ケルディックからユミルに帰還した翌朝。
シュバルツァー邸二階。自室から廊下に出たエリゼは、寝ぼけ眼のフィーと遭遇した。
「フィーさん!」
その姿を見るなり、エリゼは開口一番で声を張る。寝起きなのだろうか。ぼーっとした様子のフィーが目をこすりながら言った。
「あ、エリゼ。おはよう」
「おはようございます!」
挨拶はしっかり返しながらも、エリゼは有無を言わさずその手をつかみ、自分の部屋に引き連れていく。
「えっと、なに?」
「なに、じゃないです!」
戸惑うフィーを化粧台の椅子に座らせ、鏡面に向かい合わせた。
「見てください。何かあるでしょう」
「私が映ってるけど」
「他には?」
「エリゼもいるね」
淡白な返答に、エリゼは肩を落とした。この様子だと本当に分かっていなさそうだ。
こほんと咳払いしてから、一つ一つ指摘していく。
「寝巻きのままじゃないですか」
「だってさっきまで寝てたし」
今の季節には少々薄手のワンピースタイプ。これはエリゼが貸したものだ。他のものも勧めてはみたのだが、花柄の刺繍が気に入ったらしく、フィーはこの寝巻きを選んだのだった。園芸部だから花柄に惹かれた、かどうかは分からないが。
「服も着崩れてます」
「寝返りのせいかも。朝起きたら枕に足が乗ってたし」
「寝返りすぎです……」
片方の肩はずれていて、ワンピースの裾は太もも近くまでめくり上がっている。かなり際どい格好だ。しかし、彼女はそれを気にした素振りも見せない。
「それから髪!」
「髪?」
右側は跳ねて、左側はペタンと潰れている。寝ぐせもつき放題だ。
「フィーさんも女の子なんですから。身だしなみを整えてから部屋を出ませんと」
「だって面倒だし」
少なくとも今までの人生で、エリゼはフィーのようなタイプと知り合いになったことがなかった。同年代の女子ならなおの事である。
聖アストライア女学院といえば貴族子女が通う名門校。ありていに言えばお嬢様学校だ。
勉学はもちろん、礼節、作法も厳しく教えられる。それを当たり前として学んできたエリゼにとって、フィーの行動は自由を越して奔放に映った。
他人には他人のスタイルがある。それは理解しているし、頭ごなしに価値観の違いを否定するような狭量でもなかったが――まあ、気になるものは気になるのだ。
手早く着衣の乱れを直してやり、愛用のくしでフィーの銀髪をときにかかる。意外にも髪質は柔らかかった。
一応の身なりを整えたら、今度は元の部屋まで戻って着替えだ。
「フィーさんったら……」
廊下で待つエリゼは壁に背をあずけながら、彼女の更衣が終わるのを待つ。
学生寮でも毎日こんな感じだったのかと思ったが、それはⅦ組の委員長――エマが逐一の生活管理をしていたらしい。起床、就寝、果てはおやつの時間まで。パーフェクトお母さん、とはフィーの談である。
ドアが開き、私服に着替えたフィーが出てきた。
その装いを見て――昨日も気にはなっていたのだが――改めてエリゼは目を丸くした。
胸を覆うくらいの丈しかないシャツ。外の気温を完全無視したショートパンツ。申し訳程度に上着は羽織っているものの、胸下からへそ下まで肌があらわになっている。この季節に寒くはないのだろうか。いや、寒かろうが暑かろうが。
「フィーさん!」
「な、なに?」
ぐっと詰め寄る。その剣幕には、さすがのフィーもたじろいでいた。
今日一日は英気を養う為の休息日。時間はたっぷりある。
よし、決めた。
「フィーさん、着替えたばかりで申し訳ありませんが」
「うん」
「また着替えです」
☆☆☆《ユミル休息日(前編)~フィーネさん》☆☆☆
ルシアが用意してくれた朝食を食べた後で、エリゼはフィーを再び自室に招いていた。
化粧台の前に座らせた彼女を視界に入れながら、しばし黙考する。
勢い込んで連れては来たものの、どうすればいいだろうか。
服は自分のものを使えばいいと思っていた。しかし衣装棚から適当に二、三着取り出したところで気付いた。
自分のお気に入りの服。フィーがそれらを着たところをイメージしてみたが……あまり似合わない。
エリゼとフィーは背丈も体型も似ているが、もとより持ち合わせている雰囲気が違う。サイズが合うから似合うとは限らない。当たり前のことだった。
「エリゼ、どうしたの?」
「あ、ごめんなさい」
嫌がるかもしれないと思ったが、フィーはさして抵抗することなく応じてくれた。面倒とはやはり言っていたが。今のところ借りてきた猫、とまではいかなくとも、一応おとなしくしている。
「ちょっと待っていて下さい」
「了解」
客観的な意見をくれる人が必要だ。
エリゼはリビングに向かった。
一番に思い浮かんだのは母、ルシアだった。しかし彼女はテオの看病につきっきりである。表には出さないが、心労もあるはずだ。さすがにルシアには頼めなかった。
意識こそ戻らないが、テオの容態は落ち着いてきている。その朗報があったから、エリゼやリィンも気を張り詰めすぎず休息を取れているのだった。
「ええと、他の皆さんはどこかしら」
女子の服選びである。頼れそうな人は……
マキアスさんは不得意そう。トヴァルさんはまた何かしそう。兄様は……かつての服のセンスを知っているから、これに関して頼むのは不安すぎる。あの凄まじい私服は、とても人には見せられない。さすがに今では改善したと思うけど。
あとはエリオットさんだ。うん、彼ならいい意見を聞かせてくれる気がする。
しかし、誰にも会わなかった。
「……あ」
玄関にそろえてあったはずの皆の靴がない。自分とフィー以外は全員出払っているようだ。
どうしよう。やっぱり私だけで見立ててみるしかないかも。考えてみれば誰かの服を選んだことなんて、今までなかった気がする。
とりあえず部屋に戻ろうと踵を返した時、玄関のドアが開いた。
「あら、エリゼさん。おはようございます」
そう言って戸口をくぐったのは、クレア・リーヴェルトである。これから協力してくれるという彼女も、この屋敷に泊まってもらっているのだった。
「………」
「エリゼさん?」
ああ、頼れる人がここにいた。
「というわけなんです」
「概ね内容は把握しました」
クレアを連れて部屋に戻る最中、エリゼは簡単な経緯を説明する。郷の防衛、通信強化の為に朝から動いていたという彼女だが、作業は先ほど一段落したところだそうだ。
「あの……ご迷惑ではありませんか。急なお願いでしたので」
「まさか」
申し訳なさそうなエリゼに、クレアは口元を緩めてみせた。
「私もミリアムちゃんの身だしなみをよく整えていましたし。とはいえ、どこまで力になれるかは分かりませんが」
言いながらクレアは乱れのない歩調で歩く。軍人としての身のこなしが染み付いているようだった。折り目正しい動作の中にもしなやかさと柔らかさ、そして気位も感じられる。
涼やかで凛とした立ち振る舞いは、やはり大人の女性のものだ。
「フィーさん、入りますよ」
ノックしてドアを開く。自分の部屋をノックするのは、ちょっと変な感覚だ。
中に入るとフィーは化粧台の前で座ったままだった。気持ちよさそうに寝息を立てている。
「離れてからまだ十分も経ってないのに……」
「熟睡してますね」
一旦フィーは置いておいて、エリゼとクレアは衣装棚に向かう。
スカートやら上着やらを全て取り出し、ベッドの上に並べていく。ちょっとしたアクセサリーはクレアが私物を持ってきてくれた。
「あまり必要になるとも思わなかったので、身だしなみ程度のものしかないのですが」
「このネックレス、綺麗……」
細いシルバーチェーンに、上品な光沢を湛えた小さな宝石がついている。
見入っていたエリゼは、思わず吐息をもらした。
「エリゼさんにも似合うと思いますよ」
「わ、私なんかとても」
「そんなことありません」
優しげな手つきでエリゼの後ろ髪を上げると、クレアはそのネックレスを彼女の首元につけた。
「やっぱり、よく似合います」
「あぅ……ぁ、あ、ありがとうございます……」
すぐには言葉も出て来ず、エリゼは赤面した顔をうつむかせていた。
氷の乙女なんて呼ばれているから、どんな人なのかとちょっと構えていたけど、こんなに優しい人だったなんて。
落ち着いた雰囲気。洗練された佇まい。
正直、憧れてしまう。
「こんな時勢でなければ、一緒にブティックで服でも見に行きたいですね」
それは軽い冗談で言ったのかもしれなかった。だから『そうですね』くらいで、笑い返すのが丁度良かったのかもしれない。しかし、
「あ、あのっ」
反射的に口を開いていた。
「私、聖アストライア女学院に通ってるんです。帝都の!」
クレアはきょとんとしてエリゼを見つめていた。
「クレア大尉もヘイムダルにいることが多いんですよね。だから、その……も、もしご迷惑でなかったら、ぜひご一緒させて欲しい……のですが」
ああ、何を言っているの、私は。それもこんなに必死で。
「す、すみません。今のは忘れて――」
「ええ、行きましょう」
「え?」
あっさり快諾したクレアに、エリゼは少なからず戸惑った。
軍属の偉い人とこんな簡単に口約束をしていいのだろうか。それも私的なショッピングの。
「では、私からも一つお願いがあるのですが」
クレアは言った。
「私のことはクレアと呼んでください。士官学院生のリィンさんたちは仕方ないのかもしれませんが、エリゼさんにまで階級で呼んでもらうのは少し気兼ねしてしまいます」
困ったような顔をして、クレアは「かまいませんか?」と控えめにたずねた。
「それじゃあ……えっと……クレアさん……?」
こちらも控えめにそう呼んでみる。どことなく気恥ずかしさがあったが、「はい、エリゼさん」と彼女は微笑んでくれた。
内戦が終わったら、二人で買い物に行く。
そんな小さな約束を交わした後、クレアとエリゼの視線は“本題”へと向けられる。
「……ん」
不穏な何かを感じ取ったのか、フィーは身じろぎして目を開けた。
くしを手に持ったエリゼとクレアが両脇に立っている。
「二人ともどうしたの?」
手術医よろしく、彼女たちは告げた。
『それでは、始めます』
そこからのフィーは、着せ替え人形だった。
ああでもない、こうでもないと試行錯誤を繰り返すエリゼとクレアに言われるがまま、服を着ては脱ぎ、脱いでは着るを繰り返す。
下衣も上衣も幾度となく変更し、少しずつ納得のいくものに近づけていく。ちなみにフィーの意見は一切反映されなかった。
そして髪。何回も何回も丁寧にくしでとかし、こてを当てて、くせっ毛を丹念に伸ばしていく。
そうした悪戦苦闘の末、ようやく完成した。
「あら……これは」
別人と化したフィー。クレアから声がもれる。
薄紅色のレディスシャツは袖口にフリルをあしらったもので、前止めのボタンもそれぞれのデザインが違って洒落ている。足首まで隠れるロングスカートはふんわりと広がり、白を基調とした色合いが清楚さを醸し出していた。
苦労してストレートにした髪に飾るのは、花をかたどった小さめのコサージュ。靴はベージュのフラットシューズで、蝶を模したリボンがアクセントになっている。これはエリゼの靴で、偶然サイズも合った。尚、ストレガー社製ではない。
コンセプトは“正反対”。彼女のイメージとまったく真逆を追求した結果がこれだ。
「どうですか?」
エリゼに言われてフィーは椅子から立ち上がる。
鏡に映る自分をまじまじと見たあとの第一声はこうだった。
「動きにくい」
なんとなく予想できた反応だ。ハイヒールにしなかっただけ感謝して欲しいものだが。
おぼつかない足取りでてくてくとドアに向かって歩き出すフィー。スカートの裾を踏んで、彼女は四歩目でこけた。
「あ、大丈夫ですか?」
「ねえ。もう着替えていい?」
駆け寄ったエリゼにフィーは言う。履きなれないロングスカートがかなり億劫のようだ。
クレアも近付いてきた。
「クレア大尉も。私、普段の服に戻りたいんだけど――」
「そうですね。次に必要なのは淑女としての作法でしょうか」
フィーの言葉など、彼女はまるで聞いていなかった。
強制的に始まり、そしてフィーにとっては不条理な特訓が続く。
歩き方、言葉使い、細かな所作事の一つ一つに至るまで。もしこの場にエマがいれば、彼女も喜んで参加していただろう。
「フィーさん、もう少し足のつま先を内側に入れて歩きましょう」
「あごを引いて、奥歯は噛まずに、ほんの少しだけ口角を上げて下さい」
「あまり腕をふらふらさせてはいけません。ああ、違います。それでは直立不動です。もっと自然に」
代わる代わる飛んでくる矢継ぎ早の指示に、フィーは健気に従っていた。
どうあっても逃げられないと理解すると、あきらめて従順になるらしい。エリゼはフィーの習性を一つ知った。
そこからさらにみっちり稽古を重ねて、およそ一時間後――
「フィーでございます。本日もよろしくお願い致します」
いい感じに仕上がった。
深々としたお辞儀を起こし、フィーは「……こんな感じ?」とエリゼとクレアに目を向ける。
「ばっちりです」
「ええ、その服も着こなしていますしね」
です、ます、ございます、存じます、致します、などの語尾を中心に徹底指導し、限定的ながらも何とか扱えるようになっていた。とはいえ完全に理解しているわけではなく、ちょくちょく使い方を間違えてはいるが。
二人とも満足そうである。
「じゃあ着替えてくる」
「あ、待って下さい」
ここまで仕立てたのに、すぐ元に戻ってはもったいない。
エリゼはこんな提案をする。
「せっかくですし、ちょっとお散歩してみませんか?」
なんだかんだで時間は昼を過ぎていた。
簡単な昼食だけ済ましてから散歩に行こうとしたのだが、フィーはその前に出発したいと言った。もしかしたらテーブルマナーまで叩き込まれると警戒したのかもしれない。まあ、その通りなのだが。
外に出たフィーは、エリゼの提案通り、郷を一回りしている最中だ。
少し離れたその後ろを、エリゼとクレアが付いていく形である。
「ちゃんと歩けてますね」
「少しよたついてますけど」
薄く降り積もった雪に小さな足跡を残している。一定ではない歩幅に歩きづらさがうかがえた。
エリゼは《ARCUS》を口元に寄せた。
「それではフィーさん、ケーブルカーの駅まで行ったら戻ってきましょう」
『了解』
すぐに応答が返ってくる。
フィーの《ARCUS》は首裏の襟にホルダーごと引っかけてある。その上からマフラーを巻いて目立たなくしていた。重みで襟首が引っ張られるので、そこそこ苦しいらしい。
通信はスピーカーモードだが、音量を調節して彼女にしか聞こえない程度のボリュームにしてある。
「トヴァルさんたち、いませんね」
「渓谷道まで釣りに行くそうですよ。朝方にマキアスさんが教えてくれました」
「そうだったんですか」
散歩の目的の一つは、フィーのお披露目の意味合いもあった。
「兄様は多分あそこだと思いますが……」
視線をフィーから町の広場へと移す。足湯場の近くにヴァリマールが立っていた。両手をすくうような形にして、頭の上へ腕を持ち上げている。
「何をやってるんでしょう。クレアさんは何か知ってますか?」
「いえ、これは私にも分かりません」
その折、フィーはケーブルカーに着いていた。
これ以上付き合わせたら、さすがに悪い気もする。一度家に帰って、温かいものでも飲んでもらおう。
今一度《ARCUS》を手にした時、
「んー、やっぱり暇だよなあ。基本的に運行停止だし仕方ないんだけど」
駅の中から誰かが出てきた。
「あ、ラックさん」
駅員として働いているエリゼとリィンの幼馴染だ。リィンとは同年代で仲が良く、自分のことも“エリゼちゃん”と気さくに呼んでくれる。小さい頃は兄と一緒によく遊んでくれた。
「あれ、君は?」
ラックがフィーに気付いた。
「見ない顔だね。ケーブルカーは止まってるのに、どうやって郷へ?」
「えっと……」
物陰に隠れているエリゼたちを、フィーはちらりと見る。どう答えるべきか、指示が欲しいようだった。
一瞬、エリゼも迷った。
ラックも別に怪しんでいる様子ではない。単純に興味で訊いているらしい。
逡巡していると、横からクレアが言った。
「せっかくですし、練習の成果を見せてもらうのもいいかもしれませんね。何事も実践は必要ですよ」
エリゼは知らないことだが、トールズ士官学院がフィーとミリアムの手によってトラップだらけにされる事件があった。その際、器材提供や罠のアドバイスをしたのは他ならぬクレアだったりする。
ちなみにⅦ組の何人かはクレアが一枚かんでいた事に勘付いているが、表だっての黒幕は未だにジョルジュということにされていた。
ともあれ、クレアは案外この手のことに協力的だった。
彼女に背を押される形で、エリゼは通話口に告げた。
「フィーさんは私の親戚ということにしましょう。従妹あたりでいいと思います。ユミルまで来た経緯は……うーん……」
「実家はヘイムダル。用事で帝都を離れている間に、鉄道規制が敷かれて帰ることが出来なくなった。内戦の煽りを受けないように縁故のシュバルツァー家を頼ろうと考える。それで麓の駅まで辿り着いたはいいものの、ケーブルカーが止まっていてやむなく山道を登ってきた。そこまでが昨日の話。ようやくエリゼさんにも再会できて落ち着けたので、今は郷の中を見て回っている。こんな感じでどうでしょう」
「よ、よくそんなに一度に出てきますね」
「身分を隠して何かを調べる時に、こういったカバーストーリーが必要になることもありますから。まあ、それはほとんど諜報部がやりますけど」
クレアの言う設定を、そのままフィーに伝える。
すぐに小声の『了解』が返ってきた。
まったく迷いのない声音。やるとなればフィーも付き合いはいい。彼女も彼女でちょっと楽しんでいるのかもしれない。
「言葉遣いはさっき練習した通りです。私たちもバックアップします」
続けてクレアが《ARCUS》に声を吹き込む。その間にもラックとの会話は続いていた。
「へえー。エリゼちゃんの従妹なんだ。ケーブルカーを止めていて迷惑をかけたね」
「いいえ。大丈夫なのです」
口調こそ平坦だが、何とか丁寧語だ。一礼も練習の通りにできていた。やはり微妙に変な箇所もあるが。
「郷を見て回ってるんだったら、俺が案内しようか? ちょうど休憩中なんだ」
いいかもしれない。フィーにも応じるように言う。
「ああ。任せてくれ。ところで君の名前は?」
ラックと彼女は初めて会うので本名でも差支えはないのだが、フィーも本名を告げていいか質問の目をこちらに向けていた。
咄嗟にエリゼは考える。元がフィーだから――
「フ、フィール……えっと……フィナ、フェーリ、フィン……ネ……フィーネ?」
これがいい。これにしよう。
「ラックさんに教えてあげて下さい。今のあなたはフィーネさんです!」
エリゼに言われるがまま、彼女は名乗った。
「私の名前はフィーネさんでございます」
「フィーネサン?」
「フィーネでございました」
早くもメッキがはがれつつあるフィー、もといフィーネさん。成り行きを見守るエリゼとクレアの顔に、一抹の不安が映っていた。
一通り郷の案内を済ましたラックは、フィーを連れてケーブルカーの駅まで戻ってきていた。
二人してベンチに座り、山間の雪景色を眺めている。
「ユミルはどうだった? フィーネさん」
「ん。大変よろしく存じます」
「それはよかったよ。帝都から来たんじゃ、この地方は寒いんじゃないかと思って」
「お気遣いしっかりとありがとうございます」
ところどころ言葉がおかしいフィーに、エリゼとクレアはその都度フォローを入れていた。
「フィーネさんは面白い人だなあ」
なぜかラックには好印象らしいが。彼は色々とフィーに質問を重ねていた。
「趣味は?」
「寝ること――」
クレアが《ARCUS》越しに指示する。
「じゃなくて……ピアノ? みたいなことかも、です」
「好きな食べ物は?」
「その気になれば何でも食べられ――」
続いてエリゼがフィーネさんの好物を指定する。
「……イチゴのミルフィーユ? かと……思います」
「特技は?」
「ナイフさばきが――」
二人揃った咳払い。
「お裁縫……の、ようでした」
ラックの目が輝いている。
エリゼは思った。
ラックさん、もしかして。フィーネさんに興味を持ち始めているんじゃ……? それはちょっとまずいかもしれない。
“フィーネさん”とは言ってみれば、エリゼとクレアの手によって完全お嬢様カスタマイズされたフィーのことである。
魔法が解ければ元通り。お裁縫よりナイフさばきが得意な彼女に戻ってしまう。
フィーネさんの存在が幻想だと知ったら、彼はどう思うだろう。
「フィーさん、そろそろ帰りましょう。切りのいいところでその場を離れてください」
通信を聞いたフィーが、軽くうなずいて立ち上がる。
「どうしたんだい?」
「もう行かないと」
「え……もう?」
「もうなのです」
ラックは残念そうだった。
「フィーネさんはいつまでユミルに?」
「みんなと再会するまでは――」
「みんなって、家族?」
「え?」
一瞬返答に詰まったあと、ほんのわずかに頬を緩め、フィーネさんは言った。
「そんな感じ。でございます」
● ● ●
屋敷に帰るなり、フィーネさんはあっという間にいつものフィーさんに戻ってしまった。
兄様たちにも見て欲しかったのに、それだけは心残りだ。
それをクレアに伝えたところ「次はもっと完璧にしましょう」などと、彼女は真・フィーネさんの育成に謎の意欲を見せていたが。
フィーの着替えも終わり、リビングで三人座ってのティータイム。
「――ですのでフィーさん。明日からちゃんと身だしなみを整えてから部屋を出ないといけません。男性の方も泊まっておられるわけですし」
「了解」
「本当に分かってます?」
「お菓子まだある?」
「私の話聞いてました!?」
嘆息してソファーから立ち上がり、エリゼはお菓子を取りに戸棚に向かう。
「次はテーブルマナー。あとは言葉遣いをもう少し自然に。どうせならミリアムちゃんもいっしょに……」
その横でクレアは紅茶を口にしながら、次なるステップのためにその明晰な頭脳を働かせていた。
フィーはぐったりとしてソファーに沈み込む。
「クレア大尉も。もう勘弁して欲しいんだけど」
「ふふ、フィーネさんは素敵な女性ですから」
「意味分からない」
玄関のドアが開く。トヴァル、エリオット、マキアスが帰ってきた。釣りに行っていたらしいが、なぜか三人そろってずぶ濡れだ。釣竿やバケツも持っておらず、寒さにガタガタと震えている。
「ひ、ひどい目にあったよ」
「生きてる……生きてるぞ、僕たち」
「さすがのお兄さんもダメかと思ったぜ……」
事情は分からないが、大変なことになっていたのは間違いなさそうだ。
クレアがフィーに耳打ちする。
「フィーネさんは気の利く女性ですよ」
「……面倒だけど」
ぼやきながら、フィーはタオルケットを三枚用意してきた。
わざとらしく咳払いしてから、彼女は三人の前に立ち、
「タオルでございます」
まだ慣れない仕草で頭を下げる。
瞬間、トヴァルたちが固まった。彼らの全身を滴る水滴が、一気に氷結したかのようだった。
「ど、どどど、どうしたのっ!? フィー、もしかして熱があるんじゃ!」
「落ち着くんだ、エリオット! あの野草サラダの幻覚症状がまだ残っているだけだ。僕たちが目にしているのは幻だ」
「待て、お前さんたち。これは呪いの一種かも知れん。教会に連絡する方が先だ」
好き放題言い合う男衆。
「………」
無言のフィー。
表情は変わっていないが、エリゼは彼女がご機嫌ななめになったと感じた。
それぞれの顔にぞんざいにタオルを投げつけると、フィーはてくてくと二階に上がっていってしまう。
男三人は不思議そうに顔を見合わせていた。彼らは何も分かっていない。
「トヴァルさん、あとでフィーさんにあやまって下さい」
「いや、よく分からんが。というか、なんで俺だけ!?」
「クレアさん、私たちも行きましょう」
「そうですね」
お菓子で機嫌を直してくれればいいのだけど。
苦笑するクレアと一緒に、フィーを追って二階に上がる。
「ふふっ」
「どうしたんですか?」
「こんな時に不謹慎かもしれませんが、今日は久しぶりに楽しかったです」
「それは……私もです」
クレアとフィーの意外な一面を知ることができた。兄の学友だから、正規の軍人だからと、少し踏み入れないところもあったのだが、気付けばそういう感覚はなくなっていた。
「フィーさん、怒っちゃったんでしょうか?」
「多分違うと思いますよ。想像と違う反応が返ってきて、恥ずかしくなったんでしょう。ちょっとほっぺた赤かったですし」
どうやら照れ隠しらしい。表情が変わらないから読みにくいが、とりあえず機嫌を損ねたわけではないようだ。
階段を上ると、クレアは足を止めた。
「エリゼさん」
「はい?」
「ヘイムダルにショッピング、必ず行きましょうね」
澄んだ瞳で微笑むクレアを見返して、エリゼもしとやかに笑んでみせた。
「ええ、約束です」
――END――
――Side Stories――
《世直し任侠譚②》
「あー、腹減ったな」
「残りのお金も少なくなってきたし、計画的に使わないとね」
ぐうと鳴る腹をさするクレインを横目に見ながら、ハイベルは財布を取り出して手持ち金を数える。
残金は6000ミラ。
二人はトリスタを出てから、各地を回りながら情報収集をしていた。各所に検問はあったが、渓谷や廃道を迂回しながら、今日までなんとかやってきたのである。
寝泊まりはほとんど野宿にして、貴重な路銀を節約してきたが、どうしても食費だけはかかる。この状況がいつまで続くか分からないので、なるべく出費は抑えたいところだったが、空腹だけはいかんともし難い。
彼らが今いるのはケルディック街道の外れだ。町までは二十分といったところだろうか。
「仕方ないね。町に行って保存できる食料を調達してこよう」
ハイベルの意見にはクレインも同意で、「よっしゃ任せとけ」と意気込みを見せる。
「まさか、クレイン一人で行く気かい?」
「おう、意外にも士官学院生ってそこまで警戒されてなかったしな。一応、学生服の上着は脱いでいくから大丈夫だろ」
いくつかの町を回る中、領邦軍に詰問されることはあったが、拘束されるには至らなかった。Ⅶ組の行方について問われるばかりで、“自分たちは実家に戻る途中”や“はぐれた友人を探している”みたいに適当な事を並べていれば、大体をやり過ごすことができた。
もっともⅦ組について聞かれた際に、『知らねえな。知っていてもお前らには教えん』などと、わざわざクレインが悪態を突くので、その都度ハイベルが汗だくになってフォローするのだが。
「そんじゃハイベルはこの辺りで待っててくれ。食い物買うついでに貴族連合の様子も見てくるから」
「頼むから無茶はしないでくれよ」
「分かってるって」
ハイベルから残金の半分――3000ミラを受け取って、クレインは一人ケルディックの町へと向かった。
ケルディックに来たのは初めてではなかったが、大市に以前ほどの活気がないのは、町に入ってすぐに分かった。
我が物顔で町を闊歩する貴族連合の兵士を視界の端に入れながら、「何様なんだよ、あいつら」とクレインは足元の小石を蹴り飛ばす。
転がった小石が地面の段差で跳ね上がり、近くにいた子供の足にぶつかってしまった。
「いてっ、兄ちゃん何すんだよ」
「あ、わりい。怪我ないか?」
その少年に歩み寄って、足を見てみる。擦り傷どころか赤みにもなっていなかった。
「何ともないな」
「そういう問題じゃないだろ。絆創膏代もらうぞ」
「ったく、悪かったって」
商人の町だからなのか、たくましい根性の子供だった。
名前はジェイク。最近ケルディック教会にやってきたという見習いシスターの手伝いの最中だという。普段から教会の敷地でよく遊んでいるそうだ。
「手伝いってのは終わったのか?」
「うん、オットーさんに届け物するだけだしなー」
確か大市の元締めの名前だ。
「兄ちゃんは何しに来たんだよ」
「食料の買い込みにな」
「おれが大市案内してやろうか。どこの店の商品が安いかとか知ってるし」
「いいのか?」
ジェイクは得意気に鼻の下をこすった。
「袖すり合うのも多生の縁って言うだろー。東方の言葉らしいけど、商人はそういうのを大事にすんだって。意味は知らないけどな!」
弟と同じくらいの年齢だろうか。ふと思い出し、その姿をジェイクに重ね合わせる。クレインは彼の頭にぽんと手を置いた。
「な、なんだよ」
「なんでもない。店案内頼むぜ」
買い物は一通りの店を回ってからにすることにした。
ジェイクの商品説明は分かりやすくて中々面白かった。ただ、店前で「あっちの方が安い。あっちの方が品揃えがいい」なんて平気で言うので、店番の目が険しくなるのがちょっと胃に悪かったが。
なんとなく、兵士と言い合う自分に割って入るハイベルの心境が理解できた気がした。これは態度を改めなければ。
薬剤店の前で、ジェイクが足を止めた。
「あ、キュアハーブが置いてある!」
「なんだそれ?」
聞いたことのない名前だった。今度はジェイクではなく、店員の女性が説明してくれた。なんでも薬の原料にもなるハーブで、戦時中で需要が高まったせいか、今は入荷しづらい商品だそうだ。
一枚だけ残っている。
「さっき言った見習いシスターの姉ちゃんが昨日買いに行ったんだけどさ。結局品切れだったんだって」
「欲しいのか?」
「うん」
値札を見る。300ミラだ。意外に安い。ジェイクは自前のガマ口財布を開いて、小銭を数えている。何とか小遣いで買えるようで、その顔は明るかった。
誰かの為に金を使う事を、まったくしぶっていなかった。
「へへ、きっと喜ぶぞ」
ジェイクがキュアハーブを取ろうとした時、横合いから別の手が伸びてきて、それをつまみ上げる。
領邦軍の兵士。二人組だ。
店主の女性が顔をしかめた。
「ふん、300ミラだな。さっさと受け取るがいい」
「この町の治安維持に尽力している我々からも金を取るとはな。これだから商人はがめつくて好きになれん」
ぞんざいに硬貨を渡して、兵士たちは踵を返す。
「ま、待てよ! 俺が先に買おうとしたんだぞ!」
ジェイクが言った。振り返った兵士たちは、彼を鼻で笑う。
「先に金を払ったのは我々だ。そもそもこの内戦下で、薬の原料がお前たちのような者に出回るのが間違っている」
横柄に吐き捨て、手にしたキュアハーブをひらひらと振ってみせる。
それでも引き下がらないジェイクに、兵士は意地悪く言った。
「そんなに欲しいなら、これをお前に売ってやらんでもない。そうだな。3000ミラでどうだ」
「さっ……!? それ300ミラだろ!」
「所有物の値段を所有者が決めて何がおかしい。金を払えばちゃんと売ってやる。もっともそんな矮小な財布にそこまでの金が入っていればだが」
握りしめられたガマ口を見て、兵士たちは馬鹿にしたように笑った。
ジェイクは悔し涙をこらえている。
「おい」
クレインが口を開いた。
「あ?」
「3000ミラあればそのハーブを売ってくれるんだな」
「そうだが。なんだ貴様は」
「受け取ってくれ」
3000ミラを引っ掴んだ拳が、兵士の顔面に叩き込まれる。
はらはらと舞う三枚の紙幣と共に、男は地面に崩れ落ちた。
クレインはキュアハーブを拾い上げると、それをジェイクの手に持たしてやった。
「に、兄ちゃん?」
「いい啖呵だったぜ。男気は断然お前が上だな」
残った兵士が「動くな、貴様!」と声を荒げ、胸にかけた笛を吹き鳴らした。甲高い音が一帯に響き渡る。
「ああ、わりい。今、税金高いんだったよな。ほら、不足分だ」
そいつの顔面にも一発。吹っ飛んだ男は向かいの店に頭から突っ込んだ。
呼び笛の音を聞いた何人かの巡回兵が走ってくる。
「そいつ持って教会に戻りな。落っことすなよ」
「う、受け取れねえよ。だいたい兄ちゃんの金じゃねえか」
「お前には石ぶつけちまったからな。絆創膏代だ」
血相を変えた兵士が何かを叫んでいる。もう悠長に話している時間はなかった。
「それじゃあな」
「待てって! せめて兄ちゃんの名前教えてくれよ!」
駆け出す間際、クレインは言った。
「名乗るほどのもんじゃねえさ」
街道で待つハイベルが見たのは、手を振りながら向かってくるクレインの姿だった。その後ろに五人もの貴族兵という、ありがたくないおまけを引き連れて。
「う、うわああ!?」
「ハイベル逃げろ!」
「僕に手を振るな! 僕の名を呼ぶな! 仲間だと思われるだろ!」
「仲間だろ!」
追ってくる兵士たちから「あいつも仲間らしい。まとめて捕まえろ!」と尖った声が飛んでくる。
「何をやらかしたんだ!」
「いや……特に何も」
目線をそらすクレイン。ハイベルは気付いた。
「ちょっと待て。何も持ってないみたいだが、食料はどうしたんだ?」
「買えなかった」
嫌な予感がして、ハイデルはさらに問う。
「僕が渡した3000ミラは?」
「落とした」
「うそだろー!?」
肩を並べてクレインとハイベルは街道を駆け抜ける。空いた腹が、二人同時にぐうと鳴った。
☆ ☆ ☆
《体育会系クッキング②》
包丁。まな板。鉄鍋。フライパン。簡易コンロ。そして各種調味料が少し。
それがトリスタを離れた時の、ニコラスの持ち物だった。
「そろそろ準備しなきゃね」
夕暮れ時の北クロイツェン街道。道沿いからは離れた導力灯の近くに、野宿用のテントを張ってある。ひとまず魔獣に襲われる心配はなかった。
テントの前を陣取って、慣れた手つきで手早く即席キッチンを作っていく。
「もうそろそろかな……」
相方が食料を探しに行って、かれこれ一時間になる。今日は何を手に入れてくるんだろうか。
そんなことを考えながら調理支度を進めていると、
「おーい、ニコラスくーん」
快活な声が聞こえてきた。相方が帰ってきたのだ。
「おかえり、エミリーさん」
「ただいまー」
その相方――エミリーは背負っていたカゴを、どんとニコラスの前に置いた。
「今日も大量だね。おかげで助かるよ」
「私も食事を作ってくれる人がいて助かってるわ」
トリスタを発った他の学院生の多くと同じように、彼らも町は拠点にせず、路銀の節約も兼ねて野宿を行っている。
そうした学生たちの中でも、この二人のサバイバル技術は群を抜いていた。
まず食事に関しては調理部部長、ニコラスの独壇場だった。
どのような食材でも見事に調理して、一級品の味に仕立ててみせる。その上、栄養バランスも考慮したメニューになっていて体調管理も万全だ。
一方、ラクロス部部長のエミリーは食材調達担当なのだが――才能というべきか、冬のこの季節にも関わらず、一度出掛けると必ず何かしらの食材を手に入れてきた。
キノコ類、山芋、山菜の数々。冬越しの為に動物たちが隠していたと思われる木の実なども、草葉の下から見つけ出して、遠慮も容赦もなく持ち帰ってくる。唯一の持ち物であるラクロスのラケットのみで、カゴいっぱいに魚を乱獲してきた時などはさすがのニコラスも驚いたものだった。
「今日のご飯は何かしら?」
「塩漬けにした魚も残ってるから、先にそっちを食べちゃおうか。塩分も取っとかなきゃね」
朝露から集めた水を煮沸して飲み水を生成したり、木の皮と蔓を編み込んでカゴを作ったり、食べられるものとそうでないものを正しく見極めたり。
ニコラスの知識にエミリーの行動力。足りない部分を補うこのコンビは、かなりたくましく街道生活を送っていた。
「ふー、お腹いっぱい」
「はい、食後の飲み物」
食事を終えた後、片付けを済ましてテントに戻った二人は、今後のことを話し合う。
「多分、他にも逃げ出した学院生は多いと思う。二人だけで出来ることには限界があるし、そろそろ合流を考える必要もあるんじゃないかな」
「どれだけ情報収集しても、それを活かせないとどうしようもないしね」
合流を考えると言っても、実際の所その手段はなかった。誰かに出会えればいいのだが、広い帝国内である。中々そんな偶然は起こらない。
そういうわけで出た結論は、とりあえず現状維持。
仲間を見つける前に、こちらが先に力尽きてしまってはならない。
「明日からは学院生の目撃情報を頼りに、各地を回ってみようか」
「食料は行った先で手に入れればいいしね」
話もまとまったところで就寝である。まだ20時といったところだが、陽が落ちてしまっては何も出来ない。
テントの中には二つの寝袋。その片方にエミリーがもぐり込んだ。
「先に寝るね。おやすみー」
「……警戒しなさすぎじゃないかなあ」
「え? 何か言った?」
「何もないよ」
一言ぼやいたニコラスも自分の寝袋を引き寄せた。
「明日は何を作ろうかな……」
「ふふ、言われたものは何でも採ってくるわよ」
テントの明かりが消える。
彼らの野宿生活は一応順調だったのだが、その数日後、ちょっとした事件が起こった。
☆ ☆ ☆
《金欠クリエイターズ②》
南クロイツェン街道。レグラムとバリアハートを繋ぐこの道のど真ん中。
「これからどうしよう」
「ええ、どうしましょう」
進むべき道を見失った二人――フィデリオとドロテが立ち尽くしていた。
貴族連合によるトリスタ襲撃は、誰にとっても予期しないものだった。突然の事態にトリスタを離れた学院生のほとんどが、まともな準備をする時間さえなかったのだ。
あれから一か月。
食料、金銭事情が厳しいのは野宿組の宿命なのだが、この二人の状況は特に深刻なものだった。
「ドロテさん」
「はい」
「お金がもうないよ」
「はい」
ドロテに見えるように、フィデリオは財布を開く。数枚の硬貨がちゃらちゃらと鳴った。残金17ミラ。芋一つ買えない。
普段の金銭管理は彼が行っている――というか、ドロテは無一文でトリスタを出たので、ここに至る全ての路銀はフィデリオ持ちだった。
「二日前までちょうど1500ミラあったはずなんだ」
「ですよね」
「そしてこの二日間、お金は使わなかった」
「………」
「1483ミラはいったいどこに消えたんだろう」
じっとドロテを見つめるフィデリオ。彼女は何も言わず、うつむいている。
構わずに続けた。
「昨日、街道で行商人と出会った時、ずいぶんと長く話し込んでたよね。僕は途中でその場を離れて、バリアハート方面の様子を見に行ってたんだけど」
その際、フィデリオは荷物番をドロテに頼んでいた。
「それ。いつからあったっけ?」
ドロテの制服の胸ポケットに、真新しいペンが一本差さっている。そして足元に置いてある彼女のカバンの中からは、雑記用のノートが数冊はみ出していた。
「もしかして行商人の人から買った?」
「……安くしてくれるというので」
観念したのか、ようやく顔をあげた。
「いや高いよ。ほとんど有り金全部だよ。……それで、そのペンとノート。一体何に使うつもりなんだい?」
「小説の続きを執筆しようかと」
双方押し黙る。沈黙の時間が流れた。
ややあってフィデリオが口を開く。
「非常事態だよ。宿代もないし、食費も尽きた」
「宿は簡易テントがあるから野宿すればいいですし、食料は森とかに入って調達すればいいじゃないですか」
「……一週間前、そうやって手に入れたいかにも怪しげなキノコを口にして、僕たちそろって死にかけたんじゃないか」
フィデリオは涙が枯れるまで泣き続け、ドロテは腹がねじり切れるくらい笑い続けた。目も当てられない惨状だった。
「……もしかして私、また責められてます?」
「そうだね。責めてるね」
「ひどいっ!」
ドロテはいきなり泣き崩れた。
「そうやって私ばかり責めてフィデリオさんは満足なんですね! そんなことをしても状況は改善しませんよ!」
「いやいや、買う物には優先順位はあるって話をしているだけで。というか状況を悪くした張本人が何を言うんだ」
「言葉巧みに商品を勧め、嫌がる私に無理やり財布を開かせた商人のおじさんを先に咎めるべきではないでしょうか」
「嫌がる私って、確実に君の意志で財布を開いただろう」
「決めつけですか! 偏見ですか! 相手の主張や背景を考えもせず、一方的に私を悪いと断じて! 圧倒的優位な立場から、力の弱いものを好き放題に痛ぶって! 精神をすり減らし、衰弱していく私を見るのがフィデリオさんは楽しいんでしょう!?」
「だから君の中の僕はどんなやつなんだよ」
この手のドロテの弁舌には、さすがにフィデリオも慣れていた。
事あるごとの彼のお説教を、彼女はこうやって乗り切っている。
「構いません。私を木に括りつけて、魔獣の餌にして下さい。それでフィデリオさんの気が少しでも晴れるなら」
「いや、晴れないって」
「魔獣のご飯になる私をカメラで好きに撮影したらいいじゃないですか。愉悦に歪むあなたの表情が目に浮かびます。そして現像した写真を、特殊なご趣味をお持ちの貴族様相手に売り捌けばいいんです」
「何だそれ……」
フィデリオは肩を落とした。これ以上の口論は無意味だ。いつもこうして自分が押し負け、競り負ける。
しかし金欠の現状は変わらない。ここ数週間で嫌というほど思い知ったが、自分たちはこうしたサバイバルに向いていない。打開策が必要だった。
「ん?」
フィデリオはあることに気付く。今しがたの会話の内容だ。
「写真を……売る?」
首から下げたこのカメラはインスタントカメラと呼ばれる最新式の物だ。既存のものと違って、特殊なフィルム、薬液、印刷紙を内蔵してあって、明るい場所でもその場で現像することができる。
「………」
「フィデリオさん?」
特殊なご趣味うんぬんは捨ておくとしても、写真を売るという発想はなかった。もっとも、自分の作品に売れるだけの価値があるのかは分からないが。
活路を開く為の金稼ぎ。試してみてもいいのではないか……?
「ドロテさん、このままバリアハートに行こう。もしかしたら何とかなるかもしれない。温かい毛布と料理を手に入れられるかもしれないよ」
「あ、もしかして私、いいこと言っちゃいました?」
「それは認めないけど」
「ひどいっ!」
☆ ☆ ☆
お付き合い頂きありがとうございます。
今回は休息日ですが、前中後編でやりたいと思います。前作の一日シリーズみたいに、同じ日の別々の場所で起こったことにスポットを当てる形式ですね。
後半は二年生の先輩方(街道組)をまとめてみました。基本、彼らの難敵は金欠と空腹です。三組三様に乗り切り方が違いますね。なんだか乗り切れなさそうな人たちもいますが。
余談ですがクレインにぶんなぐられた兵士たちは、ロジーヌさんにちょっかいかけて、ユーシスに追い払われた二人です。本作の天使に手を出す野郎どもには、回り回ってでも鉄槌を下すのだ。
クレアとエリゼの“フィーネさんプロジェクト”は目下進行中です。完全に巻き込まれた駅員ラック。
次回中編もお楽しみ頂ければ幸いです。