ノルドからユミルに戻った次の日の朝。アリサは鳳翼館の一室にて目を覚ました。
まだ体の節々が痛い。機甲兵なんか乗り回したせいだ。
「う……」
ずいぶんと無茶な機動もした。コックピットの中で振り回され、全身に力を入れて踏ん張ったりもした。
上体を起こすだけで、あちこちが軋む。
壁にかかった時計を見る。朝の八時。ずいぶんと寝過ごしてしまった。ノルドの生活に慣れていたから、余計にそう思う。彼らの朝は、これでもかと言うほど早かった。
「起きなきゃ……」
重い体をのろのろと動かし、横のテーブルにたたんで置いてある着替えを手繰り寄せる。
更衣と洗面を済まして、鏡台の前へ。いつもように髪をとかし、いつものように身だしなみを整える。よし、完了。
部屋を出る前に、もう一度鏡を見てみた。なんとも浮かない顔が、無言で見返してくる。思わずため息をもらし、鏡面の中の自分を小突く。
「朝からなんなのよ、もう」
苛立ち交じりに言い捨てて、アリサは戸口へと向かった。
☆☆☆《ユミル休息日 ~追憶のメモリーズ》☆☆☆
合流人数が少ない内はシュバルツァー邸の空き部屋を使わせてもらっていたそうだが、ここまで仲間が増えてしまうとそういうわけにもいかない。
同行してきた面々は、鳳翼館へと移っている。ただし、寝心地が気に入ったからと、フィーとミリアムは邸宅の一部屋を使用しているが。
鳳翼館の客室は二階にある。廊下に出ると温かい空気が前髪を揺らした。じんわりとした暖かさ。一階の暖炉からだろう。
軽く伸びをしながら視線を巡らすが、談話スペースに皆の姿はない。
「私が早い……なんてことはないと思うけど」
時刻は八時半を回っている。フィーやミリアムならいざ知らず、その他のメンバーならとっくに動き出している頃だろう。ガイウスならなおさらだ。早々に目を覚まして馬の世話を――いや、だからここはノルドじゃない。
「お嬢様」
アリサが一階に向かおうとした時、後ろから声をかけられた。どこか気遣わしげな声。振り向かずとも分かる。だから、彼女は振り向かなかった。
「……なに?」
前を向いたまま答えると、シャロンは言った。
「厨房をお借りして、朝食をご用意しました。宜しければお席に」
もしかしたら、それを言う為だけに廊下でずっと待っていたのかもしれない。お腹も少し空いている。しかしアリサは首を横に振った。
「別にお腹は空いてないわ」
「朝食を抜くとお体によくありません」
「食べたくない」
「お嬢様の好きなアプリコットジャムも作りましたので――」
「いらないってば!」
シャロンの言葉を遮って、アリサは階段を駆け下りる。
エントランスの掃除をしていたバギンス支配人が驚いた目を向けてくるが、彼が口を開くよりも早く、アリサは鳳翼館を飛び出していた。
マキアスとガイウスとすれ違った気がしたが、そんな事に気を留める余裕もなかった。
「はああ~」
走って走って、息を切らせて、やがて立ち止まる。そこでアリサは深い嘆息を吐き出した。
荒い呼吸。白い吐息が眼前に薄れていく。それを眺めながら、アリサは後悔していた。
やってしまった。あんな子供っぽい態度。
「私の馬鹿……」
自己嫌悪に苛まれ、その場にしゃがみ込む。あれじゃいけないって分かってるのに。どうしても先に感情が出てしまう。
ノルドから帰ってきて一日。それなりに心の整理をつけようとしたのだが、もやもやしたものはずっと胸の内に沈殿したままだった。
つんつん、と背中を突かれた。
「お姉ちゃん大丈夫、なの」
「え?」
横から心配そうに顔をのぞき込んでくる少女。郷の子供で、名は確かキキだ。
「あ、大丈夫。ちょっと走り過ぎて疲れちゃっただけよ」
「動けなくなるまで走るなんて、いい年して何やってる、の」
「う、ごめんなさい」
予想外の辛辣な言葉に、思いがけず謝ってしまった。というか、いい年と言われるほどの年齢でもないわよ。
キキはじっとアリサの顔を見ている。
「……もしかして元気もない、の?」
鋭い。侮れないタイプだわ、などと考えつつ、アリサはぎこちなく笑顔を作ってみた。
「そんなことないわ。キキちゃんこそ、どうしたの?」
「どうもこうもない、の。人がうずくまってたら声をかけるのが普通、なの」
「……まったくの正論だわ」
容赦こそないものの、澄んだ瞳で見つめられ、アリサはそれ以上ごまかす気を失くした。
「ええ、まあ、落ち込んでるかしら。ちょっとだけね」
「待ってて、なの」
詳しい事を訊こうともせず、その場から離れるキキ。しばらくすると、彼女は手に何かを持って戻ってきた。
アリサが促されるまま両手を差し出すと、キキはそこに白いかたまりを乗せた。
手の平にひんやりとした触感が広がる。
楕円形に押し固めた雪玉に、小さな葉っぱが二枚刺さっていて、形のいい小粒の石が二つ埋め込んである。
「幸せの雪うさぎ。エリゼお姉ちゃんに教えてもらった、の。元気になるおまじないがかかってる、の」
「ふふ、かわいい。キキちゃん、ありがとう」
「あとは足湯に浸かってゆっくりすればいいと思う、の。雪うさぎが溶けるころには、お姉ちゃんの悩みも溶けて消えてる、の」
「また渋い言い回しね……どこで覚えるのかしら」
「これでも酒場の女、なの」
「そ、そう」
妙な敗北感を覚えつつ、アリサは手の中の雪うさぎを転がしてみた。
「………?」
なんだろう。初めて目にするはずなのに、どこかで見たような気がする。
どこに行こうという目的もなかったので、とりあえずキキに言われた通り、広場の中心にある足湯場に向かってみた。
もらったばかりの雪うさぎを脇に置き、足を湯に浸ける。体の芯まで温まっていくようだった。
悩みが溶けていくというのも、あながち間違っていないかもしれない。
なんだか眠たくなってきた。まどろんでいる内に、二十分くらいは経ってしまっている。それでも雪うさぎが溶ける気配はなかったが。
「はあ……気持ちいい」
ここから動きたくない。しんしんと小雪が散っている。郷の人たちがあまり出歩いていないからか、とても静かだ。
さっきに比べると、ずいぶん気分が落ち着いている。冷えてきた頭で、もう少し考えてみた。もちろん、シャロンのことを。
彼女がラインフォルト家にやってきたのは、もう何年前になるだろうか。
シャロンと会った日のことは今でもよく覚えている。リビングのソファーに幼い自分は座っていて、母に連れられてきた彼女と対面したのだ。
当時でシャロンは一六歳前後だったはずだが、ずいぶんと大人びて見えたものだ。
何も聞かされていなかったし、いきなり「今日からうちの使用人で、あなたのお世話役よ」などと説明されただけである。突然そんなことを言われて、受け入れられるはずもない。
程なく母は仕事に戻り、シャロンと自分だけがその場に残された。初対面の相手と二人きり。人見知りもあった。
シャロンが色々話しかけてきたが、本を読んだり、勉強したりと、とにかく聞こえないふりをしていた覚えがある。
そう、最初はそうだった。彼女と普通に喋るようになったのは、いつからだったか。
「よっ。隣いいかい?」
張りのある声が、物思いを中断させた。
「あ、トヴァルさん。おはようございます。どうぞ」
「おはようさん、失礼するぜ」
トヴァルはアリサの横に腰を下ろす。
「この足湯ってやつは、いつ浸かってもいいもんだよな」
「ええ、そうですね。……というか、それなんですか?」
彼は大き目のスコップを近くに立てかけていた。
「雪かきしてるんだ、ガイウスとマキアスとエリオットと」
「あ、エリオットはもう大丈夫なんですね」
「おう。この雪かきでまたへばるかもしれんが」
ユミルに戻った折、トヴァルの他にエリオットとも再会していた。なんでも彼は体調不良で、ようやく回復したところだそうだ。どうして体調が悪かったのか訊いてみたが、フィーをちらりと一瞥しただけで、エリオットは何も言わなかった。詳しいことは分からないが、ケルディックでの潜伏生活も大変だったに違いない。
「ノルドもやばかったらしいな。よく無事で帰ってきたもんだ。なんでも機甲兵ぶんどって動かしちまったんだろ?」
「いえ、成り行きというか、咄嗟の判断というか、あの時はああするしかありませんでしたので」
「だとしても、それをやれるってのがすごいんだけどな」
アリサは苦笑する。今思い返しても、ずいぶんな無茶をやらかしたものだ。
「その話詳しく聞かせてくれないか。お前さんの主観でいい。機甲兵のことを」
「機甲兵のことを?」
「ああ。例えば乗り手から見た特徴。実際の操縦方法。弱点なんかもあればいいな。できるだけ細かく頼む」
「ええと――」
少し思い出してから、アリサは言った。
「いくつか挙げるなら――そうですね。まず背面側の視界が悪いこと。後ろの敵の位置はマッピングデータと対物レーダーで大体掴めますけど、実はほとんど視認できていません」
戦車と違い、背後への振り向きは比較的早いので、ある程度はカバーできるが、まず気になった点だった。
「他には?」
「人型をしていますが、関節構造は人間とは異なります。だから人特有の柔軟な動きは再現できないし、特に胸部から肩にかけての稼動領域は思ったより広くなかったです。あと姿勢制御はオートバランサーが働いていましたが、機械でフォローできる範囲を超えると、割と簡単に転倒します。でもそれは――」
「騎神や機甲兵同士の戦いにおいてのみ影響するようなこと、って言いたいんだろ?」
「はい」
アリサの見立ては正しい。たとえば足払いを仕掛けたりと言った重心崩しは、同じ人型をしていなければ出来ない芸当だ。
元々のコンセプトなのだろう、機甲兵は戦車を狩る為の力に優れている。
最たるものが機動性だ。ランドローラーを駆使した平行横移動というのが、戦車戦闘に慣れた兵士たちを苦戦させる要因の一つだった。
片足を引いて踏ん張る体勢を取り、盾で防御姿勢を取れば、多少のダメージは受けるものの、戦車砲の一撃にも耐え切るバランス能力も有している。
それでも貴族連合が優勢を維持しつつも一気に制圧できないのは、想定より遥かに早く、正規軍が対機甲兵戦術を組み上げてきたからだった
「でもクレア大尉の指揮で生身でシュピーゲルを転倒させたらしいじゃないか。話を聞いてたまげたぜ」
「あ、あれは」
クレアが神業に近いタイミングで、あらゆる隙を有機的に連鎖させていった結果だ。自分たちだけであれをもう一度やれと言われたら、正直、できるとは思えない。
あの一戦で何かを掴みかけた感覚があるのも事実だったが。
その後も細かな機甲兵の操縦についてトヴァルに教えた。興味があるらしく、彼は熱心に聞いていた。
一通り話も終わった頃合いで、トヴァルは言った。
「で、シャロンさんとはどうなんだ」
ぎくりとして、視線を下に向ける。湯の中の足が揺れていた。
「別に立ち入ったことを訊く気はないさ。だけど他の連中が心配してる。こっちに戻ってきてからも話してないんだろ?」
朝に少し話をしたが、とても会話と呼べるものではなかった。
アリサは口をつぐむ。
「まあ家族同然だった人が結社の一員だったんだから、混乱する気持ちは分かる」
「………」
「色々と因縁もあってな。遊撃士にとって結社は宿敵みたいなもんだが、シャロンさんのことは信用していいんじゃないか。少なくともお前さんは」
どうして私は、なのか。
アリサが黙っていると、トヴァルは肩をすくめた。
「ちょいと昔話をするか」
「え?」
「昔の話さ。俺がお前さんぐらいの頃の話」
懐かしむような目をして、彼は話し始めた。
「当時の俺はどうしようもない奴だった。運び屋なんてやったりしてさ。ミヒュトのおっさんから仕事を回してもらったりして、その日その日を綱渡りみたいに生きてた。偽名もたくさんあったよ」
驚いた。そこで質屋の店主の名前が出てきたこともそうだが、彼の過去がそんなにアウトローだったなんて。
「ある時、いつもと同じように依頼を受けたんだが、それが厄介なことになってな。
アーティファクト――大崩壊以前、即ち古代ゼムリア文明時代の技術で造られた道具である。詳しい仕組みや生成方法は今もって不明だが、その研究課程で導力器が生まれたのは有名な話だ。
ごく稀に遺跡などから力を遺したままのアーティファクトが発見されるらしいが、七耀教会はそれらを《早すぎた女神の贈り物》と称し、管理と回収を一手に引き受け、一般にその所持と使用を認めていない。
そのアーティファクト絡みの事件。細かなことを訊かなくても、相当危険な状況が容易に想像できる。
「で、とある女性に助けてもらった。ほんのちょっと暴力的で、素手で猟兵団をのしちまうようなお姉さんだったんだが。まあ、突然現れた女神さまみたいなもんだった」
「ほ、ほんのちょっと? め、女神さま?」
どこが女神。一般人の感覚からしたら、ほとんど破壊神だ。トヴァルにとっては大切な思い出のようなので、余計な茶々は入れなかったが。
「その事件で彼女にアーツの腕を見出してもらって、ようやく自分の道を見つけられた。遊撃士として生きる道を」
「そう……だったんですか」
「その時に偽名も全部捨てた。これからはただ一人の自分として――トヴァル・ランドナーとして歩いて行こうって決めたんだ」
気付けば落としていた視線を上げて、トヴァルを見ていた。
「自分ってやつは生きていく中で積み重ねていくものだと、俺は思ってる。人生の中で選択を繰り返して、歩いてきた道の連なりがその人を作ってるんだ」
道の連なり。積み重ねていくもの。アリサはその意味を胸中で反芻していた。言葉は単純だったが、腹に落として理解するには難しい。自分より長く人生を歩み、色んな事を経験した彼ならではの言葉だと思えた。
「過去はなくなったりはしない。でも今を作ってるのは紛れもなく過去だ。どういう経緯で彼女が結社に所属してるかなんて俺には想像もつかん。だが――」
一度言葉を区切って、トヴァルは天井を見上げた。
「お前さんが彼女と過ごしてきた時間は、全部偽りだったのか?」
「それは――」
違うと言いたかった。しかし言い切れない。自分はシャロンのことを、全部は知らなかったのだから。
「俺の知り合いにな。元々結社の執行者で、今は遊撃士をやってるやつがいる」
「え!?」
「いいやつだよ、そいつ。多分今はクロスベルに入ってるはずだから、ちょっと心配なんだが」
《身喰らう蛇》という組織の全容こそ知らないが、そんなことがありえるのか。
「いい過去も悪い過去も関係なく、それは生きている限りずっと付きまとう。そいつも苦しんだと思う。でもな、周りが彼を受け入れた。だから彼も自分自身と向き合えた」
それが今に繋がっているのだと、トヴァルは言う。
「シャロンさんを受け入れられるか? 知ってる過去も、知らない過去も含めて」
「私が、シャロンを……?」
考えたこともなかった。受け入れる、受け入れないの話ではなく、いつも彼女はそこにいたのだ。それが当たり前だったのだ。
そこで真面目な顔を崩し、トヴァルは口元を緩めた。
「まあ、長々話しちまったが、俺の言いたいことは、つまりそういうことだ」
「あ、えっと。ありがとうございます」
結局、彼も心配して私の様子を見に来てくれたのだろう。
「サボってると思われても困るし、俺はそろそろ行くとするよ。それにちょっと冷えてきたしな」
「え? あったかいですけど?」
「そりゃ足はな。つーかさっきから尻が冷たくて――ってなんだこりゃ!」
トヴァルが腰を上げると、彼の尻に押し潰された雪のかたまりがあった。
「積もった雪が屋根から落ちてきてたんだな。不注意だったぜ」
「あ、それ!」
アリサが口を開きかけた時には、トヴァルはひしゃげた雪玉をぺしっと払っていた。足湯の中に落ちた『幸せの雪うさぎ』があっという間に溶け崩れていく。
目を見開いて、アリサはトヴァルに視線を戻す。
「こいつはしまったな。早く乾けばいいんだが」
「……トヴァルさん」
「ああ、気にしないでくれ。他にも相談があれば何でも受け付けるぜ。この頼りになるお兄さんがな」
ニヒルにウインクを決めると、トヴァルはスコップを手に颯爽と立ち去っていった。
「なんかキキちゃんに顔合わせづらいわ……」
言い知れない罪悪感を覚えながら、アリサはシュバルツァー邸の玄関扉を叩いた。
扉の向こうからパタパタと足音が近付いて来て、ルシアが笑顔で出迎えてくれる。
「あら、アリサさん」
「奥様、おはようございます」
リィンのお母様。なぜかこの人の前だと、妙に緊張してしまう。粗相や失礼があってはならないと、私の中の何かが告げている。
「さあ、どうぞ上がって下さい」と言われてから丁寧にお辞儀をして、「お邪魔いたします」と玄関に足を踏み入れる。この辺りのマナーは心得ていた。
「あの、リィン……さんの様子はどうですか」
他所の母親の手前、一応さん付けにしておいた。不躾な娘だと思われるもの、何だかよくない気がする。自分自身呼び慣れないから、体中がこそばゆくなった。
ぎこちなさを見抜かれたらしく、「気を遣わなくても大丈夫。普段通りに呼んであげて」と、ルシアはクスクスと笑った。
顔が赤くなるのを自覚しながら、「そ、それでリィンの容態は?」と無理やりに話を戻す。
ルシアの口調がわずかに重くなった。
「エリゼも様子を見てくれているけど、まだ目は覚まさないの」
「彼のお部屋に行っても構いませんか?」
「ええ、もちろん」
階段を上がって左手、リィンの部屋の前へ。実は入るのは初めてだったりする。ノックしてみるが、応答はない。今はエリゼもいないのだろうか。
隣の部屋が騒がしいことに気付いた。
複数人がドタバタと走り回る音。リィンの隣だから、エリゼの部屋かもしれない。
程なく音は止んだ。不気味なくらいの静けさだ。
「……?」
まあ深く考えないでおこう。改めて正面の部屋に向き直り、ドアノブに手をかける。自分の意志とは関係なしに早くなる鼓動。
「は、入るわよ」
一言断りを入れてから、ゆっくりとドアを開いた。
整頓された本棚。参考書が並ぶ机。シンプルな内装の左奥にベッドがあった。
静かな寝息が聞こえる。近付いてのぞき込むと、リィンが眠っていた。顔色はずいぶんよくなっている。
ベッドの横に椅子があった。そこに腰掛け、アリサは一息ついた。
座っているだけだが、どうにも落ち着かない。カッチコッチと時計の針が進む音。
一分。二分。三分。何をするでもなく、アリサはじっとリィンの寝顔を眺めていた。
秒針が五週したところで、不意に口を開く。
「ね、熱とかはないのかしら」
そっとリィンの額に自分の手の平を添えてみた。熱いのか分からない。自分の手の方が熱くなっていることに、アリサは気付いていなかった。
そうだ。体温計は? 見える範囲にはない。ルシアさんに借りに行こうか。だけど、こんなことでわざわざ手を煩わせるのも気が咎める。
「お、お、おでこなら……いいんじゃないかしら?」
何がいいのかは自分でも意味不明だが、そんなことを口走りながら、アリサは前髪をかき上げた。
何とはなしに振り返る。沈黙のドアが佇んでいるだけだ。誰かが来るような気配はない。
熱を計るだけ。他意は一切ない。心中で繰り返しながら身を乗り出し、ゆっくり自分とリィンの額を近づけていく。
徐々に二人の間が狭まって――
「ん……アリサ……?」
狙ったかのようなタイミングで目を覚ますリィン。至近距離でばっちり目が合う。
「っ!」
叫ぶのは必死にこらえる。しかし反射的に繰り出した右手は止まらなかった。
電撃フルスイング。
理不尽極まりない平手打ちが、リィンの頬に炸裂した。
「なにを謝ったらいいんだ……」
「だから目を覚ます時は先に言いなさいって」
「だからそれは無理だって」
数か月前にもまったく同じやり取りがあった。ふと思い返して、アリサは肩の力を抜く。
「というか、その、ごめんなさい」
「看病しようとしてくれたんだろ。気にしないでくれ。俺はどのくらい眠っていたんだ?」
アリサはこの二日間のことを説明した。特に監視塔突入前に分断されてからのことを、リィンは大まかにしか知らないはずなのだ。
猟兵の襲撃のあと、エリゼとクレアが拘束されたこと。
それを助ける為にマキアスたちと監視塔に潜入しようとするも失敗、発見されたこと。
戦闘中にシャロンが合流したこと。自分が機甲兵を奪ったこと。
騎神リンクを酷使し過ぎてリィンが倒れてしまって、その後にシュピーゲルを自分たちで倒したこと。
ヴァリマールの霊力回復を待って、昨日にユミルに戻ってきて――そしてテオ・シュバルツァーの意識が戻ったこと。
「そうか、父さんが。良かった。本当に」
「でも代わりにあなたが倒れたから、エリゼちゃんも奥様もかなり心配してたのよ。私だって……」
付け加えた一言は、ほとんど聞こえないくらいの声だった。
「みんなに心配をかけたみたいだな――ってて!」
まだ赤みの残る頬を、アリサは軽く引っ張ってやった。
「ほ・ん・と・う・に、その自覚があるのかしら」
一語一語に語気を強めて、彼女は言った。
「私とリンクした時点で相当消耗してたんでしょ。あなたの状態が分かってたら、リンクを切っていたわ。いえ、リンクした瞬間にそれは伝わってきたけど、咄嗟のことで間に合わなかった。分かる? 私が力を貸したせいで、あなたは意識を失ったの」
「それは違うだろ。あの時力を使ったのは俺の意志だ――っててて!」
今度は強く頬をつねる。
「あなたが納得の上でも、私たちは納得しないわ。使うなとは言えないけど、ここまで消耗するほどにはやめて頂戴。約束して」
「あの時はああするしか方法がなかった。どうにもならなかったんだ」
「じゃあ、これからはどうにもならなくなる前に、どうにかする方法を考えましょう。それで、約束は?」
強い眼差しで見据えられて、リィンはベッドの上でうなずいた。
「約束……するよ。悪かった」
「うん、約束。というか動けるようになったら、セリーヌにも謝っときなさいよ。リィンが全く言うこと聞かないって怒ってたんだから」
「はは、了解だ」
本当に分かっているのかしら。まったくもう。
「みんな心配してるだろうし、あなたが目を覚ましたこと伝えてくるわね」
「待ってくれ」
立ち上がろうとしたアリサをリィンは止めた。
「もしかしてシャロンさんと何かあったのか?」
「え、な、なんで?」
自分の口からは説明しづらかったので、シャロン合流の件は端的にしか話していないのに。
「シャロンさんの話をするところだけ、他と口調や雰囲気が違った。何となくだが」
「あなたって……」
この朴念仁は、どうしてこういうところだけ敏いのか。
どのみち後で知ることだ。諦めてアリサは全部を話した。シャロンが結社の執行者だったことも、そして今日までほとんどシャロンと会話をしていないことも。
さすがに結社の所属ということにはリィンも驚いていたが、妙に納得しているようでもあった。
「シャロンさんが嫌いになったのか?」
「そ、そんなことないわよ! ただ……ちょっとよく分からないっていうか」
そう、分からなくなったのだ。シャロンが自分をどう思っているかが。今までは分かっているつもりだった。でも分かった気になっていただけかもしれない。それが辛い。彼女に向けていた自分の信頼が、虚構のように思えてきてしまう。
しばらく黙ってから、リィンは言った。
「……ずっと一緒にいたその人の本当が、見えなくなったんだろ。自分に向けられていたはずの笑顔が本物か、自信が持てないんだろ」
的確だった。心のもやもやを言葉にはめ込んだら、多分そうなると思った。
「アリサは俺たちよりシャロンさんと一緒にいた時間が長い。思い返せば、きっとすぐに分かる。その思い出が本物か、偽物か」
「私の、思い出?」
シャロンとの、記憶。
アリサは瞳を閉じた。半ば忘れかけていた、小さな思い出の欠片を一つずつ拾い上げていく。
最初に思い浮かべたのは、キッチンに立つ後ろ姿だった。
いつも食事を作ってくれた。おやつを作ってくれた。おいしい紅茶を淹れてくれた。
一緒にお風呂に入って髪を洗ってくれた。よくルーレで迷子になった自分を探しに来てくれた。どんな勉強も教えてくれた。弓術も彼女に教わった。マナーや所作事、立ち振る舞いだってそうだ。
自分の成長は彼女と共にあった。彼女がいてくれたから、自分は一人にならなかった。
――過ごした時間は偽物だろうか。
シャロンの二十歳の誕生日。その日ばかりは忙しい母も時間を空けて、三人で食事をした。あの時のシャロンの嬉しそうな顔。
――あの笑顔は偽物だろうか。
私が高熱を出して何日も寝込んだ時、彼女は付きっきりで看病してくれた。夢うつつの中で覚えている。さっき自分がそうしようとしたように、シャロンが額と額をくっつけて、もう大丈夫と心底安堵したような表情をしたことを。
――あの時感じた肌のぬくもりは――本物だった。
「あ、私、私……」
言葉にならない。私は酷いことをしている。いてもたってもいられず、アリサは立ち上がった。
「知らないことがあって、それを知りたいなら、聞けばいいだけだ。アリサにはそれができる」
「私にはって……あ」
そこでようやく理解した。リィンはクロウとのことを照らし合わせている。真意を問い質したくても、遥か遠くに行ってしまって、姿さえ見えない彼のことを。
「私、シャロンに会ってくる。ごめんなさい、ありがとう」
謝りとお礼を同時に言って、アリサはリィンの部屋を出た。
階段を下りてリビングに入ると、キッチンからコトコトと鍋を煮込む音がした。
ルシアが昼食の準備をしているのだろう。彼女には先にリィンが起きたことを伝えておかなくては。
「失礼します、奥様。リィンが――え」
キッチンに入るなり目に飛び込んできたのは、見慣れたあの後ろ姿。鍋の火加減を調整しているシャロンだった。
「アリサお嬢様?」
「ど、どうしてここにいるの?」
「ユミルに滞在中は私もお手伝いをと思いまして、先ほど鳳翼館からこちらに参りました。ルシア様は買い出しに行かれています」
「そう」
気まずい沈黙。
先に口を開いたのは、シャロンだった。
「少し、お話しましょうか」
「……そうね、あなたに訊きたいことがあるの」
シャロンは鍋の火を小さくした。
「うちに来たのと結社に所属したの、どっちが先なの?」
「《身喰らう蛇》が先ですわ」
「うちの使用人として母様がスカウトしたっていうのは本当?」
「本当です。ある任務でラインフォルト社に潜入したのですが、その際にイリーナ会長に見つかって、その流れで使用人に誘われました」
真面目な話の最中でずっこけそうになった。どんな流れだ。侵入者を娘の世話役に雇おうとするとは、あの人の思考はどうなっている。
「ふふ、数々のセキュリティを突破した私の腕を見込んで、とのことでした。それ以外にも理由はあったそうですが」
「今も結社に所属しているの?」
「そうです」
「トヴァルさんから組織を抜けた人もいるって聞いたわ。シャロンは抜けないの?」
「彼らと違い、私はもう引き返せる身ではありません」
彼ら。トヴァルの口ぶりでは一人だったが、他にもそういう人がいるらしい。
シャロンがどうして結社に入ったのか。そこで何をしていたのか。過去を問い質すつもりは、もうアリサにはなかった。
知らないことがあるのは当たり前。私だってシャロンに秘密にしていることぐらいある。
大切なのはトヴァルが言ったように、知っていることも、知らないことも含めて、シャロンを受け入れられるかどうかだ。
その答えはもう出ている。
でもこれだけは訊かないといけない。
「シャロンにとって私は何? どう思っているの?」
「それは私が誠心誠意お仕えする――」
「そんなことを聞きたいんじゃないのよ」
「………」
最後までそれを言うべきか、シャロンは悩んでいるようだった。
小さく息を吐き、彼女はまっすぐにアリサを見た。
「……使用人として分を弁えない発言をお許し下さいませ。お嬢様は子供の頃からよく泣いて、外で目を離せばすぐ迷子になって、ずいぶんと手がかかったものです。その上、怒りんぼで、恥ずかしがりやで。でも本当は誰よりも優しくて努力家で。そんなあなたのことを私は……私にとって何よりも大切な――」
シャロンは言った。
「妹のように思っています」
偽らない本心だった。
胸の中が熱くなる。目からしずくがこぼれそうになった。この気持ちが全てなのだ。
潤んで、かすれる視界の中で、アリサはシャロンの瞳を見返した。
「……シャロンは昔から何かと細かくて、子供の頃は口うるさく感じることもあったわ。まあ、今もだけど。私のこと何でも分かってる感じで、よくからかわれたりもしたし。それも今もだけど。でも私にできないことが何でもできて、いつだって目標だった。そうね、あなたは私にとって――」
アリサは言った。
「姉みたいなものよ」
面と向かって言うのは初めてだったが、不思議と気恥ずかしさはなかった。
「お姉さまっていうのとは、また違う気がするけど」
「まあ」
二人はそろって笑った。珍しくシャロンは声に出して笑った。
今言わないと。あんな態度を取って、ごめんなさいと。
「えーと、あの……その、ね」
がんばってはみたが、口中で言葉を濁しただけでそれは言えず、苦し紛れに出た言葉がこれだった。
「……お腹が空いたわ」
「お嬢様?」
「朝食まだ食べてないの。作ってくれたんでしょ、アプリコットジャム」
目をきょとんとさせたのも一瞬、すぐにシャロンは微笑んだ。
「ええ、それはもうたくさん。一年分は作りましたわ」
「そ、それは作り過ぎよ。まあ、いいわ。奥様が帰ってきたら一度鳳翼館に戻りましょう」
「ふふ、かしこまりました」
その後も色々とタイミングを図ってみたものの、いざ彼女の前に立つとうまく言葉が出て来なかった。結局、謝れず終いのまま、その日は過ぎてしまった。
でもいいか。
私が何を言おうとしていたかなんて、シャロンにはどうせお見通しだろうから。
――END――
――Side Stories――
《爆釣哀悼紀行②》
ノルティア間道沿いの小川に、釣り糸を垂らす少年が一人。
「今日も釣れないなあ」
白い学院服、背負った釣竿ケースにハンチング帽。ケネス・レイクロードである。
釣れないとぼやく彼の足元には、生け簀代わりのバケツが置いてある。その中は魚で溢れかえっていた。
釣れないのは目当ての魚一匹だ。種類の話ではない。こればかりは実力だけではどうにもならなかった。狙った個体を釣り上げるなど、ほとんど運に近い。はっきり言って、可能性は相当低い。
さすがのケネスも疲れた様子で、白い息を吐き出した。
足が痛い。手がかじかむ。
それでも彼は釣竿を振り続ける。
ちゃぽん、と自分のものではない着水の音。
「え?」
隣にもう一人釣り人がいた。いつ横に来たのだろう。集中していたからか、まったく気付かなかった。
その人の奇妙な装いにも目が留まった。
簡素な黒いコートに身を包み、頭をフードですっぽりと覆っているのだ。
かろうじて見える程度の口元が動いた。
「釣れますか?」
「え、あ。まあまあです」
急に話しかけられて、ケネスは咄嗟にそう返す。
どこか聞き覚えのある、若い男性の声だった。彼は笑った。
「そんなにたくさん魚を釣っているのに、まあまあだなんて。謙遜しなくたっていいのに」
「えーと、お兄さんも釣りですか?」
名前を聞くタイミングを逸してしまったので、とりあえずお兄さんと呼んでおく。実際、二十代後半か三十代前半のようだった。
「うん。色々と各地を回っててね。釣りはそのついでみたいなものさ」
「僕が言うのもなんですけど、ここはあまりいいポイントじゃないですよ」
実際そうなのだ。単に魚を釣るだけなら、もう少し上流に行った方がいいスポットは多い。
「そうなんだ。でも、いいポイントじゃないのが分かってるなら、君はなんでこの場所で釣りを?」
「それは――」
アナベルの祖母の形見――その指輪を、一匹の魚が飲み込んでしまったから。
彼女はケネスの兄の婚約者だった。成り行きから一緒にトリスタを離れることになったのだが、ここノルティア間道でアクシデントが起きた。
いつものように釣りに興じている最中、アナベルに大物がかかった。体長七〇リジュを超えるレインボウである。
彼女も実力者だ。さほど苦もなく川岸に引き上げてみせたが、そこでレインボウが激しく暴れまわった。
跳ねる尾ひれが彼女の指に当たり、その拍子に形見の指輪が外れてしまう。
さらに悪いことに、レインボウが落ちてきた指輪をぱくりと一呑み。そのタイミングで釣り針も外れ、レインボウは川へと逃げてしまったのだ。この魚はセピスを体内に溜め込む習性がある。指輪の輝きをセピスと勘違いしたのかは定かではなかったが。
細かいことは気にしないアナベルだが、この時ばかりはさすがに落ち込んでいた。
そこでケネスは彼女に先にユミルに行くよう促した。前の町で購入し忘れたものがあるとか、すぐに追いつくからとか、適当な理由をでっちあげて。
彼は一人であのレインボウを釣り上げるつもりだった。
アナベルと二人でとも思ったが、それでも可能性が限りなく低いのは変わらない。
下手に希望を持たせるよりは、何も言わずに自分一人で挑戦する方がいい。そう考えた結果、ケネスはこの場所に留まっているのだった。
そのあたりの事情を、フードの青年にかいつまんで説明したところ、
「なるほど」
呆れられるかと思いきや、彼は意外にも納得した。
「それじゃあ、君はその人の為にがんばっているんだ?」
「ええ、まあ。変だと思わないんですか?」
無理だと諦めるのが普通だろう。これは無意味なことなのかもしれない。その自覚もある。
ただアナベルのあんな顔を見て、何もせずに放っておけるわけがなかった。
男は首を振った。
「思うもんか。誰かの為に何かをできる人は素晴らしいと思うよ。君みたいな少年、そういるものじゃないさ」
「そんな大層な」
「本心だよ」
「いえ、本当に僕なんて」
「実にいいね」
「ですから――え?」
意味を理解するより先に、体の芯に悪寒が走った。今この人は何を言った?
「ふふ」
男は笑う。いや、嗤う。
雰囲気が一転した。周囲の空気がまとわりつくような粘度をもった。若かったはずの声が、低く渋みのある声に変わった。
寒風が吹き、男のフードをはためかせた。
「あ、ああ……っ!?」
一瞬だけ見えた。見えてしまった。鼻下にそろえられた灰色の口ひげを。肉食獣が草食獣を狙うような飢えた瞳を。
悪魔の化身。絶望の権化。不吉の象徴。
「粋な偶然だ。女神に感謝しよう」
「ひああああ!?」
湧き立つ紫のオーラを身にまとい、降臨した邪なる者。
その名はガイラー。もう一度言おう。その名はガイラー。
あらゆる倫理を崩壊させ、帝国に狂い咲いた一輪の用務員である。
「は、はっ、はっ、はっ」
過呼吸寸前のケネス。なぜこの男がここにいる。いや、そんなことはいい。早くここから逃げなくては。尊厳とか自我とか、そういう失ってはいけない感じのものを、全て根こそぎ奪われてしまう前に。
「あっ」
後じさった足が川縁に滑った。浅瀬に尻もちをつく。跳ねる水しぶきの中に、伸びてくる魔手。
がむしゃらに身を退こうとして、手足をばたつかせる。恐怖に身を縛られ、思うように動かない。ばしゃばしゃと水面を叩いただけだった。
ケネスの無意味な抵抗を――出口のない迷路に放たれた獲物が、一縷の望みを信じて健気にあがく様を――ガイラーは楽しんでいるようだった。
愉悦に歪んだ口元が近づく。
「た、たすけて」
叫んだつもりだったが、実際に出たのは小さくかすれた声。
震えるケネスの右頬に、しわ深い人差し指がそっと触れる。
終わった。何もかも。
ケネスが絶望した時、ガイラーは耳元に囁いた。
「一つ、予言をしよう」
ぞっとする声音。以前にも同じことがあったような。ケネスがその出来事を思い出すより早く、ガイラーは続けた。
「次に私と出会う時、君はさらなる深淵に誘われるだろう」
「は……?」
薄く笑ったガイラーは、ケネスの頬に添えていた指をつーっと首筋に這わした。
「あ、あうっ」
「悪くないね」
ムカデの這いずりに等しい嫌悪感が、全身を痺れさせる。得体の知れないものに、心が侵食されていくようだった。
鎖骨まで滑り落ちた指先が、喉を通って戻ってくる。
乾いた指がケネスのあごをくいっと持ち上げた。自分の何もかもを見透かしたような瞳が覗き込んでくる。
「清き心に滲み出る一滴の濁りこそが、君の中にある不変の真実なのだよ」
彼の言葉は理解できなかったが、唯一はっきりしていることがある。生殺与奪の権利は、この男の手の内にあるということだ。
「あ、ああ……」
怯える釣り人と嗤う用務員。本能が大音量で警鐘を打ち鳴らしている。
しかしガイラーは身を引いた。驚くほどあっさりと。
「さて、私は行くとしよう。君は釣りを続けるといい。目当ての魚がかかることを祈っているよ」
「え?」
灰色の瞳がどこか遠くを見ていた。
「そろそろエマ君にも会いに行かなくてはね」
そうつぶやくと、彼は鮮やかに身を翻した。黒いコートがはためき、宙に踊る。
水しぶきが舞い上がり、一瞬だけ視界を覆い隠した。気付けばガイラーの姿はどこにもなかった。
思い出したように全身が震え出す。
寒い。うすら寒い。川の冷たさのせいではない。
悪魔に心臓を握られたような心地に、ケネスはしばらく動くこともできなかった。
☆ ☆ ☆
いい話だけで終わると思ったかね。残念、私だ。
そういうわけでユミル休息日です。何もかもを台無しにしていく用務員が、一番出てきてはいけないだろうタイミングで、満を持しての登場です。前半のハートフルを後半でハートブレイク。台無しだよ!
一つ注釈をさせて頂きます。
ガイラーさんのサブストーリーは《裏・灰色の戦記》ですが、彼に限り、単体でのストーリー進行となりません。
どういうことかと言いますと、この男は他のキャラクターのサブストーリーに介入していきます。
今回で言えば《爆釣哀悼紀行×裏・灰色の戦記》という形です。エーックスですね、つまり。
タイトルには表記しませんが、サブ(あるいはメイン)ストーリーにガイラーさん(あるいはそれとおぼしき人物)が現れたら、「やらかしにきやがった」とご理解頂ければ……
それでは次回も休息日。タイトルは『Look for red beans!』です。引き続きお楽しみ頂ければ幸いです。