったので、四人は分かれてあずき探しを行っている。
なぜマキアスが急にあずき探しを引き受けたのかは、誰にも分からなかった。
あまりユミルに知り合いも多くないエリオットは、先日少し話した程度の仲だったが、ひとまずメイプルを頼ってみたのだった。
「そういうのはヴァルナー料理長に聞いてみたら? あとはパープル姉さんも料理するし。いや、私だってするわよ!?」
「何も言ってませんけど……。二人にはトヴァルさんが聞きにいってくれてるんです」
「ふーん、そうなんだ」
さして興味もなさげなメイプルは、手元のチェックリストに目を落としながら、ボイラーの具合を確かめている。
やはり忙しそうだ。客が自分たちだけとはいえ、基本業務は変わらないのだろう。
長居しても悪いと思い、エリオットが「じゃあ、僕はこれで」と踵を返そうとした時、メイプルが呼び止めてきた。
「ちょっと待って。あずき、あずきねえ……」
「え? 心当たりがあるんですか?」
「うーん。ここまで出かかってるんだけどなあ」
そう言って、メイプルは自分の額をとんとんと叩いた。
「いや、それもう口を通り越してるじゃないですか」
そんなつっこみにも構わずにメイプルは「もうちょっとなんだけどなー」と、エリオットをちらりと見た。
「私、この後は浴室の掃除が残ってるの。誰かが一緒に手伝ってくれたら思い出せそうな気がするんだけどなあー」
「へ?」
これはまずい流れだ。エリオットは「し、失礼します」と足早にその場を去ろうとしたが、肩をわし掴みにされる方が早かった。
「思い出せそうって言ってるでしょ!」
「絶対ウソだと思うんですけど!」
「そもそも何よ。か弱い女の子一人に重労働押し付けて、良心が痛んだりとかしないわけ?」
「押し付けるっていうか、僕手伝うなんて一言も――助けて、トヴァルさーん!」
ずるずると浴室に連行されていくエリオット。
その有無を言わさぬ握力は、控え目にみてもか弱い女の子のそれではなかった。
「どうしたんですか? トヴァルさん」
「あ、いや。誰かに呼ばれたような? 気のせいかな」
鳳翼館のロビーで、トヴァルはパープルと話していた。
「それで、あずきでしたね」
「あまってるかい? あれば分けて欲しいんだが」
「もちろんです」
パープルは心なし嬉しそうに、トヴァルを厨房へと案内した。
キッチンの奥には食材の残数をチェックしているヴェルナーがいた。彼に事情を説明すると「他ならぬトヴァル殿の頼みなら構わない」と快諾して、奥の食料庫へと向かった。
郷の為に奔走するトヴァルは、ユミルの人々に慕われているのだ。
「いやあ、助かったぜ」
「お役に立てて嬉しいですわ」
パープルはしとやかに微笑みながら、手をもじもじとさせている。
二人きりが落ち着かないようで、何かを言おうとしては口をつぐみ、がんばって開こうとはするもののやはりできず、またもじもじする。そんな態度を繰り返していた。
「あ、あの」
「お待たせしましたな」
食料庫からヴェルナーが戻ってきたのは、意を決してパープルが言葉を発しかけた時だった。
なぜかヴェルナーは、顔をしかめていた。
「うーむ。トヴァル殿、申し訳ない。食料庫が魔獣に荒らされておりましてな。幸い無事の食料も多かったのですが、あずきは全てやられてしまいました」
「そいつはまた難儀な。山郷だからありえることだが……今度俺が金属製の錠に付け替えておきますよ」
「いや、かたじけない。ん? どうした、パープル」
小刻みにぷるぷる震えていたパープルだったが、唐突にヴェルナーに詰め寄った。
「なんでこんな時に限ってあずきがないんです! ヴェルナーさんどうして!」
「ま、待て。だから魔獣が」
「なんで魔獣が来るんです!」
「それを私に言われてもだな」
ほとんど掴みかかる勢いだった。珍しくヴェルナーもたじろいでいる。
「トヴァルさんがこんなに困ってるのに~!」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。何もそこまでヴェルナーさんを責めなくても」
怒るパープルをなだめ付かせるのは、トヴァルをもってしても容易なことではなかった。
「――そういうわけで、あずきを探しているのだが」
ケーブルカー駅のすぐ近く。ガイウスは物憂げな表情で遠くを見つめる、一人の青年に声をかけていた。
だが彼に何を言っても、深いため息を吐き出すばかり。
苦労して名前だけは聞けたが、それ以外はまともな答えが返ってこなかった。青年の名はラックという。
「フィーネさん……」
先ほどからこんな調子である。フィーネとは誰なのだろうか。
「……あずきを探しているのだが」
こちらから話しかけた手前か、ガイウスもガイウスで話を打ち切ってその場を離れられず、通じない会話を律儀にも延々続けていた。
「ああ、君は今どこにいるんだろう。エリゼちゃんの親戚らしいし、やっぱり男爵様のお屋敷かな」
「俺はどこにあずきがあるかを聞きたいのだが」
「銀色の髪が印象的だったなあ」
「あずきは赤色らしいのだが」
「フィーネさん……」
「あずき……」
宿酒場の中で、マキアスはキキと対面していた。身長差があるので、対面というと微妙な感じだが。
「ここにあずきは置いてないか?」
「あずき?」
オウム返しにして、キキは首をかしげた。
店内から甘い、いい匂いがする。前にリィンから聞いたが、ここの店主のジェラルドはお菓子作りが得意らしい。
急に腹の虫が鳴る。胃袋の中はからっぽだ。というかここで何か食べればいいだけじゃないか。
思いかけて、マキアスは首を振る。今は腹を満たすことが目的ではない。饅頭を作ることが第一だ。
「あるにはある、の」
キキはうなずいた。
「そうか。それを譲ってくれないか?」
「……でも」
「頼む。この通りだ」
いたいけな幼女に本気で頭を下げるメガネの男。何とも怪しい絵面だった。
「困った、の」
キキは調理場のオーブンの前に立つ、ジェラルドを呼んだ。
「おじいちゃん。このお兄さんが私のお手玉を欲しいみたい、なの」
「は? お手玉?」
マキアスは目を瞬しばたたかせた。
「あずきはお手玉の中身、なの」
つまり、あずきをもらうとは、彼女のお手玉をかっさばくということ。
どっかりとした体躯の男性が、のしのしと調理場から顔を出す。
とてもお菓子を作っているとは思えない。スイーツなどという言葉が、誰よりも似合わない男だった。
彫りの深い強面がマキアスをにらみつける。
「子供のおもちゃを持って行こうとしてるのは、お前か」
巨大熊みたいな威圧感。
「私の大切なお手玉……」
「おう、キキはお外に行ってな。お手玉はしっかりと持って離すんじゃないぞ」
マキアスの脇を抜けて、小走りで逃げていくキキ。
どういうことだ、これは。まるで僕が悪党みたいじゃないか。
「いいか、あのお手玉はな。俺の亡くなっちまった嫁さんの――つまりキキのばあさんの形見なんだ。分かるか、ありゃあ俺にとっても大事なものなのよ」
肩を回し、拳を鳴らしながら、大熊がカウンターの中から歩み出てくる。ササパンダーのポップなイラストが描かれたエプロンが、なんとも不似合だった。
「い、いや。僕は無理矢理にとは――」
「無理矢理に奪うつもりだったのか。そうか」
「違います! というか話を聞いて下さい!」
さらに詰め寄ってくるジェラルド。
近くからガタンと椅子が倒れる音がした。
「……だあよ」
さっきから飲んだくれていた男が、ゆらりと立ち上がっている。
「モリッツ」
「話は聞いただよ。オラも一肌脱ぐ」
「ふん、足元がおぼついてねえぞ」
モリッツは雰囲気のある構えを取る。ふらふらと妙な運足をしながら、「ヒック、しぇいっ!」とマキアスに向かって手突で威嚇を始めた。
「さあ選べ。懲りずに子供のお手玉を強奪しようと企むか、諦めて逃げ帰るか、俺らに立ち向かってその眼鏡を粉砕されるかをな」
「三択目がおかしい!」
とりあえず、マキアスは逃げることにした。
合流した四人は教会前で、それぞれが息を切らしていた。
エリオットは汗だくで風呂掃除を終え、トヴァルは必死でパープルを落ち着かせ、マキアスは命からがらおっさん二人から逃げてきて、ガイウスは無限ループする会話からようやく抜け出してきたところだった。
今の所、有益な情報はなしである。
困った時は女神頼み、というわけではなかったが、教区長やシスターに話を聞けば分かることがあるかもしれない。
その程度の期待を持って、礼拝堂に入ってみたところ、
「ええ、ありますよ」
シスターのリサはそう言った。
「あずきは魔除けの意味合いもあったり、実際に栄養価も高くて傷病回復の効果もあったりするんです」
そういう理由で、教会でも備蓄しているのだという。
分けてもらえないか相談すると、リサはあっさりと快諾してくれた。
「教会裏の倉庫に保管してあります。鍵はこれです」
リサから鍵を受け取ったトヴァルの表情が曇る。
「あー、なんだか嫌な予感がするぜ」
トヴァルの予感は的中した。
教会の裏手に回るが早いか、四人の目に飛び込んできたのは、倉庫の屋根を飛び回っている魔獣――ワラビモンチだった。
この魔獣はユミル地方に生息していて、取り立てて凶暴というわけではなかったが、こうして稀に人里に下りて来ては食料を荒らしていく。
そいつが手にしているのは、ずっしりと何かが詰まった小袋。それを振り回す度にざらざらとこぼれ落ちる赤い豆。あずきだ。
「それを返してもらうぞ!」
やっと見つけたのに、魔獣なんかに奪われてなるものか。
マキアスがびしっと指さすと、ワラビモンチはあずきの一粒を指でつまみ、そのまま口に含んでみせる。食べたと思った直後、マキアスに向かってあずきをプッと吐き出した。
眼鏡のレンズにパシッと小気味のいい音を立てて命中したのを見るや、ワラビモンチは嘲るように「キキッ」と鳴いた。
「こ、このっ……!」
上等だ。ふん捕まえて、脅かして、二度と郷に来れないようにしてやる。
「トヴァルさん!」
「任せとけ!」
高速駆動で撃った水弾が飛ぶ。ワラビモンチはひょいと飛び降り、難なくアーツをかわしてみせた。代わりに吹っ飛んだのは倉庫の屋根の一角だ。
「逃がすものか。修理はあとでトヴァルさんがやるとして、今は全員であの魔獣を追うぞ」
「了解だ」
「分かったよ」
「おい」
ワラビモンチの後を追う一同。しかしすでに相手は町中を抜けて、山道の斜面を駆け下りている。
人間の足ではとても追いつけない。
「くそっ!」
悪態をついて、マキアスは遠ざかるワラビモンチをにらんだ。どうすればいい。あずきが遠のけば、クレアの笑顔も遠退いてしまうのだ。
視線を巡らす。宿酒場の脇に、いくつかスノーボードが立てかけてあった。雪郷特有の遊具だ。
おあつらえ向きにボードは四つ。あれなら何とかなるかもしれない。
先ほど襲われたジェラルドの店というのが気にかかったが、優先すべきは他にある。
せめてキキの私物でないことを祈りつつ、マキアスは大急ぎでボードを抱えてきて、雪山道の下り口にそれを置いた。
「僕、こんなの使ったことないよ」
「悪いが俺もない」
エリオットとマキアスが渋面を浮かべるが、「大丈夫だ。僕もない!」とマキアスは三人より一足早くボードに足を乗せた。
「何がお前さんをそこまで駆り立てるんだよ! 郷の倉庫の増強は課題だが、あそこまで逃げられたらあずきは諦めた方がいい。怪我しちまったら元も子もないぞ」
スノーボードなどトヴァルも初めてらしく、彼は逸るマキアスを止めた。
「トヴァルさん。無理だと分かっていても、男は時に通さないといけない意地があるものです」
「な、何言ってんだ?」
「今がその時なんです」
「待て待て、一度落ち着こう」
しかしマキアスは地面を蹴った。雪上を滑るボードがみるみる加速していく。
「だー! もう仕方ねえ。全員腹くくってマキアスに続け!」
「こ、怖いけど」
「うむ……」
逡巡はしたものの、結局ボードに乗って、残る三人も坂道に繰り出した。
白銀の斜面を滑走するマキアス。近付くワラビモンチの後ろ姿。
「絶対逃がさないからな!」
減速と方向転換は体で覚えるしかなかった。死に物狂いでバランスを取り、何が何でも転倒しないよう気を張り詰める。
ごうごうと風を切る音が鼓膜を震わせる。この速度のせいで、粉雪でさえも石つぶてになって顔を叩いてきた。
寒いし痛いしだが、そんなことにいちいち気を取られていられない。
「うわああああ!」
背後から叫び声。
エリオットだと理解した時、すぐ横を巨大な雪玉が猛スピードで転がっていった。
過ぎ行く雪玉の中に一瞬だけ見えたのは、エリオットの手足とガイウスの顔。なぜかガイウスは悟ったように無表情だ。
ボードで転倒して、二人もつれ合うように転がり落ちる内、あっという間に体全身が雪玉と化したのだろう。
「マキアス! やっぱりあいつら無理だったぞ!」
さすがのセンスと言うべきか、器用にボードを繰るトヴァルが、マキアスに並走してきた。
二人を取り込んだ雪の塊は、なおも大きさを増しながら転がり続けている。そうだ、あれをうまく使えば――
止まる気配のない大玉を視界に入れながら、マキアスは言った。
「トヴァルさん、あの雪玉を魔獣にぶつけられませんか?」
「方法はなくはないが――って本気か?」
「二人の犠牲を無駄にはできません」
「むしろ、これから犠牲になると思うんだが……」
悩みながらも、トヴァルはアーツを駆動させた。
青い輝きが《ARCUS》から散る。前方に氷の壁が生成された。雪玉とほぼ同じ大きさだ。
雪玉は絶妙の角度で氷壁に接触し、その進行方向を変える。それを二度、三度と同様に繰り返し、微細に向きの修正を加えていった。
やがて加速する雪玉と魔獣が直線上に並ぶ。
「エリオット、ガイウス……」
後でいくらでも謝ろう。どんな非難も甘んじて受け入れよう。それでも今は。今だけは。
さあ、行くんだ。行ってくれ、友人たちよ。僕の願いをその身に乗せて。
「行けえええ!!」
全速で直撃。爆ぜる雪玉。文字通り玉砕。
雪塊から解き放たれたエリオットとガイウスが、アーチを描いてどこかへ飛んでいく。
魔獣は?
いた。同じように吹っ飛んではいるものの、あずきの詰まった小袋をしぶとく掴んだままだ。
「このまま行きます。やって下さい!」
「おう!」
マキアスの進む先、積もる雪の表面がビキビキと氷結していく。まっすぐ伸びる氷の道に乗り上げ、彼はさらに加速した。
アーツが氷を押し固めて、そこから急激な上り坂――ジャンプ台を形成した。
上を向いて、ワラビモンチを視界に捉える。勢いよし、距離よし、角度よし、覚悟よし。
力いっぱいマキアスは飛んだ。執念の大ジャンプだ。
空中で風に煽られ、ボードが足から離れてしまう。これではまともな着地はできない。構わない。あずきさえ手に入るなら、それでいい。
「返してもらうぞ……!」
魔獣との距離が縮まる。ワラビモンチが宙で態勢を取り直し、マキアスに向き直った。
ひゅっと鼻先を風が切る。
「くっ!?」
蹴ってきた。眼前をかすめただけだが、足先が眼鏡のブリッジに引っ掛かった。
眼鏡が顔から離れる。こちらのバランスも崩された。魔獣が再び離れていく。
瞬間の、反射の、そして極限の二択だった。
今すぐ上に手を伸ばせば、眼鏡をつかむことができる。その代わり、あずきには届かなくなる。どちらかを得て、どちらかを失う。
眼鏡は何にも代え難い己の魂。あずきは替えの利くただの食材。
選ぶべき答えは決まっていた。マキアスはそれに手を伸ばした。
墜落。雪が舞い上がり、視界が真っ白に染まる。
「おい、大丈夫か!」
ボードを停めて、トヴァルが駆け寄る。
雪煙の中に、人影が見えた。粉雪にまみれたマキアスが、ゆっくりと歩み出てくる。今にも倒れてしまいそうな、おぼつかない足取りだ。
彼はいつものように眼鏡を押し上げる素振りを見せる。しかし、その顔に眼鏡はかかっていなかった。
「笑顔に……替えはない……から」
右手に小袋をしっかりと握りしめて、マキアスはそうつぶやいた。
● ● ●
満身創痍のマキアスたちは《千鳥》に戻って、カミラにあずきを手渡した。彼女はすぐに饅頭の作成に取り掛かってくれたが、調理開始から完成まで、およそ二時間かかった。
饅頭が皿に乗って運ばれてくるころには、四人は満身創痍から半死半生になっていた。
彼らは無言でのろのろと饅頭を手に取る。
ぱくりと一口。
「う、うめえ……!」
「うう……うう」
「これは身に染みるな……」
生気が瞳に戻ってくる。エリオットは泣いていた。味うんぬんより生きていることへの喜びだ。
「ん、どうした?」
饅頭に手をつけようとしないマキアスを、トヴァルは不思議そうに見た。
「まさか腹減ってないのかよ?」
「いえ……」
饅頭が乗った皿を手に、マキアスは立ち上がる。訝しげな仲間たちには何も答えようとせず、彼はふらりと戸口へ向かった。
《千鳥》から鳳翼館はそこまで離れていないのだが、途方もない距離に感じる。
思い返せば、朝早くに起床して雪かき三昧。おっさん達には襲われそうになるし、挙句の果てには初めてのスノーボードで魔獣とのレース。そして大クラッシュ。眼鏡もどこかにいってしまった。
続けざまに体を酷使して、心身の疲労はピークだった。
鉛になった足を必死で動かして、鳳翼館まで移動する。途中、何発かキキから雪玉を投げられたが、弁解する気力もなかった。
震える手で鳳翼館の扉に手をかける。ドアが開く。いた。クレア大尉だ。ラウンジのソファーに座っている。他の女性陣も勢ぞろいしていた。
ロビーに足を一歩踏み入れる。そこで限界がきた。
かすむ視界。ぐにゃりと歪む景色。床が近付いてきた。全身に鈍い衝撃。どうやら倒れたらしい。
意地で饅頭は死守。皿の上に乗せたままの状態をキープする。
駆け寄ってくる何人かの足音と声。誰かが手から皿を取った。クレア大尉だろうか。そうであってくれ。そうでなくてはいけない。
「クレ……大、饅じゅ……チェス……」
喉を絞るが、声が言葉を成さない。
どこかに運ばれている感覚があったが、まもなく意識は闇の淵へと沈んでいった。
● ● ●
ポーンを一マス前進。
クレアはキングを後退させた。すかさずビショップで退路を塞ぐ。ルークが防衛に入ってくる。
狙い通りだ。目立たないように動かしていたナイトが跳躍する。
チェックメイト。クレアが驚いた顔をみせた。
「さすがですね」
「大尉こそ見事な手並みでした。さあ、勝負の後に饅頭はいかがですか? ぜひ召し上がって下さい」
饅頭に合う飲み物はなんだろう? よく分からないので、とりあえずコーヒーを淹れてみた。
ケーキをそうするかのように、饅頭をナイフとフォークで切り分け、それをクレアは上品に口に運ぶ。
彼女は目をぱちくりとさせて、
「おいしいです。これを私の為に?」
「大したことじゃありませんよ」
「私だけ頂くのは申し訳ありません。さあ、マキアスさんもどうぞ」
「え?」
小さく切った饅頭をフォークで持ち上げると、彼女はそれを口元に近付けてくる。
「え? え? クレア大尉?」
「はい、あーん」
女神よ。僕は今日、死んでもいい。
「あ、あーん」
ア――ん。
「おいしいですか?」
「お、おいふぃれす」
マキ――さん
「ふふ、頬が緩んでいますよ」
「いや、これは」
――マキアスさん。
「はい、もう一口。あーん」
マキアスさん。
――誰だ。こんな時に僕を呼ぶのは――
「マキアスさん」
「あーん……?」
うっすらと目を開くと、白い天井が見えた。心配そうに顔をのぞき込んでくるクレアもだ。
「う、うわあ!」
「きゃっ?」
上体を跳ね起こした。反応が遅れたクレアと、マキアスのおでこが正面衝突する。
「すみません! 大丈夫ですか!?」
「ええ、なんとか。マキアスさんも大丈夫ですか?」
焦るマキアスに、額をさすりながらクレアは言った。そこそこ痛そうだ。
部屋の中を見回す。鳳翼館で借りている自分の室内だ。倒れた後、ここに運んでもらったらしい。
そうか、さっきのは……夢か。自分を殴りたくなるくらい、恥ずかしい夢だった。……もう少しだけ先を見たかった気もするが。
「僕は問題ありません。ちょっと疲れていただけで。ご迷惑をおかけしました」
クレアは首を横に振った。
「ノルドでは大変でしたから。遅れてしまいましたが、私はマキアスさんにお礼を言わないといけませんね」
「お礼?」
「監視塔に囚われた時、あなたが危険を顧みずに助けに来てくれなかったら、状況を変えることはできなかったでしょう。私がここにいるのはあなたのおかげです」
「そんなこと……」
どうにも面映ゆくて、マキアスは視線を所在なく動かした。
「あの、大尉はずっとこの部屋に?」
「私が来たのは少し前です。それまではシャロンさんが容態を看てくれていましたが、なんでもうわ言で私の名前を呼んでいるということでしたので」
「な、な、な!?」
狼狽するマキアス。クレアはきょとんとしていた。
「え、えっと。シャロンさんは他に何か言っていましたか?」
「特には何も。ただ交代する時はずいぶんと楽しそうにしていましたが」
いけない。黒メイドが発動している。嫌な汗が背に滲む中、ふとマキアスは思い出した。
「そういえば饅頭ってどこに? 皿に入れてずっと持っていたはずなんですが」
「饅頭……? よく分かりませんが、私は見ていませんよ」
どさくさでどこかにいってしまったのだろうか。せっかく苦労して手に入れたのに。
クレアが立ち上がる。
「皆さんに目が覚めたと伝えてきますね。ああ、そうです。リィンさんも少し前に意識を戻したそうですよ」
「リィンが……そうですか」
よかった。心のつかえが一つ取れた気分だ。
「あ、クレア大尉」
「はい?」
部屋を出ようとした背中に呼びかける。言いたいことはあったが、どうしても喉の奥に止まったまま出て来ない。
マキアスが二の句を継げないでいると、クレアは口元を緩めた。
「ええ、体調が戻ったらチェスをしましょうね」
「え?」
どうして言いたいことがわかったのだろう。これが導力演算機と評される頭脳の成せる業なのか。
しかし、その答えはもっとシンプルなものだった。
「何回もうわ言で繰り返していましたから。本当にチェスが好きなんですね」
クスリとやわらかな笑みを残して、彼女は部屋を出ていった。静寂の戻った室内で、しばし呆然とするマキアス。
とても優しい笑顔だった。なぜか満ち足りた気分になる。
ああ、そうか。
眼鏡を失った上に饅頭も渡せずじまいで散々だったが――どうやら自分の見たかったものは見れたようだ。
――END――
――Side Stories――
《芸術乱舞③》
貴族連合が撤退したことにより、ノルド高原における当面の危機は去った。
もちろん、まだ気を抜ける状況ではなかったが、幾分はマシになったと言える。
しかし、ノルドの集落は新たな危機に直面していた。
「ガイウスの客人であったな。石切り場で彫刻作りに没頭していると聞いていたが。どのようなご用向きだろうか」
いくつかのゲルに囲まれた集落の中心付近。ラカン・ウォーゼルは突如として現れた、目付きの悪い少女と対峙していた。
その少女――クララは鋭い視線をラカンに向けた。
「胸像のモデルになりそうな奴を探しに来た」
きょろきょろと辺りを見回し、クララは品定めをしている。その瞳は人さらいのそれだった。
何かトラウマでもあるのか、トーマに至っては集落の端まで逃げて、ぶるぶると震えていた。
「申し訳ないが、君の期待に添えることはできない。ガイウスの頼みもあるから、他に入用なものがあれば用意するつもりだが」
「黙れ」
クララはぴしゃりと遮り、あちらこちらに視線を飛ばしている。
どうもよくない風が吹いている。彼女は危険だ。協力を仰ぐつもりなど毛頭なく、強奪すれば済むと考えているようだ。
「ファトマ。集落の子供たちを家の中へ」
「あなた……」
「案ずるな。私が話をつけよう」
動じない声音で妻に告げる。指示に従い、ファトマは集落中に避難の声掛けをして回った。
その折、騒ぎを聞きつけたグエン・ラインフォルトが小屋から出てきた。二人の間に割って入るなり、彼は白いあごひげをしゃくった。
「何やら穏やかでないようじゃのう。お嬢さん、胸像のモデルを探しているならワシがなってもよいが」
冗談交じりの軽口には反応らしい反応を見せず、ただグエンを一瞥して、
「枯れた肉体に用はない」
辛辣に吐き捨てる。「枯れっ……!?」とそれなりにショックを受けているらしい老人を傍らに、ラカンは彼女を注視した。
ゴム紐で適当に二つにまとめた、ざんばら髪。短身細身の体躯に似つかわしくない、ふてぶてしい態度に、射るような眼光。集落の人々を値踏みするような目で見ては、露骨な舌打ちを繰り返している。
学院でガイウスが世話になっていると聞いているが、だんだん息子の交友関係が不安になってきた。
ふと気付く。いつの間にかクララがこちらを向いていた。
「貴様、ガイウスの父親か」
今さらそんなことを訊いてくる。しかも、口を開くなり『貴様』ときたものだ。礼を失した学生に物申したい気持ちはあったが、まずは堪えて「いかにも」と肯定する。
「丁度いい。脱げ」
会話が成立しない。何も丁度よくはない。
「君の言っていることが分からないのだが」
「理解する必要などない。早くしろ」
「私は穏便に場を収めたいのだ。客人よ、そちらこそ理解して頂きたい」
「脱がないのなら、脱がすまでだ」
身をかがめ、クララは腕を引く。
ラカンは浅く嘆息した。もはやこれまで。ガイウスには悪いが、かかる火の粉は払わねばなるまい。軽くいなして大人しくさせてから、石切り場に送り届けてやろう。
そう思い、自身も構える。
静寂が降りてきた。
馬が鳴き声を上げる。それが合図になった。
クララが地を蹴る。
ひゅっと風を切る音。反射的に身を返す。一秒前まで襟があった位置に、少女の細腕が突き出されていた。
「むっ……!?」
できる。左右に重心をぶらさない歩法で、接近の気付きを遅らせるとは。
距離を取って、先ほどよりも気を入れて構える。軽くいなすなどという考えは捨てなくてはならない。
「悪いが、少々本気を出させてもらう」
「関係ない」
ラカンは集落一番の槍の名手だ。正面に敵を捉える打突は、特に距離感の把握が重要となってくる。
槍こそ手にしていないものの、その肝は変わらない。腕を引いて、背の筋肉を引き絞り、腰を落として足に力を込める。
対峙する両者が動いたのは同時だった。
一瞬で互いの距離が詰まり、二つの腕が交差する。
ラカンの方が早い。リーチもある。確実に自分の腕が、先に相手に到達する。
しかし、ここでラカンは逡巡した。
……これは、どうやったら勝ちなのだ?
相手は自分を脱がそうとしている。すなわち脱がされれば敗北だ。ならば自分はどうする。脱がすのか? この年端もいかない少女を。
視界の端にファトマが映った。集落中の声掛けを終えて戻ってきたのだ。その瞳がこう訴えていた。
あなた、本気ですか?
「ふぬおっ!」
妻から向けられる非難を感じ取るや、驚異的な力で手を止め、ラカンは飛び退こうとする。
間髪入れず、クララが肉薄。下げようとした前足の甲を思い切り踏みつけてきた。
下がるに下れなくなった体が、バランスを崩す。
やられるわけにはいかない。しかし脱がすわけにもいかない。ままならない二択を迫られ、ラカンは咄嗟に前に出た。
ほとんどの人間には、何が起こったのか分からなかっただろう。
いつの間にか二人の位置は入れ替わり、互い背中越しに立っていた。
「ふふ」
小さくラカンが笑うと、クララの束ねた髪の片方がばらりと解けた。彼の手には彼女の髪留めの紐が握られていた。
「クララと言ったな……見事だ」
途端、ラカンの上衣がばさっと四方向にはだけた。それはまるで、つぼみが花開いたかのような鮮やかな光景だった。
鍛え上げられ、ガイウス以上に引き締まったノルドボディが衆目にさらされる。
「そのまま動くな」
何事もなかったかのように、クララは白紙を取り出し、ラカンの肉体をスケッチし始める。
負けは負け。ラカンは律儀にも微動だにしなかった。
気を遣われたのか、ほどなく周囲には誰もいなくなった。ファトマも家の中に入っている。
高原を渡る悠久の風が、容赦なく半裸の身を冷やしていった。
☆ ☆ ☆
前回のアリサに続いて、今回はマキアスメインで男性陣のストーリーとなりました。
果たして彼がクレアとチェスをするのはいつの日か。
休息日ストーリーはまだまだ続きます。なので前、中、後編の括りは取ることにしました。さっくさくメンバーをそろえたいところですが、休息日もがっつり描きたいので本編進行は少し先になります。すみません!
次回の主役は女性陣。
タイトルは『フィーネさん リターンズ』
嫌がる彼女がまた変身します(させられます)。次回もお楽しみ頂ければ幸いです。