虹の軌跡Ⅱ Prism of 《ARCUS》   作:テッチー

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第129話 ハートのかたち

 卒業式まであと一週間を切った。

 もう授業はない。最後の学生生活に悔いの無いよう、残された時間は全て自由行動日となっている。

「よいしょっと。これはこっちがいいかなあ……」

 その自由行動日の午前である。トワ・ハーシェルは生徒会室にいた。

 書類の束をまとめてファイリングしたり、自分のデスクの中身を整理したりと、大量の片付けに追われている。

「そろそろ終わりそうかい?」

 アンゼリカが伸びをしながら聞いてきた。片付けの邪魔にならないようにか、部屋の隅っこの椅子に座っている。

 ちょっとくらい手を貸してくれてもいいのに。そんな願望を視線に乗せつつ、「もう少しかかるかな」とトワが首を横に振ると、「手伝って欲しそうな顔だ」とアンゼリカは肩をすくめた。

「でも私は手伝わない方がいいんだろう?」

「うんまあ、そうなんだけど……」

「ジレンマだよ。助けてあげたい気持ちはあるのにね」

「むむー」

 何をどこに直したかは、新規の生徒会メンバーに直接引き継がなければならない。中には重要な案件を扱った資料もあって、自分の目と手で整理整頓をする必要があった。

 アンゼリカにファイリングを任せてもいい書類もあるにはあるが――いや、やはりやめておこう。彼女の書類の扱いは、わかればいいだろう程度には大雑把だ。カレイジャスで副艦長になってもらった後も、私が事務処理系の仕事を手放さなかったのはそういう理由もある。

「じゃあアンちゃんはそこで何してるの?」

「トワのがんばる姿を見ているのさ。当たり前じゃないか」

「当然のように言われても……」

「二人だけの空間で吸う空気のなんと甘いことか。呼吸をするたびに肺にキャンディを詰め込まれたかのような素敵な夢心地になる」

「わからない。わからないよ」

「ではただちにわからせてあげよう」

 両手をわきゃわきゃさせながらにじり寄るアンゼリカの背後で、ほわほわと百合の花が咲いた気がした。トワは後じさり、しかしすぐに壁際まで追い詰められる。

「ア、アンちゃん。私、片付けがあるから……ねっ?」

「私もこの湧き上がる衝動、もとい情動を片付けなくてはならない。もう写真では我慢できない」

「写真? あっ、この前の!」

 第三機甲師団と第四機甲師団の臨時演習の最中、トワはウィルジニーにチアガールの格好をさせられた。そしてその姿をアンゼリカにバシャバシャとカメラで撮られていたのだ。超ローアングルで。

「処分して! ダメだよ! 誰にも見られたくないよ!」

「現像は自分でやったし、データも私が管理している。私以外、誰も見ない。楽しまない。問題は一つもない」

「問題しかないよ! どうしてアンちゃんが見るのは良いって思うの!?」

「親友じゃないか」

「親友ってそういうものだったっけ……」

 親友の定義がわからなくなった。

 アンゼリカが飛びかかろうとした寸前、生徒会室のドアが開いた。やってきたのはジョルジュだ。

「や。お邪魔するよ――って何やってるんだ?」

「ジョルジュくん! 良かった~」

「それは何の安堵なんだい?」

 ジョルジュの登場に関係なく、アンゼリカは飛びついてきた。抵抗むなしく、鮮やかな手つきで胸のボタンやスカートのホックが外されていく。さながらクモに捕食される獲物だ。

「ひゃああん! 助けてえー!」

「よいではないか、よいではないか!」

「はあ、またいつものか……」

 ジョルジュはため息をつきながら、鼻息の荒いアンゼリカを引きはがした。ペタンとした女の子座りで、トワはすんすんと泣く。

「そろそろ昼ご飯行かないか? その誘いに来たんだけど」

「ああ、いいね。ほどよい空腹だ。トワも行くだろう?」

「なんで今のひどいやり取りがなかったことみたいに話が進んじゃうのかな……行くけど」

 乱れた衣類を直しながら立ち上がる。

 窓の外から学生たちの声が聞こえてきた。雑談しながらの散歩だろうか。ギムナジウムや図書館を利用する人も多いらしい。

 ふと自分のデスクに視線を転じる。一年間、生徒会長として座り続けた机。その引き出しの中にはもう何も入っていない。わけもなく寂しくなる。

 当たり前に過ごしていた二年間の日々は、その間でしか経験できない特別なものだったと、今さらに思う。その実感がようやく胸に去来した。

「一週間後には私たちはここにいない。でもね。私たちがいた事実まで消えるわけではないんだ。功績も残るし、痕跡も残る。思い出だってそうさ」

 アンゼリカにはとことん考えを読まれてしまう。そしていつもフォローの一言をくれる。最終決戦の時もそう。どれだけ彼女に助けられてきたことか。

「あと一週間か。あっという間だ」

 感慨深そうにジョルジュが言った。

 会話が束の間途切れる。

 そしてその話をトワから切り出した。

「クロウ君。卒業式に来るかな?」

「それは……どうだろう。今頃、どこで何をしているやら」

「まあ、ひねくれ者だからね。来いと言えば来ないし、来るなと言えば来るかもしれない」

「あはは」

 トワは冗談めかした苦笑を返す。

 彼が卒業式に来れないことはわかっていた。

 カイエン公と同様に、クロウは内戦を引き起こした重罪人。少なくともエレボニア政府はそう位置付けている。

 リィンがクロウに『卒業式に来い』と告げた煌魔城でのやり取りは、知られるところには知られている。

 行方知れずの彼を捕らえるために、卒業式当日はトリスタに正規軍が多数配備されることが決まっていた。もっとも名目は、内戦終結に貢献したトールズの卒業生を軍を上げて祝うため。そして何事もなく式を終えられるよう警護のためだ。

 無論、本当にクロウが現れるとは軍も思っていないだろう。それでも情報がある以上、そして彼と言う存在の重要度を鑑みて無視はできないわけだ。

 だからその日、トリスタはネズミの出入りもできないほどの厳戒態勢が敷かれる。その中にクロウが来ることは、いかなる手段を使っても不可能だ。

 本心を言えば、私たちは彼と同じ日、同じ場所で卒業したい。けどそれは――きっと叶わない。

 今望むのは、その包囲網に彼が飛び込んでこないこと。

「行こっか、お昼ご飯」

 沈んだ声を出さないようにして、トワは生徒会室を後にする。何も言わず二人も続いた。

 道すがら話題を変える。

「ああ、そういえばね。リィン君たち、サラ教官にサプライズを用意してるんだってさ――」

 

 

《♥ハートのかたち♥》

 

 

「ねえ。ハートのうわさ話って知ってる?」

「ハート……? いや、聞いたことないけど」

 ベリルから唐突にそんな話題を振られ、レックスは首をひねった。実際、まったく知らない話だった。

「この学院のどこかにね。ハートマークが描かれた場所があるそうよ。そのハートマークの前でキスをしたカップルには、永遠の愛が約束されるらしいわ」

「へ、へえ……」

 適当な相づちを打つ。ベリルは話を続けてきた。

「しかも想いの成就の証明として、ハートマークに重なるようにして薔薇の絵が浮かび上がるんですって」

「またずいぶんロマンティックっていうか」

「ロマンティックだと思うのね?」

「そりゃまあ……」

「ふーん、興味ある?」

「べ、別に?」

 と言ってしまう。本当は興味がある。ありありである。だがそれを面と向かってベリルに告げるのは、とにもかくにも恥ずかしかった。

「でも変なの。とてもおかしいの」

「何が? うわさ話なんて、大体が根拠のない変なもんだろ」

「そういうことじゃないわ。変なのは、私がそのうわさを知らないことよ」

「ああ、そっち系はベリルが詳しいもんな」

 彼女はオカルト研究会だ。学院内の謎は全て把握している――と思われる。内戦が始まってからはベリルも各地を回っていたそうだが、怪しげな遺跡やパワースポット的な場所を目的に動いていたらしい。

「たとえばこのベンチ。男女で座ると関係に進展があるのだそうよ」

「うぇっ!?」

 校舎裏の中庭のベンチである。そういえばアランとブリジットがよく並んで腰かけていた。その二人は今や相思相愛の恋人同士だ。

「その手のうわさってね、大抵は小さな望みから始まるの。片思いの子が想い願う、そうだったらいいなって願掛けよ。それがまことしやかに囁かれて広がって、学院七不思議みたいになっていくわけね」

「ははあ、そんなもんなのか……」

「ええ。けどハートマークのうわさは聞いたことがないし、どこにその模様があるのかも知らない。最近になって出た話かもしれないけど、なんだか急すぎる。一体誰からそのうわさが流れたのかしら」

「気になるのか?」

「オカルト研究会としてはね」

「俺はあれだと思うけどな」

 道の向こうから地響きが近づいてくる。レックスたちの目の前をヴィンセントが走り抜けていき、その後ろから膨大な砂嵐が彼を追う。砂塵の中に見えるのは丸い物体――マルガリータだ。

「ひいいいい!!」

「お待ちになってええん!! 二人で愛のハートマークを探しましょうよおお!!」

 二人はあっという間に反対側へと消えてしまった。

「な? 薔薇の花が咲くとかも言ってたし、あいつだろ。そのうわさの発信源」

「マルガリータさんはハートマークを探してる感じだった。真には受けてるようだけど本人ではなさそうよ。なんにせよ、上手くいくと良いわね」

「上手く……いくかあ?」

「いくかもしれないし、いかないかもしれない。未来は不確定だもの。これから取るであろうマルガリータさんの選択次第で、いくつかの未来の中からどれかが手に入るんでしょう」

「わかるような、わからないような……」

「そ。結局のところ先のことはわからないの。かつて私はリィン君に予言をしたわ。“あなた達の誰かが命を落とす”と」

 レックスは初めて聞いた話だった。冗談にしても笑えないというか。ベリルはなんでそんなことを言ったんだ。

「冗談でも仄めかしたわけでもなく、あの時私は本気でそう告げた。そうなる強い予感があったから。だけど最終決戦を終えて、誰も命を落とさなかった。死ななかった」

「………」

「胸を撃たれたリィン君は一命を取り留めた。煌魔城の対決で一番危うかったアリサさんも生き永らえた。他のⅦ組にも可能性はあったと思うけれど、全員が切り抜けた。クロウ先輩も含めてね。どこかで誰かが、未来を書き換えるレバーを引いたのよ」

「い、いや……誰かって誰?」

「さあ。因果の糸は一本じゃないから。それに選ばれなかった方の未来はどうせ観測できないわ。この道のりで良かったのか悪かったのかを比較することさえ不可能。考えるだけ無意味よ。ただ……私の予言が外れて良かったとは思う」

「んー? んん? うーん?」

「可能性の分だけ世界は存在し得る。もしかしたら私とレックスがこんなふうに話す関係にならない世界だってあったのかもしれない」

「ベリルの言うことは時々ホントにわかんねえ……」

「ごめんなさい。要するに未来は何も定まってなくて、自分たち次第で変わるということよ。これなら理解しやすい?」

「ん……まあ」

 だいぶ簡略化してかみ砕いて説明してくれたのだろう。正直、まだ意味不明な部分も多いが、彼女が言わんとすることの輪郭ぐらいは掴めた気がする。

「じゃあさ。俺も一つ、未来を決めようと思うんだけど。二人の未来ってやつを」

「え?」

 レックスは鞄から一枚の用紙を取り出すと、それをベリルとの間で拡げて見せた。

「う、うそ。レックス、これって」

「俺の名前はもう書いたから。その下にベリルのサインをくれるだけでいい。えっと、嫌ならいいんだけどさ」

「嫌なわけない。嬉しい。嬉しいわ。でも認めてくれたの? すごく反対されてたのに」

「ああ、話はつけてきたぜ」

「素敵よ……」

 ベリルはすぐに署名した。

「これで、これでレックスと一緒に……!」

「ああ、俺たちはこれから」

 二人で用紙をかかげ、声をそろえた。

『心霊写真部!』

 オカルト研究会と写真部の統合クラブである。『そんなの怖いよ!』とトワからは設立の猛反対を受けていたが、『学院に一人でいることはなくなるし、だったら怖くないからいいかも』と彼女の卒業と同時という条件で認可されたのだ。

「ふふふ、未練を残してこの世を去った亡者の影を写真に収めることができるなんて……考えただけでも心が躍るわ」

「俺はその感覚はあんまわかんないけど……ベリルを撮れるんならなんでもいいよ」

「あっ。やっ。そんなこと……言わないで」

 赤面してベリルはうつむいた。

 レックスは首から下げたカメラのレンズをのぞき込む。口元の緩んだ自分の顔が反射している。遠回りしたけど、最後に俺がファインダーに映したかったのは、きっと――

「……このベンチに座ったら関係が進展するってうわさ、本当なんだな」

「そうかもね。ところで――」

 おもむろに立ち上がると、ベリルは太陽を背にする。いつものミステリアスなそれではなく、年相応のいたずらっぽい笑みを浮かべた。

「そのうわさ、誰が流したと思う?」

 

 ――《黒色ミステリーツアー》×《真実のファインダー》 FIN――

 

 

 ♡

 

「へえ、ドロテさんは帝國博物館に就職が決まったのか」

「そうなんですよ。来月からは学芸員としてがんばります」

 ドロテは読んでいた小説を閉じた。毒々しい紫色の表紙の本だ。著者は筆書きで『G』とだけ明記されている。

 この落ち着いた空気の図書館において、明らかに浮いた発色の装丁の本。おそらくは学院で管理している書籍ではなく、彼女が持ち込んだものだろうとフィデリオは察した。

「文芸部から学芸員という流れも悪くないでしょう。あとのことはエマさんに任せていますので。お互い、後輩のいる身で良かったですね」

「……その、なんだ。写真部はなくなるんだけどさ」

「ついにレックスさんの不祥事で……お気の毒としか言いようがありません」

「違う! まあ確かにレックス絡みではあるけど」

「と、言いますと?」

「オカ研と統合するんだよ。心霊写真部になるそうだ」

「それはまた難儀な。フィデリオさんはそれでいいので?」

「いいも何も次期部長はレックスだからね。僕ももう彼に後事を任せてる。口出しはしない」

「あとは若い二人でご自由にということですか。どうでもいいことですが、後事を逆にして事後ってしたら、なんだかいやらしく感じませんか」

「本当にどうでもいいな!」

 フィデリオの大声に受付の女性がにらんでくる。

「だめですよ。図書館では静かにしないと。司書のキャロルさんって怒らせたら怖いんですから」

「くっ、半分は君のせいだろう」

「でしたらもう半分の責任に目を向けて反省すべきです」

「ああ言えばこう言うのも相変わらずか。慣れたけどね、その性格にも。ずいぶん振り回されたし」

 二人は金欠の街道暮らしだった。木の根を食べて飢えを凌いだり、毒キノコを食べて死にかけたりもした。

 その反動ゆえか一時期は金に執着を見せたが、巡り巡って結局はドロテは小説、フィデリオはカメラを手放すことができなかった。

 書きたいものを書き、撮りたいものを撮る。他人の感性に迎合した作品で財布を潤わせるよりも、自分の信念に殉じて腹ではなく胸を満たすことのほうが大切だと知った。少なくとも二人はそう思った。

「学芸員はドロテさんに合ってると思うけど、小説はどうするんだ?」

「もちろん続けます。お仕事をしながら少しずつ書き進めて、でき上がったら出版社に持ち込もうと思っています。折よく賞を取れたら作家デビューですね。何回落選しようが諦めませんよ」

「なるほど。本命の夢はやっぱりそっちか」

「そういうフィデリオさんはどうするんです。まだ就職先が決まってないんですよね? せっかく正規軍から支援部門のオファーはあったのに」

「軍関係に進むつもりはなかったから受けなかった。でもやっと内定がもらえてさ」

 フィデリオは一枚の賞状を取り出して見せた。

「それは……フューリッツァ賞!?」

 報道関係における最高峰の賞だ。百日戦役を取材したマルセル・ニールセンが受賞したことでも知られている。

「ああ。内戦が終わってすぐに応募した写真の結果がつい先日に出たんだよ。その授賞式の帰りに帝国時報社の役員から直々に勧誘を頂いた」

「あの帝国時報社ですか。内戦中に貴族連合からの圧力に屈して、検閲され放題の文章修正ばかりで、事実を歪曲させた都合のいい記事ばかり見出しに躍らせた負け犬の集まりの……」

「僕がこれから勤めようとしている企業をよくそこまでこき下ろせたな……」

「失礼しました。フィデリオさんにはお似合いだと思います」

「な、なんて奴だ」

 抗弁する気も失せ、フィデリオは近くの椅子に腰をすとんと落とした。

「それで、早く見せて下さい」

「何を?」

「フューリッツァ賞を撮った写真ですよ」

「まだ展示してるから無理」

「フィデリオさんのことです。どうせ複製した写真くらい持ってるでしょう」

「こういうところは鋭いな。……まあ持ってるけどね。どうしようかな……」

 それは確かに胸元のポケットに入れてある。

 あの時の一枚だ。バリアハートでの露店をやめて、再び文無しの街道暮らしに戻ったあと、カレイジャスに合流する直前に撮った一枚。

 そこに映るのは寒空の下でボロボロの木箱を机にして、月明りだけを頼りに、汚れたノートに健気に向き合う一人の少女。

 寝る場所も食べ物もお金も、何も無くても、夢だけは失わなかった。それは、いつかきっとその夢を叶えるであろう未来の小説作家の姿。

「うん。やっぱりドロテさんには見せない」

「いじわるっ!」

 

 ――《金欠クリエイターズ》 FIN――

 

 

 ♡

 

「浮かない顔をしていますね。どうしたんですか?」

 そう言われて、ステファンはかじりついていたモニターから顔を離した。すぐ横にマキアスが立っている。

「やあ。いつの間に来ていたんだい。気づけなくてすまないね」

「つい先ほど。何回か声はかけたんですが、すごく集中されていたようで」

「ははは。僕の悪い癖だ」

 一つのことに没頭すると周りが見えなくなってしまうのだ。

 端末室の一番後ろの席にステファンは座っている。他には誰もいない。まあ、用もないのにわざわざ機械をいじろうとは思わないだろう。

「それは導力ネットワークですか」

 マキアスが端末のモニターをのぞき込む。

「その通りさ。エレボニアじゃまだまだ発展途上で認知も少ないが、クロスベルあたりじゃ実用化レベルだしね。もっとも今は総督府が情報制限をかけてるみたいだけど」

「……そうでしょうね。ところで先輩は何か調べものですか」

「うん。ハートマークのうわさについて少し」

「ハートマーク?」

「おや、マキアス君は知らなかったか。最近ちょっと話題でね――」

 マキアスにうわさの内容をかいつまんで教えた。

「そのハート模様の前でキスをすると、永遠の愛を薔薇の花びらが祝福すると。ほほう」

「マキアス君には興味のない話だったかな。まあ学院にはありがちなものなんだけど」

「それでそのハートマークはどこに?」

「僕の知る限りでは、まだ誰も見つけてないよ」

「ふむ。発現には何か条件があるのか? たとえば日光の照射時間によって浮かび上がるとか。いや、待てよ。角度の線もありえるな。そうだ。高さは? ある程度の位置から見下ろすと、側面からは判別できないハートマークの紋様に見えるみたいな。とにかく可能性の洗い出しから行うか」

「すごい興味持ってるじゃないか……」

 メモ紙を取り出し、マキアスは何やら必死に書き込んでいる。思い出したように、その視線がステファンに向け直された。

「それで先輩は導力ネットで検索をしていたんですね。何か有力な情報は出てきましたか」

「いいや、全然。僕が調べていたのは類似するうわさ話が各地や他国にないかぐらいだよ」

「しかしなぜうわさ話の真意なんて確かめようとしているんです? まさかステファン先輩に意中の女性でも……!? そ、それはクレクレクレレレ……!?」

「クレクレ……? いや、ちょっとこのうわさが妙でさ。ぽっと出の話にしては、拡がるスピードが速い。何か裏があるのかなと思って。参考になりそうな事例は見つからなかったけどね」

「ふう、安心しました。ステファン先輩にはハイベル先輩の後を追わせたくありませんから」

「なんでハイベル君? そういえばこのところ彼の姿を見てないな」

「もう二度と見ないかもしれませんがね」

 そう言い含むマキアスのメガネは濁っていた。

 なんとも形容し難い悪寒を覚えて、ステファンは端末の電源を落とす。

「やっぱり大した情報はヒットしなさそうだ。少しでも端末に触って操作に慣れておくのが目的の一つだったし、今日はこれで良しとするかな」

「慣れ……ああ、そうでした。ステファン先輩の進路は」

「そう、ルーレ工科大学の導力学部の通信学科。まさしく導力ネットの中枢だね」

 自分の導力ネットのハッキング技術が、結果としてパンタグリュエル制圧作戦の要となった。だがあれはいわゆる悪用だ。決して褒められるべき行為ではない。

 だが正しく使えば、その機能は社会全体に大きな影響を及ぼし、それらがもたらす恩恵はまさしく次世代のものとなるだろう。

 全ては作り手と使い手次第だと身をもって知った。

 だからもっと導力ネットを知りたい。学びたい。二年間、チェス部として培った思考力もプラスに活きるはずだ。

「そうだ、聞いてくれないか。僕の進路を知ったマカロフ教官が、ここにある端末なら好きなものをどれでも持って行っていいって言って下さったんだよ!」

「それはすごい餞別じゃないですか! こんな本格的な端末なんて普通に買ったら信じられないくらい高いでしょう」

「ルーレで借りる部屋に設置してみるよ。個人で導力端末を持っている人なんて、工科大でもそうはいないだろうね」

 花のキャンパスライフとはまさにこのことだ。明るく楽しく実りある大学生活が待っている。

「マキアス君には感謝している。君のおかげで第一チェス部との壁も取り払うことができた。何より君との対局は最高だった。君と共有できた時間に感謝している。僕の後輩になってくれてありがとう」

「ステファン先輩……そんなことを今言うのは……ずるいですよ」

「今言わなくていつ言うんだ」

 彼もしばらく休学すると聞いている。その兼ね合いで第二チェス部はなくなる。だが暗い出来事ではない。

 これからは平民生徒も貴族生徒も同じ部室で活動することになっていた。それは自分たちの事情を知った第一チェス部からの提案だった。

 だから来月からは第一も第二もなく、ただのチェス部だ。

「湿っぽい話は終わりにしよう。今日の内にこの端末を寮まで運ぼうと思うんだ。手伝ってくれないか?」

「当然、力をお貸ししますよ」

 二人して付属部品や配線を抜いたりしていると、後ろの掃除用具入れのロッカーからガタッと音がした。

 ゆっくりと扉が開き、中からとヴィンセントが姿を見せた。ひどくうろたえている。

 そんなところで何をしているのか。そう問う前に、今度は端末室の扉が開いた。戸口をぬっと抜けてきたのは肉々しい肉の塊。マルガリータ女子である。

「見つけたわあん。さあ、ハートマークを探しましょううう」

「んひいいい!?」

 怯えるヴィンセントはステファンとマキアスの後ろに隠れる。

 愛しの彼しか見えていないらしいマルガリータは、重装機甲兵さながらの突進で突っ込んできた。

 数列に並ぶ机を片っ端から圧し折り、砕き割り、もちろん卓上の端末のことごとくを破壊しながら。

「ステファン先輩、逃げないと! あれはデンジャラス肉玉です!」

「し、しかし僕の端末を守らねば!」

「ムフォオオオ!!」

 とっさに端末を庇おうとするステファン。ヴィンセントを求め、突き出されるマルガリータ嬢の手。

 端末の後部から入った彼女の太腕が、モニターをぶち抜いて正面から現れた。

 もはや交通事故だった。はね飛ばされ、教室の天井に叩きつけられたステファンは、ぼんっと爆発し、焦げ臭い黒煙を噴く端末を見た。

 

 ――《ロードオブハッカー》 FIN――

 

 

 ♡

 

 うすくした生地を型取りにはめて繰り抜く。丸に四角に星型に――

「じゃん! ハート型~!」

 エミリーがそれを掲げて見せると、ニコラスは楽しそうにうなずいた。

「うんうん、うまいね。あとはオーブンで焼くだけだよ」

 二人は調理室でクッキーを作っていた。

 料理を教えて欲しいと、エミリーから彼にお願いをしたのだ。卒業までもう少ししかない。つまり一緒にいられる時間も、あと少し。

「ねえ、ニコラス君ってハートマークのうわさを――」

 言いかけて、ぐっとこらえる。

 そういう類の話をこちらから振るってどうなの。ニコラス君は興味ないかもしれないし。できれば、できればよ。ニコラス君からその話題を出してくれると乗っかりやすいんだけど……!

「ああ、ハートマーク? 綺麗な形になってるね。焼いてもいい感じにふくらむと思う」

「でっしょー! そうなのー……ハート型なのー……」

 私はエミリー。ラクロス部部長。人呼んで炎の女。攻めるのが私でしょ。どうして守りに入っているの。『オフェンスですわ! オフェンスですわー!』と試合中のフェリスの声援が幻聴として聞こえてくる。

 でもダメ。こんな気持ちになるのは初めてだからわからない。子供のころから活発で外で遊ぶ方が好きで、同年代の男子より強いのは当たり前。

 そんな私がフリフリのエプロンを付けて、男の子にクッキーの作り方を教えてもらっているなんて。そしてそれがとても楽しいだなんて。

 あの時からだ、彼に特別な感情を抱くようになったのは。

 街道生活の最中で食料を探して迷い込んだ山中。足をくじいて、魔獣に襲われて、ニコラス君が助けに来てくれたあの時から。

 おたまと鍋のふたを装備した彼の騎士姿。もう最高よ。あの姿を写真に収めていたら、フューリッツァ賞は間違いなかったでしょう。

 パンタグリュエル制圧戦でも騎士の出で立ちになってくれた。テレジアは『ニコラス君、何もやってないけど!』って怒っていたけど、そこにいるだけで格好良かったじゃない。意味わかんない。

 あの姿で試合の応援に来てくれたら、単騎独走で全戦全勝してみせるわ。

「テレジアさん? よだれが……」

「ご、ごめんね。その、クッキーがおいしそうだったから!」

「まだ生地だけど」

「できあがりを想像したの! あ、あれかな。フィデリオ君って食いしん坊な女の子って嫌いかな」

「え? よく食べる子は好きだよ」

「ぐはあっ!」

 ズッキュウウンと見えない矢に撃ち抜かれる。キューピッド姿のアリサが弓を構えて、ふよふよ宙に浮いている姿を幻視した。さっきからなんなの、後輩たち。

 好きだよのワンフレーズだけに、頭の中で何度もエコーがかかる。

「ど、どうしたんだい? もしかして体調があまりよくなかったり?」

「大丈夫……。クッキーの……クッキーのせいだから……」

「それならいいけど。でも無理しちゃいけないよ。来週には正規軍入りするんだから。訓練だって厳しいだろうし」

「ああ、うん。……そうね」

 エミリーは卒業後に、新設される飛行艦隊に配属されることが決まっていた。ちなみにテレジアもだ。彼女は例によって父親の猛反対を受けたが、いっしょに説得にも行ってどうにか認めてもらえた。最終的にはエミジアデストロイを食らわして、記憶を曖昧にしつつ承諾の言質を取ったわけだが。

「ニコラス君は食堂車のシェフになるんだったわよね。大陸鉄道公社からの勧誘なんてすごいじゃない」

「カレイジャスでの厨房実績とかを買われたみたいでね。あとは街道生活でのありあわせ食材で調理していた経験とか」

「うん。私も助けられた。ニコラス君といっしょじゃなかったら、あっという間に詰んでたはずだから」

「それはこっちの台詞さ。エミリーさんがいなかったら、食材調達は僕だけじゃ限界があったよ」

「あの時食べたご飯の味。忘れない。私はきっと一生覚えてる」

「それもこっちの台詞さ」

 しばし無言で見つめ合う。部屋の温度がほのかに温かみを増した気がした。オーブンの予熱のせいだろうか。

 ちょっとハートマークをいっしょに探してみない? 言うなら今だ。

「あ、あのね! ハートマークを――」

「ハートマークウゥゥ?」

 空気を震わせながら、調理室にずぬぬぬっと押し入ってくる丸い影。

 ニコラスは気安く挨拶をした。

「やあ、マルガリータ君」

「あらあん、部長。ヴィンセント様、来てませんことお?」

「ヴィンセント君? 来てないなあ」

「ラヴの匂いがしたからここだと思ったのだけどお……それはともかくとしてえ」

 ほほ肉に押し上げられた細い目が、じろりと二人を見据えた。その圧にさしものエミリーもたじろぐ。マルガリータは頭を下げると、スカートの両端をそっと持ち上げた。

「改めてですけど、卒業おめでとうございますう。調理部部長はわたくしが見事に引き継ぎますわ。落ち着きましたらぜひドレスデン家にいらして下さいな。自慢の薔薇園の中で、とっておきの料理をご馳走しますのでえ」

「僕こそ一年間楽しかったよ。ミリアム君とは仲良くね。あと調理室はあんまり壊しちゃダメだよ」

「うふ、善処します――わあっ!」

 ぎゅんと腹の肉をねじり、電光石火の拳が調理室の壁を貫通した。外の廊下から「ひいいい!?」とヴィンセントの悲鳴が聞こえてくる。

「ムフォッ、ヴィンセント様ったら恥ずかしがり屋さんなんだからあ……ヴォフォオオオ!!」

 そのまま壁を粉砕し、マルガリータは調理室から出て行った。

「あはは。相変わらず扉を使わないなあ。あとでまたパトリック君に補修をお願いしなきゃ」

「……お互い元気のいい後輩がいるわね」

 ハートマークのうわさ話を切り出す機を完全に失った。

 まあいいか。これで会うのが最後ってわけじゃないし。

「ニコラス君。握手して」

「え? うん」

 エミリーは手を差し出した。戸惑いながらも、ニコラスは握り返してくれる

「卒業しても時々会いましょう」

「そうだね」

「その時はまたご飯を作ってくれるかしら」

「もちろんだとも。もっと満足してもらえるように腕を上げておくよ」

「楽しみにしてる。私は空で、ニコラス君は陸で、それぞれの場所でがんばろうね!」

 未来に向けて笑い合う。強い握手の下にはハートマークの生地が並んでいた。

 

 ――《体育会系クッキング》 FIN――

 

 

 ♡

 

 技術棟の横に仮設ドックがある。学院の再開に合わせて急ごしらえで建てられたものだ。

 主な用途は騎神の格納である。さすがにヴァリマールをトリスタの街に待機させるわけにも行かない。

「特に問題なし、か」

 と、パトリックは鉄骨で組まれた専用スペースに佇むヴァリマールを見上げる。休眠中らしく、話しかけてはこなかった。

 この仮設ドックに頻繁に出入りするのはリィンとジョルジュ、ミントにクララといったところか。

「あら? 珍しいわね」

 いや、足を運ぶ人物はもう一人いた。アリサ・ラインフォルトだ。彼女は意外そうな顔をして、パトリックのそばまでやってきた。

「各施設のラウンド中でね。異常がないか見回っている」

「それはお疲れ様。でも誰かに頼まれたわけでもないんでしょう」

「なんだかそういう役目になったんだ。いつの間にかな」

 別に面倒でも嫌でもないが、素直にやってるとフリーデル部長がにやついてくるから、ちょっと斜に構えた態度を出しているだけだ。

 補修の幅も広げたいし、そろそろ物品発注の業者と新規契約したり、導力配線関係の技術にも手を出そうかとも考えている。

 フェンシングの稽古が終わった自由行動日は、もっぱら部屋で何かしらの工作に勤しんでいるのは内緒だ。この前は自作の椅子を作ってやった。誰かに見せたいが……内緒だからな。

「それで異常はあったの?」

「ないが……」

 言い淀んで目をそらす。移した視線の先にあったのは、四肢を欠損した歪な人型だった。ヴァリマールの横のスペースで、こちらはブルーシートの上で横たわっている。

「レイゼル……」

 本当はこいつを見に来ていた。幾多の戦いを駆け、最強の魔煌兵と相打ちになってまで《紅き翼》を最後まで守り抜いた朱色の騎士。

 ヴァーミリオンの装甲は傷だらけで、カラーリングもあちこちが剥げ落ちている。心臓部を貫かれ、五つの武装も全壊。もう彼が動くことは二度とないだろう。

 僕がもっと上手く戦えていれば――

「あなたが気に病むことじゃないわ」

 アリサは先回りの言葉を口にした。

「パトリックが時間を稼いでくれなかったら、トヴァルさんの到着も間に合わなかったわけだし。結果として皆を救うことができたんだから、いいのよ」

「……レポートは?」

「ああ、機体を傷つけたらその分だけ反省文書くっていうあれ? 冗談に決まってるでしょ」

 レイゼルのそばに軽く100枚は越えるレポート用紙が平積みされていて、表紙にトヴァル・ランドナーの名前と『壊してすみませんでした』の一筆が添えてあるが、あれは見なかったことにしよう。

「……すまなかった」

「だからもういいって」

「そのことじゃない」

 直接面と向かって言うのは覚悟がいった。それでもこれをちゃんと言わないと前に進めない気がする。なあなあにしちゃいけないことだ。

「六月の定期試験のあと、Ⅶ組の実技試験に乱入したことがあっただろう。そこで君に――君だけではないが、ひどいことを言った。許さなくていいから謝罪させて欲しい。すまなかった」

「えっと……“成り上がりの武器商人風情が”ってくだり?」

「……そうだ」

「一応本当のことだし、そう揶揄されたことはそれまでにもあるし、そこまで気にしていないわ」

「し、しかしだな」

「もしかしてレイゼルのセカンドパイロットに選んだ時に、乗り気じゃなかった理由ってそれ?」

「君の家族を貶めた僕が、君の家族が作った機体に乗っていいわけがないって思っていた。あまつさえそれに命を守られた。うまく言えないが……情けなさと後悔と……あと感謝と……」

「だったら感謝だけでいい。ただ……そうね。個人的に心残りがあるにはあるのよ」

 アリサはレイゼルに目をやった。

「この機体の初陣で母様を助けたんだけど、その時に言われたの。レイゼルには製作者が隠したものがある。“機甲兵を倒すための機甲兵”というコンセプトでは作られていないって。それが結局わからなかった。隠されたものっていうのがリアクティブアーマーっていうのはわかったけど」

「ん?」

「微妙なエネルギー効率の悪さはリアクティブアーマー機能に起因するものだったわけね。おじい様も最初から教えてくれてればよかったのに」

「え?」

「なに? 何か知ってるの?」

 気づいていないのか。僕でも察するくらいはできているが。

 レイゼルに秘められていたものは、単純にリアクティブアーマーという答えじゃない。なぜエネルギーの容量圧迫を強いてまで、その機能を搭載したかを考えなくては真の解にはたどり着けない。

 ここで指摘するのは簡単だが……

「……それは君が自分で気づくべきことだ」

「なにそれ。やっぱりレポート出してもらおうかしら」

「勘弁してくれ!」

「冗談よ」

 彼女は屈託なく笑った。魅力的な笑顔だった。エリゼ君の笑顔には敵わないがな。

 今のアリサなら、その答えにもすぐに手が届くだろう。

「私ね、しばらく休学するのよ」

「シュバルツァー以外、皆だろう。聞いてはいるが」

「いない間、学院のことお願いするわ。リィンのことも」

「ふん、僕に――」

「パトリーック」

 台詞をさえぎって、勢いよくドックの扉が開いた。微笑むフリーデルがちょいちょいと手招きする。

「補修の案件よ。調理室の壁が粉砕されたわ」

「粉砕って! 調理の失敗ですか?」

「さあ。エミリーさんがいうには災害らしいけど」

「なんでもいいですがね。とりあえず工具箱を用意してから現場に向かいますので」

「ふふ、パトリックがいれば安心して卒業できるわ。じゃ、よろしくね」

 さあ、今日のトラブルがやってきたぞ。見事に解決してみせようじゃないか。

 こきこきと首を巡らせてから、アリサに言いかけていた言葉を告げた。

「僕に全部任せておけ」

 

 ――《パトリックにおまかせ》 FIN――

 

 

 ♡

 

 学院内のあらゆる場所を追われ、最終的にヴィンセントが身を隠しているのは講堂の裏だった。

「ひっ、ひいいい」

 それしか今日は言葉を発していない気がする。なぜだ。なぜ僕がこんな目に遭うのだ。女神よ。一体これはどういう試練なのです。そしてこの試練を乗り越えた先で何が得られるというのです。というか乗り越えられる系の試練なのですか。

「見いつけましたわあん」

 その声量にビリッビリッと大気が振動する。近くの木から葉が舞い落ちた。

 ズシン、ズシンと大型魔獣のような足音を鳴らして、マルガリータがヴィンセントの前に姿を現した。

 逃げるか。しかしもう逃げきれない。ヴィンセントは意を決した。

「……マルガリータ君。君はどうしてそんなに僕を追いかけるんだい?」

「グフッ、それは私がヴィンセント様を……言わせないでええん!」

 ぎちぎちと身をよじり、首を左右に振る。突風が発生した。メキメキと木の根が地表にまで浮き出てくる。羽を休めていた小鳥たちが、一匹残らず吹き飛ばされて消えた。

 しかしヴィンセントは努めて落ち着いた口調で語った。

「君の好意は素直に嬉しい。だがわかって欲しい。その想いに応えることはできないんだ」

「そ、そんな……ヴィンセント様……?」

「僕はフロラルド家の嫡男だ。軽々に相手を選ぶことは、家にも影響を及ぼしてしまう。お家騒動などに巻き込んでは、何よりマルガリータ君を傷つけることになる」

「う、うぅ……」

 彼女の肩が小刻みに揺れている。許してくれ。気持ちを無下にせず、かつ諦めてもらうにはこう言うしかないんだ。まったくの嘘ではない。本音と建て前を織り交ぜただけだ。

「わかりましたわ……。そのお立場ではそのようにしか言えないと……ヴィンセント様のお心、受け取りました……」

 マルガリータが下がる。が、ぴたりと足を止めるや、いきなりフルスロットルで突撃してきた。

「な、なんでー!?」

 腹いせに僕を殺すつもりか。なぜか背後に悪寒を覚えて、目線を後ろに向ける。背にしている講堂の壁面。ちょうど顔の高さくらいに、でかでかとハートマークが描かれていた。

「ヴィンセント様はハートマークのことを知っていらして、私をさりげなくこの場所まで誘っていたのですわねえ! 建て前は言葉で、本音は行動で示すだなんてえ! 奥ゆかしさ極まる紳士ですわあ! このマルガリータ、確かにお心受け取りました! 受け取りましたわあん!!」

「ひいっ! ちがっ!」

 猛スピードで迫る分厚い唇とは逆に、スローモーションで流れゆく思い出の数々。

 フロラルド家の長男として生を受け、それに相応しい教養を幼少時から身に着けた。やがてフェリスが生まれ、自分より小さなものを守る責務と高潔さも学んだ。

 槍術も収め、力も得た。女神の寵愛さえ受け、文武両道を地で行く無二の存在。それがヴィンセント・フロラルド。

 トールズ士官学院に入学してからも、友人の羨望と尊敬の眼差しは日々増え続けていた。フェリスはそんなのお兄様の勘違いですわなどと言うけど、勘違いとかじゃない。いや、本当に。

 パンタグリュエル制圧戦で超活躍したしね。だって一番にブリッジまでたどり着いて、まあ、ブルブランとかいう仮面の変態に瞬殺されちゃったわけだけども。あの時はちょっとお腹が痛かったというのもあるし。

 でもその後、倒れている僕を見て憤慨し、怒りの力でブルブランを圧倒したのは誰だったか。カレイジャスに搬送されてからも付きっきりで手当てしてくれたのは誰だったか。方向性はともかく献身の想いは本物ではなかったか。

 走馬灯を抜けたヴィンセントの視界いっぱいに、その人物が大写しになる。

 マルガリータが跳躍。さらに加速。さながら列車砲に撃ち出された肉の砲弾だった。

「ムウフォオオオッ!!」

 CHU! というかBUCHUU!! という擬音が脳裏に爆ぜる。

 それは戦車、否、アイゼングラーフとの正面衝突。勢い爆発。炸裂するキッス。後頭部からハートマークのど真ん中に激突。例えるなら壁に叩きつけられた完熟トマト。

 ハートマークに重なるようにして、飛び散る鮮血が真っ赤な薔薇を咲かせ、永遠の愛を誓うっていうか誓わせた。

 暗黒の淵に意識を沈ませながら思う。

 もうこの人でいいんじゃないかな。

 今わの際で「ムフォッ」と弾ける喜声を、ヴィンセントは聞いた。

 

 ――《グランローゼのバラ物語 chu!》 FIN――

 

 

 ♡

 

 

「やあ、エマ君」

 図書館の前の歩道で、エマはガイラーと遭遇していた。彼はほうきを手に落ち葉を掃いている。

「……お掃除ですか。いつもありがとうございます。では」

「待ちたまえ」

 図書館の入り口をガイラーは自分の体でそれとなく塞いだ。

「ドロテ部長をお待たせしていますので」

「時間は有限だが、急いたせいで大切なものを見逃してしまうこともある。歩調を緩める日があってもいいだろう」

「お話が見えませんね。大切なものとはなんでしょうか」

「これだよ」

 ガイラーが取り出したのはいつもの『クロックベルはリィンリィンリィン』だった。やはりそれか。背筋が凍る心地になるが、今さらだ。そんなものに臆したりはしない。

「それが一体なんです――はっ!?」

 違う。あれは違う。本を取り巻く瘴気が普段とは桁違いだ。

「う、うそ……そんな!?」

「そう。『クロックベルはリィンリィンリィン』――その最終巻。ついに書き上げたのだよ」

 掲げた書籍から怪しげな光が天に立ち昇る

 雲が雷を走らせ、空が紫に染まった。木々を揺らす風が粘度を持ち、不快な湿度を肌にまとわりつかせてくる。

「いやもう、自然現象に影響出すのやめてもらえませんか!?」

「ふふ、異なことを言う。実は君にお願いがあるんだが」

「他の人にどうぞ」

「おや、他の人でいいのかね。ではリィン君あたりに頼むとしようか」

「……まずは私にどうぞ」

 何をする気かわからないが、何かはする気だろう。また彼の記憶が飛ぶ事態になっては目も当てられない。人質を取られた気分だった。

「この最終巻を君に最初に読んで欲しい。添削や感想も兼ねてね」

 想像はしていた。この場はいったん受けて退散するのが懸命に思えるが、しかしあの本の瘴気。私でも無事に最後まで読み進められるかどうか。

 ダメだ。とにかく強硬的にでも断るしかない。

「やっぱりドロテ部長が待ってますからー!」

 虚をついて走る。ガイラーはすでにエマの背後に立っていた。物憂げな表情で口をねっとりと開く。

「忙しいなら無理強いはできないな。残念だ。ああ、ところでエマ君……なんでも魔女の力を失ったそうじゃないか」

「なっ……!」

 なぜ知られている。この人にだけは情報が漏れないように徹底していたのに。

「仲間の窮地を救う気高い決断だと感服した。とはいえ心中は察するに余りある」

「あはは、そうなんですよ。まあ新鮮な感覚で生活していますから。では失礼します」

「攻撃や防御はもちろん、転移や念話もできないと聞く。不便ではないかな?」

「………」

 これは暗に戦う術もなく、逃げることも救援を呼ぶこともできないのだろうと言われている。心中を察するどころか、配慮の欠片もなく弱みに付け込んできているのだ。

「もう一回お願いしてみようか。最終巻、読んでくれないかな?」

「……謹んでお受けします」

 毒杯を煽るしかなかった。戦っても退けられないし、今の力では逃げることも敵わない。

「そう言ってくれると思っていたよ。本は君のバッグに入れさせてもらった」

「い、いつの間に」

「最終巻だけあって、かなり気合を入れた。エンディング目前の講堂裏の一幕。ハートマークの前でクロックとリィンが二人きりの――おっと、いけない。ここから先はネタバレになってしまう」

「大体わかったのでいいです。あ、ハートマークって今うわさになってるあれですか。ストーリーに組み込んだんですね」

「逆だよ。あのうわさを流したのが私だ」

 ひゅうと冷たい風が吹いた。

「な、なんでそんなことを」

「小説の設定を現実側に引っ張ってみた。そういうのを喜んでくれる読者もいてね。私もファンサービスというものを覚えたのだよ」

「また妙なことを……誰かが大変な目にあったらどうするんです」

「そんな危険なうわさではないのは知っているだろう? ふふ、なんとかしてユーシス君とマキアス君をあの場に誘導できないものか。はかどるのだが」

「危険! ……はかどるってなんですか!」

 戦慄するエマに構わず、ガイラーはほうきを片付けた。

「さて。そろそろ行かなくては。ちょっとバルフレイム宮に呼ばれていてね。皇女をお待たせするわけにはいかない」

「アルフィン殿下と謁見……ま、まさか!?」

 すでにガイラーの姿は消えていた。相変わらずの瞬間移動だ。せっかく平穏を取り戻しつつあるエレボニアで、あの狂い咲きの用務員は何をしようとしているのか。

 不安しかなかった。

 

 

 ――つづく――

 

 

 

 

 

――another scene――

 

 

 アリサは下校途中だった。歩きながら、パトリックとの会話を思い出す。

 レイゼルに秘められていたもの。色々と機能的なことを考えてはみたけど、見当がつかないというのが本音だった。

 そもそも機体スペックなら知り尽くしている。最先端と一流の技術で作られたハイエンド仕様の機甲兵だが、未知のブラックボックスなんかはない。

「もう一度乗ったらわかるかしら……なんて」

 無意識に制服のポケットに手を入れる。小型のメモリースティックが入っていた。これにはレイゼルに初めて登場した時から、最後の瞬間までの戦闘データが記憶されている。

 ボディは大破していたものの、それだけはどうにか抽出することができたのだ。心臓は壊れたが、脳は無事だったというところか。

 だからこれがあれば、もう一度レイゼルを作ることも可能だ。

 もちろん作る気などなかったが。彼は役目を終えた。もう戦う必要はない。静かに眠って欲しい。

 だが話を戻せば、あの機体に隠されていたものというのは、やはり気になる。

 母様は何かに気づいていたみたいだった。

 母様に気づけて、私に気づけない何か。考えても答えは出ず、アリサはかぶりを振った。

「どうせ来週からは母様としばらくいっしょなんだし、わかることもあるでしょ」

 言い聞かせるように独り言ち、歩を早める。

 アリサの休学理由は、“ラインフォルト社の勉強をする”だった。経営に携わりたいわけではない。

 ただ自分はあまりにもイリーナのことを知らなさ過ぎた。思い違いもしていた。あの懐中時計の写真を見て、それがわかった。

 そろそろ母と向き合う時だろう。卒業まで待っていては遅い。内戦後に企業責任のいくつかも取り立たされ――おもにはハイデルがラインフォルト社を私物化していた時のだろうゴタゴタだが――いずれにせよ大変な時期だ。

 その大変な今に、イリーナがどう動くのかを直に見たかった。何と戦い、何を守るのか。

 きっと以前とは、違う視点で母を見るだろう。

 いつか本当の意味で彼女を理解できたなら、私は母様に心からの「ありがとう」を告げることができる。

「お嬢様、お待ちしておりました」

 アノール川の橋を越えた先に、シャロンが微笑んでいた。

「シャロン? 迎えなんていいのに」

「そういうわけにも参りません」

 シャロンはしなやかに指を振った。鋼の糸が宙に舞う。

「イリーナ様のご指示で、お嬢様を誘拐させて頂きます」

「はい?」

 

 

 ● ● ●

 

 




《ハートのかたち》をお付き合い頂きありがとうございます。

サイドストーリーの学生たちの物語も順番に幕を閉じていきます。
少し気が早いですが、長旅を越えてきたみんなには「お疲れさま。ゆっくりやすんでね」と言いたいですね。

どれも思い入れがあるキャラクターたちばかりなのですが、特にドロテとフィデリオコンビ。
カレイジャスとの合流前に撮ったドロテの写真でフューリッツァ賞を、というラストは最初から決めていたので、最後まで描ききれて本当に良かったと思います。

では次回のタイトルは《ラインフォルトの試練》
リィンだけではなく、Ⅶ組全員が巻き込まれます。

引き続きお付き合い頂ければ幸いです!

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