虹の軌跡Ⅱ Prism of 《ARCUS》   作:テッチー

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第113話 刃持たざる者たちの戦い

 パンタグリュエルが原因不明の降下を始めている。

 このまま降下角度と速度が変わらなければ、ヘイムダル市街に250アージュ級の戦闘艦が落ちる。帝都の周囲外壁に到達するまで、残りは九分。それまでにパンタグリュエルのシステムをオペレーター全員でハッキングして、その操艦をカレイジャスで行えるようにする。

 Ⅶ組に同行しているサラに、こちらの現状は伝えた。船首甲板ではルーファス・アルバレアに捕捉され、ユーシスが交戦中とのことだ。

 ルーファスの発言から、この異変は彼も把握していなかったらしい。誰にとっても不足の事態ということか。もし致命的な機器トラブルが原因だとしたら、ハッキングでの機能復旧など到底無理だ。

 だからそこは賭けになる。ただ全力を尽くすしかない。

 艦長席を降り、空いている端末席の一つに座るトワはブリッジクルーを見回した。

 臨時で手伝ってくれるアルフィン皇女、急遽ドックから呼び出したジョルジュをはじめ、ステファン、ブリジット、ヴィヴィ、リンデも準備はできているようだ。

 そして決死の作戦の要となるメインプログラム入力者――ミントも専用席についている。彼女が選ばれたのは、タイピング試験でトップの成績を収めていたからだった。

 楽天的なミントだが、この時ばかりはその性格がプラスに活きる。下手な緊張はタイプミスを誘発するからだ。

 ここからはスピード勝負。もう一秒も無駄にできない。

「これよりパンタグリュエル中枢システムへのハッキングを開始します。ミントちゃん、行くよ!」

 トワが言うも、ミントは応じない。自分の端末のモニターを凝視している。よほど集中しているらしい。いや、これは――

「ミ、ミントちゃん……?」

「あ、あはは、あたし、ちょっと無理かも……」

 ミントの指は震えていた。

 

 

《――刃持たざる者たちの戦い――》

 

 

「あ、あのさ、誰か代わってくれないかなーって」

 指だけではなく、声も震えていた。足先が冷えて、感覚が鈍い。肩が強張って、首がギシギシする。

「すまないが、なんとかやってもらうしかない」

 ステファンはミントにそう言う。

「な、なんで? あたしにはできないし」

「とにかくタイピングの速さが必要だ。ミント君が一番可能性がある」

「あ! ト、トワ会長は?」

 懇願の目をトワに向けたが、彼女も首を横に振った。

「ステファン君の采配が正しいと思う。ごめんね。今はミントちゃんに頼るしかないの。でも私たちも全力でサポートするから」

「そんな……無理、無理……」

 ずっと裏方だった。それが自分に合っていると思っていた。こんな大きな作戦の中心に自分が入るなんて、考えたこともなかった。しかも失敗したときのリスクは計り知れない。

 パンタグリュエルは綺麗に墜落してくれない。市街地に滑り込むような形で突っ込むことになるだろう。民家、施設を250アージュの巨体ですり潰しながら、下手をすれば数セルジュ近くに渡って破壊をまき散らす。途轍もない質量爆弾だ。さらにパンタグリュエルには弾薬がごまんと搭載されているはずだ。引火しようものなら、地区一つを丸ごと吹き飛ばすほどの大爆発が発生する。

 敵艦内にいる制圧班はもちろん、カレイジャスも木っ端微塵だ。

 惨事の光景と被害者の数を想像しただけで吐き気がする。帝都には実家のある学院生も多かった。せっかくお互いの想いが成就したブリジットとアラン。二人の幸せだって消えてなくなる。

 責められる。恨まれる。とても背負いきれない。

「あ、あたしさ。肝心なところでいつも失敗しちゃうんだよね! さっきだってマップを読み間違えて、モニカちゃん達を船倉に誘導しちゃったし! だからね、あんまりこういう立場になっちゃダメだと思うんだ。多少タイピングが遅くても、正確にできる人がやった方がいいと思うな、うん!」

 ハッキングを始める準備はすでに整っている。ブリッジの防弾ウィンドウの向こうで雲が後ろに流れていく。こうしている間にも時間と艦は進んでいる。

「……お願い、代わってよ。誰か何か言ってよ」

 なんで? あたしより上手にできる人、絶対いるのに。みんなもそう思うでしょ。どうして誰も味方してくれないの。

 ずるいよ。あたしに押し付けて。本当は自分がやりたくないだけじゃないの? やだよ、みんなが敵みたいに見えちゃうよ。

『ミント。聞こえる?』

 その時、ブリッジに通信が入った。《ARCUS》からの導力通信。

 エリオットだった。

 

 

 高度を落とし続けるパンタグリュエルの甲板の上で、ユーシスとルーファスが幾度も切り結んでいる。刃が打ち合う度に火花が散った。交わる宮廷剣術の優美さは、さながら鮮やかな舞を見ているかのようだった。

 兄弟の戦いを視界に入れながら、エリオットは《ARCUS》の音声口に声を吹き込んだ。

「ブリッジの状況は聞いてる。ミント、がんばって」

 少しの無言のあと、ミントが応答した。

『あはは、おかしいよね。あたしがみんなの中心でこんなことやるなんて。できないよね。エリオット君もそう思わない?』

「僕は思わない。最初からできないって判断してたら、ステファン先輩はミントを指名したりしないはずだから」

『あたし、大きな期待ってされたことないんだ。色んなこと失敗しちゃうから。でも“ミントだから仕方ない”って許してもらえることも多かったし、あたしもそれでいいって思ってる。でも今失敗しちゃうと大変なことになるよね。“ミントだから”では許してもらえないよね……』

「やる前から失敗すること考えてたら、何もできないよ。誰かがやらなきゃ、どの道パンタグリュエルはヘイムダルに落ちるんだ」

『だったらあたしじゃなくてもいいじゃない!』

 感情をむき出しにして叫ぶ。いつもの間延びした口調じゃなくなっていた。喉のかすれた涙声だ。

 どうしようもなく怖いのだろう。

 ……彼女の気持ちがわかる。僕は君と同じ立場に立たされたことがあるから。

「聞いて、ミント。作戦が成功するかどうかなんて単なる足し引きじゃ測れない。ミントがやるから失敗するわけでも、やらないから成功するわけでもないんだ」

『………』

「双竜橋で姉さんが貴族連合の人質にされた時、僕は奪還作戦の前衛だった。だけど本当は後衛でバックアップが良かったんだ」

『……なんで?』

「自分がミスをして全体の失敗になるのが嫌だった。僕のせいで姉さんを失うのが怖かった。だから作戦の成否に関わらない位置にいたかったんだよ」

『それでも前衛に行ったんだよね? どうして?』

 みんなに背中を押されたから――ではない。厳しい言葉で、でも心から想って、僕を導いてくれた人がいる。

「男にはやらなきゃいけない時があるって。だけどその瞬間が訪れた時に、必ずしも準備万端だとは限らない。それでも足を前に出せるやつが、きっと何かを成せる人間なんだって――頼りになるお兄さんに言われたから」

『あたし、女だよ?』

「そこは論点じゃないんだけど……」

 こんな時でも、ずれているところは相変わらずミントだ。それでいい。人は急には変われない。今の自分のままで、できることを精一杯にやればいい。そのあとについてくるものが結果だ。

「その人がカレイジャスを降りる時、別れ際に僕は言われたんだ。『いつかエリオットと同じような苦境に立つ人がいるかもしれん。その時はお前さんがその人の支えになってやれ。お兄さんとの約束だぜ』って。……状況は違うし、背負う命の多さも違う。でもミントの怖さや苦しさ、僕はわかるよ」

『エリオット君………』

「誰もミントにだけ押し付けようなんて思ってない。ブリッジのみんなはミントを支えてくれる。ミントならできるって僕は信じてる。……この言葉は重荷になるかな?」

『それは……大丈夫。でもやるだけやって失敗したら? 失敗の規模が大きすぎるんだ……』

 エリオットはくすりと笑った。その問いはかつて自分もした。そして、そのお兄さんからはこう言われている。

「そういうことを考える人ほど、結局最後まで足を出さないもの――なんだってさ。やってもやらなくても、すぐに結果は来るよ。だったらやるだけやろう。僕たちは自分にできないことをミントに託すんだ。それでダメなら他の人がやってもきっとダメってこと。誰もミントを責めたりはしない」

 ミントは押し黙る。通信口の向こうの様子は見えない。伝えたいことは全部伝えた。頼りになるお兄さんのようには、うまく言葉にできなかったかもしれないけれど。

 しばらくして、鼻をすする音が聞こえた。

『わかった。やってみる』

 

 

 目じりの涙を袖でぬぐい、まだ動きの硬い指先をキーボードに乗せる。

 エリオットの言葉で決意を固め切ったわけではなかった。気持ちが軽くなったわけでもない。まだ怖い。やるだけやってダメなら仕方なかった、という割り切りをするには、さすがに状況が悪すぎる。

 それでもこの場から逃げ出さないぐらいの精神状態にはなっていた。

「ごめんね、みんな。サポートしてね」

 そう言って、開始を告げるタイプを弾く。それを合図に目配せをし合い、ブリッジメンバーもキーボードを叩いた。

 ハッキング、もといクラッキングを高速で進める。

 カレイジャスの演算能力をフル稼働。数十万通りのパスの試行。システムの脆弱点の突破。不正プログラムの走行。マスターの管理権限の移行。その手順のほとんどをミントは理解できていない。全ての道筋はステファンが作ってくれていた。

 モニターに流れてくる数列情報を、そのまま打ち込んでいくだけだ。

 張り詰めるような緊張感の中、ブリッジでは全員のタイピングの音がマシンガンの銃撃のごとく響く。

 パンタグリュエルは止まらない。大気の壁を押し分けるようにして、巨船が触れる雲を蹴散らしていく。帝都外壁に到達するまでに不時着させる必要があるのだから、速度を落とした上で、逆に降下角度は強めなくてはならない。

 あとどれくらいだろう。高度計に目をやる余裕どころか、まばたきさえしている余裕がない。

 何か一つでも打ち間違えれば、そのリカバリーに余計な時間を費やすことになる。そうなれば時間内のハッキングは確実に失敗だ。

 だが徐々に指の動きは滑らかになってきていた。タイピングの速さも正確さも増してきている。システムの移行率は75パーセント。もうこちらでパンタグリュエルの隔壁の操作さえもできる。

 短時間でもいい。あとは操艦システムにさえアクセスできれば――

「パンタグリュエル、帝都外壁を通過っ!」

 警報アラートと共に、リンデが叫んだ。

 250アージュ級飛行戦艦が、ヘイムダルに進入した。

 どうして。早すぎる。真っ白になる頭に疑問が浮かび、考えるまでもなく答えは出る。早いのは体感だけのことで、状況は予定通りだ。距離と速さから算出した時間の通りに、パンタグリュエルは帝都に到達したのだ。

 単純に間に合わなかった。最初に自分がごねたせいで、タイムロスも発生している。そう、自分のせいで。

「あ、あ……っ」

 さらに最悪が起きた。動揺と硬直で、入力を打ち間違えた。盛大なタイプミスだ。何をどうやっても覆せない、取り戻せない失敗。

 直下の市街の様子が、メインスクリーンに映し出されている。ちょうどヴァンクール大通りの真上だ。大きな船底の落とす影に、幅の広い公道が暗く塗り込められている。艦は尚も進んでいた。落ちるとしたらどこだ。サンクト地区か、オスト地区か、いやどこに落ちようとも甚大な被害が――

「止まるな! 打ち続けるんだ!」

 ステファンの激が飛び、ミントはびくりと背を伸ばした。

「高度は600アージュ。地上までは目鼻の距離だが、家屋に接触するまでの最後の猶予がある。当初のタイムリミットは越えてしまった。だからマイナスからのスタートだ。この降下スピードなら、あと300秒! 本当の臨界点まで、まだ五分はあるんだ!」

「で、でも、あたし、タイプミスしちゃった。もう間に合わない……」

「モニターを見てくれ」

 顔を上げる。じわりと滲んだ視界に、先ほどの入力ミスは映っていなかった。

「な、なんで?」

「なんでって、私たちが修正したからよ」

 ブリジットが言った。

「何のために全部の端末を並列で繋いだと思っているの。ミントが打ち間違えたって、私たちが直すわ。あなた一人でやってるんじゃないんだから。……というかサポートするって言ったし、その内容もステファン先輩が教えてくれたじゃない」

「あ、あはは。ごめんね、聞いてなかったかも……」

「わかったら早く作業に戻って。お話してる時間はないわよ」

「うん!」

 エリオット君の言う通りだった。あたしは支えてもらってた。

 うん、やっぱり怖いよ。けど。なんだか大丈夫って気がする。

 やっと。やっと。気持ちが固まった。

 ミントがタイピングを再開する。先ほどまでとは比べ物にならない突風のような速さでキーボードを弾き、そして嵐のようにミスを乱発する。ミントは気にしない。さらに打ち込みを早くする。その入力を追いかけながら、全ブリッジクルーがミスのリカバリーに注力した。

「……! くそっ! ほとんどの機能を掌握してるのに、操艦システムのプロテクトだけが破れない!」

 ステファンが髪をかきむしる。手は止めず、トワが聞き返した。

「方法は!? 他に方法はないの!?」

「やはりパンタグリュエルのブリッジだ。舵を直接奪うしかない!」

「けど制圧班はもう……」

 異常をきたしたブリッジに突入した制圧チームはことごとく消息不明だ。通信も繋がらない。

「ブリッジに向かえる人が誰もいないよ……!」

『私が行く』

 そう返してきたのは、アンゼリカだった。

 

 

「通信は繋いだままだったからね。状況は把握できている。ブリッジを制圧すればいいんだろう? 当初の目的のままだ」

『五分以内にだよ!? アンちゃん今どこにいるの?』

「第六層、連絡通路の中腹だね。ブリッジは七層だから、多分私が一番近い位置にいる」

 オペレーターがハッキング作戦に入ってから、ナビゲーションは中断されていた。半分以上は勘で、アンゼリカはここまで進んできていた。

「最短距離で向かう。トワ、私のナビを頼めるかい?」

『うん、任せて! ステファン君たちはハッキングを続行ね!』

 オペレーターたちの了解が聞こえる。ぱきりと指を鳴らして、アンゼリカは走った。

『次の曲がり角を右に! そこから直進すればすぐに上層に繋がるリフトがあるはず』

「わかった。――いや、ダメだ。隔壁が降りている」

 進路の先が、分厚いスチールシャッターに塞がれている。拳で破れるか? 逡巡したのもわずか、その隔壁は自動で上昇し、天井に格納されていった。

『隔壁の操作はもうこっちでできるからね。その先に三つある隔壁も今から全部解除するよ』

「頼もしい限りだ」

 次の隔壁を抜け、さらにその次も抜ける。三つ目の隔壁は上がっている最中だ。

 その時、トワが焦った声で言った。

『最後の隔壁の向こうで待ち伏せされてる! カメラに映ってるのは二人! 銃を構えてるよ!』

「了解した」

『迂回を! 手前の角を左に逸れて!』

「それはしない」

 ゆるゆると上昇する隔壁を待ってはいられず、空いた隙間にスライディングで突入。すぐさま体勢を戻して、アンゼリカはまた走る。

 トワの言った通り、通路の先では兵士が二人、銃口をこちらに向けていた。発砲される。かろうじて回避。スピードは落とさず、前に出る。

『アンちゃん!?』

「ブリッジメンバーが決死の覚悟で切り開いてくれた道だ。私は絶対に真ん中を通る」

 身を低くして、さらに加速。二発目の銃弾が耳をかすめた。かまわず突進。間合いに踏み込むと同時に、一人目を一撃で打ち倒す。そいつが倒れるよりも早く、遠心力を乗せた回し蹴りで二人目を壁に叩きつける。

 二秒とかからず二人を撃退し、振り返らずにアンゼリカは駆け抜けた。

 通路の最奥。リフトを操作し、最上層へ。

「着いた。ブリッジだ」

『……気を付けて、アンちゃん。何が起こってるか、見当がつかない』

 第七層では戦闘の形跡がなかった。敵兵の姿も見えない。

 慎重に行きたいところだが、時間の猶予がなかった。

 アンゼリカは扉を蹴り開け、勢いよくブリッジに踏み込む。

「え……」

 困惑した。

 パンタグリュエルのブリッジはカレイジャスよりのそれよりも遥かに大きく、広かった。

 通信席や砲術士席の数も比較にならない。しかし誰ひとりとして、その席に座っている者はいない。皆が床に倒れている。胸に勲章のついた艦長らしき人物でさえも。

 先に突入したカレイジャス陣営の制圧メンバーも、同様に伏している。

「いったい何が……」

 奇妙なのは、ここでもやはり戦闘の跡がないことか。交戦していないとしたら、両方が倒れているのはなぜだ。仲間たちの安否を確認をしたかったが、今はどうしても先にやらねばならないことがある。

 ブリッジはカレイジャスと同じく防弾ガラスの大窓に覆われている。すでに上空とは言えないほど、高度が低下していた。

 操舵席は――あった。ブリッジの一番前、中央。そこだ。

「………!? うっ……!?」

 急ぎ、歩を進めようとしたアンゼリカの足の動きが止まる。足だけではなかった。手も、指先まで、硬直する。首も動かせない。まるで体が石像になったみたいだ。

「これはこれは。ログナー家のご令嬢ではないか。最後に上客が来たものだ」

 こつこつとブーツが床を打つ音が近づいてくる。足音の主は、アンゼリカの正面まで来ると装飾の施された外套をはためかせ、大仰な一礼をしてみせた。

「直接顔を合わせるのは初めてかな。《身喰らう蛇》が執行者、ブルブランという。さあ、輝かしき一瞬はすぐそこまで来ているよ」

 舞台の演者のような仕草で両腕をかかげ、硬質な仮面の口元が淫靡に嗤う。

 墜落まで三分を切っていた。

 

 

 剣裁きの巧みさは、やはりルーファスの方が一枚上手だった。

 どの角度から切り込んでも、しなやかにいなされる。受けと流し、さらにずらしの技術も一級の腕前で、一合ごとにこちらの刃筋を狂わされてしまう。

 それでもと踏み込み、ユーシスは兄の剣と鍔競りあった

「どうした。私と一人で立ち会うのだろう。本当に剣を変えた程度で、私に届くと思っていたがのではあるまいな」

 魔導剣は一度も使っていない。ルーファスはこの剣の機能を知らない。実力の及ばない相手に対する一撃必殺の奥の手を、まださらすわけにはいかなかった。それに格上相手には、魔導剣のチャージ時間は致命的な隙だ。耐えて耐えて、機を窺うしかない。

 刃の向こう側にいるルーファスの表情には、疲れも焦りも見受けられない。

「パンタグリュエルの異常、本当に関与していないのですか?」

「それは本当だ。もっとも察しはついているのだがね。意思と行動に制限がかからない者というのは中々に厄介だ」

「心当たりがあるのなら、兄上が働きかけて止めてください。このままだと艦がどうなるか、おわかりでしょう!?」

「パンタグリュエルは帝都に落ちる。もう外壁の内側だ。なんの前情報もないまま、巨大戦艦が頭上を低空で過ぎていくのだ。住民はさぞ混沌の中にいることだろう」

「わかっているのなら……!」

「些事だ」

 兄の口から出た言葉だと、一瞬理解ができなかった。些事と言ったのか。大惨事を引き起こすこの事態を、些事だと。手の内から剣が落ちてしまいそうになるのを、ユーシスはかろうじてこらえた。

「ああ、勘違いをしないでくれ。人民の多くに犠牲者が出ることを些事だと言ったのではない。パンタグリュエルの墜落自体が些事だと言ったのだ」

「お、同じことでしょう! これが些事だというのなら、兄上にとっての大事とはなんです!?」

 パンタグリュエルが墜落するから被害が出るのだ。なぜ墜落と被害を別のものとして捉えられる。盤上の駒、という一語が不意に脳裏によぎり、ユーシスは腹が底冷えする心地を味わった。この人には世界がどのように見えているのだろう。

 ルーファスは何も答えなかった。細まった青い瞳の中に、複雑な――とても複雑な感情がちらついた気がしたが、それはすぐにさらに奥へと隠された。

「町がどんどん近づいてるよ! ボクたちも危ないんじゃないの!?」

 甲板の縁から身を乗り出すミリアムが言う。

 その声を耳に入れながら、ぎりぎりと刃と刃が軋みあう。

「心中でもする気ですか」

「さあ、どうだろう。それも悪くないように思えるが」

「何を馬鹿なことを!」

「情に訴えるな。止めたければ、自分たちで止めるがいい」

 ルーファスの剣が押し勝った。ぶんと横一線に振るわれた白刃が、ユーシスを後方へと吹き飛ばす。

 剣先を足場に突き立てて踏みとどまったユーシスは、正面に目を向けなおす。ルーファスの周囲を光陣が取り巻いていた。

 アーツを使用するつもりだ。しかもあの陣紋様の密度は、上級の広範囲アーツ。何を使ってくるかはわからないが、いずれにせよこの位置では自分の背後にまで威力が及ぶ。

「後ろの者たちに手を出さないとは言っていない。数減らしはさせてもらう」

「兄上……!」

 相手は本気だ。情け容赦なしで撃ってくる。甲板の先では十分な逃げ場もない。

 ならば迎え撃つ。

 ユーシスは魔導剣《スレイプニル》を、腰元のオーブメントホルダー《ドラウプニル》に接続した。

 結晶回路から生み出された導力が、アーツの特性を刃に伝播させていく。刀身に押しとどめられたその力は、本来のアーツが持ち得る威力を桁違いにブーストアップさせる。

 ルーファスがアーツを駆動させる方が早かった。《クリスタルフラッド》――急激に収束した冷気が氷塊と化し、一直線に甲板を走る。本来であれば氷の刃が地面を這うようにして襲い来る水属性アーツだが、ルーファスが放ったそれは、優にユーシスの身の丈を越える氷壁だった。横幅など軽く10アージュ以上はある。

 まともに受けられる代物ではない。たとえるなら二回りは大きい列車との正面衝突といったところか。

 ミリアムがアガートラムの防護シールドを展開した。だがこれほどの威力を防ぎきるのは難しい。

 ここで耐えねば、終わってしまう。なによりも、兄の手で仲間たちが傷つくのは嫌だった。だから絶対に、

「俺の後ろには届かせない!」

 足など退かない。ここで撃ち抜く。強い意志に呼応するように、刃が輝きを放った。

 解放される魔導剣。鮮烈な光が爆ぜた。

 

 

『アンちゃん! どうしたの!?』

 通信状態の《ARCUS》から、トワの必死に叫ぶ声がする。「……っ、結社のブルブランだ。パンタグリュエルの異変は彼が引き起こしていたらしい」とアンゼリカは、ひどく動かしにくい喉でどうにかそう伝える。

 ブルブランは両手を打ち合わせた。

「すばらしい。他の者たちは声を発することもできずに倒れたというのに。見事な胆力だ」

「彼らに手を出したのか」

「そう怒っては美しい顔が台無しだ。安心したまえ。命までは奪っていない。もっとも遅かれ早かれかもしれないがね」

 ブルブランはくるりとその場で回ってみせる。この状況を楽しんでいるようだった。

「なぜこんなことをした。なんの利がある」

「利はない。至高の美を見たい。その追及をしたい。ただそれだけさ」

「……至高の美?」

「そうとも」

 ほう、と吐息をつく。

「形あるものが壊れる瞬間、そこに美は生じる。形というのは精緻であればあるほど良い。技術の粋を結集させたこの白銀の巨船が、歴史ある赤き街並みに落ちるその刹那、一体どれほどの美を生み出すのだろう」

「似たようなことをノルドの監視塔に現れた時も言ったらしいね。あのガイウス君を怒らせたとか」

「ああ、ノルドか。燃え盛る悠久の大地というのも見てみたかったものだが」

 つまりこの男の動機は興味か。物を壊して、そこに美しさを見出したいという。

「理解できない。狂っているな」

「芸術家と狂人は紙一重だと言っておこう」

「だからお前は狂人の類だと言っている」

「ずいぶんと辛辣じゃないか。ログナー嬢のお噂はかねがね。私は君も美を探求する同士だと思っているのだよ」

「冗談でもやめて欲しい。会って数分も経たない内で申し訳ないが、私はお前が心底嫌いになった」

 ブルブランは肩をすくめた。何気ない動作が全部演じているように見える。

 くだらない話をしている場合ではない。アンゼリカはいら立っていた。このような感情が呼び起こされたのは、しばらくぶりだ。あの父親と理解し合えない平行線の議論を交わしている時に似ている。

「何千人という無関係な人を巻き込むことになる。それもお前の美か?」

「壊れるのなら、美だろう」

「お前も死ぬぞ」

「それもまた美の一つ」

「よくわかった」

 話が通じないではなく、話にならない。この男が本当に自分の死も織り込み済みなのかは知る由もない。もしかしたら自分だけの脱出経路があるのかもしれないが。

 とにかく会話を重ねること自体が無駄だと理解した。

 アンゼリカは体に力を込めて、無理やりに動かそうとする。全身に激痛が走った。

「ぐっ……うっ!」

「無意味だ。君の影に特殊な小刀を刺して行動を封じている。やすやすと抜け出せるものではない」

『大丈夫!? どういう状況!?』

 トワが何度も呼びかけてくる。

「大丈夫だ、トワ。私は大丈夫だよ。なんの心配もいらない。すぐに操舵席までたどり着く」

『うそ……苦しそうな声してるよ……』

「トワ成分を一時間も補給していないからね。それは禁断症状の一つも出るさ。そっちに戻ったら思う存分に頬ずりさせてもらうとしよう」

 さらに力を込める。奥歯を食いしばって、一歩でも前に出ようとする。引き裂かれるような痛みが襲ってきた。

「やめておきたまえ。それ以上進むと四肢がちぎれる」

「四肢をちぎれば、前に進めるということだな」

 みしみしと手足が悲鳴を上げた。うっ血して、赤い筋がいたる箇所に滲み上がる。

『アンちゃん、無茶しないで! 操艦システムのハッキングを間に合わせるから!』

「……そういえば直接言ってはなかったな。トワに……ジョルジュもブリッジにいるんだったね」

『な、なに?』

「二人とも、すまなかった」

 まもなくパンタグリュエルは墜落する。最悪なことに市街のど真ん中だ。高度は……200を切っている。

「トリスタが占拠された日、私は君たちのとなりにいることができなかった。親父殿からの停学命令だなんて無視すればよかったのに」

『アン、そんなことを気にしていたのか……』

『……アンちゃん……っく』

 ジョルジュの息をのむ気配が伝わってきた。トワは――ああ、また泣かせてしまった。

「私がそばにいたところで、どうにもならなかったと思う。けどずっと後悔していたよ。近くにいて、せめてつらい気持ちを共有したかった。それができなくて、誰が親友と呼べるだろうか」

 背中にも痛みが回る。皮膚がはがれたように痛い。

『待って、待って、お願い、やめて……!』

『すぐに操艦システムを奪う! 馬鹿な真似はよせ!』

「今日こそは力になってみせる。三人でクロウを殴りに行こう。まあその時に腕がなければ蹴るし、足もなければ噛みついてやるさ」

 肩が、腿が、裂けていく。血が滴り落ちていく。

 ブルブランが呆れた様子で言った。

「まさか本気で四肢をちぎるつもりなのかね」

「冗談でいうわけないだろう」

「やめておきたまえ。その壊れ方はまったく美しくない」

「お前とは美に対する認識も、価値観も違うみたいだ。私は本当の美を知っている」

「聞きたいな。君が壊れてしまう前に」

 ブルブランは嘲笑う。アンゼリカは相対する仮面を、真正面から見据えた。

「お前は美しくない。正しく言えば、お前は自分が美しくないことを自分でわかっている」

「……なに?」

 この男の話には作り物めいた違和感しかなかった。何かが矛盾している。

 美を語りながら、しかし自身の中に美を見出そうとはしていない。それら全てを自分の外側に求めている。

「だから盗むんだろう。美で己の周りを固めるために。その装飾過多な格好も、私には薄っぺらな中身を隠したいだけに思える。お前に自覚があるかは知らないがね。わざとらしいよ、美に対するアプローチが」

「ずいぶんと一方的な決めつけだ」

「美を探求するのは良しとして、そこにかすかな卑屈さを感じるのは私の気のせいかな。鬱屈した憧れと置き換えてもいい。数年前のゴシップで怪盗Bに関する記事があったのを覚えている。確か三択クイズだった。答えは明示されていなかったが、あれは多分――」

「もう黙るといい」

 ナイフが投げられ、アンゼリカの影に突き刺さった。一気に体が重くなる。ブルブランの口元から笑みは失せていた。

 その時、地鳴りがした。アンゼリカがぴくりと反応する。

「手足をちぎるのも好きにしたまえ。どうせそれより早くに終わりが来る。私は特等席で見物でもするとしよう」

「それはもったいないな。せっかく本物の美が見られるのに。お前と対極に位置し、身一つで美を体現する本物を」

「いったい何の話を……。おや、体の力を抜いているようだが、もうあきらめたのかな?」

「手足を引きちぎる必要がなくなっただけさ」

「は?」

 地鳴りが近づいてくる。ぎっしぎっしとフロアが揺れる。落下の振動ではない。

 爆発したかのように、いきなりブリッジの出入りドアが吹き飛んだ。

 粉々になった金属製の扉の破片を踏みしだいて、丸いシルエットがぬっと姿を見せる。それはブリッジに視線を巡らせていたが、ある一点で目を止めた。

 床に転がっているヴィンセント・フロラルド、その人に。

「あんたァ……」

 肉厚の頬がぎちぎちと音をたて、その視線がブルブランへと移った。

 握りしめた拳から蒸気が立ち上る。丸太のごとき太腕に血管が浮き出る。ゴパアッと灼熱の吐息が噴き、彼女の周囲を揺らめかせる。

「ヴィンセント様に何してんのよォーッ!!」 

 愛と美に殉じる薔薇の乙女、マルガリータ・ドレスデン。麗しのグランローゼが咆哮を轟かせた。

 

 

 ――つづく――

 

 

 




《刃持たざる者たちの戦い》をお付き合い頂きありがとうございます。

『第37話 休息日アナザー ~白銀の一幕』の《仮面の美》というショートストーリーの中に、ブルブランの今回の行動に言及するクロウとの会話があったりします。そこでマルガリータの話も出ているので、ブルブランは彼女のことも知っています。

だいぶ前ではありますが――ブルブランがなぜこのようなことをしたのか、宜しければどんな会話だったのか今一度ページを開いて頂ければと思います。

それでは次回もお付き合い頂ければ幸いです!

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