虹の軌跡Ⅱ Prism of 《ARCUS》   作:テッチー

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最終話 輝ける明日へ

 ラウンジが怒涛のサプライズ準備に追われている頃、トヴァル・ランドナーはガイウスの部屋にいた。

「へえ、こいつは……」

 部屋の中央に置かれたキャンバスと対面して、思わず感嘆の声をもらす。

 それはサラに贈るために、ガイウスが描いた一枚の絵だった。

 素晴らしい作品だ。その構図からはサラとⅦ組の絆を感じずにはいられない。

 いいか、サラ。今日までⅦ組の教官としてやってきたことを、全部あいつらは受け取ってる。

 慕われてるよ、お前さんは。

「ったく果報者め……最高の教え子たちじゃないか」

 キャンバスの前に椅子を持ってきて、ひとり腰かける。

 トヴァルはじっと絵を見つめた。

 キャンバスが収まる木枠の下部に、白い空きスペースがある。そこにこの絵のタイトルを書き入れて欲しいと、ガイウスから頼まれていた。

 “サラとⅦ組の両方を深く知る第三者だから”という理由で選ばれたわけだが、大役この上ない。だが彼らの一つの締めくくりとしての贈り物。しっかりとそれに見合うタイトルをつけてやりたい。

「ふむ……」

 やはりⅦ組の皆が、サラに対してどう思っているかを題にすべきだ。

 彼らが過ごした一年は、まさしく激動の日々だった。

 学生としての勉学に励みながら、各地への特別実習。そこで巻き起こった事件の数々。やがて水面下で進行していた様々な思惑が絡み合い、帝国全土を舞台にした内戦が勃発。散り散りになる仲間たち。

 再会と決起。カレイジャスに集うトールズ士官学院生。有角の獅子紋を背負い、《紅き翼》は戦禍の空を駆ける。

 そうして紡がれた最後の一刀が《エンド・オブ・ヴァーミリオン》を両断し、今に至る未来を切り開いた。

「………」

 エレボニアの裏の歴史の産物と言っても過言ではない強大な敵を相手に、よくぞ勝利を手にできたものだ。

 諸外国との問題は多くあれど、内戦の顛末としては収まるべきところに収まったと言えるだろう。

 だが個人的に気がかりは残っている。エリゼお嬢さんのことだ。

 緋の騎神の起動者として《テスタ=ロッサ》を覚醒させた彼女は、暗黒竜の呪いを身に受け《エンド・オブ・ヴァーミリオン》の核へと取り込まれた。

 その後に救出され、しばらくは昏睡状態が続いたものの、まもなく体調は快復し、無事に女学院の中等部も卒業した。

「――――――」

 ……本当にそれで終わりか? 拭い去れない小さな違和感を覚える。

 うまく表現できないが、最近のエリゼお嬢さんは、前にも増して威圧感が出てきたというか、静かな凄みが増したというか。いや、俺だけにとかいう話ではなく。

 彼女とて、多くの修羅場をくぐっている。精神面の成熟に裏打ちされた雰囲気の変化であろうと、最初はそう思っていた。

 しかし時折垣間見せるあの顔つきはなんだ。大人びたなどとはとても言えない、悲嘆、焦燥、決意――あまりにも複雑な感情を湛えた面持ちは。

 お嬢さんは何か、重大な何かを隠しているんじゃないか。それこそエレボニアの行く末を左右しかねないほどの秘密を。そんな気がしてならない。

 俺の考え過ぎであって欲しい。

 もしも。

 煌魔城で消滅したはずの《エンド・オブ・ヴァーミリオン》が、緋の起動者であるエリゼ・シュバルツァーを宿主として、まだその身の内に巣食っていたとしたら――

『――サプライズパーティーを開催させて頂きます!』

 マイクで声を張るリィンの挨拶に続き、盛大なクラッカーの音が鳴り響く。

「おわっ!?」

 ビクッとしてトヴァルは跳ね起きた。まどろみの思考が霧散する。

 しまった。うたた寝をしていた。ここしばらく、遊撃士協会ユミル支部設立のために働き通しの上に、サラのヤケ酒や競馬に突き合わされたりで、ほとんど眠れていなかったのだ。

 今、何時だ? 18時30分? 予定よりも早く開会したのか?

 まずい。俺も早く下にいかないと。だけどその前に絵の題を決めなくては。

 考えろ、考えろ。この絵から感じるパッションをそのままに。

「っしゃ、オッケー!」

 寝ぼけ眼でタイトルを書き入れると、トヴァルは慌ててラウンジへと降りていった。

 

 

 

《――最終話 輝ける明日へ――》

 

 

 

 サラは主賓席に座らされていた。

 入れ替わり立ち代わり、Ⅶ組に限らず学生や同僚の教官たちが挨拶に来てくれた。その度に料理も飲み物も持ってきてくれるので、このサプライズパーティーが始まってから、一度も椅子から立っていなかったりする。

 楽しい。嬉しい。

 距離を置かれているなんて感じていた自分がバカみたい。もう早く言ってよ。あ、言ったらサプライズにならないんだった。

 挨拶の列が途切れ、少し落ち着いてきた頃合いで、改めて周囲に視線を巡らせる。

 煌びやかな飾りつけがなされた第三学生寮には、いまだかつてない人数がごった返していた。ラウンジだけでは収まり切らず、二階や三階も使って、皆が思い思いに談笑に興じている。

「皆さま、お料理追加ですわ」

「ですわ……」

 厨房から銀トレイを手にシャロンが出てきて、その後ろにぎこちなくクレアが続く。メイドさん二人は裏方として忙しなく働いていた。ちゃんと楽しんでいるのだろうか。あとで隙を見て、彼女たちにも食事を持って行ってあげるとしよう。

「料理ぐらい僕が運びますよ!」

「やめたまえ、マキアス君。クレア大尉の邪魔になるじゃないか」

「そういうハイベル先輩こそ、びったり付いてきて邪魔だと思いますが?」

 そのクレアの後ろで、ハイベルとマキアスが火花を散らす。どちらも鼻の下が伸びきっていた。

 奥の方のテーブルでは、ラウラとアリサが話している。

「ねえ、作った料理はどうしたの? 一般テーブルに並べるとバランスがおかしくなるからダメってシャロンに言われたんだけど」

「私も言われたぞ。だから全部リィンのところに置いてきた」

「あら、考えることは同じね。どっちの方がおいしいって言うかしら?」

「あとで聞きに行こう。どっちも、などと言いそうだが」

「その答えはNGよ」

「だな」

 どうやら乙女の会話らしい。前から関係性の変化には気づいていたが、公私を分けるべき教官としては立ち入りづらい話題でもあった。

 笑い合う二人の横の席では、

「エリオット君。このオムライスに猛将汁かける?」

「ケチャップだよね……」

「付け合わせの猛将生搾り一番ダシ持ってこようか?」

「野菜スープだよね……。だったらあそこの肉まんが欲しいよ」

「あのおっぱいに似た形の?」

「うん、もう、それでいいよ……」

「どの大きさがいいかな。Cカップ? Dカップ?」

「まだ掘り下げてくるんだ!?」

 ミントがエリオットを疲れさせている。あれもあれでいいコンビだとは思う。

 そんなやり取りを眺めつつ、「エリオットがおっぱい魔人にぃ……」と泣き崩れる姉フィオナと「おっぱい魔人はいかんぞ、エリオット」と、もはや定型文で彼をたしなめるナイトハルト。

「至高の天使ぃ!!」

「強欲の淫獣ぅ!!」

 酒が回っているのか、上半身裸で殴り合うオーラフ・クレイグとゼクス・ヴァンダール。

 今宵はⅦ組に縁のある軍関係者も招かれている。ちなみにあのおっさん連中が何を争っているのかは不明だ。明日の卒業式では彼らの部隊がトリスタの警備を担うはずだが、あんな調子で大丈夫だろうか。

 ラウンジの隅っこではマカロフ教官と、ルーレから戻ってきたメアリー教官が肩を並べてグラスを傾けてた。とてもいい雰囲気だ。酔いつぶれて彼らの足元に転がるトマス教官さえいなければ。

「あらあら、ブリジットさんにアランさん。その後は順調ですか? そういえばマルガリータさんの恋模様の進展も気になりますわね。まあ、カスパルさんの頭に大きなたんこぶが……。ちょっとセドリックも皆さんとお話しなさいな」

「え、えっと、僕は別に、その……」

 そして大人気なのが、アルフィン皇女とセドリック皇子だった。事が事だけに、二人の入学は直前まで公にはなっていなかった。

 アルフィンとはカレイジャスで面識のある学生も多く、無用にはかしこまらず親しげに話している。アルフィンにしてみれば、そういう接し方が好むようだ。反対にセドリックは緊張しているらしいが。

 皇族を囲む人だかりから離れた位置では、興奮冷めやらぬパトリックがエリゼと話していた。

「君もトールズに入学するとは知らなかった。歓迎する、歓迎するぞ!」

「ありがとうございます。どうぞ宜しくお願いしますね」

「ところで部活は決めたのか?」

「生徒会は入ってみようかと思うのですが、まだ未定です。パトリックさんはフェンシング部でしたか?」

「ああ、だが二年からは技術部とも掛け持ちするつもりだ。フェンシング部の部長はアランに任せて、僕は技術部の部長を務めることになる」

「パトリックさんがジョルジュさんの後を継ぐんですね。イメージにはなかったですけど、なんだか似合う気がします。ふふっ」

「あっ、笑った……」

「はい?」

「な、何でもない。入用なものがあれば、いつでも僕を頼るといい。部屋とラウンジを直結させる昇降機なんかはどうだ?」

「そんな大がかりな工事まで……」

「はっ!?」

 急にばばっと辺りを警戒するパトリック。

「どうしましたか?」

「そろそろリィンが殺気むき出しで背後に立っている頃かと思ったんだが……」

「おぐああああっ!!」

 そのリィンの絶叫が響き渡る。

 目の前の皿に盛られた料理を一口食べたらしい彼は、天井まで吹き飛び、しかも落ちてくることなく謎の浮力によって滞空していた。十字架に磔になったみたいに両腕を開き、口から稲妻を放出している。なんの罰ゲームだろう。全員の頭上でスパークを散らしながら、白目をむいてガクガクと痙攣までしていた。

「やれやれ、最後まで騒々しいのね」

 異常事態のリィンを見上げつつ、ワインボトルを持ったスカーレットがやってきた。それをサラのグラスに注ぐ。

「どうも。四月から新Ⅶ組のこと宜しくね。教官室のデスクは整理しといたから、そのまま使ってくれたらいいわ。あとハインリッヒ教頭には注意して。目を付けられたら説教が永遠に続くわよ」

「目をつけられるようなことをするからじゃないの? ま、やれるだけやってみるわ。あなたの後釜は荷が重いけれど」

「別に大したことはやってない。あの子たち一人一人が伸びただけ。私はその方向性の後押しをしただけ」

「方向性の後押しだけって……それってやりがいはあるの?」

「教え子の成長を感じる時が、教官やってて良かったって思う瞬間なのよ。いつかあなたにもわかる日が来る」

「……だといいわね」

 スカーレットから外されたサラの視線が正面に向けられる。

 みんなが笑い合うこの光景こそ、戦いの最中でずっと彼らが取り戻したかったものなのだろう。私はⅦ組の生徒と、その教官になれた私自身を誇りに思う。

 本当にありがとね。

 これで心置きなく、私も新たな道に踏み出せる――

 

 

 屋上ではエマが一人で佇んでいた。夜空を見上げ、澄んだ空気を吸い込む。

 会場の設営は大変だったが、どうにか間に合った。ここまで楽しげな声が届いてくる。サプライズパーティーは成功だ。

「星空に浮かぶ満月に憂う魔女とは、絵になるね」

 背後に気配を感じたと同時、そんな声をかけられる。

「それだけで一つの物語ができてしまいそうだよ」

「相変わらず神出鬼没ですね」

 振り返ると、ガイラーがいた。

「あなたもパーティーに参加していたんですか?」

「まさか。立場は弁えているつもりだ。今宵の主役は君たちの大事な教官殿だろう。私は立ち入らないよ」

「用務員は学院関係者でしょう。カレイジャスにも乗艦し、最終決戦にも協力してくれたんですから、場違いとは思いませんが」

「その気遣いに感謝しよう。ところで君は、こんな場所で一人で何をしているのかな」

「少し夜風に当たっていただけです」

 星が瞬いている。ガイラーの雰囲気が普段と少し違う気がした。

「参加者じゃないというのなら、あなたは何をしにここへ?」

「君にお別れの挨拶をしに来た」

 不思議とそんな予感もあった。

「お別れ……」

「そう。私が“この帝国を手に入れる”と言ったこと、覚えているね?」

「それはまあ、もちろん」

 飛行艇ハイジャック事件でガイラーと対峙した際、彼はそう宣言してのけた。

 その時点で目的ははっきりとは語らず、また手段でさえ不明のままだった。しかしその後、自作の小説のファンであるアルフィンに、自身が《G》であることを明かし、半ば強引にカレイジャスに搭乗してきたことで、エマには一つの仮説が立っていた。

 自らの手でヘイムダルを解放し、あるいはその役の一端を担い、内戦終結に至らせた功績を持って皇族の後ろ盾と公的な立場を手に入れること。

 そしてその知名度でブーストされた己の作品をエレボニア全土に広め、ファンと言う名の信者を大量に会得し、紫色の未来への足掛かりとする。

 私に計画の中枢を任せたいという発言の意図はまだ読めないままだが、おそらくは広告塔か象徴として祀り上げ、逃げようのない状況を作り出す――ことかもしれない。

「先日にアルフィン皇女からバルフレイム宮に招待されてね。そこでとあるお話を賜った」

 それだ。気にはなっていた。

 ついにエレボニア崩壊のカウントダウンが始まってしまうのか。いや、もう始まっているのか? 

 だとしたら、ごめんなさい、罪なき男子の皆さん。今の私に彼を止める術はない。十月戦役より悲惨な現実が訪れてしまうかもしれません。

 皇女からの話。お別れという言葉。その二つが意味するもの。

 エマは生唾を呑み下した。

「……とあるお話、とは?」

「新たな出版社を起業してみるつもりはないかと。広報、宣伝含め、アルフィン皇女が全面的なバックアップまでして下さるそうだ。そしてゆくゆくは皇室付きのライターとして、この私を召し抱えたいとも」

「な、なんてことを……!」

 出版社と魔窟は同義だ。彼に不可侵領域の城を与えるようなものだ。深刻な事態が進行している。

「エマ君、私はね」

「だ、だだ、ダメですよ!? そんなことになったら――」

「その申し出を丁重にお断りしたよ」

「世界が終わる――……え?」

 断った? 断ったと言ったのか?

「ど、どうして」

「ささやかな趣味と共に過ごす平凡な日々と、大きな成功を約束された煌びやかな人生。私にとってどちらが価値のあるものなのか。それだけの話だ」

「でもガイラーさんの目的に達するための道筋ではなかったんですか? 別に推奨するわけじゃないですけど」

「ゴールまでの道順は一つではない。目的はいずれ達成してみせるがね。今はトールズ士官学院のしがない用務員でいたいのだよ。君という才能にインスピレーションを受けながら邁進する毎日より、他に刺激的なことがあるだろうか」

「あの……でも私、明日から休学するんですけど……」

「もちろん知っている。だからこの学院の環境整備は完璧にしておくよ。君が復学した時、何一つ変わらないあの場所を見せられるように」

「じゃあさっきお別れと言ったのは?」

「君との束の間の別離のことだが」

「ま、紛らわしい……! だったらその後の“帝国を手に入れると言ったのを覚えているか?”のくだりはいらなくないですか!?」

「さて?」

 そうなのだ。この人はあくまでも私への善意で動いている。その方向がちょっと致命的にどうしようもなくアレなだけで。

「では私はそろそろ行くとしよう。体には気を付けたまえ」

「ラウンジに降りないんですか? 食事をしていくくらい……」

「明日は大切な卒業式。二年生が綺麗な学び舎から巣立てるよう、清掃に不備がないかもう一度確認しておきたい」

 ガイラーは屋上の端まで移動した。

「待って下さい」

「まだ何か? 過ぎた別れの言葉は双方につらさが残るものだが」

「行くのは止めませんが……それ、置いて行ってもらえません?」

「それとは?」

「いえ、それです、それ! さっきから鞄みたいに抱えてるケネスさんです! どこで捕らえてきたんですか!?」

 ケネスはぐったりと二つ折りの財布みたいになって、ガイラーに片手で持たれている。

「騒ぎ過ぎたのだろう。少し疲れているようだから休んでもらおうかと」

「はあ、問答は無用でしたね。なら実力行使です」

「実にいいね。そうこなくては」

 密かに駆動させていた《ARCUS》からアーツを放つ。高速で飛ぶ火球が闇を焦がした。

 片腕の手刀で炎を切り裂いたガイラーは、鮮やかに跳躍する。煌々と輝く満月に蝙蝠のようなシルエットを染み付かせ、彼は攻撃範囲外へと一瞬で離脱した。

 まったく、あの人だけは。戻ってきた時に、本当に変わらない学院の姿があるのだろうか。この上なく不安だ。

「エマさん? ここにいたんですか。早くラウンジに降りて来て下さい」

 屋上の扉が開いて、ドロテが走ってきた。

「どうしたんですか? ドロテ部長」

「エマさんったら、私はもう部長じゃありませんってば」

「すみません。でも呼び名はすぐには変えられなくて……」

「まあいいですけどね。私も呼ばれ慣れてますし。ってそんなことはいいんです。パーティも終盤、サラ教官にプレゼントを渡すんでしょう。司会をしてくれってⅦ組の子たちが言ってますよ」

「え? 司会はリィンさんの役割ですが」

「よくわかりませんが、空中十字の電撃刑に処されたリィンさんは、そこまでの体力がないみたいで」

「それは斬新な刑罰ですね……」

 彼に何があったのだろう。まあ、いつものことと言えばいつものことか。司会くらい別に構わない。

 寮内に戻ろうとした時、ドロテがふと立ち止まった。

「エマさん。屋上に他に誰かいました?」

「どうしてですか?」

「なんとなくですけど」

 かぶりを振って、エマは満月を見上げた。

「さあ。誰もいなかったですよ」

 

 

「はい、私からのプレゼント」

 参加者が囲んで見守る中、フィーはサラに花束を手渡した。

「フィーが育てた花って思うと感慨深いわ。……あら、これって」

「そ。寮に戻る前にミスコンやったでしょ。その投票で投げられてた花」

「なるほど、あれもあんた達の仕込みだったわけね。やられたわ。なんにせよ、ありがとうね」

 サラは満面の笑みで、花束の包みを受け取った。周りから大きな拍手が起こる。

 ラウンジには柔らかなバイオリンの音色が流れていた。エリオットの演奏だ。彼がサラの為に作った曲目だった。曲調は軽快でありながら、その旋律の根底は優しく、どこかサラを連想させる。

 フィーが下がると、エマがマイクを持った。

 本来の司会であるリィンは、原因不明の状態異常に見舞われ、奥でラウラとアリサの介抱を受けていた。彼女たちが調合したという気付け薬を口に流し込まれ、さらに激しい痙攣に襲われている。

「続いてはミリアムちゃんのプレゼントです。どうぞ!」

「はーい」

 ぴょこぴょことミリアムが歩み出た。その反対側からはアルティナが現れる。アルティナの参加は周知のことなので、今さら騒ぎにもならなかった。

 二人でサラを挟む位置に来ると、そろって《アガートラム》と《クラウ=ソラス》を呼び出しす。これにはさすがにどよめきが起きたが、構わず二体の巨躯はそれぞれが持っていた麻袋をぞんざいに放り投げた。

「な、なにこれ!?」

「うん、サラっていつも恋人が欲しいって言ってたよね。だからアーちゃんと協力して調達してきたんだ」

「造作もないことです」

 そこはかとなく自慢げな姉妹。

 麻袋がごそごそと蠢き、中からひどく怯えた男性が顔を出した。

「な、なんだよ、ここ!?」

「なーんか見覚えあるわ。……えーと、アントンだっけ?」

「ひい! ポーラ様!?」

 面識がある様子のポーラがその名を呼ぶと、アントンはさらに頬を引きつらせた。

 もう一つの麻袋からも誰かが這い出てくる。

「いてて、これは一体……」

「あ、リックス! 君も捕まっていたのか!?」

 二人はアントンとリックスという友人同士らしかった。

 ろくな説明をされないまま、アントンたちはサラの前に立たされた。サラもサラで困惑している。

「ち、ちょっとあんた達。恋人を調達ってどういうこと? まさかさらってきたとかじゃないでしょうね……?」

「大丈夫だよ」

「それどういう意味の!? 怖いわ!」

 へらへらと笑うミリアムの横で、アルティナが謎の教本を開いて棒読みで説明する。

「“一般的に二人の男性から同時にアプローチを受けると、『やだもー、あたし、困っちゃう』などの妄言を口走りながらも、内心では歓喜するという心理変化”に基づき、類する疑似シチュエーションを設定。それによりサラ・バレスタイン(以下、甲と呼称)の精神状態を正方向に向上させるのが本ミッションの目的である。また甲の男性遍歴は恵まれておらず、順調に諸々の適齢期も抜け始めていることから、選り好みはせずに与えられた餌に節操なく食いつくことが想定される。故に無作為に餞別した異性として、アントン氏(以下、乙1)とリックス氏(以下、乙2)を試験的にあてがい、その砂漠のごとく乾ききった心に一滴の潤いを――」

「待ちなさい。あたし今すごい失礼なこと言われてない? つまりなんなのよ?」

「せっかちな人ですね。要約すると、二人の男性に取り合ってもらって、喜べばいいんです。そういうのが嬉しいんでしょう? 私には理解できませんが」

「ひどすぎる言われようなんだけど……」

「聞こえませんでしたか? 早くして下さい」

 アルティナの目が男たちに向けられた。部屋の掃除でも促すような口調だった。

「僕らでそこの女性を奪い合うだって? なんでそんなことをする必要があるのさ!」

「ああ、まったくわけがわからない。何かの催しのようだが、早々に退散させてもらおう」

「早くするように、私は言ったはずですが」

 《クラウ=ソラス》の双眸が光り、リックスを見据えた。反対側では《アガートラム》が両腕を砲塔にトランスさせ、アントンに狙いを定める。

 従わなければ殺される、と口ごもった男たちの膝が震え出した。

「よ、よーし。そちらの女性は僕のものだ。リックスには渡さないぞー……」

「ふ、ふざけるな。やっと見つけた運命の女性なんだ。アントンは文通相手にでも熱を上げておけー……」

「うう……やっとリックスと再会して、記憶まで取り戻せたのに、こんなのってないよ……」

「もう一度全てを忘れたい……きつい……」

「あたしが一番きっついのよ!」

 耐えかねたサラが叫んだ。

「あーなんていうの。気持ちは嬉しいわ。そこは受け取るから、大至急その二人を元の場所に返してきなさい」

「いいのですか? 人生に二度とは訪れない好機なのに。満たされることのない飢餓感が永遠にあなたを苛むんですよ?」

「あたしの人生を勝手に絶望一色にしないでよね……」

「別に絶望はしていません。事実を述べているだけですので」

「余計しんどいわ!」

 解放されると、アントンとリックスは転げるようにして扉から逃げ去っていった。

 まばらに起きる拍手。一応、寸劇の一種だと思っている人もいるようだ。

「え、えーと、それじゃあ最後の贈り物に行きましょうか」

 気を取り直してエマが言うと、二階からガイウスとマキアスが降りてきた。二人で布のかかったキャンバスを抱えて、慎重にラウンジまで運ぶ。

「これはサラ教官のために俺が描いた絵です。前置きよりも見てもらった方が早い」

 布を取る。

 そこに描かれていたのは、柔らかな陽光が差し込むⅦ組の教室。

 教室の後ろから眺めるような構図だ。いつもの席に皆が座っている。彼らの視線が集中する先には、黒板の前に立つ恩師――サラが笑顔で教鞭を振る姿だった。ひと際鮮やかな赤色の髪が、その絵の中心にある。

 それだけで、全てが伝わった。

「あ……」

「サラ教官に贈るとは言いましたが、さすがに持ってはいけないでしょう。だからこの絵は第三学生寮に飾ろうと思います。時々でいいから見に帰ってきてくれると、俺たちは嬉しい」

「うん、うん……ありがと……!」

 想いの集約された見事な一枚に、Ⅶ組のみならず一同が感極まる。

「ん、それなに? 木枠に白いシールが貼ってあるみたいだけど」

「この絵のタイトルはトヴァルさんに考えてもらいました。実は俺もまだ知らないんです。ではトヴァルさん、発表して頂けますか」

「ああ、任せてくれ」

 トヴァルが絵の横に立った。

 やっとお兄さんの出番だと、こほんと咳ばらいをする。

「この度、大役を仰せつかったトヴァル・ランドナーです。頭を悩ませましたが、やはりⅦ組がサラをどう思っているか。この一点に絞ってタイトルを決めさせてもらいました」

 ほう。なるほど。とあちこちに納得のうなずきが見える。

 いい反応だ。トヴァルは勿体ぶりながら、シールの端をつまんだ。

「ではご覧いただきましょう。Ⅶ組一同からサラ・バレスタインへ捧げる作品の名は――!」

 あれ? 自分で決めたはずのタイトルが思い出せない。どうしてだ。一瞬の疑念がよぎったが、シールをめくる手は止まらなかった。

 おお! と歓声が上がり、一秒と待たず、おお? と戸惑いの声に切り替わる。

 予想と違う反応を受けて、トヴァルはちらりと自身で書いた題に視線を移す。

 

《紅き終焉の魔王》

 

 しっかりとそう銘打たれていた。

「はいっ!? あえっ!?」

 こんなの俺は書いてねえ。

 何者かの陰謀だ。さては《身喰らう蛇》の連中だな。ここまで徹底的に遊撃士を陥れようとするとは、なんて卑劣な。……いや、待てよ。記憶をたどれ。

 俺は眠りこけていた。クラッカーの音が鳴って跳び起きて、慌ててタイトルを書き入れた。

 その直前まで俺は何を考えていた。そうだ。まさしくこれだ。寝ぼけて虚ろな思考のまま、思っていたことを書いてしまったんだ。

 事情は自分で理解したが、場の空気はすでに凍り付いている。ドン引きだ。

 どうする。どうするもこうするもない。リカバリーだ。

 ウケ狙いでやっちゃいましたーはどうだ。馬鹿か、無理だ。トリスタに溶けることのない永久凍土が完成しちまう。くそ、思考を放棄したい。誰か俺の胸に塩の杭を打ち込んでくれ。

「……トヴァルさん」

 感情をゼロにしたエリゼが、トヴァルの前まで進み出た。

 おおお、やべえ。お嬢さん、それはやべえよ。人殺しの目をしてんじゃねえか。女子学生がしていい目じゃねえよ。怖っ。威圧感やばっ。

 つーかそうだ。俺はエリゼお嬢さんと緋の魔王のことを考えていたから、そんなタイトルを書いちまったんだ。

 それを正直に言ってみるか? いや、絶対ダメだろ。“なんで私と緋の魔王をセットで考えるんですか”っていうやり取りから、いつもの“最低ですね”ルートに突入する未来しか見えねえ。

「最低ですね」

「ぐぼあ……」

 会話さえなくストレートに来ちゃったぜ。

「は、ははは。なんならこの絵、お嬢さんの部屋に飾っちまうか?」

「そのタイトルで? ……そんなに私に嫌がらせがしたいんですか」

「うぼお……」

 いかん。これ以上頂いたら吐いちまう。

 サラだ。状況を変えられるのは贈られる側のサラしかいない。

 怒り。呆れ。なんでもいい。『だーれが《エンド・オブ・ヴァーミリオン》よ!』みたいなツッコミで、笑いの空気に変えてくれ。この場でそれができ、また許されるのはお前さんだけだ。

 懇願の視線をサラに向けると、

「だ、誰が《エンド・オブ・ヴァーミリオン》よぉ……うえっ」

 泣いてた。俺、終わった。

「サラ教官!」

 Ⅶ組の女子がサラに寄り添い、彼女を取り巻く盾となった。「わかります、ひどいですよね」「私たち、そんなふうには思ってませんから」とフォローしてくれているが、それは俺に対する非難の剣でもある。滅多刺しにされている心地だ。

 他の男子はうつむいて、何もしゃべらない。エリオットのBGMも止まっている。

 リィン、リィンはどこだ。いつもの取りまとめるお前の一言で俺を救って――ってお前なんで向こうで死んでんだよ。

 シャロンとクレアのダブルメイドが、無言のまま皿の片づけを始めていた。ちょっと、やめてそういうの。なに、ここ煉獄の底?

 絵の作者であるガイウスが、ようやく重い口を開いた。

「……ええと、ありがとうございました」

「ごぱあっ!」

 これが貫く槍ってやつか。お兄さんの胸に風穴空いたぜ。

 何かに穿たれたトヴァルが両膝を付き、サプライズパーティはしめやかにお開きとなった。

 

 ●

 

 三月二十三日。午前十一時。

 

 晴れ渡る青空がどこまでも広がり、穏やかな午前の日差しがトリスタを優しく照らす。

 トールズ士官学院。グラウンドと隣接する講堂では、卒業式が開かれていた。

 ヴァンダイク学院長の会式宣言の後、トワたちを始めとする二年生が入場してくる。彩りよく飾られた花道を行進する卒業生の列を、リィンたち在校生は盛大な拍手をもって迎えた。

 講堂の前部が卒業生席で、後部が在校生席と一般席。来賓席は側面の壁際に設置されている。

 卒業生が席についたあたりで、リィンは外来の参列者を見回した。

 来賓席にはオリヴァルト・ライゼ・アルノール、イリーナ・ラインフォルト、カール・レーグニッツらの理事メンバーが、軍関係からは第四機甲師団のオーラフ・クレイグと第三機甲師団のゼクス・ヴァンダールの両中将が顔を並べていた。その二人の顔面は前日のサプライズパーティーで殴り合ったせいでひどく腫れ上がっている。なお、理事の一人であるルーファス・アルバレアは出席していない。

 相も変わらず錚々たる顔ぶれだ。

 続けて一般席に視線を転じると、やはり卒業生の親類が多く来ている。見知った人もいるし、雰囲気で予想がつく人もいる。

 小さな兄妹を連れた母親はきっとクレイン先輩のご家族だ。ヴィンセント先輩とフェリスと同じ薄紫の髪をした紳士は、フロラルド伯爵だろう。マルガリータが獲物を狙うような目つきで見つめている。

 そういえば直接会ったことはないが、トワ会長の叔母夫婦も来ているらしい。あとで挨拶に行ってみよう。

 そして椅子には座らずに講堂の隅に一人で立っている強面は、ゲルハルト・ログナー侯爵だった。アンゼリカの父である彼も、娘の卒業を祝いに来たのだろうか。それにしては仏頂面で腕組みという太々しい態度だったが。自ら離れた場所にいるのは、いまだに内戦時の引け目からくる遠慮なのかもしれない。

「ん? あれ?」

「ちょっと、あんまりきょろきょろしないでよ。どうしたの?」

 訝しげに首を巡らせるリィンを、となりに座るアリサがたしなめた。

「すまない。トヴァルさんがいないなと思って。一般外来として参列するって聞いてたから」

「トヴァルさんの席ならあそこよ」

 一般席の一つにみっしぃのぬいぐるみが置かれていた。頭に“代理”と札が張られている。

「……なんで?」

「トヴァルさんなら門前の警備をしてるわ。自分から申し出たみたい」

「な、なんで?」

「贖罪だそうよ。ほら、昨日にやらかした分の――ってリィンは寝込んでたから知らないんだっけ。体は大丈夫?」

「まあ、そこは問題ないが……。アセラスの薬をがぶ飲みしたし」

「変なものでも食べたのかしら? まさかミリアムやフィーがいたずらを仕込んでたりしないわよね」

「はは……どうだろうな」

 乾いた笑いしか出て来なかった。話題が流れてしまったが、トヴァルさんの贖罪とは何のことなのか。わからないが、不憫な目にあったことだけは間違いなさそうだ。

 厳かな空気の中、まもなく卒業証書の授与が始まった。

 卒業生の名前が読み上げられ、一人一人が壇上に登り、ヴァンダイク学院長から証書を受け取っていく。

 思い出が巡る。

 ロギンスやフリーデルの巣立ちに、アランやパトリックなどのフェンシング部員は涙をこらえきれずにいる。

 クレインが呼ばれると、ラウラ、カスパル、モニカの水泳部だけでなく、親交のあったガイウスもひと際大きな拍手を贈った。

 園芸部のエーデルにはフィーが、ラクロス部のテレジアとエミリーにはアリサとフェリスが、写真部のフィデリオにはレックスが、文芸部のドロテにはエマが、馬術部のランベルトにはポーラとユーシスが、吹奏楽部のハイベルにはエリオットとブリジットとミントが――彼と確執があるらしいマキアスも一応拍手をしていた。

 ちょっとした歓声が上がったのは、ジョルジュとアンゼリカが制服で登場した時だった。バイクスーツとつなぎ服のイメージしかなく、噂では入学式に着て以来だとか。

 それぞれの想いを込めて、諸手を打って祝福する。

 これで関係が切れるわけではない。これからも会うことはあるだろうし、人生を通じての付き合いが出てくる人もいるだろう。育んだ絆はなくならない。

 それでも卒業は確かな区切りの一つ。今日まで毎日顔を合わせていた人が、明日にはもうこの場所にいないのだ。どうやっても寂しさは去来する。

 最後の一人の読み上げが終わった。

 ただ名前を呼ばれた中で、なぜかクララだけは姿を現さなかった。ガイウスが首を傾げているところを見るに、事情を把握している者はいなさそうだ。

 ヴァンダイク学院長による式辞に次いで、オリヴァルト皇子による来賓祝辞も終わる。

 苦難を乗りこえた者たちへの激励の言葉と同時に、当たり前の学生生活を送らせることができなかったという深い謝辞で、二人の言葉は締めくくられていた。

「在校生送辞。一年Ⅶ組、エマ・ミルスティン」

 司会が告げると、エマは席を立って壇へと上がる。彼女の正面には、トワが立っていた。

 エマは奉書紙を開く。

「本日、晴れてこのトールズ士官学院卒業式を迎えられた第二二〇期生の皆様、ご卒業おめでとうございます。在校生を代表し、心よりお祝い申し上げます。多くのことがあった長い冬を越え、こうして春の盛りを無事に迎えられたことは一重に――」

 澄んだ声音で言葉が綴られていく。

「――登下校で気安い挨拶をしてくれたこと。休み時間に他愛もない会話を交わしたこと。お昼にいっしょにご飯を食べたこと。わからない勉強を教えてくれたこと。放課後に部活で汗を流したこと。たまには厳しく叱られたこと。そんなあり触れた日常のひとかけら全てが、大切な思い出となりました。……私たちは、誰ひとりとしてあなた方と過ごした日々を忘れない。学んだもの、受け取ったものを、今度は私たちが四月から入学する後輩たちに伝えていきます。それがきっとドライケルス大帝がトールズを設立して以降、途切れることなく紡がれてきた礎を築くということだから――」

 入学式でヴァンダイクから語られた“礎”という一言。礎とは積み重ね、土台となっていくもの。

 俺もそうあれるだろうか。そうありたい。

 送辞を述べるエマの後ろ姿を眺めつつ、リィンは思った。

「――私たちは先輩方の後輩としてこの学び舎で過ごし、共に戦えたことを心から誇りに思います。これまで本当にありがとうございました。 先輩方のご健康とご活躍を祈念して、在校生代表の送辞とさせていただきます」

 淀みなく言い切り、エマは粛々と礼をした。

 次は卒業生の答辞だ。

 トワは奉書紙を開こうとして、しかしやめた。

「実は答辞の文章、書いてこなかったの。なんだか思い浮かばなくて。だから白紙なんだよね」

「そ、そうなんですか。えっとどうします?」

「自分の言葉で言うよ。その方が自然に話せると思うから」

 折り畳んだままの奉書紙を手元の台に置くと、トワはゆっくりと全員を見渡して、

「大変なことがたくさんありました」

 はにかんだように笑った。

「入学した日のことを昨日のことみたいに思い出せるっていうけど、そんなことはないかなあ。本当に遠い日のように感じる。緊張と期待を半々に正門をくぐった時は、まさかこんなことになるなんて考えもしなかった」

 彼女は目を伏せる。

「内戦が起こったことはもちろんだけど、《紅き翼》を駆って、私たちがその渦中に飛び込んで戦うなんて、想像してた人なんかいないよね。しかも戦い抜いて、おそらくは最大の戦果を出した。そして今日という日を迎えてる」

 皆が姿勢を正して、彼女の最後の言葉を聞いていた。それはまるで、幾度となくカレイジャスのブリッジで行われたミーティングのようだった。

「頼りない艦長代理だったって自分でわかってる。上手くいかなかったり悩むたびに何度も何度も、艦長席に座るのがアルゼイド子爵だったならって思ったよ。マーテル公園にカレイジャスが不時着して、みんなに退艦命令を発した時でさえ、そう思ってた。煌魔城にヴァリマールの剣を届けられない。私の采配の拙さと判断ミスのせいで負けるんだって。……でもそうはならなかった。火の手が回る船倉に、みんなが駆け付けてくれた。私は何の指示も出していないのに、みんなが……」

 トワの声が詰まる。

「うれしかった。心強かった。何かが報われた気がした。私の言葉はいつだって正解とは限らない。だけどみんながそれを正しいものに変えてくれてたんだよね。誰が何と言おうと、あの戦いは私たちの勝ち。全員でつかんだ最高の勝利。諸外国への影響も出てるから世間一般の評価ってわけじゃないけど、生徒会長である私の名において誰にも文句なんか言わせない」

 凛として胸を張り、彼女は顔を上げた。笑顔と泣き顔が混ざっていた。

「ありがとう。みんな大好きだよ」

 言葉は途中だったが、座っていられなくなって皆が立ち上がった。

 思い思いにトワに感謝の意を叫んでいる。誰が何を言っているのかわからない。過去二百回以上繰り返されてきた中でも、こんなに騒々しい卒業式は他になかっただろう。教官たちも止めようとはしなかった。

「お話したいことがいっぱいあって困っちゃうね。……最後に一つだけ、いいかな」

 落ち着いてきたタイミングで、トワは静かに口を開く。

「本当はもう一人、今日ここでいっしょに卒業を迎えたかった人がいるの。天邪鬼で斜に構えてばっかりだから、多分来ないんだろうけどね。ただ、それでも気持ちだけは――」

 それ以上を言うことはしなかった。軍関係が多くいるこの場では、周知のことであっても名前は出せない。

 しかしトワのその先の言葉を、卒業生たちは汲み取っているようだった。

 答辞が締めくくられる。

 そして卒業記念品の授与だ。それが収められた漆塗りの木箱を手に、エマが再び壇上に上がろうとすると、

「ごめんね、エマちゃん。記念品はリィン君が持ってきてくれるかな?」

 急に名指しされてリィンは戸惑った。予定された段取りにはない。

 変にまごついて式の雰囲気を損なうのは避けたい。言われた通りにエマから記念品を受けとって、代わりに自分が壇に登ってトワの前まで進む。

「トワ会長、一体どうして――」

「アンちゃんとジョルジュ君と私、蒼の騎神の準契約者になったよ。知ってるよね」

 いきなりの話だった。なぜここでそれを。

 リィンが二の句を継ぐ前に、彼女は言う。

「もしも私たちがリィン君の敵になったとしたら、どうする?」

 

 

 

「もう卒業式が始まってる時間よね」

 ヴィータが正面に座ってきた。ろくに目も合わさず、「そういやそうだな」とクロウはそっけなく答えた。

「行かないの?」

「行かねえって言ったはずだが」

 もう今日だけで何回目の質問だよ。面倒くせえ。

「あら、面倒くさい女だけどそこが良いって思ったわね?」

「半分当たりで、半分は外れだ」

「へえ、じゃあどこが良いのか教えて?」

「なんで外れの方を拾い上げんだよ……」

 ルナリア自然公園の最奥。ヴィータの結界に守られ、おいそれと魔獣も踏み入れないこの一帯が、現在のクロウたちの潜伏場所だった。

「話を戻してもいいかしら」

「戻さなくていい」

「それでも戻すわ」

「なら承諾はいらねえだろうが」

「イライラしないで。怖いわ」

「誰のせいだと思ってやがる」

 あと怖いなんて微塵も思ってないくせに。

「どうして行かないのよ。リィン君にも来いって言われてたじゃない。学院の赤服だって、私が手ずから洗ってあげたのに」

「ああ、おかげさまでしわっくちゃになってたよ」

「アイロンなんかないし仕方ないでしょ。まあ、火のアーツで乾かそうとしたことは謝るわ」

「あやうく焼失するとこだったからな」

「燃えたら困る服ってことね」

 言葉尻を捕まえての揚げ足取りか。その手の掛け合いは決して苦手ではないのだが、なぜかこの女には勝てる気がしない。

「もう一度訊くわ。どうして行かないの?」

「はあ……」

 こらえきれない嘆息が空気を揺らす。

「相当数の軍人がトリスタに警護で入ってるって知ってんだろ。万に一つ、俺が現れたら即捕縛できるようにってな。街道にも部隊が展開してるはずだ。その包囲をかいくぐるのはまず無理なんだよ」

「転移術。私の転移術なら誰にも感づかれることなく包囲を突破できる」

「突破してどうなる。そのまま卒業式に乱入か。その時点で大捕り物になっちまう」

「オルディーネもほぼ回復してるし、そこいらの軍装備であなたを捕まえられるとは思えないけど」

「騎神なんざ呼んだら大騒ぎだっつーの。あいつらの卒業式を潰すような真似したら本末転倒だろうが。わかるか? 姿を見せるのはもちろん、存在を匂わせるのもダメなんだ。どうしようもないって話――だっ!?」

 ズゴンと魔女の杖で頭をぶん殴られた。

「いっ……でええ!?」

「盟主から授かった大事な杖なのよ。壊れたらどうしてくれるの?」

「ならそんなふうに使うんじゃねえ! 俺の頭の方が先に壊れるわ!」

「なまじ頭の回転が速いのも考えものね。そんなふうにそれらしい理由ばかり並べ立てて、正当性があるかのように論理で固めてみせる。そういうところでヴァルカンとケンカしたんじゃなかったかしら」

「てめえ」

「なによ」

 また杖を振り上げられる。魔女のくせに物理に訴えようとしやがって。魔法使え、魔法。まあ、使われたら使われたで困るんだが。

「行けない理由とか、そんなのどうでもいいし、興味もない。私はクロウがどうしたいかが知りたいの」

「知ってどうする」

「あなたの望みを叶える」

「どうやって」

「どうにかして」

 まったくぶれずに言い返してくる。本気なのか。方法はあるのか。いや、仮に方法はあったとしてもだ。行っていいわけが――

「ねえ、クロウ。私は深淵の魔女で、クロウは私を支える蒼の騎士。その関係は主従じゃなくて相棒よ。もっともそれ以上の関係がいいんだったら、前向きに検討することはやぶさかではないけれど」

「後半はいらねえし、話も見えねえ。要するに今の関係は対等ってことだろ。だからなんだ?」

「成したいことがあるのなら、無条件で力を貸してあげるって言ってるの。でもそれはあくまで、自分の望みを自分の口から教えてくれた場合に限らせてもらう。正直な心を見せて。それさえしてくれるなら――」

 ヴィータは杖を肩にかけて微笑んだ

「私は歌うわ。あなたの為に、最後まで」

「………」

 俺の望み。

 卒業式に行かない? 行けない? 行きたくない? 行ってはいけない? 本当の気持ちは――

「俺は――」

 

 

 

「その時は戦います」

 迷いがあったが、リィンはそう言い切った。即答するべきだと思った。

「そっか。そうだね」

「ただ、本当に敵であるかは見定めさせてください。その上で……」

「ごめんね。答えにくい質問して。でも訊いておきたかったんだ」

 壇上のやり取りは他の人には聞こえない。

「トワ会長たちは……どうしてオルディーネの準契約者になったんですか?」

 その質問をした。

 最終決戦のあとで意識を失ってから、ずっと聞きそびれていた問いだった。

「クロウ君の心の置き場を作りたかった。いつか帰ってくる場所の目印に、私たち自身がなりたかった。それが一番の理由だよ。騎神リンクを繋いで《エンド・オブ・ヴァーミリオン》に対抗できたのはただの結果であって、最初はそんなこと考えてもいなかった」

「心を置く場所……」

「強がりのくせして寂しがり屋だからね。あとは私たちが準契約者になることで、クロウ君が無茶しないようにって意味もあるかな。クロウ君が行動不能になったら、私たちの誰かが正契約者に繰り上がっちゃうから。それをさせたくないなら、いつも元気でいなさいってこと」

「騎神のシステムでクロウの傷病管理ですか。それはまた……さすがというか」

 システムの逆利用。

 今の話を聞いて、引っかかるものがあった。俺は何かを見落としている気がする。

「クロウ君、やっぱり卒業式に来なかったね。花飾りも作ってくれてたんでしょ?」

「え? ああ、ですね。……俺が考えなしに卒業式に来いって口走ったから外部に話が回ってしまって。トリスタのこの厳戒態勢はそのせいです」

「それは仕方ないよ。リィン君のせいだとは思ってない。クロウ君にそう言ってくれたことが嬉しかったよ」

 卒業生の左胸につけてある花飾りはⅦ組が作成したものだ。

「見て。クロウ君の分もヴァンダイク学院長が用意して下さったんだよ。内緒だけどね」

「これは……?」

 手置台に一枚だけ卒業証書が残ったままになっている。

「あはは、おかしいよね。単位も足りてないのに。特例中の特例だってさ。教官方全員の認可の直筆サインもしてくれてるの。こんなものを発行したって公に知れたら、教官の進退やトールズの運営にも関わる大問題なんだって」

「そう……ですか」

 胸が締め付けられる。何やってるんだ、クロウ。特攻してでもいいから早く来いよ。こんなにも、こんなにもお前は――

「もう時間がないね。記念品もらっていい?」

「あ、どうぞ」

 思い出したように、リィンは持っていた木箱を手渡した。ひどく間の抜けた授与になってしまった。

 トワはすぐに木箱を開ける。

「……これは私たち卒業生全員に。そういう意味でいいんだよね?」

「そうです。これも学院長の計らいで。創立以降、前例のないことだと」

「うん、知ってる。すごいよ」

 有角の獅子紋が編み込まれた腕章だった。それをトワは取り出して、掲げて見せた。驚きと大歓声の嵐だった。

 獅子心英雄章。

 トールズ士官学院における各分野での功績を讃える獅子心四大章――その最高位の勲章を卒業生一人一人に与えるというのだ。これ以上の誉れはなかった。

「リィン君。もし私たちが蒼の騎神の準契約者として、クロウ君といっしょに道を間違えてしまうことがあったら、その時は」

「はい。全力で止めます」

「約束だよ」

 切なげな表情を浮かべ、しかしどこか安心したようにうなずく。

「ありがとう。じゃあ卒業するね」

 

 ●

 

『イイノカ? 卒業式ガ終ワッテシマッタゾ』

 グラウンドに佇むヴァリマールは、講堂から退出する参列者を見ていた。

「構わん」

 その足元で応じるクララは、興味もなさげに答える。ヴァリマールの脚を背もたれにして、彼女は画用紙に適当なラフスケッチを描いていた。

「式などというものは卒業したという認識を得るためだけの、文字通りの儀式だ。大した意味はない。証書は事前に回収しているし、ことさら問題ない」

『主任ガイイナラ、私モ構ワナイガ。卒業後ハドウスルノダ?』

「パトロンができたからな。当面は金銭を工面する必要もなく、作品作りに集中できる。ノルドの石切り場にでももう一度行ってみるかな。あそこは上質の石材がごろごろあるし、なにより静かでいい」

『シバラクハ会エナイトイウコトカ?』

「まあ、そうなるが」

『ナラバ、今聞イテオキタイ』

「あの問いかけのことか」

 “自分は人か機械か”というヴァリマールの問いに、クララは“だったら人と機械の違いを答えろ”と告げた。そして“その答えが出た時に剣を渡す”とも。

『煌魔城ニ赴ク直前ニ、主任ハ、私ガスデニ答エヲ出シテイル、明確ナ答エヲ見セテイルト言ッタ。ダガ何度考エテモ、私ニハワカラナイ』

「帰ってきたらその答えを教えてやると、確かにそう私は言ったな」

『ソウダ。教エテ欲シイ』

 クララはスケッチブックから視線を外し、ヴァリマールを見上げた。

「機械は非合理を選ばない。人間は非合理を選べる。それが答えだ」

『……?』

「わからないか? あの時点でお前は、機械には絶対にできない選択をしていた」

『私ガ非合理ヲ選ンダト? ソンナコトハシテイナイ』

「お前は撃たれたリィン・シュバルツァーを救おうとした」

『ソレガ非合理カ? 騎神ガ起動者ヲ守護スルノハ当然ノしすてむダ』

「違う。ならば何のための準契約者だ。生死にかかわらずシュバルツァーが行動不能になった時点で、Ⅶ組の誰かが正契約者として登録される。それがお前たち騎神という存在に課せられたルールであり、本来のシステムだろう」

『……』

 ヴァリマールに表情などないが、戸惑っている様子だった。

「あの時に、お前が従うべきルールはなんだったか考えてみろ。準契約者から一人を起動者として選出し、敵と定めたものと戦い続けることではなかったか? 少なくとも残された霊力をシュバルツァーに注ぎこみ、延命させることではなかったはずだ。なぜそんなことをした?」

『ソレハ……私ノ意志ダ』

「そうだ。お前は自分の意志でシステムに抗い、ルールを捻じ曲げたのだ。それは非合理に他ならない」

『ダトスレバ……私ハ騎神トシテ失格ダナ。ドコカ回路ニ欠陥ガアルノカモシレナイ』

「だが」

 クララは灰白の装甲をこつんと叩いた。

「その結果はどうなった? 後悔に値するような最低なものだったか? それも違うだろう。人間は非合理を選ぶ度し難い生き物だが、時としてそれを最善の結果に繋げることのできる不可解な存在でもある。多くの要因が重なって最終決戦を乗り越えたが、そこには間違いなくお前の意志による選択も関わっている。お前が明確な答えを見せていたと言った理由が、これで理解できたか」

 心に従い、システムという枷を破ったもの。

『デハ最初ノ質問ヲシタイ。……私ハ、人カ、機械カ』

「お前は人ではない。だが、ただの機械でもないのだろう。己の意志をもって何かを選び続ける限りは」

 急に身を屈めたヴァリマールは、クララを両手ですくい上げた。

「な、なにをする」

『コウスレバ子供達ハ喜ンダ』

「私は子供じゃない。さっさと降ろせ」

『主任』

「なんだ」

『ありがとう』

「礼を言われることなど――ん? お前いま言葉が……」

『ドウシタ?』

「……どうでもいいことか。気にするな」

 ちょうど頂点に達した正午の太陽がヴァリマールを照らす。頭の上まで持ち上げられたクララは、士官学院の全景を視界に収めた。

「悪い景色ではない。スケッチをするから、しばらくこのままでいろ」

『応』

 

 

 ●

 

 

「見送りは……ここまでか」

 トリスタ駅の前で、リィンは足を止めた。

 仲間たちもまた足を止め、振り返る。別れの時だった。

「ヘイムダル組は距離も近いんだし、ちょくちょく顔は見に来るさ」

「僕も音楽院に缶詰めってわけじゃないしね。また演奏聞いてよ」

 マキアスは父の下で政治を学び、エリオットは帝都音楽院に短期編入。

「俺は気軽に会いに来れる距離ではないが、どこかで区切りはつけるつもりだ」

「あっちこっち回るつもりだから、私もすぐには無理かな。あ、戻るまで花の世話よろしく」

 ガイウスはノルドの情勢が落ち着くまでの帰郷。フィーはルトガー・クラウゼルの情報を求めて各地へ。

「転移術さえ使えればすぐなんですけどね……。必ず私も帰ってきますから」

「今後の展望次第ではあるが、俺が一番時間がかかるかもしれん。まあ、なんとかはしてみせる」

 エマは失われた魔女の力を取り戻すために故郷へ。ユーシスは領主代行を務めるためにアルバレア家へ。

「任務ついでに遊びに来てあげるから。アーちゃんも連れてきていいよねー?」

 ミリアムは情報局への一時帰還。

「ルーレとトリスタじゃ《ARCUS》は通信範囲外よね……。手紙書くから」

「稽古は怠るな――などと今さらそなたに言う必要はないだろうが、いずれまた手合わせをしよう」

 アリサは母の下でラインフォルト社の在り方を知りにルーレへ。ラウラはヴィクターからの奥伝継承のためにレグラムへ。

 それぞれの目的や目標のために、彼らはトリスタを離れる。

「なあ、本当にみんないいのか。事情も事情だろう。無理に復学したら、自分の夢やこれからの進路に支障が出たりはしないのか?」

 リィンが最後に確認すると、マキアスが言った。

「何度も話し合った結果だ。どうとでもなるさ」

「だが……」

「先輩たちの卒業式を見て、余計に強く思ったよ。一年後、君一人だけでⅦ組を卒業なんてことはさせない。みんなで証書をもらって、いっしょに卒業しよう。だから絶対に僕たちは戻ってくる」

 それが彼らが復学を決めた理由だった。そんなことで、と思う反面、素直にうれしかった。

 レールを軋ませる列車の音が、すぐそこまで近づいてくる。

 別れの挨拶もそこそこに、焦って改札に駆け出す一同。しかしアリサとラウラは歩み寄ってくる。二人は小声でリィンに耳打ちした。

「ちゃんと返事はもらうからね?」

「うむ。覚えておくがいい。あと新入生に手を出したら切る」

「わ、わかってる」

 耳元から離れた二人の口元が、不意に両頬に柔らかく触れた。

「へ?」

「約束の担保よ」

「誓いの前借りだ」

 彼女たちは顔を合わせず振り返りもせず、ホームへと走り去ってしまう。

 一人立ち尽くすリィンを置いて、仲間を乗せた列車は駅を出発した。

 

 第三学生寮に帰ってくる。

 昨日までの喧騒が嘘のように、リビングは静まり返っていた。当たり前か。誰もいないのだから。

 荷物運びは済んでいるものの、エリゼ、セドリック、アルフィン、スカーレット、クレアが寮に住み始めるのは三月末。つまり一週間後。それまではヘイムダルとユミルに戻るそうだ。

 強いて言えばレジェネンコフR式はいるのだが、ガムテープで巻いて戸棚の奥に収納してあるので、無駄なおしゃべりは発生しない。なんならフィーとミリアムあたりが、旅のお供に持って行ってくれても良かったのに。

「寮の中ってこんなに広かったっけな……」

 談笑の声が聞こえない。誰もソファーに座ってない。チェスの駒がボードを叩く音もない。厨房から料理の匂いもしない。

 当たり前にあった普段の光景がない。

 キッチンに入り、何気なく冷蔵庫を開いてみる。すでに調理された食事が、皿に小分けにされていた。保存のきく料理ばかりで、一週間分の日付が書いてある。

 しばらくは簡単な自炊と外食で済ますつもりだったが、シャロンが作ってくれたのだろう。

「ん、書き置きか?」

 冷蔵庫の中、わかりやすい位置に封筒があった。食材保管に関する注意書きだろうか。開けてみると、写真の束が出てくる。

 幼少期から撮り溜めたらしいアリサのオフショットばかりだ。無防備で際どいアングルもけっこう多い。

 アリサはこのことを知っているのか。知っているわけないか。シャロンさんは何を主張したいんだ。というか、なんで冷やしてる。

 寮内を一回りしたあと、リィンは自室に戻った。

 ベッドに背中から倒れ込み、天井を眺める。

 結局クロウは来なかった。

「……しまった。あいつの花飾りと卒業証書、教室の机に置きっぱなしにしてたな」

 あとで回収するつもりだったのに。もう明日でいいか。なんだか疲れた。

 まどろみに落ちていく意識。

 しかし突然鳴り出した導力ラジオの大音量が、リィンの眠気を吹き飛ばした。

「な、なんだ!?」

 スイッチを切り忘れた――などということはない。それにこの音楽は……?

『はーい、ミスティーでーす。寒さも和らいで、トリスタは春のうららかな日差しに包まれていますね。私もついつい窓際でうたた寝をしちゃったり。まあ、最近は森の中で過ごしてたんですけど。あ、ここ笑うところですよー。それでは久しぶりのアーベントタイム。張り切っていきましょう』

「アーベントタイム!? ミスティさん!? どういうことだ……?」

 ミスティ。つまりヴィータ・クロチルダ。なんのつもりだ。理解が追いつかない。

『三月と言えば卒業シーズンですよね。トールズ士官学院ではちょうど今日が卒業式だとか。私も足を運んでみたいのですが、こわーい顔をした警備の軍人さんが多くて、気が引けちゃいました。だからせめてお祝いの気持ちを贈りたいと思います』

 町中に流れているのか? 放送局を乗っ取ったのか? だとして目的は?

『聴いてください。私の歌を』

 状況の確認をしなければ。リィンは第三学生寮の外に飛び出した。

 歌が響き渡っている。トリスタ全域を覆うヴィータの歌声。

 町の人に影響は?

「誰もいない……?」

 人通りがまったくない。消えた? 違う。気配はある。家の中だったり、路地裏だったり。軍人の姿もだ。町の外に出て街道の警備に移行している。

 これは間違いなく魔女の術。認識や意識のずれが、この町の全員に生じている。

 

(これだけの規模の操作は私でも長くは持たない。急いだほうがいいわよ)

 

 頭に直接声が届いた。念話術だ。

 急ぐ? 何を。どこに。往来の全てに人払いをした理由――

「まさか……」

 学院へと続く並木道に、ライノの花が咲いている。一年前、初めてトリスタにやってきたあの日みたいに。

 小雪のように舞う花びらに導かれながら、リィンは走った。

 中央広場を抜けて、教会を横切って、橋を渡って、長い坂道を止まらずに。

 士官学院の正門をくぐる。目指す場所は一つだった。階段を駆け上がって二階へ。わき目も振らずにⅦ組の教室へ。

 呼吸を整えるのも忘れて、勢いよくドアを開ける。

「はあっ、はあ……っ!」

 誰もいなかった。なんの変わりもない。

 いや、カーテンがなびいている。窓が開いている。みんなで教室を出る前に閉めたはずなのに。

 ゆっくりと歩み寄っていく。窓際に立つと、太陽の光が視界を染めた。

「よう」

 外。見下ろした先に彼はいた。

 片手を掲げて、クロウ・アームブラストが気安く言う。

「つーか、机の上に花飾りなんて置くなよ。縁起でもねえ。あと卒業証書ももらっといたからな。どうせだったら筒も用意しといてくれや」

「……遅いだろ。卒業式はとっくに終わったぞ」

 出てきた言葉はそれだった。

「お前が言ったの“トワたちと同じ日”に卒業させるだったよな。だったらまだ約束不履行にはなってないぜ」

「屁理屈ばかりだ。いつもいつもそうやってお前は……」

「色々あったんだから仕方ねえだろ。とにかく来たんだから勘弁しろよ」

「そもそも単位だって足りてないんだ。その証書は教官方のお情けみたいなものだ」

「わかってるって。ただで頂戴しようなんざ思ってねえ。代金はそれでいいか?」

「ふざけるな。足りるもんか。まるで足りてない。だから……だけど……それでも……っ」

 視界の中でクロウの姿が滲んだ。

 二度と着るはずのなかった赤い学院服に袖を通し、その左胸に自分たちの作った花飾りをつけている。

 リィンは唇をかんで、拳を握りしめた。

 体中が震えて、感情だけがあふれ出して、止まらなくて、胸が詰まって、それでも必死に喉を絞って。

「卒業、おめでとう」

 この一言を。

 きっとこの一言をお前に届けるためだけに、俺たちはあの戦いを駆け抜けた。

 ただクロウは笑う。裏表のない嬉しげな笑顔で。

 彼の手に渡った卒業証書の代わりに、その机の上では、いつかの50ミラ硬貨が輝いていた。

 

 

 

 ――おわり――

 

 

 




《あとがき》

前作の虹の軌跡を書き終え、数日後に発売された閃の軌跡Ⅱをプレイし、そのエンディングを見た時。それが虹の軌跡Ⅱを書こうと思った始まりでした。

ゲーム一本まるまる小説にするのはさすがに初めてで、描き切れるか、途中で筆を手放さないか大きな不安がありましたが、前作において間違いなくクロウも虹の一色を担ってくれたキャラクター。ハッピーエンドにしたかったのです。
当作における重奏リンクもオーバーライズもヴァルカンの死も、彼を取り巻く人物の行動や発言のほとんどがそこに繋がっていくように構成しました。

Ⅱのエンドロールを見終わった時には、『ライノの花が舞い散る中、リィンは教室で、クロウは外で。卒業証書と50ミラ硬貨を交換する』という漠然としたイメージだけができていて、それをそのまま虹の軌跡のラストシーンにしました。一話目を手掛けたその時から最終話に至るまで、そこだけは一度もぶれなかったと思います。

だから虹の軌跡Ⅱは、彼を救うためだけに描いた物語でした。ゲーム本編で救われないのなら、せめて自分の作品の中だけでも、と。……まあ、当時はⅢで再登場してⅣで帰ってくるとは思わなかったですから!

最後にですが、前後編にわけて《裏・人物ノート》をおまけに更新します。敵、サブ含め、各キャラ全員に作っていた裏設定や個別テーマや本編の補足など書きたいことはいっぱいあるのですが、ここでのあとがきだけでは絶対無理ですので……。
エリゼたち新Ⅶ組の項目では、4月から彼女らがどんな展開を迎えていくのかについても軽く触れる予定です。
あくまでも裏ですので、お暇潰し程度に目を通してもらえたら幸いです。

今後は、執筆中は中々読めなかった他作者様の作品を楽しませて頂いたり、ゲリラ的に『夢にて夢みて』の短編を気ままに書いてみてもいいかなあとか考えていたりです。好き勝手にやれるあれはいいものだ……

ともあれ『虹の軌跡Ⅱ Prism of 《ARCUS》』。これにて完結となりました。
読者の皆様には最終話までお付き合い頂きまして、本当にありがとうございました!

テッチー

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