犬とお姫様   作:DICEK

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入れ違いに、姉妹は病室にやってくる

 歌が聞える。

 

 耳に馴染みのある歌だ。比企谷八幡の短い人生の中で、一番練習した歌である。

 

 この歌に出会ったのは、去年の文化祭が始まる二ヶ月も前。陽乃の提案で結成されたバンドで演奏した曲の一つで、既存の曲ではつまらないと陽乃が作詞作曲した歌だ。観客には大いにウケたが、それまでかじった程度だったギターを陽乃の要求通りに弾きこなすため、一日4時間の練習を二ヶ月も続けることになったのは、今となっては良い思い出である。

 

 陽乃の旋律が、途切れる。ちょうどこの後、ギターソロが始まる。トチらずに弾けるようになったのは本番の三日前のことだ。本番でしくじったらどうしようと、心臓が飛び出そうな程に緊張したのを覚えている。

 

 自然に指が動いていた。しばらくギターには触っていないが、あれだけ練習した曲だ。今でもそれなりには弾くことができるだろう。

 

「……お寝坊さんだね」

 

 本当に穏やかな陽乃の声が聞こえる。影になっていて、顔までは見えないが、陽乃にしては珍しく声と同じく穏やかな顔をしているのだろう。首が固定されていて動かない。陽乃が近くにいるのに顔が見えないのは、落ち着かなかった。

 

「俺、どれくらい寝てました?」

「二日ってところかな。命に別状はないらしいけど、間違いなく大怪我だね。本当、死んでたらどうするつもりだったの?」

「どうすることもできなかったと思いますが、ともあれ死ななくて良かったと思います。ご迷惑をおかけしました」

「全くだよ。色々と予定があったのに、八幡のせいでぱぁになったんだから。後でちゃんと埋め合わせはしてね」

「それはもう、喜んで」

 

 顔も見えないまま、反射的に答えてしまう。陽乃に対して何か、することがあったような気がしたが、陽乃の声を聞いたらそんなことはどうでも良くなってしまった。

 

 安心すると、自分の現状が良く解ってくる。痛い。動けない。何か色々と不自由である。

 

「右足と肋骨が三本と右腕が骨折。筋もそれなりに痛めてて、退院するまでに一ヶ月。全治二ヶ月ってところかな」

「一ヶ月もここにいるんですか俺……」

「雪ノ下がちゃんと個室を用意したから、そんなに不自由はしないと思うよ。入院費も持つから安心して養生してね」

「それより、あの犬はどうなりました?」

「……無事なんじゃない? 八幡が怪我してまで助けたんだから」

 

 陽乃の声音に、無視できないほどの険が混じる。一瞬にして機嫌が氷点下まで下がったことを察した八幡は、この話題を振ることを諦めた。言葉の内容からして、無事なのだろう。これであの犬が死んだとなれば、陽乃の性格ならばそう言っているはずである。一ヶ月も病院にいるハメになったのだ。これであの犬を助けられなかったら、怪我のし損である。

 

「あのクソ犬のことはもう良いよ。後、一番グレードの高い個室にしてもらったから」

「俺相手に何て無駄なことを……」

 

 個室という配慮はありがたいが、グレードについてはどうでも良いことだった。陽乃に付き合って見聞が広がったとは言え、比企谷八幡は庶民である。無駄に広い部屋に一人という環境には、耐性ができていない。まだ日がある内だから良いが、これで深夜になったらホラー度は中々の物になるのではないか。

 

 孤独を愛するぼっちとは言え、慣れない環境には抵抗がある。ここで一ヶ月も過ごすのかと思うと、身体の不調も相まって気分が滅入る八幡だった。

 

「そんな寂しそうな顔しなくても大丈夫だよ。私が毎日お見舞いに来てあげるから」

「それは嬉しいんですけど、大学は大丈夫ですか?」

「私を誰だと思ってるのかな、八幡は」

 

 得意気な声に、八幡は思わず苦笑する。人間関係の構築において、たかが一ヶ月程度で陽乃が遅れを取るとは思えない。例えある程度のグループが構築された後だとしても、陽乃ならば余裕で切り込んでいける。そもそも、総武高校からも陽乃派が何人か、同じ大学に進学している。陽乃の言葉を借りるなら、彼女らは決して有能ではないが忠実で、それなりにお気に入りだ。八幡との恋人関係を、手放しで応援してくれた面々でもある。八幡も知らない仲ではない。

 

「私の方こそ楽しみだよ。私が卒業したのに一ヶ月も空白期間があって、八幡は学校に居場所を残せるのかな?」

「0に何をかけても0ですよ。俺の居場所は三月になくなりましたので」

 

 陽乃が卒業した直後から、微妙に風当たりの悪さは感じていた。そこに一ヶ月も空白があれば比企谷八幡の居場所など、学校の外にまで吹き飛ばされていることだろう。元々一人だったことを思えば、大したことでもない。自分の居場所は学校にはなく、今ここにあるのだから。

 

「嬉しいこと言ってくれるねー。そういう犬っぽいところ好きだよ。八幡が助けようとしたクソ犬より、ずっとかわいい」

「お褒めいただきどうも。その内嘘でも、かっこいいと言われるように適当に頑張ってみます」

「それくらい軽口が叩けるなら、大丈夫だね。名残惜しいけど、私は一度帰るよ」

「もうですか?」

 

 言って、自分のあまりに女々しい言葉に、八幡は早速後悔した。パイプ椅子から腰を上げた陽乃が、満面の笑みで覗き込んでくる。言葉がなくても何が言いたいのかは良く解った。弱さを見せた自分を心の底から面白がっているのだ。

 

「明日もくるから、そんなかわいいこと言わないの」

「失言でした。忘れてください」

「それは無理。今日は八幡のかわいさを思い出しながら、ベッドに入ることにするよ」

 

 それじゃ、と陽乃が目を閉じて顔を近づけてくる。合わせて目を閉じた八幡の唇に、そっと陽乃のそれが重ねられた。一秒、二秒。これで離れる、と気を抜いた瞬間に、唇にぬめりとした感触。

 

 驚いた八幡がとっさに身体を引くと、全身に激痛が走る。声も動きもなくのたうつ八幡に、陽乃はたった今唇を舐めた舌の意味を変えて答えた。

 

 小さく手を振り、陽乃は部屋を出て行った。痛みと動悸が治まると、どっと疲れが出てくる。

 

 相変わらず台風のような人だ。身体はびっくりする程動かないが、全身の力を抜いてベッドに全てを預ける。

 

 一ヶ月もここで過ごすのは確かに窮屈であるが、陽乃が見舞いに来てくれるのならば、それでも良い気がした。元よりぼっちは他人との交流を必要としない。一ヶ月というのは長くはあるものの、一人でも暇を潰す方法はいくらでもある。優雅に読書しても良いし、勉強をしても良い。

 

 無理矢理良い方向に考えると、入院生活も悪くないような気がしてきた。

 

 それにはまず、身体を治すことである。

 

 眠気に任せて眠ろうとした八幡を、ノックが邪魔をした。

 

 どうぞ、と答える間もなく、一人の少女が病室に入ってくる。真新しい総武高校の制服に身を包んだ少女は、ベッドの上の八幡に意識があるのを見るや、目を見開いた。驚きの表情を浮かべたまま静かに歩みより、ベッドの脇で八幡を見下ろす。

 

「…………お久しぶり、と言えば良いのかしら」

「軽井沢で会って以来か。話だけは頻繁に聞いてたから、久しぶりって感じはしないが」

「情報漏洩くらいはあると覚悟していたけれど、貴方の顔を見る限り、それは深刻なことのようね……」

 

 ふぅ、と少女――雪ノ下雪乃は小さく息を漏らす。二年ぶりにあった陽乃の妹。姉妹というだけあって顔立ちは似ているが、こうして見るとやはり雰囲気はまるで違う。前後不覚になるくらいの極限状況でもなければ、見間違うことはないだろう。どこがとは言わないが、陽乃と違って起伏にも乏しい。

 

「今、不愉快なことを考えたかしら?」

「別に何も」

 

 姉と一緒で、勘は鋭い。人でも殺せそうな視線の鋭さを適当にやり過ごすと、雪乃は先ほどまで陽乃が座っていたパイプ椅子を引き寄せ、座る。

 

「姉さんから聞いたと思うけれど、貴方を轢いたリムジンはうちのものよ」

「それは気づいてた。あれ、お前が乗ってたんだな」

「……それだけ?」

「お前が運転してたんなら文句の一つも言ってただろうが、そうじゃないんだろ? この事故に関して、お前に言うことは何もないよ」

 

 今更誰がどうだった、という事実を知った所で怪我をして動けないという事実はなかったことにはならない。それならば文句を言って他人の気分まで盛り下げるよりは、納得して黙っていた方が、物事はスムーズに進んでくれる。八幡にとって全体の収支を考えて理性的に行動するのは、特に陽乃と付き合うようになってからは当然のことだったが、文句の一つも言わず嫌な顔の一つもしない八幡が、雪乃には意外なようだった。

 

「あの人の言った通りなのね。気持ち悪いくらいに理性的。そうでなければ、あの人と病院でいちゃついたりはできないんでしょうけど」

「まだ病院でいちゃついたりはしてないぞ」

「そう? ならその口紅は私の見間違いね」

 

 なに!? と反射的に身体を動かそうとして、ベッドの上でのたうつ。手で拭うこともできず、目で確認することもできない。八方塞になった八幡に、雪乃が邪悪な笑みを浮かべている。嗜虐的なことに関する限り、陽乃と雪乃の振る舞いは良く似ている。

 

「まるで芋虫のようね。真摯にお願いするなら口元を拭いてあげても良いのだけれど」

「…………頼む」

 

 恋人の妹にそこまでしてもらうのは激しく抵抗があったが、口紅をつけたまま、というのが事実であれば放っておくことはできない。少ない見舞い客に見られるのも問題だし、何よりこれを家族に見られたら一月はこの件でからかわれ続けることになる。背に腹は変えられなかった。

 

 ベッド脇のウェットティッシュを手に取り、口元に手を伸ばす。

 

 雪乃の顔を近くで見るのは、初めてのことだ。陽乃よりも少し目つきが鋭いが、整った顔立ちのおかげでそれも美人の特徴として捉えられるだろう。華やかな容姿という点では陽乃と共通している。

 

 しかし、万人受けしそうな陽乃と比べると雪乃の顔立ちは幾分、怜悧な印象を受けた。どちらが好みか、というのは人に寄るだろう。八幡個人は無論、陽乃の方が好みであるが、雪乃の方が良いという人間も多いに違いない。

 

 受ける印象が違っても、姉妹と言うだけあって陽乃と良く似ている。似ているとは言われたことのない比企谷兄妹とは随分な違いだ。

 

「終わったわ。一応、他人の目は気にした方が良いんじゃないかしら」

「次からはそうする。それからできたら、このことは内密にしてくれると嬉しい」

「それは貴方の態度次第ね」

 

 今度は、穏やかに微笑む。邪悪な笑みは陽乃とそっくりだったが、こういう普通の笑顔は随分と印象が違った。顔立ちが鋭い分、笑顔が際立って見える。

 

「怪我人をこれ以上いじめるのも何だから、私ももう行くわ。その内ご家族も来るでしょうから、それまで寝てなさい」

「態々来てもらったのに悪いな」

「うちの車が轢いた人間だもの。気になるのは当然でしょう?」

 

 そこは嘘でももっと、他の理由をつけて欲しかったところではある。じっと雪乃を見つめるが、彼女はあっさりと踵を返し部屋を出て行った。無機質な音を立てて閉まったドアを見つつ、動かない身体の八幡は寝転がったまま肩を落とす。

 

 人恋しい訳じゃない。

 

 だが、何だか妙に寂しい。

 




寒い……
そんな中導入したゆたんぽ様の超性能。
何だこれマジあったかい。

他にも見舞い客は来ましたが、家族と事件関係者を除くと来てくれたのはめぐりんと静ちゃんだけでした。
入院生活を一ヶ月書いてもしょうがないので、次回奉仕部結成編。
ガハマさんの登場は残念ながらもう少し後で。

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