虹の軌跡Ⅱ Prism of 《ARCUS》   作:テッチー

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第107話 夢幻回廊

「これは……!?」

 旧校舎に足を踏み入れたリィンは、その異様に大きく困惑した。

 他のフロアに繋がる扉も、昇降機も失せている。周囲には(もや)のような不可思議な光がたゆたい、どこまでもその光景が続いていた。天井と認識できるものもなく、空と見まがうほどに広大だ。

 明らかに旧校舎の面積よりも広い。

 他のメンバーもリィンに続いて入ってくる。Ⅶ組とサラだ。皆も慄然として、辺りに視線を巡らせていた。

「構造が組み変わることはありましたが……これは空間ごと置き換わっているとかしか思えません」

 エマが言う。魔女の知識をもってしても、範疇外の現象のようだ。

 急に前方の景色が揺らいだ。

 光の粒が弾け、空間のゆがみの中心からヴァリマールが現れた。

「自分で転移してきたのか?」

『何者カニ呼バレタ。私ノ意思ニヨル転移デハナイ』

「何者か……」

 そこに意思が働いているとすれば、おそらく先ほどの声の主――《ロア=ルシファリア》だろう。

 しかしそれらしき相手はどこにも見えない。てっきり待ち構えているものとばかり思っていたが。

「状況が不明過ぎるな……。さすがに一度出て、トワ会長に報告を入れた方が――」

 リィンが振り返ると、そこにいたはずの仲間の姿はなかった。一人もだ。さらには入ってきた扉まで消えてしまっている。

「み、みんな……!? ヴァリマール、なにか見ていたか!?」

 向き直るとヴァリマールまでいなくなっていた。あの巨体が目を離した一瞬で? 気配すらなく?

 光のもやが自分の周りに集まってくる。逃げようにも、前後左右を囲まれていた。

 幻想的な虹色が自分の身を覆っていく――

 

 

《――夢幻回廊――》

 

 

「っはあっ! ここは……」

 もやを手で払いのける。ふわつく光が薄れ、徐々に体の周りから離れていった。

 自分の立っている場所を認識して、リィンは目をこすった。

「学院の中……なのか?」

 晴れた視界に伸びる廊下。横並びに続く教室。廊下の窓からはグラウンドが見える。煌々と太陽が照っていた。昼の日差しが廊下に陰影を作る。夜だったはずなのに。

 陽光に温度を感じなかった。それに無風だ。というより空気が制止しているみたいだ。

 生徒の声も足音もなく、生き物の気配さえない。

「誰かいないのか! 返事をしてくれ!」

 大声を出してみるも反応はない。

 その時、あの声が再び頭蓋の内に反響した。

 

 ――ここは夢幻回廊。お前たちが作り出した記憶の世界。世界は回廊に踏み入れた者の数だけ存在し、それらを構成する記憶によって映し出されるものも、また異なる。

 

「俺たちが作った世界? どういう意味だ?」

 それ以上の返答はなかった。

 偽物の空間か? しかしまったくの虚構とは思えないが。《ARCUS》で通信を試してみたが、導力波は誰にも繋がらない。今は進むしかなかった。

 どうやらここは本校舎の二階。すぐ近くにⅦ組の教室があった。

 ひとまずそこまで移動して、ドアに手をかけてみる。あっさり開いた。

 何が起こるかわからない。臨戦態勢は保ちながら、リィンは中に入ってみる。そこに人影を見つけた。

「あ……! よかった、無事だったんだな」

 マキアスが一人、席についていた。

「状況はわからないが、とりあえずみんなを探しに行こう。ケガはしてないか?」

 問いかけるも、マキアスは机にうなだれ「はあ~」と深く嘆息した。

「ど、どうしたんだ?」

「まさかリィンが貴族だったなんてな……。僕に嘘をついていたのか?」

「今さら何を言って……」

「それはまあ、『高貴な血は流れていない』とは言っていたが、だとしてもだ。……くそっ」

 マキアスの正面に回ってみるも、まったく気づかれない。それどころかこちらの姿すら認識していない様子だ。

「明日からバリアハート実習……貴族の都市か。気が重いな……」

 黒板の端に書かれた日付に視線を転じる。

 5月28日。半年以上も前じゃないか。

「わかってるんだよ、本当は。貴族ってだけで、リィンがそういう類の人種じゃないって。けど仕方ないだろう。許せないんだ、どうしても、貴族の全部が。姉さん……僕は――」

 席を立ったマキアスは、そのまま教室を出て行ってしまった。

 俺が貴族ということが知られて、彼がまともに話をしてくれなくなった時期だ。意図的に隠していたと誤解されて、あの頃はてっきり怒っているとばかり思っていたが、その裏ではマキアスなりの葛藤があったのか。

 俺という人間を認めようとはして、けれど過去の経験と感情が邪魔をして、一人で苦しんでいたのか。

「待ってくれ、マキアス!」

 彼を追って、教室を出る。

 廊下のはずが、そこは裏庭だった。飛び出たばかりのⅦ組の教室もなくなり、後ろは校舎の壁面に変わっている。

 小柄な女子が、花壇の前にしゃがみ込んでいた。

 スコップを片手に花の世話をしているのはフィーだ。

「フィー、俺が見えるか?」

 マキアスと同じで反応がない。リィンは彼女の様子を眺めてみる。

 肥料の量を調整したり、新しい花の種を植えたりと、土にまみれながらもどこか楽しげだった。

「嬉しいな」

 じょうろで水を撒きながら、そう言う。

「ラウラと仲直りできたよ。リィンが色々と仲介してくれたんだって」

 仲直り? もしかしてヘイムダル実習の話か。さっきのマキアスが五月だったから、これは七月下旬――いや、もう八月かもしれない。時間が経過しているらしい。そういえばさっきより日差しが強い。温度は相変わらず感じないが。

「リィンってお兄さんみたい。団にはいなかったタイプかな。けっこう口うるさいんだけどね」

「はは……お兄さんか」

 初期の頃は確かにエマよりもフィーを注意していたように思う。スカートがめくれ上がったままリビングのソファで寝ていることなんてざらにあったし、無意識にエリゼの立ち振る舞いと比較してしまって、ついついたしなめてしまうことが多かったのだ。

 お節介なのは承知だが、やはりフィーにはわずらわしかったようだ。

「でも感謝してるよ。毎日が楽しい」

 いけない。ちょっと泣きそうになる。フィーがこんなふうに思ってくれていたなんて。

 草花に話しかけるのやめ、彼女は花壇奥の池へと向かった。じょうろに入れる水を、そこで補給するつもりか。

 なんとはなしに、ついていく。

「あっ」

 池の縁まで歩いた時、フィーが足を滑らせた。「危ない!」ととっさにその腕を引こうとして、しかしリィンの手は彼女の体をすり抜ける。

「うわ!?」

「ふう、危なかった」

 フィーは自力で態勢を立て直したが、自分はそうはいかなかった。成すすべなく、池へとダイブする。

 水しぶき一つ上がらず、リィンは昏い湖面の底へと吸い込まれた。

 真っ暗闇。水中という感覚ではない。

 呼吸はできるようだ。鼻と口を押さえていた手をおそるおそる離し、流れのままに闇のトンネルを落ちてゆく。

 足元にわずかな光が見えた。終着点だ。

 受け身の用意をしつつ着地を決めるつもりだったが、何かを踏みつけた足がバランスを崩す。そのまま派手に転んでしまった。

「あいてて……いや、痛みはないな……?」

 コロコロと転がるのは空のワインボトル。同じような空き瓶がそこかしこに散乱していた。

 うす暗い部屋だ。

 手元を明るくするだけの照明をつけて、サラが机の書類と向き合っている。外は夜。置時計が示す時間は、真夜中の二時。

 俺たちはとっくに寝ている頃だろう。

「んー、リィンはもっとやれると思うんだけどね。あえて力をセーブしてるのかしら……」

 サラが評価しているのは実技試験の戦闘結果だ。

 俺のことで頭を抱えているみたいだ。自分だけじゃなく、他のみんなのデータも分析している。こんなにも夜遅くまで。お酒は飲んでいなかった。

 そこからサラは特別実習の班分けを始めた。相性や抱えている課題を一人一人加味しながら、試行錯誤を繰り返してメンバーを選定している。

 一生懸命に俺たちのことを考えているのがわかる。

 あの班分け、その時のテンションやノリで決めていたわけではなかったんだな。疑ってすみませんでした。

 だんだんと、この〝試し”の中身が理解できてきた。

「俺が見ているのは、〝みんなの俺に関係する記憶”ということか」

 

 ――そうだ。お前に関わる記憶が抽出され、この夢幻回廊は構築されている。これはお前の知らぬ、お前へ向けられた想い

 

 あの声がした。

 やはりそうか。ということは、

「みんなも同じ体験をしているのか?」

 

 ――例外はない。他の者も同様だ。それぞれが自身に対する想いに触れている

 

「……《ロア=ルシファリア》だったな。何者なんだ。なんでこんな状況を引き起こした」

 

 ――我は〝表の試し”である《ロア=エレボニウス》の影。本来であれば、顕現し得ないもの。故にこの〝試し”を望んだのはお前自身だ。他の者は巻き込まれただけに過ぎない

 

「なにを……!?」

 

 文脈から察するに、《ロア=エレボニウス》というのは旧校舎の最下層で戦ったあの敵だ。

 あれが表で、これが裏? 俺がこの試練を求めたというのも、わけがわからない。

 

 ――進め。うつろう灰色よ

 

 何者かの意思が遠ざかっていく。まだ訊きたいことがある。焦って呼びかけたが、応じない。

 いつの間にか、そこはサラの部屋ではなくなっていた。

 カレイジャスの前部甲板の中央にリィンは立っている。カレイジャスは停泊中で、景色を見るにルーレ空港のようだ。

 時系列がまったく把握できない。カレイジャスを運用しているということは、もう内戦は始まっているのか。

「リィンの容態はどう?」

 甲板の端にエリオットがいた。彼はやってきたばかりのガイウスにそう質問する。

「今見てきたが、まだ目が覚めない」

「ゴライアスの爆発を至近距離で受けてるんだし、心配だよ」

「ヴァリマールがすぐに核の中にリィンを戻したらしい。爆風の影響は受けず、大きな外傷もないそうだが」

 これは黒竜関での戦闘のあとか。ヴァルカンが自機の爆発の中に消え、俺が意識を失っている最中の出来事だ。

「……じゃあやっぱり騎神リンクの負担のせいかな」

「それもあるかもしれないが、精神的な負担も少なくないはずだ」

「うん。多分、リィンはヴァルカンを助けようとしたんだと思う。でもできなかった。目の前で手が届かなかったんだ……」

「それはリィンが気落ちすることではない――と言っても気休めにはならないだろうな」

「優しいからね。僕が言うのもなんだけど……リィンは強いけど戦いに向いてないよ。戦うたびに心が傷だらけになってる。誰かを守ろうとする手段に、自分を犠牲にする選択肢がいつもある気がするんだ」

 俺が戦いに向いていない。そんなこと、初めて言われた。

 エリオットの言葉には、ガイウスも同意した。

「きっとリィンは俺たちを自分の身と引き換えにしても守りたいと思ってくれている。だが同時に俺たちがリィンに対しても同じことを思っていると、いつかは知って欲しい」

 駆け寄らずにはいられなかった。幻影と分かっていても。

「エリオット! ガイウス!」

 前に走っているはずなのに、しかし二人が急速に遠ざかる。

 足場が消えた。上下が逆さまになる。空が下にあった。

 夜空だ。星々が瞬く中を、リィンは落下する。

「ねえ、セリーヌ」

 その声が耳に届くと同時、体の浮遊が止まる。

 目の前にエマの背中があった。どこかのバルコニーの柵に寄りかかって、夜の星空を見上げている。

 辺りは暗いが、かろうじて霧が出ていることは判別できた。バルコニーの向こうには、湖らしきものも見える。そしてこの石造りの屋内には覚えがあった。

 ローエングリン城だ。

 セリーヌに呼びかけたようだが、彼女の姿は近くにない。エマは一人、小さく肩をすくめた。

「いないのはわかってるのに、つい声をかけるなんて……ううん、不安を紛らわそうとしただけ」

 セリーヌが一緒におらず、エマがローエングリン城にいるということは、俺たちと合流する前にレグラムで滞在していた頃か。また時間が巻き戻っている。

「リィンさんは私を恨んでいるかしら」

 リィンは当惑した。なんで俺が彼女を恨むんだ。

 霧は制止して動かず、エベル湖の波もジオラマのように固まっていた。

 完全な静寂の中で、エマの独白だけが耳朶を打つ。

「何も告げないまま――告げられないまま、騎神の起動者にしてしまった」

 エマは座り込み、顔をうつむけた。淡い月明かりが彼女の髪を青白く照らしている。

「最初はこんなに接するつもりはなかったの。つかず離れずの距離を保って、輪の外から見ているくらいがちょうどいいと思ってた。でもダメだった。みんなといるのが楽しかったから。委員長って頼ってくれるのが嬉しかったから。……ごめんなさい」

「あやまらないでくれ。俺は後悔なんかしてない。君を恨んだりもしない。この力があるから、みんなを守れるんだ!」

 思わず口に出すが、届くはずもない。

 リィンは空に叫ぶ。

「俺に何を見せたいんだ! 何が〝試し”なんだ! 答えろ!」

 返答はなく、代わりに降り注ぐ月の光が濃くなった。

 月光が押し拡がり、星の輝きが彩りを帯びる。形を変え、凝集されたその煌めきは、神々しい女神の紋様を浮き立たせた。

「綺麗なステンドグラス! あれがぜんぶ飴細工だったら嬉しくない?」

「黙って祈れ」

 最奥の主祭壇まで伸びる赤絨毯を挟むようにして、縦列に長椅子が並べられている。その一つにミリアムとユーシスがとなり合わせで座っていた。

 この建物の形は、ケルディックの七耀教会だ。

「それにしてもユーシスとマキアスが殴り合うとかさ。セイシュンって感じだよねー。まだ顔腫れてるけど、痛くないの?」

「あいつの打撃などきくものか。これは道端で転倒したのだ」

「あはは、そういうことにしちゃおっか」

 けらけらと笑うミリアムは、「教えて欲しいことがあるんだけど」と、ユーシスの不機嫌顏をのぞき込んだ。

「オーロックス砦の戦いでさ、リィンが重奏リンク使ったでしょ。三人同時に繋ぐやつ。リィンにどんな感覚だったのか聞いたんだけど、重心であることを意識したんだって。それってどういう意味?」

「本人でないから感覚の話はわからん。わからんが……中心ではないということだな。俺たちは性格も価値観も考えも異なっている。それを繋ぎ合わせるのは、単なる真ん中に位置するだけでは不可能なのだろう」

「リィンが仲立ちして、バランスを取ってるってこと?」

「そうとも言える」

 的確な表現だった。重奏リンクを使う時は、確かにそんなイメージだ。

「リィンらしいね。戦闘じゃない普段からそんな感じだし」

「普段からそのようなリィンだから、戦闘中にそれができるのだろう」

「うん。でもそんな力を使わない日が――戦わなくて済む日が来たらいいね」

 ミリアムが言うには意外な言葉だった。ユーシスもそう思ったらしく、「どうした?」と怪訝そうに彼女の横顔を注視する。

「んー、さっきまでお祈りに来てた町の人たち、すごく哀しそうだったもん。戦闘がなければ、そもそも何も壊れたり、なくなったりしなかったのに」

「それは……その通りだ」

「哀しいってあんまりよくわからないけど、いつもそこにいた人がいきなりいなくなっちゃったら、ボクも悲しいって思うのかな」

 ミリアムはもう一度ステンドグラスを見上げた。

「任務って形だけどⅦ組に入って、リィンやユーシスやみんなに会えて嬉しかったな。やっぱりまだ戦いは続くんだろうけど、誰にもいなくならないで欲しいよ」

「無論だ。だが一人で全員を守ろうなどとは思うな。全員がお互いをカバーしあって、ようやく守れるものだ。お前は独断先行の気質があるから、仲間と足並みをそろえる努力をしろ」

「結局お説教かー。じゃあさ、ボクがいなくなったらどう? ユーシス悲しい? 悲しいでしょ?」

「せいせいする」

「ひどいぞー!」

 ミリアムがユーシスに抱き付き、彼らの姿が消える。

 教会に一人残されたリィンは、二人が座っていた椅子に腰かけた。

 ユーシスとマキアスのくだりを聞いて、思うことがあった。

 記憶の道を歩くということで、一瞬はオーバーライズ使用時にも似た現象かもしれないと推測した。

 だが違う。

 オーバーライズ時には、〝強い想いを元に再現された主観による映像が、その感情と共にリンク者にフィードバックされる”のだという。

 だが今、自分を取り巻く現象はそれとは異なり、感情の伝播までは発生していない。これは本当に純粋な記憶なのだ。

 旧校舎に足を踏み入れる際、《ロア=ルシファリア》はこう言っていた。

 〝混じり合う鏡面の想いと対峙し、各々で夢幻の回廊を進め”と。

「鏡面……鏡。俺に向けられる想いを反対の視点から見て、俺がどう受け止めるか……か」

 

 ――そうだ。それが〝試し”。お前が求めたもの

 

 脳裏に響く声。来たか。

「俺が求めたわけじゃない。さっきは中断されたが、俺の質問に答えてもらうぞ。なぜこのタイミングで旧校舎に異変が起こった?」

 

 ――お前は深く悩んでいた。他者から想いを向けられ、自分の想いで返さねばならなくなったが故に。

 だがお前は自身の想いがわからなかった。だから知りたいと求めた。他者が向けるものも自身が向けるものも含めて、想いとは何かを。

 無意識下の、しかし切実な強い思念が我に届き、このような形の〝試し”を作り上げたのだ。

 

「お、俺が原因だっていうのか。だとしても、どうして俺の意思だけが届くんだ……?」

 

 ――お前がこの地の〝表の試し”を越えた灰の起動者だからだ。

 

「……もう一つ教えてくれ。どうなればこの〝試し”はゴールなんだ。何かをさせようというつもりじゃないのか?」

 

 ――言っただろう。これは本来現れることのなかった〝裏”であると。始まりがお前であるなら、終わらせるのもまたお前だ。

 

「何を――っ?」

 景色が教会から変わっていた。

 椅子に座ったままだったが、目の前にはテーブルがある。見慣れた木目調のテーブル。第三学生寮のリビングだ。

「この変化……めまぐるしいな」

 俺が終わらせる? できるのか?

 試しに〝終われ”と念じてみる。なにも起こらなかった。

 リビングの奥、厨房の中から物音がしている。のぞいてみると、エプロン姿のラウラがキッチン台で調理をしていた。

「うむ、次にこれを煮て、調味料を投入か」

 レシピ本を片手に、不揃いな大きさにカットされた野菜を、鍋にごろごろと入れる。

「もうすぐリィンが帰ってくるな。それまでに間に合わせなくては。こほん……あーあー、ああ、リィン? ちょうど試作のポトフが完成したのだが、良かったら味見をしてくれないか? ……よし、今日はこれで行こう」

 このポトフのことは覚えている。寮に帰るや、今の台詞で席に着かされたのだ。

 そうだったのか。偶然じゃなくて、わざわざ俺の為に作っていたのか。もしかして今までの料理も全部……?

「ま、待てラウラ! それは塩じゃないぞ!?」

 調理の最中、その暴挙に気付いたリィンはラウラを止めようとした。

「ふんふんふーん」

 ご機嫌な鼻歌を交えながら、ラウラは謎の粉をダバダバと振り撒いた。

 あの時の味も思い出してきた。交錯するえぐみと苦味。あれは複数の味と味がぶつかるとかじゃなくて、野菜同士の凄惨な殺し合い。それを舌、食道、胃、腸と、順番に戦場を渡り歩いてくるものだから、体の中から徹底的に蹂躙される心地だった。

「そっちじゃない! こっちの瓶だ! ああ!? その緑色の液体はなんだ!?」

 懇願も虚しく、禍々しい何かができ上がりつつある。逃げろ、過去の俺。

「だ、ダメだ! 早まるな!」

「喜んでくれるだろうか」

「だっ……あ……」

 とてもか細い声だった。

「こういうのは似合わないと自覚しているが……それでも女子らしいと思って欲しい私は……間抜けかもしれないな」

「……そんなことはない」

「第一、女子と思われてないかもしれないことが不服なのだ! そこを払拭したいだけなのだ! 私の女子力を受けるがいい!」

「えぇ……」

 誰への言い訳なのか、そう強く宣言するラウラ。女子力とは物理なのか。

「しかし……剣の稽古に誘うのは簡単なのに、料理を食べてもらうのはいつも緊張する」

「ありがとう……と、言うべきなんだろうな」

 リィンは背を向け、リビングに戻る。

 戸口をくぐると、リビングはリビングだったが、寮内ではなかった。さすがにもう驚きはしない。

「次は……俺の家か」

 レンガ造りの暖炉に薪がくべられている。火の揺らめきが制止しているのは、なんとも異様な光景だが――間違いなくユミルのシュバルツァー邸だ。

 パタパタと足音が聞こえた。

「奥様、お掃除終わりました。次は何をしましょうか?」

「とても助かりましたよ、アリサさん。買い物をお願いしたいのですけど、その前に少し休憩しましょう」

 微笑むルシアは、アリサをリビングに通した。

 差し出されたティーカップを、アリサはどこか緊張した手付きで持った。

「あの、男爵閣下のご容態は?」

「すっかり元気ですよ。でもちょっと良くなると、すぐに動こうとするので困りものですけどね」

 父さんが猟兵の襲撃を受けて倒れていた時か。そういえばアリサは、よく自宅に来て母さんの手伝いをしてくれていた。

「ゆっくりお話する時間もなかったですが、学院でのリィンの様子をお聞きしてもいいかしら? あの子、手紙はくれるけど、あまり自分の悩みや困ったことを打ち明けないから」

「……そうですね。リィンは誰からも頼られて、みんなの支えになって、いつもトリスタを走り回ってる印象です。悩みとかは……確かにあまり口にしないですね」

「アリサさんはどう思いますか?」

「もう少し弱いところを見せてくれてもいいのにって、そう思います。しんどい時にはそう言って欲しいです。頼られてばっかりじゃなくて……私たちを――私をもっと頼ってくれたならって。あっ、すみません、奥様にこんなことを……」

「アリサさん」

「は、はい」

「奥様とか男爵閣下だなんて、そんなにかしこまらず。お母様、お父様と呼んでいいんですよ」

「な、なに言ってるんです、母さん!」

 と、そう仲裁に入ったのはリィンだったが、意味はない。こんなやり取りが俺のいない場所であったのか……!

 硬直したアリサは「へ?」と目を丸くして、ルシアを凝視する。

「あら、ダメかしら? やっぱりエリゼがいいかしら? エリゼ、ちょっと降りていらっしゃい。協議することがあります」

 二階で家事をしているらしいエリゼを呼ぶ。アリサは椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。

「か、かかか、買い物に行ってきますので!」

 脇目も振らず、真っ赤な顔をして玄関に走っていく。

「ア、アリサ! そんなに慌てたらこけるぞ! うちの玄関の前、特に滑りやすいから!」

 ついつい引き止めるが、立ち塞がるリィンの体を、アリサはするりと抜けていく。反射的に追いかけ、玄関へ。

「きゃっ!?」

 扉を開けて一歩外に出たアリサは、案の定足をスリップさせた。前のめりにバランスを崩し、積もった雪の上で転倒する。

 だから言ったのに。記憶の相手に言ったところでという話だが。

「いたいよぉ……うええ……」

「え!?」

 泣き出してしまった。様子を見ないわけにはいかず、倒れたままのアリサに歩み寄ったリィンは、彼女の背格好にとまどった。

 身長が縮んでいる。ブロンド髪も今より短い。

 アリサが子供の姿になっている。8歳前後くらいだろうか。

「町の中じゃない。ここは……渓谷道だ」

 冬のユミル渓谷道の中腹付近。

 アリサは子供の頃にユミルに来たことがあったのか。どうやら家族とはぐれて、迷い込んでしまったようだ。

「寒い、怖いよ……母様、父様」

 うずくまるアリサ。すまない。道案内をしてあげたいが。

 だがこれは過去の出来事。現在のアリサが無事なのだから、この場で大事には至らないはずだ。すぐにイリーナさんが迎えに来てくれる。

「いや……違う。俺はこの子を知ってる」

 彼女の家族が駆けつけてそれで解決するなら、この光景は俺に関係ないことになる。ならば関わらない俺には、見えない記憶のはず。

 思い出した。

 俺は子供の時、迷子の女の子を助けたことがある。手を引いて、渓谷道を下って。全然泣き止まないから、雪うさぎを作ってあげて――

「そう、だったのか……」

 瞬間、雪が逆巻いて空へと昇っていく。

 猛吹雪に視界が閉ざされた。

 

 ――誰もがお前と繋がっている。それが見えるか見えないか、偶然か必然かは、問題ではない。これは縁の大小に関わらず、確かに今のお前を形作る欠片。残るは一つ。さあ、扉を開け

 

 粉雪が一斉に散る。

 周囲を木々に囲まれた開けた場所。足元は整備されていない土の地面。今度はどこだ。

 そう思った視線の先に、誰かが立っていた。黒髪の青年で、外套を羽織っている。知らない後ろ姿だ。

「すまないな」

 彼は言う。言葉をかけた相手は、彼の前で片膝をついてかしずく灰色の巨人。

 まさかあの青年は。いや、間違いない。ヘイムダルの銅像よりかなり若いが、面影がある。

「ドライケルス・ライゼ・アルノール……」

 かの獅子心皇帝だ。ヴァリマールの後ろには、遺跡らしき建物が見えた。

「君のおかげで、紅き災厄から帝都を――人々を守れた。どれだけ感謝しても足りない」

 ヴァリマールの装甲は傷だらけで、激しく損壊している。

「ゆっくり休んでくれ。そしてできるなら、君が再び戦いの世に目覚めないことを祈ろう」

『わ、ワ、我……ハ』

「無理にしゃべらなくていい。ちゃんと伝わっている。ただ君が眠りにつくまでに残されたわずかな時間、私の話を聞いてくれないか。聞いてくれるだけでいいんだ」

 一定の距離を保ったまま、リィンは立ちまっている。それ以上、近付くことができなかった。近づいてはいけない気がした。たとえ過去の映像であっても、あの二人の最後の時間に介入してはいけない。そう思った。

「ヘイムダルが落ちついて、諸々の立て直しが済んだら、私はここに学院を作ろうと思っている。名前はそうだな。トールズの名を冠そうか。ヴァリマールが眠るこの遺跡を作り変えて、学び舎にするんだ。ちょっと頭の上が騒がしいかもしれないが、まあ勘弁してやってくれ」

 ドライケルスは苦笑した。

「遺跡を改築するなんて、ロランやリアンヌに注意されそうだよな。ロランはいちいち口うるさかったし、リアンヌは怒ると怖いし。彼女を不機嫌にさせると、食事が一品減るんだよ。無言の重圧は今思い出しても背すじが震えるほどだ」

 口元には笑みを浮かべ、しかし物悲しげに、彼は自分の手を見つめた。

「……二人とも、いなくなってしまった。本当に守りたかった人を、私は守れなかったんだ。私の矢面に立ち、まさしく剣となり、戦ってくれた仲間たちを……守れなかった」

 ロラン・ヴァンダールとリアンヌ・サンドロット。ロランは戦いの中で、リアンヌは終戦の直後に命を落としている。

 記録には残されていないだけで、きっと他にもたくさんの親しい人たちを失ったのだろう。

「この学院に通う若者たちには、世の礎になって欲しいと願う。平和な世界の土台となり、今日までに力尽きた者たちの想いを受け継ぎ、次の世代へと繋げてもらいたい」

 これはヴァリマールの記憶。150年近く前のトリスタでの一幕。

 獅子心皇帝。もっと無敵の英雄を想像していた。違った。彼もただの人。戦って、失い、傷つき、迷う、一人の人間。俺と同じ――

「ヴァリマール。私は君が戦いに呼び起こされないことを祈ると言ったが、これからも続く世界のうねりの中で、そうならない保証はない。その時は私のように試練を受け、新たに君の起動者に選ばれる者がいるのだろう」

 ヴァリマールの双眸が明滅する。眠りに入ろうとしているのだ。もう時間がない。

「その者に伝言を頼みたい。私の想いも、次に託したいんだ」

『ドらイ……ケる、ス。我ノ、(ケルン)ニ触れヨ……。そナたの、意思の欠片ヲ、持っテイク』

「ありがとう、友よ」

 彼は前かがみになったヴァリマールの胸に、そっと手を添えた。

「次代の起動者よ。私は君がどのような人間で、何を思って起動者になるのかは知らない。私と同じく、戦火の中を駆け抜けることになるのだろう。だが、私と同じ道は進むな」

 ドライケルスの手がぐっと固く握られる。

「人は私を英雄と称える。けれど大切なものを失って得た勝利は、真の栄光足り得ない。そもそも私は栄光など求めてはいなかった。私の剣となって共に駆け抜けてくれた仲間と、争いのない日々を迎えられればそれで良かったんだ」

 ヴァリマールの瞳から光が失せていく。霊力が尽きていく。

「よもや一人ということもあるまい。君の周りにも、君を支える仲間がいるはずだ。見誤るな、己の剣がなんなのか。私の意識の残滓をヴァリマールの中へと送る。私は問い掛け続けよう。君が答えを出せるその日まで。守るべき大切なものを間違えないように」

 

 〝君の剣はどれだ”

 

 そう告げると同時、ヴァリマールの姿が光の中に消えていく。ドライケルスも見えなくなった。

 それがヴァリマールが言っていたドライケルスからの伝言だったのだ。

 彼が前任の起動者だと知った時から予感はあった。あの問い掛けの声の主は、もしかして彼ではないかと。

 でもその問いの意図まではわからなかった。

 彼は俺を心配していたのか。ずっと、ずっと。天寿を全うしても尚、自分の想いをヴァリマールに託してまで。

 

 ――これでお前は全ての記憶に触れた。得たものはあるか

 

 《ロア=ルシファリア》の声がした。

「……知ることができたよ。自分に向けられていた多くの想いに」

 

 ――他者の想いを知り、自身の想いが定まったか否か。では最後の〝試し”をしよう。

 

 もう何度目になるかもわからない変容していく景色。

 次はどこに飛ばされるのだろう。

 構えたが、それは最初の場所だった。旧校舎のエントランス。光のもやが相変わらず、たゆたっている。

 前方のもやの中に二つの人影が揺れた。

「もうどうやったら抜けられるのよ!」

「ア、アリサ?」

「声がするが、誰かいるのか?」

「ラウラまで……」

 リィンの前に、アリサとラウラが歩み出てきた。

「リィン! 無事だったのね。良かった」

「とりあえず合流できて一安心と言ったところだが、他の皆の安否が気にかかるな」

 この二人は本物か? 会話はできているが、幻影ということはないか?

「二人ともまず情報交換を――うわっ」

 石の足場にリィンが蹴つまずく。勢いよく突き出した両手が、ラウラとアリサのそれぞれの胸をわしづかんだ。

 大丈夫。本物だ。

 間髪入れず、左右から繰り出されるダブルビンタ。この痛みも現実だ。「不可抗力なんだ……」と、いつもの言い訳をし、若干距離を取られつつも、リィンは事情を説明した。

「よくわからんが……この異変が発生したのは、そなたに一因があるということか?」

「で、私たちは巻き込まれただけで、一応危険性はないって?」

 アリサもラウラも『わかったようなわからないような』といったリアクションだ。まあ、そうなるだろう。俺が二人のことで悩んでいたという部分については、さすがにそのまま説明できなかったのだ。肝心なところをぼかしてしまったので、全部が伝わるはずもない。

「ただ危険性がない点は納得できる。私に関わる皆の記憶に、そなたと同じように触れてきたからな」

 心なしか元気のないラウラに、「何を見たんだ?」とリィンはたずねた。

「言いたくなかったら構わないんだが」

「……別に黙秘するつもりはない。実はガイウスの記憶でな。先日のカレイジャスの火事騒ぎ。どうやら私が原因だったようだ」

「え?」

「菓子を作っていた時に全体招集がかかって、オーブンのタイマーを設定しないまま厨房を出てしまったのだ。そこから避難訓練に入って、完全に忘れてしまっていた。……ガイウスにはあとで謝ろうと思う。トワ会長には反省文を提出だ」

「それはなんというか……やってしまったな」

「うむ、やってしまった」

 ガイウスはどういう経緯か、オーブンを使っていたのがラウラだと知っていた。だから彼女に関わる記憶として、ラウラに映し出されたのだろう。

「アリサは問題なかったのか?」

「え、ええ。レイゼルに乗ることを、思ったよりみんなが心配してくれていたのが意外だったわ。あ、でも!」

 ご立腹の様子で、アリサは眉根を寄せる。

「ユーシスがね、私のことをわがままって言ってたのよ! どっちがよって言い返しちゃったわ。なんの反応もなかったけど」

「俺も思わず声をかけた場面はいくつかあったが……」

 どんなシチュエーションで、ユーシスはアリサをそう見たのか。深く訊くと彼女の神経を逆なでしそうなので、リィンは口をつぐむことにした。

 他のメンバーも直に戻ってくるはずだ。なら、それまでに。

「アリサ、ラウラ。まだ少し時間はある。今日の返事をさせてもらいたい」

「え、ここで? いいの?」

「正直、また流されるかと思っていた」

「それは……さすがにな」

 二人とも意外そうにしている。

 それがおそらく最後の〝試し”。《ロア=ルシファリア》がこの場をセッティングしたのだ。なんてお節介なやつなんだ。違うか。それも含めて、俺が望んだことなのだろう。

 リィンは二人にまっすぐ向き合った。

「夢幻回廊で、俺も記憶の世界を進んだ。もちろん二人の記憶にも触れた」

 そこで、どう想われていたかを知った。今日のことががなければ、もしかしたら一生知らずに終わっていたのかもしれない。

「ラウラ。味見って言ってたけど、あのたくさんの料理は俺のために作ってくれてたんだよな。ありがとう」

「え、あ。ちょっ……」

 ラウラは赤面してうつむく。

「あの雪うさぎの女の子はアリサだったんだな。すまない。ずっと忘れていた。アリサは覚えていてくれたのに」

「お、思い出してくれたの? でもなんで私が気付いてたってわかるのよ?」

「俺に関わるアリサの記憶として映し出されたってことは、アリサが俺だと認識していたってことだろ」

「うん……嬉しいわ。と言っても、思い出したのは私も最近なんだけどね」

 たくさん考えた。己を見つめ直した。多くの人が俺を案じ、信頼していることを目の当たりにした。

 自分を後回しに、ないがしろに、身を呈することに、エリゼが本気で怒っていた理由が、ようやくわかった気がする。

 そしてエリゼと同じようにいつも本気で俺に怒っていたのが、アリサとラウラだった。騎神戦のあとで俺が倒れると、決まって二人が交互にやってきて、ずいぶんとお説教をされたものだ。

 そうだったんだな。

 怒るのは、心配だから。心配なのは、大切だから。

 俺は幸せ者だ。

 俺なんかが、なんて卑屈なことを言っていた自分を、いま心の底から恥じている。

「アリサ、ラウラ。俺は……っ」

 リィンはぐっと拳を握り、喉から声を絞り出そうとする。

 二人は顔を見合わせると軽い吐息をつき、「いいわよ、もう」と、アリサが言った。

「え?」

「選べないんでしょ。そんな苦しげな顔しないで」

 責めているような口調ではなかった。

「そうなるかもって、思ってはいたの。でもどちらかを傷つけるからその返答にしたっていう理由だったなら、きっと私は納得しなかった。考えて、考えて、出した答えがそれなんでしょう? 〝選ばない”じゃなくて〝選べない”。それもちゃんとした答えの一つだとは思う」

 はき違えた優しさ。見当違いの気遣い。他人を傷つけたくないという建前で、その実、自分を守っているだけの返答。

 そうではなかったと、アリサはほっとした様子だ。

「私たちの想いを一方的に告げたわけだしな。少し急かしてしまったきらいもある。こちらにしてみれば前からの想いだが、そなたにしてみればいきなりというところだろう。無理やりにリィンの気持ちを引き出したいつもりは、元よりないのだ」

 ラウラもそう続く。

 選べない、というのは、まさしく口にしようとしていた言葉で、かつその通りの意味だった。

「大切だ、二人ともが。ただそれは、これまでは仲間としてのことだった。今は異性として意識して、俺自身が二人から向けられた想いを自覚した。だから俺の気持ちが動いていくのは、これからなんだと思う」

「い、異性として意識したとか……面と向かって言う?」

「そなたの発言は、いつも爆弾だな……」

 アリサは顔を両手で覆い、ラウラは明後日の方向に視線を逃がしている。変なことを言っただろうか。だが嘘偽りない言葉を、やっと伝えられた。

「うん、でもね。ずっとそれでいいとは言ってないから。いずれきっちり返事はもらうわよ?」 

「そなたの気持ちがこれから動いていくというのなら」

 二人の指がそっとリィンの胸につけられる。

『私を好きにしてみせるから』

 そろえられた声と魅力的な笑みに、「う……」とリィンは一歩足を引いた。単純に恥ずかしかった。

「ねえ、ラウラ。現時点で私とあなたのどちらが好みなのか、ちょっと気にならない?」

「そうだな、気になる。教えて欲しい。参考までに」

「そうよね、参考までに。指で示してみて?」

 これは遊ばれている。いや、からかわれているのか? だが半分本気のようにも感じる。

「う、うう……」

 妙な強制力に負けて、リィンの指が持ち上がった。うつろに虚空をさまよう指先が、ラウラとアリサの間をいったりきたりする。

 もう真ん中だ。真ん中しかない。

 人差し指に力を入れ、強く二人の中心を示した瞬間、

「ふう、やっと戻って来れました……」

 その先のもやの中からエマが現れた。おい、どんなタイミングだ、《ロア=ルシファリア》。

 これは余計な誤解を生む。絶対ややこしいことになる。緊急回避の判断を下したリィンの指先が移動し、高速でその足元にそれる。

 向けられた指の先にいたのは、黒猫だった。

 変な沈黙が流れる。

「え……セリーヌが好みなの?」

「猫のコスチューム、誰か持っているだろうか……?」

「は? アタシがなによ?」

「リィンさん。この不穏な空気について説明を」

 四者四様の視線が刺さり、リィンは顔を伏せることしかできなかった。

 

 

 ――続く――

 


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