犬とお姫様   作:DICEK

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こんな風に、川崎沙希は覚悟を決める

 八幡が退院して一息吐いた頃、陽乃から飲みに行こうと誘いがあった。

 

 何をと陽乃は口にしなかったが、それが酒飲みの誘いということは八幡にも解る。陽乃が大学生になり、八幡がすぐに事故にあったせいで話が流れていたが、前から行こうと誘われてはいたのだ。確認するまでもなく、陽乃も八幡も未成年である。その上で、陽乃は八幡を誘っていた。

 

 八幡にとって、陽乃の誘いは絶対だ。学校にバレるかが懸念ではあったが、その辺りは陽乃が上手くやってくれると信じることにした。

 

 ただ店に行くだけだと思っていたら、陽乃が行きたい店に行くには準備が必要だと言われた。ジャケット着用が義務の、聊か格式の高い店であるという。そういう場所に着ていける服の持ち合わせはないではなかったが、進学祝いということで陽乃がスーツを買ってくれることになった。進学したのは陽乃なのに、意味が解らない。陽乃にとって理由などどうでも良いのだ。何かにつけて理由をつけて、陽乃は八幡に物を与えようとする。

 

 最初は自分で払おうという気を持っていたような気もするが、付き合うようになってからはそれもなくなった。プレゼントの値段は聞いていないし、深く考えてもいない。どうせ聞いても答えないだろうし、聞けたとしても払える金額ではない。金のことは極力、考えないことにした。

 

 これもある意味、ヒモという奴なのだろう。高校入学時の夢が叶ったと言えなくもないが、過去の自分が今の状況を見ても決して喜びはしないと断言できた。ヒモにもヒモの苦労があるのだ。それを身をもって知った、高校三年の春先である。

 

 スーツをオーダーメイドするに当たり、どういうのが良い? と陽乃が珍しく要望を聞いてくれたが、服飾に希望などない八幡は全て任せることにした。結果、スーツには何故か伊達メガネがセットになっていて、髪型はオールバック限定という注文までついた。インテリヤクザの出来上がりである。

 

 誰が見てもインテリヤクザとなった八幡が姿見の前に立ったのを見て、陽乃は腹を抱えて大笑いした。予想以上の出来と褒めてくれたが、その時のテーラーの引きつった笑みは、八幡の印象に強く残った。

 

 インテリヤクザになったその足で、陽乃と共に向かったのはエンジェルラダーという店だった。聞けば、ここのオーナーとは付き合いがあり、顔も聞くという。夜遊びに使ったこともあるとか何とか。値段を見ないようにしながら、メニューを眺める。当然、酒など自発的に飲んだこともないから、名前を見てもどういう酒なのか解らない。オススメは? と聞くと、陽乃が『こう頼むのがかっこいい』という頼み方を教えてくれた。

 

 それは八幡でも知っている酒であり、知っている頼み方だったが、陽乃はそれをやってこいと言っている。やれと言われたらやるしかないのが犬というものだ。やれやれ、と顔に出さないようにしながら立ち上がると、これから向かおうとしたバーカウンターでトラブルが起きているのが見えた。

 

 カウンターの中にいたのは背の高い女性店員だった。それに、男が絡んでいる。一応ジャケットは着用しているが、如何にもなチンピラだ。店のハイソな雰囲気にそぐわないダミ声が響くと、女性店員がびくついた。女性店員は見るからに気の強そうな顔立ちをしていたが、状況が状況である。大の男に絡まれたら、ビビるのが普通だ。誰もが陽乃のように図太い神経をしている訳ではないのだ。事実、離れて聞いている八幡でさえ、一瞬ではあるが気を飲まれそうになった。陽乃に比べれば怖くも何ともないのだが、それはもう本能的な反応と諦めるより他はない。

 

 店が店であるから、放っておけば店の偉い人が来るだろう。何しろ陽乃がお気に入りにして、使い続けている店だ。本来であれば八幡が割って入るような理由はないのだが……ちらと振り返ると、陽乃がゴーサインを出しているのが見えた。

 

 正義のヒーローになれとでも言うのだろう。陽乃に女性を助けようという正義感がある訳ではない。単純に、八幡が自分のキャラに合わない、正義の味方ごっこをするのを見たいだけだ。娯楽のためにチンピラにけしかけられる八幡は良い迷惑だったが、女性店員相手に凄むチンピラにもイラっときていたのも事実だ。

 

 問題は、どうやってチンピラを叩きだすかだが……考えながら歩いていると、チンピラの方が先に八幡に気づいた。

 

 八幡の姿を視界に収めたチンピラは、自分が今まで女相手に怒鳴っていたことも忘れて、硬直した。

 

 それも無理からぬことではある。全身陽乃のコーディネートで一分の隙もなくなった八幡は、どこから見てもインテリヤクザだ。ハイソな店の雰囲気もあって、それなりの格の人間にも見える。チンピラヤクザの世界も、男を売る稼業であると同時に、縦社会であることに変わりはない。粗相をすれば指が飛ぶかもしれない世界なのだ。リアルに自分の身に危険が及ぶとなれば、誰でも警戒するというものである。ただの粋がっている素人ならば猶更だ。

 

 硬直したチンピラの姿に、八幡ははっきりと自分の有利を悟った。元より、こんな場所で堅気の少女相手に怒鳴っている時点で、本職ではないと半ば確信していたのだが、それはそれだ。調子に乗ってメガネをくい、と軽く持ち上げ下からチンピラを睨みあげる。

 

 最近、ますます目力が増したと言われる腐った目だ。見ず知らずの人間に、全力で睨みつけてやるとその効果は絶大だった。全くひるまずに睨みつけてくる八幡に、チンピラは完全に腰が引けていた。既に逃げ腰になっているチンピラに、八幡は無言で出入り口を顎で示した。

 

 雑な扱いに、しかし、チンピラは文句を垂れることもなくそそくさと店を出て行った。あちらからすれば、見逃してもらった、ということになるのだろうか。ヤクザの世界のことなど知らないが、これからも使うかもしれない店にああいう手合いがいるのも困る。少しだけ住みよい世界にできたと思えば、気分も良かった。

 

 一仕事済んだところで、八幡は陽乃の指令を思い出した。チンピラを撃退したことで忘れてくれると良かったのだが、振り向くと陽乃はバーカウンターを示して行け! とのサイン。仕事がまだ終わっていないことを理解した八幡は、チンピラに近づく時よりも多大な精神力を発揮して、何やらぽーっとしている女性店員に指示通りの声をかけた。

 

「ウォッカマティーニ。ステアではなくシェイクで」

 

 知る人間が聞けば何を気取っているのか一目瞭然の注文である。注文一つで顔から火が出るほど恥ずかしくなる八幡だったが、幸いなことに女性店員は数字三文字で表現される世界一有名なスパイを知らなかったらしい。八幡の注文にはっとなると、注文を別のバーテンダーに伝えに走る。

 

 カウンターに立っているだけで、カクテルが作れる訳ではないようだ。新人なのだろう。見た限り、自分と同じくらいには若く見える……というか、ここで働くには若すぎる気がする。注文ができるまでの間に何となくスマホを操ってその懸念を陽乃に伝えると、彼女は即座に返信してきた。

 

『八幡の魅力でたらしこんでみて!』

 

 その文面を見て、八幡は頭を抱えた。今までの命令の中でも最高級に面倒臭い命令である。こいつはイモだと思えば普通に他人と話せるようにはなったが、別に魅力的なトークができるようになった訳でも、人付き合いが良くなった訳でもない。人付き合いそのものは相変わらず苦手なままな八幡に、初対面の女性というのはかなりハードルの高い相手だった。

 

 だが見方を変えれば、これ程後腐れのない人間もいないと考えることもできる。明らかに最低の発想だが、元より女王様からの命令からして最低なのだ。多少最低スパイスを加えた所で最低に違いなく、大勢に影響はない。

 

「災難だったな」

「はい。あの、助けてくださってありがとうございました」

「なに。連れがやれって言ったからやったまでだ」

 

 視線を向けると、陽乃がひらひらと手を振ってくる。陽乃を見た女性店員は一瞬だけ残念そうな顔をした。夜のバーに男と女。それが意味する関係は一つである。

 

「それはそうと……」

 

 陽乃から視線を戻した八幡は、指で女性店員を呼び寄せる。素直に顔を寄せてきた女性店員の頬は、朱に染まっていた。見た目の割りにウブな反応に心中で戸惑いながらも、八幡は思ったことをそのまま口にする。

 

「お前、年誤魔化して働いてるだろ」

「…………何をおっしゃいますか」

「あぁ解ってるよ、冗談だ」

 

 欠片も冗談ではないといった口調で、八幡は苦笑を浮かべた。冗談ということで済ませてやる、という半ば脅しのようなものだ。女性店員の顔に、緊張の色が浮かぶ。どの程度誤魔化しているかにも寄るが、未成年が夜のバイトをしているとなれば、それがバレた時親の呼び出しは免れないだろう。

 

 そうなれば、今後の学生生活にも制限が付くことになる。どうしてもここでバイトをしたいという風には見えないから、目的は金を稼ぐことであるのは間違いない。最悪、バイトは他を探せば済むが、出足で躓くと後が続かないものである。

 

 ここのバイトも始めたばかりのようだし、本人的にはここで続けたいところだろう。実に突き甲斐のある弱みであるが、八幡程他人の人生に興味がない人間もいない。

 

「どこの高校だった? 俺は総武高校」

「あ、私も一緒です」

 

 卒業した高校は? という体で探りを入れてみると、何と同じ高校だった。意図しないところで、大当たりが出る。これから先不幸が続きそうで気分が悪いが、実際、今現在も通学している八幡からすると、同じ高校というのはあまり良いことではなかった。

 

 十分に変装できているとは思うが、学校で顔を合わせた時に今日の行動がバレるようだと困る。年齢を誤魔化しているのは、八幡も陽乃も一緒なのだ。たらしこむつもりが弱みを握られたのでは、全くもって割に合わない。

 

 どうしたものか。考えていると、注文したウォッカ・マティーニが届いた。持ってきたバーテンダーは八幡に軽くウィンクをすると、そっと顔を寄せた。

 

「先ほどはありがとうございました。雪ノ下様にはお世話になってございますので、こちらはサービスになります、とよろしくお伝えください」

「何か、すいません」

 

 思わず素で返してしまった八幡に、バーテンダーはとびきりの営業スマイルを浮かべた。

 

「当店の従業員を助けていただいた訳なのですから、当然です。お客様も、くつろがれますよう」

 

 一礼し、去っていくバーテンダーの背中を見ながら、注文したカクテルに口をつける。舌がひりつくくらいに冷やされたそれはどうも強い酒だったようで、一口飲んだだけで頭がふらふらした。思わず頭を押さえた八幡に、八幡の名を呼んだ陽乃は指で『戻ってこい』という仕草をする。

 

「連れが呼んでるんで、戻る。バイト頑張ってな」

「あの!」

 

 もう関わることもあるまい。軽く手を振って去ろうとした八幡を、女性店員は呼び止めた。

 

「私、川崎沙希といいます。今日は本当に、ありがとうございました」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その出会いは、沙希からすればそれなりにキレイな思い出だったのだろうと思う。

 

 だが八幡はあの日、慣れない酒で存分に酔わされ、陽乃がこっそりと取っていた部屋に連れ込まれた挙句、美味しく頂かれてしまった。翌朝、信じられない程の頭痛で目が覚めると、隣では陽乃が気持ち良さそうに眠っていた。同じくらいの量を飲んだはずなのに、どういう理不尽だろう。心中で嘆いてみても、現実は変わらなかった。八幡にとって頭痛で終わったその日の記憶は、どちらかと言えば後味の悪いものだった。

 

「お待たせしました」

 

 十二時少しを過ぎた辺りで、沙希は八幡の待つテーブルにやってきた。ベストを脱ぎ、上にジャケットを羽織った状態である。休憩中の従業員といった装いにこれで良いのかとバーカウンターを見れば、あの日、ウォッカマティーニを持ってきてくれたバーテンダーが、今日もウィンクを返してくれた。問題なし、という店側のリアクションに、軽く溜息を吐く。

 

「うちの弟が迷惑をかけたようで、申し訳ありません」

「他人には実感が湧かないかもしれんが、学校での俺にとってはこれが仕事のようなもんだ。お前が気にすることじゃない」

 

 それは八幡の本心だったが、義理堅い性格、というよりは他人に借りを作るのが嫌いな沙希は、自分の弟が恩人を引っ張り出したことにかなり負い目を感じていた。見るからに恐縮した様子の沙希に、八幡は苦笑を浮かべる。

 

「これも部活動なんだよ。実を言えば推薦の内申のためにやってることだ」

「内申……ですか」

「ああ。そして、お前にも関係のあることだろ? 学費のために働いてるんだろうしな」

「……どうしてそれを?」

 

 沙希にとってはそれは、純粋な疑問だった。何しろ一緒に暮らしている弟が、沙希の目的に思い当っていなかったくらいだ。それを他人に言い当てられるとは思ってもみなかったのである。近しければ近しい程その人間を理解できるというのは、実のところただの思い込みだ。距離を取って離れた他人だからこそ、見えるものだってある。沙希の話は、八幡にとってその典型だった。

 

「弟の話では、夜に出歩いて早朝に戻ってくるようになったのはいきなりだそうだ。中学までは真面目だったようだし、一緒に暮らしてる家族から見てそれまで非行の兆候がなかったんなら、そっちの線は薄い。かと言って、派手に金を使った様子もない。元々真面目となればそうなんじゃないかと思っただけなんだが、どうやら本当に本当だったみたいだな」

 

 かまをかけた風を装う八幡だったが、実際には半ば確信を持っていた。両親共働きという事情と、沙希を含めて子供が複数いることを加味すれば、川崎家が決して裕福な経済状況ではないことは想像に難くない。聞けば、バイトを始めた時期は大志が塾に通い始めた時期と被っている。いくらかはこっそり家計の足しにもしているのだろうが、究極的には将来のための貯蓄という線が、濃厚だ。

 

 経済的に苦しい家にとって、大学進学はかなりの負担になる。弟を大学に行かせる前提なら、姉の状況は更に苦しいと言って良い。奨学金という手もあるが、将来的に返済しなくても良いタイプのそれは審査が厳しく、成績が良かったとしても確実にゲットできる保証はない。進学そのものが目的であればそれ以外の奨学金でも十分助けにはなるが、いずれ返済することを考えれば金は用意しておくに越したことはない。

 

 とにもかくにも金、金、金である。

 

 八幡の言葉に、沙希は黙って俯いた。

 

 隠れてバイトをすることにしたのは、これ以上家族に負担をかけたくないと思ったからだ。弟には心配をかけることになったが、実際に不良になった訳ではないのだから、と内心で言い訳をして、自分を誤魔化してきた。今日まではそれで自分を騙すことができたが、八幡が同級生を引き連れて店にまでやってきたことでそれはご破算になってしまった。

 

 自分に似て、弟も引かないと決めたら一歩も引かない男だ。明確な成果が出ない限り、殴られても引かないのは目に見えている。ここまで話が大きくなった以上、家族の問題になることは避けられないだろう。親が腰をあげたら、バイトを始めた理由まで話さなくてはいけなくなる。家族の負担にはなりたくない。それだけは、何としても避けたかったことだったのだが……

 

 悔しそうに俯く沙希に、八幡は何でもないように声を挙げる。

 

「そこで、だ。俺は俺の内申のために、お前に耳よりな話を提供することにした。まず塾の費用だが、総武高校(うち)と提携してる塾でなら費用を減免できるシステムがある。俺は使ったことないが、調べたからやり方くらいは知ってる。お前なら申請すれば通るだろう。時間が作れるようになったら、教務の方にお前の方で申請してくれ」

 

 給付の奨学金は狭い門だが、沙希はまだ一年だ。最終的な成績次第では、それを獲得することも夢ではない。静に手配してもらって成績を調べたら、入学試験からこっち普通科の中では上位の成績をキープしている。本腰を入れて勉強すれば、一桁代のキープも十分射程範囲だ。バイトをしなくても良く、かつ成績も上昇する。これが最善のルートだが、世の中そう上手く運ぶ訳ではない。沙希の精神の安定のためにも、ある程度の金策は必要だった。

 

 しかし、できるだけ家族に心配をかけたくないという沙希の願望を叶えなければ、また今日のような問題が起こってしまう。バイトをするにしても、沙希が都合の付けやすい時間帯にする必要だあった。

 

「次にバイトだが、うちで家庭教師をしないか? うちの妹、世界一かわいいんだが残念なことに勉強の方はからっきしでな。お前の弟と同じ塾に通ってるんだが、それだけじゃ足りんとうちの両親は判断したらしい。最初は俺が教えるつもりだったんだけどな、俺相手だと手を抜きそうだと、女性で、信頼のできる相手がいないか探してるところだったんだ」

 

 店舗ではなく比企谷家が雇うことになるから、ここで働くよりも手取りは低くなる可能性があるが、睡眠時間を削って労働するよりはずっと沙希の身には優しくなるはずだ。普通に学校に行き、家族の面倒を見て食事の準備などをし、夜に家を出て早朝に帰るなんて生活をいつまでも続けられるはずがない。勤務時間応相談というのは、沙希にとっては魅力的な条件だった。

 

「それは、八幡さんにご迷惑では」

「金を払うのは俺じゃないし、勉強を教わるのも俺じゃない。金を出さない以上、俺が注文を付けるのも筋違いだろ? だがあえて注文を付けるなら、信頼のおける相手ってくらいだったんだが……お前は俺の注文通りの相手だしな。何も不満はない」

 

 強いて問題を挙げるならば、川崎家全体と仲良しになり、小町と大志が親密な関係になることだが、沙希が比企谷家に来る時に一人で来てもらえば、その心配もない。妹の部屋に他の男があがりこんでいたら、と想像しただけで胃がねじ切れそうになるが、その辺りの事情は沙希も汲んでくれるに違いない。

 

「後はそうだな。給付の奨学金を真面目に狙ってみるのも良いだろ。進学先が決まってるんでなければ、それを条件に進学先を探しても良い。その分、一年の今から本腰入れて勉強することになるが、その辺りはまぁ、頑張って努力してくれとしか俺には言えない」

 

 箸にも棒にも引っ掛からない学力ならば目も当てられないが、総武高校に入学しただけあってそれなりに勉強はできるのだ。家族に負担をかけないため、睡眠時間を削ってまでバイトをするという選択ができる人間だ。こつこつ勉強を続けるくらいは、難なくこなしてくれると信じたい。

 

「まぁ、こんなところだな。現時点ですぱっと解決したとは言えないが、勉強する環境、金銭的な問題、その他諸々、解決する用意がある。お前が一つ頷いてくれれば、俺はお前の状況を改善するために努力する。睡眠時間を削ってまでバイトするよりはマシだと思うが、決めるのはお前自身だ。時間をかけて決めてくれて――」

「お受けします」

「…………もう少し考えなくて良いのか?」

「反対する理由が一つも思いつきません」

 

 即決に、八幡は逆に不安になった。沙希は芯がしっかりしていて頭も良いが、それ故に悪い人間に騙されそうな気がした。これが罠であるとは欠片も疑っていない様子だ。これと信じた人間には、とことん尽くすタイプなのだろう。それはそれで長所ではあるが、時に欠点にもなるのだということは早い内に理解しておいた方が良い気もする。特に陽乃のような相手だと、知らない内に大失敗をしそうだ。

 

 他人などどうでも良いと思っている八幡だが、結衣とは違った意味で犬のようなこの少女のことを、他人とは思うことができなかった。本来ならばこの依頼が終了すれば切れる関係だったはずが、紹介したバイトのせいで関係を続けることになってしまった。正直に言えば、バイトの世話までする必要はなかった。それをしてしまったのは、既に沙希にそれなりの愛着を感じてしまっているからだ。

 

 頭がそれなりに回って、一本気。陽乃流の言い方をすれば、実に使いやすい女だ。一度しか会ったことのない男の話を鵜呑みにしている辺り、陽乃ならば一言『愚か』と切り捨てる救い難さであるが、その人間性が八幡は嫌いではなかった。誤解されやすいタイプだろうが、悪い奴ではない。自分が苦労することを厭わず、家族のために行動できる優しい人間だ。

 

 そういう人間が、良い目を見てほしいというのは、まだまだ甘いという証拠だろうか。陽乃ならばどう言うだろうと、沙希を前に八幡は考える。内心はどうあれ、結局は笑って許してくれそうな気がした。ならばきっと、これは犬として正しいことなのだ。

 

「何はともあれ、よろしくな。いきなり辞めるってのもアレだろうから、ここが一区切りついたらってことで良い。弟の方には依頼完了って話しに行く用事があるから、詳細を伝えておいても良いが」

「いえ、あいつには私の方から伝えます。貯金してることが親にバレると色々と面倒ですから、口裏を合わせてもらわないと」

「川崎さんちも大変だな」

「八幡さん程じゃ。話をしていて思い出しました。あの日、一緒に連れられてた方が、雪ノ下陽乃さんですね? それで八幡さんは、その……『女王様の犬』」

「一年の間にも悪名が轟いてるようで、何よりだよ」

 

 八幡は小さく溜息を吐く。それ程学校の事情に通じていなそうな沙希ですら知っているのだ。一年でもほとんどは知っていると考えて良いだろう。陽乃はもう卒業したというのに、大した影響力である。

 

「それを知ってるなら話は早い。陽乃の手伝いをした関係で、教職員にはそれなりにコネがある。単位をどうこうとまではいかないが、教務関係の話は通しやすいと思うぞ」

「その時には、お世話になります」

 

 ぺこり、と沙希は頭を下げる。実に従順で、つい先ほど雪乃とやりあっていた人間と同じとは思えない。当初から考えていた通り、雪乃とは相性が悪いことを先の会話で証明されてしまった訳だ。推薦の内申を上げるため、自分が取った方法と同じものを勧めることが、微妙に難しくなってきた。

 

 とは言え、推薦を狙うならば部活や委員会活動はしておいた方が良い。実績が残せないならば同じだという向きもあるが、白紙よりは何か埋めるものがあった方が良いというのが八幡と静の結論である。欲を言えば生徒会活動などにもねじ込んでおきたいところではあるが、家の仕事で時間を取られるならば、これ以上学校の仕事を押し付けるのも気が引ける。その辺りは沙希の事情も鑑みて、ということになるだろう。

 

「まぁ、話がまとまって良かった。俺はそろそろ行く。あんまり家族に心配かけないようにな」

「八幡さん」

 

 立ち上がろうとした八幡を、沙希の言葉が押しとどめる。提案に何か不足があっただろうか。椅子に座り直して正面を見ると、沙希とまっすぐ視線があった。

 

「内申のために参加してらっしゃる部活について、お話を伺いたいんですが……」

(あぁ、こういう展開か……)

 

 沙希がこういう提案をしてくると想像していなかった訳ではないが、雪乃と相性が悪いと感じた矢先のことである。例えば雪乃が沙希の立場だったら、相性の悪い人間がいる部活に、自分から参加をしたいとは言いださないだろう。沙希にすれば、自分が言いくるめた相手である。雪乃から見た沙希ほど苦手意識はないはすだが、それでも主義主張が普段からぶつかるだろうことは、想像に難くない。

 

 八幡が内申目的に参加している部活に、雪乃もまた参加していることは沙希も把握している。それにも拘わらずこういう提案をしたのは、自分の内面よりも実利を取ったからだ。内申のためならば、そりの合わない相手がいても我慢する。中々できない選択だが、おそらく沙希は我慢するだけで、仲良くする努力はしないだろう。部活に波風が立つのは、今の内から見えているが、自分が内申のために参加していると標榜している手前、お前はダメだと断るのは筋が通らない。

 

 どうやって紹介したものか。考えた八幡が、悩んだ末に出した言葉は、

 

「何か飲むか?」

「じゃあ、オレンジジュースを」

 

 なるようになるだろう。適当なところで、八幡は考えるのを止めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そんな訳で、今日から一緒に部活動に参加することになった川崎沙希だ」

「よろしく」

 

 八幡の雑な紹介に従い、沙希がそれ以上に雑な自己紹介をする。追加で新入部員が来るとは予想していなかったのか、八幡の目の前で雪乃たちは口を開けてぽかんとしている。そんな少女らを無視して、沙希はテーブルの一番端を自分の席と決めると、参考書を開いて勉強を始めた。学校での空いた時間は勉強に使うと決めたらしい。見上げた向上心だが、この強面で普段からこれでは、友達はできないだろう。クラスで孤立しないか心配である。

 

 勉強する沙希を眺める八幡の両腕を、姫菜と結衣が部室の隅まで引きずっていく。それに、興味なさそうな顔をした雪乃がついてくる形だ。沙希は部員たちにちらと視線を向けただけである。

 

「八幡先輩、八幡先輩。本当にたらしこんじゃったんですか? 回転するベッドのある部屋に連れ込んでオールナイトですか?」

「人聞きの悪いこと言うな。普通に話して、まとめただけだよ。結局、学費のためだったんだと」

 

 かいつまんで沙希の事情を説明すると、根が単純な結衣はさっそく絆された。尻尾を振って沙希を構いに行くが、沙希はその悉くを軽くいなしている。話しかけるなオーラをこれでもかと出している沙希に話しかける結衣も強者だが、集団の中で遠慮なくオーラを出せる沙希も相当だ。

 

 そんな結衣を他所に、雪乃は沙希の方を一度見ただけで、それ以降は視線を向けることもせずに文庫本に視線を戻した。昨晩、やり込められたばかりで相性が悪いことを自覚しているのだ。全てのことで負けるとは思ってもいないだろうが、雪乃も喧嘩が好きな訳ではない。自分が行動しないことで立てなくても済む波風は、立てないに限る。雪乃は雪乃で、奉仕部の平穏無事な空間をそれなりに愛しているのだ。

 

 雪乃が消極的な無視を決め込んだ後も、結衣はこれでもかと質問を重ね続けたが、結果は惨敗だった。肩を落としてとぼとぼ戻ってくる結衣と入れ替わるようにして、今度は姫菜が沙希の隣に座る。攻め手は結衣よりも遥かに緩やかだが、基本的に人間に興味がない姫菜はそれ故に、やろうと思えば的確に急所に踏み込むことができる。適当な答えはさせないとばかりに攻める姫菜に、沙希は戸惑いを隠せないでいた。

 

 横目で見ていた八幡は、落ちるのは時間の問題だなと確信し、自分で入れた紅茶に口を付ける。

 

「……私、川崎さんに嫌われてるのかな」

「川崎は誰にもあんな感じだろ? 気にするなよ」

「でも、ヒッキー先輩には川崎さん優しいじゃん。私も川崎さんと、お話ししたいよ」

「何かの漫画で言ってたが、友情って植物は花を咲かすのにとても時間がかかるらしい。長い目で行けよ。俺は知らんが」

「ヒッキー先輩冷たい!」

「他人事だからな……」

 

 誰と誰が友達になろうが、八幡にはどうでも良いことだ。ぷりぷりと怒る結衣を横目に見ながら、姫菜の様子を見る。巧みな手腕で次々と情報を引き出している姫菜はなるほど、リア充グループに所属しているだけのことはある。自分ではここまでスムーズにはいかないだろうな、と適当に考えていると、姫菜は唐突に振り向き、八幡に話を振った。

 

「八幡先輩。サキサキの趣味って何ですか?」

「なんで俺に聞くんだよ……」

 

 問い返すが、姫菜はふふ、とほほ笑むだけで答えない。その意図が八幡には解らなかったが、今まさに攻められていた沙希はすぐに察することができた。ヤバい、とはっきりと顔に書かれていたのを見ることができたのは、たまたま文庫本から視線を挙げた雪乃だけだった。同様に、機嫌良さそうに微笑した雪乃を見ることができた人間は、部室の中には一人もいない。

 

 ともかく、聞いて? と頼まれたと解釈した八幡は、姫菜の疑問をそのまま口にした。

 

「川崎、趣味とか特技って何かあるか?」

 

 八幡の問いに、沙希は一瞬答えを詰まらせた。自分のキャラにあっていない特技を口外することを、沙希はあまり好いていなかった。本音を言えば誰にも言いたくはないのだが、八幡に聞かれたら答えない訳にはいかなかった。

 

「趣味は特に。特技は……裁縫、だと思います、多分」

「裁縫!? あ、もしかしてサキサキのシュシュってお手製? すごーい、ちょっと見せてー」

 

 わざとらしく声を挙げた姫菜に、結衣も乗ってくる。沙希が参考書を広げているにも構わず、沙希お手製のシュシュの出来に、女子二人は遠慮のない歓声を挙げていた。普段、家族とくらいしか会話をしない沙希は、当然ながら褒められることに慣れていない。そもそも手腕を見せる機会があるのも、妹くらいのものだ。自分の仕事を褒められるのは悪い気はしないが、それ以上にこそばゆさを感じていた。それが同年代の同性なのだから尚更である。

 

 居心地の悪さを感じながら、助けを求め辺りを見回す。女物の装飾に興味のない八幡は、二杯目の紅茶をいれるべくポットに向かっていた。残っていたのは文庫本を読む雪乃だけだったが、沙希が視線をさまよわせるタイミングを狙いすましていたかのように視線を挙げた雪乃は、沙希と目を合わせると小さく笑みを浮かべた。

 

 人を小バカにした笑みというのは、こういうものを言うのだ、と教科書に乗せても良いくらいの笑顔である。それを、上品なままに行う辺りに雪乃の育ちの良さが出ていたが、育ちが良かろうが悪かろうが向けられる人間には関係がない。人並み以上の察しの良さを持っている沙希は雪乃の笑みを『良い気味だ』という風に解釈した。昨晩やり込められた報復なのは考えるまでもなかった。

 

 やはりコイツとは、ソリが合わない。

 

 沙希は遅まきながらに、それを確信した。いい加減女子二人が鬱陶しくなってきた沙希だったが、シュシュ一つにまだ二人は興味を維持したままである。どうしたものかと途方に暮れた沙希の前に、紅茶のカップが置かれた。

 

「粗茶……ではないな、茶葉は良い奴だ。市販の奴よりは美味いと思う、多分」

 

 腕前はそれなりだと思うのだが、雪ノ下姉妹の反応は相変わらず手厳しい。初めて飲む人間にはどうなのだろうと、沙希の好みも聞かずに勝手に淹れてしまった。ちなみに普段は自分で淹れたいものを淹れ、飲みたいものを飲むスタイルである。たかが部活仲間に、犬は茶坊主の真似事をしたりはしないのだ。

 

 沙希は恐る恐ると言った風で、カップに口を付けた。家にある飲み物と言えばジュースか牛乳くらいのもの。実を言えばカップに淹れられたお茶を飲むのも、随分と久しぶりのことだった。久しぶりに飲んだそれは、適度に温かく上品な味をしていた。正直に言えば物足りない気もするが、それを差し引いても、

 

「美味しいです」

「そうか、そう言ってくれるか」

 

 部室では久しく聞いていなかった褒め言葉に、気を良くした八幡はどうだとばかりに雪乃を見た。雪乃は読んでいた文庫本を閉じると、慈愛に満ちた表情を浮かべる。それで、何も言わない。無言でいられる方が、文句を言われ続けるよりも堪えるものだ。何よりも雄弁に内心を語った雪乃の沈黙が、八幡の心にちくちくと刺さる。

 

「……とりあえず、部室では飲み放題だ。道具はそっちにあるから、飲みたい時に淹れてくれ」

 

 どことなくしんなりした様子で、八幡は自分の席に座りなおした。しょぼくれた八幡を、沙希は不思議そうに眺めていたが、やがて興味をなくし、勉強に戻った。所定の時間に集まるが、誰もが他人の邪魔をしない。今日加わった沙希も、必要以上にその領分を犯さなかった。色々あったが、居心地の良い空間は守られた。八幡からすれば、当面は、それで満足である。

 

 

 

 


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