犬とお姫様   作:DICEK

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雪ノ下陽乃にも、できないことはある。

 

 

 

 

 若者の性の乱れが叫ばれる昨今である。例えば中学を卒業してからその同級生と成人式で再会するまでの間に、子持ちになっている同級生がどれくらいいるだろう。きっと片手の指では足りないと思うが、そんな彼ら彼女らに比べると比企谷八幡と雪ノ下陽乃の関係は、少なくとも表面上は健全と言えた。

 

 陽乃が高校を卒業するまでに泊まりで出かけたのは長期休み、それも雪ノ下家が保有する軽井沢の別荘に行くくらい。デートも基本放課後、たまに休日を使うのみで夜更かしなども『あまり』しない。八幡はともかく陽乃は性格的にかなり奔放な部類である。禁欲的で純情なお付き合いというのは本来であれば望むところではなかったのだが、ハメを外し過ぎて監視が強くなることを嫌った彼女は、常識の範囲内で交際することを自分に義務付けた。

 

 それ故に八幡との交際が常識的に鑑みて極めて健全であるというのは、雪ノ下陽乃を知るつもりの人間を大いに驚かせ、雪ノ下陽乃を良く知っている人間に疑念を抱かせた。あの雪ノ下陽乃である。隠れて何かしているに違いないと彼ら彼女らは思ったが、その影を踏むこともできない。

 

 各々が確信に近いものを抱きながらも、対外的には八幡と陽乃の交際は実に健全なものとして処理された。それが疑念の域を出るのは彼女が自ら情報をリークする時まで待たなければならない。およそ自分の尻尾を掴ませないことに関して、雪ノ下陽乃は間違いなく天才だった。

 

 最近の高校生にしては健全な交際は、陽乃が高校を卒業すると転換期を迎えた。陽乃が実家を出て一人暮らしをすることになったのである。妹の雪乃が高校に通うためにそうしたように、賃貸ではなく分譲マンション。大学生が一人暮らしをするには少し広いその部屋で過ごすことが、比企谷八幡の週末の定番になった。

 

 陽乃が高校を卒業するまでは放課後に時間を作ることができたが、これからはそれが難しくなる。それでもなるべく会おうとお互いに努力はしていたが、大学生と高校生。生活のサイクルも微妙に違っている。ならば週末にとまとまって時間を取るようにした訳だ。

 

 両方高校生だった時と打って変わって毎週末のお泊りデートである。聊か健全とは言えない状況だが、片方は既に大学生で、二人が交際をしていることは八幡が通っている高校の人間ならば教師を含め全員が知っていたし、雪ノ下家は常識を逸脱しない範囲であれば、娘の交友関係には口を出さないという方針を貫いている。陽乃のマンションはまさに、彼女の城だった。

 

 毎週末の泊まりを楽しんでいる彼らだったが、長期の旅行に魅力を感じていない訳ではなかった。初めて一緒に旅行をしたのは軽井沢の別荘である。その時は管理人の監視の目、静という同行者がいたが、今度は完全に二人っきりで一緒に旅行をしようと、陽乃の提案で計画は進んでいた。

 

 雪ノ下の別荘は使わず、どこに行って何をするか。夏休みまでの全ての時間を使って立てられた綿密とは言い難い計画の、今日がその実行日である。

 

 当日は駅で待ち合わせだ。車で旅行という案も途中で出たが、陽乃自身によって却下された。免許を持っているのは陽乃のみで、移動の時はハンドルで手が塞がる。たかが移動手段に自分の行動が制限される。それが陽乃の気に障ったらしい。移動は電車で、というのは旅行を計画するかなり初期の段階で決まっていた。

 

 この時点で、八幡は旅行中は常に手を繋いだままになることを覚悟した。それが最低ラインで、陽乃の要求はそこから始まるのだ。旅行中にどんな羞恥プレイを要求されるのかを考えると、わくわくが止まらない。それが顔に出ていたのだろう。旅行に出発する一週間くらい前から、彼が妹に言われた言葉の99%が『キモい』の一言だけだった。

 

 小町は八幡がこの世で『愛している』と公言できる唯一の女性である。普段であれば『キモい』と言われただけで死ぬほど落ち込んだのだろうが、お泊り旅行で気もそぞろになっていた八幡には、愛する妹の口撃もどこ吹く風だった。それが更に小町の口撃を鋭くさせたのだが、それでも八幡の精神は揺らがない。

 

 あれだけ他人と関わろうとしなかった兄が、こんなにも一人の女性に夢中になっている。この世で誰よりも兄の将来を心配していた小町はその事実に何度も感激の涙を流したものだが、それまでの兄の関心は自分ただ一人に向いていた。今も深い愛情を感じる。時に気持ち悪いと感じる程に兄は自分を気に掛けてくれていたが、自分一人に向いていたはずの気持ちが、他の女性に向いていると思うとやはり一抹の寂しさも覚えてしまう。

 

 それでも、兄の慶事は自分の慶事である。陽乃は自分に良くしてくれたし、あんな兄を好いてくれている。これを逃したら他に女を捕まえることはできないだろう。この女性を逃してははらないと小町は密かに燃えていた。

 

 そんな愛する妹の支援もあって、当日朝の八幡は準備万端だった。一人では満足に服を選ぶこともできない――仲の良い三人の女性にはそう決めつけられている――ため、着ていく服も持っていく服も全て小町によるプロデュースである。将来義姉になる人に恥をかかせる訳にはいかないと、将来の義妹の気合は計り知れない。

 

 その甲斐あって、今日の八幡は中々の男っぷりだった。今日はメガネを着用している。メガネをかけると『インテリヤクザ』に見えると周囲の評価は半々に分かれるのだが、小町の選んだ黒縁の眼鏡は視線の鋭さを見事に緩和させていた。できるだけ柔らかい印象になるように、けれど持前の良さは失わないよう最大限の配慮がなされている。

 

 頭の天辺から足の先まで隙なく兄をコーディネートした小町は、自分の仕事に大いに満足した。妹のひいき目を抜きにしても、兄は男として素材『だけ』は良い。少し磨いただけでこれくらいになるのだから、義姉以外にも騙される女の一人や二人はいても良さそうなものなのに、義姉とくっつくまでそんな話は一度も聞いたことがなかった。きっと世のほとんどの女は男を見る目が腐っているのだろう。

 

 最近は義姉以外にも女の影が見え隠れしているが、妹の立場からするとそれは遅すぎた。もっと早く出てきてくれれば楽しく悩むこともできたのにと心底残念に思ったが、既に陽乃を義姉と思っている小町にとって、それはもう望むべくもないただの夢だった。

 

 色々な感情がないまぜになった『お義姉ちゃんによろしくね』という小町の言葉を、八幡は駅前のロータリーで反芻していた。小町の中では既に自分たちがくっつくということは規定事項のようだが、そう上手く事は運ばないと八幡は思っている。

 

 おそらく陽乃は、より強くそれを感じているだろう。話したことは数える程しかないが、雪ノ下夫妻は難敵だ。あれを攻略するには陽乃程の才能を以ってしても、入念な根回しを必要とするだろう。齢を重ねて力を付けても、その分相手も力強くなっていたら意味がない。

 

 いずれどこかの時点で、あの二人を上回る必要があるのだ。そのために陽乃は、自分の勢力を広げることに余念がない。既に大学でも手を広げている陽乃は、着々と自分の勢力を伸ばしている。自分のために動いてくれる人間、あるいは将来性のある人間。陽乃の人間関係はほぼ打算のみで完結している。

 

 例外は妹の雪乃、恋人の八幡とその妹の小町。後はめぐりや静を初めとした少数の友人で固められている。その中に、年下は数える程しかいない。それが今後の課題であると、陽乃は言っている。大学に籍を置きながら母校である総武高校に何かと関わろうとするのも、勢力拡大の一環だ。

 

 陽乃が卒業した今でさえ、主を失った陽乃閥は総武高校の中で一定の勢力を有している。当初は雪乃がその派閥を継ぐものと思われていたが、本人にその気がないと知れると勧誘もなくなった。組織をNO2の人間が引き継ぐという理屈に照らし合わせるならば、八幡にも派閥を受け継ぐ権利はあったのだろうが、自他共に認める『女王様の犬』である八幡は、NO2や盟主代理には相応しくても、盟主そのものになることはできない。

 

 結果、構成員たちは各々が陽乃閥であることを認識しながらも、今は適当に過ごしている。いずれ選挙を経て生徒会長に、などと野心を持っている人間にとっては不気味で仕方がない集団だ。八幡も陽乃の繋ぎで何度か会ったことがあるが、自分がコミュ障であることを差し引いても、あまり関わり合いになりたくはない集団である。

 

 もっとも、それは八幡が陽乃に一番近い人間であると知れているが故の嫉妬も多分に含まれていた。陽乃の手足になるということについて、八幡ほど上手く動いた人間はいない。多くの人間が陽乃のために働こうと懸命に努力したが、陽乃の在学中に彼女の眼鏡に叶い『使える人間』として今も総武高校に籍があるのは、八幡以外では現生徒会長である城廻めぐりと二年の女子が一人だけだ。多くの人間は残念ながら、その他大勢なのだ。

 

 八幡を含めた三人の実力は彼らも認めるところだったが、感情はまた別のものだ。八幡にとって女王である陽乃は、彼らにとってもまた女王なのである。対立こそしていないが、仲良しでもない。八幡が好んで関わり合いになりたくないと思う所以である。

 

「八幡、おまたせ~」

 

 それが陽乃であるというのは八幡には解った。悶々とした考えを振り払い、声のした方を振り向き――そして絶句した。陽乃の装いが八幡の予想とは大きく違っていたからだ。

 

 華やかな見た目はそのままだが、明らかに『地味な女』を装うとしている。自分を最大限魅力的に見せようと常日頃から自己の研鑽を怠らない陽乃にとって、三つ編み眼鏡というのは選択肢の一番最後に位置するものだ。その見た目の印象は八幡の友人の中で言えば、めぐりが一番近い――というよりも、意図してめぐりの真似をしているように思える。陽乃にしてはやぼったい服装も三つ編みも、その延長だろう。その中で眼鏡をしている意図だけは八幡にも読み取ることができなかった。

 

 見たことのない陽乃の装いに胸の鼓動が早まるのを自覚する。『地味な女』というのは全体のイメージだけで、陽乃がやると全く地味ではない。図書委員でもしていそうな恰好なのに、中身が違うと受ける印象がまるで違う。こんな図書委員がいたら、どんな図書室も男子で盛況になるだろう。既に陽乃のことを『色々と』知っている八幡でさえ、くらりときたのだ。初見の純朴な男子なら一溜りもない。

 

「どうして眼鏡を?」

「小町ちゃんがコーディネートするなら、絶対眼鏡にしてくると思ったの。それならお揃いにした方が、らしいじゃない?」

 

 そうですね、とも答えることができなかった。顔がにやけるのを抑えるのに必死な八幡を見て、陽乃は笑みを漏らす。八幡の形容しがたい表情を見て、陽乃は自分の企みが成功したことを知った。この犬は忠誠心こそ見上げたものだが、主人のことを理解しようとするあまり、最近はあまり驚いてくれないのだ。事実上、比企谷八幡はこの世で最も、雪ノ下陽乃を理解している人間になりつつある。

 

 血のつながった両親よりも愛する妹よりも、自分を解ってくれる異性が隣にいる。考えてみれば女としてこれほどの幸せはないが、平穏無事よりは刺激を求めるタイプである陽乃にとって、それは退屈でもあった。

 

 自分を理解してくれる。いてほしい時にいてくれる。それは当たり前に陽乃が求めるものだし、言葉にしなくてもそれを実行してくれる八幡を頼もしく思っているのは偽りのない事実であるのだが、時折ふと、出会った頃のおっかなびっくり自分に食らいつこうとしていた頃が懐かしく思えるのである。

 

 あの頃の八幡は、何をしても驚いてくれた。今が楽しくない訳ではない。むしろ、昔よりもずっと楽しいと確信を持って言えるが、だからと言っても全てが新鮮だった頃を懐かしく思わない訳ではない。

 

 大学生になってできることが増えた。自由にできる金銭も増えた。自分の部屋は実家から離れ、ある種の城になった。今の環境の方が昔よりも恵まれている。もし時間を戻せるとしても、昔に戻るつもりは全くない。過去は今の時点で懐かしむから楽しいのだ。自分の行動に後悔はない。だからこそ、たまに触れてみたくもなるのである。

 

 手始めに、驚く比企谷八幡。この旅行では、それを引きだしたいと陽乃は思っていた。めぐりのコスプレは破壊力があった。この恰好を見ただけで八幡は動揺している。

 

 そして顔を見ただけで陽乃は理解していた。驚く八幡は、普段なら当たり前のようにしている今後の想定を全くしていない。雪ノ下陽乃の攻撃が、たかが城廻めぐりのコスプレ一つで終わると本気で思っている。こういう時の八幡は本当にちょろい生き物になる。

 

 これで終わるはずがないのに、と陽乃は心中でほくそ笑む。せっかく物凄く恥ずかしい思いまでして後輩のコスプレまでしたのだ。正直今も、新しいプレイに目覚めてしまいそうなくらいに恥ずかしいが、ここで攻撃の手を緩めては雪ノ下陽乃ではない。コスプレなど序の口だ。今回は前からやろうと思っていたありとあらゆる攻撃を用意している。

 

 問題があるとすれば八幡の動揺を引きだす代わりに自分も決して少なくない精神的ダメージを負ってしまうことだが、背に腹は代えられない。目的は八幡を驚かせること。ならばそれ以外は全て些細なことだ。

 

 大したことない、些細なこと……と陽乃にしては珍しく自己暗示をかけながら、ずれていない眼鏡をずらす。自分でも動揺していることがよく解る。他人にバレる程ではないが、動じないと自他共に認める雪ノ下陽乃にしては相当テンパっている。

 

 その動揺と、羞恥心が溜らなく楽しい! 緊張も羞恥心も動揺も、全てを自分の糧に変換した陽乃は、恋人の動揺を誘うべく、次の一手を繰り出した。

 

「せっかくめぐりみたいな恰好してる訳だし、呼び方もしゃべり方もめぐりみたいにしてみる? はっちゃんとか……わー、何だか普通のバカップルみたい!」

 

 軽くはしゃいで見せたが八幡は言葉もない。握った手が物凄く熱い。物凄く照れているのだ。攻撃は効いている。自分も同じくらい恥ずかしかったが、この顔を見れただけでもやった価値はあった。この顔を将来の義妹にメールしてやったら物凄く喜んでくれるだろうが、そういうのは宿に着いてからだ。

 

 このネタは相当にいじれる。そう判断した陽乃の行動は、早い。当初は呼び方だけに努めるはずだったが即座に軌道修正する。城廻めぐりは雪ノ下陽乃の数少ない友人である。表面上だけならば、行動を真似することも容易い。

 

「はっちゃんと旅行なんて初めてだから、ちょっと緊張しちゃうかな……恋人なんだから、その、そういうことしても大丈夫だけど、お願いだから優しくしてね」

 

 演技過剰だと自分でも思う。恥ずかしがったふりはもはやふりではなかったが、ここまで来たら自分との闘いである。現に八幡には効いている。ついに視線も合わせることができなくなった彼は、身体ごと明後日の方向を向いていた。

 

 本当ならば今すぐにでもこの場から逃げ出したいのだろうが、陽乃の手がそれを許してくれない。握った手からは熱が伝わってくる。自分の行動で恋人に影響を与えている。それがバカみたいに楽しい。

 

「それじゃあ、行こうかはっちゃん。これからしばらく、二人っきりだね」

「……お願いしますから、それはもう止めてくれませんか?」

「それじゃあ比企谷くんは、どういう女が好みなのかしら」

「雪乃の真似をしろって言った訳でもありません」

「もう、文句ばっかり。そういうのは、は、は…………」

「陽乃にもできないことがあるようで安心しました。城廻も雪乃もなしで、とりあえずゆっくりいきましょう」

「…………そうしよっか。何か微妙に疲れちゃった」

「電車ですからね。寝てても構いませんよ。俺は起きてますから」

「八幡の肩貸してくれる?」

「俺で良ければ喜んで」

 

 

 

 

 

 

 

 




小旅行編①です。
めぐり先輩やゆきのんの真似はあっさりできても、小町の真似は抵抗があるのでした。

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