虹の軌跡Ⅱ Prism of 《ARCUS》   作:テッチー

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第132話 つづく日々に

 サラ教官へのサプライズイベントの準備は、急ピッチで、かつ水面下で進行中だった。卒業式までもう日にちが残されていない。

「リィンさん、場所のレイアウトで相談があるんですが……」

 第三学生寮のラウンジでは、それぞれで計画を進めている。その最中、エマが会場の見取り図を持ってやってきた。それに目を通しながら、

『長テーブルの配置は中央二列でいいんじゃないか? あとドリンク置き場はコーナーを使おう。なるべく談話スペースを広く取れる方がいい』

「なるほど。では出し物は正面のこの位置にした方が、全体から見えやすそうですね」

『ああ、それがベストだろう』

 考えがまとまったらしく、エマは礼を言うとその場から離れていった。

「リィン。俺も相談があるのだが、今いいか?」

『どうした、ガイウス。俺で良ければなんでも言ってくれ』

 難しい顔をして、ガイウスは目の前に腰かけた。

「サラ教官のために絵を描いているんだが……どうしてもタイトルが決まらなくてな。何かアドバイスでももらえればと思ったんだが」

『俺じゃなくてトヴァルさんに訊いてみたらどうだ?』

「トヴァルさんに? なぜだ」

『俺たちだと、教師と教え子っていう関係からの着想しか出て来ないだろ? トヴァルさんならもっとフラットな視点でサラ教官を見れるはずだ。そこからの意見がヒントになるんじゃないかな』

「さすがリィンだ。説得力がある』

『大したことは言ってないさ。絵の完成を楽しみにしてる』

「期待していてくれ。さっそくトヴァルさんに連絡を取るとしよう」

 ガイウスは自室に戻っていった。

 続いて眉を吊り上げたユーシスが大股で近づいてくる。

「おい、リィン。マキアスを見なかったか?」

『夜中に出かけたらしいけど、どうしたんだ』

「イベントの詰めをしようと思っていたのだ。まったく、時間がないというのに……」

『そう怒るな。マキアスだって時間がないことはわかってるさ。その上で動くんだから、相応に大事な用なんだろう。察してやってくれ』

「……ふん。まあ、そういうことにしてやってもいいが」

『心労かける。俺に手伝えることがあるなら言ってくれ』

 多少は虫の居所が良くなったらしいユーシスは、ソファーに腰かけて企画書の見直しを始めた。

 その後もエリオットが演奏の批評を聞きにきたり、フィーとミリアムが雑談に来たりと、ひっきりなしだ。

「お疲れ様です、リィン様。お飲み物をどうぞ」

 最後にシャロンがレモンティーを持って現れたところで、ずっと沈黙を貫いていたリィンが勢いよく立ち上がった。

「それ、俺じゃないから!」

 耐えかねてビシッと突き付けた指の先には、卓上に乗せられた鉄兜がある。その顔面はモニターになっていて、リィンの顔が映っていた。

「レジェネンコフR式とかいうのだろ! みんな、すんなり受け入れ過ぎじゃないか!? それとシャロンさん! レジェネンコフはレモンティーは飲まないでしょう!」

「ああ……わたくしとしたことがこのようなミスを……申し訳ございません、リィン様」

「シャロンさんが今謝ってるのレジェネンコフなんですが!」

 全員の視線がリィンとレジェネンコフを往復する。

 エマが申し訳なさそうに口を開いた。

「ごめんなさい。その……あまりにもリィンさんだったもので」

「それってどういう意味だ……」

「声とか口調とか、あとアドバイスの内容とかもリィンさんのような感じでして……つい私たちも違和感なく接してしまいました」

「だとしても……だとしてもだろ!」

 相手は武骨な鎧甲冑。しかも頭部のみ。フェイスモニターの中にはリィンの顔だけが映り、そいつが合成音声でしゃべるわけである。

「でもレジェネンコフのリィンは優しいよね」

「うんうん、おやつの隠し場所とか教えてくれたしねー」

 フィーとミリアムがちらっちらっとリィンを見た。

「あっちのリィンは教えてくれないよね。我慢しなさいって言うよね」

「ボクもソファーで寝っ転がってたらさ。女の子がそんな恰好で寝そべってちゃダメだって怒られたことあるよ」

『建前だろ。無防備な女子とか大好物のはずだし』

 最後のは鉄兜から発された言葉だ。

「くっ……レジェネンコフ……!」

 リィンはぐぐっと拳を握りしめる。

「もうリィンがいらなくなっちゃうかも。そうなったらどうする?」

 フィーが冗談めかして言った。

「そ、そんな……」

『おいおい、フィー。そんなこと言ったら可哀そうだろ。なあ(リィン)?』

「ちょっとあなたたち、悪ノリもそのくらいにしなさいよ」

 やり取りを見ていたアリサが、フィーたちをたしなめた。

「まったくもう、物珍しいものが来るとすぐ遊びたがるんだから。リィンもこっちに来てイベントの準備を手伝ってちょうだい」

「ああ、すまない。やっぱりアリサはレジェネンコフに関わることはしないか。ははは、なんだか安心したよ」

「えっ?」

「え?」

 わずかな沈黙のあと、彼女は言った。

「私も朝方に話相手にはなってもらったけど」

「くうっ!」

「あ! リィン!」

 なんとも言えない敗北感に駆られて、リィンは寮を飛び出してしまった。レジェネンコフR式の頭部をその手に引っつかんで。

 玄関の扉が閉まると同時、ラウラが机をばんと叩いて立ち上がった。

「そなたたち! リィンの気持ちを考えていないのか! もう少し配慮というものがあるだろう!」

 憤るラウラに、仲間たちの目が向く。その瞳は誰しもが同じことを訴えていた。

 じゃあなんでレジェネンコフを持って帰ってきた、と。

 

 

《☆★――つづく日々に――★☆》

 

 

「リィンを見なかったか!?」

 ずいぶんと焦った様子で、ラウラが走ってきた。

 中央広場のベンチに座っていたカスパルは「さあ?」とかぶりを振る。

「リィンがどうかしたのか?」

「説明しづらいのだが……リィンが二人になったせいで、いささかの混乱が生じてしまった」

「二人?」

 また第三学生寮でトラブルが起きたのだろう。問題解決の為に動くイメージのあるⅦ組だが、実際のところ彼ら自身が火種になることも少なくない。

「時間を取らせた。先を急ぐので失礼する」

 踵を返して足早に去ろうとしたラウラは、しかし不意にピタリと歩を止める。再びカスパルに振り向くと、つかの間うつむいてから切り出した。

「一度、そなたにはちゃんと謝ろうと思っていたのだが……」

「へ? 謝る? 何を?」

「蒼耀剣のことだ。折ってしまった。折ったというか、砕けたという方が正しいが……」

 顛末はカスパルも聞いていた。煌魔城で《神速》のデュバリィと切り結び、相打ちと言う形でかの剣は崩壊したらしい。

「いや、いいよ。剣を選んだだけで作ったわけじゃないし。それに勝負は互角で、結果も引き分けだったんだろ。俺に謝ることなんて一つもないって」

「引き分け、か。実力は私の方が下回っていた。それでも互角に持ち込めたのは、そなたが選んでくれた蒼耀剣のおかげだ」

「そう言ってもらえると、まあ、嬉しいけど」

「以降に新しい剣に変えたが、あれほどにしっくりくるものは未だに見つからない。そなたさえ良ければ、また剣の選定に付き合って欲しい」

「もちろん」

「恩に着る。では」

 ラウラは小走りで駆けて行った。

 昼下がりの広場に静けさが戻る。遠くに子供たちの声が聞こえた。そろそろ遊びに来るのかもしれない。時間潰しに休んでいただけだし、場所を空けてやった方がいいだろうか。

 なんとはなしにカスパルは空を見上げる。上に生い茂る木の枝葉の隙間から、温かい木漏れ日が差していた。もう春だ。

 あと少しでクレインは卒業してしまう。

 トリスタが占拠された日。クレインと一緒に逃げていて、先に行けと彼が自分を逃がしてくれて、そしてどうにかレグラムにたどり着いた。

 あの日に見た先輩の背中は、きっと一生忘れられない。

 胸に残っていたのは安堵よりも無力感。だから物の良し悪しを見極められる目利きの才が自分にあるとわかり、皆の役に立てるとなった時は嬉しかった。

 俺もいつか、あんな大きな背中を見せられる男になれるだろうか。いや、ならないと。

 先輩が卒業するということは、後輩が入学してくるということ。次は俺が守る番だ。自分がしてもらったことを、下へと繋いでいけるように。

「よっと」

「きゃ!?」

 勢いよく首を戻すと、目の前にコレットの顔があった。

「うわっ! いつの間に!?」

「い、今よ。なんかラウラと話してるところが見えたから。ラウラにも破廉恥なことしようってつもりなら、ただじゃおかないから。ひき肉ミンチにしてやるんだから」

 そう言って、コレットはメリケンサックを右手に装着した。ぎらりと硬質な金属が黒光りする。

「しないし、ラウラ“にも”ってなんだ! リィンを探してて見てないかって聞かれただけだっての」

「リィン君を? ふーん」

 コレットは納得したようにうなずく。

「じゃあカスパルは何してたのよ」

「別に。座ってただけ」

「ヒマなの?」

「悪いかよ」

 どうせ新学期が始まったら死ぬほど忙しい学院生活が再開されるのだ。ゆっくり休めるのは今だけだ。

 否応なくコレットのメリケンサックに目が行き、冷たい汗が背ににじむ。

 カレイジャスに搭乗する際に、バリアハートの職人通りで世話になっていた人たちから餞別にもらったものだそうだ。

 餞別にメリケンサックってどんな感性だよ。あれで何回か殴られたりはしたが、冗談では済まされないダメージを負った。攻撃に特化した形状である分、かつて殴打に使用されていた“異様に硬い石”よりもはるかに痛かった。

 ふと思う。

 コレットはトリスタを出てからどう過ごしていたのだろう。カレイジャスではとなり同士で武器屋とアクセサリーショップを出店していたのだが、何かと警戒されていてそんな会話をするタイミングもなかった。

 だからカスパルは聞いてみた。

「合流前ってさ、コレットはバリアハートでどんな生活してたんだ」

「なによ、急に?」

「ただの世間話」

「……まあ、いいけど」

 職人通りで転がり込んだ先はちょっとした宿酒場で、その手伝いをこなしている内にご近所の人とも仲良くなって、他の店の商品にも詳しくなって、接客の仕方も上達して、その内に貴族街でハウスキーパーをやっていたブリジットと偶然出会って――彼女が語ってくれたのはそんな話だった。

「看板娘だったんだからね、私。わかってる?」

「わかってるよ……なんでそんなに俺には攻撃的なんだ……」

「楽しかったし、卒業したら販売員とかもいいな。いつか自分のアクセサリーショップとか持っちゃったりして」

「卒業したら……」

 自分にとってはまだ一年後の話。だがあっという間だ。俺もカレイジャスでの経験を活かした将来っていうのを考えてみてもいいかもしれない。

 ただその前に、やっておかねばならないことがある。ちょうどいい機会だ。

 カスパルは至極真面目な表情で、ベンチから立ち上がった。

「コレット。聞いてくれ」

「な、なに?」

 彼女が自分に対してとる攻撃的な態度は、全て勘違いに起因している。“ハッスルしたカサギン”などと思われている。その誤解はやはり解いておきたい。

「いいか、俺は――」

「んふふ、いい雰囲気」

 そこにあの企みの笑みが聞こえた。

「げっ、ヴィヴィ!?」

「来ちゃった、ダーリン」

 わざとらしいウィンクをして、双子姉妹の妹が現れた。またなのか。こちらがコレットの誤解を解こうとするたびに、彼女は狙ったかのように登場する。元を正せば“ハッスルしたカサギン”などという不名誉な二つ名を拡げたのも、誰あろうヴィヴィなのだ。

「ねーねー、ダラダラの話? ドロドロの話? 教えて?」

「その二択しかないのかよっ。なんていうか先の話をしようとしてたところで」

「先? ああ、子供は何人欲しいかとか、そういう?」

「なわけあるか!」

「わかってるって。カスパルは子供っていうか、子供を作る過程の方に興味ビンビンだもんね」

「ビンビンじゃなくて津々だろ! あ、いや、津々でもないけど! コレット、待て、違う!」

 コレットは無表情でメリケンサックを再装着していた。あれは紛れもない殺意の目だ。女子学生が浮かべていい瞳の色じゃない。

 カスパルは必死で話題を変えようとする。

「ほ、ほら。ヴィヴィは卒業後の進路とか考えてるのかなって」

「ずいぶんと気の早い話ねえ。でも、うーん。記者とかいいかも。ゴシップ好きだし」

「なるほど……」

 ピッタリだと思う反面、スクープを狙われた側が不憫になる。

「あ、ダーリンったら失礼なこと考えてる。気を付けてね、ゴシップってなかったら作るものでもあるから」

「ねえ、ヴィヴィ。前から訊きたかったんだけど、どうしてカスパルのことダーリンって――きゃっ」

 ヴィヴィはコレットを引き寄せた。二人で密着して並び、カスパルの前に出る。

「選定の目が良いんでしょ? じゃあ選んでみよっか。私とコレット、どっちがいいのか」

「は、はあ!?」

「ほらほら、じーっくりと見てえ」

 やたらと胸の谷間を強調してくるヴィヴィ。逸らした目線の先にはコレットの胸がある。

「あら。小さい方がお好み? 男の道は千差万別ということね」

「さ、ささ、最っ低っ!!」

 風を切る強烈な右フックが、カスパルの頬にめり込んだ。凄まじい一撃に、視界の天地が逆転する。メリケンサックの痛ましい痕をくっきりと残しながら、顔面から地面に叩きつけられた。

「んっふふ。どこかの朴念仁じゃないんだから、そういうのは即決しないと。桃色の罠にはご注意だぞ、ダーリン?」

 遠のく意識の淵に小悪魔のささやきが聞こえた。

「クラス替えはないし、二年もこのメンバーで宜しくね。楽しい新学期が始まりそう」

「え、クラス替えないんだ? そうなんだ……」

「それ残念なリアクション? 嬉しいリアクション?」

「ざ、残念な方に決まってるでしょ! あれだよ! 仲のいい友達といっしょのクラスになれないのが残念なの!」

「そういうことにしてあげる」

 楽しそうに笑うヴィヴィの声。はあはあと荒いコレットの息遣い。口中に染みる地と血の味。

 いつも通りだ。いつも通り殴られて俺が終了する。

 俺がクレイン先輩みたいな立派な二年生になれるまでには、まだ少し時間がかかるらしい。

 

 ――《カサギン男道》×《看板娘の奮闘日記》×《ピンキートラップ》 FIN――

 

 ●

 

「あれ、ラウラだ。あんなに急いでどこに行くのかな?」

 トリスタの町中を駆けるラウラを、モニカは偶然見かけた。となりのポーラも首をひねっている。声をかけるにはまだ遠い距離だ。

 近くの中央広場のベンチにはヴィヴィがいて、コレットがい次期て、カスパルがいて――そのカスパルがたった今、コレットに殴り倒されたところだった。

「あー、またコレットがやっちゃった。なんかカスパル君とは折り合いが悪いみたいでね」

「え? ただのコミュニケーションでしょ。もしくは(しつけ)か」

「歪んでるよ、ポーラ……。部活に後輩も入ってくるんだし、ちゃんとしないと。次期部長さんでしょ」

「ユーシスに押し付けられる形でね。大丈夫よ。後輩にはちゃんと躾するから」

「せめて指導って言ったら?」

「教育的指導、的な?」

「やめて、なんか体罰感が滲み出てるから」

 教育も指導もれっきとしたプラスイメージの言葉なのに、その二つをくっつけるとバイオレンスな臭いが漂うのはなぜだろう。頭の端でそんなことを考えながら、モニカは嘆息をついた。

「あ、そうそう。今度ブリジットとアラン君でヘイムダルにお買い物に行くんだって」

「デート? いいじゃない。まあ、ようやくかって感じだけど」

「見てる分にはやきもきしてたからね。初々しい感じが私は好きだったけど。あーあ、デートか。やっぱりうらやましいかな……」

「こっそり尾行する?」

「ダメ、絶対」

「冗談よ。というかそんなにうらやましいなら、さっさと相手を見つけなさいよ」

「できたら苦労しないってば」

「相変わらず都合のいい王子様待ち? そんな王子様は存在しないし、仮にいたとしても私が抹消する」

「いや、いたんなら残しといてよ……。そういうポーラは心構えはできてるの? もうすぐだよ」

 二人はトリスタ町内と学院をつなぐ、アノール川にかかる橋に向かっていた。

「任せて。ん……ほら、やっぱりいた」

 橋の欄干の前にケネスが立っている。いつものように彼は釣り糸を水面に垂らしていた。足元のバケツから水しぶきが上がっている。それなりに釣れているらしい。

 急にポーラの歩調が遅くなる。

「え、と。なんて声かければいいんだったっけ」

「だから『こんにちは。いいお天気ね。釣れてる?』とかでいいって」

「わ、わかった。『こんにちは。いいお天気ね。吊るし上げてやる』……よし、行くわ!」

「最後がおかしいでしょ!? なんでよしって思えたの!?」

「え、そ、そうかしら」

「そういうの出したらダメ! 自然に、優しく距離を詰めるの! 私が離れたところからカンペ出すから!」

 ここに来たのはケネスにアプローチを仕掛けるためである。ポーラ一人だと上手くいかないという理由でモニカが同行していた。

「ふう……踏まない、打たない、吊るさない……よし!」

「そんな自分への言い聞かせってある?」

 呼吸を整えたポーラが足を踏み出した時、ケネスの傍らにもう一人の人影が見えた。

「さすがケネスさん! たくさん釣れてますわね!」

 両手を叩き、彼の釣果を褒めるのはアナベルだった。

「アナベルさんも来てたんだ。ユミルで会った以来だよね。今行くのってどうなのかな、ねえ、ポーラ?」

「あの豚ァ……」

 ギリッと奥歯を軋る。

「女性にそんなこと言ったらだめ……あ、今のケネス君にか。……それがわかっちゃった私もどうなんだろ……」

「はあ……もういいわ。お腹空いたし、ランチでも食べて帰りましょ」

 ポーラはあっさりと来た道を引き返した。

「ねえ、いいの? 少し待ったら一人になるタイミングくらい――」

「いいのよ。なんていうのかな。自分から行くって、やっぱり私らしくない気がする。お姉様に言われたことを思い出したわ」

「お姉様ってウィルジニーさん?」

 ポーラはウィルジニーに心酔している。先日の機甲師団同士の演習の際も、彼女と親しげに話をしていた。奴隷とか家畜とか、そんな話題ばかりを。

「“鎖は身ではなく心に縛るもの。そうすれば逃げたペットは、自分からあなたの元へと戻ってくる”って。飼いならすとはそういうことだって」

「うん、私、もうツッコまないよ?」

「アナベルさんやフィーちゃんがどれだけ立ちはだかろうと、私は私のスタンスを変えたりはしない。私が求めるんじゃなくて、彼が私を求めなければ意味がない。足元にすがるペットの懇願の瞳を見下ろすその瞬間が、何より私を熱くさせるのよ」

「良いセリフなのかどうかさえわからなくなってきた……多分良いセリフじゃないんだろうけど……あと少なくともフィーちゃんは立ちはだかってるつもりはないと思う」

 吹っ切れたらしいポーラの表情は晴れやかだ。彼女はモニカのほっぺを引っ張る。

「ひ、ひたい! 私までいじめないで!」

「あなたも人の応援ばっかりしてないで、自分のことをがんばったら?」

「離してよー!」

 モニカはその手を振り払う。

「私はサポート役が性に合ってるし、ラウラのこともブリジットのこともポーラのことも後押ししたい。ちゃんと自分のことも考えるけど、周りが幸せでいることが私の幸せだから」

「ふーん、モニカらしいわ。そういうところ好きよ」

「好きだから、いじめたくなっちゃう?」

「わかってるじゃない」

 ポーラはにこりと頬を緩めた。

「ウィルジニーお姉様のような女帝になるために、私はまず女王にならないと。まだまだ先は長いわ」

「えぇ……むしろまだなってないんだ……」

「当たり前よ。私はようやく登り始めたばかりなんだから。この果てしなく遠い女王への階段をね!」

「な、なんでかな。その物語が途中で終わりそうなのは……」

 

 ――《女王への階段》×《エールオブモニカ》 FIN――

 

 ●

 

 僕はいつもひどい目に遭ってきた。

 全てを思い返すことができないくらい、たくさんのひどい目だ。思い返せないどころか、記憶自体が飛んでいることも度々ある。

 だけどそのひどい目に遭わされたあと、満ち足りた心地になっている自分も確かに存在していた。

 それが普通の感情じゃない事はわかっているつもりだ。だから僕は普通に戻らないといけない。以前の、当たり前の、ケネス・レイクロードに――

「ケネスさん、引いていますわよ!」

 アナベルから急かされて、うつろだった視界が開けた。手に持つグリップに力がかかり、ロッドがしなり、ピンと糸が張る。

 この感覚を忘れるな。これが本来の僕のはずだ。数多ある魚たちとの全生命をかけた勝負。その中での極限の駆け引きこそが、いつだって自分を高揚させてくれるものじゃないか。

 

 ――ねえ、ケネス

 

「お呼びでしょうか!」

「え? あの、魚が……」

 条件反射で背筋を伸ばし、主人に呼ばれた従者がごとく返事をする。アナベルが怪訝そうにこちらを見ていた。今のはフィーの声だった。脳裏によぎる幻聴だ。

 意図してなのかどうなのか、彼女は僕を虐げる。その度に自分の意志とは無関係に湧き上がる充足の感情。でも違うんだ。それは心の拠り所なんかじゃない。決して拠り所にしてはいけない。精神の支えなら他にあるだろう?

 毅然とした態度を見せるんだ。

 

 ――この豚ァ

 

「ありがとうございますっ!」

「そんなに感謝を!?」  

 ポーラの罵倒が響く。

 そんなふうに罵られて誰が喜ぶ。豚なんて言われたら、普通は嫌に決まってる。そう、それが普通なんだ。

 ムチを見たって胸は熱くならない。手錠に首輪? そんなの拘束具じゃないか。荒縄? こすれて痛いだけだろ。木馬? またがる部分が三角に尖っているのはおかしいことなんだ。

 

 ――実にいいね

 

「うあああっ!!」

「ケネスさんの情緒が! 情緒が!」

 あの男の声音が鼓膜にこびりついている。

 気持ちが萎えてしまいそうになる。毒蛇のような魔手が首元まで這い上がってくる。震える手の力が抜け、膝が砕けそうになる。これは呪いだ。

「そこまで取り乱すほどの大物がかかってるんですか!? 負けないで下さい!」

「ううっ!」

 アナベルの応援が、かろうじて正気を保たせた。

 負けないで。魚か? 違うだろう。僕自身にだ。

 自分との対話は続けてきた。もう答えは見えている。あとはそれを掴むだけ。

 思い出せ、普通に生きていた頃の感性を。取り戻せ、ゆがんでしまう前の僕を。振り払え、この魂に絡みつく紫の呪いを――!

「やあああ!!」

 水面に大きな魚影が映る。リールを巻き切り、全力で竿を立てる。競り勝ったのだ。

 派手な水しぶきと共に、巨大な魚が釣り上がる。いや、魚ではなかった。用務員だった。

「……え」

 思考停止。見開かれた視界の中で、水のつぶてを振りまくガイラーが鮮やかに宙を舞う。空中でコマのように高速回転し、着地した時には彼の服は完全に乾いていた。いつぞやの登場と同じだ。

 世界の理から外れた者。その一語が胸に浮かび、ケネスの身を恐怖が縛る。

「ふう、いい天気だ。季節としては早いと思ったが、水練に精を出していてね。まさか釣られてしまうとは思わなかったよ」

 真冬のユミル渓谷で何日も川に潜んでいた男が何か言っている。

 アナベルはポカンと口を開けたままだ。展開についていけていないらしい。

「な、何をしに来たんです」

 いつもならガイラーの登場で、とっくに臆しているはずだった。しかし勇気を振り絞る。

「何とは? 先刻言ったように、私は泳いでいた。そして岸に上がったところに君がいた。それだけのことだ。まずは女神がくれたこの偶然に感謝しよう」

 五指が蠢く。

「ぼ、僕は今日自分を取り戻すんだ。前に言われたあの言葉……僕をこれ以上深いところに落とすつもりなら諦めて下さい……!」

「それは思い違いだ。君はもう深淵の領域に足を踏み入れている。私の予言はすでに成っているのだよ」

 見透かしたようにガイラーは言う。

「日常に物足りなさを感じていないかね。どれだけ大きな魚を釣っても満たされていないのではないかね。その震えは怯えではなく期待だ。魂が歓喜し、渇きを潤そうとしているのだよ」

「ち、違う! 魚を釣ったら嬉しいよ! 逆にひどいことされて喜ぶわけがない!」

「そう、喜んではいない。君は悦んでいるのさ」

「あ、ああ……」

「鍵は開けておいた。あとは君がドアノブを回して、扉を開くだけだ。足を踏み出したまえ。難しいことではない」

「うう……」

 本物の悪魔だ、この男は。一語一語が魂の色を濁していく。

「君は過去に縛られている。必要なのは未来だ。その為に今を受け入れるのだよ。心を偽り、それを真実と言い張って生きていくことが、果たして君の本当の願いなのかね。断言しよう。目を逸らし続けた先で得られるものなど何一つとしてない」

「あああ!」

「大丈夫ですか!?」

 頭をかきむしるケネスに、アナベルが寄り添う。

「僕は自分を見失わないぞ……! 負けるもんか! アナベルさん、今すぐ僕の頬を叩いてくれ!」

「えっ、でも……」

「早く! 僕が僕でいられる内に!」

「よ、よくわかりませんが、わかりました。それがケネスさんの助けになるのなら……ごめんなさい!」

 アナベルがペシンと頬をぶつ。

「そんなんじゃダメだ! 僕の正気が保てない! もっと強く!」

「えい!」

「足りない!」

「ええいっ!」

「もっとだ!」

「おりゃあですわ!」

「いいっ!」

 ビシィッ、バシィッと往復ビンタが繰り返される。

「ありがとう、アナベルさん。これで耐えられる」

「はあ、はあ……こんなに人を叩いたの、生まれて初めて。な、なんだか新感覚……」

 ブルルッとアナベルは身震いした。

「抗ってみせましたよ。もう僕はあなたの言葉に惑わされたりしない!」

「実にいいね」

 正面にいたはずのガイラーが、ケネスの背後に密着して立っていた。

「どうやら君はさらなる深淵を目指せるようだ。存分に熟したまえ、その時まで」

「そ、その時?」

「君が釣り上げられる、その時だよ」

 耳元で毒々しく囁くと、紫色の用務員は消えた。

 がくりと両膝をつくケネス。

 僕が釣り上げられる? 

 僕は普通に戻ったんだ。普通の人だ。帰ってきたんだ。そんな日は今後訪れることはないんだ。

「ケネスさん……あ、あの……」

 息の荒いアナベルが己の手を眺めている。何かを確かめるようでもあった。

「あと一発だけ……叩いてみても……?」

「なにを言ってるんだ、アナベルさん……」

 遠慮がちにもじもじしながら言う彼女に、ケネスは肩をすくめた。

「承諾なんていらないさ」

 

 ――《爆釣哀悼紀行》 FIN――

 

 ●

 

 人里から離れ、もう誰も使うことのなくなった荒れ果てた古道に、おびただしい数の魔獣の唸り声が響いていた。

 土を踏み、枝を折り、大量の魔獣たちが群れをなして進む。その集団の先頭を歩くのはマキアス・レーグニッツだった。

「もう少しだ。お前たち、がんばるんだぞ」

 半分は疲労困憊の自分にも向けた言葉だったが、両脇を固める最古参の二匹――クロとルーダは『シャッ!』『キュッ!』と元気よく返してくれた。

 後ろの魔獣は全てクロたちの舎弟である。トリスタを出た自分を追う道中で倒した敵を、次々と従えていったらしい。魔獣の世界のルールというものなのだろう。敗者の命を無用に奪うよりは、よほど建設的に思えた。

 マキアスと合流してから、カレイジャスに乗艦したのはクロとルーダだけだ。それ以外の魔獣たちは、トリスタ奪還後にトールズ士官学院の旧校舎地下へとかくまっていた。

 しかし限界が近い。群れの規模が大きすぎる。このままでは地上に出てきかねない。

 頭目であるクロたちが指示しているから、ここにいる魔獣たちは人を襲わないが、それは中々わかってもらえないところだ。二匹をカレイジャスに乗せるのだけでも相当な労力と説得を要したのだ。学院に関わる人やトリスタ住民の理解を得るのは、やはり難しいだろう。

「はあー……トワ会長に見つかったのは痛手だったな……」

 生徒会業務の引継ぎを終えたトワは、学院内の最後の巡回をした。そして様子を確かめるくらいの軽い気持ちで、旧校舎の地下を訪れた。そこで彼女は、魔獣の大群に出くわした。

 さらにまずかったのは、魔獣たちが彼女を取り囲んでしまったことだった。襲うつもりではなく、じゃれついただけなのだが、触手系やスライム系にアレコレされたらしく、それはもうスゴいことになったそうだ。どれくらいスゴかったかというと、アレコレの部分を詳しく聞いたアンゼリカ先輩が、鼻血の軌跡を引きながらドラグナーハザードで天に駆け上ったほどだ。

『旧校舎の一層目で出会っていい魔獣の量と質じゃない』とはトワの談である。その後すぐに招集されたマキアスは『すぐに元の場所に返してきなさい』と厳しいお叱りを受けたのだった。抵抗はしてみたものの、アレコレな目に遭わされたトワは聞き入れてくれなかった。

「ようやく着いたな」

 開けた場所で足を止める。

 ここはユミル地方。アイゼンガルド連峰の一角で、さらに進み続ければやがてはノルド高原へと続く。

 彼らを放すのにどこが良いかと考えた時、なぜか自然とこの場所が頭に浮かんだのだ。

「さて、いよいよか……」

 足にルーダの触手が絡みついてきた。

「おいおい、散々話しただろう?」

『キュッ! キュウ!』

 やっぱりイヤ。そばにいさせて。離れ離れになるなんて考えらない。――そんな感じの鳴き声だ。

「ここに来て聞き分けのないことを言うんじゃない。僕を困らせないでくれ」

『キュウゥ……』

 私、二番でいい。あなたにとって都合のいい女で構わない。だから……お願いよ。――みたいな雰囲気である。

「クロ……お前からも言ってくれないか?」

『シャッシャー!』

 俺とお前だけが元居た場所に戻るのは可能だろうよ。けどそうしたら、舎弟共の統率が取れない。人里に入っちまう奴が一匹でも出れば、人間はすぐに討伐隊を組むだろう。頭を務める責任だ。最後まで率いてやろうぜ。――的なニュアンスで、クロはルーダの横に降り立つ。

『キュ! キュキューキュ!』

 あなたはいいわよね。シロちゃんがついてくるんだもの! 私は、私は……!

『シャーニャ……』

 ルーダ……落ち着けよ。

『キュウキュ……』

 ごめんなさい、気にしないで。面倒な女のヒステリーよ。あなたの言うことは正しい。マキアスを困らしちゃダメよね。

「ルーダ、クロ!」

 マキアスは二匹を抱きすくめた。

「僕だってお前たちと別れるのはつらいんだ! でもいつかはこういう日が来ることもわかっていた! 僕は四月からしばらく学院を離れるから、今までみたいに様子を見に行くこともできない。今がベストのタイミングなんだよ。すまない……すまない!」

 精一杯にマキアスは笑い、そして。

「聞いてくれ。勉強したんだ。……シャーッシャシャ! キュッキュー! シャキュシャキュ!!」

『シャ!?』

 嘘だろ!? マキアスが俺たちの言葉を!? 何言ってるかわからんけど!

『キュウ!』

 ありがとう、愛しい人。何言ってるかわかんないけど!

 でも心は伝わった。

 二匹はゆっくりとマキアスから離れる。

「元気でな。でも今生の別れってわけじゃない。会いに行くよ、コーヒーを持って」

 傷ついた二匹を手当てし、築かれた小さな絆。人と魔獣の物語。僕たちのストーリーはあの日から始まった。

 じんわりと視界がにじむ。メガネの度が合わなくなったのかな……。

「え、魔獣!?」

 少女の驚いた声がした。馬鹿な。こんなところに女の子がいるなんて。

「って、エリゼちゃん!?」

「マキアスさん!?」

 エリゼ・シュバルツァーが前方に立っていた。確かにユミルに近いが、なぜここに。

「マ、マキアスさん。後ろに魔獣が……!」

「だ、大丈夫だ。話すと長いんだが、心配はいらない!」

「そ、そうなんですか?」

 諸々の説明を省いた上で、魔獣をこの地に逃がしに来たなどと、さすがにエリゼの前では言えなかった。

「それよりもどうして一人でこんな場所にいるんだ?」

「なんといいますか、急に母様から行くように言われまして。約束の大地とか、黒の血統が近づいてきているとか、白の血筋ならば結界代わりになるとか、ちょっと私にはよくわからなかったんですが……とにかくここにいるだけでいいと。そうしたらマキアスさんが見えて……」

「約束? 黒……? じゃあルシアさんは?」

「反対側の峰で戦ってます。その……カールさんと」

「カールって父さんか!? はああ!?」

「あ、知事閣下にはカレル離宮でお世話になりまして、その時からカールさんとお呼びしているんですけど」

「い、いや、それはいい。何から何まで意味不明なんだが……」

「公務の合間を縫って、私に会いに来て下さったんです。煌魔城から帰ってからのことを心配して頂いていたみたいで。ただ玄関口で母様と出会った次の瞬間、一言の会話もなく戦闘が始まりまして」

「なんでだ!」

「因縁があるらしいとしか」

 ズドーン、ズドーンと遠くから砲声のような轟音が聞こえた。まさに今戦っているらしい。激しすぎるだろ。どんな戦いを繰り広げているんだ、父さん。

 事情を知らない子供同士が対面し、異様な雰囲気に固まる。

 しかし固まっているのは魔獣たちも同じだった。戦いの気配に慄いて、という感じではない。

 明らかにエリゼを見て警戒している。白の血筋? 彼女には何かがあるのだろうか。どこか胸の奥がざわつく。僕の知らない彼方の記憶が揺さぶられている。

「えっと、私たちはどうしましょう?」

「あ、ああ、そうだな……」

 クロとルーダは自分の後ろに隠れている。何より自分がこれ以上進めそうにない。

「帰るよ。トリスタに。魔獣たちのことは心配しなくていい。あと他言無用でお願いしたい」

「それは構いませんが……」

「助かる。では」

 マキアスは道を引き返した。そこにクロとルーダも付いて行く。

「お前たちの居場所くらい何とかしてみせるよ。とりあえずは旧校舎に戻ろう。三層ぐらいまで使えば、余裕はまだあるはずだ」

 心なしか嬉しそうにルーダは触手を蠢かし、クロはパタパタと羽ばたいた。

 彼らを見て、ふと決意が湧く。

 政治の道に進もうと決めたのは、目標があったからだ。

 自ら命を絶った従姉のような境遇は、もう二度と見たくない。

 この先、帝国に根付く貴族と平民との差に苦しむであろう友人を――コンプレックスに翻弄されながら生きてしまうであろう友人を助けたい。そんな目標だ。

 でももう一つ目標を持ってみようと思う。僕の友は彼だけじゃないのだから。

 区分けは必要だろう。共存はおそらく無理だ。それでも――

「魔獣と人が共栄できる世界……そんな夢物語を目指してみてもいいかもしれないな」

 

 ――《魔獣珍道中》 FIN――

 

 ●

 

 居たたまれなくなって飛び出してきてしまった。

 アノール川の縁で、リィンは一人腰を下ろしている。離れたところにある橋の上では、いつものようにケネスが釣りに興じていた。なぜか彼は一緒にいるアナベルに「ありがとうございます!」とお礼を言っていた。まあ釣り仲間である。感謝の一つもあるだろう。

「はあ~」

『おいおい、ため息はやめろよ。辛気臭くなる』

 自分の横に置いた鉄兜が言う。レジェネンコフR式だ。

「俺の勝手だろ。そもそもなんでお前はまだそんなふうにしゃべれるんだ?」

『メインジェネレーターはボディだが、サブ導力バッテリーは頭部にある。戦闘駆動するわけでもないし、会話程度の演算機能を使うだけならエネルギー切れは起こさねえよ』

 学習能力つきで自律思考のできるAIというのは、世界に変革を巻き起こせるほどの大発明ではないのだろうか。戦利品くらいの感覚で、普通にラウラは持って帰ってきたが。なんだか偉大なる歴史の針を、彼女の手であっさり止めてしまったような気がする。

『わかるよ。俺という高次元の存在に、自分の価値を奪われてしまいそうで怖かったんだよな。安心しな。まだ取って代わったりはしない』

「まだってどういう意味だ、まだって」

『細かいことは気にするなよ、親友(マイフレンズ)。しかしまあ、安心したよ。そうやってちょっといじけた感じになるってのがさ。年相応に自分の感情を出せてるってことだからな。お前は物わかり良く振る舞おうとする性質があるし。だろ、兄弟(ブラザー)?』

「ほとんど初対面のお前が、俺の何を知ってるんだ……」

『俺はお前だ。お前は俺だ』

「いや、お前はレジェネンコフだ。そういう哲学的な物じゃない」

 兄弟だったり、親友だったり、自身だったり、俺をどういう認識で見ているのか。

 ただ言っていることは的外れでもない。夢幻回廊や煌魔城で己と向き合って、俺は自分の価値を知った。心に卑屈さや引け目といったフィルターをかけずに、あるがままの自分の想いに触れられるようになった。

 結果、以前に比べて感じたことがストレートに態度に出やすくなったのだ。その自覚がある。それは決して悪いことではないのだろう。

「リィン、どこだー?」

 橋の上から自分を探すラウラの呼び声が聞こえた。死角になる場所にいるから、彼女にはこちらが見えていない。

「心配させてたかな。……もう戻るか」

「怒らないから出て来てくれ! お菓子も作ってきたのだ!」

「なんで俺が許しを乞う側なんだよ……」

 それに出たら、俺はそのお菓子を食べなくてはいけないのか。菓子を食べて仮死とは、笑えない冗談である。仮死で済めば幸いとも言えるが。

 今すぐに立ち上がるべきか逡巡していると、レジェネンコフに反応があった。

『哲学ね。人間の心や思考を扱う学問の一つだよな。俺はこの通り、物を考えて言葉を発する。だが人ではなく、人の生み出した機械。それは変えようのない事実だ。……なあ、(リィン)。機械と人間の違いって何かわかるか?』

「機械と人間の違い……」

 既視感のある問いだった。そういえばヴァリマールはクララにその問いかけをされていた。

 リィンが口を開く前に、レジェネンコフが言う。

『俺にはわからない。今あるデータをどれだけ総動員しても理解できない。……もしも機械にその答えが出せるやつがいたとしたら、きっとそいつはもう――』

 先の言葉を言い切らず、鉄兜は沈黙した。

 

 ●

 

「お、に、い、さ、ま!」

 上機嫌でアルフィン・ライゼ・アルノールは兄の私室を開いた。バルフレイム宮の皇族の居住フロアである。

「やあ、アルフィン。待っていたよ」

 部屋の中央のソファーに腰かけるオリヴァルトは、妹を対面するソファーに座らせた。二人の間にはテーブルがある。

「お待たせしましたか? お忙しいのにごめんなさい」

「なに。アルフィンこそ忙しくしているらしいじゃないか。つい最近、トリスタの関係者と面会をしたんだってね。市井(しせい)の方と宮殿で話す機会を設けるというのは、君にしては珍しい」

「お耳が早いこと。ええ、トールズの用務員さんと」

「用務員? はて」

「ふふ、個人的なことですので」

「では無粋な詮索は止めておこう。アルフィンも立派なレディだ」

 本題とばかりに、アルフィンは両手で抱える木箱をテーブルの上に置いた。

「遅くなってしまい、申し訳ありません。手続きや雑務処理が立て込んでおりまして、トワさんにも手伝ってもらったんですけど、こんなに時間がかかってしまいました」

「構わないさ。事務仕事だけではなかっただろう。……エリゼ君にはその後、会ったりは?」

「先日に帝都まで来てくれまして。セドリックといっしょに、三人で色々とお話ししました。元気そうでしたよ」

「それは何よりだ。気がかりも晴れたというところかな?」

「気がかりというなら、まだ一つありますけどね」

「ははは、怖いな。何のことかは察しが付くよ」

 にこやかに笑んで、アルフィンは木箱の蓋を開けた。

「お兄様ご自身で確認して頂ければ」

「そうさせてもらおう」

 木箱を引き寄せると、オリヴァルトは中身を取り出した。書類の束だった。

「どれどれ――日用雑貨に食料品で460万ミラ、医療用品が120万ミラ。ああ、なるほど弾薬補充もか。ま、想定通りではあるよ」

 《紅き翼》としての活動中、カレイジャス運用にあたり、発生した費用明細である。

 建造の時からそうではあるが、公的機関としての運用ではない為、それらの負担はオリヴァルトが受け持つことになっていた。

「結構な額ですけど、本当に宜しいのですか?」

「任せてくれたまえ。言った以上、当てはある。各所に頭を下げに行くことにはなるが、君たちの功績を考えたら安過ぎるくらいさ」

「さすがはお兄様! ではどうぞ!」

「え?」

 扉が開き、皇族付きの使用人たちが入ってきた。黒の礼服を着こなす彼らは、キビキビとした動作で追加の木箱を運んでくる。

 一つ、二つの積み重ねられていく木箱。それらが五段を越えたあたりで、オリヴァルトの両膝と指先がカタカタと震え出した。

「まあ、お兄様。冷えるのですか? お風邪ですか?」

「は、はは、寒気はするかな。え、待って。ちょっと待って。うそ、これ全部、請求書?」

 声さえ震え出すオリヴァルトは、計十段に達した木箱を見上げた。

「えっと、とりあえず目を通そうかな。なになに、“アルバレア城館における請求科目”……調度品十一点、クロス全面張り替え費、城館壁面の損壊補修費などなど……合計4800万ミラ」

「ラウラさんが大立ち回りした時ですわね。壺とか絵画とかズッパズパに。あと壁はヴァリマールが切り飛ばした敵機がめり込みまして。噴水も踏み潰したそうです。さながら紙細工のミニチュアのようだったとか」

「……“ラインフォルト社の原状回復における請求科目”……カーペット全面張り替え、デスク、ドア、雑品その他、壁面補修……合計1900万ミラ」

「ハイデル・ログナー拿捕作戦の時ですわ。会長室で派手に戦闘しまして、敵の機械人形をアガートラムのビームで壁面ごと消し飛ばしまして」

「“ザクセン鉄鉱山、ルーレ市間をつなぐ鉄道レールの修復費用”……2200万ミラ」

「イリーナ会長救出のために、ヴァリマールが正面から列車を止めてみせたんです。あの雄姿はぜひお兄様にも見て頂きたかった。1000アージュくらいに渡って火花を散らしてレールをがりがり削りながら、最終的には列車を持ち上げて脱線させたんですよ」

「……“カレル離宮、原状回復における請求科目”……カーペット全面張り替え、廊下に擦過傷無数、弾痕補修、シャンデリア四つ、調度品十五点、窓ガラス二十二枚全損……3700万ミラ」

「セドリックとエリゼを救出しにいきました。でもリィンさんが撃たれて、わたくし、心配で心配でいても立ってもいられず……でもご無事で本当によかったです」

「“マーテル公園及びクリスタルガーデン修復費用”……9800万ミラ」

「レイゼルとイスラ=ザミエルの一騎討ちですわ。地上の最終決戦と言えるでしょう。レイゼルがクリスタルガーデンに叩きつけられた時は絶望しかありませんでしたね。ですがすぐに立ち上がって、トヴァルさんは『ここの補修費はオリヴァルト殿下が受け持つんだぞ!』と魔煌兵に啖呵をきっておられました。お見事です」

「……弾薬3600発が一日で消えているのだが、これは?」

「それはパンタグリュエル制圧戦で、敵艦に乗り付ける際の威嚇発砲ですわ」

「激しい戦いだったのは承知しているが、威嚇にしては3600発ってほぼ全弾では……」

「ちょっとわたくしの操作ミスで。帝都の空が灼熱の炎に覆われましたわ。まあ、弾薬は補充しなければ請求はかかりませんでしょう?」

 アルフィンはてへっとはにかんで、ぺろっと舌を出して、こつっと自分の頭を叩く。

「あと雑品の請求のところどころにメガネって科目があるんだけど、多過ぎない? そんなにメガネの需要ある?」

「目の悪い方がいらしたのでしょうか」

「………」

 他にも“ロギンス、アランが欠損させた《ソルシエラ》の食器類補充費用”、“マルガリータ女子による器物損壊”などなど、学院生たちの行動による請求も上がってきていた。

「総額は、しめて“2億7300万ミラ”……」

「まあ」

 ピーピーとアルフィンの腕時計からアラームが鳴った。

「あ、失礼。ちょっと席を外しますね。スカーレットさんのお見舞いに行ってきます。病棟の面会時間が限られていますもので」

「……もしかしてもう一つの気がかりってそっち?」

「他に何か?」

 天使のような微笑と悪魔のような請求書の束を残して、アルフィンは足早に出て行った。

 しばし呆然自失として立ち尽くすオリヴァルトは、おもむろに通信機を取り出した。

「――ああ、僕だよ。今、エレボニアに来てるんだろう。ちょっと頼みがあるんだけど、聞いてくれるかい? え、イヤとかはなしで! どうしても起死回生の策がいるんだ。お願いだよ! お願いします!」

 

 

 ――つづく――




《つづく日々に》をお付き合い頂きありがとうございます。

カレイジャス合流後はサブキャラ毎の話を展開していても、本編途中で差しはさむ形式にしたりとかで、ナンバリングしていないサイドストーリーも結構あったりします。
《エールオブモニカ》なんかは久しぶりですが、ちゃんとラウラやブリジットを応援したりと、彼女のテーマに沿った行動はしていました。

一言で心情までを表現するセリフって難しいものですね。個人的にジブリ作品は本当にすごいと思います。

『会いに行くよ、ヤックルに乗って』

情感の漂うアシタカの素晴らしいセリフにインスパイアを受けたのが、

『会いに行くよ、コーヒーを持って』

マキアスのこのセリフでした。謝ればいいんですか?


では次回は多くの人の結末にかかる《想い巡る緋の帝都》。引き続きお付き合い頂ければ何よりです!

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