総武高校に入学し、陽乃に見いだされて振りまわされるようになるまで、八幡にとって目立つというのは、ほとんど悪い意味だった。それにしたって、中三の時の告白で手痛い目にあった時が最大であり、それ以外は本当に目立たないように生きてきたという自負と自覚がある。
それが陽乃に見いだされてからは、目立つ側の仲間入りだ。最初は周囲の視線を集めるということに慣れなかったが、次第にそれにも慣れ、視線の種類が理解できるようになってくると、周囲を観察する余裕も出てくるようになった。
例えば今現在、八幡と雪ノ下姉妹の三人は周囲の視線を大いに集めているが、そのほとんどが八幡ではなく雪ノ下姉妹に向けられている。数少ない八幡に向けられた視線は主に男性からの嫉妬の視線であり、八幡は正確にその視線の種類を理解していた。
中学生の時分だったら、目立つ集団の一人という事実に舞い上がっていただろうが、今の八幡はこれが三人ではなく、二人と一人ということが良く解っていた。視線を肌に感じながら、前を歩いている二人を見る。
美女と美少女。どちらも優れた容姿をしているのは言うまでもない。こうして並んでみると、容姿の方向性が正反対なのが良く解るが、それでも姉妹と一目で解るくらいに顔の造りが似ているのだから、見ている側としては面白いものである。
三人でデートと陽乃は言っていたが、実際には姉妹のデートに八幡がついて回っている感じだった。雪乃とのデートは久しぶりなのだろう。いつも二人で出かける時よりもはしゃいでいる陽乃の笑顔が、実に眩しい。あの陽乃が世界一かわいいと公言して憚らない妹が一緒にいるのだから、無理もない。
そこまで考えて、八幡ははたと気づいた。同じく世界一かわいい妹であるところの小町と、二人で出かけることも時にはあるのだが、そういう時の自分も今の陽乃と同じような顔をしているのではないか。顔のつくりは悪い物ではないと信じてはいるが、人には向き不向きがある。自分があんな顔をしていると想像した八幡は、思わず身震いした。
気持ち悪い。確かに気持ち悪い。
今度から、小町と一緒の時にはあまりはしゃがないようにしようと、八幡は心に決めた。それはそれで小町的にポイント低い、ということになりそうではあるのだけれども、愛する小町にキモいとか言われたら、立ち直ることはできない。
「ところで八幡、そろそろお茶でもしようと思うんだけど」
「是非もありません。ファストフードならすぐそこに。落ち着いた所が良いなら、少し歩きますがどっちにしますか?」
「近い方が良いかな。雪乃ちゃんもそれで良い?」
「別に構わないけれど、比企谷君。貴方、もしかしてこの辺りの喫茶店を全部把握していたりするのかしら」
「お前がファッションショーをしてる間に調べただけだよ」
三年近く陽乃に連れまわされている八幡だが、こういう店のレパートリーではまだまだ陽乃には及ばない。自分で開拓などしないのだから無理からぬことではあるのだが、調べようにもリア充御用達のサイトや雑誌には拒否反応が出てしまい、中々情報収集には使えないのだ。こういう場所を調べる時は専ら、無味乾燥な検索サイトを使うことにしている。その分、ハズレを引くこともあるのだが、その時はその時だ。
「雪乃ちゃん、そういうお店大丈夫?」
「別に入ったことがない訳ではないわ。自分一人では入らないというだけよ。姉さんは、違うのでしょうけれど」
「付き合いで入ったりすることがあるかな。後は一人になりたい時にたまに入るくらいだよ」
「一人になりたいのなら自分の部屋に――」
と言った所で、雪乃は言葉を切った。
実家は元より、マンションでも誰かに場所を知られている。一人になりたい時というのは、それだけで重荷になるものだ。雑多である必要はないのだが、要は誰にも所在を知られないような状態が『一人になりたい時』には好ましいのだ。
「あまりオススメはしないけどな。陽乃はともかく、お前の場合は多分補導されるぞ」
「そもそも深夜に出歩くような真似はしないわ。貴方には経験があるようだけれど?」
「私が沢山連れまわしたからね~」
けらけらと陽乃は笑うが、今は大学生の陽乃も三月までは女子高生で、総武高校の制服を着ていたのだ。年齢を確認されれば補導されるのは雪乃と変わりないはずなのに、補導されたという話は元より、されかかったという話すら聞いたことがない。姉は姉なりに、上手くやっていたのだろう。そういう所は本当に如才のない人だ。
「じゃ、ここにしよっか」
結局陽乃が決めたチェーン店に、三人で入る。普通であれば注文を取りまとめ、席まで運ぶのは八幡の役目である。荷物を持ったまま、そのように動こうとした八幡を、陽乃は苦笑と共に呼び止めた。
「八幡は席。荷物を持ってくれたお礼に私が奢るよ。何が食べたい?」
「陽乃と同じもので」
「りょーかい。それじゃあ、行こうか雪乃ちゃん。まずはこの列に並んで――」
「買い方くらいは知っているのだけれど」
相変わらず、仲睦まじく列に並ぶ姉妹を横目に見つつ、八幡は席を探した。四人掛け、片方はソファ、禁煙と条件を絞っていくと奥まった場所に全ての条件に合致する席が見つかった。
椅子の側に陽乃たちの荷物を置き、八幡も椅子に座る。陽乃と雪乃が座るのは、奥のソファだ。何かを取りに行く時、すぐに立てるように八幡が手前の席に座る。陽乃と一緒にいる時の、いつもの位置取りだ。一仕事終え、八幡は深く息を吐いた。
雪乃が一緒ということでどうなることかと思ったが、陽乃が雪乃を構いまくっているせいかいつもより八幡の負担は少なくなっていた。物足りないと思ってしまうのは、流石に毒され過ぎだろうか。
ともあれ、姉妹がこちらに合流するまでは一人の時間だ。気を抜いて、椅子にだらりと寄りかかっていると、すぐ近くを通りかかった女子高生の一人が八幡の顔を見て小さくあ、と声を挙げた。
八幡は声のした方を見て、ほんの少しの間だけ、呼吸が止まる程に驚いた。かつて、声を聴くだけで安らぎ、顔を見るだけで幸せになれた人がそこにいた。
「比企谷?」
「……折本」
普通に彼女の名字が口から出たことに、まず八幡は安堵した。ここで挙動不審な振る舞いをしたら昔に逆戻りだ。一時期は彼女のことを思い出すだけで体調を崩すくらいだったのに、素晴らしい進歩である。
「折本、折本。この人誰?」
「こいつ? 中学の時の同級生」
「比企谷八幡だ。よろしく」
初見の少女はおそらく折本の友達だろう。その問いに答える折本に、先んじるようにして自己紹介をする。それが、自分の話を邪魔されたように感じた折本は、少しだけむっとした表情をし、今思い出したというように、
「中学の時に私に告ってきたの」
折本にすればそれは、必殺の一撃だったのだろう。それで機先を制するような意味もあったのかもしれないが、既に恋人がいる八幡にとっては、あまり愉快ではないが、数ある思い出の一つに過ぎなかった。自分が思っていた通りに八幡が動揺しないことに、折本は今度こそ眉根を寄せたが、先に反応したのは連れの少女の方だった。
「いや、そういう冗談は良いから……」
「本当だって。ねー、比企谷?」
「まぁな。それだけならまだ良いが、翌日に黒板一杯にそれを茶化されて、危うく登校拒否になりかけたけどな」
過ぎたことではあるが、いまだに忘れられない思い出である。中学時代の中でも最悪に印象に残る事柄で、できれば他人には語りたくないことの筆頭だ。それを、本人を前に言いたいことを、言いたいように言っている。中学の時の自分が見たら、死ぬほど驚くだろう。人はちゃんと変われるんだと、実感した瞬間である。
自らの進歩に内心で感動していた八幡を他所に、折本は感じていた違和感を更に強くしていた。目の前にいるのは比企谷八幡であることは間違いがない。見た目は随分変わったが、声とか身体的な特徴はそのままで、何よりあの、見る人間を不安にさせた目つきの悪さは健在だった。
八幡のことはそれなりに記憶に残っているが、間違っても自分の目を見て、真向から言い返してくるような人間ではなかった。誰とも視線を合わせず、きちんと物も言えないような男子だったはずなのに、これではまるで別人である。
「折本、ちょっとこっちきて」
違和感と戦っていた折本を、連れの少女が引っ張っていく。八幡から隠れるように物陰に隠れると、少女は折本に詰め寄った。
「あんた、あれを振ったの!?」
血相を変えて、友人(三日前に失恋。現在恋人募集中)は折本に詰め寄った。ナイーブな時期の彼女に、贅沢にも男を振ったという話はキツかったのかもしれない。
折本も、中学の時からあぁだったのならば、最終的に受けるかは別にして、その場で振ったりはしなかっただろう。高校に入ってから何があったのか。元からクラスメート以上の関係がなかった上に、振ってからはより関わりがなくなった八幡に関する情報は、皆無と言って良い。
個人的な繋がりがない以上、人づてに情報を仕入れるしかないが、比較的偏差値の高い高校である総武の人間とは折本はあまり交流を持っていなかった。実を言えば八幡が総武に進学したことも、今思い出したくらいである。あの高校について折本が知っていることと言えば、一つ上の学年に超絶美人の生徒会長がいて、校内外で『犬』を連れまわしていたということくらいである。
「中学の時は別人だったんだって。いかにも引きこもりな挙動不審でさ」
「うそ。写真とかないの?」
「ある訳ないじゃん。同級生のクラスメイトってだけで、友達ではなかったし……」
「……それでどうして告白とかできる訳?」
「さぁ……何か勘違いしたんじゃない?」
「でもさ、今の彼は問題ないでしょ? 強面だけどイケメンなのは間違いないし」
「そうなんだけどさぁ」
その事実を認めるのは吝かではない。好みは解れるだろうが、八幡を美形と評することに異論を差し挟む女子はいないと断言できる。折本がそう認めることに渋っているのは、過去の八幡を知っているからだった。自分が告白を断ったという負い目もある。無論のこと、断ったことそのものを後悔はしていないが、自分から振っておいて状況が変わった後から尻尾を振るというのは、女としてのプライドに関わるような気がして、気が引けたのだ。
「というか、絶対彼女いるでしょ。横の荷物見た? 女物の服ばっかりだよ」
「あー……本当だ。デート中なんだね」
がっかり、と意気消沈する友人に、折本はそっと胸を撫で下ろした。関わらないと決めたのであれば、さっさと退散するに限る。何しろ自分には彼を振った上に、こっぴどく痛めつけたという事実がある。当時は何とも思わなかったことであるが、先ほど八幡に目を見て物を言われて、自分がどういうことをしたのか薄々と感じ取り始めていた。
当時の八幡は受け身になって引きこもるだけだったが、今の彼ははっきりと言い返してくる。今の八幡の容姿を基準にした場合、それと釣り合う恋人が出てきたら、まず太刀打することはできない。折本もそれなりに自分の容姿に自信を持っていたが、友人が評した通り、今の八幡は十分にイケメンである。
腐った目をしたヒキオタが、目力のあるイケメンインテリヤクザになるとは、何の冗談だろう。
「そういう訳だから、さっさと行こう。邪魔したら悪いし――」
「まぁまぁ、そんなことないから。少しお話していこうよ」
耳元でいきなりした声に、折本は死ぬほど驚いて飛びのいた。
振り向いた先に立っていたのは、美人という言葉が霞むほどの美人だった。華やかではあるが派手ではない。洒落っ気はあっても下品ではない。女性が外に出る時のスタイルとして、完成された魅力を持った女がそこにいた。
「貴女、折本かおりさんだよね? 八幡から聞いてるよ。すっごくお世話になったって」
にこにこと微笑んでいるが、まったく友好的な感じはしなかった。武道など全く齧ったことのない折本でも、眼前の女性が殺気を放っているのが良く解る。下手なことを言ったら首をねじ切られるかもしれない。そんな恐怖を感じ取っていた折本に、眼前の美女はさらに死刑宣告を追加した。
「自己紹介が遅れたね。私は雪ノ下陽乃。八幡の恋人だよ。よろしく、折本さん」