それは黄金の昼下がり。
草花が芽吹く浅瀬の川縁で、エリゼは退屈していた。
何度となく読み古した恋愛小説のページをめくりつつ、さりげなく視線を活字から離す。むすっとして見た先にあるのは、釣りに興じる兄の姿だった。
緩やかに流れる川に釣り糸を垂らすリィンは、そこはかとなく楽しそうだ。今日はまあまあの収穫らしく、足元のバケツでは数匹の魚が水しぶきを上げている。
ああ、つまらない。
せっかく兄様とお出かけしたのに、全然私にかまってくれないんだもの。姫様の横入りもない二人きりなのに。
そんな状況ということにも、まったく意識のないご様子で。
「……もう」
ご機嫌ななめで嘆息を吐く。もういいです。次に魚を釣り上げても無反応で貫き通しますから。さすが兄様ですねとか言いません。
多分言うけれど。
ふわっと風がそよぎ、木々の葉がささやき声をもらす。その時だった。
「わー! 遅刻、遅刻! 遅刻しちゃうよぉ~!」
エリゼの目の前をミリアムが走り過ぎていく。彼女の頭には、白いウサギ耳がぴょんと生えていた。
「あら、ミリアムさん?」
「うぅ、いいんちょーとのお勉強時間に遅れちゃう。五分遅れるたびにクッキーが一枚ずつ減らされちゃう」
そういうお勉強システムがあるらしい。エリゼの呼びかけにも気付かず、手に持つ懐中時計を見たままミリアムは行ってしまった。
エマさんも来ているのかしら。
ここにいてもヒマだし、お話し相手になってくれる人を探しに行こう。
「兄様、私ちょっと離れます」
一応声をかける。ちょうど大物が当たったらしく、リィンはそれどころではないようだった。リールを巻きつつ「わかった! で、なんだって!?」と、まともに機能していない耳を形ばかり向けてくるので、「は、な、れ、ま、す、の、で!」とエリゼは一音ずつ強調して投げ返してやった。
立ち上がって、ミリアムが走っていった方に目を向ける。もういなくなってしまったが、小さな足あとが地面に残っていた。
スカートの裾をつまみ上げて、エリゼは急いで足あとを追った。
川沿いを逸れ、草はらを踏み分け、そうこう走っている内にミリアムの背中が見えてくる。彼女は辺りにきょろきょろと首を巡らしていた。
「ここだったかな? それともあっちだったっけ? んー……あー、あった!」
左に右に忙しなく動き回ったあと、なにかを見つけたミリアムは、原っぱのただ中で立ち止まる。
ぴょんと飛び跳ね、続いて着地したかと思いきや、突然その姿が消えてしまった。
「えっ!?」
驚いて駆け寄るエリゼ。地面にぽっかりと穴が空いていた。もしかしてミリアムさんはこの中に入っちゃったのかしら。
しゃがみこむエリゼは、おそるおそる穴の中をのぞいてみる。
人間一人が通れるほどの幅があるが、まっ暗でどこまで続いているのかもわからない。
なんだか怖い。やっぱり兄様のところに戻ろう。
そう思って体を引きかけた瞬間、トンっと誰かに背中を押された。
「えっ? きゃああ!?」
バランスが崩れ、前のめりになる。エリゼはそのまま穴に落ちてしまった。
穴幅はみるみると広がっていき、もう手足が何にも触れない。
落ちる、落ちる、まだ落ちる。叫び声さえ吸い込まれていく深い闇の底へ。
いったいどれほどの時間を落下し続けているのか。今の速度が速いのか遅いのかさえ実感できない。
ふと奇妙な浮遊感に包まれた。
その直後、ふわりと足が地につく。叩きつけられるような衝撃はまったくなく、静かな着地だった。
「ここは……どこ?」
ひんやりとした空気が鳥肌を浮き立たせる。地下深くのはずだけど、なんだかおかしい。とにかくどうにかして、ここを抜け出さなければ。
暗がりの壁伝いを慎重に手探りで進んでいくと、横道があるとわかった。その道の向こうに薄く光が差し込んでいる。
よかった。地上との位置関係はよくわからないが、外に繋がっているのだ。
光の出口を目指して走る。風と草の匂いが近付いてくる。まとわりつく闇を振り払うようにして、エリゼは勢いよく外へと飛び出した。
「んっ……!」
突然の眩しさに目をすぼめた。そして眼前に広がる光景に、今度は目を大きく見開いた。
キラキラと水面を輝かせる湖があり、その湖の中心には陸地があり、その陸地の中央には巨大な城がそびえ立っているのだ。
その城というのも、たとえばバルフレイム宮のような荘厳な佇まいではない。全体的に丸みを帯びた柔らかいデザインで、外装色もカラフルだ。まるでお菓子で作られているかのように。
そういえば空は書き割りのような鮮やか過ぎる青だし、そこに浮かぶわたあめのような雲は、流れ動く気配もない。
作りもの……?
訝しげに思いながら岸辺までたどり着くと、内陸へと続く長い橋がかかっていた。
その橋の前に二人の少女が立っている。
「あ、きたきた!」と両手を振るのはミリアムで、「……ようこそ、お客人」と愛想の欠片もなく応じるのはアルティナだった。ちなみにアルティナは黒いウサギ耳だ。
エリゼをそっちのけに、二人は何やらもめ始めた。
「アーちゃん。もっと笑わなきゃ」
「必要ないです。あと変な略称で呼ばないで下さい」
「愛称だよ? ボクのこともミーちゃんでいいからさー」
「お断りします」
「ふふん、断るのを断っちゃうもんね!」
「そ、そんな手段が……?」
口論はアルティナが劣勢だ。収まりがつきそうにないので、エリゼが仲裁の口を挟む。
「あのー、ここはどこなんですか? 私、兄様のところに戻りたいんですけど……」
二人はきょとんと目を合わせると、思い出したみたいにエリゼに向き直った。急に芝居じみた口調で言う。
「ここは楽しい楽しい夢の国!」
「クイーンが治める虹の国」
「時間を忘れて遊ぼうよ!」
「あなたを無限の輪の中へ」
二人は鏡合わせとなって、エリゼを誘うように大きく腕を広げる。そびえ立つお城を背景にして、白ウサギと黒ウサギが声をそろえた。
『ようこそ、虚ろの世界の遊園地へ。さあ、テーマパークの名前をご一緒に――』
《☆★☆アリサ イン ワンダーランド★☆★》
「そういうわけでルール説明します」
「どういうわけで!?」
橋の上を先導しながら当然のように言うアルティナに、エリゼは戸惑った。流されるままついていって、すでに橋も半分以上渡りきってしまっている。
これ以上はダメだ。変なことに巻き込まれる予感しかしない。
「やっぱり私、帰ります」
「でも帰れないよ? ほら」
後ろを振り返るミリアム。彼女に倣ってエリゼも首を振り向けると、今まで渡ってきた橋がなくなっていた。一歩ごとに、一歩前の足場が消えていくのだ。
「うそ……」
「夢の国~夢の国へ~出発連行~!」
ミリアムは上機嫌に歌い、また歩き出す。出発進行じゃないあたり、非常に不安だった。
橋の先に到達すると、派手なゲートがエリゼを出迎えた。そこに括り付けられた飾り旗には、《アリサインワンダーランド》とポップな字面が踊っている。
ウェルカムな感じが、逆に不安を煽ってくる。
橋を戻るに戻れず、かといって進むのもためらうエリゼに、「聞きますか、説明」と、アルティナが訊いてきた。
聞いたら逃げられないでしょう。でもどのみち逃げられないなら、聞いておかないと後で大変なことになりそう。
不承不承でエリゼはうなずいた。
「……お願いします」
「ではこちらを」
アルティナから手渡されたのは一枚の紙――このテーマパークのフィールドマップだった。
お城を中心にして、様々なアトラクションが用意されている。イラストだけを見ていると、存外楽しそうではあるが……。
そのリストはこうだ。
①クリスタルの館
②楽しいMOUSHOU☆ランニング
③シェフLの絶品フルコース
④メガネ割り人形
⑤西風シューティング!
⑥スカイハイノルド
⑦魔女と魔人のロンド
⑧ゆっしぃパラダイス
⑨マッドサイエンティストJ
⑩剛撃鬼教官のラプソディ
⑪フィッシング&フィッシング
うん、やっぱり違う。楽しい楽しくない以前に、怪しいのが紛れている。
続いてミリアムがカードを手渡してきた。長方形型で、四つのマスがある。裏側には『15』という謎の数字の刻印がなされていた。
「これは?」
「魔法のスタンプカード。アトラクションを一つクリアするごとにスタンプが一つもらえるよ。四つのスタンプが集まったら、外の世界に出られるからね」
「四つ……。全部じゃなくていいんですね」
「うん、全部やったら多分死んじゃうし」
「死っ……!?」
青ざめるエリゼにミリアムは「にしし」と笑い、アルティナは普通の顔をして「理解したら、出発して下さい」と、案内人とは思えないそっけなさで言う。
「もしかして私一人で行くんですか?」
「なぜこちらまで同行する必要が?」
「は、はい、そうですよね、すみません……」
悪気はないみたいだけど、ちょっと傷つく。
続けられる会話もなく、遠くに見えるファンシー感満載のお城に視線を転じてみた。もうこのテーマパークのルールに従うしかないようだ。
「それでは行ってきます」
「どうぞ」
「気をつけてねー」
やっぱり気をつけることがあるらしい。
無責任な後押しを背に受けて、エリゼは夢の国へのゲートをくぐった。
●
まずどこから行こう。
フィールドマップに目を落とし、大まかな全体像を把握してみる。およそ4セルジュ四方の浮島は、お城を中心にして、いくつかのエリアに分かれていた。
「ええっと。ここから一番近いアトラクションは……《ゆっしぃパラダイス》?」
ゆっしぃとはなんだ。クロスベルのみっしぃに対抗しているのだろうか。だとすればマスコットキャラクターかもしれない。
マスコットの関わる催しであれば、和やかな雰囲気が期待できる。
エリゼは最初に訪れる場所を決めた。
マップに従って歩いていくと、やがて背の高い木々が連なる森林が視界に入ってきた。
その森の入り口に人影が二つ。
「いらっしゃいませ。《ゆっしぃパラダイス》へようこそ」
修道服の女性が丁寧にお辞儀をしてくれる。彼女の顔には覚えがあった。
確か――そう。ケルディックの教会でお会いしたロジーヌさんだ。
「心ゆくまで楽しんで下さいね。さあ、みんなのお友達、ゆっしぃを元気な声で呼んでみましょう。せーの、ゆっしぃー!」
「あっ、ちょっ、まだ心の準備が。ゆ、ゆっしぃー!」
慌ててロジーヌの後に続く。
しばらくすると、近くの木の裏からがさごそと音がした。ぶにゅっぶにゅっと肉球で地面を踏みしめ、ひどく気乗りしなさそうなユーシスが、のそのそと歩み出てくる。
「はーい、当テーマパークのマスコット、ゆっしぃ君で~す」
「ま、マスコット?」
司会のお姉さんポジションらしいロジーヌは、意気揚々と場を盛り上げようとする。エリゼは疑問の目を正面に向け直した。
ゆっしいのボディは一応着ぐるみだ。手足の肉球がぷにぷに鳴っている。しかしなぜか頭に被り物をしていない。
仏頂面のユーシス全開である。彼は何も詮索するなと言わんばかりに、鋭い目を注いでくるばかりだ。
お客に威嚇を振りまくこれがマスコット? せめて被り物をしてくれていれば……
居づらい。この場に居づらい。手早くアトラクションとやらを済まして、スタンプをもらわないと。
「あの、私は何をすればいいんでしょうか?」
「ゆっしぃ君との楽しいゲームですよ。私の出すお題にクリアできたら、あなたの勝ちとなります」
「わかりました。お題をお願いします」
「やる気十分ですね。それでは本日のお題はこちら。ゆっしぃ君を笑わせて下さい」
「む、無理です」
一発目からハード過ぎる。どうやったらこの不機嫌の塊を笑顔にできよう。
気の利いたジョークとか言えない。面白いこともできない。エリゼが頭を抱えていると、ロジーヌが訊いてきた。
「難しいですか?」
「だって……はい」
「なんでもいいですよ」
「そう言われましても……」
だけど、そうだ。スタンプを集めないと帰れないんだった。
なにかないか。記憶をたどり、不意に思い出す。
幼い頃のことだ。キキとアルフの面倒を見ていた時、ぐずる彼らでも必ず笑う鉄板ネタがあった。それに賭けるしかない。
ゆっしぃさん。このエリゼ・シュバルツァーの一世一代の秘蔵ネタ、とくとご覧ください。
エリゼは腰を屈めて、腕をたたんで、小さく拳を繰り出した。
「雪ヒツジーン!」
ノーリアクションのロジーヌとゆっしぃ。時が凍っている。
静止した世界の中で、シュッシュと短いエリゼパンチの音だけが妙に大きく響いていた。
「雪ヒツジ~ン……」
諦めずに再トライ。シュッシュとパンチ。
どうして。キキとアルフには好評だったのに。ああ、心が折れそう。目頭がじんわりと熱くなっていくのがわかる。
ロジーヌはゆっしぃの脇をちょんちょんと突つき、小声で言った。
「ユーシスさん。お早く」
「……お前、無茶を言うな」
「エリゼちゃん泣いちゃいそうです」
「………」
じぃっと見つめるロジーヌ。葛藤するゆっしぃの口が「ゆ、ゆ……」小刻みに震え、
「ゆししっ」
引きつった笑顔を浮かべる。やらされ感満載の乾いた笑みだった。目はまったく笑っていない。
満足そうにロジーヌは両手を打った。
「ばっちりクリアですね。おめでとうございます」
エリゼのスタンプカードにポンと印を押す。カードの四つマスの一つに、青い光が宿った。
「いいんですか? 私、まともなことやってませんけど……」
「そんなことありませんよ。現にゆっしぃ君も笑顔になりましたし。ね?」
「……ゆしし」
ロジーヌに同意を求められたゆっしぃは、求められるがままにうなずいた。
お情けで頂いたスタンプには違いないが、それでも一つは一つ。
ゆっしぃの機嫌を戻しにかかるロジーヌにお礼を告げて、エリゼは森の中へと足を踏み入れた。
どうやらアトラクションのタイトルから得るイメージは当てにならないらしい。予想で目当てを絞ってパーク内を回るより、順序通りに進んだ方が効率が良さそうだった。
うねうねと曲がりくねった森林道に沿って進んでいく。
座れるほど大きな傘のキノコ。木の枝からぶら下がる見たことのない果実。ぼんやりと光る路傍の石。
不思議なものがたくさんある。誰が作ったテーマパークなのだろう。名前から察するにアリサさんだと思うけど。
誰、で思い出した。
地上からここに落ちる時に、何者かに背中を押されたのだ。まるで私を
「――今日は良い日です。どうぞご期待下さい」
聞き覚えのある声が耳に届いた。
同じ森の中、少し離れたところをラウラが歩いている。その後ろについて行くのはアルフィンだ。
「姫様?」
どうして姫様まで。疑問はあったが、それ以上に安堵を感じた。やはり一人ぼっちは不安だ。姫様もスタンプ集めをしているなら、いっしょに行動できたら心強い。
「姫様! エリゼです、姫様ー!」
呼びかけてみるも、アルフィンはこちらに振り向かない。声は届く距離なのに変だ。
逆に向こうの会話が聞こえてきた。
「ちょうど活きのいい食材を手に入れたのです。このラウラ、精一杯腕を振るいますゆえ、どうか心行くまでご堪能頂きたい」
「……はい。完食したらスタンプくれるんですよね……」
もしかしてあれが《シェフ
だがなぜかアルフィンの顔からは生気が失せている。半死人のような目だ。はつらつとした普段の雰囲気はなく、まるで処刑台に連行される囚人のようだった。
ラウラの背負う網カゴがガタガタと揺れ、『キシャア!』と謎の鳴き声が漏れた。活きがいい食材というか、普通に生きている。
ちょっとなにを食べるのですか。
「姫さ――」
「危ない危なーい! 止まってたら餌食だよー!」
もう一度呼びかけようとした声が、別の声にかき消される。
後ろからお団子頭の少女が走ってきた。
「わわっ、挑戦者の人? あたしはミント。ゴールまで走り切れたらスタンプだよ!」
「ま、待って下さい。私やるなんて一言も言ってません」
「来たよ、猛将が」
エリゼの抗弁をさらりと流して、ミントは後方を指差した。
ザッザッザッと乱れない走調で、橙色の髪が近付いてくる。鍛え上げられた上半身をあらわにした、ムッキムキのエリオットだった。
そのエリオットと目があった。これ以上ないくらいに濁った目線が、なめるようにして足元から頭先まで這い上がる。
ぞわぞわっと身の毛がよだった。
「あ、あんなのエリオットさんじゃありません」
「真実のエリオット君は初めて? あれが完全体のビースト猛将だよ」
エリゼを見据えて離さないビースト猛将が、ふしゅっふしゅっと鼻息を荒くした。
「ひっ」
「いやがるとエリオットくん喜ぶからね」
猛将が走ってくる。本能が打ち鳴らす警鐘に押し衝かれ、エリゼは全力で逃げ出した。
ミントはエリゼに並走してくる。小柄なのに足が速い。
「ゴールまで走り切れたらスタンプをくれるんですね!」
「そーだよー」
「もし途中でエリオットさんに捕まったらどうなるんですか?」
「それ聞いちゃうんだ」
「一応知って置かないと不安ですし。ひどいことされませんよね?」
「一言で言うとエロオット・クレイジーになるよ」
「ひど過ぎるんですけど!」
これが《楽しいMOUSHOU☆ランニング》。楽しい要素は皆無だ。木になっている果実に裂けた口が浮かび、ケタケタと不快な笑い声を上げていた。
背後から接近してくる荒い鼻息。どれくらい距離を縮められたか把握したいが、迫り来る猛将に振り返る勇気はなかった。
音楽を愛していたあの優しいエリオットさんはどこへ行ったのでしょう。
どれくらい走ったのか、すでに呼吸が苦しい。心臓が破れそうだ。それでもエリゼは必死に足を前に出した。猛将は執拗に追跡してくる。
奮走むなしく、とうとう後ろから肩をわし掴まれてしまった。
「いっ、いやー!!」
「アトラクションクリアー! おめでとー」
肩をポンポンと叩き、ミントが言った。上がった息は収まらず、エリゼは恐怖に体を強張らせて戸惑うばかりである。
「クリア? どうして?」
「だってもう森を抜けてるもん。木と木の間に張ったゴールテープもしっかり切ってたよ」
いつの間にか森林道は後方にあった。腰に引っかかったままのゴールテープが風になびいている。まったく気付かなかった。
「はい、約束の」
ぽんっと二つ目のスタンプが押された。今度は赤い光を発している。光に合わせるようにして、空が一瞬だけ揺れ動いた気がした。
「ところでエリオットさんは?」
「まだ森の中かなー」
「助かったんですね、私」
エリゼが胸を撫で下ろすと、ミントは首を横に振った。
「猛将は諦めないよ。どこまでも、どこまでも追ってくるから」
「あの、本当につらいんですけど……」
ふわふわと矢印が宙に浮いている。どうやら進路を示しているらしい。スタンプカードを手に、エリゼは矢印の先へと向かった。
緑の生い茂る草原地帯の真ん中に、ぽつんと小屋が建っている。木板だけを組み合わせて作られた簡素な小屋からは、絶え間ない発砲音に混じって男たちの歓声が聞こえてきた。
さっきの猛将のこともある。エリゼはおそるおそる慎重に近付いていく。
「さすがや! ええぞ、ええぞ!」
「うむ。目標の位置を変えて、難度を上げてみるか?」
「ん、お願い」
さらに響く銃声。小屋は手前がカウンターになっていて、奥に景品の陳列された棚が何段かに分けて設えられている。ここは射的場だ。
現在のプレイヤーはフィーで、その両脇に立つのは凄みのある男二人。
あの人たちは知っている。ガレリア要塞で遭遇した猟兵――確かゼノとレオニダス。《西風の旅団》の幹部だ。つまりこのアトラクションが《西風シューティング!》なのだろう。
「お、新しいお客さんやないか。らっしゃーい」
気さくな態度のゼノは、フレンドリーにエリゼを出迎える。対してレオニダスは、「ここに立つといい」と不愛想にフィーの横を目線で示した。
この人たちの言うことに、あっさり従うのは……。仮にも戦闘したことがある相手なのに。しかし二人がそれを気にする様子は一切見受けられない。
猟兵とはそういうものなのか。フィーもとなりにいるし一応問題なしと判断したエリゼは、促されるまま所定の位置についた。
フィーが言う。
「エリゼも来たんだね。楽しんでる?」
「正直あんまり……。あ、フィーさんもスタンプカードを持ってるんですね」
首から紐でかけられた彼女のスタンプカードは、すでに印が三つ押してある。感嘆の息をつくエリゼに、「大したことないよ。エリオットに追いかけられたのは面倒だったけど」と言ってのけて、フィーはゼノを見た。
「もうクリアでいいの?」
「もちろんや。百発百中百点満点やからな。ほいっと」
フィーのカードに四つのスタンプが集まる。途端、キラキラした輝きが彼女を覆った。
「じゃ、先に帰ってるから。ふぁ……眠いような、眠くないような……」
あくびと共に、フィーの姿は光の中へとかき消えた。
「うそ、いなくなった……?」
「ほな、お嬢ちゃんの番やな」
絶句するエリゼに、ゼノはずいとライフルを押し付けてきた。ずしっとした重厚感に鉄の匂い。まさかこれは。
「ほ、本物ですか」
「そらそうやろ。これで棚の景品狙って撃つんや。んで当たったらその景品ゲット!」
「でも、もう景品残ってないんですけど」
棚上はもちろん小屋内の床にも、景品だった物の残骸が大量に散らばっていた。
「あっちゃー。フィーが双銃剣で連射しまくってたもんな。しゃーないやっちゃで、ほんま」
あなたがええぞええぞって、はやし立ててたからじゃないですか。そもそも実弾である時点で、当たった景品の末路は例外なくコレでしょう。
「景品ならまだ残っている。とびきりの景品がな」
横から口を挟んできたレオニダスは、手元の端末を操作した。地面がガガガと揺れ、小屋が中心から真っ二つに左右に分かれていく。なんとも大掛かりなギミックだ。
見晴らしの良くなった景色の向こう。緩やかな流れの小川の岸辺に、白い学院服の少年が釣り糸を垂らしているのが見えた。
マップの位置を見るにあれもアトラクションの一つ、《フィッシング&フィッシング》だ。
「あそこに釣りしとる男がおるやろ。あいつケネスって言うんやが」
「はい」
「あれが
「はい?」
レオニダスはてきぱきとエリゼの持つライフルの安全装置を解除しにかかっている。さらに続けて「脇を締めて、スコープと目は接着させろ。あと顎を引け。そうだ、お前は筋がいい」と、手際よくエリゼを即時射撃体勢へと変えた。
プロの手解きのおかげで、傍から見たエリゼの構えは、一端の狙撃手と比べても遜色がなかった。
「よっしゃ。ぱっかーんいったれや」
「存分にケネスの頭を吹き飛ばすがいい」
「ほ、本気ですか? そんなことできません!」
この人たちは彼になんの恨みがあるというのだ。あんな無害そうな人に。
エリゼが引き金を引くのを拒んでいると、業を煮やしたらしい西風の二人は、新たな武器を持ち出してきた。
物々しい機関砲だ。ドスンと砲台を地面に固定する。
「お嬢ちゃんが撃てんのならええわ。こっちはこっちでやらせてもらうで」
「こっちはこっちでって、それじゃアトラクションの意味なくないですか!?」
「やかましいわ! こいつはデストラクションや! 駆除や駆除!」
ギュンギュンと砲塔内部にエネルギーの鼓動が高まっていく。実弾ではないようだが、威力は凄まじそうだ。少なくとも人間一人を消し去る程度には。「やめて!」とエリゼが叫んだ時、すでにそれは発射されていた。
怨恨を乗せた西風レーザーが、無防備なケネスの背へと伸びる。
その刹那、黒い影が猛スピードで射線上へと飛び込んできた。
レーザーにかすったその影は墜落し、地面を激しく転がっていく。一方のレーザーは殴りつけるような突風に威力を減殺され、収束熱を虚空へと散らせた。
エリゼは地面でうめいている影に目を凝らす。
「あれは……ガイウスさん?」
ゼノが忌々しげに舌打ちした。
「ちっ。今はカラミティホークの定期飛行の時間やったか」
「見ろ。親ホークも一緒にいる」
槍を手にしたラカン・ウォーゼルが、青い民族衣装をはためかせながら上空を旋回していた。その異様さといったら、新手の魔獣と勘違いしそうになってしまうほどだ。
それよりガイウスさんを助けないと。
エリゼは慌てて、倒れている彼の元に向かった。
「大丈夫ですか!? 返事をして下さい!」
エリゼに揺さぶられると、ガイウスは弱々しく目を開いた。
「ふふ……今日の風は機嫌が悪いようだ」
「言ってる場合ですか!」
多分これは《スカイハイノルド》だろう。というかアトラクション同士のエリアが近すぎる。設計段階からの見直しが必要だと思う。
エリゼはゼノたちに視線を移した。第二射の準備にかかっている。まだここは西風レーザーの射線上に位置していた。
ガイウスは動けそうにない。ケネスは危機に気付いてもいない。
私がなんとかしないと……!
エリゼは持ったままのライフルを構え直した。さっきの感覚を思い返しながら、スコープを目につける。正しい姿勢というのは、ひどく窮屈だ。
望遠レンズの中の十字線が揺れる。呼吸を止めると、ぶれが幾分マシになった。観測距離50アージュ。
西風砲に宿る光が膨らんだ。撃ってくる。無意識にエリゼはトリガーを絞っていた。
激発。グリップが肩に食い込み、反動を後ろ足で耐える。
吐き出された弾丸は、理想的な放物線を描いて砲塔の中へと飛び込んだ。そこからさらに導力圧調整とエネルギー収束を担う重要な内部パーツを貫く。
ほとんど奇跡に近い一発だった。
爆発する砲台。至近距離でその煽りを受けたゼノとレオニダスは、黒煙に巻かれながら撤退していく。
ひゅーんと飛んできた何かが、エリゼの頭にこつんと当たった。
「いたっ。な、なに?」
小石かと思って拾い上げてみると、それはスタンプだった。彼らの手を離れ、爆発の勢いでここまで飛んできたのだろう。
勝手に押してしまっていいものか悩んでいると、ガイウスが言った。
「押すといい」
「ですけどアトラクションをクリアしたわけじゃありませんし……」
「エリゼは素直だな。西風をシューティングしたのだから、俺は問題ないと思うが」
「そういうものですか。ではお言葉に甘えます」
自分でスタンプをカードにつく。三つ目の印。黄色の光が瞬いた。また景色が一瞬だけ揺れ動く。世界にノイズが走るようなこの現象はいったいなんなのか。
「では俺は行くとしよう。助けてくれて感謝する」
「ええ、お気を付けて。でもどこへ?」
風をまとい、「カラミティ――」と力を溜めたガイウスは、「ホアアーック!!」と力強く叫んで大地を蹴った。
鳥となった風の人が、大空へと舞い上がっていく。
「ガイウスさん、良かった。でも……」
この光景を当たり前に受け入れていいのでしょうか。
順調と言えるのかは微妙だが、ようやくスタンプは残り一つ。それでこのわけのわからないテーマパークから脱出できる。
しらみ潰しに回ってみようか。エリゼはフィールドマップを頼りに散策を進める。
しかしここからが長かった。
まず見つけたのはレンガ造りの家。その窓から中の様子をのぞいてみると、椅子に縛られたマキアスが何やらわめいていた。
「やめろおっ! やめてくれえ!」
彼の前には大理石のテーブルがあり、そこに一つの眼鏡が無造作に置かれていた。と、いきなりその眼鏡の上に、レンガブロックが振り落とされる。ゴシャッと痛ましい破砕音と共に、粉々になったレンズが飛び散った。
「ぎゃあああ!」
メガネと魂が連動しているのか、マキアスは身をよじって苦悶の叫びをあげる。そんな彼の奥には、父であるカールの姿もあった。息子と同様に縛られている。
「やめろ、外道め! レーグニッツ家にとって眼鏡がどういう意味を持つか、貴様とて知らぬわけではあるまい!」
「ええ、知っていますよ。このように」
卓上に伸びた細い手がレンガをつかみ、ゆっくりと円を描くようにして、わずかに形を留めていたレンズの破片を丹念にすり潰していく。
「ぬぐあっ、おのれ……おのれえ……」
「黒と白の忌まわれた歴史を、今日ここで終わらせてもいいのですけどね」
よく聞き知った女性の声。しかし誰なのか思い出せない。窓からでは角度の問題で、その人を確かめることもできなかった。
エリゼは窓から離れた。《メガネ割り人形》のアトラクションであることは間違いなさそうだが、まずルールがわからない。そしてルールがわかったとしてもやりたくない。
「この恨み決して忘れんぞ、雪帝!」
踵を返しかけたエリゼの動きがピタリと止まる。まさかこの女性は。
さりとて確認する気もなく、足早に立ち去るのみだった。
しばらく進むと、向かいからがらがらと車輪の音が近付いてくる。恰幅のいいつなぎ服の男性が、リヤカーを引いてやってきた。
彼はエリゼの前で足を止めた。
「やあ、僕はジョルジュ・ノーム。困っていることはないかい?」
「今まさに多くのことに困っていますが……」
「それは良かった。僕は君の役に立ちたいんだ。アトラクションをクリアするのに有効なアイテムにしてあげるよ!」
「助かります。ありがとうございま――え?」
有効なアイテムを渡してあげるでも、売ってあげるでもなく、してあげるとはなんだ。
ジョルジュはカタログ冊子を取り出した。
「膝に暗器を仕込むのはどうかな? 腕をカニのそれに換えるのも面白そうだ。背中にブースターを取り付けるのはオススメだよ」
「ち、ちょっと待って下さい。私が? 私がアイテムに改造されるんですか?」
「品質は保証しよう。その後のメンテナンスも任せてくれ」
リヤカーの荷台には、怪しげな器具が山のように積まれていた。
「まさかこれが《マッドサイエンティスト
「いいから荷台に上がって。一時間後には誰も知らない君になっている」
「なりなくないです! 特に腕がカニとか!」
道を塞ぐ腹太鼓を押しのけて、エリゼは駆け出した。
追ってくる気配はなかったが、ひとまずジョルジュが見えなくなるまで走る。
やがて三方向に分かれる道が現れた。三つの分岐点の中心に、またしても宙に浮かぶ矢印があった。それぞれの矢印には文字が刻まれている。
「えーと、右は《魔女と魔人のロンド》、左は《剛撃鬼教官のラプソディ》、正面は《クリスタルの館》……?」
ここにきてようやくアトラクションを選べるらしい。
エリゼは右を見た。紫色の湿地帯が広がっている。点在する沼からはボコンと気泡が上がっては弾けていた。悶気の向こうで、胸中をざわめかせる雷鳴がゴロゴロと轟く。不穏な空気だ。
次に左を見た。荒廃し、干からびた大地が横たわっている。遠くから戦車のキャタビラの音に加えて、絶え間ない罵声が風に乗って届く。「貴様らはウジ虫だ!」とか「その行進はお遊戯会のつもりか!」とか「まるで貴族のお嬢さん方のダンスパーティだな!」とか。もちろん行きたくない。
最後に正面。静謐な光に満ちた一本道が伸びている。迷うことなくエリゼは直進した。
道を進むにつれて光の濃度は増していく。いつしか周囲の全てが水晶で形作られた森に踏み入っていた。木も枝も葉も花も、全部が透き通ったクリスタルである。
幻想的な光景に包まれて、気を抜くと心が吸い込まれてしまいそうだ。
水晶の森の奥深く、突然開けた場所に出る。そこには見上げるほど大きな建物があった。豪華な見栄えでありがなら、どこか密やかに佇んでいる。
これはまるで劇場だ。
「ああ、困ったわ。まったくもって困ったわ」
柵に閉じられた玄関門の前で、青いドレスの女性がうなだれている。
これ見よがしに肩を落とすのは、ヴィータ・クロチルダだった。
彼女はエリゼを横目に見留めると、自分のそばへと手招きした。
「もうすぐ開演時間だっていうのに、喉の調子が戻らないの。どうしましょう?」
「どうしようもないのでは……。日程を延期するとかどうですか?」
「もう1000人近いお客様がホール入りしているのよ。今さら帰らせるなんてできないわ。あなたアマチュアね。そういうところ気を付けなさいよ?」
「ご、ごめんなさい」
すごい厳しく怒られた。しゅんとするエリゼに、ヴィータは物憂げなため息をつく。
「というわけだから、あなた。私の代役になって舞台に立ちなさい」
「できるわけないじゃないですか! 舞台ってオペラですよね!?」
幼い頃に一度だけ、父に連れられて帝都で観覧したことがある。それだけだ。
「あなたができないだなんて最初からわかってるわよ。その上で言ってるの」
「どういうことですか?」
「素人のあなたがステージに立ち、つたなく粗末な歌劇を披露する。すると千を超えるオーディエンスからブーイングの嵐が巻き起こるでしょう。容赦なく投げつけられる雑品に、あなたはみじめに膝を落とすことになる」
「はあ」
「そこで私が颯爽と舞台に登場するのよ。場の雰囲気は一転し、大歓声に包まれるわ。どうかしら、最高の演出だと思わない?」
「……喉の調子が悪いのでしょう?」
「その逆境に耐えて歌うから感動的なのよ。見事私の引き立て役を
話の途中でエリゼは立ち去っていた。
●
今何時だろう。兄様が心配していなければいいけれど。
水晶の森を抜けてしばらく。時計は色んなところで見かけた。しかしそのどれもがでたらめな針の向きで、正しい時刻がわからない。
それに何だかおかしい。ずいぶん時間が経ったように思うけど、やっぱり雲が流れない。空が陰らない。太陽も傾かない。
早くこのテーマパークの外に出たい。でもアトラクションをあと一つクリアしないと。
どうしよう。どれが簡単なんだろう。下手に面倒なのは引きたくないし……。
「……!?」
急にぞくりと身震いする。不穏を感じて後ろに振り向くエリゼ。クレイジーなあの赤毛が、こちらに走ってきていた。
猛将エリオットだ。ミントは言っていた。猛将は諦めないと。
まさかあれからずっと私を探していたというの。本当にもう許して下さい。
「いや……っ」
とっさに叫びを堪える。嫌がると猛将は喜ぶらしい。
エリオットに追われるまま、泣きそうになりながらエリゼは逃げる。今日は逃げてばっかりだ。
しかし道なりに逃げていては、いずれ追いつかれてしまう。そう考えたエリゼは道を外れ、身を隠せる場所を探した。
原っぱに設けられたフェンスを乗り越える。立ち入り禁止の札が張られていたが、引き返せるはずもない。
逃げて、逃げて、逃げ回る。
いつしか足元は舗装された石畳みになっていた。フィールドマップを確認する余裕もなく、どこをどう走ったのかも覚えていない。
息を切らすエリゼの目前には、このテーマパークの中心たるお城がそびえたっていた。城門に続くはね橋は降りていて、しかも門も開いている。
ここはアトラクションではない。果たして入っていいものか。ためらうエリゼは後ろを見る。
慄然とした。
先頭のエリオットに付き従うようにして、軍服姿の男たちが大量に押し寄せてくる。
『猛・将! 猛・将! 猛・将 イェアア!!』
怒号と軍靴の音が悲鳴のように入り混じる。どこから湧いて出た人たちだ。
躊躇は一秒で捨て去って、エリゼは橋を渡った。渡りきったところに、赤いボタンがあった。深くも考えずにそれを押すと、はね橋が中央から分かれて持ち上がっていく。
「や、やった。これでエリオットさんはこっちにこれないわ」
しかし同時に自分の退路も失った。悔やんでも仕方がない。エリゼはそのまま城門をくぐる。門番はいなかった。
その先に広がっていた中庭を抜けて、お城の中へ。
もう直談判だ。ここの責任者に訴えて、早々に外に送ってもらおう。
城の内部は豪奢な造りになっていた。
高級そうな調度品に触れないようにして、エリゼは絵画の飾られた回廊を注意深く進んでいく。
スタッフの人とまったく出会わない。上階に続く階段も見当たらない。
延々と同じ場所をループしているような感覚だ。
「ループ……そんなことが」
あり得るのだろうか。ここは不思議なテーマパークの象徴とも言えるお城だし、ないとも言い切れないが。だとしても抜け出す方法に見当がつかない。
そういえばさっき、絵と絵の間に鏡がかかっていた。不自然な配置に違和感がある。
エリゼはその鏡の前に引き返した。なんの変哲もない姿写しの前に立ち、試しにトントンとつっついてみる。
鏡面が
「ようこそ。わたくしはこのアリサキャッスルの使用人、シャロン・クルーガーと申します。主のお客人でいらっしゃいますか?」
「そうです。お会いできますか?」
「しかしアポイントは取っておられないご様子。ならば《試しの身鏡》に挑んでいただく必要がございますが」
「なんでもやります。ここまで来たんですから」
「かしこまりました。では――」
シャロンの姿が薄れて消えていく。元に戻った鏡にはエリゼが映っていた。そこに声だけが響く。
「《試しの身鏡》を始めます。その鏡に向かって、人生で一番恥ずかしかった出来事を再現して下さい」
「えええぇ……」
「はい5、4、3」
なんでこんなのばっかり。しかも勝手にカウントダウンをされてるし。やるしかない。もうやるしかない。
顔を真っ赤にしたエリゼは、半ばやけになって叫んだ。
「雪ヒツジーン!!」
繰り出したパンチが鏡の中に吸い込まれた。そのまま体ごと持っていかれる。いかにも楽しそうなシャロンの笑い声が反響した。
「あっ!?」
ぱっと視界が光に染まったと思ったら、まばたきの間に鏡の向こう側へと出ていた。
薄暗く、飾り気のない通路の真ん中だ。無造作に置かれた資材や荷物を見るに、どうやらお城のバックヤードらしい。くすんだねずみ色ばかりである。
「ニコラスくん、オーダー追加よ!」
そんな声がした。いい匂いが漂っている。匂いの元をたどっていくと、厨房があった。
忙しなく動き回るコックに、ウエイトレスが話しかけている。
「まだ注文さばけそう?」
「やれるけど……さすがにしんどいかな。エミリーさん、僕もう倒れそうだよ」
「最後に休んだのいつ?」
「14時間前に10分ほど。食事も取ってないんだ……」
「がんばって。ゼラムパウダー入り栄養ドリンク作ってきてあげるから。私も15時間コースだけど残業代つかないし……」
なんて黒い職場。エリゼはそっと退散した。
しばらくうろついていると、一つの部屋から荒だった声が聞こえてくる。
「こんなん無茶やろが! 現状分かってへんのか!」
ドアに隙間があったので、エリゼはこっそりのぞいてみた。
憤慨しているのは、ケルディックで会ったことのあるベッキーで、彼女と机を挟んで対面しているのはクレアと、学院服の男性だ。男性の顔は知らないがヒューゴと呼ばれていた。
「なにか問題が?」
クレアがさも当然のように言う。その冷静な声音がベッキーをさらに苛立てた。
「問題大アリや! 現状でさらに経費削減しろやと!? もう削れるだけ削ってるんや。どうにもならんちゅーねん!」
ベッキーがばんばん机を叩くと、ヒューゴが肩をすくめた。
「人気のないアトラクションに時間制限を設けて、担当の出勤時間を調整すればいいじゃないか。人件費の削減ができる」
「お上は何かにつけて人件費言いおってからに! そのアトラクションを楽しみにしてるお客さんもおるんやで!? 現場を知らんデスクワークもんはこれやから!」
クレアが言う。
「知ってますよ、現場」
「二、三日研修に行った程度やろ! そんくらいでわかった顔すな! 現場は汗流してナンボや!」
「あなたの感情はさておき。収支の採算を合わせる方法を考えませんと。ひとまず《スカイハイノルド》は削除の方向で」
「むきー! 組合結成したるぞ! ウチら泣き寝入りはせんからなあ!」
いやいや《MOUSHOU☆ランニング》を削るべきでしょう。
思わずツッコミかけて、エリゼはとっさに口をつぐむ。
夢の国の裏側を見た気分だった。
「お前、誰だ?」
「え? あっ」
長く立ち聞きしていたせいで、警備員に見つかってしまった。警備員の胸章には『クレイン』と記載されている。
「従業員じゃないな。さてはさっき勝手にはね橋を上げたやつか。来い」
「ま、待って。乱暴にしないで下さい」
「お前の処遇はクイーンに一任する。ただで済むと思うな」
クレインは有無を言わさずエリゼを連行した。
表示が7Fになったところで、スタッフ専用エレベーターの上昇は止まった。
扉が開くと、エリゼはクレインに背中を押され、だだっ広い空間の中ほどまで歩かされる。
床には金刺繍の入った赤絨毯が敷かれていた。シャンデリアの吊るされた天井は高く、それを支えるいくつかの大理石の円柱は美しい純白だ。左手に見えるテラスの窓は開いていて、緩やかにレースカーテンが波打っている。
なんて綺麗な部屋。
率直な感想を抱いた時、「あなたが侵入者ね?」と高飛車な声を正面から投げられた。
派手なドレスと髪飾りを身に付け、装飾過多とも思える座椅子に腰かけるのは、アリサ・ラインフォルトだった。
クレインがうやうやしくかしずく。
「クイーン・アリサ。この者は無断で城内に入り、運営の内情を調べようとしておりまして――」
「私はあなたに聞いていないわ」
「は……」
紅い瞳に射竦められたクレインは、すぐさま頭を垂れる。
アリサは足を組み替え、エリゼに言う。
「私に会いたかったのよね。用件は?」
「ここから出て、元の場所に帰りたいんです」
「ゲストカード持ってるでしょ。スタンプは集まってないの?」
「三つはありますけど……」
「じゃあダメ。四つの印がないと出口の封印は解けない。それがルールだから」
「そんな融通の利かなさ……アリサさんがこのテーマパークを作ったんでしょう? どうにかして下さい!」
「オーナーは私だけど、設計は私じゃないもの。異議申し立てなら、そっちに言ってくれるかしら」
アリサの椅子の後ろにかけられていた暗幕を分けて、白いコートが歩み出てくる。彼はシュピッとおでこを擦る敬礼をニヒルにかました。
「みんなの頼れるお兄さん、トヴァル・ランドナー登場!」
エリゼのテンションが急降下していく。
「……あなたが作ったんですか、このテーマパーク」
「アリサに出資者になってもらってな。俺が全てを手配した設計責任者だ。楽しんでくれたか?」
「いいえ、まったく」
ストレートに頭から否定する。エリゼは無表情だった。
「おいおいマジかよ。せっかくエリゼお嬢さんのために製作したってのに」
「私のため……? これだけのものを?」
「そうさ。しかも心置きなくはしゃげるように、お嬢さんと同年代の子だけを招待してな」
今のでピンときた。スタンプカードの裏に刻印された15という数字。これは年齢だ。だから私と同い年の姫様とフィーさんがプレイヤーとして招かれていたのだろう。
15歳限定のテーマパークとか集客率が悪すぎる。それは収支も低迷するはずだ。
つまりこの人のせいで、私は大変な目にあっているのか。
「どうだ! テーマパーク丸々一つ作れるお兄さんは凄いだろ!」
「嫌いです」
「なっ……」
「もしかして私を穴に落としたのはトヴァルさんですか」
「そ、そうそう! ちょっとしたサプライズって感じで――」
「最低」
痛恨の一撃に、トヴァルは無言になった。
「とにかく私を帰して下さい。早く兄様のところへ戻りたいんです」
わずかにアリサの眉が動く。
「いいじゃない。ゆっくりしていけば」
「もう十分堪能しましたので。せっかく兄様と二人で過ごせる休日だったのに……」
「羨まし――じゃなくて。だ、だったらリィンもここに連れてきたら? みんなで楽しめるんじゃない?」
「いえ、それはちょっと……」
「なんで? どうして?」
アリサが椅子から立ち上がる。なんだか妙な迫力があった。
「そ、そうです。でしたらアリサさんがテーマパークを楽しまれたらいかがですか? オーナーだったらフリーパスでしょうし。名前的にも私と立ち位置が逆の方がいいような気がします」
「い、言ってしまったわね……!」
くらっとよろけるアリサ。
「私だってわかってるわ。だって《アリサインワンダーランド》だし。本当は私専用の遊園地にして、その……リィンとかに、色々楽しんでもらえる感じにしたかったのに。トヴァルさんが一人で図面を引いて、勝手に竣工しちゃうんだもの!」
落ちているトヴァルの肩がピクリと震えた。またやらかしたらしい。
「もういいわ。兵隊たち、来なさい!」
アリサが声を上げると、どこからともなくわらわらと衛兵が集まってきた。
見知った顔も何人かいる。トールズの学院生の人たちだ。
「その娘を捕らえなさい。そうしたらリィンもここに来るわ!」
『クイーンの仰せのままに!』
一糸乱れぬ応答をアリサに返して、十数名の衛兵たちが包囲を狭めてくる。エリゼはテラスへと追い詰められた。
テラスから下を見る。高い。ここからは逃げられない。戦おうにも多勢に無勢。そもそも武器がない。
「さあ、観念しなさい」
「そんな……兄様……」
その時、テラスの柵に長身の影が降り立った。アリサが驚きに目を丸くする。
「か、カラミティホーク!? どうしてここに」
「恩を返しにな」
そう告げると、ガイウスはエリゼに背を向けた。
「乗れ、エリゼ。脱出するぞ」
「背中に? スノーボードは苦手なんですけど……」
「どんなふうに乗るつもりだ。普通にしがみつけ」
「で、ですよね」
衛兵たちが襲い掛かってくる。迷う間もなく、エリゼはガイウスの背に飛びついた。
「カラミティ……フォアアーック!」
今日一番の気合いを込めて、エリゼを背負うガイウスは柵を蹴る。一直線に空へと駆け上がった。
風を切って急上昇。あっという間にお城が小さくなっていく。
「ありがとうございます、ガイウスさん。これでやっと――あっ、でもカードが完成してないと出られないんじゃ」
「心配するな。これを使え。俺と共に空を舞えば、アトラクションクリアだ」
ガイウスが渡してきたのは《スカイハイノルド》のスタンプだった。
エリゼは最後の印をカードに押す。緑色の光が弾けた。
赤、青、黄、緑。カードから放たれた四色の光はやがて融合し、虹色の光軸が蒼天を穿った。
空が渦を巻く。封印が解けて、外界への門が開いたのだ。
「さあ、あとは一人で行くといい」
「え? 私、浮いてる?」
ガイウスの背から離れた体が、ふわりと宙に舞う。渦の中心へとエリゼは吸い込まれていった。
同時、周囲の景色がぐらりと歪む――
目が開いた。薄暗い天井が、視界の中でぼやけている。
横から聞こえる小さな寝息が、冷えた室内の空気を揺らした。となりのベッドでリゼットが眠っている。ベッドの下ではルビィが耳を垂らして横になっていた。
夢。夢か。
エリゼは額に滲んでいた汗を拭う。
「カラミティホークって品種名だったんですね……」
――――☾ ☾ ☾――――
《アリサインワンダーランド》をお付き合い頂き、ありがとうございます。ずいぶんお待たせしてしまいました。
『夢にて夢みて』は基本短編集で、短いお話の詰め合わせにしようと思っていたのですが、本編よりもボリュームが膨らみつつあります。際限なく登場人物を出せるからでしょうか。
今回の夢の主格者は実はトヴァルさんでした。彼はエリゼを喜ばしたかっただけなのですけれど。
アリサの性格が少し高飛車なのは、トヴァルさんのイメージがちょっとだけ混ざっているからだったりします。
そして例によって猛将はミントのイメージオンリーなので、またしてもエリオット本人は夢に入ってすらいません。
15歳縛りのテーマパークですが、さりげにセドリックもプレイヤーとして参加していたりします。剛撃教官に散々罵倒されていたのが彼ですね。あの時、皇太子は泣いていました。
こういうパロディ系のお話は好きでして、機があれば『シンデレラ』とか『ヘンゼルとグレーテル』とか『白雪姫』とか、グリム童話アレンジをやってみたいですね。
次回は本編の更新となりますので、引き続きお楽しみ頂ければ幸いです。