犬とお姫様   作:DICEK

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つねに、由比ヶ浜結衣はおどおどしている

 奉仕部という名の同好会を結成して、早一ヶ月。校内から広く依頼を集めるということを早速やってはみたが、依頼というのは要するに自分では対処しきれない問題を他人に請け負ってもらう、ということに他ならない。

 

 言い換えればそれは、その人間の弱みである。

 

 それを良く解らない人間に曝け出せる人間が、どれだけいるだろうか。藁にも縋るという人間もいるが、そこまで深刻だと今度は奉仕部の人間に対処できない。奉仕部が求めているのは、学生でも何とか解決できる程よい悩みなのだ。進路相談くらいならばまだ良いが、恋人が三股かけているのが発覚して別れたい死にたい、という痴情の縺れを持ち込まれても困るのである。

 

 幸か不幸か、深刻な話題も含めて依頼は一件もなかった。これでは放課後に集まって適当にダベっていただけだ、と気づいた八幡たちは適当に活動実績を作るために月末、休日を潰して本当にボランティア活動を行った。子供に混じって川沿いでゴミ拾いである。三人全員にとって、生まれて初めての経験だったが、雪乃も姫菜も一言も文句を言わなかった。その程度には、放課後、誰にも邪魔されない空間を確保できることが、心地良いことだったのである。

 

 このまま月一回程度のボランティアでお茶を濁して、しばらく過ごそうかしら。三人全員が本気でそう思っていた頃、思い出したように奉仕部のドアは叩かれた。

 

 つまりは、初めての正式な依頼人である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「八幡先輩が紅茶得意って意外ですね」

「例の女王様に何度も淹れさせられたからな。経験値だけはそれなりなんだよ」

「その割には、味もそれなりよね」

「自販機よりはまだマシだろ? ああ、そう言えば陽乃にも良く同じ感想を言われたよ。流石、姉妹は良く似てるな」

 

 ちくりとした嫌味を言ってくる雪乃に、八幡は即座に言葉を返す。

 

 ねっとりと、しかし的確に急所を抉ってきた陽乃に比べると、雪乃の言葉は鋭くはあるものの、どこか幼い気がする。陽乃ではない、という思いが余裕を持たせる一因かもしれないが、余裕を持って相対してみると雪乃の毒舌にもどこか親しみが感じられた。

 

 陽乃の名前を出したら案の定、雪乃は不機嫌そうに押し黙ってしまった。陽乃と比較されるのは相変わらず、好きではないらしい。態度に出るようだとまだまだだな、と八幡は雪乃に見えないように苦笑を浮かべる。

 

「でも、本当にまったり進行ですよねぇ、この部活。八幡先輩も雪乃くんも、勉強したり本読んでるだけだし」

「そういう海老名は書き物してるな。小説でも書いてるのか?」

「はい。私TS物って初めての挑戦なんですけど、もう色々刺激的で……『はちゆき』なのか『ゆきはち』なのか、それが問題ですよね?」

 

 それだけ聞いて、八幡は姫菜が書いてる小説がどういう内容なのか、ある程度理解してしまった。八幡にとっての問題は『はち』と『ゆき』のどちらがTSしてるのかということだ。『はち』がTSしてるなら、男性の八幡としてはまぁ、良い。同性物でも女性同士ならばまだ受け入れることができるし、そういうものも見たことはある。何より興味がない訳ではない。自分が女になっているという事実にさえ目を瞑ることができれば、それなりに楽しんでみることができるだろう。

 

 だが、TSしているのが『ゆき』の方だったら、そこから先はもう未知の領域だ。できることなら、と思わずにはいられないが、姫菜が雪乃のことを『雪乃くん』と呼んでいる辺り、どちらがTSしているのかは考えるまでもないことだった。

 

 そもそも、比企谷八幡を女性にするよりは雪ノ下雪乃を男性にするほうが無理がない。そう思うのは、自分が男性だからだろうか。姫菜に聞けばその辺りの機微も詳しく教えてくれそうだが、それは聞かない。人間が腐っていると顔を見た時に思ったものだが、こういう方向に腐っているとは全くもって予想外だった。

 

 問題なのは、雪乃だ。ホモが嫌いな女子はいないという暴論を聞いたことがあるが、雪乃までそうだとは限らない。何かと潔癖なこの少女のことである。もし自分が男性にされて、姉の恋人と絡まされていると知ったらショックで倒れてしまうかもしれない。

 

 見てみたいと思う反面、心配でもある。それに愛する妹の学生生活に影響が出たら、あの歪んだ妹愛を持つ女王様が何をするか解らない。

 

 姫菜の小説は雪乃に見せるべきではない。八幡はひっそりと心に決めた。

 

 この手の創作物を扱う人間は、やたらと他人にそれを勧めたがる物らしいが、姫菜は書いていることを見られているにも関わらず、八幡が聞くまで内容についてはまったく口にしなかった。自己主張の少なさは不気味な程である。だからこそ、八幡も雪乃も助かっている訳だが、今後もこの静けさが続くとは限らない。今が潜伏期間ということも考えられないではないのだ。

 

 態々藪を突いて蛇を出すこともないだろう。内容については全く興味ありませんよー、という顔をしながら八幡は紅茶セットの前に立つ。元々、生徒会室にあったもので、陽乃の卒業と共に八幡に譲渡されたものだ。それなりに値段のするものなので、貰う訳にはいかないと八幡は断ったのだが、練習用にあげる、と押し切られて八幡の物になった。そもそも家では大体マックスコーヒーのため、紅茶はそれほど飲まない。

 

 どこで練習しようと思っていた矢先、部室の寂しさに苦言を漏らしていた雪乃を見つけ、それならと持ち込んでみた。雪乃は紅茶の腕前にぷちぷちと文句を言うが、それでも飲んではくれる。不機嫌そうな、それでいて痒いところをかけないようなもどかしさを感じさせる雪乃の顔を見るのが、八幡は好きだった。

 

「海老名、おかわりいるか?」

「ありがとうございます。ぬるめでお願いしますね」

 

 その注文に、八幡の動きが止まる。ぬるめというのも初めての注文だ。とりあえずポットからお湯を別の入れ物に入れ替える。これをしばらく冷まして、それで紅茶を淹れれば良いだろう。正式に別のやり方があるのかもしれないが、初めてやるやり方なのだから、失敗しても大目に見てもらうより他はない。

 

 ポットとにらめっこしていると、誰かが部室のドアを叩いた。

 

 その音に、三人は顔を見合わせる。まさか依頼者?

 

 その時、三人の意思は図らずも統一されていた。このまま居留守でも使ってしまおう。

 

 八幡だけでなく、雪乃も姫菜もそう思っていた。息を潜めて扉の向こうの人物がどこかに行くのをじっと待つ。中からどうぞ、という反応がなければ、諦めてどこかに行くかもしれない。そういう可能性にかけての行動だったが、

 

「失礼します……」

 

 からからと遠慮がちな音を立てて、ドアは開いてしまった。小さな溜息は誰のものだっただろうか。

 

 しかし、仕事である。

 

 まだ確定ではないが、依頼のためにやってきた人間だとしたら、これを雑に扱うことはできない。最初に対応したのは、余所行きの顔になった姫菜だった。

 

「奉仕部にようこそ――ってなんだ、結衣じゃん。はろはろー、どうしたの?」

「姫菜――え? ここ姫菜の部活?」

「そうだよ。言ってなかった?」

 

 最初に我に返った姫菜が対応するが、何というか笑顔がうそ臭い。学年が違うため普段の姫菜を八幡は知らないが、全方位にこの態度なのだとしたら中々の外骨格である。

 

 そんな姫菜の友達――結衣というらしい――は、良く言えば今風な風貌の少女だった。赤みがかった茶髪は最近染めたものなのだろう。似合ってはいたが、髪の色の鮮やかさにそれ以外がついていっていない。結衣の八幡の第一印象は『軽そうな女』だった。何も考えずに本能のままに判断するなら自分からはまず近づかないタイプであるが、この少女のことをどこかで見たような気がした。

 

 八幡が思い出せずにいる内に、結衣は姫菜に手を引かれて部室中央の椅子に座らされた。姫菜は卓を挟んで反対側に移動する。そちらにはパイプ椅子が3つ並んでおり、結衣から見て左側に姫菜が、右側に雪乃が座っていた。空いている中央の席が、比企谷八幡のもの、ということか。この野郎、と視線を向けると、雪乃は僅かに口の端を上げて得意そうに微笑んで見せた。先ほどの意趣返しのつもりなのか、整った容貌に反して、子供っぽい皮肉な笑みが浮かんでいる。

 

「はじめまして。私は一年の雪ノ下雪乃。話を聞かせてもらえるかしら」

「一年の由比ヶ浜結衣です。こちらこそ、よろしくお願いします。それで今日はその……お願いがあってきました!」

 

 由比ヶ浜、と雪乃は繰り返す。雪乃にも、ひっかかるものがあったらしいが、八幡と同様に疑問を解決するには至らなかった。

 

 同時に錯覚をしたというのでなければ、結衣は共通の知人という可能性が高いが、そもそも雪乃とは彼女が総武高校に入学するまでほとんど付き合いはなかった。情報こそ一方的に知ってはいたが、顔を合わせた回数はそれまで二度。共通の知人などいるはずもない。

 

 結衣が有名人という可能性もないではないが、それならば顔を見るか名前を聞いた段階で、思い出しても良さそうなものだ。凡才の自分はともかく、雪乃まで思い出すことができないというのは、違和感を覚える。

 

 やはり共通の知人という線が強そうであるが、さて――と考えて、八幡はようやく思い至った。

 

 陽乃以外に、比企谷八幡と雪ノ下雪乃を結びつける強力な要素があった。八幡にとっては既に過去のことだったので失念していた。

 

 自分達は二ヶ月前の事故の加害者側と、被害者だ。

 

 そして事故にはもう一人、原因となる人物がいた。こちらに駆けてきた犬と、その飼い主。横目に結衣の顔を見て、ようやく思い出す。あの時は黒髪だったから、思い出せなかった。良く見ると、顔立ちはそのままだ。

 

(こいつ、あの時の飼い主か……)

 

 一度か二度は病院に来たはずだから、顔はその時に覚えたのだろう。由比ヶ浜家との間にどのようなやり取りがあったのか、八幡は良く知らない。金銭については雪ノ下の顧問弁護士が間に立って、スムーズに処理してくれたとだけ聞いている。

 

 犬は助かって、自分も無事だった。そりゃあ、一ヶ月の入院生活に加えて更に一ヶ月不自由を強いられたが、入院中、それなりに良い思いもしたので、今更どうこう言うことはなかった。

 

 紅茶の準備をしながら、雪乃に向かって影絵の要領で『犬』『車』と伝える。聡明な雪乃はそれで全て理解した。

 

「実は、ある人にプレゼントがしたいの。できれば、手作りの。でも私、料理とか全くできないから、作るの手伝ってほしくて……」

「なに、結衣。好きな人でもできた?」

「そういうのじゃなくて! その……感謝の気持ちを伝えたいって言うか……」

 

 話が進むと雪乃が『やっぱりこれは貴方の担当ではないの?』という視線が強くなってくる。感謝の相手=比企谷八幡ということか。ありえない話ではないが、ここで判断するのは早計というものだ。二人の意を汲んだ姫菜が、更に探りを入れていく。

 

「お父さんとか? 父の日近いもんね」

「違うよ。うちのサブレを庇って事故にあった人。一応、家族みんなでお礼には行ったんだけど、私個人ではまだお礼してないから」

 

 やっぱり貴方の担当だったわね、と雪乃は視線を外した。これはもう決めてかかっている。言いたいことは色々とあったが、この三人の中でなら自分が担当するべきことなのだろうし、話が早い。

 

 八幡にとって、あの事故は済んだ話だ。一番の被害者である自分が気にしていないのに、関係者が引きずっているというのも、不憫な話である。

 

「紅茶で良かったか?」

「あ、ありがとう――」

 

 姫菜のリクエストのせいでぬるめになった紅茶を差し出すと、初めて結衣と目があった。結衣は目をぱちくりとさせると、

 

「あー!!」

 

 椅子から立ち上がって叫び声を上げ、八幡を指差した。本人と気づいてくれたのだろう。結衣と違って八幡の見た目は、ここ数年全くと言って良いほど変わっていない。小町に言わせると悪かった目つきがより悪くなったらしいが、二ヶ月では流石に変化のしようがない。

 

「久しぶりってことで良いのか? 一応奉仕部という名の同好会の部長、比企谷八幡だ。よろしくな」

「あ、はい。由比ヶ浜結衣です。よろしくお願いします!」

「よろしく。ちなみに俺を轢いたリムジンに乗ってたのが、そっちの雪ノ下だ。図らずも関係者が全員揃ったな」

「え……え?」

 

 話についていけないらしい結衣は、一人で混乱していた。雪乃はそんな結衣を見ても平然としている。一人怪我をした八幡が気にしないと言っているのだから、少なくとも八幡の前では、雪乃にとっても終わった話である。

 

 それよりも、八幡には心配なことがあった。自分が集中治療室に運び込まれた時、陽乃の精神状態は雪乃やその両親がドン引きする程のものであったと聞いている。今はそうだったことも忘れそうなくらいにいつも通りであるが、荒れたという事実は消えない。

 

 陽乃は意味のないいじめなどしないが、意味のあるいじめはするし、スナック感覚で人の心を抉ってくる。控えめに言っても、陽乃の結衣の印象は最悪だ。関わった三者の内、轢かれて怪我をした人間が気にしないと言い、轢いたリムジンに乗っていた人間もそれに追従している。事故の原因を作ったとは言え、結衣がこれ以上嫌な思いをするのは、唯一怪我をした八幡としても望むところではなかった。

 

「幸いなことに、俺はぴんぴんしてるよ。あの犬は元気か?」

「はい! サブレ超元気です!」

「そりゃあ良かった。なら、この件はこれで終わりだ。お前が気にする必要はないぞ。難しい話は葉山さんとやらが全部やってくれたし」

 

 残務処理も全て、その葉山さんのお力により解決している。入院費は雪ノ下が持ってくれたため、比企谷家の収支は八幡が一ヶ月病院に拘束されたことを差し引いても、プラスになっているくらいだ。弁護士、医者、会計士の友人がいると人生は安泰と言うが、三強の一角の力を思い知った一ヶ月だった。

 

 気持ちの上でも金銭の上でも話は終わっている。だから気にするな、というのが八幡の言い分だったが、結衣はそれでもまだ納得していなかった。自分のせいで、という思いに決着をつけるには、何かやっておく必要があるのだろう。

 

 面倒くさい、というのが正直なところであるが、結衣に謝罪の気持ちがあるのも本当だろう。それを無下にするのは流石に八幡でも気が引けた。

 

 ちら、と姫菜を見る。

 

 全くと言って良い程友達がいない八幡や雪乃と違って、姫菜はリア充グループに所属している。内面を知っている八幡には意外なことだったが、どろどろした内面を発揮することなく、それなりに上手くやっているらしい。結衣はそのグループの一人だろう。世間的に言えば彼女らは友達のはずだが、姫菜から依頼を受けてやれ、という圧力は全く感じられない。存外に反応が軽い。

 

 雪乃は結衣の目的が解った段階で、これは八幡が処理する案件という意思を固めたようだった。結衣の正面に座り、話を聞いてはいるが心はもう別のところに行っているのが良く解る。顔にはしっかりと我関せずと書いてあった。

 

「一応確認するが、そのお礼ってのは俺にってことで良いんだよな?」

「これで違ったらかっこ悪いわね……」

「違わないし! 私、全然料理とか得意じゃないんだけど、その、受け取ってもらえますか?」

 

 結衣のすがるような視線に、八幡は思わず天を仰ぐ。ここでNOと言えるような心の強い人間は、そういない。黙っていれば風化したはずの問題に、自分で決着をつけるためにここにきた。それくらいには、結衣は善人だ。その気持ちは信じても良い。何を作るのか知らないが、依頼をされた以上この中から補佐が付くのは確定だ。そこまでやって、まさか失敗などするまい。

 

「別にそんなに凝ったもんじゃなくて良いからな? こういうのは気持ちが大事なんだ。何なら野菜を棒状に刻んで貰って、調味料と一緒に食べるんでも俺は一向に構わないぞ」

「それじゃあ私の気持ちは伝わらないし!」

 

 結衣が吼える。めんどくさいなぁ、と思うが、その熱意は本物のように思えた。良い子なのだろう。陽乃ならば都合の良い子と呼びそうだが、八幡はこういう少女のことが――自分に深く関わらない場合、という前提ではあるが――嫌いではなかった。

 

「で、誰が手伝う? 三人で行くか?」

「できれば比企谷先輩には完成した後に見てほしいんだけど……」

「なら、メンバーについて選択肢はないわね。海老名さん、料理の腕は?」

「それなりかな。雪乃くんは?」

「一人暮らしを始めたばかりよ」

「へぇ、良いなぁ。今度泊まりに行っても良い?」

 

 姫菜の提案に、雪乃は一瞬微妙な表情をした。潔癖な内面と、寂しがりな内面が喧嘩をしているようにも見える。友達とお泊りというのはなるほど、リア充向けの展開であるが、それだけに過去の雪乃にはなさそうなイベントだ。友達がいないと決め付けたばかりだが、雪乃の交友関係について八幡は詳しく知らない。最悪、姫菜がこの高校で唯一の友人という可能性すらあるが……おそらくそれが真実だろうと、八幡は確信に近い思いを抱いていた。

 

 八幡の目には雪乃が迷惑そうにしているようには見えなかった。つかず離れずの姫菜はしかし、思っていた以上に雪乃と距離を縮めていた。押せば倒れる。姫菜がもう少し食い下がれば雪乃はOKを出しただろうが、話を最初に切り上げたのは雪乃の方だった。小さく咳払いをした雪乃は、

 

「その話はまたの機会にしましょう。由比ヶ浜さん、私達二人で手伝うことになるのだけど、良いかしら?」

「よろしくお願いします!」

 

 女三人揃えば姦しいという。姫菜はともかく雪乃はおしゃべりが得意なタイプではないが、結衣は見るからに饒舌なタイプだ。こういうタイプが一人混じると、雪乃もそれなりに喋るようだ。部室で静かに読書をしている雪乃も絵になっていたが、姫菜と結衣と話す雪乃は、普通に女子高生していた。

 

 まるで比企谷八幡という人間などその場にいないとでも言うように、女子三人は部室を出て行く。向かったのは家庭科室だろう。生徒会執行部に申請すれば施設として利用できるはずだ。当日、飛び込みでというのはあまり良い顔はされないが、会長のめぐりとは知らない仲ではない。奉仕部だ、と言えば特に何も聞かずにハンコを押してくれる。

 

 紅茶を飲みながら、勉強して待つことしばし。

 

 さて、と立ち上がった八幡が見た三人は、一様に暗い顔をしていた。特に結衣の表情が暗い。出張してまで行った調理実習がどういう結果になったのかは、聞くまでもないだろう。それなりに料理ができる二人の協力をもってしても、結果が芳しくなかったのだ。

 

 お互いのことを考えるなら別の日にまた、ということを提案するべきなのかもしれない。結衣は失敗したことをなかったことにできるし、八幡は失敗作を食べなくても済む。そうするつもりで口を開きかけた八幡は結衣が後ろ手に小さな箱を隠していることに気づいてしまった。ラッピングまでされている。

 

 誰が見ても明らかな失敗作であれば、雪乃辺りが後にすべきと提案しているはずだ。依頼を受けた以上、それを完遂しなければ気分が悪い。完璧主義の雪乃が結衣の行動を黙認した以上、消極的にではあるが、ここで渡すという結衣の行動に賛成しているのだろう。

 

 雪乃が黙認している以上、食べられないような代物ではないはずだ。最悪でも、クソマズイくらいで済むはずだが、そこまで理解できたところで八幡の顔は明るくならなかった。

 

 こういう時、男の方が立場が弱い。女の努力というものは、何よりも優先される。そういう場の流れ的なものを雪乃も姫菜も好まないはずだが、調理に付き合ったという事実が、二人を結衣寄りにしていた。男の八幡に味方はいない。

 

 できることなら食べてほしい、というのが三人の本音だろう。

 

 不景気な顔をしながら、八幡は結衣に向かって手を差し出した。恐る恐るといった様子で、結衣は包みを手渡す。ラッピングも手ずからやったのだろう。きっちりしていないへにゃっとした見た目に手先の不器用さが見て取れるが、これで良いやという手抜きは見られない。作り手の気持ちが解る、丁寧な仕事だ。

 

 そっとリボンを外す。小さな箱を開けると中から出てきたのは……想像した通り、黒ずんだ何かだった。炭化した匂いがする。明らかに焼き時間を失敗しているのは見て取れた。ある程度料理のできる人間が二人もついていてどうして……と視線を向けると雪乃と姫菜は気まずそうに視線を逸らす。

 

 比企谷憎しでわざとということはあるまい。言い訳もせずに黙っていることから『気が付いたらこうなっていた』という線が濃い。

 

 黒い固形物を一つ手にとって見る。持ってみると更に炭だった。手には既にパサパサとした黒い粉末が付着している。やはりこれを人の食べる物とするのは間違っていると思うが、八幡に食べる以外の選択肢は残されていなかった。

 

 一思いに、その黒い固形物を口の中に入れる。顔をしかめないようにしながら、とりあえず噛み砕き、嚥下した。

 

 匂い以上に、舌触りは悪い。炭の匂いが口の中に広がり、ざらざらとした感触が今も残っている。はっきり言えば失敗作だが、クッキーを失敗したのだ、ということは辛うじて解った。原型を留めているのだから、まだマシだろう。食べたことはないが、炭を直接食べるよりはいくらか美味いはずだ。

 

「……想像してたよりはマシだった。悪いな、気を使わせて」

「ほんと? 不味くない?」

「…………流石にここでNOと言える日本人にはなれないぞ、俺」

「八幡先輩さいてー」

「ほんと、こういう時にこそ気を使えないでどうするのかしら」

「ならお前らこれを食ってみろ」

 

 愚痴を零しながらも、八幡は手を止めない。覚悟ができたからか、ざらざらした舌触りにもある程度抵抗ができた。それでも立て続けにこの味はキツいと思っていると、姫菜がそっとマックスコーヒーを差し出してきた。適度に無遠慮な甘さが、喉に心地良い。

 

「あの、まずいなら別に無理して食べなくても……」

「そう思うなら次からは美味いものを出してくれ。貰った以上は俺のもんだ。どう食べようが勝手だろう」

 

 もそもそ、と決して美味そうには見えないが、八幡は手も口も止めなかった。結局、黒い固形物を全て一人で平らげてしまった八幡に、結衣を含めた三人は複雑な視線を向ける。

 

「その……自分で作っておいて言うのも何だけど、大丈夫ですか?」

「大丈夫ではないな。マックスコーヒーの助けがなければ危ないところだった」

「少しだけ感心したわ。貴方でも男を見せる時があるのね」

「去年までに比べたらどうってことはないな。何しろ食えば終わりだ。温いにも程がある」

「なるほど、八幡先輩はちょっとやそっとのプレイじゃ満足できないドMってことですね?」

「薄い本を厚くしないでくれよ」

 

 ぐふふ、と不気味に笑う姫菜はもはや腐海の住人だった。これを止めることはできそうにない。ドMになった自分など見たくもないが、陽乃が姫菜の趣味を知ったら喜んで見ようとするだろう。その時、男になった自分の妹を見たらどう思うのかが、気になって仕方がない。

 

「じゃあ、今日はありがとうな、由比ヶ浜。これで貸し借りはなしってことで、安心してくれると俺は助かる」

「それなんだけど、比企谷先輩……」

 

 今度こそこの話は終わり、と突き放すような言い方をする八幡に、結衣は言葉を続ける。その姿はやってしまった悪戯を親に告白する子供のようで、八幡にとってはロクでもないことの前触れに見えた。

 

 この部にもいずれ、陽乃がやってくるだろう。それは結衣にとって良い結果を生まない。それをどうにかして解らせないといけないのだが、直接陽乃の名前を出すことには抵抗があった。陽乃も八幡と同様、あの事故は終わったものとして処理しているが、内面はそうではない。あれで陽乃は根に持つタイプだ。家族がドン引きするほどの怒りを一番向けられていたのが、他ならぬこの結衣である。

 

 陽乃がやってきた時、一番損をするのは結衣に間違いがない。本当に話はこれで終わったのだ。お手伝いが二人もついていたのに、クッキーを黒い固形物にするぽんこつだが、根は良い娘なのだ。それが女王の暴虐に晒されるのはやはり忍びない。

 

 万全を期するなら断るべきなのだろう。ここにいてもロクなことにはならない。その説明をするのに陽乃を語らなければならないのならば、七日七晩でも語り続ける自信があったが、例え真実全てを語ったとしても結衣が納得してくれるかはまた別の話だった。

 

 八幡がしようとしていることは、要するに拒絶である。どれだけ理由を並べたとしても、結衣がそれを信じてくれないのならば、単純に相手は自分のことを嫌いなのだ、と解釈されてしまうかもしれない。

 

 何度でも言うが、根は良い娘なのだ。これ以上つまらない理由で傷ついてなど欲しくはないし、面倒なことに関わってもらいたくはない。こういうタイプにとって陽乃は劇薬だ。既に怒りを買っているのだから尚更である。

 

 押し黙っている八幡を他所に、結衣は一人で決意を固める。それを止める手段は八幡にはなかった。力不足を痛感しながら、八幡は結衣の言葉を聴く。

 

 

 

 

「私もこの部活、参加しても良いですか?」

 

 

 

 




初登場ということで距離がありますが、次回からは多分ガハマさんもフレンドリーになるはずです。
順番通りに行くと次は材木座なんですが、さてどうしましょう……

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