虹の軌跡Ⅱ Prism of 《ARCUS》   作:テッチー

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エピローグ 『The last two weeks』
第125話 春に咲く


 自由行動日の朝だった。

「あら、おはようございます。早朝からお出かけでしたか?」

 外から戻ってきたリィンは、第三学生寮の玄関口でエマと出くわした。

「日課の素振り稽古に行ってたんだ。気持ちのいい季節でもあるし」

「そうでしたか。でも無理はしないでくださいね?」

 三月上旬。天気は快晴。日陰に肌寒さはやや残るものの、今日の気温は温暖。まさしく春だ。

 今から食事をとるところだというエマに付き合い、リィンもリビングの食卓につく。

 間を置かず、すぐにコーヒーカップが目の前に置かれた。楚々とした物腰で、シャロンが微笑んでいる。

「おかえりなさいませ、リィン様。本日はいかが致しましょう」

「えーと。トーストとスクランブルエッグをお願いできますか?」

「かしこまりました」

 キッチンへと下がっていくシャロン。

 リィンはコーヒーで唇を湿らせた。シュガーはなし、ミルクは一つ。

 ちらりとエマのカップに目をやると、彼女は紅茶でレモンが添えてある。

 これがフィーならカップ二杯分のミルク、ミリアムなら季節の搾りたてフルーツジュース、ラウラならストレートティー、ガイウスなら温めのお茶、サラは通常ならブラックコーヒー、夜に飲酒をしていれば水といった具合に調整してくる。

 ちなみにマキアスは自分でコーヒー豆を挽くのが朝一の楽しみなので、あえて何もしないのが正解である。

 こんな感じでシャロンは完璧に自分たちの好みを把握しているのだ。しかもまばらにリビングに来る各人に、遅れることも手間取ることなく、適温で提供するから恐ろしい。

「今日のご予定は?」

 料理を待つ間に、エマが聞いてきた。

「特には決めてないな。とりあえず学院に行こうとは思う。トワ会長の手伝いもしたいし」

「卒業式まで二週間を切りましたから。何かと忙しなくしているでしょうね」

「委員長はどうするんだ?」

「朝食を頂いた後はフィーちゃんとミリアムちゃんを起こしにいこうかと。私から隠れるために定期的に寝場所を変えちゃうので、探すのが大変なんですよね……」

「まさに猫の習性だな……」

 大変な理由はもう一つあるのだろう。

 魔女の能力を失った彼女は気配探知も使えず、俊敏なフィーたちを転移術で捕まえることもできない。

 どうにか力を取り戻せないか、煌魔城戦を終えたあとで色々と試していたそうだが、二か月経った現在でも芳しい効果は出ていないという。

「……フィーで思い出したが、そういえば明日だったか」

「ええ。宜しくお願いします」

「なんというか、気が重いな」

「……はい」

 明日の授業は午前中までだ。午後からはエマとフィーといっしょに、ちょっとした用を片付けにユミルまで行くことになっている。

 暗澹とした気分を頭を振って払い、リィンは話題を変えた。

「他のみんなも今日のスケジュールは決まっているのかな」

「どうでしょう? ラウラさんは遠出して食材を買いそろえてくるとか。アリサさんはラクロス部の先輩に呼ばれたそうですし、エリオットさんはミントさんとよくわからない打ち合わせをすると聞いています」

「なんだ。けっこうみんな予定が入ってるんだな」

 ラウラが大量の食材を買い込むという情報は不安の極みだが。

 階段を降りてくる足音が聞こえた。

「エマさん、リィンさん、おはようございます」

 クレア・リーヴェルトがリビングに姿を見せた。彼女はリィンの身辺警護という名目で、しばらくトリスタに滞在することになっていて、その宿泊場所がこの第三学生寮だった。

「クレア大尉。おはようござ――」

「おはようございます!!」

 リィンの挨拶をかき消し、横を黒い影がギュンと高速で過ぎた。ズシャーと急ブレーキ。尋常ではない摩擦熱に、床からシューと煙が上がる。残像を残しながら、クレアのそばに片膝をついたのはマキアスだった。

「よい朝ですね、大尉。ささ、お席にどうぞ」

 紳士的な応対で彼女をテーブルまでエスコートしたマキアスは、すっとコーヒーカップを差し出した。

「僕が挽いたコーヒーです。そう、僕が挽きました。ふふ、僕が挽いたのです」

「ありがとうございます。ですが、そんなに気を遣わないでくださいね。軍務とは少し形質が異なりますので」

「はい! 気を遣わないよう誠心誠意努力する所存であります!」

「いえ、ですので、そんなにかしこまらず」

「かしこまりませんことをかしこまりました!」

 クレアが寮に泊まることを知ったマキアスの反応は凄まじいものだった。

 まず彼が陣頭指揮を取って寮内の清掃をしたのだが、これがとてつもなく厳しかった。窓枠のほこりを指でなぞるのは当たり前。わずかな汚れの見逃しもなく、徹底的に全てを磨き上げさせられた。経年劣化でさえ許さず、壁の小さな傷までも補修に余念がなかった。

 あまりの鬼っぷりに耐えかねて途中で逃走を試みたフィーとミリアムも、修羅と化したマキアスからは逃げきれず、たやすく拘束されてしまっている。清掃が終わった時には、ラウラやガイウスまでもへとへとの状態だった。

 その結果、第三学生寮はバルフレイム宮に匹敵するほどの輝きを得るに至ったのだ。

「クロスベルから帰ってきて早々の大掃除、リィンさんも大変でしたね……」

 考えを悟ったのか、エマはそう言う。苦笑を返し、リィンはふと天井を見上げた。

「……ユーシスはまだ起きて来ないのか」

「最近は体調が特に優れないみたいで……横になってることが増えましたね。授業にも出れてないんです」

「そんなに悪くなっていたなんて……あとで様子を見てくるよ」

「お待たせしました」

 プレートを抱えたシャロンがキッチンから出てくる。香ばしいトーストとまろやかなスクランブルエッグの匂い。

 会話が聞こえていたらしいシャロンは、プレートを卓上に並べながら言った。

「ユーシス様なら早くに外出されましたよ」

 

 

 《☆――春に咲く――☆》

 

 

 シュトラールを手近な柵につなぐと、ユーシスはその鼻筋を優しげな手つきで撫でた。愛馬に跨るのは、いったいいつ以来だろう。

 手綱を握る感触に久しぶりの高揚を覚える一方、あと何度乗れるものか……とかすかな諦念が脳裏をよぎる。

 一歩を踏み出そうとした時、目まいがした。咳込みといっしょにふらつく体を、すかさず横から支えられる。

「大丈夫ですか?」

 ロジーヌが心配そうに上目で見てきた。

「つまずいただけだ」

「どうかお気を付けください」

 ロジーヌがユーシスに歩調を合わせるようにして、湿り気のある土の上を進む。

 ケルディックの街並みから少し離れた場所にある集合墓地だ。

 チチチと、かすかな小鳥のささやきが耳朶を打つ。二人以外に誰もいなかった。

「ずいぶんと待たせてしまってすまなかった。色々と……まあ、立て込んでいてな」

「いえ……なかなかお会いできずに、子供たちも寂しがっていましたよ」

 ロジーヌの声に影がさす。

 彼女には、教会の子供たちにも、自分の体の状態のことは伝えていない。

 表向きはアルバレア家の内部処理と立て直しの為に、バリアハートに赴いていたことにしているが、その実は寮からほとんど出られなかっただけだ。

 煌魔城でマクバーンに最後の一撃を叩き込んだあの瞬間、ユーシスは火焔魔人から放たれた黒い炎を吸ってしまった。以降、体の内側から“何か”に蝕まれる感覚が拡がっていく。少しずつ、しかし確実に。

 先日は吐血した。黒い血だった。

 もう自分に時間が残されていないことを悟った。だから早いうちに――動けるうちにロジーヌとの約束を果たそうと決めたのだ。

 最終決戦前、カレイジャスで交わしたあの約束を。

 いくつかの石碑を抜けた先、墓地の一角で二人は立ち止まった。

「すぐに来ることができず、申し訳ありません。帝国の内戦は終わりました。……オットー殿」

 物言わぬ墓標の前でひざまずき、ユーシスは瞑目した。

 俺はあなたに守られ、けれどあなたは救えなかった。人生が終わる寸前にさえ“恨まなくていい”と他者の為に告げられる強さは、まだ自分にはない。得ることもできないかもしれない。

 それでも――

 ロジーヌも後に続き、献花と祈りを捧げる。涼やかな微風がそよいでいた。

 しばらくして、ユーシスは立ち上がる。

「そろそろ行くか。とりあえずケルディックに戻って昼食でも取るぞ。改めて奥方に挨拶もしておきたい」

 呼吸が苦しくなってきた。今日はまだ体調がマシだったのだが。むやみに心配させたくないから、あまり調子の悪いところは見せたくない。なるべく普段通りの態度を装う。

「煌魔城での戦い以降、やはり体調が戻りませんか」

 ぽつりとロジーヌが言う。

「そんなことは――」

 反射的に否定しかけてとどまる。

 どうして伝えていない体のことを指摘した。何かと勘のいいロジーヌのこと、こちらの不調を察したのかもしれないが、煌魔城という一語が出てくるのは不自然だ。それに“やはり”とは。

「お前……っ?」

 後ろに振り返ったユーシスは、正面からロジーヌに抱きつかれた。

「お、おい」

 さすがに困惑する。後じさることも質問する暇も与えず「動かないで下さい」と重ねたロジーヌは、不可思議な光をその体から発した。

 泉の揺らめきにも似た淡い光が、ユーシスの胸に溶けるように染み込んでいく。

「少しは楽になりました?」

 光が収まり、ロジーヌが訊いてきた。

 体がわずかに軽くなった気がする。全てではないが、ずっと内側にこびりついていた焦げ跡がこそげ落ちたみたいだった。

「ああ……一体何が……?」

「そのままで聞いてください。私の本当の立場と身分は、星杯騎士団(グラールリッター)に所属する従騎士です」

「どういうことだ。星杯騎士……?」

「七耀教会には様々な行政機関があります。その内の一つ、封政省が抱える――どちらかといえば組織の裏側に位置付けられる特殊な部隊と思って頂ければ。トールズへは潜入調査任務の一環として入学しました。……ずっと黙っていてごめんなさい」

 少し声が揺れている。隠し事をしていたことに引け目を感じている。

 突然のことに驚いたものの、彼女の説明を疑うつもりはなかった。責めるつもりもない。ただ、

「なぜ今明かした?」

「私としては、むしろ遅いくらいです。ユーシスさんが火焔魔人へ致命の一撃を入れ、それと引き換えに黒炎を吸い込んでしまったことは知っていました。そして、あなたを救うために通常の手段では不可能なことも。だから急ぎたかった」

「さっきの光は、その通常ではない“何か”ということか?」

古代遺物(アーティファクト)です。中でもとりわけ呪いの類からの傷害回復に特化したもの」

 ロジーヌの胸に小袋がかかっていて、その中に件の古代遺物が入っているらしかった。

「封聖省は古代遺物の回収と管理を担っています。今回、私が本部であるアルテリア法国に認可を求めた内容は二つ。ユーシスさんを快復させるほどの能力を有した古代遺物の貸し出し、及びそれに伴う私の身分の開示。当然ダメでした」

「封聖省とやらの体制はわからんが、そうなるだろうな。巨大な組織が一個人に秘匿の一部を明かすはずもない」

「もとより従騎士の上申が通ることはほとんどありません。ですので私の上長にも口添えしてもらいました。星杯騎士団の副長を務める方です。此度の内戦において、法国も無視できない《劫炎》を退けたユーシスさんの功績、四大名門という今後の情勢にも影響力のある暫定当主。それらの事項を鑑みて、特例を認めよと」

「俺一人の力で退けたわけでは……」

「……家名を出されたのも複雑ですよね。ですが判断を覆す材料は多いほど良かったのです。騎士団のナンバー2の押し込みがあっても、特例許可の承認が降りたのはつい先日のことでした」

 事情は理解できた。この二か月、ずっと俺の為に動いてくれていたのだ。それでかねてからの約束だったこの墓参りに合わせて、力を明かしてくれたのだろう。

「感謝する」

 ロジーヌは腕をほどき、ユーシスから一歩離れた。

「怒っていませんか? ユーシスさんを、子供たちも偽っていた私を」

「言えなかったのは立場だけの話だろう。子供の面倒を見ていたのは任務だからではなく、お前が好んでやっていたはずだ。少なくとも俺にはそう思える。それにお前は、立場に縛られがちだった俺によくこう言っていたな」

「え?」

「俺は俺だと。それと同じで、ロジーヌはロジーヌだ」

 ロジーヌはしばらく顔をうつむかせ、やがて「ありがとう」と口元だけを小さく動かした。

「しかし想像もしていなかったぞ。お前が言っていた秘密というのは、これだったのか」

 オットーの墓参りに一緒に行った時に、私の秘密を打ち明けると彼女は言っていたが、さすがに予想外だった。

 ロジーヌは一瞬きょとんとしてから、すぐに首を横に振った。

「違いますよ。あの時点ではこうなるなんて思っていませんでしたから。本来なら星杯騎士であることは秘密のままです」

「む、確かに。ではなんだったんだ?」

「私がユーシスさんをお慕いしていることです」

「なるほど。そうか」

「そうです」

「……ん?」

 お慕い。お慕い?

 変わらない口調でさらりと告げ、しかしロジーヌの顔はみるみると紅潮していく。

「え、な……」

「……そのようなお年相応の表情にもなるのですね。もっと冷静な対処をされるかもと思っていました」

 不意打ちに動揺が隠せなかった。これこそまったく想像していない事態だった。

「私は、ユーシスさんが、子供たちと遊んでくださるユーシスさんを見るのが、その、好きなのです。初めて日曜学校の先生をお願いしたあとから、ずっと。……迷惑でしょうか?」

「い、いや、迷惑ではないが」

 たどたどしい視線と視線が合う。自分と同じ青色の瞳が見つめてくる。

「ユーシスさんの体は火焔魔人の煤がへばりついている状態です。それを古代遺物の能力で浄化していくわけですが、強力な障害のため一度では解呪できません。何度も行う必要があります。そ、それでですね?」

「あ、ああ」

「迷惑でないのなら、私をあなたのそばに置いて下さいませんか……? せめてお体が治るまででも」

 精一杯に振り絞った言葉が風に乗って届く。固く閉ざしたまぶたが震えている。

「そういう申し出なら、受けかねる」

「……そう、ですか。ですよね。ごめんなさい、私……」

 ユーシスは一歩前に出て、そっとロジーヌの手を取った。

「治るまでじゃなく、俺の体が完治してからもいてくれるなら、まあ、なんだ……。ありがたいが」

 伏せていた顔がはっと上がる。彼女は嬉しそうに微笑んで、

「はい……!」

「ところで……その古代遺物を使う時は毎回抱きつく形になるのか?」

「あ、特にその必要はなくて――い、いえ、その方が効果が出ると女神は仰っています!」

「わ、わかった。頼む」

 その場を後にし、シュトラールの元へと向かう。

 霊園の出口に差し掛かった時、二人はふと同時に振り返った。

「ユーシスさん、どうして今振り向いたんですか?」

「なんとなくだ。お前こそ」

「私もなんとなくですが……」

 どこか、遠いどこかで、誰かが自分たちの名を呼んで、祝福してくれた気がした。

 羽ばたいた小鳥たちが青い空を舞う。温かな日差しが霊園を包み込んでいた。

 

 ●

 

 カチ、コチと時計の針が進む音が、一人きりのリビングでやけに大きく響く。

 21時30分。食事も済ませ、他のみんなはそれぞれの部屋で過ごしている。

 一階にいるのはマキアスだけだった。ソファーに浅く腰かけ、相手のいないチェス盤と向き合っている。

 いつも通りのセルフ対局だ。これで十分楽しいし、練習にもなる。

 が、どうにも調子が出なかった。気がかりだ。行き先はシャロンに伝え、帰りが遅くなるとも言っていたらしいので、心配しすぎる必要はないのだが。

「ふう」

 つい嘆息をもらした時、がちゃりと玄関の扉が開いた。

「ん? お前ひとりか」

 ユーシスが帰ってきた。すささず立ち上がって、

「こんなに遅くまで出歩いて、体は大丈夫なのか!?」

「問題ない。心配をかけたな」

 ぴたっとマキアスの動きが止まる。

 なんだ。何かがおかしい。いつもと違う。

 体調が悪くなっても、ユーシスはユーシスだった。必要以上にかまい過ぎると、「うっとうしい」とか「向こうにいけ」とか、相変わらずのつっけんどんな物言いであしらわれていたのに。

「……夕食がまだだろう。シャロンさんを呼んでこよう」

「気にするな。食事は外で済ませてきた」

「本当に体の調子がいいみたいだな。外食とは珍しいじゃないか」

「まあ、たまには」

 妙な沈黙と静寂。カチコチと時計の音。

「……なんならチェスの相手でもしてくれないか。さすがに一人だと物足りなくてね」

「仕方ないな。一勝負だけだぞ」

 いや、もう、ますますおかしい。なんで素直に応じる。いつもの君なら、さみしい奴めと、にべもなく吐き捨てるはずだ。どうしてしまったんだ。さあ、早く吐き捨ててくれ。遠慮呵責のない氷のように冷たい言葉を僕に浴びせかけてみせろ。

「俺が白の駒でいいな。そういえばお前とチェスをするのも久しぶりだったか。ふっ、ずいぶんと懐かしく感じる」

「おいぃっ……!」

 感傷に浸る場面じゃないだろ。見損なったぞ。なぜ僕の心を傷つけない。これ以上、僕を失望させてくれるな。

「ユーシス」

「なんだ」

「何かあったのか」

「………何もないが」

 その空白の間が意味するところかはわからない。ただ、なんだかモヤモヤする。形にも言葉にもできないけれど、つかみようのない喪失感がじわじわと湧いてくる。

 どういうあれだ、これは。誰かこの感情の正体を教えてくれ。

「ちょっとオーバーライズしよう。色々わかると思うから」

「意味がわからん。そんなに手軽にできるものではなかろう」

「いいからするんだ!」

「せん!」

「くうぅっ!」

 居ても立っても居られず、マキアスは寮を飛び出した。

 

 

 夜の街灯がどこか物悲しげに自分の影を伸ばしている。

 謎の衝動に押されるががまま駆け出したマキアスは、しかしすぐにクールダウンした。

 走りは歩みに変わり、てくてくと一人、当てもなくさまよう。

 本当になんだったのだろう。さっきのユーシスの雰囲気は。

 多分、僕だったから気づいた。他のみんなだったら、もしかしたら疑問にも思わなかったかもしれない。その程度の些細な変化なのだ。だが体調が良かったから、というのとは少し違う気がする。

 適当に歩を進めている内に、いつのまにか教会の前にまで来ていた。

 その敷地内にロジーヌが立っている。彼女はぽーっと空を見上げて、手を組み合わせていた。

「やあ。夜なのにお祈りしているのか?」

 声をかけるも反応がない。聞こえていなかったのかもしれないので、少し大きめの声で、

「おーい?」

「ああ、はい。失礼しました。何でしょう?」

「いや、夜なのにお祈りしているのかって……」

「そうですね。月が綺麗ですね」

 会話が成立しない。うっとりと夜空を振り仰いだままだ。確かに大きな満月は出ているが。

 ユーシスといい、今日はみんなが変になる日なのだろうか。

「深く考えてもしょうがないかもな……」

 ただ単に機嫌が良かっただけ。そんな可能性も大いに在り得る。

 そう結論付け、ロジーヌは置いて、第三学生寮に歩先を向け直したときだった。

「シャッ」

「キュッ」

 そんな鳴き声と共に、物陰からぴょこりと姿を見せる小さな影が二つ。

「クロにルーダじゃないか。また旧校舎を抜け出してきたのか?」

 飛び猫とドローメである。

 煌魔城突入作戦の折には、カレイジャスに残って学院生たちの助力をしてくれた二匹。戦いが終わった後は、寝床をカレイジャスから旧校舎の地下に戻して、以前の暮らしを続けてもらっている。

 マキアスも足しげく彼らに会いに行っているが、こうして彼らから会いに来ることもある。うまく人の目にはつかないようにやってくるので、今のところトリスタで魔獣騒ぎが起こったりはしていない。

 だが頭数が増え過ぎた。旅先でクロたちが引き連れてきた魔獣は多い。旧校舎地下で内緒で住まわせているが、果たしていつまで隠し通せるものか。

 すでに旧校舎の一層は最下層並の魔獣の密度になっていて、もはやⅦ組でもやすやすと突破するのは困難な状態だった。頭目たる二匹の指示なのか、自分に牙を向けてくることはないのだが。

 危険性がないと言っても信じてはもらえないだろう。カレイジャスにクロとルーダが乗艦するときでさえ、あれほど揉めたのだから。

 そろそろ彼らにとっての新天地を考えた方がいいのかもしれない。

「ははは、コーヒーでも飲みたくなったのかな。でも寮に帰ってから豆を挽くのは時間がかかるし……よし。《キルシェ》で買ってきてやろう」

 大衆喫茶とはいえ、あの店は良い豆を使っている。この時間ならまだ閉店には間に合いそうだ。

 魔獣たちを連れて、中央公園を横断し、《キルシェ》へ向かう。すぐにカフェテラスが見えてきた。

 さすがに夜にテラスを使う客はいないらしい。ガラス窓越しに店内をのぞいてみる。

「よかった。店じまいの準備はしていないな。お客さんがまだいるみたいだし……ん? んん?」

 窓際の席に向かい合わせに座っているのは――

 

 

「――ということでして、協力頂けないかと……」

 リィンはとある相談をクレアに持ち掛けていた。

 クレアは手にしていたカップを、一旦テーブルの上に置いて、

「素晴らしいと思います」

 うんうんとうなずいてくれた。店内の端っこの小さな卓。すぐそばの窓に彼女の横顔が映っている。

「よかった。トリスタにはあくまで仕事で滞在されているので、ダメ元での相談だったのですが」

「私もそこまで杓子定規ではありませんよ。ぜひ力添えさせて下さい。それで具体的には何をしようと考えているんですか?」

「それが……まだ検討の最中でして。Ⅶ組でも意見がまとまってないんです」

「なるほど。企画段階と。時間はあまりないのでは?」

「ええ、二週間は切っていますから」

「それにしても驚きました。まさかそのような話になっていたなんて……」

 全員で示し合わせたわけではなかった。たまたま個々の事情とタイミングが重なっただけだ。

 二週間後の卒業式を境にリィンを残し、Ⅶ組の仲間たちはいなくなる。

「俺を除く現Ⅶ組の九名は、個々の事情で三から五か月ほどの休学(・・)になる。一応、クロスベルにいた時にも手紙では知らされていました」

「卒業でも退学でもないと。では遅くとも半年すれば、元のⅦ組に戻るわけですね。それまでリィンさんはどうするんです?」

「いや、それが……ちょっと予想外のことになりそうで……」

「あら、言いにくいことですか?」

「なんといいますか……その」

「大丈夫。詮索はしませんよ」

 クレアは小首をかしげる素振りをしつつ、くすくすと笑った。

 話題を本題に戻す。

「そういう事情もあって、Ⅶ組全員でサラさんにサプライズなんですね」

 Ⅶ組の休学と同時に、サラもトールズ士官学院から離職する。彼女は遊撃士協会に戻り、帝国での活動を再開するそうだ。先の内戦を経て――特に《北の猟兵》との邂逅が、その決断に至るに大きい出来事だったらしい。

 サラの思うところはサラにしかわからないが、悩んだ末に決めたことであるのは違いなかった。

 そこでⅦ組として、自分たちを指導してくれた担任教官への感謝を形にして贈ろうという話になったのだ。

「さっきも言った通り、まだ細かいことは決まってないんです。クレア大尉には要所のアドバイスや、実際のプラン立てなどにも入ってもらえると助かります」

「もちろん。ただイベント立案なんかはトヴァルさんが得意では? 彼への協力要請はしないのですか?」

「するつもりです。明日、所要があってユミルに向かうんですが、トヴァルさんも別件で呼び出されたそうで。その時にでも話そうかと」

「別件?」

「詳しくは俺も知りません。なんでしょうね」

 自分の故郷が関わるのだから、気になるところだ。

 ちなみにトヴァルさんにもサプライズの協力をという案が出た時に、アリサを中心に何人かから難色を示されてしまったのだが、それは本人には伝えないでおこうと思う。

「いずれにせよ、改めて私と皆さんでミーティングの機会を設けましょう」

「サラ教官には内緒にしないといけませんしね。悟られたら台無しになってしまいますから」

「ひとまず外出時を狙ってみましょうか。……あら、リィンさん」

 クレアの指がリィンの口元にそっと触れる。

「さっき食べたケーキのクリーム、ついたままでしたよ」

「あ、すみません。……恥ずかしいな」

「気にしないで下さい。可愛らしいところもあるのですね。ハンカチをどうぞ」

「こ、子ども扱いしないで下さいよ、大尉」

「ふふ、怒らないで。私が世話を焼きたいんです」

 ピシッと窓ガラスにヒビが走った。

「どうしました?」

「い、いえ。なんかいきなり窓が……?」

 和やかな空気に刺さる不穏と不吉。ざわざわと落ち着かない気分になる。平穏を害する者が近くにいる。

 まさか刺客か。俺はあまりにも戦争に関わり過ぎた。あり得ない話ではない。

「すみません。ちょっと外に出ます。すぐに戻りますから」

「え、リィンさん……?」

 街の人たちを巻き込むような真似だけはさせない。

 最大限の警戒を払いつつ、リィンは《キルシェ》から外に足を踏み出した。

「うっ……!?」

 一帯に殺気とも邪気ともつかぬ濃い瘴気が充満している。まるで煉獄への門が開いたかのようだった。

 発生源はどこだ。正面、右、左、違う、上。上だ。

 青白い満月を背にして、教会の尖塔に誰かが立っていた。

「マ、マキアス……なのか?」

 黒く染まった逆光のシルエットの中に、メガネだけが怪しく輝いている。

 地の底から響くような彼の声が、闇の向こう側から届いた。

「修羅という言葉を知っているか?」

「ま、前にもあったぞ、この展開」

 思い返すにユミルの雪合戦の時だったような。

「リィンよ。生死の瀬戸際からの生還。心から嬉しく思ったものだが、それはそれ。罪は罪として裁かれなくてはならない。わかるな?」

「いや、わからないぞ」

「生きてそこに立っていることを、後悔させてやろう」

「そ、それ仲間の台詞じゃない!」

 全身の肌が粟立つ。怖気が背すじを這い上る。首元に迫る謎の圧迫感。

 マキアスのシルエットが変貌した。うねうねと触手らしき影が妖艶に踊り、頭からは羽の輪郭がばさりと両側に広がる。キューキューシャーシャーと人ならざるものの雄叫びもこだました。

「これぞ魔の力」

「魔キアス……!」

「君の鬼の力さえも取り込んで見せようか」

「魔鬼アス……!」

「ふ、悪の道に堕ちるのも一興だろう」

「魔鬼悪ス……!」

「怨敵を討ち滅ぼすためなら、僕自身に魔を巣くわせることもいとわない」

「魔鬼悪巣……!」

 あいつは一体どこに行こうとしているんだ。

「罪には罰を。君の全てをもって贖え、リィン・シュバルツァー!」

「くそっ、正解の対応がわからない……!」

 黒に染まりし修羅メガネが、教会の尖塔からこちらに跳躍してくる。ヒョオオオと風を切り、がっつりショットガンの筒先を向けてきた。

 狂える殺人鬼そのものだ。まさか内戦の終わった先で、仲間に命を狙われるとは。

 身を守れる武器は携行していない。やむを得ない。ああ、もう、どうなっても知らないぞ。

 リィンは拳を突き出した。

「ふん、無手の型で挑もうなどと――」

「来い、ヴァリマール!!」

  

 

 ――つづく――

 

 

 

 

 

 

 ――another scene――

 

「せりゃあ!」

「うおりゃあ!」

 アルゼイド流の道場に、威勢のいい掛け声が弾けていた。

 巻き藁で作られた稽古用の打ち込み人形に、勢いよく木剣が振るわれる。

「死ねやあリィン!!」

「屑リィンがよお!!」

「砕けろ、壊れろ、飛び散らせえ!!」

 呪いの罵倒と共に乱れ舞う木剣。打ち込み人形の顔面には、誰あろうリィン・シュバルツァーの顔写真が張られていた。否、釘で額部分を打たれて固定されていた。

「ダット、アレス、フリッツ。精が出るのは良いことだが、少し感情が剣に乗り過ぎではないかな。それでは刃筋が乱れてしまうぞ」

 血気怒気たぎる門下生の三人をいさめたのは、まとめ役であるガヴェリだった。

 やれやれと肩をすくめて自分の木剣を構えた彼は、鋭く一閃。

 直後、リィン人形の首から上が飛び、床にごろごろと転がっていった。

「このように殺気は剣の裏に乗せねば」

 にこりと笑う。目は笑っていなかった。

 リィンの頭部は道場の入口へと転がり、誰かのつま先に当たって止まる。

 ガヴェリは焦って一礼した。

「こ、これは師範。お見苦しいものを……」

「よい。皆、稽古を続けてくれ」

 ヴィクター・S・アルゼイドは軽く手を掲げてみせた。緩んでいたわけではない空気だったが、ぴりりとさらに締まる。

 内戦時は西部で活動していたヴィクターも先だってレグラムに帰還し、ようやく通常の領地運営に手を付け始めたところだった。

 彼は足元のリィン人形の頭を見下ろして苦笑する。

「まったく。リィン君はアルゼイドの試練を見事に突破してみせたのだろう。貴君らがラウラを大事に想ってくれることは素直に嬉しいが、娘の友人関係くらい認めてやってはくれまいか」

「は……」

 師の懐の広さに恐縮し、ガヴェリたちは頭を垂らす。

 ちょうどそこに執事のクラウスもやってきた。

「おお、そなたからも言ってくれ。ラウラの交友について、中々に理解を得るのが難しい」

「そのお嬢様のことでご報告が。密偵からの確かな情報でございます」

「ふむ? 聞こう」

 クラウスは最大限にかしこまって、うやうやしく床に片膝をついた。

「内戦の最中、ラウラお嬢様がリィン・シュバルツァーに告白をしたと」

 リィン人形の頭部が爆ぜ、その粉々になった欠片が飛び散る。驚異的な速さでヴィクターが踏み潰していた。

 門下生たちの反応は様々だ。頭を壁に何度も叩きつけ荒れ狂う者。滝のような血涙を流して崩れ落ちる者。生きる意味を失い、首をくくろうとする者。

 たまたま道場の手伝いで居合わせたクロエ、セリア、シンディのラウラ親衛隊は、

「§Δ±Γ§Γ」

「ΔΝΔ§×ΣΠ」

「δΓνΓ…ΟΞ」

 言語能力を失い、散らばったリィンの欠片を拾い集めては無表情で火をつけていた。

 混沌の現場の中で、クラウスは続ける。

「さらにお嬢様の告白から数日後、リィン畜生――失礼。リィン様は同じⅦ組のアリサ・ラインフォルト嬢からも同様に告白を受けております」

 慈悲なき追加情報に、門下生たちはのたうち回った。

「ぎゃあああ! もうやめてくれえ!!」

「この世の不条理に神経という神経が焼き切れちまいそうだぜえ……」

「殺ス! 殺ス! 殺ス! 臓物デ蝶々結ビシテヤラアーアォッ!」

 精神の均衡がもはや保てないのだ。堕ちゆく剣士たち。格式高いアルゼイドの道場は、あまねく修羅の量産工場と化していた。

 ヴィクターだけは努めて冷静に口を開く。

「して、彼の者の返答は」

「保留、と」

 ブチィと何かが切れた音がした。

「しばし留守にする。行先はルーレ。ラインフォルト本社。ああ、それとクラウス」

「は」

「ガランシャールを持て」

「御意」

 

 

 ●

 

 

 ラインフォルト本社ビル。その会議室に重役たちが難しい顔を並べていた。

 各開発部の室長が勢ぞろいで、その最奥に座するのはもちろんイリーナ・ラインフォルトその人である。

「――報告は以上となります」

 プロジェクターの前に立っていた一人が、諸々の説明を終えた。

 内戦における利益。あるいは損害。今後の運営体制の見直し、その方針。などなどだ。

 損害項目の中には、ハイデルがレジェネンコフ零式を持ち出し、ユーシス達と交戦した会長室も含まれている。その修復費用の請求先はアルフィン皇女の指示でオリヴァルト皇子だ。

 議題の討論もし尽くし、会議も終盤に差し掛かった頃合いで、

「ああ、そうそう。もう一つ報告があるのだったわ」

 イリーナがそう言った。女帝の一声に、役員たちの背すじも伸びる。

「アリサがね。告白したらしいのよ。同じクラスの男子に」

 ざわつく一同。

「なっ、アリサお嬢様が!?」

「そんなっ、そんなっ……!」

「その情報は間違いないのですか!?」

「事実よ。シャロンからの報告だもの」

 うなだれる一同。

 アリサは子供の時分から本社ビルを自由に歩き回っている。社員たちからは蝶よ花よと可愛がられ、しかしそれを鼻にかけることなく誰にでも自然体で接する彼女に、苦労知らずの会長の娘だのとやっかむ者など一人もいなかった。

 要するに、みんなアリサお嬢様が大好きなのだ。

「よもやこの日が来ようとは……」

「会長。その男子の名前は?」

「リィン・シュバルツァー」

「リィン・シュバルツァー……っ!」

 ぎりっと歯ぎしりの音。

 イリーナはシャロンから送られてきた辞書ほどもある分厚い報告書の束をめくりながら、ふんと鼻を鳴らした。

「あとアリサが告白する数日前に、他の女子からも告白されてるらしいわ。ラウラ・S・アルゼイド。同じⅦ組ね」

 目を見開き、絶句する一同。

 全員が年代物のトランシーバーを取り出すと、ダイヤル式で導力波を設定して、それぞれがどこぞと通信を始めた。

「第一開発室室長だ。装甲車を八台回せ。大至急でな」

「列車砲スタンバイ。目標はトリスタ、第三学生寮二階、リィン・シュバルツァーの私室。速やかに撃ち抜け。全責任は第二室長の私が取る」

「こちら第三室長。火力支援を要請する。オーバー」

「落ち着きなさい」

 イリーナが指で机をトンと叩く。それだけでメラメラと怒りの炎を灯していた室長たちは大人しくなった。

「まあ、いいじゃないの。娘が選んだ相手にとやかく言うつもりはないわ。私も彼のことを知らないわけじゃない。ただ、そうね。本心を試したくはある。母心というものかしら」

「試すとは……?」

「先に名前の出たラウラ嬢。どうやらレグラムの街を上げて、リィン君に試練を課したみたいなのよ。もっとも件の告白の前ではあるらしいけど。領主令嬢に相応しい相手か否かを見定めるために」

 トントンと机を指で二回たたくと、正面にスクリーンが降りてきた。

「さすがは歴史の古い街。面白い慣習よね。それに倣って私たちもやってみようと思うのよ」

 スクリーンに映し出されているのは、本社ビルの見取り図だ。色々な箇所にマーキングがなされ、ところどころに物騒な文字がちらついている。

「題して“ラインフォルトの試練”。あなたたち室長には、そのフロアに様々な仕掛けを施して欲しい。できるわよね?」

 ノーと言える者などいるはずもない。一人が挙手する。

「無論、アリサお嬢様の為にリィンとやらを亡き者に――いえ、その資質を試すことに異論はございません。しかし特殊なフロア改装とまでなると、図面の引き直しや資材の調達など、特に人手が足りないこの時期では難しいと思いますが……」

「ああ、それなら大丈夫よ。サポーターの手配はできているから。とびきり優秀で、かつⅦ組に因縁のある方のね」

「サポーター……でありますか?」

 会議室の扉が開き、白衣の老人がつかつかと入ってくる。彼の姿にさしもの役員たちも驚きを隠せなかった。

「先日にご退院されたばかりだけど、快く申し出を受けて下さった――G・シュミット博士よ」

 ろくな挨拶もせず、シュミットはスクリーンを見つめている。不意ににたりと笑った。

「話は決まりね。とりあえず誰か、アリサを(さら)ってきてちょうだい」

 イリーナは両手をあごの下で組み合わせる。

 商品の発注でも頼むみたいに、母は娘を誘拐するよう指示を出した。

 

 

 ● ● ●




こんにちは。毎日暑いですね。塩分水分が必須の時期になりました。みなさんお気を付けを。

最後の二週間が始まりました。色々なキャラクターにスポットを移しながら、エンディングへと繋がる物語となります。
無事完結できるか打ち切りエンドになるかは、リィンが生き延びれるかどうかにかかっていますね。

もうしばしの応援とお付き合いを頂ければ幸いです!

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