犬とお姫様   作:DICEK

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たまには、比企谷八幡も奮起する

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 陽乃と出会ったのは高校一年の時である。彼女と一緒にいるようになって大変でなかった時など一度もないが、最初に大変だと思ったのは最初の期末テストの時だった。

 

 全教科で順位に指定がついたのだ。得意な国語と苦手な数学以外は全教科五十位以上。国語は努力目標(・・・・)で一位、数学は特に指定はなかったが、とにかく頑張ってと言われた。全てで順位を指定された方がどんなに楽だったか、というのは勉強を始めてから思い知らされた。

 

 どの程度までなら許してもらえるかと考えたのは一瞬のこと。勉強を見てくれている間のプレッシャーのかけようから、舐めたことを考えていると破滅しかないと思い知った。この女はやると言ったら必ずやる。それを肌に感じた八幡は、生まれて初めて死力を尽くして勉強し、国語は一位、数学は平均点。残りの教科も全て五十位以内と見事陽乃の要求を達成することができた。

 

 いきなり上がった成績に両親は驚いた。小町優先といっても、長男に全く関心がない訳ではない。何があったと聞いてきたが、流石に一つ年上の女性の犬になったとは答えられず、適当にお茶を濁して答えた。

 

 原因と経過はどうあれ、とにかく成績は上がったのだ。終わりよければ全てよし。苦労した甲斐があった……と気楽に考えることができたのは、やはり一瞬だった。生まれて初めて死にもの狂いで勉強したこの事件(・・)が陽乃から課せられた中で最も軽いものだと思い知ったのは、夏休みが空けてからのことである。

 

 とは言え、この最も軽かった死にもの狂いの勉強も、ただ苦労しただけという訳ではない。今まで漫然と行っていた勉強に、陽乃流の効率の良いやり方を導入することができた。天才肌である陽乃は物事の要点を掴むのがとても上手く、勉強にも無駄がない。

 

 テストの順位要求が毎回上がることを考えれば、ここで効率の良いやり方を憶えることができたのは幸運だった。プレッシャーで吐きそうになったこと多数、実際に吐いたことも少数。過度のプレッシャーは人体に影響を及ぼすのだと知った一年目であるが、そこにあったのがプレッシャーだけということはない。

 

 それは過去だけでなく、今現在にもある。

 

 今陽乃はテーブルを挟んで、向かいに座っている。この状況が、特に男性にとっては結構レアなのだ。陽乃の周辺は概ね女性で固められており、男性が入り込む余地がほとんどない。八幡という恋人ができる前でもほとんどだったそれは、恋人ができてからは事実上皆無になった。

 

 大学にまで行ったことはないからそちらの状況は知らないが、聞いた話では大して変化はしていないということである。総武高校にいた時の陽乃グループも、女性の方が微妙にヒエラルキーの上位にいた。きっと大学でもそうなのだろうとあまり深くは考えないことにしている。

 

 ともかく、陽乃の周囲にいる男性に下心がないはずもない。彼らはとにかく陽乃に近づくことを目標の一つとしているが、手を伸ばせば触れられるくらいの距離まで近づくのは、実の所相当な難事であるらしい。陽乃が総武高校に在籍していた間、その距離の内側まで意図的に入ることができたのは比企谷八幡ただ一人である。リア充そのものの見た目と雰囲気の割に、身持ちが恐ろしく固いとそのギャップも評判だったのだ。

 

 高校の中でただ一人。特別な距離に優越感を覚えたのも今は昔のことのように思えるが、それでも陽乃の近くに座ることの嬉しさが消えた訳ではない。むしろ嬉しさは、過去よりも深くなっていると言って良い。

 

 視線をあげれば、手が届くくらいの距離に陽乃が座っている。髪が少し伸びたとか、高校生だった時よりも美人になったとか、顔を合わせるのに時間をあけたことはほとんどないのに、顔を見る度に発見があるような気がする。

 

 ノートや参考書ではなく、自分に視線を向けていることに気づいた陽乃が、視線を上げた。にこり、と微笑むとそれだけで、八幡の背筋は凍った。勉強しろ、とそういうことだろう。言葉よりも雰囲気で雄弁に物を語る。言葉にしなければ意図が理解できないようだと、陽乃の近くに残ることは難しい。

 

 この心情を読むことについては、めぐりの方が上手くできるようなのだが……それが犬としては少しうらやましい。めぐり曰く『同性だから解ることもあるんだよ』と励まされたが、あまり励ましにはならなかった。同時に『異性じゃないと解らないこともあるんだよね……』と文句を言われたが、それはそれだ。陽乃に関することで劣っていることがあるなど、そう簡単に認める訳にはいかないのである。

 

 さて、とにもかくにも勉強であるが、推薦入試を受けるつもりの高校三年夏休み。今さら他人に教えを請うようでは見込みはない。元より一般入試でも十分に合格できるだろうという判定である。今は何より油断しないことが大切だが、陽乃が近くにいるというのは幸福感もあるが、何より程良い緊張感を得られる。

 

 勉強を見てあげるとは陽乃が言っていたことではあるが、特にその必要がないことは本人が一番理解していた。ちらと視線を向ければ、陽乃は文庫本に視線を落とし、備え付けの緑茶を飲んでいた。自分で淹れたのだろう。見た目に大きな違いはないが、八幡には美味しそうに見えた。

 

 実際、同じ物を同じような手順で淹れているはずなのに、八幡と陽乃のお茶には誰が飲んでも解るくらいの違いが出る。めぐりや静も同じ意見で凹まされたことがあるから間違いない。視線に気づいた陽乃が文庫本から視線を挙げた。

 

 めぐりのコスプレでおさげにメガネだから、一応、文学少女に見えなくもない。こんな華やかな文学少女がいたら本家の文学少女はストでも起こしかねないが、本家の感情など女王には関係ない。視線を受けて八幡の要望を理解した陽乃は、めぐりのコスプレをしたままいじめっこの笑みを浮かべた。

 

 それで何かを言われれば反論でもしたのだろうが、陽乃は何も言わない。しょうがないな、と態度で語りながら八幡の分のお茶を淹れ、目の前に差し出した。シャープペンを置き、湯呑に手を付ける。

 

 美味い。

 

 同じ物を使って自分で淹れた物を飲んだばかりだが、飲み比べてみると明らかに違う、何がここまで味を変えるのだろうか。首を傾げながら湯呑を空にすると、すかさず陽乃がお代わりを淹れてくれた。

 

 妙に甲斐甲斐しくて、正直不気味なものを感じないでもない。親切にされると何かの前フリかと思うのはそれだけ、過去に色々なことがあったからだ。今日もこれもそれなのかとお茶の味を堪能しつつ、戦々恐々としていると陽乃は笑みを浮かべたまま読書に戻った。

 

 しばらく待ってみても何もない。ただ怯えさせたかっただけか、と判断した八幡は心中でこっそりと安堵の溜息を吐き、勉強に戻った。

 

 カリカリとシャープペンを動かす音と、文庫本のページをめくる音だけが部屋に響く。陽乃と一緒にいる時、大抵陽乃は何かしてくる。お互いがお互いの時間を過ごすというのは極めて稀だ。適度な距離、穏やかな時間。陽乃が一緒にいてこれほど穏やかに時間が進むのは本当に珍しい。

 

 そういう気分なのだろうか。めぐりのコスプレをしているのも影響しているのかもしれない。八幡や陽乃の目をもってしても彼女は善人であり、騒々しいことを好む性質ではない。意外に悪戯好きで地味に意地悪だったりもするが、そんなものは陽乃に比べればないに等しい。

 

 既に犬根性が染みついている身には、特に何もない状況というのも落ち着かないが、これはこれで楽しみではある。何より陽乃がそう過ごしたいと思っているのならば、犬としてはそれに口を挟む理由はない。安心して受験勉強に打ち込めるというのならば猶更だ。

 

 雪ノ下陽乃が近くにいるという穏やかな時間を過ごすためには、およそ最悪な条件が揃っていたにも関わらず、時間にして三時間ほど、八幡はただ勉強し、陽乃はただ読書をしていた。陽乃が二冊目の文庫本をぱたりと閉じたのを合図に、八幡も参考書とノートから顔を上げた。

 

 時計を見れば、午後七時になろうとしている。そろそろ夕食の時間だ。

 

「ありがとうございます。時間を作ってくれて」

「集中してる八幡の顔を見るのもそれなりに楽しかったから、別に良いよ」

 

 同じ姿勢でつかれたのか、んー、と陽乃が大きく伸びをする。その際、胸元に視線が行ってしまうのは、男の習性のようなものである。その視線に気づかれるのも、お約束のようなものだ。実際に見る以上のことを何度もしているのだが、この習性がなくなる気配はない。

 

 陽乃にからかわれている内に食事が運ばれてきた。からかわれている現場を見られては、仲居さんにはあらあらまぁまぁという顔をされる。それが客の物であってもゴシップが大好きなのだろう、受付にいた女性とはまた違った仲居さんだったが、まさか毎回この反応をされるのだろうか。

 

 微妙に憂鬱になりながらではあったが、食事そのものは非常に美味しかった。流石に陽乃が選んだだけのことはある。料理の感想を言いあいながら、食後のお茶を飲んで一息入れると、八幡の気分も落ち着かなくなってきた。

 

 残っている今日のイベントは風呂と就寝だけである。布団は食事を下げる時に用意してもらっており、一組の布団に枕が二つとなっている。予約した時の設定を鑑みると当然ではあるのだが『私たちはこれから如何わしいことをします』と公言しているようで、落ち着かない。

 

 実際、男女のカップルの部屋でこういうセッティングをする時、仲居さんというのは何を考えているのだろうか。しかもセッティングをしている際、そのカップルは同席しているのである。実際に仲居さんは実に淡々と仕事をしていたのだが、女性の内心が態度と一致しないのは八幡も良く理解している。

 

 これが進むと女性不信になるんだろうな窓の外を見ながら物思いに耽っていると、

 

「お待たせ」

 

 浴衣に着替えた陽乃がそこにいた。めぐりのコスプレをまだ続けているために三つ編み眼鏡はそのままだが、浴衣姿になったことでスタイルの良さが強調されている。文学少女スタイルでも人の目を引いたのだ。これではすれ違う男の視線を独占するだろう。恋人としてはとても面白くない。

 

「そういう顔しないの」

 

 微妙に膨れていた八幡の頬を、陽乃が指で押す。微妙に不機嫌な八幡に対して、陽乃はとても機嫌が良い。恋人が自分のことを考えて不機嫌になっているので、ご機嫌なのだ。八幡は陽乃に従順だが根が真っすぐな訳ではない。特に感情を素直に表現することには調教が済んだ今でも抵抗があるらしく、特に陽乃に対する不満を態度で明確に表すことは少ない。

 

 男女逆ではあるが、これも一種のツンデレのデレと言えるのだろう。陽乃はそういう俗っぽい表現をあまり好まないのだが、八幡をからかう時にはその限りではない。ツンデレだーと頬を突くと、照れた顔を見られたくない八幡は身体ごと陽乃から視線を逸らすが、それを許す女王様ではない。

 

 からかいは陽乃が満足するまで続いた。既に精神的に疲れていた八幡は、それでも犬と恋人としての責務として左腕を軽く持ち上げる。陽乃はその腕を、笑顔で取った。浴場に行くまでの道すがらである。食事の済んだ後ということもあり、同じ目的の宿泊客と道が同じになった。

 

 案の定、陽乃は老若男女全ての視線を集めている。視線はただの視線だと人は言うだろうがとんでもない。複数の強烈な視線は確かに圧力となり、八幡の全身に突き刺さっている。それを快感と思えば、人前に立つことに向いているということなのだろう。

 

 生徒会活動をしていたこともあり、人前に立つことも経験させられた八幡だが、未だに快感と思うことはできない。精々アガらずに話をする程度が関の山だが、幼い頃から視線を集めることが当然だった陽乃は、快感を通り越して意にも介さない。

 

 視線を集めているとは理解しているのだろう。何しろこれだけ気を抜いて好き放題しているように見えても、全身に隙がない。陽乃が完全に気を抜く時があるとしたらどんな時か。付き合い始めた頃は想像すらできなかったが、今ではいくつも知っている。その内一つを知った時には全力で殴られたのも今は昔のことである。

 

 ちなみに浴場は男女別である。陽乃は当初、混浴が良いと言っていたのだがそれに八幡が断固として反対したのだ。混浴露天風呂ではしゃごうと内心で思っていた陽乃は自分の行動が制限されたと思って気分を害したが、それも一瞬のことだった。

 

 基本的に従順な八幡がどうして口答えをしたのか。それに思い至った瞬間、陽乃は機嫌を直して八幡の要望を全面的に受け入れた。その要望を口にした訳ではないが、陽乃は八幡の顔色だけで内心を理解した。他人の、しかも他の男性の目に陽乃の姿がさらされるというのは八幡だって我慢ができなかったのだ。

 

 八幡が陽乃の心情を良く理解できる稀有な人間であるのと同じように、陽乃もまた八幡の心情を良く理解できる稀有な人間なのである。

 

 浴場の入り口で別れ、一風呂浴びてそして出る。女性と違って男の入浴などそんなものだ。普段より念入りに身体を洗って湯船に使っても、陽乃が同じことをした時の半分にも満たない。陽乃の入浴時間を大体把握していた八幡は、脱衣所でマッサージ椅子に挑戦してみたりしながら時間を潰す。

 

 そろそろ良い頃合いである。八幡がさも今出てきましたという風で男湯の暖簾をくぐると、ちょうど陽乃が出てきたところだった。八幡としては余裕を持って出てきたつもりである。少しくらいは待つだろうと思っていたのだが、まさかのタイミングに面食らっていると、その表情を見た陽乃がほほ笑んだ。

 

「良い偶然だね」

 

 えへへー、と笑うその表情はいつもより幼いように見えた。眼鏡はそのままだが、風呂上りだから三つ編みはやめている。それなのにめぐりっぽく見えるのだから、陽乃の彼女への理解の程が伺える。今度は文句を言われる前に左腕を差し、また腕を組んで歩く。

 

 風呂上りの熱とシャンプーの香り。湯上りで上気した陽乃の頬に耳元で囁くような陽乃の声。五感の内の四つを陽乃に支配された八幡は、ふらふらと部屋までの道を歩く。何か話かけられていた気がするのだが、内容はさっぱり覚えていない。

 

 鍵を開けて、部屋の中に入る。先導するように八幡の手を引いた陽乃は荷物を放り投げると、さっと八幡の足を刈り、自らも布団に飛び込んだ。二人で布団の上をごろごろと転がり、八幡が上になった状態でぴたりと止まる。

 

 いつにない光景に、八幡は目を瞬かせた。陽乃は性格上、自分上位であることを好み、それはこういう時でも変わらない。普段は見上げる陽乃が、今は見下ろしている。その理由を理解できないでいると、陽乃は悪戯っぽく微笑み――めぐりのキャラを思い出して、恥ずかしそうに視線を逸らした。

 

「めぐりの真似をしてた訳だから、最後までそうするの。今日は特別に、本当に特別に――」

 

 八幡の好きにして良いから――

 

 耳元で囁かれた声音に、八幡はどっと全身が抜けてしまった。下から陽乃に抱きしめられ、背中をさすられている。またとない絶好の機会なのに、どうにも締まらない。こういう体たらくも陽乃の狙いなのだろうが、男としては恥ずかしい。

 

 しかし、今から気合を入れて襲い掛かるというのもやはり締まりがない。どうしたものかと困り果て陽乃を見ると、数少ない親友の物真似をした女王は眼鏡の奥で困ったように微笑みを浮かべた。

 

「初めてじゃないでしょ? こういうの」

「それはそうなんですが、あまりのことに力が抜けたというか……」

「普段の私だったらお仕置きしてるところだけど、今日は許してあげる。あ、眼鏡は外した方が良い?」

「せっかくなのでそのままで」

「そう? 海老名ちゃんが『八幡が絶対眼鏡プレイが好きだ』って言ってたけど、ほんとだったんだね」

 

 とりあえず、奴には後で話を聞こう。

 

 それだけ決めると脳裏から後輩の姿を振り払った八幡は、いつもより少しだけ強引になった。




こんなやり取りが旅行の間ずっと続きますとさ……
未来から娘二人が時をかけてくるイベントを考えていましたが、あまりにSF過ぎるということでボツにしました。

次回ゆきのんたちの視点で旅行編終了です。二人がバカップルしている間、実は女四人で寂しくお泊り会をしていました。

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