ぱらぱらと小雨が降り始めた。
「あー、曇り空だったからな……」
《キルシェ》の席の一つから、アランは窓に滴り落ちる水滴を眺めてぼやく。
「明日には止むさ。さあ、打ち合わせを続けよう」
同席するマキアスはさして気に留めもせず、アランの意識をこちらに戻させた。
そう、本番は明日。アランとブリジットのお出かけである。
天気など運に任せる他ないし、悪天候なら悪天候で行動ルートを変えればいい。環境、体調、精神面、あらゆる事態に備えたプランをいくつも用意しているのだ。たとえ女神であっても、二人のデートの邪魔をすることはできないだろう。
「いいか、最終確認だ」
テーブルにヘイムダル全域の地図を広げる。赤線で移動経路が示されていて、寄るお店にはマーカーで囲ってあった。
「11時にトリスタ駅に待ち合わせ。アランは30分前にはスタンバイ。定刻通りに来たブリジット女史の『ごめん、待った?』に対する『今来たところさ』の返答をもって、デートミッションの開始とする。11時12分トリスタ発の列車に乗り込み、11時30分にヘイムダル着。改札を抜けてからはルートAを使用し、雑談を挟みつつ7分で第一目的地を目指せ。尚、道中に犬猫などの動物がいた場合、笑顔で微笑みかけ優しさをアピールすること。ただし大型犬の場合は護衛対象の前に立ち、男らしさを前面に押し出すよう留意せよ」
「序盤だけで複雑過ぎる! もっとわかりやすくならないのか? これ暗記しなきゃいけないんだろ!?」
「これでも五分の一くらいに省略してるんだが」
「マジかよ」
「大体、デートプランの相談に乗ってくれって言ったのはアランじゃないか。男気を見せたらどうだ?」
「うっ、まあそうなんだけどさ。これじゃ軍の作戦前ブリーフィングにしか思えない……」
「それくらいの気概は持ってもらわないと困る。待ちに待った初デート。失敗は許されない。もしも失敗したなら、その時に待つのは
「初デートってそんなに重いものだったのか……」
そこからもさらに作戦を詰め込み、練り込み、絞り上げ、打ち合わせが終わったのは夕方になってからだった。
《キルシェ》を出たあと、まだ雨のやまない空を見上げ、マキアスは大きく息を吐いた。
「ふう、濃密な時間だった。成功するビジョンしか見えないな」
「俺は不安しかないけど。まあ、がんばるよ。ところで気がかりなことが一つ」
「なんだ? これ以上、打ち合わせることなんて――」
「今回はついてこないよな? 前みたいに」
9月の中頃、アランとブリジットが恋仲になる前のことである。彼らはヘイムダルに二人ででかけている。一応、デートではないとの位置づけだが、その時にもマキアスはアランのバックアップをしようとした。
そしてことごとくが裏目に出てしまい、失敗した。
「もちろん行かない。さすがに懲りたよ」
「そっか。……ああ、心配してくれた気持ちには感謝してる。明日はうまくやるから。結果報告を楽しみにしててくれ」
「楽しんで行ってくるといい。それじゃあ」
アランは第二学生寮へと帰っていく。その後ろ姿を見送りつつ、マキアスは微笑ましい心地になった。
紆余曲折があって、戦火の空でようやく結ばれた二人。友人として一番近くで彼の想いや葛藤を見続けた身としては、胸にこみ上げるものがある。
なんとしてでも初デートは成功して欲しい。陰となり日なたとなり、その為のサポートには全力を尽くすつもりだ。
だから明日は、
「ついて行くに決まってるじゃないか」
《――♡♥想い巡る緋の帝都(前編)♡♥――》
いかんせん奥手のアランのことだ。照れたり焦ったり、肝心なところで思うようにいかない場面は多々あるだろう。やはり後方援護は必要だ。
しかし前回と同じ失敗はしたくない。アランにはこちらの存在を悟らせず、状況を巧みにコントロールし、最良の結果を導く――というのが理想である。
前はユーシスとガイウスを巻き込んで、さらにアドバイザーとしてエマにも手伝ってもらったが、上手くいかなかった。
ついでに言えば、ブリジットをカレイジャスに搭乗させる際にも同じようなメンバーで動いたが、なんだかこう……ダメな感じだった。寸劇系のアクシデントを演出しようとする時、なぜかエマは不良を入れたがる。
協力者の人数を絞った方が場を制御しやすいのかもしれない。かといって自分一人では難しい。
「アランやブリジットさんの関係を知っていて、積極的に力を貸してくれる人か。……そんな都合のいい人なんて――」
「くそっ!」
毒づきながら、緑色の学生服が《キルシェ》の前を通り過ぎていく。マキアスはとっさに彼を呼び止めた。
「ロギンス先輩!」
「ん? おう」
淡泊に応じつつ、ロギンスも《キルシェ》の屋根の下に入ってきた。
「ったくついてねえぜ。フリーデルにはぼこられるし、雨には降られるし、いいことが一つもねえな……」
「ぼこられるって、フリーデル先輩とケンカでもしたんですか?」
「しねえよ。あいつが急に『卒業するまでに、私に一度くらい勝ってみせなさい』とか言い出しやがって。んで朝から今までぶっ通しってわけだ」
「ははあ……それで結果は?」
「聞くんじゃねえ」
よくよくロギンスを見れば、暗がりでもわかるくらいに擦り傷やら青あざやらがあった。
フリーデルといえばフェンシング部部長で、学内最強との呼び声も高い。《パンタグリュエル》制圧戦ではカレイジャスの後部デッキを一人で守り切り、乗り込もうとしてきた貴族連合軍の兵士を片っ端から殲滅したことが記憶に新しい。
卒業後は武者修行の旅に出るとか。在学生の中で、まともにやり合えるのはラウラくらいだろう。
「……ん?」
そうだ。この人もフェンシング部。しかも内戦中はアランと行動を共にし、恋愛指南までしていたらしい。あの告白劇の立役者の一人でもある。さらにバリアハートでブリジットを乗艦させる為の作戦には、彼も力添えしてくれた過去がある。
協力を乞う相手として、ロギンス以上の適役はいないのではないか。
「ロギンス先輩! 話を聞いてください!」
「ど、どうした、急に」
「実はアランのことでして――」
経緯を話す。マキアスの説明を聞き終えたロギンスは、みしみしと拳を握り固めた。青筋を浮き立て、鬼神の形相だ。
「初デートぉぉ? そんなの初耳だぜ。あの野郎、なんで俺に相談しなかった……!」
「そ、それはアランなりの考えもあったのでは。ほ、ほら。リスペクトする先輩に心配かけさせたくない後輩心っていうか」
「なるほどな!」
適当に弁解してみたが、すんなり受け入れてくれた。
「しかし水臭えことに変わりはねえな。よし、そのデート支援作戦。俺も一枚かませてもらう」
「そんな簡単に、いいんですか?」
「ったりめえだろうが。卒業前の心残りだったんだ。俺らできっちり恋の土台を作ってやろうぜ!」
「はい!」
がっと肩を組んでくるロギンス。兄貴肌の勢いが心強かった。
「気合入れていくぞ。サポートチーム名は『アイツに大人の階段、駆け登らせ隊』だ!」
「えぇ……」
●
「そういうわけでね、アランとヘイムダルにお出かけするの。デ、デートなのよ。えへへ……」
満面の笑顔とは、まさにこのことだった。
学生会館の食堂。その一席で、ラウラはブリジットと話している。
「うむ、明日か。ヘイムダルのどこを回るのだ?」
「アランがエスコートしてくれるから、私は聞いていないの。あー、なにを着て行こうかしら。こんなことなら実家からもっと私服を持ってくるんだったわ。ふふ、本当に楽しみ」
ラウラは視線を自分のティーカップに落とす。
正直、ちょっとうらやましい。もしも……もしもリィンがそんなふうに私を誘ってくれたなら、どこへでも喜んで付いて行くというのに。
あの朴念仁のこと、『いっしょに稽古にでも行かないか』ぐらいが関の山であろうが。それはそれで構わないのだが。
「でもね、ちょっとだけ不安もあるのよ」
そう打ち明けるブリジットの表情がわずかにかげった。
「私は自然に接して欲しいんだけど、こういう時に固くなり過ぎちゃうのがアランだから。それに私だってちょっとは緊張してるし……。できるかな、彼女らしく。変な感じにならなかったらいいな」
「ふむ……」
話を聞くに、戦闘の真っ最中の告白という特殊なスタートを切ってしまったせいで、恋人同士の普通のやり取りというものをまったくしないまま数ヶ月経ってしまったらしい。だから恋仲の者としての振る舞いが、今一つわからないそうだ。
そういう悩みもあるのか。何か助言をしたかったが、いかんせんそこは自分自身も未経験。実のあるアドバイスはできそうになかった。
「じゃ、私は明日の準備もあるから帰るね。話を聞いてくれてありがとう」
「気にしないでいい。応援してる」
ブリジットが席を立ってしばらく、ラウラも食堂を後にする。外に出ると小雨が降っていた。明日は晴れると良いが。
「しまった。傘は持ってきていないな……」
ブリジットの姿は見えない。走って帰ったのだろう。
彼女の楽しみと不安の混じる表情が脳裏によぎる。
自分にできることはないだろうか。思い返すのは彼女と友人になれたきっかけの出来事。9月の中頃、今回同様にヘイムダルへのお出かけがあって、そこに裏方として付いて行ったことだった。
かかる火の粉を振り払う目的での追跡だったが、結果としてそれは成功だった。二人に絡んできた不良共を退治できたからだ。その不良グループがマキアス、ユーシス、ガイウスだったのは後で知ったことだが。
前回で痛い目を見ているから、さすがに今回はマキアスも動かないだろう。だが不測のアクシデントは他にも起こる可能性はある。
考え出すとこちらが不安になってきた。自室でじっとデートの結果報告を待っているなどできそうにない。
やはり護衛として行くべきだろうか。いや、しかし、だとしても。なんの承諾も得ずに、二人の時間に介入する行為は褒められたものではない。
モニカたちにも意見を聞きたいし、できれば協力を仰ぎたいが、間が悪く会えていない。
「アランやブリジットの関係を知っていて、積極的に力を貸してくれる人か。……そんな都合のいい人なんて――」
「ロギンス君ったら、まだまだねえ」
目の前を白い学生服を通り過ぎていく。
「フリーデル先輩」
「あら、ラウラさんじゃないの。奇遇ね」
フェンシング部部長のフリーデルだ。ギムナジウムで稽古をしていたのだろう。天気も読んでいたらしく、しっかり傘を差していた。
アランともブリジットとも関わりがあり、あの告白劇の立役者の一人でもある。機転が利き、判断力や統率力に優れ、行動力も折り紙つきだ。
協力を乞う相手として、フリーデル以上の適役はいないのではないか。
「ああ、傘がないのね。良ければいっしょに入っていく?」
「ぜひ先輩に助力して頂きたい案件がありまして!」
「え、だから傘に入ればって言ってるんだけど」
●
「雨が本格的に振り出す前に、子供たちを帰して正解でしたね」
教会の来賓室に、礼拝堂の清掃を終えたロジーヌがやってくる。彼女は手にしていたトレイから、ユーシスの前に紅茶を置いた。
「ずいぶん曇っていたからな。この時間なら濡れる前に家に着いたと思うが」
「ええ。ところでユーシスさんは傘はお持ちですか?」
「ない。後で借してもらえるとありがたい」
「それはもちろん」
そう言うと、ロジーヌはユーシスのとなりに座った。あまり大きくもないソファーに二人、肩を並べる。
ぱたぱたと屋根を打つ雨が、不規則なリズムを奏でていた。不思議と落ち着く心地よい音だ。
「教区長殿は?」
「お出かけされていてご不在ですよ」
「他のシスターも見当たらないな」
「備品補充をするとのことで、早くに教会を出られました」
「そうか」
ユーシスはティーカップに口をつけた。一口でわかる。茶葉の選定から蒸らしの時間まで、完璧な淹れ方だ。
「お味はいかがですか」
「うまい」
「良かった」
しっとりと微笑む。
「今日はクッキーはないのか」
「あ、ごめんなさい。材料を切らしていて作れなかったんです。明日に帝都に買い付けに行こうと思っているんですけど」
「ああ、気にするな」
「体調はいかがですか?」
「ずいぶんと良くなった。お前のおかげだ」
静かな時間が過ぎていく。おもむろにロジーヌが言った。
「明日、クッキーの材料を帝都に買い付けに行こうと思っているんですけど」
「ん? さっき聞いたが」
「………」
何かを訴えるように、ロジーヌが見つめてくる。
「これが中々の量なのです。小麦粉もありますから重いですし」
「そうだろうな。配送サービスをやっている店を選ぶといい。トリスタまで荷物を送り届けてくれる」
「ユーシスさんの明日のご予定は?」
「まあ……特にはないが」
「………」
また見つめてくる。無言で語りかけてくる。
「……そういえばシュトラールの蹄鉄の調整をそろそろせねばと思っていたのだ。こればかりはヘイムダルの装蹄師に頼るほかなくてな。四月からバリアハートに数か月戻るから、明日に動かねばもうタイミングがない」
「はい」
「……ついでなので、荷物運びに付き合うと言っている」
「はい!」
前も今も同じだ。この目に見つめられると、なぜだか『わかった』と言ってしまう。
「東ゲートで11時に待ち合わせでいいな。シュトラールに乗って、街道沿いにヘイムダルまで行く」
「わかりました」
明日のことなのに、ロジーヌはわざわざ手帳のカレンダーに予定を書き入れた。ずいぶんと楽しげにペンを走らせている。
ユーシスは立ち上がった。
「カップも空になったし、俺も寮に帰るとしよう。傘を貸してもらえるか」
「傘は全て貸し出し中です」
「さっきはあると言っていなかったか?」
「いいえ」
ロジーヌの視線が宙に逃げる。
「ないなら仕方ない。多少濡れて帰るか」
「ダメです。体が冷えたら風邪をひきます」
「大した距離ではない。走って帰って温まれば、風邪などひかんだろう」
「そんなことをすれば、女神の神聖なる力で風邪をひくことになるでしょう」
「それは呪いの領域だ……」
「ですから、あの……」
そっと袖を引っ張られ、また見つめられる。深い青色の瞳が揺れていた。
小さく息をついて、ユーシスはソファーに座り直す。
「わかった。雨が止むまでここにいる」
「では止まないようお祈りしておきますね」
ロジーヌは嬉しそうに両手を組み合わせた。
●
ガイウスは屋上に呼び出されていた。
「クレイン先輩、話とはなんでしょうか?」
雨の勢いが増している。容赦なく叩きつける雨粒の中、背中を見せて待ち構えていたクレインは仰々しく振り返った。
「来たな、ガイウス」
「できればもうちょっと早く来てくれれば助かったんだが……」
クレインのとなりにはハイベルもいた。同じ格好で待機していたらしい。かわいそうなくらいずぶ濡れだ。
「お二人とも、とりあえずこちらへ。そこでは雨に打たれます」
「そうしたいのは山々なんだけどね。クレインがこのポジションの方が雰囲気が出るからって」
「おい、余計なこと言うな!」
気を取り直して、クレインは咳払いをした。
「俺たちはもう数日で卒業する。ただその前にやっておかなきゃならんことがある」
「やっておくこと……?」
「正義戦隊ジャスティスシックスの活動を締めくくることだ」
カッと雷光が閃き、どどーんと雷鳴が轟く。
「もともとは俺とハイベルの二人、各地を回る中で直面した不条理を見過ごせなくてな。世直しのつもりで始めたのが正義戦隊としての始まりだった」
「僕は何度も面倒事に首を突っ込むなって言ったんだけどね……」
「色々な街で正義を示したさ。その内にひょんなことからクレア大尉に出会って、飛行船ジャックを解決する際に彼女にもブルーのマスクを渡した。ジャスティスツーはジャスティススリーになった」
「確かにそれはクレイン唯一と言っていいくらいのファインプレーだった」
「カレイジャスに合流してからも、俺たちの活動は続いた。ステファンにグリーンのマスクを渡し、ジャスティスフォーに。正直、なんであいつを加入させたか自分でもわからないが……」
「なんか気づいたらいたよね」
「そしてガイウス。お前にブラックマスクを渡し、ジャスティスファイブへ。最後にガイラーさんにパープルマスクを渡して、俺たちは最終形態たるジャスティスシックスになったんだ」
「最終っていうのはマスクの在庫がそれで無くなったからだよ」
「ガイラーさんなんてな、最終作戦の時にちゃんとマスクをつけた状態でパンタグリュエルに乗り込んでくれたんだぜ。正義執行の意識の高さには頭が下がる思いだ」
だが、とクレインは重々しく付け加えた。
「二年生メンバーの三人は卒業しちまう。クレア大尉は軍務があるし、ガイラーさんも新学期が始まれば自由には動けんだろう。つまり正義戦隊は実質、お前しかいなくなる」
「俺だけ……。要するにジャスティスシックスは解散と」
「違う!」
クレインは強くさえぎった。ハイベルはいい加減に屋根のある位置に移動したがっている。
「正義とは何か。力か? 組織か? 行動か? そうじゃない。正義とは信念だ。揺るがぬ魂の根幹だ!」
「すなわち、自らの精神の支柱にあるものだと……」
「そうだ。そして精神とは継承されるものでもある。……わかるな、ガイウス。次はお前が正義戦隊の要となるんだ」
「し、しかし俺一人では」
「一人じゃない。新入生が入ってくるだろう。そいつらを仲間に入れればいい。いずれ正義戦隊は復活する。不死鳥のようにな!」
「ねえ、その話まだかかる? 本当もうさあ、部屋でよくない?」
ハイベルは寒さにかたかたと震えている。
ガイウスは拳を突き出した。
「わかりました。クレイン先輩とハイベル先輩の意志。俺が引き継ぎます。正義戦隊は不滅です」
「ふっ、お前ならそう言ってくれると信じてたぜ。……けど俺たちは何も残さず除隊するつもりもない」
「と言いますと?」
「活動の区切りに相応しい巨悪を討つ!」
どっどーんと空気を読む雷鳴が一帯を震わせた。
「巨悪……!? いったいそれはどのような悪なのです」
「それはちょっとわからないが」
「え? 討つのでしょう? その敵はどこに?」
「明日にヘイムダルで探そうと思ってる。人口80万の帝都だぜ。一人くらいいるだろ、巨悪」
正義戦隊ジャスティスシックス。その第一期を締めくくる巨悪の討伐が、完璧なノープランで幕を上げる。
うずくまるハイベルがうらみがましい目でクレインを見上げていた。
●
「そちらは雨が降っているんですか? こちらは空に星が出ていますよ」
エリゼは《ARCUS》で通信をしていた。シュバルツァー邸の私室、自分のベッドの上である。
『ユミルとは距離も高度も違いますから。すぐに降り止めばいいのですが』
通信先でクレア・リーヴェルトがそう言う。「……本当ですね」と返して、エリゼは窓の外を眺めた。トリスタでの大雨というのが信じられないくらい、綺麗な夜空だった。
『心配しなくても、明日はきっと晴れます。大丈夫』
「気休めでもそう言って頂けると、安心します」
『気休めじゃないですよ。風向き、風速、湿度、雨雲の流れ、季節。今の天候予測はそれらのデータを元に算出しました』
「さ、さすがですね……」
『とはいえ、私も女神様ではありませんから、最後は運頼みです』
クレアは小さく笑った。
「今さらですけど……ご迷惑ではなかったですか? せっかくの非番なのに」
『まさか。ずっと楽しみにしていました。ランチのお店選びは任せて下さいね』
“内戦が終わったら、二人で帝都に買い物に行く”
それがユミルに滞在していた頃に、クレアと交わした約束だった。
十月戦役の終結後にエリゼは体調不良で動けず、クレアは戦後処理に追われ、二人の時間が合わせられるようになったのがこのタイミングだった。
『そうそう、リィンさんにお話ししたら、『どうか妹を宜しくお願いします』と何度も頭を下げられました。エリゼさんのこと、とても大事に思っているのですね』
「に、兄様ったら恥ずかしい。もう……いつまでも子供扱いなんですよ」
『……兄妹というのは、そういうものなのかもしれません。子供であろうと大人であろうと、きっと年齢は関係ないのでしょう』
「クレアさんは――」
兄妹はいますか。一瞬そう問いかけようとして踏み止まる。彼女の言葉には、微かな悔恨の感情が乗っていた気がする。触れてはいけない。少なくとも、今は。
『なにか?』
「ああ、いえ。兄様はお変わりありませんか? ちょっと前にユミルに戻られたんですが、あまりゆっくり話もできなかったもので」
エマ、フィー、リィンの三人での来訪で、目的はラックだったらしい。詳しくは聞かなかったが、あのあとラックは魂の抜け殻のようになっていた。
『元気ですよ。さっきはラウンジで機械人形の頭部とケンカしていました』
「それ、兄様の精神状態は大丈夫なんですか……」
ラウラさんとアリサさん、どうか支えになって下さい。そっちの意味の支えじゃないですけど。
余計なことを考え出して、妙に悶々としてきてしまった。
『そういえばトヴァルさんがユミルに常駐するそうで。なんでも遊撃士協会ユミル支部を開設するとか』
「ええ、そうなりました。思うところは多々ありますが、私が承認してしまったわけですから。前向きに考えられるよう努めます。仕方ありません。仕方ないことなんです」
『後悔の念が透けて見えるのですが……』
しかし彼の功績もあるにはある。導力波の中継機をユミルを中心に、トリスタ側まで随所に設置してくれたことだ。
そのおかげで、こうしてクレアとの遠距離通信が可能となっているのだ。
『では今もトヴァルさんはユミルに滞在しているんですね』
「いえ、所用があるそうで、今日はヘイムダルに行かれましたよ」
『あら、そうでしたか』
「はい。おかげで今晩は安眠できそうです」
『エリゼさん……』
●
「はああ!? どういう了見よ、それはあ!」
「ま、待て待て、落ち着け、ぬぐぐぐぅ……」
テーブルの上に身を乗り出すサラが、容赦なくトヴァルの襟首を締め付ける。
「落ち着けるわけないでしょ! 遊撃士への久しぶりの復帰だから、勘が戻るまで同行するって言ったじゃない!? あたしは四月からどうすればいいの!?」
「だ、大丈夫だ。お前さんなら一人でもやっていけるさ!」
「誰が独り身でもやっていけるって!?」
「言ってな……ぐあぁぁ……!」
ぎりぎりとさらに首が締まる。
ヘイムダルの行きつけの酒場である。馴染みの店員が事情もわからないままにサラを引きはがしてくれて、トヴァルはようやく呼吸ができるようになった。
「げほっ、まずは話を聞けよ」
「えーえー、聞かせてもらおうじゃないの。どうしてあたしとの約束が反故になったのか」
下手なごまかしは火に油を注ぐだけだ。トヴァルはありのままを語った。
「――ふんふん、遊撃士協会のユミル支部を作る、と。意義はわかるけど意図がわからない。なんでトヴァルが支部長やるわけ? そしてなんでそれを了承しちゃったわけ?」
「なんつーのか。ユミルの人たちに猛烈に推薦されて、エリゼお嬢さんにも承認されて、断るに断れない状況でな。すまん!」
「謝られても……」
「レグラムみたいに、ユミルにも遊撃士を配置した方がいいのは間違いないんだ。運営が軌道に乗ったら代わりは探すつもりでいるが、とりあえず引き受けた以上、形になるまでは俺がやるべきだろう」
「――くない」
「へ?」
「面白くない!」
サラはジョッキを卓上に打ち付けた。飛び散った中身がテーブルクロスに染みを作る。あわててトヴァルは身をひるがえし、ビールの飛沫から一張羅のロングコートを守った
「おいおい……」
「なによ、なによ、みんなして。あたしのことなんてどうでもいいって思ってるんでしょ。あーわかった、もういい。アノール川に身投げして、帝国時報の地方欄を賑わしてやるわ! 見出しは『美人過ぎる学院教官の謎の死。教育現場にはびこる深淵の闇』に決まりね!」
「やけになるなって。それにどうせ飛び込むならもっと深い川を選ぶほうが――ん? みんなしてってどういうことだ?」
「みんなはみんなよ。教え子たち。かわいいかわいい教え子たちっ!」
またしてもサラはジョッキを叩きつけた。
「言い方にトゲがあるが、なんかされたのか?」
「最近、あの子たちの態度がよそよそしいのよ。あたしがラウンジに出ていくと急に会話が止まったり、そそくさと自室に戻ったり。話しかけても露骨に話題をそらされるし」
酔いも回っているのか、うるうると瞳が滲み始める。
「それにさあ、シャロンとかクレアには親し気に話してるのに……あたしは、あたしには……ぐすっ」
「ふーむ……なるほどな」
トヴァルは全ての事情を理解した。
それはⅦ組がサラのために企画しているサプライズイベントの準備だろう。当然、本人には言えないから、隠す態度になってしまう。シャロンやクレアも協力していると想像できた。
実は自分もさきほど通信で、ガイウスから相談を受けたばかりだった。彼がプレゼントしようとしている絵のタイトルを決めて欲しいとの依頼である。俺の視点から見た方が、サラとⅦ組、双方を繋げるような題を考えられるのではと。実に良い着眼点だと思った。
「まあ、色々あるんじゃないか。あいつらも年頃だし。教官に言いたくないことの一つもあるさ」
「うぅ……どうしよ。卒業式の校門であの子たちが待ち構えていて、旅立つあたしに無慈悲なお礼参りでも画策していたとしたら……」
「いや、返り討ちにするだろ、お前さんなら。一人一秒一撃一殺だろ」
死屍累々と束ねられたⅦ組連中が目に浮かぶ。まあ、そんなことにはならないわけだが。
しかしサラの想像は卑屈に悪い方に転がったようで、
「もうやってらんない。気晴らしがしたい」
「あいよ。気晴らしな。明日は予定ないから、今晩は二件でも三件でもはしごに付き合うぜ。まったく、面倒見のいい頼れるお兄さんだよなあ」
「お酒じゃないわ。こうぱっとお金を使ってストレス発散になるやつ。社会人らしく散財する」
「散財するのは社会人のやることじゃねえ……。で、なに?」
「ん」
サラは目線でそれを示す。店の壁に広告が張ってあった。筋骨たくましい馬が、土を蹴立てて疾走しているポスター。
「……競馬?」
●
「競馬しかない」
オリヴァルト・ライゼ・アルノールは力強く宣言した。彼の私室の椅子にちょこんと座るアルフィンは、「競馬ですか?」と目をきょとんとして聞き返す。
「そう。我が国を語る上で決して省くことのできない歴史の変遷。明日、帝都競馬場にて大きなレースが開かれる。内戦中は開催を自粛していたから、国民の注目も期待も天井知らずのビッグイベントだ」
「わたくし、賭け事には詳しくありませんが、それはお兄様の負債を返せるほどの収益が見込めるのでしょうか?」
「“お兄様の”を妙に強調してきたね……」
《カレイジャス》での活動を行った二か月あまりで発生した支出で、かつオリヴァルトが負担することになった金額は実に2億7300万ミラ。
「アルフィンは知らないだろうが、競馬には賭け方に応じた配当金がある。それによって倍率も異なるわけだが――まあ、ここはいい。とにかく僕は残された全貯蓄を費やし、もっとも難しく、そしてもっとも配当倍率が高騰するギャンブルを狙う」
「億単位のお金が動くものなのですか? ちょっとイメージができないのですけど」
「動く。そのレースでの当選人数にもよるが、過去の最高配当額は4億を超えるものもある。まさしく一攫千金だ」
「4億……! それはすごいですわね。……当たりますか?」
「明日は五レース行われる予定だが、僕が挑むのはそれらの一着を全て的中させるというものだ。可能性は極めて低いだろう」
「んー、お兄様。差し出がましいようですが、控えめに言っても無理でしょう」
「わかってるよ。だから秘策を用意したのさ」
「競馬に秘策……?」
こんこんとドアがノックされた。
「おっ、うわさをすればちょうど到着したみたいだ。入ってくれたまえ」
「どうも」
と、軽い感じで入室してきたのは銀髪に褐色肌の女性だった。露出の多い衣装で、アルフィンは踊り子という印象を受けた。
「やあ、シェラ君! 待っていたよ」
「なんか出迎えの人が、ものっすごく丁重に案内してくれたんだけど。逆に恐縮するわ」
「そりゃあもう国賓クラスの対応をするよう言い含めておいたから」
「勘弁してよ。そういうのガラじゃないし」
「それにしてもこのタイミングで帝都に来てくれていたのは僥倖だった。他に頼れる人もいなくてね」
「急に連絡で何かと思えば、まったく。……あら、そちらはもしかして」
シェラと呼ばれた女性の視線がアルフィンに向けられる。察したらしく、彼女はひざまづいた。
「お初にお目にかかります、アルフィン皇女殿下。私はシェラザード・ハーヴェイ。リベール王国の正遊撃士として活動しております」
「まあっ、あなたが!?」
アルフィンは飛び上がった。
名前は何度も兄から聞いていた。リベールでの異変を解決したメンバーの一人で、《銀閃》の二つ名を持つ実力者。しかしそれ以上に――
「はい。殿下もご存知のトヴァル・ランドナーやサラ・バレスタインとも面識があります。どうぞよしなに――……皇女殿下?」
「うふふ」
アルフィンはシェラザードの周りをくるくると回り、嬉しそうに微笑んでいる。ずっと会いたいと思っていたのだ。
「あの……殿下。いかがなさいましたか?」
「殿下だなんて、そんな堅苦しい。どうかアルフィンと呼び捨てにしてくださいませ」
「ええ!? できませんよ!」
「してくれないと困ります。もっとこう、妹に接するような感じで」
「こ、困るとは? 無理ですって。エレボニア皇室の方にそんな失礼な態度は取れません。そもそも皇族にお会いしたのも初めてなのに。ねえ、オリビエ」
シェラザードは助け船の視線をオリヴァルトに投げた。
「ははは、シェラ君。発言が色々とおかしいんだけど。まあなんだ。アルフィンもそれくらいにしなさい」
「そんな、せっかくお会いできたのに。でも今日はバルフレイム宮にお泊りになるのでしょう? 夜はわたくしのお部屋にいらして下さい。女同士の語らいをぜひ。あ、その前にセドリックにも紹介しないと」
爛々と瞳が輝く。聞きたいことがたくさんあるのだ。
お兄様とのご関係とか、お兄様とのご関係とか、お兄様とのご関係とか。
「あら? ですが競馬の秘策というのはどういうことなのでしょう」
「ふっふっふ。説明しよう。シェラ君は占いができる。しかも的中率が抜群に高い。ここまで言えばわかるね」
「つまり、お馬さんの順番をシェラザードお姉様に当てて頂くと」
「お、お姉様?」
シェラザードがたじろぐ。
「決めました。明日はわたくしも競馬場に同行しますわ。愛の力が億超えの負債を凌駕する瞬間を見せて下さい!」
「あ、愛ぃ……? ちょっと待ってよ。占いで競馬に勝てるって本気で言ってるの?」
「不可能はないさ」
つかつかと窓際まで歩み寄ったオリヴァルトは、カーテンを勢いよく開け放った。外は豪雨だ。
「さあ、シェラ君! まずは手始めにこの悪天候を見事に変えてくれたまえ!」
「あんた、占い師と祈祷師を勘違いしてる。はあぁ……やって無理なら納得してくれるのかしら」
いかにも気だるげに、シェラザードは取り出した鈴を鳴らしながら、ものすごーく適当な舞を披露する。
「ほらほらー、晴れなさい、晴れなさいー。晴れないとムチでひっぱたくわよー」
翌日。超晴れた。
文句なしの晴天の下、緋の帝都にそれぞれの想いが巡る。
――つづく――
――another scene――
《☆――お出かけしたい人たち――☆》
「――だから帝都に遊びに行きましょう。ニコラス君の調理道具とかそろえられるし、私もラクロスの道具を新調したいし。ね? 一石二鳥でしょ。夜? もちろん空いてるわ。ディナーのお誘い? ふふ、嬉しい。あ、でも勘違いしないでね。私が一番おいしいって思うのはあなたの料理だから。 え? 最終列車がなくなった? 仕方ないわ。どこかに泊まりましょう。うそ、ちょっと待って。私たちまだそんな関係じゃ……でもニコラス君が望むなら、私……あなたの一品にされちゃってもいい。優しく調理してね、夜のコックさん……なんちゃって、なんちゃってー!」
エミリーは頬を染めながら、上目遣いで正面を見た。
「うん。それニコラス君に直接言って来たら? 夜のコックさんとやらに調理されちゃってきたら?」
どんよりとした目つきで、テレジアはエミリーと対面している。第二学生寮のエミリーの自室を彼女は訪れていた。
「心の準備がいるの。もう少しイメージトレーニングに付き合ってよ」
「イメトレに二時間費やすってどうなの。それに付き合わされる私をどう思うの」
「テレジアってばそんなことばかり言って。本番の試合の為に、私たちは日々つらく苦しい練習に励むじゃない。入念に準備をして、試合開始のホイッスルが鳴ってからスパートをかけるわけよ!」
「まだ試合会場にすら着いてないわ。せいぜいラケットを磨いている段階よ。なんならユニフォームにさえ着替えてない」
「靴ひもは結んでると思うんだけど」
「じゃあ早く走り出しなさい。ニコラス君は男子部屋でしょ。誰かに頼んで呼んできてあげるから」
「そんなことしたら絶交する」
「来月から同じ空挺部隊なのに!?」
「訓練中の事故に見せかけて、後ろから撃つ」
「記念すべき私の初軍務は、危険思想の持主を上官に報告することから始まりそうだわ……」
イメージトレーニングはそこからさらに二時間続いた。
●
「エーリオットくーん」
間延びした声に名前を呼ばれた。音楽室で機材のチェックをしていたエリオットの元に、ミントがやってくる。
「やあ、何か用事?」
「明日、ヘイムダルに行こうよ」
「また唐突だね……いいけど、目的は?」
猛将関係とかだったら全力で止めないと。密かに警戒したが、「楽器のお店に行きたいんだよね」とミントは予想外のことを言った。
「へえ! いいね、付き合うよ。いくつかいい店を知ってるし」
「ありがと! 最近面白い音楽のジャンルを見つけちゃってさ。私もそれやってみたくて」
その前向きな言葉は嬉しかった。
二年になれば、後輩もできる。吹奏楽部の先輩として、部員に指導をする機会も増えるだろう。そのあたりも考えているのかもしれない。
「でさでさ、そのあとで広場でプチコンサートやろうよ。あたし、上手くできないかもだけど、お披露目したいし」
「ミ、ミント……」
なんか感動してきた。何かと猛将路線に突っ走りがちなミントだからこそ、この変化は胸に刺さるものがある。
「うん、やろう! 僕がリードするよ! 失敗したって気にしなくていいから」
「あはは、またその言葉を言われちゃった。そうだ。演奏する前にエリオット君に聞いとくことがあったんだ」
「うん? 曲調なら即興で合わせられるけど」
「歯ギターってできる?」
「僕に何やらせる気!?」
●
モニカはポーラといっしょに馬の世話をしていた。最近はこの二人で行動することが何かと多い。大体がポーラに連れ回されるモニカという図式にはなるが。
「雨だねえ」
シュトラールやマッハ号のブラッシングをあらかた終え、モニカは馬舎の屋根の下から曇天を見上げた。ぽつぽつと小雨が降り始めた夕刻。本降りになる前に切り上げた方が良さそうだ。
「そっちはどう? ポーラも終わりそう?」
「新しいムチを買いに行かない?」
「会話の流れを破壊しないでよ」
ポーラは清掃道具を片付けながら、
「古いのが壊れちゃって。新学期が始まる前に新調しておきたいのよ。新入生も入ってくるだろうし」
「そっか。部員が増えたら馬具も必要だもんね」
「え? 新入生用のだけど?」
「だからそう言って――あ! 新入生に使う用ってこと!?」
「もう、モニカったら。馬用のは鞭。奴隷用のはムチでしょ。ちゃんと聞き分けなさい」
「高度過ぎるし、新入生に使っちゃダメだし。すぐに部員が辞めちゃったらどうするの?」
「
「逃げてー! 新入生の人たちー!」
誰にも届かない叫びは、黒い空に吸い込まれて消えた。
「……行かないからね、私」
「な、なんで!?」
「そんな驚愕の反応を返されても……そっち系のグッズを扱ってるお店とか入りたくない。何かを失う気がするもん」
「得る物しかないわよ!」
断言の勢いが強い。
それでもモニカが渋っていると、不意に第三者からの声が届いた。
「なら、私のお気に入りの店を紹介してあげるわ」
「ウィルジニーお姉様!?」
当然のようにウィルジニーが登場した。第三機甲師団、戦車隊の隊長だ。とっくに本隊に帰還しているはずなのに。
ウィルジニーは胸元から取り出した一枚のカードをちらつかせてみせた。
「そ、それは《バタフライグラスS&M》のメンバーズカード!? 紹介でしか加入できない幻の店舗の、しかもゴールド会員だなんて!!」
とりあえずすごい店であることはわかった。モニカはそろりそろりと逃げようとする。が、あっさりポーラに拘束された。
「どこに行くの、モニカ。これ以上ない名誉なことなのよ」
「ポーラにとってはそうだろうね!」
逃げようとして果たせず、モニカはムチで縛り上げられる。
「あら、モニカちゃんの緊縛? お姉さん、そそるわ。どうしましょう。どうしてくれましょう」
「ウィルジニーさんってヒマなんですか!? あぁあああ――!?」
●
学生会館の二階。生徒会室の手前に位置する部屋には、写真部改め、心霊写真部の看板がかかっていた。
「呪われたカメラを購入しましょう」
暗幕に覆われた部室の中、ベリルは水晶に手をかざしながらそう言った。
「……見える、見えるわ……。大いなる暗黒をファインダーに宿し、霊なる存在を捉えることのできる唯一無二のおぞましきカメラが……」
「それ買えばいいんだな。どこにあるんだ?」
ベリルの妖しい雰囲気には慣れたもので、レックスも水晶球をのぞき込む。彼には何も見えなかった。
「怨念渦巻く魔の帝都よ。あまねく民に忘れられた古の骨董品店にそれは眠っている。ああ、ついに封印が解かれる日がくるのね。災厄の火種を自らの手で呼び覚ましてしまうなんて、なんて罪深い。でもそれは逃れることのできない人の業でもあるわ。ふふふ……」
「オッケー。じゃあ明日の昼にいっしょに探しに行こうぜ」
「えっ、うん」
●
卒業式の準備は基本的に在学生で行う。
だからⅦ組はサラへのサプライズはもちろん、そちらにも時間を割かねばならなかった。
「難しいな……ピンはこっちにつけるんだっけ……?」
夕食も終えた夜のラウンジの一角で、リィンは悪戦苦闘していた。
作っているのは一人一人の卒業生が胸に添えるリボンコサージュだ。専用布で花をかたどった祝い飾りである。
いざ作ってみると、これがまた難しい。卒業生分を作る必要があるから、Ⅶ組総出で分担しても、一人当たりの割り当ては多いのだ。
ちなみに会場セッティングはI組が、来賓誘導はⅡ組が――などのようにクラスごとに役割を担うことになっている。
「………」
この花はクロウの分も作るべきだろうか。
無言で作業を続ける中で、リィンはそんなことを考えた。
卒業式に来いと言った。お前をトワ会長たちと同じ日に卒業させると言った。
だがその発言が巡って軍に知られ、式の当日は祝福と護衛という名目で、万に一つクロウが現れた場合の捕獲作戦の陣が敷かれることになってしまった。
そもそも、あいつが来る気でいるのかはわからない。正規軍が駐留する情報を得ているかも不明だ。
逆に来ることがあったら騒然となって、軍にも介入され、卒業式は潰れてしまうだろう。
どうやってもクロウはトリスタに入れないのだ。
だから、彼の花を作る手が止まってしまう。卒業式のあと、一つだけ残されたコサージュを見ることになるのは辛かった。
煌魔城での別れ際、Ⅶ組の証としての赤い学院服を手渡せたことがせめてもの――
「根を詰めすぎるのは良くないわよ」
アリサに呼びかけられて、リィンは顔を上げる。彼女はリィンの座るソファーの右側に腰かけた。そしておもむろに言う。
「別に作業が遅れているわけじゃないんでしょ。……よければ、その……明日でも気分転換に帝都まで出かけない?」
「帝都に? そうだな……ああ、行こうか」
断る理由もなく、約束を交わす。
「そ、そう! じゃあ――」
「私も明日、帝都に行こうと思ってたのだ」
話を聞いていたらしいラウラが歩み寄ってきて、リィンの左側に腰を下ろした。
「ラウラもヘイムダルに用事か。なんならいっしょに行くか? いっ!?」
テーブルの下で両どなりから足をぎゅーっと踏まれる。テーブルの上の表情は二人とも笑顔なのが怖かった。
「そういうところよ、リィン」
「ため息もでんな。アリサに同情しよう」
二人の視線に挟まれて、心臓が悲鳴を上げていた。建付けの悪い扉を無理やり押し開けた時のような金切り音だ。俺はまた何かを間違えたらしい。
リィン越しにアリサはラウラに言った。
「でもラウラ、本当にいいの? いっしょでも私は構わないわ。気分転換のつもりなのは本当だし」
「外せない別口があってな。アリサはどこに行くかも決めていたのか?」
「ええ、ブティックショップよ」
「服が目当てか」
「ううん、私じゃなくてリィンの服」
「……ふむ。それは名案かもしれない」
二人はうなずきあっている。「え、なんで俺の服?」と怪訝そうにするリィンは完全に蚊帳の外で、アリサとラウラは何やら打ち合わせを始めた。
この春のコーディネートがどうたらこうたら、ミッドナイトヘブンは卒業させなきゃうんたらかんたら。
「せっかくだし、完成品のリィンを店員に見てもらってだな」
「へえ、面白いかも。久しぶりに本気を出そうかしら」
「待ってくれ。どうして俺の服の話になってるんだ?」
『ちょっと黙ってて』
声をそろえてにらまれる。
一言も発言する権利を与えられないまま、リィンは帝都に出かけることになった。
☆ ☆ ☆
《想い巡る緋の帝都》ということで、色んな人がいろんな理由でヘイムダルを訪れます。最終話前の大きな話はおそらくはこれがラストになるでしょう。
エリオットたちはマーテル公園あたりで荒々しい歯ギターを披露しながら、
エリオット「僕は煉獄のテロリースト!」
ミント「I am a terrorist straight out of hell!!」
そんな野外ライブをやるのでしょうか。
それでは今年の更新はこれで最後となります。
本年も虹の軌跡にお付き合い下さりありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願いいたします!